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ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE


ここ数作のミッション:インポッシブルは、次女と映画館へいって鑑賞することが恒例になっている。

今回も同じ。私と次女の予定を合わせる必要があったので、私たちが劇場に行ったのは公開されてからほぼ1ヵ月後。劇場は閑散としていて、私たち2人を含めても10人ぐらいしか劇場にはいなかったように思う。
さすがのトム・クルーズの話題作であっても、1ヵ月もたつとこれほどまでに人が減ってしまうのかと思った。

減った理由として一瞬脳裏をよぎったのは、主演のトム・クルーズの加齢だ。

本作は、前作の『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』よりもトム・クルーズが容貌がさらに老けたような気がした。そう感じたのは私だけだろうか。

先日公開された『トップガン:マーヴェリック』も次女と劇場でみたが、トム・クルーズが演ずるマーヴェリックは自らの加齢を前提にしていた。そして、並み居るパイロットたちを導く立場で出演していた。
ところが本作のトム・クルーズは第一線に立って体を張っている。スパイとして走り、飛び、闘う。現役のアクションスパイである。

私は『トップガン:マーヴェリック』のレビューの中でこのように書いた。
「本作のマーヴェリックの姿にうそっぽさがないとすれば、トム・クルーズの演技に年齢の壁を越え、さらなる高みへと努力する姿が感じられるからだろう。」

まさに本作もそう。加齢によってトム・クルーズの口の脇に刻まれたほうれい線が特に目についた。
もっとも、ほうれい線など、今の技術であれば簡単に消せるはずだ。だが、トム・クルーズはそれをよしとしない。

人は加齢する。これは当たり前のことだ。
その当たり前をごまかそうとしない潔さ。それでいて60歳を超えたとはとても信じられないアクションをスタントマンに頼らずに自らでこなす。
この真っ当さがいいのだ。この正直なところに私たちは惹かれるのだ。

本作もパンフレットが買えなかったので、どのシーンがスタントマンを使わずにトム・クルーズがこなしたのか、私はあまり知らない。
ただし、メイキング映像がYouTube(https://youtu.be/SE-SNu1l6k0)で上がっている。その動画を紹介する記事だけは事前に読んだ。
それによると、500回のスカイダイブ、そして1万3000回ものモトクロスジャンプの練習をこなしたらしい。その練習の成果があのシーンに現れているそうだ。

まさに、努力の塊である。

一万時間の法則という理論がある。人が何かの分野で一流になるためには、一万時間を費やしている、というものだ。
この法則はマルコム・グラッドウェルというジャーナリストが発表した本の中に書かれているらしい。

もしそれがまことなら、トム・クルーズは本作の一シーンだけのために一万三千時間以上を練習に費やし、一流になっているはず。それも一生ではなく、一本の映画を作るたびに何かで一流になっている。
その姿勢は素晴らしいというしかない。

本作には、かつて登場した人物も登場する。30年の、というセリフ幾たびか出てくる。若きイーサン・ハントこと、トム・クルーズのかつての写真も登場する。
あえて、今のトム・クルーズと対比させるように、過去の自らを登場させる。そうすることで、加齢した自らを受け入れ、加齢した自らを顕示し、退路を断った上で走り回る。アクションする。闘う。スタントを自らが行う。
その姿勢こそが最近の『ミッション:インポッシブル』シリーズに新たに備わった魅力ではないかと思う。

技術には頼らない。その上で痛々しさは見せない。やり切る。
世界的に寿命が延び、高齢者の割合が増加する今。本作は60歳などまだまだ若造じゃわい、という風潮を象徴する一本になると思われる。

さて、風潮という意味では、本作の中でAIの脅威が大きく取り上げられていることも見逃せない。

暴走するAIの脅威と、それをコントロールした国家こそが次世代の世界の覇者となる。そんな構図だ。

果たして、そのような未来は到来するのだろうか。
かつてアメリカのハンチントン教授が唱えた、国際関係のあり方が西洋東洋や南北対立軸から、各地の文明の衝突に変わったという論がある。

本作にはそうした構図を奉じるCIA長官や諜報部員が執拗にイーサン・ハントを追う場面が描かれる。AIを利用して次世代の国際社会の覇権を握ろうとする立場だ。だが、その立ち位置はどちらかというとイーサン・ハントの宿敵というよりは、コミカルかつ茶化された扱いに甘んじている。トリックスターのような扱いといえばよいだろうか。

かつてのスパイものの定番だった東西の対立軸。そんなものはとうに古び、茶化される存在になってしまった。
上に書いたようなAIをコントロールした国家こそが次世代の世界の覇者となる構図を奉じて走り回る。そんなCIAの立場はもはやない。

となると、本作において、AIはどういう立ち位置になるのだろうか。

暴走するAIとそれに対するイーサン・ハントという対立軸は、それはそれで手垢のついた構図のように思える。
その一方で、もはや人は争う対象ではない。それどころか、ありとあらゆる思惑が入り乱れ、単純な二極対立が成り立たない時代になっている。

スパイ映画を作る立場としては、題材を選ぶのがとても難しい時代になったのではないか。

だが、AIとイーサン・ハントを対立軸に据えると、敵、つまりAIに観客が一切共感できないとのリスクが生じる。
いわゆる、それまでのスパイ映画の悪役は人間の思考論理の延長にある悪の正義にのっとって行動しており、まだ観客には悪役を理解できる余地があった。
ところが、AIを悪役に仕立ててしまうと、そのよって立つ論理が観客に伝わらない。共感も理解もされない。
それは作品としての奥行きを著しく狭めてしまうはずだ。

本作は二部制になっている。
次の作品は本作の続きとなり、来年夏ごろの公開らしい。
本作に登場したAIが次作ではどのよう立ち位置で描かれるのか。どのようなシナリオになるのか、今から楽しみでならない。

‘2023/8/16 109シネマズ ムービル


人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?


本書は新刊で購入した。タイトルに惹かれたためだ。

人工知能が人類にどのような影響を及ぼし、人類をどのように変えていくのか。それは私が興味を持つ数多くのテーマの一つだ。

1997年に当時のチェス世界チャンピオンをIBMのディープ・ブルーが破った快挙は、人工知能の歴史に新たな扉を開いた。もう一つ、人工知能の歴史における偉業として挙げられるのは、2011年にアメリカの有名なクイズ番組「ジェパディ!」でこれもIBMが作ったワトソンが人間のクイズ王を破ったことだ。

これらの出来事は人類の優位を揺るがした。それでもなお、チェスよりもはるかに複雑で指し手の可能性が膨大にある囲碁や将棋において、人間が人工知能に後れをとることは当分こないとの予想が大勢を占めていた。それは、ゲーム中に現れる局面の指し手の数を比較すれば分かる。チェスが10の120乗だとすれば、将棋は10の226乗。囲碁は10の360乗にもなるからだ。
だが、2015年にGoogleのAlphaGoが世界のトップ棋士を破ったことは人間の鼻をへし折った。2017年には棋界においても人工知能「ponanza」が、人類のトップクラスの棋士を一敗地に塗れさせた。

本書は人工知能「ponanza」の開発者が、その開発手法や機械学習について語った本だ。

そもそも、人工知能はどのように将棋の指し手を覚えるのだろう。そして開発者はどのように将棋を人工知能に教え込むのだろう。
本書は、私が人工知能や機械学習に対して持っていたいくつかの誤解を正してくれた。それと同時にAlphaGoと「ponanza」の手法の違いにも気づきを与えてくれる。

本書の第1章「将棋の機械学習━プログラマからの卒業」では、まずコンピューターの歴史や、機械学習についての試行錯誤が語られる。ここで重要なのは、人工知能が人間の思考を模倣することを諦めたということだ。人間の思考を諦めたとは、どういうことだろう。
人間の思考とは、自分の脳内の動きを思い返すに、何かを判断する際にそれを過去の事例と照らし合わせ、ふさわしいと判断された結果だ。
だが、その評価基準や過去の事例の探索は、プログラムで模倣することが難しい。私も、自分自身の心の動きをトレースするとそう思う。

まず、プログラムによる判断からの卒業。それが将棋の人工知能の発展におけるブレイクスルーとなった。これは他の機械学習の考えにも通ずるところだ。むしろ本質ともいえる。

「ponanza」のプログラムには過去の棋譜や局面の情報は一切含めておらず、将棋のルールや探索の方法だけが書かれているという。局面ごとの評価そのものについては全て「ponanza」に任せているそうだ。
この構成は機械学習に通じている方にとっては当たり前のことだろう。だが、プログラムで一切の評価を行わない原則は誤解しやすい部分なので、特に踏まえておかねばならない。

局面ごとにそれぞれの指し手について、勝率が高い方を内部で評価する。その判断基準となるデータは内部で膨大に学習し蓄積されている。
人間の判断でも同じことを行っているはずだが、数値に変換して高い方を採用することまでは行っていない。
つまり統計と確率だ。その手法を採用したことに対する感情や情緒は「ponanza」は考えない。あくまでも数値を重んじる。

ところが「ponanza」は当初、機械学習を使っていなかったという。代わりにロジスティック回帰の手法を採用していたようだ。
つまり統計から確率を演算して予想する手法だ。「ponanza」が機械学習を採用したのは、まさに本書の執筆中だったと言う。

第2章「黒魔術とディープラーニング━科学からの卒業」では、機械学習について書かれる。
機械学習にもいくつかの問題があるという。例えば、単純な丸暗記ではうまく知能が広がらず、判断も間違うのだとか。そこで、わざといくつかの探索を強制的にやめさせるという。このドロップアウトと呼ばれる手法によって人工知能に負荷を与えたことによって、かえって人工知能の学習は進んだという。
重要なのはこの時、なぜそのような効果が生まれるのか科学者でも把握できていないことだ。他にも、技術者がなぜそうなるのか分かっていない事象があるという。たとえば、機械学習において複数の層を学習させると、なぜそれがうまく学習されるのか。また、ある問題を解くにあたって、複数のCPUで計算させる場合でも闇雲にCPUを増やすだけでは正解率は上がらない理由も分かっていないそうだ。むしろ、一つの課題を複数のCPUで同時に解くように指示した方が早く正確な解を導き出せるそうだ。だが、その理由についてもまだ解明できていないと言う。
著者はそれを黒魔術と言う言葉で表している。

細部の構造を理解すればそれが全体においても理解できる。つまり科学の還元主義だ。機械学習の個別の動きについては科学者でも理解できている。だが、全体ではなぜそのような結果が導かれるのかが理解できない。つまり、すでに人工知能は還元主義を超越してしまっている。

なぜ人工知能がシンギュラリティーに達すると、人の理解が及ばない知能を獲得してしまうのか。生みの親であるはずの技術者がなぜ人工知能を制御できないのか。黒魔術の例えは、誰もが抱くはずの根本の疑問を私たちにわかりやすく教えてくれる。
人工知能の脅威論も、技術者が理解できない技術が横行していることへの危機感から生まれているに違いない。

第3章「囲碁と強化学習━天才からの卒業」では、人類によって磨き上げられた知能が人工知能によってさらに強くなる正のフィードバックが紹介される。
囲碁の人工知能であるAlphaGoが驚異的な能力を獲得した裏には、画像のパターン認識があった。囲碁の局面ごとの画像を膨大に学習し、それぞれごとに勝率の良い方を判断する術。
画像認識の際に有用だったのがモンテカルロ法だ。これは、統計学の書物を読むとしばしばお目にかかる概念だ。たとえば円の面積を求めたい場合、いわゆる円周率πを使うのではなく、ランダムに打ち込んだ点が円の外にあるものと内にあるものを数える。するとその割合の数が増えれば、πに限りなく近くなる。

座標の位置によってその統計と確率を判断する。
それは囲碁のように白と黒の碁石が盤面で生き物のように変化するゲームを把握するときに有用だ。それぞれの点を座標として記憶し、その勝率を都度計算する。
AlphaGoはモンテカルロ法による勝率予想と機械学習の併用で作られている。画像処理の処理はまさに人工知能の得意分野だ。それによってAlphaGoの性能は飛躍的に上がった。

10の360乗と言う膨大な局面の最善手を人工知能が判断するのは困難とされていた。だが、AlphaGoはそれを成し遂げてしまった。
人間の知能を超越し、神として見なされるふさわしい圧倒的な知能。それは信仰の対象にすらなった。すでに人間の天才を超えてしまったのだ。

第4章「倫理観と人工知能━人間からの卒業」では、知能と知性について深い考察が繰り広げられる。

著者は、人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティは起こると考えている。シンギュラリティを語る際によく言われる懸念がある。それは、人工知能が人類によって制御が不能になった際、人工知能の内部の論理が人間に理解できないことだ。人間は人工知能の判断の根拠を理解できないまま、支配され、絶滅させられるのではないかという恐れ。

著者は、その懸念について楽観的に考えている。
その根拠は、人類が教え込み、人類の知恵をもとに学習した人工知能である以上、人類の良い面を引き継いでくれるはずという希望に基づいている。
つまり人間が良い種族であり、良い人であり続ければ、人工知能が私たちに危害を加えない保証になるのではないかということだ。人が親、人工知能が子供だとすれば、尊敬と愛情を感じる親に対して、子は敬意を持って処遇してくれるはず。その希望を著者は語っている。

巻末ではAlphaGoの偉業について語る著者と加藤氏、さらに囲碁棋士の大橋氏との3者対談が収められている。

対談の中では、AlphaGoと対戦したイ・セドル氏との対戦の棋譜が載せられている。複雑な局面の中でなぜAlphaGoがその手を選んだのか。その手は勝敗にどのような影響を与えたのか。
それが解説されている。

早い時では第七手でAlphaGoが打った一手が、ずいぶん後の局面に決定的な影響を与える。まさに人工知能の脅威と、人類が想像もつかない境地に達したことの表れでもある。
私はあまり囲碁が得意ではない。だが、人間が狭い視野で見られていない部分を人工知能がカバーするこの事象は、人工知能が私たちに与える影響を考える上で重要だと思った。
おそらく今後と、人工知能がなぜそのようなことをするのか私たちには理解できない事例が増えているはずだ。

