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鉄道の廃止に物申す


JR西日本が自社の抱える路線網のうち赤字に陥っている路線についてその収支を公表したことは、沿線の自治体に波紋を広げました。
JRが国鉄から民営に変わって約35年。こうなることはわかっていたのかもしれません。
社会的なインフラとしての鉄道の使命を考えるならば、国や自治体が責任を持つべきでしょう。ですが、私企業であるJRにはその義務がありません。むしろ赤字路線を抱えていることは、他の優良線区を含めた企業としてのJRの存続にダメージを与えかねません。

私はもちろん廃止には反対の立場です。ですが、JRや地方の鉄道会社に赤字を背負わせ続けて良いとは思いません。
JRを含めた鉄道の存続の議論を真剣にしなければならないと思っています。


この連休の前半、岐阜の美濃加茂市に出張で訪れました。
翌日、美濃太田駅から始発の長良川鉄道に乗り、終点の北濃に行きました。一両編成の車内には、前平公園駅や関駅、美濃市駅と駅に到着するにつれ、自転車とそのオーナーが何台も乗り込んできました。そして、郡上八幡駅や美濃白鳥駅、北濃駅で降りていきました。いわゆるサイクルトレイン。ここまで大々的に活用されているのは初めて見ました。

一両編成のディーゼルカー。しかも始発。普通、こうしたローカル線では閑古鳥がないているはず。それが終点の北濃でもかなりの人数が乗っていました。この姿に鉄道の未来を見ました。
帰りの北濃発の列車は「ゆら〜り眺めて清流列車」と名付けられ、二両編成でした。クロスシートの車内は満員でした。

長良川鉄道も二期前と三期前は自然災害やコロナで苦しかったそうです。ですが、昨季は黒字転換しています。
決算公告

長良川鉄道は、ほぼ全線で東海北陸自動車道が競合相手です。しかも、始発駅の美濃太田駅までの名古屋からのアクセスはあまり良くありません。
それにもかかわらずこの健闘は素晴らしい。
美濃市や関市を沿線に擁し、郡上八幡という観光地を持っているからでしょうか。

そんなふうに長良川鉄道の健闘に対して好印象を抱いた私ですが、始発駅である美濃太田駅への最初の印象はあまり良くありませんでした。
私が美濃太田駅に着いたのは夜の21時半過ぎ。東山動植物園にあるお客様のオフィスを出て、千種駅前で夕食と乗り換えをこなし、多治見で乗り換えた長い旅でした。
駅こそ立派な作りだと思いましたが、とにかく駅前に何もなさすぎます。駅の北口と南口を歩きましたがコンビニ一つさえも見つかりませんでした。私が見つけたのは駅から相当離れた場所にあるファミリーマートでした。

美濃太田と言えば、中山道の太田宿を擁する町。私も太田宿の面影を残す旧街道を歩きましたが、旅情を感じるには良い場所です。観光地のような繁栄とは無縁の、風情が今に残された建物を歩きました。

ですが、風情が残されていることは、再開発の対象にすらならなかったことでもあります。つまり、交通の担い手としての役割がとうの昔に太田宿から奪われたからこそ、保存されていただけです。
次に太田宿から交通の主役を奪ったのは鉄道。かつては美濃太田駅が国鉄の三本の路線を集約させ、一大ターミナルとして街の中心でした。その名残が、駅の広大な構内からも感じられました。
ですが、JRや長良川鉄道が行き交う美濃太田の駅前も今は寂れています。
そして、にぎわいは郊外の国道沿いに移っていました。お客様の工場への行き帰りに送っていただいた車内から、その様子を見ることかできました。
美濃太田駅がある美濃加茂市は、地方の都市がおかれた現状をよく表しているように思いました。旧街道に続き、衰退の対象が鉄道に移り、さらに車が交通の主役を担った姿。
では、鉄道は車にその役割を譲ってしまっても良いでしょうか。私はそう思いません。

鉄道は駅と駅を結ぶ線です。一方、車は鉄道より自由が利きます。線を自由に描くことができます。線から面へと。
てすが、その自由さが限度を超えると、無軌道になります。そこに集中が加わると渋滞が発生します。

