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本書を読んでいて、私が台湾を扱った小説をほとんど読んだことがないことに気づいた。本書は私にとって台湾を扱った初めての小説かもしれない。本書を読んで台湾がとても懐かしくなった。

台湾は私にとって思い出の深い島だ。かつて、民国84年の夏に台湾を訪れたことがある。この夏、私は自転車で台湾を一周した。その経験は若い日の私に鮮烈な印象を与えた。あれから年以上たった今もなお、台湾には再訪したいと願っている。なお、民国84年とは台湾で使われている民国歴のことだ。西暦では1995年、和暦では平成七年を指す。

本書は台北に住む葉秋生が主人公だ。時代は民国64年。つまり1975年だ。この年、台湾の蒋介石総統が死去した。本書はその出来事で幕を開ける。その年、葉秋生は17才。まだ世間と自分との折り合いをつけられず、真面目に学業を送っていた秋生が描かれる。

本書はそこからいろいろな出来事が葉秋生に起こる。本書は成長した秋生が民国64年から民国70年代までの自らを振り返り、かつての自分を振り返る文体で描かれている。その中で秋生は人生の現実に振り回されつつ、成長を遂げていく。そのきっかけとなったのは、秋生をかわいがってくれた祖父が殺された現場を目撃したことだ。その経験が秋生の人生を大きく変えてゆく。秋生が成長しつつ、祖父の歴史を探りながら、自分の中にある中華と台湾の血を深めてゆくのが本書の趣向だ。

本書のタイトル「流」とは彼の人生の流れゆくさまを描いた言葉だ。それは国民党と共産党の争い、日本軍との争いに翻弄された人々の運命にも通じている。本書に登場する台湾と中国本土の人々は、大きな意味で中華民族に属している。だが、正確には近代の歴史の変転が中華民族を台湾海峡を隔てた溝を作ってしまった。本書の扉にもそれを思わせる言葉が描かれている。

  魚が言いました・・わたしは水のなかで暮らしているのだから
  あなたにはわたしの涙が見えません
             王璇「魚問」より

ここでいう水とは、中華民族を大きく包む文化を指すのだろう。涙とは同じ中華民族が国民党と共産党に分かれて争うことを余儀なくされた悲しみを指すのだろうか。それとは別の解釈として、海に囲まれた台湾に追いやられた悲しみは中国大陸には理解できないとも読める。また、この一節は別の読み方もできる。それは関係が近ければ近いほど、かえってお互いが抱える苦しみが見えなくなることへの比喩だ。本書は結ばれることのない恋愛も描いている。その恋愛のゆくえに上の一節が投影されているとも取れる。

本書が描こうとしているのは、共通した文化がありながら、台湾と中国本土の間に横たわる微妙な差異だ。だが、その前に台湾の人々の気性をしっかりと書く。台湾の中にも本省人や外省人といった違いはある。例えば本省人が日本人に対して持つ感情と、外省人が日本人に対して持つ感情は当然違う。それは私も訪問して感じたことだ。外省人は、国共内戦で敗れた国民党が台湾に本拠を求めた時期と前後して台湾に住んだ人々の事だ。一方の本省人は、それ以前から台湾に住んでいた人々だ。日清戦争で日本が台湾を領有した時期も知っている。本書の中でも岳さんが日本統治時代のすべてが悪いわけではなかったと述懐するシーンがあり、そこにも本省人と外省人の考え方の違いがにじみ出ている。

著者は台湾で生まれ、五歳までそこで過ごしたという。その経験は、著者にしか書き分けられない台湾と日本と中国の微妙な違いを本書に与えていることだろう。とはいえ、私には本書から台湾人の感性を読み取ることは難しかった。しょせん、二週間訪れただけでは分かるはずがないのだ。だが、本書には細かいエピソードや会話があちこちにちりばめられ、台湾の日常の感性がよく描かれている。また、全編を通して感じられるのは洗練とは遠い台湾の日常だ。それは粗野といってもよいくらいだ。 例えば秋生が軍隊でしごかれるシーンなどはそれに当たるのと思うだろうか。ドラム缶に入れられ、斜面に転がり落とされる軍隊流の仕打ちなどは、常に中国大陸からの侵攻におびえる台湾の現状を端的に表しているといえるのかもしれない。

そうした台湾の日常は、秋生が中国大陸を訪ねるシーンで台湾と大陸の感性の違いとしてクローズアップされる。プロローグで秋生が山東省の沙河庄の碑を訪れるシーンから、その微妙な違いが随所に表現される。その地は秋生の祖父が日中戦争中に馬賊として犯した殺戮の事実を記す碑が建っている。その地を訪れた秋生が野ざらしでトイレを探す秋生に、タクシーの運転手がぽつんと荒野に立つ壁を指さすシーンなどにその広さやゆとりが感じられる。本書の表紙の写真がまさにその地のイメージをよく伝えているが、そこに見える茫洋とした地平は台湾では見られない光景のはず。本書の終盤にも秋生は中国大陸を訪れるが、そのシーンでは大陸と台湾の違いはより色濃く描かれている。

そのような違いにもかかわらず、同じ中華民族として共通する部分もある。例えば秋生が大陸で言葉を交わすシーンなどは、同じ言語を持つ民族の利点だろう。共通する文化があるのに、微妙な細かいところで違う。その文化の距離感が本書は絶妙なのだ。長じた秋生は日本で仕事を得ることになるが、日本という異郷を通すことで中国と台湾の違いを客観的に眺める。そうした設定も本書の文化的な描写の違いを際立たせている。

秋生が結婚することになる夏美玲が秋生にいうセリフ。「わたしたちはみんな、いつでもだれかのかわりなんだもん」。このセリフこそ、悠久の中華の歴史を一言で語っているのではないか。そこにあるのは台湾と中国の間にある共通の文化が培ってきた長い年月の重みだ。その悠長な歴史観は、台湾と中国の溝すらもいつかは埋まると楽観的に構えているに違いない。そうではないか。

私もまた近々、台湾に戻ろうと思う。台湾の今を知るために。悠久の歴史を知るために。私たちに親切にしてくれた人々の思い出に浸るために。これからも親日であり続けてほしいと願うために。そして大陸との統一の可能性を知るために。私にとっての20年の空白など、中国の長い歴史に比べるとちっぽけに過ぎないという卑小さを噛みしめるために。