面白いことに、著者は対談の中でこのように語っている。
「コンピューターは、論理的に動くけれど、本当の意味での論理力は足りていないんです」(263ページ)。
つまり、人工知能とはあくまでも過去の確率から判断しているだけであって、もし人間が既存の棋譜や学習内容に含まれていない手を打ってきた時、人工知能はそれを論理的に捉えられず混乱するのだ。

もう一つ本書を読んで気づくのは、人類自身が囲碁や将棋の奥深さを人工知能に教えられることだ。人類が思いも寄らない可能性を人工知能によって教えられる。
それは、これからの人工知能と人間の共存にとって希望だと思う。人工知能から人間も学び、新たなヒントを得ていく。

これは著者のシンギュラリティへの態度と並んで楽観的な意見だと指摘されるはずだ。
だが、今さら人工知能をなかったことにはできない。私たちは何があろうとも人工知能と共存していかなければならないのだ。
本書は人工知能の本質を理解する上でとても優れた本だと思う。

‘2020/08/18-2020/08/18


明日をどこまで計算できるか? 「予測する科学」の歴史と可能性


本書は、科学は果たして未来を予測できるのかという点に着目した一冊だ。
人工知能が世界を滅ぼす可能性が取り沙汰されている昨今だが、果たして今の科学は未来を確実に予測できるのだろうか。

それを克明に追っている本書はとても面白い。

本書は、過去に人類がどのように予測に取り組んできたかを追う。そして現在の状況と未来に人類は予測を実現させられるのかを検証している。
予測とは人類にとって生存そのものに関わる問題だ。その解決への努力は、人類の進化の歴史でもある。

そもそも未来は定まっているのだろうか。私たちはどこまで未来を予測できるのだろうか。そして私たちは未来を変更できるのだろうか。私たちは自由意志の名のもとに生きていると信じているが、未来が定まっていたとすれば、私たちに生きる意味はあるのだろうか。
予測とは科学的な問題だと思われているが、実は極めて哲学的な問題なのだ。

過去において、人々の予測とは経験に基づいており、観念的なものにすぎなかった。
それでも科学者たちは、神の力に恐れおののくしかない過酷な現実を何とか乗りこなそうとモデルを作り上げようとしていた。宗教の名のもとにおける決定論は、人を予測から遠ざける装置としての威力を発揮していた。
予測することは神をも恐れぬ所業であり、バベルの塔のように神威によって一掃されるべき営みであった。

ところが、人類が科学の力を備えるにつれ、徐々に予測が現実的なものとなってきた。
人が神の運命に従うのか、それとも自由意志を持った存在なのか。そうした哲学的な論考も科学者によって唱えられるようになる。

「あるものに自由意志があるかどうかと考える場合、そのものの挙動をどの程度まで予測可能と考えるかにかかっていることが多い。あるシステムが完全に予測可能な場合、あるいは完全にランダムである場合には、私たちは、そのシステムが外からの力を受けていると仮定しがちである。しかし、もしシステムがその中間的な状態で動いていて、その挙動には認識可能なある種のパターンや秩序があるものの、予測はまだ難しい場合には、私たちは、そのシステムが独立して動いていると考える。」(124ページ)

今この瞬間にも、世界中で予測のための絶えざる試みと研究が続けられている。
例えば天気予報であり、病気の振る舞いであり、経済の景気の波など。

どれも人類の暮らしと生活と生存において欠かせない。まさに私たちが切望する営みだろう。
それらは人工知能が情報技術の粋を集めて予測しようとしている。だが、それらは全て、過去からの経験を探った結果にある。機械学習や深層学習による膨大なデータの学習によって。
そうした振る舞いはそもそも観察者効果によっての影響を与えているし、そもそも量子自体の振る舞いとしても不確定であるため、過去の経験値が全てにおいて未来を予測するわけではない。

物理的な法則によらない市場の景気の波は、人類の振る舞いの結果だ。そもそも、市場とは価値を交換する場所だが、その価値は状況に応じて変化する。つまり、予測によって市場に影響があった場合、その影響に引きずられて予測も変わってしまう。
「価値は固定された本質的な属性ではなく、状況とともに変化する流動的な性質である。」(248p)

本書の著者は人類の未来をあまり良い方向に予測していないようだ。
一方で人類を含めた生命のふるまいは予測できないともいっている。

「予測可能でないことは、生命の深淵なる性質だ。行動があまりに読まれやすい生き物は死に絶える。そして、予測不可能な環境においては、動的な内部秩序のようなものを保ちつつ創造的に活動する能力が欠かせない。正と負のフィードバック・ループのバランスが、生命プロセスが計算に還元できないことと相まって、複雑な生命体のふるまいを正確にモデル化することを不可能にしている。問題は、複雑な生命体は不安定なわけではなく、創造性と制御能力を併せ持っているという点にある。」(359p)

著者の人類やこの星の予測は以下のようなものだ。

「数百年以内のいつか、人口過剰と環境ストレスが最大の問題となり、貧困国の多くの人が干魃と飢餓で弱ったまさにそのとき、世界規模のパンデミックが起こるだろう。各国が検疫を強化し、人々が家に留まることで、世界中が連携して必要な物を必要な時に必要なだけ生産・調達する経済システムは崩壊するだろう。数年が経ち、疫病が鎮静化したとき、以前の経済システムを始動させてみる――が、錆びついているだろう。炭素排出量は下がり、やがて気候が安定する。戦争と侵略と暴動の時代を経て、人類も安定する。ふつうの暮らしに戻り、以前と違って賢く、謙虚で、自然に敬意を払うようになっている。」(372p)

これは決して悲観的な予測ではないと思う。
むしろ、地球を含めた総体として考えれば、人類という一つの生物の種が栄枯盛衰を繰り返すだけに過ぎないともいえる。ガイア理論のように。

もちろん、人類が技術的なブレイクスルーを果たし、宇宙へと乗り出す予測もありえるだろう。
シンギュラリティが達成され、人工知能によって滅ぼされた予測もありえるだろう。

どちらにせよ、私たちの予測に関わらず、この星の運命はより大きな未知の現象に委ねるしかないのだろう。
どのように予測しようとも、恐竜を絶滅させたような隕石が来たら終わりなのだろうし。

‘2020/08/02-2020/08/12


息吹


私が書店でSFの新刊本を、しかもハードカバーで購入するのは初めてかもしれない。
本書はその中でお勧めされていたので購入した。
とてもよりすぐりの九編が続く本書は、二度読んだほうが良さそうだ。
特に、一度目を読むタイミングが集中できない環境にあった場合は。

私も本稿を書くにあたってざっと斜め読みした。
すると、本書の奥深さをより理解できた。

「商人と錬金術師の門」
本編を一言で表すとタイムワープものだ。
だが、その舞台は新鮮だ。アラビアン・ナイトの千夜一夜物語を思わせるような、バグダッドとカイロを舞台にした時空の旅。
とある小道具屋に立ち寄った主人公は、時間をさかのぼることができる不思議な門を店主のバシャラートに見せられる。右から入ると未来へ、左から潜ると過去へ進める。
この機構は論理的に現代物理学の範疇で可能らしい。
この門に関する複数のエピソードがバシャラートから語られ、それに魅入られた主人公は自らも旅を決意する。

ここで語っているのは、未来も過去も同じ人の運命という概念だ。今までのタイムワープもので定番になっていた設定は、過去を変えると未来が変わり、変わったことで新たな時間の線が続く。行為によって新たな時間線ができることによってストーリーの可能性が広がる。だから、登場人物は過去にさかのぼって未来を変えようとする。
だが、本編では未来は過去の延長にある。つまり、従来のタイムワープものの設定に乗っかっていない。それが逆に新鮮で印象に残る。

卵が先か、鶏が先か。わからない。だが、人は結局、宿命に縛られる。ある視点ではそのような閉塞感を感じる一編だ。
だが、その閉塞感は、自分の努力を否定するものではない。それもまた、人生を描く一つの視点だ。それが本編の余韻となっている。

「息吹」
並行宇宙。そして平衡状態になると終わるとされる宇宙。二つの「へいこう」をテーマにしているのが本編だ。
本編は、地球とはどこか別の場所、または時代が舞台だ。未知の存在の生命体、もしくは機械体が自らの存在する宇宙の終わりを予感する物語だ。
空気の流れが平衡状態になりつつあることにより、生命を駆動する動力が失われる。それを回避し、食い止めようと努力する語り手は人ではない。それどころか、現代のこの星の存在ですらない。

限られた紙数であるにもかかわらず、平衡に向かう宇宙のマクロと、自らを解剖する語り手のミクロな描写を平行で書くあたりが良かった。一つの短編の中でマクロとミクロを同時に書き記す離れ業。それが本編の凄さである。

「予期される未来」
わずかな紙数の本編。
未来を予測できる機械が行き渡ったことで、自由意志を否定されたと自らで動くことをやめた人々。そのようなディストピアの世界を描いている。

本編は、一年ちょっと先の未来からメッセージを送ってきた存在が語り手となっている。その存在は、決定論を受け入れた上で、嘘と自己欺瞞で乗り切れとアドバイスを送る。その冷徹な現実認識を決定論として認めなければならない。強烈なメッセージだ。

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」
本編を読んでいると、AIBOやファービー、またはたまごっちなどの育てゲームを思い出す。どれも数年でブームを終えている。

本編にはディジエントという人工知能を有したペットのような存在が登場する。それらは動物の代替のペットとして人々に受け入れられた。だが、育てるのは難しく、飼い主の手を煩わせる。人々は飼いならせなくなったティジェントを手放し、運営する会社は廃業する。
たが、一部の人々は、手元に残されたディジエントを育てようと努力する。同じ保護者同士でコミュニティを作り、ディジエントとの共生やディジエントの自立に向けて模索する。本編はディジエントの保護者である主人公の葛藤が描かれる。ディジエントを世の中に適応させるにはどうすればよいか。

保護者がディジエントに気をもむ様子は、通常の子育てやペットの飼い主とは違う。まるで障害を抱えた子供を持つ親のようにも思える。通常の子育てと違った難しさが、本書に人間やペットと違う何かを育てることの困難さを予言している。

ディジエントに法人格を持たせることや、ディジエント同士のセックスなど微妙な問題にまで話を膨らませている。
私たちもそのうち、高度なAIと共生することもあるだろう。その時、倫理的・感情的な問題とどう折り合うのだろう。予言に満ちた一編だ。

「デイシー式全自動ナニー」
20世紀初頭に発明されたとする当時の産物のナニー(ベビーシッター)。当時にあって新奇な技術が人々から見放されていく様子を研究論文の体裁をとって描いているのが本編だ。

全自動の存在に人の成長を委ねることのリスク。本編は、現代から考えると昔の技術を扱っている。だが、ここで書かれているのは間違いなく未来の技術信仰への疑問だ。
私たちは今、人工知能に人類のあらゆる判断を委ねようとしている。そこから考えられる著者のメッセージは明白だ。

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」
本編は人の生活のあらゆる面を記録するライフログがテーマだ。
私もライフログについては本のレビューを書いたこともあるし、自分なりの考えをブログにアップしたこともある。

人々は、自らの記憶があやふやであることに救われている。あやふやな記憶によって、人間関係はあいまいに成り立っている。そのあいまいさがある時は人を救い、ある時は人を悩ませる。
リメンという機械によって、ライフログが当たり前になった未来。人々は、リメンによって自分の過ちに気づく。本編の登場人物である親子の関係と二人の間にある記憶の食い違いが強制的に正されていく。

本編が優れているのは、もう一つ別の物語を並行で描いていることだ。ティブ族と言うどこかの部族が、口承で伝えられてきた部族の歴史が、文字や紙によってなり変わられていく痛みを書いている。古い文化から新しい文化へ。そこで起こる文化の変容。それは人類が新たなツールを発明してきた度に引き受けてきた痛みそのものだ。痛みとは、自分が誤っていたと気づくこと。自分が正しくなかったことではなく。

「大いなる沈黙」
本書の末尾には、著者自身による創作ノートのようなものが付されている。それによると本編は、もともと映像作品を補足するスクリプトとして表示していたテキストだったと言う。それを短編小説として独自に抜き出したものが本編だ。
フェルミのパラドックスとは、なぜ宇宙が静かなのかと言う謎への答えだ。宇宙に進出する前に絶滅してしまう種族が多いため、宇宙はこれだけ静かとのパラドックスだ。

「オムファロス」
進化論と考古学。
アメリカではいまだに、この世は創造主によって創造されたことを信じる人がいると言う。それもたくさん。

彼らにとっては人類こそが宇宙で唯一の存在なのだろう。彼らが仮定した創造主とは、私たちにとって絶対的な上位の存在だ。それは同時に、私たち自身が絶対的な存在だと仮定した前提がある。もちろん、この広大な宇宙の中で太陽系などほんの一握りですらない。チリよりも細かいミクロの存在だ。全体の中で人類の位置を客観的に示すことこそ、本編の目的だとも言える。

「不安は自由のめまい」
プリズムと言う機械を起動する。その時点から時間軸は二つに分岐する。分岐した側の世界と量子レベルで通信ができるようになった世界。本編はそのような設定だ。
別の可能性の自分と通信ができる。このような斬新なアイディアによって書かれた本編はとても興味深い。周りを見渡して自分の人生に後悔がない人などいるだろうか。自分が失ったであろう可能性と話す。それはある人によっては麻薬にも等しい効果がある。常に後悔の中に生きる人間の弱さとそこにつけ込む技術。考えさせられる。

‘2020/06/08-2020/06/13


父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。


本書は、経済関係の本を読む中で手に取った一冊だ。新刊本で購入した。

タイトルの通り、本書は父から娘に向けて経済を解説すると体裁で記されている。確かに語り口こそ、父から娘へ説いて教えるようになっているが、内容はかなり充実している。まさに深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい。