鉄道の線と線の不自由さは、大量の、そして遠距離の運搬に向いています。例えば、長良川鉄道が実施しているヤマト運輸の貨客混載など。
そして、点と点から面を広げるためのサイクルトレインやレンタサイクルなどを組み合わせれば、より可能性も増えるはずです。

要は、鉄道が担うべき大量かつ遠距離の運搬までも車に担わせているから歪みが発生しているのです。
その歪みは交通渋滞となり、大気を汚染し、人々の時間を奪っています。そして鉄道は衰退し続けています。都会だけに過密ダイヤが組まれ、ギリギリの状態で運行されています。

今回の出張でも美濃太田の後、大阪に向かいました。そして、福知山線列車脱線事故の慰霊施設を訪れました。そこで感じたことは今の交通の歪みです。

日本全国で適正な人口の分布と交通の分散。私たちに課せられた数多い課題の一つです。

そのためには長良川鉄道が行っているようなサイクルトレイン、ヤマト運輸との貨客混載のような施策はもっとやるべきでしょう。ITの力を駆使して各無人駅にもレンタサイクルを置くべきでしょう。当然、各ステーションごとに乗り捨て可能なポートを設けて。
今回も北濃駅にレンタサイクルがあれば、と思いました。15、6キロも歩かずに時間をもっと有効に活用できたのに。

冒頭に書いたとおり、今、鉄道の維持が難しく、廃止を含めた論議が起こっています。
ですが、一度廃止されてしまった鉄道が復活することはあまり例がありません。難しいでしょう。
温暖化を含め、私たちに負わされた課題はとても多い。その課題がこうやれば解消できる、いや、すでに解消に向けて実現できていることを長良川鉄道の取り組みに感じました。再び駅が街の核となれば、地方創生にもつながるでしょう。東京への一極集中も是正されるはず。

安易に鉄道を廃止してはならない。
これは、各鉄道会社や自治体だけでなく、それぞれの住民が考えていく問題だと思いました。


未来の年表


本書は発売当時に話題になっていた。警世の書として。

本書の内容を一言で表すと少子化が続くわが国の未来を予言した書だ。このまま人口減少が続くと、わが国の社会や暮らしにどのような影響が表れるかを記述している。
その内容は人々に衝撃を与えた。

本書が出版されたのは2017年6月。おそらく2017年の頭から本書の執筆は開始されたのだろう。そのため、本書の年表は2016年から始まっている。
2016年はわが国の新生児の出生数が100万人を切った年だ。
著者はここで、真に憂慮すべきは出生数が100万人を下回ったことではなく、今後も出生数の減少傾向が止まらないことであると説く。
このまま机上で計算していくと、西暦3000年のわが国の人口は2000人になってしまう、というのだ。2000人といえば、私がかつて通っていた小学校の生徒数ぐらいの数だ。

本書は2016年から未来の各年をたどってゆく。顕著な影響が生じる21の年を取り上げ、その年に人口減少社会が何をもたらしていくのかを予測している。そこで書かれる予測はまさに戦慄すべきものだ。
その全てを紹介することはしない。だが、いくつか例を挙げてみたい。

例えば2019年。IT技術者の不足が取り上げられている。本稿を書いているのは2021年だが、今の時点ですでにIT技術者の不足は弊社のような零細企業にも影響を与えている。

2020年。女性の半分が50代に突入するとある。これが何を意味するのかといえば、子を産める女性の絶対数が不足しているので、いくら出生率が改善しても出生数が容易に増えないことだ。
わが国はかつて「産めよ増やせよ」というスローガンとともに多産社会に突き進んだ。だが、その背景には太平洋戦争という未曽有の事件があった。今さら、その頃のような多産社会には戻れないと著者も述べている。

2021年。団塊ジュニア世代が五十代に突入し、介護離職が増え始めるとある。私も団塊ジュニアの世代であり、2023年には五十代に突入する予定だ。介護問題も人ごとではない。