実は私も、娘に向けてこの本を購入した。私の長女は、イラストレーターの個人事業主として中学生の頃から活動している。
私も経営者とはいえ、経済的にはまだゆとりはない。有能な経営者とは言えないだろう。だが、少なくとも四人の家族を養うだけの金銭はこれまでに稼いできた。
だが、娘はまだこれからだ。個人事業主とはそれほど簡単に稼げるものではない。実際、どこかに常駐しておらず、家で仕事している娘はまだ稼ぎが少ない。
だからこそ、本書のように経済の本を読んで勉強しておいた方が良い。私はそう思った。
今まで経済をろくすっぽ学ばずにやってきた私が、さんざん苦労してきたからだ。

本書の第一章では、なぜ格差が生じるのかについて説明する。
南北問題と言う言葉がある。同じ地球の北半球と南半球で富に格差が発生している現実だ。裕福な北米やヨーロッパ、中国と、貧しい南半球の国々。
なぜ違うのか。それは『銃・病原菌・鉄』でも示されていたが、地理的な問題だ。南北に長いアフリカは、緯度によって季節や気候ががらりと違ってしまう。そのため、作物も簡単に伝播させることが難しい。ところが、東西に伸びたユーラシア大陸では気候の違いがあまり発生しなかった。そのため、一つの文明・文化が勃興すると、さしたる障害もなしに東西に素早く広がった。北アメリカも同じように。
そして、オーストラリアなど、自然が豊かな国では人々はただ自然から食物をいただくだけで生きていけた。身の危険もないため、人々は植物を貯めておく必要も、余剰を意識する必要もなかった。

第二章は市場をテーマにしている。経験価値と交換価値。その二つの価値は長らく経済の両輪だった。
個人の体験は交換が利かない。だから自らの経験や知識を人のために役立てた。個人の経験それ自体に価値があり、対価が支払われる。経験価値だ。
ところが徐々に貨幣経済が発展するとともに、市場で貨幣と商品を交換する商慣習が成り立ってゆく。市場において貨幣を介してモノを交換する。交換価値だ。
何かを生産し、それを流通させるまでには資産が欠かせない。自然の原材料や加工道具、それに生産手段だ。さらにそうした資産を置く場所と空間。さらに、かつては奴隷として抱える労働力も資産に含まれた。そうした資産や不動産や労働力は、交換できる価値として取り扱うことができた。
過去のある時期を境に、人類の経済活動において交換価値は経験価値を凌駕した。

第三章では、交換価値で成り立っていた経済が次の段階に進む様子を取り上げている。利益や借金が経済活動の副産物ではなく、企業にとって目的や手段となる過程。それが次の段階だ。

賃金も地代も原料や道具の値段も、生産をはじめる前からわかっている。将来の収入をそれらにどう配分するかは、あらかじめ決まっているわけだ。事前にわからないのは、起業家自身の取り分だけだ。ここで、分配が生産に先立つようになった。(78ページ)

既存の封建社会のルールに乗らなくてもよい起業家は、借金をして資産を増やし、それをもとに競争するようになった。

第四章では、借金が新たな役割を身につけた理由を説明する。
借金とは、現在の価値と未来に利子がついている価値との交換だ。貸主は貸した金銭が、将来にわたって利子付きで戻ってくること期待する。つまり、将来の価値と今の価値の交換だ。その差額である利子が貸主の利益となる。

今、周りにある企業や国、銀行と取引するのではない。将来の企業、国、銀行と交換する。それが借金のカラクリだ。今、存在する価値の総量以上は借りられない。だが、将来の利子を加えると、今の価値の総量よりも高い金額が借りられる。これが金融の原点であり、ありもしない富がなぜ次々と生まれてくるカラクリだ。
貨幣をさして兌換貨幣と呼ぶ。かつては金を保有している国が、いつでも保有する金と貨幣を交換してもらえる約束と信頼の上で貨幣を発行していた。いわゆる金本位制だ。
その考えを推し進めると、将来も今の経済体制が維持される前提のもと、未来の利子がついた価値と今の価値を交換する金融の仕組みが成り立つ。

第五章では、労働と賃金関係について説明される。今までの説明で、経済の成り立ちが描かれてきた。だが、今やロボットや人工知能が人類の労働力にとって替わろうとしている。それらとどう共存するか。
本書はこの後第六章、第七章、第八章と人類が今直面している問題に経済の観点から切り込んでいく。仮想通貨や環境問題、人類の未来といった問題に。
実は本書は、この後半からがさらに面白い。

今の市場経済に未来はあるのか。経済活動に携わる人の誰もが考えたことがあるのではないだろうか。
一見すると、社会を回すためには今の方法しかないように思える。需要と供給。給与と消費。資本と市場。人の欲求と向上心をかなえ、勝者と敗者を生産しつつ、今の資本主義の世の中は動いている。

だが、その概念に揺らぎが生じたからこそ、SDG’sの概念が提唱されている。持続可能な開発目標。つまり今のやり方のままでは持続が不可能であることを、国連をはじめ誰もが感じている。
その中にうたわれている十七の目標は一見すると真理だ。資源は限られているとの前提のもと、化石燃料を燃やしてあらゆる社会活動が回っている。金融システムもコンピューターが幅を利かせるようになった以上、電力とは切っても切れない。今の経済活動は有限の資源を消費することを前提に動いている。その前提を変えなければ、経済活動や地球に未来はないと。それが著者の懸念だ。
交換価値とは、自然を破壊しても生じる価値であり、人の欲望には限度がない。著者はおそらく、SDG’sが唱える十七の項目ですら生ぬるいと感じているに違いない。

将来に対する信頼が今の金融システムを支えている。その将来が危うくなっている。
利子が戻ってくるはず将来が危ういとなると、借金がリスクとなる。つまり信頼が崩れてしまう。金融システムの前提である錬金術は、将来への信頼が全てだ。

将来の価値と今の価値を交換する。つまり将来を食いつぶしているのが今の経済の本質だ。果たして将来を食いつぶしてよいのだろうか。食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
食いつぶす資格は誰にあるのだろうか。
人間が今まで動かしてきた制度や社会を変えるのはすぐには難しい。だが、この社会を維持していかなければならない。今のままのやり方ではどこかで限界が来る。

そのために著者は本書を用いて、さまざまな提言を行っている。

交換価値のかわりに経験価値が重んじられる社会に。
機械が幅をきかせる未来に、そもそも交換価値は存在しないこと。
機械が生み出した利益をベーシックインカムとして還元すること。
権力は全てを商品化しようとするが、地球を救うには全ての民主化しかないこと。

とても素晴らしい一冊だったと思う。

‘2020/04/01-2020/04/08


ウロボロスの波動


宇宙とは広大な未知の世界だ。

その広さの尺度は人類の認識の範囲をゆうに超えている。
宇宙科学や天文学が日進月歩で成果を挙げている今でさえ、すべては観測のデータから推測したものに過ぎない。

ビックバンや、ブラックホール。それらはいまだに理論上の推測でしかない。また、宇宙のかなりの部分を占めると言われるダークマターについても、その素性や作用、物理法則についても全く未知のままだ。

未知であるからロマンがある。未知であるから想像力を働かせる余地がある。
とは言え、科学がある程度進歩し、情報が行き渡った世界において、ロマンも想像力も既存の科学の知見に基づいていなければ売り物にならない。それは当たり前のことだ。

SF作家は想像力だけで物語を作れる職業。そんな訳はない。
物語を作るには、裏付けとなる科学知識が求められる。単純にホラ話だけ書いていればいい、という時代はとうの昔に終わっている。

そこで本書だ。
本書はハードSFとして区分けされている。ハードSFを定義するなら、高質な科学的記事をちりばめ、世界観をきっちり構築した上で、読者に科学的な知見を求めるSFとすればよいだろうか。

本書において著者が構築した世界観とはこうだ。

地球から数十天文単位の距離、つまり太陽系の傍に小さいながらブラックホールが発見された。
そのカーリーと名付けられたブラックホールが太陽に迫ると太陽系や地球は危機に陥る。そのため、ブラックホールをエネルギー源として使い、なおかつ太陽に近づけさせまいとするための人工降着円盤が発明された。人工降着円盤を管理する組織として人工降着円盤開発事業団(AADD)が設立された。
カーリーが発見されたのが西暦2100年。すでに人類は火星へ入植し、人類は宇宙へ飛び出していた。
ところが、AADDは地球の社会システムとは一線を画したシステムを考案し、実践に移していた。それによって、地球とAADDとの間で考え方の違いや感性の違いが顕わになり始め、人類に不穏な分裂が見られ始めていた。

そうした世界観の下、人々の思惑はさまざまな事件を起こす。
ガンダム・サーガを思わせる設定だが、本書の方は単なる二番煎じではない。科学的な裏付けを随所にちりばめている。
本書はそうした人々の思惑や未知の宇宙が起こす事件の数々を、連作短編の形で描く。本書に収められた各編を総じると、70年にわたる時間軸がある。

それぞれの短編にはテーマがある。また、各編の冒頭には短い前書きが載せられており、読者が各編の前提を理解しやすくなるための配慮がされている。

「ウロボロスの波動」
「偶然とは、認知されない必然である」という前書きで始まる本編。
ウロボロスとは、カーリーの周りを円状に囲んだ巨大な構造物。人が居住できるスペースも複数用意されている。それらの間を移動するにはトロッコを使う必要がある。
ある日、グレアム博士が乗ったトロッコが暴走し、グレアム博士の命を奪った。それはグレアム博士のミスか、それともAIの暴走か。または別の理由があるのか。
その謎を追求する一編だ。
AIの認識の限界と、人類がAIを制御できるのか、をテーマとしている。

「小惑星ラプシヌプルクルの謎」
小惑星ラプシヌプルクルが謎の電波を受信し、さらに異常な回転を始めた。それは何が原因か。
過去の宇宙開発の、または未知の何かが原因なのか。クルーたちは追求する。
人類が宇宙に旅立つには無限の障害と謎を乗り越えていく必要がある。その苦闘の跡を描こうとした一編だ。

「ヒドラ氷穴」
人間の意識は集合したとき、カオスな振る舞いをする。前書きにも書かれたその仮説から書かれた本編は、AADDを巡る暗殺や戦いが描かれている。本書の中では最も読みやすいかもしれない。
AADDの目指す新たな社会と、既存の人類の間で差異が生じつつあるのはなぜなのか。それは環境によるものなのか。それとも意識のレベルが環境の違いによってたやすく変わったためなのか。

「エウロパの龍」
異なる生命体の間に意思の疎通は可能か。これが本編のテーマだ。
いわゆるファースト・コンタクトの際に、人類は未知の生命体の生態や意思を理解し、相手に適した振る舞いができるのか。
それには、人類自身が己の行動を根源から理解していることが前提だ。果たして今の人類はそこまで己の肉体や意識を生命体のレベルで感知できているのか。
そうした問いも含めて考えさせられる一編だ。

「エインガナの声」
エインガナとは矮小銀河のこと。
それを観測するシャンタク二世号の通信が突然途絶し、乗組員がAADDと地球の二派にわかれ、それぞれに疑念と反目が生じる。
通信が途絶した理由は何かの干渉があったためか。果たして両者の反目は解決するのか。
文明の進展が人類の意識を根本から変えることは難しい。本編はそのテーマに沿っている。

「キャリバンの翼」
恒星間有人航行。今の人類にはまだ不可能なミッションだ。だが、SFの世界ではなんでも実現が可能だ。
ただし、そこに至るまでには人類の中の反目や意識の違いを解消する必要がある。
さらに、未知のミッションを達成するためには、技術と知能をより高めていかねばならない。

本書を読んでいると、今の人類がこの後の80年強の年月でそこまで到達できるのか不安に思う。
だが、希望を持ちたいと思う。
SFは絵空事の世界。とはいえ、今の人類に希望がなければ、100年先の人類など書けないはずだから。

‘2019/12/22-2019/12/30


世界一速く結果を出す人は、なぜ、メールを使わないのか グーグルの個人・チームで成果を上げる方法


メールが世の中にとって欠かせないツールとなって、早くも20数年が過ぎた。
だが、今やメールは時代遅れの連絡手段となりつつある。
メールを使う事が生産性を阻害する。そうした逆説さえ常識となりつつある。
わが国の場合、信じられない事にFAXが現役で使われているという。真偽のほどは定かではないが、コロナウィルスの集計が遅れた理由にFAXの使用が報じられていた。

それにも関わらず、多くの企業では、メールがいまだに主要な連絡手段として活躍中だ。
私ですら、初対面の企業の担当者様とはメールを使っている。
メールが生産性を阻害する理由は、両手の指では足りないほど挙げられる。そのどれもが、生産性にとって悪影響しかない。

だが、メールに代わる連絡手段は今や無数にある。チャットツールも無数に。
メールに比べると、チャットツールは手軽さの点で圧倒的に優位だ。
情報が流れ、埋もれてしまうチャットツールの欠点も、最近のチャットツールでは改善されつつある。

そうしたツールの利点を活かし、さらに働き方を加速させる。
本書にはそうしたエッセンスが詰まっている。

「はじめに」で述べられているが、日本企業の生産性が低い理由として、著者は三つの理由を挙げている。
1 持ち帰って検討しすぎる
2 分析・検討しすぎる
3 打ち合わせ・会議など多くのコミュ二ケーションがコスト・ムダにしかならない

ここに挙げられた三つの生産性悪化の要因は、わが国の企業文化の問題点をそのまま表している。
いわゆる組織の問題だ。

とにかく、本書のエッセンスとは、即決と即断の重要性に尽きる。
1で書かれているような「持ち帰り」。これが、わが国の会議では目立つ。私もそうした現場をたくさん見聞きしてきた。
著者は、メール文化こそが「持ち帰り」文化の象徴だという。

こうした会議に現場で実務を知り、実際に手を動かしている人が出てくることはあまりない。会議に出てくるのはその上長であり、多くの場合、上長は進捗の管理に気を取られ、実際の業務の内容を理解するしていることが多くない。
例えば、私が属する情報処理の仕事を例に挙げると、実際に手を動かすのはプログラマーだ。その上に、詳細の設計を行うシステム・エンジニアがいる。

設計といっても、あまりにも混み入っているため、詳細な設計の内容を理解しているのは設計した当人になりがちだ。
会議に出てくるようなプロジェクトマネージャー、システムの全体を管理するマネージャーでは、現場の詳細はわからない事が多い。

そうした生産性を低下させる例は、情報処理に限らずどの業界にもある。
現場の複雑なオペレーションを理解するのは、一人か二人、といった現場は多いはずだ。
だから、業務内容の詳細を聞かれた際や、それにかかる労力や工数を聞かれると、現場に持ち帰りになってしまう。少しでも込み入った内容を聞かれると、部署の担当に聞いてみます、としか答えられない。

そうした細かい仕様などは、会議を行う前に現場の担当者のレベルで意見交換をしていくのが最もふさわしい。
なのに、かしこまったあいさつ文(いつも大変お世話になっております、など)を付けたメールをやり取りする必要がある。そうしたあいさつ文を省くだけで、迅速なやりとりが可能になるというのに。

著者が進めているようなチャットツールによる、気軽な会話でのやりとり。
これが効率をあげるためには重要なのだ。
つまり、かしこまった会議とは本質的に重要ではなく、セレモニーに過ぎない。私も同感だ。

ところが、わが国では会議の場で正式に決まった内容が権威を持つ。そして責任の所在がそこでようやく明確になる。

これは、なぜ現場の担当者を会議に出さないかという問題にも通じる。
現場の担当者が会議で口出したことに責任が発生する。それを嫌がる上司がいて、及び腰となる担当者もいる。だから、内容を把握していない人が会議に出る。そして持ち帰りは後を絶たない。悪循環だ。

著者は、会議の効率を上げることなど、論議するまでもない大前提として話を進める。

なぜなら、著者が本書で求める基準とは、そもそも10%の改善や向上ではなく、10倍の結果を出すことだからだ。
10倍の結果を出すためには、私たちの働き方も根本的に見直さなければならない。

本書を読む前から、私も著者の推奨するやり方の多くは取り入れていた。だが、今の10倍まで生産性を上げることには考えが及んでいなかった。私もまだまだだ。

著者によれば、今のやり方を墨守することには何の価値もない。
今のやり方よりもっと効率の良いやり方はないか、常に探し求める事が大切だ。
浮いた時間で新たなビジネスを創出する事が大切だと著者は説く。完全に賛成だ。
もっとも私の場合、浮かせた時間をプライベートな時間の充実につぎ込んでいるのだが。

本書には、たくさんの仕事のやり方を変える方法が詰まっている。
例えば、集中して業務に取り組む「スプリント」の効果。コミュニティーから学べるものの大きさや、人付き合いを限定することの大切さ。学び続けることの重要性。SNSにどっぷりハマらない距離感の保ち方。服装やランチのメニューなどに気を取られないための心がけ。

本書に書かれている事は、私が法人設立をきっかけに、普段から励行し、実践し、心掛けていることばかりだ。
そのため、本書に書かれている事はどれも私の意に沿っている。

結局、本書が書いているのは、人工知能によって激変が予想される私たちの仕事にどう対処するのか、という処方箋だ。
今や、コロナウィルスが私たちの毎日を変えようとしている。人工知能の到来よりもさらに早く。それは毎日のニュースを見ていればすぐに気づく。

そんな毎日で私たちがやるべき事は、その変化から取り残されないようにするか、または、自分が最も自分らしくいられる生き方を探すしかない。
今のビジネスの環境は数年を待たずにガラリと変わるのだから。

もし今の働き方に不安を覚えている方がいらっしゃったら、本書はとても良い教科書になると思う。
もちろん、私にとってもだ。私には足りない部分がまだ無数にある。だから、本書は折に触れ読み返したい。
そして、その時々の自分が「習慣」の罠に落ち込んでいないか、点検したいと思う。

‘2019/5/20-2019/5/21


世界史を創ったビジネスモデル


本書は年始に書店で購入した。
選書で450ページ弱の厚みは珍しい。見た目からボリュームがある。
分厚い見た目に加え、本書のタイトルも世界史を掲げている。さぞかし、ビジネスの側面から世界史を網羅し、解き明かしてくれているはず。
そう思って読んだが、タイトルから想像した中身は少しだけ違った。

なぜなら、本書が扱う歴史の前半は、大半がローマ帝国史で占められているからだ。
後半では、フロンティアがビジネスと国の発展を加速させた例として、ヴェネツィア、ポルトガル、スペイン、そして大英帝国の例が載っている。
そして、最後の四分の一で現代のビジネスの趨勢が紹介されている。
つまり、本書が取り上げているのは、世界史の中でも一部に過ぎないのだ。

例えば本書には中国やインドは全く登場しない。イスラム世界も。
しかし、中国の各王朝が採った経済政策や鄭和による大航海が中国の歴史を変えた事は周知の事実だ。
さらに、いまの共産党政権が推進する一路一帯政策は、かつてのシルクロードの交易ルートをなぞっているし、モンゴル帝国がそのルートに沿った諸国を蹂躙し、世界史を塗り替えた事は誰もが知っている。
つまり、中華の歴史を語らずに世界史を名乗ることには無理がある。

同様に、イスラムやインドが数々のビジネス上の技術を発明したことも忘れてはならない。ビジネスモデルと世界史を語るにあたって、この両者も欠かすことが出来ない存在だ。

さて、ここまではタイトルと中身の違いをあげつらってきた。
だが、ローマ帝国の存在が世界史の中で圧倒的な地位を占めることもまた事実だ。
その存在感の大きさを示すように、本書は半分以上の紙数を使ってローマ帝国の勃興と繁栄、そして没落を分析している。
その流れにおいてビジネスモデルを確立したことが、ローマ帝国の拡大に大きく寄与した事が間違いない以上、本書の半分以上がローマ帝国の分析に占められていることもうなづける。。

国際政治学者の高坂正堯氏の著書でもローマ帝国については大きく取り上げられていた。
それだけ、ローマ帝国が世界史の上で確立したモデルの存在はあまりにも大きいのだろう。
それは政治、社会発展モデルの金字塔として、永久に人類史の中に残り続けるはず。もちろん、ビジネスモデルと言う側面でも。

ここで言うビジネスモデルとは、国家の成功モデルとほぼ等しい。

国家の運営をビジネスと言う側面で捉えた時、収支のバランスが適切でありながら、持続的な拡大を実現するのが望ましい。
これは私企業でも国家でも変わらない。

ただし、持続的な成長が実現できるのは、まだ未開拓の市場があり、未開拓の地との経済格差が大きい時だ。その条件のもとでは、物がひたすら売れ続け、未開の地からの珍しい産物が入ってくる。つまり経済が回る。
ローマ帝国で言えば、周辺の未開の版図を取り込んだことによって持続的な成長が可能になった。

問題は、ローマ帝国が衰退した理由だ。
著者は、学者の数だけ衰退した理由があると述べている。つまり、歴史的に定説が確立していないと言うことだろう。

著者は、経済学者でもあるからか、衰退の理由を経済に置いている。
良く知られるように、ローマ帝国が滅亡した直接的な原因は、周辺から異民族が侵入したためだ。
だが、異民族の襲来を待つ以前に、ローマは内側から崩壊したと著者は言う。

私もその通りだと思う。

著者はローマ帝国が内側から崩壊していった理由を詳細に分析していく。
その理由の一つとして、政治体制の硬直を挙げている。

結局、考えが守りに入った国家は等しく衰退する。これは歴史的な真理だと思う。もちろん私企業も含めて。

著者は最終的に、ディオクレティアヌス帝が統制経済を導入したことがローマ帝国にとってとどめだったと指摘している。つまり統制による国家の硬直だ。
勃興期のローマが、周辺の民族を次々と取り込み、柔軟に彼らを活かす体制を作り上げながら繁栄の道をひた走ったこととは対照的に。

著者は現代の日本の状況とローマ帝国のそれを比較する。
今の硬直しつつある日本が、海外との関係において新たな関係を構築せざるを得ないこと。それは決して日本の衰退を意味するものではないこと。
硬直が衰退を意味すると言う著者の結論は、私の考えにも全く一致するところだ。
既存のやり方にしがみついていては、衰退するという信念にも完全に同意する。

本書がローマ帝国の後に取り上げるヴェネツィア、ポルトガル、スペイン、大英帝国の勃興も、既存のやり方ではなく、新たなやり方によって富を生んだ。
海洋をわたる技術の発展により、交易から異なる土地へ市場を作り、それが繁栄につながったと見て間違いないだろう。

では、現代のわが国は何をすれば良いのか。
著者は、そのことにも紙数を割いて詳細に分析する。

日本人が海外に出たからず、島の中に閉じこもりたがる理由。
著者はそれを、日本が海洋国家ではなく島国であると言う一文で簡潔に示している。
海洋国家であるための豊富な条件を擁していながら、鎖国が原因の一つと思われる国民性から、守りに入ってしまう。

だからこそ、今こそ日本は真の意味で開国しなければならないと著者は提言している。
そこでヒントとなるのは、次の一文だ。

「この新しい産業社会においては、ローマ帝国から大航海時代までのビジネスモデルは参考になる。しかし、産業革命以降20世紀前半までのビジネスモデルは、参考にならない。むしろ、反面教師として否定すべき点が多いのである。(316ページ)

つまり、第二次大戦以降の高度成長期。もっと言えば明治維新以降の富国強兵政策が取り入れた西洋文明。
これらは全て産業革命以降に確立されたビジネスモデルをもとにしている。著者がいう反面教師であるビジネスモデルだ。
つまり、わが国の発展とは、著者によって反面教師の烙印が押されたビジネスモデルの最後の徒花に過ぎないのだ。

バブル以降の失われた20年とは、明治維新から範としてきた産業革命以降のビジネスモデルを、世界に通じる普遍的な手本と錯覚したことによる誤りがもたらしたものではないだろうか。

著者が本書で記した膨大な分析は、上に引用した一文を導くためのものである。
私たちは誤ったビジネスモデルから脱却しなければならない。そして、この百数十年の発展を、未来にも通用する成功とみなしてはならない。

本書には、ビジネス史でも有名な電話特許を逃した会社や、技術の先進性を見逃して没落した会社がいくつも登場する。
そうした会社の多くは、世の中の変化を拒み、既存のビジネスモデルにしがみ付いたまま沈没していった。末期のローマ帝国のように。

そして今、私たちは明らかな変化の真っ只中にいる。
情報技術が時間と空間の意味を変えつつある時代の中に。
わが国の多くの企業がテレワークの動きをかたくなに拒み、既存の通勤を続けようとしている。
だが、私にとってはそうした姿勢こそが衰退への兆しであるようにみえる。

おそらく五十年後には、いまの会社のあり方はガラリと変わっている事だろう。わが国のあり方も。
その時、参考となるのはまだ見ぬ未来の技術のあり方より、過去に人類が経験してきた歴史のはずだ。

本書の帯にはこう書かれている。
「「歴史」から目を背ける者は、「進歩」から見放される。」
本書を締めくくるのも次の一文だ。
「歴史に対する誠実さを欠く社会は、進歩から見放される社会だ。」(448ページ)

過去の栄光にしがみつくのは良くないが、過去をないがしろにするのはもっと良くない。
過去からは学べることが多い。本書において著者は、溢れるぐらいの熱量と説得力をもってそのことを示している。
歴史には学ぶべき教訓が無限に含まれているのだ。

‘2019/4/27-2019/5/8


人工知能-人類最悪にして最後の発明


今や人工知能の話題は、社会全体で取り上げられるべき問題となりつつある。ひと昔前まで、人工知能のニュースは情報技術のカテゴリーで小さく配信されていたはずなのに。それがいつの間にか、人類が共有すべきニュースになっている。

人工知能の話題が取り上げられる際、かつては明るい論調が幅を利かせていた。だが、今やそうではない。むしろ、人工知能が人類にとっての脅威である、という論調が主流になっている。脅威であるばかりか、人類を絶やす元凶。いつの間にかそう思われる存在となったのが昨今の人工知能だ。本書もその論調に追い打ちをかけるかのように、悲観的なトーンで人工知能を語る。まさにタイトルの通りに。

人工知能については、スティーブン・ホーキング博士やビル・ゲイツ、イーロン・マスクといった人々が否定的なコメントを発表している。先日、亡くなられたホーキング博士は車椅子の生活を余儀なくされながら、宇宙論の第一人者としてあまりにも著名。さらに注目すべきは後者の二人だ。片やマイクロソフト創業者にして長者番付の常連。片や、最近でこそテスラで苦しんでいるとはいえ、ハイパーループや宇宙旅行など実行力に抜きん出た起業家だ。情報社会の寵児ともいえるこれらの方々が、人工知能の暴走について深刻な危機感を抱いている。それは今の人工知能の行く末の危うさを象徴しているかのようだ。

一体、いつからそのような論調が幅を効かせるようになったのか。それはチェスの世界王者カスパロフ氏をIBMのスーパーコンピューターDEEP BLUEが破った時からではないか。報道された際はエポックなニュースとしてまだ記憶に新しい。そのニュースはPONANZAが将棋の佐藤名人を、そしてALPHA GOが囲碁のランキング世界一位の柯潔氏を破るにつれ、いよいよ顕著になってきた。しょせんは人間の使いこなすための道具でしかない、とたかをくくっていた人工知能が、いつしか人間を凌駕ししていることに、不気味さを感じるように。

さすがにネットには、本書ほど徹底的にネガティブな論調だけではなく、ポジティブな意見も散見される。だが、無邪気に人工知能を称賛するだけの記事が減ってきたのも事実。

ところが、世間の反応はまだまだ鈍い。かくいう私もそう。技術者の端くれでもあるので、人工知能については世間の人よりも多少はアンテナを張っているつもりだ。実際に人工知能についてのセミナーも聞いたことがある。それでも私の認識はまだ人工知能を甘くみていたらしい。今まで私が持っていた人工知能の定義とは、膨大なデータをコンピューターにひたすら読み込ませ、あらゆる物事に対する人間の認識や判断を記憶させる作業、つまり機械学習をベースとしたものだ。その過程では人間によってデータを読み込ませる作業が欠かせない。さらには、人工知能に対して何らかの指示を与えねばならない。人間がスイッチを入れ、コマンドを与えてはじめて人工知能は動作する。つまり、人間が操作しない限り、人工知能による自律的な意思も生まれようがない。そして人工知能が自律的な意思をもつまでには、さらなる研究と長い年月が必要だと。