2042年。著者は団塊世代が75歳以上になる2025年より、2042年をわが国最大の危機と予想する。団塊ジュニア世代が70歳になり、高齢者人口がピークを迎えるのがこの年だからだ。私も生きていれば2042年は69歳になっている。本書が警告する未来は人ごとではない。

帯に表示されているほかの年を挙げてみると以下の通りだ。
2024年 全国民の3人に1人が65歳以上
2027年 輸血用血液が不足
2033年 3戸に1戸が空き家に
2039年 火葬場が不足
2040年 自治体の半数が消滅

私はもともと、今のわが国で主流とされる働き方のままでは少子化は免れないと思っていた。

朝早くから家を出て、帰宅は夜中。誰もが日々を一生懸命に生きている。
だが、なんのために働いているのかを考えた時、皆さんが抱える根拠は脆弱ではないだろうか。
働く直接の理由は、組織が求めるからだ。役所や企業が仕事を求めるからその仕事をこなす。その次の理由は、社会を回すためだろうか。やりがい、生きがいがその次に来る。
そうやって組織が求める論理に従って働いているうちに、次の世代を育てることを怠っていた。それが今のわが国だ。
仮に働く目的が組織や社会の観点から見ると正しいとしよう。だが、その正しさは、組織や社会があってこそ。なくなってしまっては元も子もない。そもそも働く場所も意味も失われてしまう。

私たちは一生懸命働くあまり、子育てに割く余力をなくしてしまった。子を作ったのはよいが、子供の成長を見る暇もなく仕事に忙殺される毎日。その結果が今の少子化につながっている。

子育ては全て妻に。高度成長期であればそれも成り立っていただろう。
高度成長期とは、人口増加と技術力の向上が相乗効果を生み、世界史上でも例のない速度でわが国が成長を遂げた時期だ。だが、その成功体験にからめとられているうちに、今やわが国は世界史上でも例を見ない速度で人口が減っていく国になろうとしている。
いくら右寄りの人が国防を叫ぼうにも、そもそも人がいない国を防ぐ意味などない。それを防ぐには、国外から移民を募るしかない。やがてそうした移民が主流になり、いつの間にか他の国に乗っ取られていることもありうる。現にそれは進行している。
本書が出版された後に世界はコロナウィルスの災厄によって姿を変えた。だが、その後でもわが国の少子化の事実はむしろ深刻化している。世界各国に比べ、わが国の死者は驚くほど少なかったからだ。

著者は本書の第二部で、20世紀型の成功体験と決別し、人口減少を前提とした国家の再構築が必要だと訴える。
再構築にあたって挙げられる施策として、以下の四つがある。移民の受け入れ、AIの導入、女性や高齢者の活用。だが、著者はそれら四つだけだと効果が薄いと述べている。
その代わりに著者が提言するのは「戦略的に縮む」ことだ。
少子化を防ぐことが不可能である以上、今のわが国の形を維持したままでこれからも国際社会で国として認められるためには、国をコンパクトにしていくことが必要だと著者は訴える。その上で10の提言を本書に載せている。

ここで挙げられている10の提言は、今の私たちの今後を左右することだろう。
1.「高齢者」をなくす
2.24時間社会からの脱却
3.非居住エリアを明確化
4.都道府県を飛び地合併
5.国際分業の徹底
6.「匠の技」を活用
7.国費学生制度で人材育成
8.中高年の地方移住促進
9.セカンド市民制度を創設
10.第3子以降に1000万円給付

これらは独創的な意見だと思う。わが国がこれらの提言を採用するかどうかも不透明だ。
だが、これぐらいやらなければもう国が立ちいかなくなる瀬戸際に来ている。
そのことを認め、早急に動いていかねばなるまい。
今の政治がどこまで未来に対して危機感を抱いているかは甚だ疑問だが。

‘2020/05/24-2020/05/25


道と駅 (日本を知る)


本書を手に取ったのは、ここ数年の関心テーマが駅であり、それを取り上げているためである。街の結節点である駅。点が点であるためには線もいる。つまり道路や鉄道といった交通網である。本書では点と線を取り上げている。