ところが著者の考えは相当に悲観的だ。著者の目に人工知能と人類が幸せに共存できる未来は映っていない。人工知能は自己に課せられた目的を達成するために、あらゆる手段を尽くす。人間の何億倍もの知能を駆使して。目的を達成するためには手段は問わない。そもそも人工知能は人間に敵対しない。人工知能はただ、人類が自らの目的を達成するのに障害となるか否かを判断する。人間が目的のために邪魔と判断すればただ排除するのみ。また、人工知能に共感はない。共感するとすれば初期の段階で技術者が人間にフレンドリーな判断を行う機構を組み込み、そのプログラムがバグなく動いた場合に限られる。人工知能の目的達成と人間の利益のどちらを優先させるかも、プレインストールされたプログラムの判断に委ねられる。

いったい、人類にとって最大の幸福を人工知能に常に配慮させることは本当に可能なのか。絶対にバグは起きないのか。何重もの制御機能を重ねても、入念にテストを重ねてもバグは起きる。それは、技術者である私がよく分かっている。

一、ロボットは人間に危害を加えてはならないし、人間が危害を受けるのを何もせずに許してもならない。
ニ、ロボット は人間からのいかなる命令にも従わなければならない。ただし、その命令が第一原則に反する場合は除く。
三、ロボットは、第一原則および第二原則に反しない限り、自身の存在を守らなければならない。

これは有名なアイザック・アシモフによるロボット三原則だ。人工知能が現実のものになりつつある昨今、再びこの原則に脚光が当たった。だが、著者はロボット三原則は今や効果がないと切り捨てる。そして著者は人工知能へフレンドリー機構が組み込めるかどうかについてかなりページを割いている。そしてその有効性にも懐疑の目を向ける。

なぜか。一つは人工知能の開発をめざすプレイヤーが多すぎることだ。プレイヤーの中には人工知能を軍事目的に活用せんとする軍産複合体もいる。つまり、複数の人工知能がお互いを出し抜こうとするのだ。当然、出し抜くためには、お互部に組み込まれているフレンドリー機構をかいくぐる抜け道が研究される。組み込まれた回避機能が不具合を起こせば、人間が組み込んだフレンドリー機構は無効になる。もう一つは、人工知能自身の知能が人間をはるかに凌駕した時、人間が埋め込んだプロテクトが人工知能に対して有効であると誰が保証できるのか。技術者の知能を何億倍も上回る人工知能を前にして、人間が張り巡らせた防御機構は無力だ。そうなれば後は人工知能の下す判断に人類の未来を託すしかない。人工知能が「人間よ爆ぜろ」と、命じた瞬間、人類にとって最後の発明が人類を滅ぼす。

人工知能を開発しようとするプレイヤーが多すぎるため、人工知能の開発を統制する者がいない。その論点は本書の核となる前提の一つだ。いつどこで誰が人工知能のブレイクスルーを果たすのか。それは人類にとってパンドラの箱になるのか、それとも福音になるのか。その時、人間にフレンドリーな要素がきちんと実装されているのか。それは最初に人工知能の次の扉を開いた者に委ねられる。

もう一つの著者の主要な論点。それは、汎用知能AGI(artificial general intelligence)が人工超知能ASI(artificial super intelligence)になったと判断する基準だ。AGIとは人間と同じだけの知能をもつが、まだ自立能力は持たない。そして、Alpha Goはあくまでも囲碁を打つ機能に特化した人工知能でしかない。これがASIになると、人間に依存せず、己で判断を行える。そうなると人間には制御できない可能性が高い。そのとき、人工知能がAGIからASIにステージが上がった事をどうやって人間は判断するのか。そもそも、AGIが判断するロジックすら人類が検証することは不可能。人間の囲碁チャンピオンを破ったAlpha Goの判定ロジックも、すでに人間では追えないという。つまりAGIへのステップアップも、ましてやASIに上がったタイミングも把握することなど人間にはできないのだ。

そして、一度意思を手に入れたASIは、電気やハードウエアなど、自らにとって必要と見なした資源は優先的に確保しにくる。それが人類の生存に必要か否かは気にしない。自分自身を駆動させるためにのみ、ガス・水道・電気を利用するし、農作物すら発電用の資源として独占しかねない。その時、人間にできるのはネットワークを遮断するか、電源の供給を止めるしかない。だがもし、人工知能がAGIからASIになった瞬間を補足できなければ、人工知能は野に解き放たれる。そして人類がASIの制御を行うチャンスは失われる。

では、今の既存のソフトウエアの技術は人工知能に意思を持たせられる段階に来ているのか。まずそれを考えねばならない。私が本書を読むまで甘く考えていたのもこの点だ。人工知能の開発手法が、機械学習をベースとしている限り、知識とその判断結果によって築きあげる限り、自立しようがないのでは?つまり、技術者がコマンドを発行せねば人工知能はただの箱に過ぎず、パソコンやスマホと変わらないのでは?大抵の人はそうたかを括っているはずだ。私もそうだった。

だが、人工知能をAGIへ、さらにその先のASIに進める研究は世界のどこかで何者かによって着実に行われている。しかも研究の進捗は秘密のベールに覆われている。

人間に使われるだけの存在が、いつ自我を身につけるのか。そして自我を己の生存のためだけに向けるのか。そこに感情や意思と呼べるものはあるのか。全く予想が付かない。著者はASIには感情も意思もないと見ている。あるのはただロジックだけ。そして、そのロジックは人類に補足できない。人工知能が自我に目覚める瞬間に気づく可能性は低いし、人工知能のロジックを人類が使いこなせる可能性はさらに低い。それが著者の悲観論の要点だ。

本書の中で著者は、何人もの人工知能研究の碩学や泰斗に話を聞いている。その中にはシンギュラリティを世に広めた事で有名なレイ・カーツワイル氏もいる。カーツワイル氏の唱える楽観論と著者の主張は平行線をたどっているように読める。それも無理はない。どちらも仮説を元に議論しているだけなのだから。私もまだ著者が焚きつける危機感を完全に腹に落とし込めているわけではない。でも、著者にとってみればこれこそが最も危険な点なのだろう。

著者に言わせると、ASIを利用すれば地球温暖化や人口爆発は解決できるとのことだ。ただ、それらの問題はASIによる人類絶滅の危険に比べれば大したことではないともいう。それどころか、人工知能が地球温暖化の処方箋に人類絶滅を選べば元も子もない。

私たちは人工知能の危機をどう捉えなければならないのか。軽く受け流すか、それとも重く受け止めるか。2000年問題やインターネットを巡る悲観論が杞憂に終わったように、人工知能も同じ道をたどるのか。

どちらにせよ、私たちの思惑に関係なく、人工知能の開発は進められて行く。それがGoogleやAmazon、Facebook、AppleといったいわゆるGAFAの手によるのか。ほかの情報業界のスタートアップ企業なのか。それとも、国の支援を受けた研究機関なのか。または、軍の統帥部の奥深くかどこかの大学の研究室か。もし、ASIの自我が目覚めれば、その瞬間、人類の未来は定まる。

私は本書を読んでからというもの、人工知能の危機を軽く考える事だけはやめようと思った。そして、情報技術に携わる者ものとして、少し生き方も含めて考え直さねば、と思うようになった。

’2017/10/17-2017/10/24


バナナ剥きには最適の日々


本書の帯には著者の作品中でもわかりやすい部類とうたわれている。だが、やはりとっつきにくさは変わらない。なぜなら全てのお話が観念で占められているから。小説にストーリー性を期待する向きには、本書は相変わらずとっつきにくいはずだ。

著者の作品を初めて読む人には、本書はどう取られるのだろうか。エッセイでなければ哲学の考察でもない。やはり小説だと受け取られるのだろうか。私の感覚では、本書は確かに小説だ。

本書は観念で占められている。観念とは、作家と読者の間に取り交わされる小説の約束事を指す。それは形を取らない。通常、それはわかりやすい小説の形を取る。例えば時間の流れ方だ。全体や各章ごとに時間の流れ方は違ったとしても、それぞれの描写の中で時間は過去から未来に流れる。それもまた約束事だ。他にもある。作家と読者の間には、同じ人間として思惟の基準が成り立っているとの約束事だ。その約束事が成立していることは、通常は作家から読者に向かって事前に了解を取らない。なぜなら、ものの考え方が共通なことは了解が不要だから。読む側と書く側で多少は違えども同じ思考様式を使うとの了解は、人類共通のもの。だから小説の作家と読者の間には了解を取る必要がない
。ところが、本書にはその了解が欠かせない。本書に必要なのは、作家の観念が小説として著されているとの了解だ。

そこを理解しないと、本書はいつまでたっても読者の理解を超えていってしまう。

本書に収められた九編のどれもが、約束事を理解しなければ読み通すのに難儀するだろう。

「パラダイス行」
約束事の一つに、基準がある。作家と読者の間に共通する基準が。それをわかりやすく表すのが単位だ。172cm。cmは長さの単位だ。172という数値がcmという単位に結びつくことで、そのサイズがお互いの共通の尺度になる。これは作家と読者の間で小説が成り立つためには重要だ。

ところが本編はその基準を無視する。基準を無視したところに考えは成り立つのだろうか、という観念。それを著者はあらゆる角度から検証する。

「バナナ剥きには最適の日々」
おおかたの小説には目的がある。それは生きがいであったり、自己実現であったり、社会貢献だったり、世界の平和だったり、世界征服だったりする。表現が何らかの形で発表される時、そこには作家と読者の間に買わされる約束事があるのだ。

話が面白い、という約束事もそう。どこかで話のオチがある、というのもそう。ところが本編は目的を放棄する。目的のない宇宙の深淵に向かって進む探査球。本編の主体である思惟はだ。そもそも宇宙の深淵に向かって進むだけの存在なので、追いつこうにも追いつけない。だから思惟の結果は誰にも読まれない。そして語られない。完璧なる孤独。しかも目的を持たない。そこに何か意味はあるのか、という作家の実験。読者が理解するべき約束事とは、孤独と無目的を追求する著者の問題意識だ。

「祖母の記憶」
本編に登場する約束事は、物語には意識する主体があるということだ。植物状態になった祖父を夜な夜な外に連れ出し、物言わぬビデオの主役に据える兄弟。物言わぬ祖父のさまざまな活躍を日々ビデオに収めては観賞する。そんな闇を抱えた行いは、いったい何を生み出すのか。

著者の実験にもかかわらず、本書に登場する主体はあくまでも兄弟だ。祖父は単なる対象物でしかない。祖父の代わりにマネキン人形でも良いことになる。そして、兄弟の活動に興味を持った娘と同じように物言わぬ祖母が現れると、本書の罪深さは一層濃厚になる。

祖父や祖母のような意思のない物体は、マネキン人形のコマ割りとどう違うのか。それが本編で著者が投げかけた観念だ。祖父を齣撮りする兄弟が、祖母を齣撮りする少女に出会う。そんな話だけなのに、そこには意思に対する問題意識の共有が必要だ。

「AUTOMATICA」
本編が示すのは文章の意味そのものだ。自動生成された文章が成り立つ要件とはそもそも何か。著者の観念が本編では論文体の文章で書き連ねられる。そもそも作家として、何を文章につづるべきなのか。そんなゲシュタルト崩壊したような、作家の存在自体への疑問が本編にはある。

そして、その情報が作家から読者に投げかけられる過程には、たしかに約束事がある。それは語彙のつながりであり、文法であり、情報の伝達である。その約束事を著者はいったん解体し、再構築しようと試みる。そこには作家とはいかなる存在か、という危機感もある。読者は普段おのれが仕事や学校で生み出している文章やウォールやツイートが何のために生み出されているのかも自問しなければならない。無論、私自身もその一人。

「equal」
本編は18の断章からなる。本書の中で唯一横書きで書かれている。内容は取り止めのないイメージだ。本編は小説というより、長編の詩と呼べるのかもしれない。

本編で押さえるべき約束事。それは小説にはストーリーや展開が必要との前提だ。それを著者は本編で軽やかに破り捨てる。だからこそ本編は長編詩なのだ。

詩とは本来、もっと自由なもののはず。詩人はイメージを提示し、読者はそのイメージを好きなように受け取る。そこには約束事など何もない。そもそも文学とはそういう自由な表現だったはず。なぜストーリーがなければならないのか。読者もまた、ストーリーを追い求めすぎてはいなかったか。そこに固定観念はなかったか。

「捧ぐ緑」
人間の生涯とは、つまるところなんの意味があるのか。ゾウリムシの生態を語る本編は、そんな疑問を携えて読者の観念を揺さぶりにかかる。生きるとはゾウリムシの活動となんら変わることはない。思弁する存在が高尚。それは誰が決めたのだろうか。著者の展開する文の内容はかなり辛辣なのに、語り口はあくまでもソフト。

だが、その裏側に潜む命題は、辛辣を通り押して虚無にまで至る。企業や仕事、全ての経済活動を突き放した地平。もしかすると人が生きていくための動機とは本編に書かれたような何も実利を生まない物事への探究心ではないだろうか。そんな気がしてくる。

「Jail Over」
本編は、倫理観の観念を料理する。かつて生命を宿していた肉体を解体する。それが生きていようと死んでいようと。人間だろうと動物だろうと。自分だろうと他人だろうと。果たしてそこに罪はあるのか。幾多の小説で語られてきた主題だ。

本編ではさらにその問いを推し進める。肉体を解体する作業からは何が生み出されるのか。そこにはもはや罪を通り越した境地がある。意識のあるものだから肉体を解体してはならないのか。

jailを超えて、語り手は肉片となった牢屋の中の自分に一瞥をくれる。肉体を破壊するとは、意志する主体が自分の入れ物を分解しただけの話。そうなるとそこには罪どころか意味さえも見いだせなくなる。遠未来の人類のありようすら透けて見える一編だ。

「墓石に、と彼女は言う」
無限と量子力学。この宇宙はひとつだけではない。泡宇宙や並行宇宙といった概念。その観念が作家と読者の間に共有されていなければ本編は理解できない。宇宙の存在をその仕組みや理論で理解する必要はない。あくまでイメージとしての観念を理解することが本編には求められる。

無限の中で、意識とはどういう存在なのか。己と並列する存在が無限にある中、ひとつひとつの存在に意味は持てるのか。その思考を突き詰めていくと強烈な虚無感に捕らえられる。虚無と無限は対の関係なのだから。

「エデン逆行」
本編が提示する観念は時間だ。どうやってわれわれは時間を意識するのか。それは先祖と子孫を頭に思い浮かべれば良い。親がいてその親がいる。それぞれの親はそれぞれの時代を生きる。そこに時間の遡りを実感できる。子孫もそうだ。自分の子があり、その孫や孫。彼らは未来を生きるはずだ。

命が絶たれるのは、未来の時間が絶たれること。だからこそ罪があるのだ。なぜなら時間だけが平等に与えられているから。過去もそう。だから人を殺すことは悪なのだ。なぜ今を生きる人が尊重されなければならないか。それは先祖の先祖から積み重ねられた無限の時間の結果だからだ。あらゆる先祖の記憶。それは今を生きている人だけが受け継いでいる。時間のかけがえのなさを描いた本編。本編が提示する観念は、本書の中でも最もわかりやすい概念ではないか。

本書の9編には、さまざまな約束事がちりばめられている。それぞれの約束事は作家によって選ばれ、読者に提示されている。それをどう受け取るかは読者の自由だ。本来ならば約束事とは、もっと自由だったはず。ところが今の文学もそうだが、ある約束事が作家と読者の間で固定されているように思う。今までも文学の閉塞については論者がさんざん言い募ってきた。そしてその都度、壁をぶち破る作家が読者との間に新たな約束事を作り出してきた。おそらく著者は、私の知る限り、今の文壇にあって新たな約束事を作り上げつつある第一人者ではないだろうか。

‘2017/08/12-2017/08/16


横浜駅SF


鉄道ファンを称して「鉄ちゃん」という。その中にはさらに細分化されたカテゴリーがあり、乗り鉄、撮り鉄、線路鉄、音鉄などのさまざまなジャンルに分かれるらしい。私の場合、駅が好きなので駅鉄と名乗ることにしている。なぜなら私はさまざまな地域を旅し、その地の駅を訪れるのが好きだからだ。

駅はその土地の玄関口だ。訪問客にその地の文化や風土をアピールする役目を担っている。設置されてからの年月を駅はその土地の音を聞き、匂いを嗅ぎ、景色を見、温度や湿度を感じることに費やしてきた。駅が存在した年月は土地が培って来た歴史の一部でもある。土地の時空の一部となる事で駅は風土の雰囲気を身にまとう。そして土地になじんでゆく。

駅とは人々が通り過ぎ、待ち合わせるための場所だ。駅に求められる機能の本質はそこに尽きる。馬から列車へ人々の移動手段が変わっても駅の本質はブレない。行き交う人々を見守る本質をおろそかにしなかったことで、駅はその土地の栄枯盛衰を今に伝える語り手となった。

駅が本質を保ち続けたことは、車を相手とした道の駅と対照的な方向へ駅を歩ませることになった。物販や産地紹介に資源を割かず、あくまでも玄関口としての駅を全うする。その姿勢こそが私を駅に立ち寄らせる。駅とは本来、旅人の玄関口でよい。駅本屋をその土地のシンボルでかたどったデザイン駅も良いが、見た目は二の次三の次で十分。外見はシンプルでも駅の本質を揺るがせにせず、その地の歴史や文化を芯から体現する。そんな駅がいい。そうした駅に私は惹かれる。

ただし、駅にはいろいろある。ローカル駅から大ターミナルまで。大ターミナルは、その利用客の多さから何度も改修を重ねなければ立ちいかない。そしてその都度、過去の重みをどこかへ脱ぎ捨ててきた。それは大ターミナルの宿命であり、だからこそ私を惹きつけない。何度も改修を重ねてきた駅は、いくら見た目が立派でもどこか軽々しさを感じさせる。とくに、常に工事中でせわしさを感じる駅に対してはまったく興味がもてない。本書の主人公である横浜駅などは特にそう。私は何度となく横浜駅を利用するがいまだに好きになれない。

横浜駅はあまりにも広い。まるで利用客に全容を把握されることを厭うかのように。地下を縦横に侵食するPORTAやザ・ダイヤモンド。空を覆う高島屋やそごうやルミネやJOINUS。駅前を首都高が囲み、コンコースにはゆとりが感じられない。横浜駅のどこにも「横浜」を感じさせる場所はなく、旅人が憩いを感じる遊びの空間もない。ビジネスと日常が利用客の動きとなって奔流をなし、その流れを埋めるように工事中の覆いが点在する。いくら崎陽軒の売店があろうと、赤い靴はいてた女の子像があろうと、横浜駅で「横浜」を探すことは容易ではない。私が二十数年前、初めて関西から鈍行列車で降り立ち、友人と合流したのがまさに横浜駅。その日は港の見える丘公園や中華街やベイブリッジに連れて行ってもらったが、横浜駅に対してはなんの感慨も湧かなかった。そして、今、仕事や待ち合わせなどで日常的に使っていても感慨が湧き出たことはない。

私が横浜駅に魅力を感じないのは、戦後、急激に開発された駅だからなのか。駅前が高速道路とビルとデパートに囲まれている様子は急ごしらえの印象を一層強める。今もなお、せわしなく改造と改良と改修に明け暮れ、落ち着きをどこかに忘れてしまった駅。横浜駅の悪口を書くのはそれぐらいにするが、なぜか私は横浜駅に対して昔から居心地の悪さを感じ続けている。多分、私は横浜駅に不安を覚えているのだろう。私の把握を許さず、漠然と広がる横浜駅に。

そんな私の目にららぽーと横浜の紀伊国屋書店で平積みになっている本書が飛び込んできた。そしてつい、手にとって購入した。横浜駅が好きになれないからこそ本書のタイトルは目に刺さる。しかもタイトルにSFと付け加えられている。SFとはなんだろう。科学で味付けされたウソ。つまりそのウソで横浜駅を根底から覆してくれるのでは、と思わせる。さらには私が横浜駅に対して抱く負の感情を本書が取り除いてくれるのでは、との期待すら抱かせる。

本書で描かれる横浜駅は自立し、さらに自我を持つ。そのアイデアは面白い。本書が取り上げるのが新宿駅でも渋谷駅でもなく横浜駅なのだからなおさら興味深い。なぜ横浜駅が主人公に選ばれたのか。それを考えるだけで脳が刺激される。

知ってのとおり、横浜駅はいつ終わるともしれないリニューアル工事の真っ最中だ。新宿駅や渋谷駅でも同様の光景がみられる。ところが渋谷駅は谷あいにあるため膨張には限度がある。新宿駅も駅の周囲に散らばる都庁や中央公園や御苑や歌舞伎町が駅に侵食されることを許すまい。東京駅も大阪駅も同じ。ところが横浜駅には海がある。みなとみらい地区や駅の浜側に広がる広大な空間。その空間の広がりはそごうやタカシマヤや首都高に囲まれているにもかかわらず、横浜駅に膨張の余地を与えている。横浜駅の周囲に広がる空間は他の大ターミナルには見られない。強いて言うなら品川駅や神戸駅が近いだろうか。だが、この両駅の工事は一段落している。だからこそ本書の主役は横浜駅であるべきなのだ。

ただでさえつかみどころがない横浜駅。それなのに横浜駅の自我は満ち足りることなく増殖し膨張する。そんな横浜駅の不気味な本質を著者は小説の設定に仕立て上げた。不条理であり不気味な駅。それを誰もが知る横浜駅になぞらえたことが本書の肝だ。

自我を持つ構造体=駅。それは今の人工知能の考えそのままだ。自立を突き詰めたあまり人間の制御の及ばなくなった知性の脅威。それは人工知能に警鐘を鳴らす識者の論ではおなじみのテーマだ。本書に登場する横浜駅もそう。人の統制の網から自立し、自己防衛と自己複製と自己膨張に腐心する。人工知能に自己の膨張を制御する機構を組み込まなければ際限なくロジックに沿って膨張し、ついには宇宙を埋め尽くすだろう。人工知能の危険に警鐘を鳴らす文脈の中でよくいわれることだ。本書の横浜駅もまさにそう。横浜市や神奈川県や関東どころか、日本を蹂躙しようと領域を増やし続ける。

本書は駅の膨張性の他にもう一つ駅の属性を取り上げている。それは排他性だ。駅には外界と駅を遮断するシンボルとなるものがある。言うまでもなく自動改札だ。自動改札はよくよく考えるとユニークな存在だ。家やビルの扉はいったん閉ざされると外界と内を隔てる壁と一体化する。一度閉まった扉は侵入者を排除する攻撃的な印象が薄れるのだ。ところが自動改札は違う。改札の向こう側が見えていながら、不正な入場者を警告音とフラップドアによってこれ見よがしに締め出す。そこには排除の意図があからさまに表れている。自動改札は駅だけでなく一部のオフィスビルにも設けられている。だが、普通に生活を送っていれば自動改札に出くわすのは駅のほかはない。自動改札とは駅が内部を統制し、外界を排除する象徴なのだ。そして、自動改札はローカル駅にはない。大規模駅だけがこれ見よがしの排他性を持つ。それこそが、私が大規模駅を好きになれない理由の一つだと思う。

駅の膨張性と排他性に着目し、同時に描いた著者。その着眼の鋭さは素晴らしい。本書で惜しいのは、後半に物語の舞台が横浜駅を飛び出した後の展開だ。物語は日本を数カ所に割拠する駅構造体同士の争いにフォーカスをあわせる。その設定は今の分割されたJRを思わせる。ところが、横浜駅に対立する存在を外界の複数のJRにしてしまったことで、横浜駅に敵対する対象がぼやけてしまったように思うのだ。横浜駅に対立するのは外界だけでよかったはず。その対立物を複数のJRに設定したことで、駅の本質が何かという本書の焦点がずれてしまった。それは駅の特異さ、不条理さという本書の着眼点のユニークさすら危うくしたと思う。

駅が構造を増殖するのは人工物を通してであり、自然物ではその増殖に歯止めがかかるとの設定も良い。横浜駅の中を結ぶ情報ネットをスイカネットと名付けたのも面白い。日本を割拠するJRとの設定もよい。本書のいたるところに駅の本質に切り込んだネタがちりばめられており、駅が好きな私には面白い。鉄ちゃんではなく、本書はSFファンにとってお勧めできる内容だ。ところがSF的な展開に移った後半、駅に関する考察が顧みられなくなってしまったのだ。それは本書の虚構の面白さを少し損ねた。それが私には惜しい。

むしろ、本書は駅の本質を突き詰めたほうがより面白くなったと思う。まだまだ駅の本質には探るべき対象が眠っているはずだ。本書に登場する改札ロボットの存在がどことなくユーモラスであるだけに、その不条理さを追うだけで本書は一つの世界観として成り立ったと思う。だからこそ、条件が合致する横浜駅に特化し、駅の閉鎖性や不条理性を突き詰めていった方が良かった。多分、読者にも読みごたえがぐっと増したはず。その上で続編として各地のJR間の抗争を描いてもよかったと思う。短編でも中編でもよい。ところが少し急ぎすぎて一冊にすべての物語を詰め込んでしまい、焦点がぼやけた。それが惜しまれる。

ともあれ、本書をきっかけに私が横浜駅に抱く感情のありかが明確になった。それは本書から得た収穫だ。私は引き続き、各地の駅をめぐる旅を続けるつもりだ。そして駅の本質が何かを探し求めて行こうと思う。今まではあまり興味を持っていなかった大ターミナルの構造も含めて。

‘2017/05/12-2017/05/13


無駄学


著者の『渋滞学』は名著だと思う。渋滞にいらつかない人はいないはず。渋滞こそが私たちの日常を不条理にし、イラつかせる元凶なのだ。その渋滞が生じる原因を明快に示したのが『渋滞学』だった。原因だけでなく、科学的な観点から渋滞をなくすための対処法を示していたのが新鮮だった。単なる渋滞だけにとどまらず、人生をよりよく過ごすヒントの詰まった一冊だったと思う。

本書はその著者が”無駄”に焦点を当てた一冊だ。「「なぜ」から「どうすれば」への飛躍」(16ページ)が科学者に求められる課題とする。その流れで「「なぜ」が理学で「どうすれば」が工学」(16ページ)へとつなげる指摘が鮮やかに決まる。ここでいう飛躍こそが、人類の発展に欠かせなかったことを著者はいう。そして、飛躍のために著者は「無駄」に着目し、「個人の価値観や感情が入ったこの言葉こそが本当に人を動かすものではないだろうか」(18ページ)と喝破する。無駄に着目したのは、渋滞を研究してきた著者ならではだろう。

本書を読むのは二回目だ。前回も本書を読んだ事で自分の生活の無駄な部分をあぶり出した。その時はスマホゲームを完全に断ち切った。そして、それからも私自身が費やしている無駄についていろいろと考えてきた。

今もなお、私自身の生活に無駄はたくさん残っているはずだ。その無駄は私自身がエキスパートではなくジェネラリスト志向が強いため産み出されている。それは自覚している。わたしの書斎に積み上がる大量の本やパンフレットがその証だ。多分私の本業と関わりのない本ブログも無駄なのかもしれない。

けれども本書で著者は、エキスパートだけを推奨するのではない。エキスパートとジェネラリストの両方を兼ね備えたものだけが世界を俯瞰し、直感から無駄を見つけ出すことができると主張する。なので、私はジェネラリストの自らを捨て去らないためにも本ブログの執筆や、読書習慣を捨てるつもりはない。