そもそも私の大学の卒論のテーマが大阪の交通発展である以上、いずれは本書のようなテーマで物事を考えてみたいとも思っていた。写真付ブログ形式で「駅鉄」を昨年から始めているのも、その一環である。

本書は大巧社が出版した「日本を知る」という叢書の中の一冊である。本書を読んだ限りではなるべく広く浅くという編集方針で日本の歴史の様々な側面を紹介しているようだ。

本書は以下の諸章からなっている。
序章 「道と駅」の歴史に学ぶ
第1章 奈良時代の交通制度と道路
第2章 平安時代の制度と道路の変化
第3章 宿と鎌倉街道
第4章 江戸時代の街道
第5章 諸街道の宿場
第6章 明治の国道と駅
第7章 鉄道と駅
第8章 道路の復権
終章 「道と駅」の未来に向けて

本書に通底しているのは、ローマ街道に代表される西洋の街道に比べて日本のそれは・・・という従来の日本の街道観に対する疑問である。冒頭でも明治初期に日本を訪れた欧米人による日本の街道の貧弱さを嘆く言葉が引用されている。その街道観を覆すため、本書でも日本の古代からの道路行政を順に追っていく。五畿七道として知られる古代の行政区画も、道という字が入っていることで分かるように、まず道路ありきの行政が整備されていたことが紹介され、条理制に基づいた古代の道路跡の発掘調査から、それが現代の高速道路の路線図と一致している事が示される。古代の路線選定の先進性を示す例として本書から得た知識の一つである。

古代に始まり、奈良、平安から鎌倉時代へと道路行政の変遷を探る旅は続く。鎌倉街道については、私の家のすぐ近くを通っていることもあり、以前から関心を持って調べていた。鎌倉街道についての本書の記述は、概観として分かりやすい。鎌倉街道の入門編としてはお勧めかもしれない。

江戸期には5街道が整備されたことは有名だが、明治に入りそれがなぜ欧米人に酷評されたかについても本書の分析は及ぶ。本書によると、運搬具としての車輪の使用頻度によるものだそうだ。日本には人力や馬力による運搬が主流であったため、それに適した道が存在しており、車輪使用が一般的でないからといって、欧米と比較するのがお門違いなのかもしれない。その証拠に、西洋文明を導入以後の車輪使用を前提とした交通網の発達については、もはやいうまでもない。

本書では道と駅という題名が付いているが、本書で取り上げられる駅は、古代の駅伝制に基づいた道路上の駅であり、街道沿いに設けられた駅に対する言及はかなりの量に及ぶ。そもそも駅の偏は「馬」であり、街道の中継拠点としての駅の重要性が偲ばれる。今も街道沿いに残る旅籠宿など、駅の盛衰を今に伝える史跡は多いが、本書のように駅の概史を述べる本は初めて読んだのでよく理解できた。

なお、本書では鉄道と駅については第7章で少し取り上げられているのみである。私がこのところ関心を持っている鉄道駅については、それほど取り上げられている訳ではない。しかし、道の結節点として駅が示してきた役割、街づくりと駅の関係性など、私が駅に対して関心を持つ点について、本書が示唆するところは多い。

最後に、本書では「道の駅」についても抜かりなく取り上げている。私は旅先でも「道の駅」によく立ち寄る。古代の駅伝制の駅と「道の駅」とは性格が違っているのは無論である。とはいえ、鉄道駅にはない施設が「道の駅」にはある。本書でも「道の駅」の使命や意義について述べられていたことに我が意を得た気分である。ただ、本書では高速道路に設けられているサービスエリアやパーキングエリアについては言及がなかった。古代の五畿七道に設けられた主要道と、現代の高速道路の路線の類似性について鋭い指摘を成しており、サービスエリアとパーキングエリアについても古代の駅との関連性について分析が欲しかったところである。そこが残念である。

その点を差し置いても、今後の「駅鉄」については、本書で得た成果を活かして続けていきたいと思う。また、「道の駅」についても「駅鉄」のように施設写真を網羅した写真は撮りためていないが、今後は、別ブログにして取り上げてみてもよいと考えている。

’14/03/27-’14/03/29