私自身の無駄よりも、他に根絶すべき無駄はあまた転がっていると思う。著者が『渋滞学』で採り上げた渋滞や通勤ラッシュなど、無駄のもっともたるものだろう。あらゆる無駄が我が国のあちこちにたまっているのだ。その無駄が我が国の勢いを削いでいることは、日本人の誰もが思っているはず。そして、高度成長期の日本は無駄を省くことで世界に覇を唱えた。その象徴こそがトヨタのカンバン方式だ。必要な時に必要な部品を供給することで、在庫の無駄を省き、作業滞留の無駄を省く。すべては無駄をとる事に通じる。つまり、ムダとりだ。本書に登場する山田日出男氏は、トヨタのカンバン方式を受け継いだ方で、コンサルタントとしてご活躍されている方だ。

本書には、山田氏によるコンサル現場での様子を紹介することで、同時にムダとりのエッセンスが理解できる。そこで指摘されたムダとりの内容はとても参考になる。

続けて本書には、家庭でのムダトリが採り上げられている。日常の雑事に紛れてなかなか手が掛けられないが、これも取り掛かるべきなのは明らかだ。わたしの場合は何はさておき、大量の本とパンフレットの処分が即効性のある処方箋なのはいうまでない。だが、頭ではわかっていてもなかなかできない。

今回、私が本書を読んでムダとりの対象に選んだこと。それはSNSに費やす時間だ。本書を読んで以来、私はSNSに費やす時間をかなり抑えている。その事によってつながりが希薄になるリスクは承知の上で。

私は時間を最優先に考えているので、SNSを対象にした。だが、他にも無駄は人によってたくさんあるはずだ。著者は一つ一つそれらを列挙する。たとえばお風呂や洗濯機、メール処理、冷暖房や机の上、過剰包装や過剰注意書き、過剰セキュリティなど。著者の気づいた無駄は多い。高度成長期の日本にはまだモッタイナイ精神が息づいていたが、日本が豊かになるに連れ、こういった無駄が見過ごされるようになってきたのだろう。私も今の無駄社会の申し子なので、著者の忠告は心して聞かねばならないと思っている。

本書で最後に触れられている無駄もとても興味深い。それは資本主義のシステム自体に内在される無駄だ。3R(reuse,recycle,reduce)の解説やゲーム理論の紹介などをしつつ、著者は資本主義の無駄を指摘する。それは、成長し続けることが前提の資本主義経済のあり方と持続可能な社会のあり方が両立しないことだ。

成長とはつまり生産の余剰があって成り立つ。そして余剰とはすなわち無駄の別名なのだ。今の資本主義経済それ自体に無駄が内包されてることは、誰もが前から気付きつつある。だが、誰もがわかってはいても、それは成長圧力を前にすると言いにくくなるものだ。資本主義経済に替わりうる効果的な経済システムがない以上、抜本的な改善案は出にくい。資本主義の無駄が改善されない理由だろう。最近は資本主義の無駄と限界を指摘する論説も増えてきたように思う。もちろん本書もそのうちの一冊だ。

富の偏在。これも資本主義の必要悪として無くせないものだ。そして著者は偏在自体も無駄であることを指摘する。そして利子までもが著者にいわせれば無駄となる。ただ、それはもはや資本主義社会の根幹に関わる部分だ。著者もその改善が難しいことは理解している。そしてそのかわりに著者が提示する処方箋が振動型経済だ。これはすでに40年以上前に複数の経済学者によって提唱された概念だそうだ。

振動型経済についての本書の説明を読んでいて思ったことがある。もともと、経済には短期中期長期の周期があったはず。キチン循環や、ジュグラー循環、クズネッツ循環、コンドラチェフ循環などだ。ところが、どうも最近の風潮として経済は右肩上がりであることが前提になっていないか。循環が経済システムにつきものであることを忘れて。バブル崩壊後の景気後退にもかかわらず。著者の提案を読んで私はあらためてそのことを思った。そもそも右肩上がりの経済自体が幻想だったのだ。イザナギ、神武、バブルときた日本は、裏ではバブルが弾けたりなべ底不況を経験したりと、振動しているのではないか。それが、戦後の荒廃からめると振動しつつも発展を続けてきたために、経済は右肩上がりになることが当たり前になっているのではないだろうか。そもそも長い目で見ると振動しつつ、長い目で見ると平らかで有り続けるのが定常なのではないか、と。

もう一つ私が思ったこと。それは人工知能の存在だ。本書には人工知能は出てこない。人が絡むと人情やしがらみが無駄の根絶を妨げる。しかし、全てをロジックと確率で処理する人工知能ならば無駄の根絶はできるのではないだろうか。おそらくは人工知能と人類が対立するとすれば、その原因とは人工知能が無駄を徹底的に排除することにあるのではないか。人間が温存したがる無駄を人工知能は論理ではねつける。そこに人類との軋轢が生じるのではないか。そう思った。となると、そのハードランディングの可能性、すなわち無駄を人類自身が事前に摘み取っておかねば、人類と人工知能の間には救い難い破滅がまっている。本書には、そのためのヒントも含まれているのだ。

本書で学んだ無駄トリは、ただ生活を改善するだけではない。無駄を取ることは、これから待ち受ける未来、人工知能が席巻する世の中を泳いでいくためにも必要なのだ。

‘2017/01/09-2017/01/12


人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27


日本の未来は暗いという新成人へ


日本の未来は暗い。

成人の日を前に、マクロミル社が新成人にアンケートをとったそうです。その結果、「あなたは、「日本の未来」について、どのようにお考えですか。」という問いにたいし、67.2%の人が「暗いと思う」「どちらかといえば、暗いと思う」と答えたとか。つまり冒頭に挙げたような感想を持った人がそれだけいたということですね。https://www.macromill.com/honote/20170104/report.html

うーん、そうか。と納得の思いも。いや、それはあかんやろ、ていう歯がゆさも。

この設問にある「日本」が日本の社会制度のことを指すのだったら、まだ分からなくもないのですよ。だけど、「日本」が新成人が頼りとする共同体日本を指すのであれば、ちょっと待てと言いたい。

今の日本の社会制度は、個人が寄りかかるには疲れすぎています。残念ですけどね。これからの日本は、文化的なアイデンティティの拠り所になっていくか、最低限の社会保障基盤でしかなくなる。そんな気がしてなりません。今の日本の社会制度を信じて国や会社に寄りかかっていると、共倒れしかねません。個人の食い扶持すらおぼつかなくなるでしょう。

トランプ大統領、少子高齢化、人工知能。今年の日本を占うキーワードです。どうでしょう。どれも日本に影響を与えかねないキーワードですよね。

でも、どういう未来が日本に訪れようとも、個々人が国や会社におんぶやだっこを決め込むのではなく、人生を切り開く気概を養いさえすれば乗り切れると思うのです。戦後の高度経済成長もそう。戦前の価値観に頼っていた個々人の反動が、原動力になったともいえるのですから。

これからの日本の未来は暗いかもしれませんが、それは疲弊した社会制度の話。組織や国に寄りかかるのではなく、個人で未来を切り開く気概があれば、未来は明るいですよ、と言いたいです。

それは、何も個人主義にはしり、日本の良さを否定するのではありません。むしろ「和を以て貴しとなす」でいいのです。要は、組織にあって個人が埋没さえしなければ。だから、組織を離れるとなにをすればよいかわからない、ではマズいです。週末の時間をもて余してしまう、なんてのはもってのほか。

学問を究めようが、政治に興味を持とうが、サブカルに没頭しようがなんでもいいのです。常に客観的に自分自身を見つめ、個人としてのあり方や成長を意識する。それが大事だと思います。その意識こそが新成人に求められるスキルだといってもよいです。

だから、アンケートの設問で「あなたはどのような方法で、世の中のニュースや話題を得ていますか?[情報を得ているもの]」でテレビが89.6%とほぼ9割であることに若干不安を覚えます。なぜならテレビとは受け身の媒体だから。特定の番組を選び、意識して見に行くのならまだしも、何となくテレビの前でチャンネルザッピングして飛び込んでくる情報を眺めているだけなら、個人の自立は遠い先の話です。やがて日本の社会制度の疲弊に巻き込まれ、尾羽打ち枯らすのが関の山です。

でも、アンケートの結果からは救いも見えます。それは、皆さん日本の未来については悲観的ですが、ご自分の未来については楽観的なことです。アンケートの中に「あなたは、「自分の未来」について、どのようにお考えですか。」という設問があり、65.8%が楽観的な答えだったのです。これはとても良いこと。未来は暗いと言っている場合ではないのですから。同じく「あなたは、自分たちの世代が日本の将来を変えてゆきたいと思いますか。」の問いに61.4%の方が肯定的な回答をしていたことにも希望が持てます。

日本に誇りをもちつつ、日本に頼らない。日本の文化に属しつつ個人としての感性を磨き、充実の社会人生活を送ってほしいものです。

ま、私もこんな偉そうなことを言える新成人ではなかったのですが。私も人のことを言ってる場合やない。私という個人をもっと磨かねば。そして子供たちにも個人の意識を打ち立てるように教え諭さないと!


WORK SHIFT


本書に巡り合ったきっかけは読書会だ。ハマドクという横浜で開催されたビジネス書読書会。

ハマドクの主宰は、横浜で行政書士としてご活躍されている清水先生である。清水先生は私が個人事業主から法人化にあたっての手続き面で多大な貢献を行って下さった。その先生がハマドクを立ち上げるというからには参加しない訳はない。本書はその第一回ハマドクで取り上げられた題材である。

だが、私はそれまで読書会というイベントへ参加したことがなかった。もちろん本好きとしては、かねてから読書会の存在は耳にしていた。が、それまで誘われたこともなく、こちらからも積極的に関わろうとしなかった。要するに無縁だったわけである。そんなわけで第一回ハマドクにお誘い頂いた際も、事前に本書が題材として挙がっていたにも関わらず、読まぬままに臨んだ。

第一回ゆえ、参加者は私と清水先生のみであった。が、二人とはいえ大変有意義な内容だったと思う。第一回ハマドクの内容については、こちらのブログ(第1回ハマドクを開催しました)で先生が書かれている。

本書の内容は、先生のブログを引用させてもらうと、次のようになる。

働き方の未来を変えるものとして、本書では次のことが挙げられています。
・テクノロジーの進化
・グローバル化の進展
・人口構成の変化と長寿化
・社会の変化
・エネルギー・環境問題の深刻化
未来における暗い事実として、
・いつも時間に追われ続ける(テクノロジーの進化、グローバル化の進展により引き起こされるもの)
・孤独化(都市化による)
・新しい貧困層(テクノロジーの進化、新興国の台頭等により引き起こされるもの)
が想定される一方、明るい未来を築くために、3つの転換<シフト>が求められます。
・ゼネラリストから専門家へ(しかも次々に専門分野を開拓)
・協力と信頼を伴うネットワークの構築
・情熱を傾けられる仕事をする

先生が書いた上の内容で本書の内容は要約されている。私が付け足すことは少ないが、私自身が思ったことも含めて書いてみたい。

・テクノロジーの進化
・グローバル化の進展
・人口構成の変化と長寿化
・社会の変化
・エネルギー・環境問題の深刻化
は、ここ10年の社会の動向として多くの人が同意することだろう。そして、それらの問題の行く末に不安を覚える方も多いことだろう。特に一つ目のテクノロジーの進化は他の4つと違い、ここにきて急に話題に挙がるようになった問題といえる。第一回ハマドクが行われたのは2015/6/27のことだが、この前後にもテクノロジーの進化を如実に示すニュースが報道されている。例えばドローンを使った無秩序な儀式妨害が社会問題化されたのは第一回ハマドクの前月の話。ソフトバンクグループによって世に出されたPepperの初の一般販売が行われたのが第一回ハマドクの7日前。Googleによって開発されたAlphaGoが人類のプロ囲碁棋士(ヨーロッパ王者)を破る快挙を成したのは第一回ハマドクの3ヶ月後だ。ハマドクで先生が本書を選んだのは、まさに時宜を得た選択だったといえる。

このようなニュースは、後世からは技術革新のエポックとして残るに違いない。さらに後世の人から見たら、2015年の技術発展のニュースの延長に、シンギュラリティがあることを理解していることだろう。シンギュラリティのニュースが新聞の一面や社会面に登場することはまだ少ない。新聞でいえば日曜版で特集されるような内容だ。知的好奇心の豊かな人や技術関連の人しか知らないかもしれない。

シンギュラリティとは、要するに人工知能が人類の知能を上回る日といえば分かりやすいだろう。今まで地球上で唯一無二と人類が自負していた知恵が、人工知能に負ける日は遠からずやってくる。それは間違いない。ましてやAlphaGoの快挙の後となると、シンギュラリティがやってくる予想に正面切って反対する論者はもはや出て来きそうにない。新聞の一面や社会面でA.I.絡みの重大事件が報道される日が来ることも遠い未来の話ではなさそうだ。シンギュラリティが成った暁には、我々人類が営々とやってきた仕事の意味もガラッと変わることだろう。報告の為の報告や、会議の為の会議といった、ただ仕事をするための仕事は滅び去る。管理職や事務職もほぼ一掃されることだろう。ただ、人工知能による仕事が、無駄な労力を省くだけならまだよい。問題は、人工知能が人々の日々の営みの中にある遊びすら剥奪するようになることだ。

著者はそういった未来すら見据えた上で、人類の未来を予測するための議論を本書の中で打ちたてようという。著者が見据える未来とは2025年。遠くもなく、近くもない未来だ。だが、10数年先と云えば、10年一昔という言葉の示す通り、あっという間にやってくる未来でもある。つまり読者にとっても遠からず押し寄せてくる未来なのだ。10年ぽっちで何が変わると思っていると、あっという間に取り残されてしまう。そんな時代に我々はいる。

本書は大きく四部に分かれている。先生のブログでもそれぞれの内容は書かれているが、それをもう少し詳しく書いてみる。

第一部は、「なにが働き方の未来を変えるのか?」。

その中で著者は、
・テクノロジーの進化
・グローバル化の進展
・人口構成の変化と長寿化
・社会の変化
・エネルギー・環境問題の深刻化
の5つの問題を挙げる。そしてそれぞれの項で具体的な事象を3から10通りほど挙げる。全32通りの事象は、著者がロンドンの「働き方の未来コンソーシアム」の事業の一環として全世界の協力者から集めた事例を基に打ちたてたものだ。実際のところ、ここで挙げられた事象以外にも様々な可能性は残されている。しかし、それは大抵が地球のカタストロフィに関する問題であり、もはやそれが起こった際、人類は滅亡するに違いない。そのため本書ではそのような事象は意図して取り除いているのだろう。

第二部は、「「漫然と迎える未来」の暗い現実」、と題する。先生のブログを引用すると、以下の3項が該当する。

・いつも時間に追われ続ける(テクノロジーの進化、グローバル化の進展により引き起こされるもの)
・孤独化(都市化による)
・新しい貧困層(テクノロジーの進化、新興国の台頭等により引き起こされるもの)
3つの例を、著者は想像力を張り巡らし、2025年の未来図として我々の前に提示する。実際、この3つともIT屋である私にとっては実感できる問題である。一つ目の時間に追われる件についてはまさに私の日常そのものだ。二つ目の孤独化も同じ。ITという私の仕事柄、自宅で仕事をすることも出来る。が、それをすると自由を満喫できる一方で、下手すれば人と一日合わずに仕事が出来てしまう。私の場合は定期的に人にあったりする機会を設けている。が、人に会うことなくこもりきりで仕事をする人によっては精神的なダメージを受けるかもしれない。三つ目の貧困層もオフショア開発や、海外からの来日技術者を目にすることが当たり前の開発現場にあっては、さらに技術者として老境に入った方々に対する厳しい現実を目の当たりにしていると、他人事でないことを強く感じる。

第三部は、「「主体的に築く未来」の明るい日々」、と題し、第二部とは打って変わって明るい未来を描く。

・コ・クリエーションの未来
・積極的に社会と関わる未来
・ミニ企業家が活躍する未来
の3点が著者による明るい未来予想図だ。だが、明るい未来であっても、企業内で安住するという従来の職業観は廃れていることが示される。著者は従来の職業観からの脱皮無くして、明るい未来はないとでも云うかのようだ。そして実際著者の予測は遠からずあたるに違いない。

私が第一回ハマドクに参加したのは、すでに法人化が成って3か月近い日々が経っていた。しかし、本書に出会うのがもっと早ければ、私の起業はもっと早くなったかもしれない。というのもこの章で述べられる明るい未来とは、私の理想とするワークスタイルの方向性にとても近いからだ。実際、コワーキング関係の方々とのご縁で仕事の幅がどれだけ広がるか、また、社会に関わるということが如何に自分の器を広げるかについては、交流会や自治会や学童保育での体験で充分に感じたことだ。それは起業ほやほやの私にとって、とくに声を大きく主張しておきたいと思う。

第四部は、「働き方を<シフト>する」と題されており、本書で著者の言いたい核心が詰まっている。

再び先生のブログを引用すると、
・ゼネラリストから専門家へ(しかも次々に専門分野を開拓)
・協力と信頼を伴うネットワークの構築
・情熱を傾けられる仕事をする
ということだ。

本書を読んだことが、起業ほやほやの私に与えた影響は小さくない。特にゼネラリスト志向の強かった私にとって、本書で著者が提言する専門家たれ、とのススメは効いた。個人事業主として独立する前、私はプログラミングからLAN配線、ハード構築、PCセットアップとIT何でも屋としての自分に自信を持っていた。が、個人事業主になって痛感したことは、それは所詮何でも屋であること。限られた時間の中で全能の仕事など出来っこないという現実だ。

第一回ハマドクの後、起業ほやほやの私は、専門家として舵を切ることとなる。専門家としての自分の強みを見出し、そこに活路を見出すという路線だ。その強みとはサイボウズ社のクラウド基盤kintoneのテスト時から関わり、エバンジェリストとして任命されたこと。そして、文章を書くことが好きだったため、多少なりとも文章の執筆ができること。この二本柱だ。その二本柱で専門家として生きていくには、kintoneエバンジェリストとしての活動を活発化させ、文章執筆についてもkintone初心者講座という連載や、当読読ブログをはじめとしたブログ群から活路を見出すべきなのだろう。

専門家となったところで、所詮は私の時間は一日24時間しかない。そこで、二つ目に挙げられている協力と信頼を伴うネットワークの構築が重要なファクターとなる。実際、起業ほやほやの私が交流会に盛んに顔を出すようになったのも第一回ハマドクの前後からである。例え細切れの時間であってもFace to Faceでのビジネストークは、メールなどの字面でのビジネスに比べていかに大きな効果をもたらすか。これを私は学んだ。

三つ目の情熱を傾けられる仕事についても私が実感していることである。私は個人事業主時代から含めると9年ほど常駐開発先での作業というワークスタイルを続けてきた。が、そういったワークスタイルを見直し、週の半分を自宅事務所での仕事に充てるようにした。通勤ラッシュという心身を擦り減らす作業に心底愛想が尽きていた私。そんな私にワークスタイル変革のための影響を与えたもののうち、本書は決して少なくない割合を占めている。情熱を傾けられる仕事というフレーズは、このままではいけないという私の気持ちに火を点けた。

かように、本書は文字通り私にとってのワークシフトを象徴する一冊となった。おそらくはこれからの未来、人々の仕事環境は激変していくことだろう。おそらくは会社組織もその時代の流れにそって自己変革を遂げていくに違いない。だが、それが出来ない企業、既存の環境に安住するビジネスマンにとって、未来はあまり芳しいものではない。残念なことに。我が国にあってはそれが顕著に出てくることだろう。

著者が終章に載せたのは、3通の手紙。

・子供たちへの手紙
・企業経営者への手紙
・政治家への手紙
の3通の手紙それぞれは、著者の本書のまとめである。そして、未来へ託す著者からの希望のメッセージだ。残念ながらこれらの手紙は、今を墨守し、変革を拒む方へは届かない。だが、未来を志向し、変革を恐れぬ人にとっては福音にも等しい手紙となることだろう。少なくとも私にとって本書は2015年の読書履歴を語る上で重要な一冊になった。その証拠に、第一回ハマドクからほどなく、私は本書を新刊本で購入した。私が新刊本で本を購入するのは結構稀なのだ。

多分今後も折に触れ、本書を読みかえすことだろう。2025年の時点で、私が起業した法人を潰さずに活動させているか。それとも、意に反して経営を投げ出しているか。それは分からない。が、法人や個人に関わらず、仕事の意識を変革させなければならないことに変わりはない。

本書に引き合わせてくれた清水先生には法人化への手続きを取って下さった以上に、本書をご紹介くださったことに感謝したい。

‘2015/7/18-2015/7/26


スターウォーズのドロイドたち


昨日、「スターウォーズ フォースの覚醒」を観に行ってきました。映画自体のレビューについては、ネタバレにならない範囲でこちらに書きました。結論としては、完璧な続編振りに一ファンとして満足しています。

さて、そのレビューの中であえて書かなかったことがあります。それは、私たち観客がドロイド達を見る視線の変化です。ドロイドとは、スターウォーズシリーズのアイコンでもあるC-3POやR2-D2のことです。今回のフォースの覚醒では、BB-8というドロイドも新たに登場しました。サッカーボールに乗っかったようなあれです。

これらドロイド達は、見た目はロボットそのものです。しかし彼らは言語を聞き取り、話します。話すだけでなく、自らの意思を持っています。

スターウォーズにおけるドロイド達の役割は四十年前に公開されたエピソードⅣから変わっていません。砂漠の惑星タトゥーインに不時着したC-3POとR2-D2は我々観客の前に自意識をもって登場しました。しかし、当時の我々はかれらをロボットとしてしか見ていなかったように思います。スターウォーズサーガ、つまり作り話の中の登場ロボットの一つとして。それは酒場にいた異星人達と一緒の扱いです。人類と異なる容姿の彼らもまた、サーガの中に登場する異星人にしかすぎません。つまりは空想の中の世界の住人というわけです。我々はC-3POとR2-D2をそれら異星のクリーチャーたちと同列に空想の産物として扱っていたように思います。

しかし、今回のフォースの覚醒では、我々観客がドロイド達に向ける視線は変わりつつあります。少なくとも私にとってはそうです。

もはやドロイドは、遠い遠い遥か彼方の銀河、遥か昔に住む存在ではありません。ドロイドは、我々の住む地球上に現に産まれつつあるのです。この瞬間、どこかの研究室でR2-D2が産声を挙げていたとしても、私は驚きません。遠からず、我々はC-3POやR2-D2と話をすることになるでしょう。

2015年は自動運転カーやドローン、人工知能が一気に我々の日常に登場した年として後世に記憶されるはずです。さらに言うとSF(サイエンス・フィクション)というジャンル名が返上された年としても記録に残るかもしれません。今やスターウォーズのドロイド達は、フィクション世界の住人ではなく、実話世界の住民として認識されようとしているのですから。

もはや、アナログ至上主義を掲げて安穏としている場合ではなさそうです。実話の世界に住む先輩として、我ら人間はドロイド達を仲間に迎えるべく準備を進めなければなりません。取り扱い、対処法、暴走防止、仕事のシェア。ドロイド達と考えるべきことは多そうです。

今回スターウォーズを観て、おとぎ話として楽しんでいる場合ではない。そのような思いに駆られました。


紙媒体の未来


十日ほど前、山手線の王子駅近くにある紙の博物館に行ってきました。

王子と紙、といえば王子製紙が思い浮かびます。王子は日本の製紙業、それも洋紙業の発祥の地です。今もなお、洋紙会社の本社や工場が集まり、国立印刷局の王子工場も健在です。

今回私が紙の博物館を訪問した理由は二つあります。一つは、紙の歴史やリサイクルの仕組みに興味があったこと。一つは、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性を知りたかったことです。

紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、非常に勉強となりました。日本の古紙利用率が六割にもなること。また、紙を発明したのは漢の蔡倫ではないこと。蔡倫よりも二三百年前に紙が使用されていた事が発掘物より証明されていること。また、PCなどのIT機器に欠かせない基盤も、実は紙の一種であることを知りました。このように、紙の歴史やリサイクルの仕組みについては、得るところが多かったです。特に蔡倫が紙の発明者でないことは知らずにおり、定説に寄りかかっていた自分の怠慢を反省しました。

ただ、情報表示媒体として、ディスプレイに対抗する紙の将来性については、残念ながらそれに関する展示には巡り会えませんでした。

そもそもなぜ私がこのような事に興味を持っているか。それは情報媒体としての紙の価値を再発見したからです。IT業界の端くれで飯を食っていながら、なぜディスプレイではなく紙なのか。

そもそも私は、本を読むのが好きです。電子書籍よりも紙の本の愛好家です。もちろん、電子書籍も使いますよ。Kindle端末こそもっていませんが、タブレットにはKindleアプリも入っています。しかし、私にとっての情報媒体とは、相変わらず紙なのです。本のページを繰ることに至福の時間を感じます。Kindleアプリで本を読むことはほとんどありません。

なぜ私が紙の本を好むのか。最初はそれを、本好きの執着心だと思っていました。IT業界にいながら保守的な自分を怪訝に思うこともありました。私の収集癖を満たすには本を貯めこむことが一番だからと思ったこともありました。

でもどうやらそうではなさそうです。この数年、参画しているプロジェクトで毎週議事録を書いています。経営層にまで閲覧される議事録ですから、チェックは欠かせません。チェックを行う上で、紙を節約しようとディスプレイをにらみ付けます。眼球が充血するまで読み込んだ後、印刷して紙面で読むと、誤字が湧くのです。まるで隠れていたかのように。

これはなんでしょうか?

何度も印刷した紙から誤字が湧き出すのを見るにつけ、私には一つの妄想から逃れられなくなりました。液晶ディスプレイには、何かしら人間の視神経を阻害し、集中力を減退させる仕掛けがあるのでは?と。

紙の博物館では、ディスプレイに対する紙の優位性についての答えは得られませんでした。ですが、同様の研究はあちこちで行われているようです。森林保護は共通の課題なのでしょう。私もネット上で様々な考察や研究論文に目を通しました。

それら論文や考察によれば、液晶ディスプレイは、ディスプレイの表面と図像を表示する層にわずかな距離があるようです。今の技術では数ミリ単位よりも少ないほどの。そして、そう意識して液晶ディスプレイを凝視してみると、焦点がぼやけていることに気付きます。一方、紙の文字を見るとくっきりと焦点を結びます。それは反射や透過や発行する液晶の性質によるのかもしれません。おそらくはこのわずかなずれが網膜に映った文字と脳内の認識のずれに繋がっているように思います。

では、ディスプレイのボケた焦点は、ディスプレイの解像度をあげれば解消するのでしょうか。私はそれだけではないように思いました。

紙とディスプレイ。表に出ているのは、共に文字や画像です。しかし、ディスプレイの背後には我々の気を散らすアプリが盛りだくさんです。例えパスワードロックを掛けて集中モードにしても、鉄の意思で画面に集中しても、ディスプレイの背後に隠れているモノが脳に何らかの連想を与えるのでしょう。では紙はどうか。紙は紙でしかありません。印刷されている情報はインクの集まりでしかなく、その背後には何も潜んでいません。

この事は、我々IT屋がアプリにいろんな機能を盛り込んでしまうことへの警告かもしれません。もはや、ディスプレイとその背後に控える情報量は人間の頭脳に余る。そう思います。ITの普及は人間の処理能力を遥か後ろに置き去りにしました。

多分このことは、電子ペーパーが普及し、解像度や触感が紙そっくりに再現されたとしても変わらないでしょう。紙はそこに印刷された情報以外のものを含まず、我々に余計な連想をさせないから集中できる。そう結論付けて構わないと思います。

紙の博物館でも、ディスプレイに対する紙が優位なのは何かをどんどん研究して頂きたいと思います。無駄な紙の使用はやめるべきですが、人間の脳を焼き切らせないためにも、紙に活躍の場は残されているはずです。

そしてその研究成果は、最近ホットな「人工知能は労働者の職を奪うか」の問いに対するヒントになるかもしれません。大容量の情報の受け渡しは、人工知能に任せましょう。人間は人間の脳が許容できる情報を発信し、それを受け取る。IT嵐の後も生き残る仕事とは、そのような仕事である気がします。