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家族で台湾・台北101・台北 2019/7/25


最終日の朝は、のんびりと過ごす予定でした。

ですが、私はのんびりと起きている場合ではありませんでした。
なぜか。
この晩、私はベッドの掛け布団の外に足を出して寝てしまったのです。
おいしい獲物を虫たちが見逃すはずがありません。私の両足は虫たちの格好のターゲットにされました。
朝、目覚めた私の両足には無数の虫の噛みあとが残されていました。強烈なかゆみをともなって。
朝からカイカイと足を掻きまくる私。
これは私の失敗でしたね。

妻子はホテルでのんびりするというので、私は一人でやりたかったことをするため外に出ました。
それは、自転車で台北の街を巡ることです。24年ぶりに。

24年前。台湾を自転車で一周する旅に出た若者五人。台北の新光三越百貨店でマウンテンバイクを購入しました。
ですが、二日目で一人が山道の登りについてこられず脱落しました。
さらに南端を回り、台南に着いたところで、一人が日本での用事があるため、電車で帰って脱落しました。
台南からの道中は三人となりました。
新竹からの最終の行程で、私以外の二人は、先に桃園国際機場に自転車を置いてくる、といって離脱しました。
なので、台北まで自転車で戻ってきた時、私一人でした。
夜、放し飼いにされた犬に追いかけられりしながら、たった一人で台北の市街に戻ってきた私。
台北の第一大飯店に戻ってきた時の高揚感と達成感と湧き上がる喜び。その時に感じた全能感は、その後の私の人生にも多大な影響を与え続けています。


私は一周を成し遂げた感動のあまり、その時、ホテルのフロントにいた陳正容さんに台湾一周の証明書を書いてもらえないか、とお願いしました。
つたない英語で道中を説明した私。今から考えるととても厚かましいお願いでしたが、陳正容さんは夜間にそれを書き上げ、部屋のドア下に差し込んでいてくれたのです。
陳正容さんの消息については、私は何度かFacebookで検索しましたが見当たりません。同姓同名の方はいらっしゃるのですが。
今回の旅でお会いできないことは承知でしたが、第一大飯店には必ず再訪し、当時の思い出をもう一度温めたいと願っていました。


台北の街にはYouBikeというレンタルサイクルのサービスがあります。クレジットカードで登録しておくと、自転車が借りられるサービスです。
最近、日本でも同じようなサービスが増えています。ですが、私は日本では使ったことがありません。
初めてこのようなサービスを使ったのが、私が自転車で壮挙を成し遂げた台湾というのも何かの奇遇を感じます。


無事に自転車を借りられたので、24年の歳月を感じながら万感の思いで自転車を漕ぎました。
24年前と変わらぬ台北駅から、当時、自転車を購入した新光三越百貨店を通り、そして第一大飯店へ。
おぼろげでセピア色だった私の記憶に色がよみがえってきます。
24年前から何も変わっていないように思える台北の街並み。
ようやく来られた、という感動の瞬間でした。
街のすべてを心に刻もうと、あちこちを写真に撮る私。撮らずにいられましょうか。


帰りには二・二八和平紀念公園にも寄りました。
二・二八事件とは、台湾が国民党の統治下におかれてすぐ、本省人(元から台湾に住んでいた人々)と外省人(国民党)が対立し、国民党による弾圧が行われた事件を指します。その事件をきっかけとして、台湾には長い間戒厳令が敷かれました。
この公園は、その事件を記念するために設けられたといいます。


24年前には来なかった場所を訪れ、中華民国総統府などあちこちを寄った私。あと二日ぐらい、台北を自転車で巡る幸せに浸っていたかったのですが、ホテルのチェックアウト時間が迫っています。
自転車を返し、ホテルに戻ったのはチェックアウト15分前。部屋で速攻でシャワーを浴び、ロビーに走って何とか妻子と合流できました。

さて、この日は台湾の最終日。
残り少ない時間を有効に使わなければ。

ホテルを出た私たちが向かったのは、MRTの龍山寺駅。そこから、西門駅で乗り換え、松山新店線へ。降り立ったのは公館駅です。
そこで見かけたのはMister Donuts。娘がアルバイトをしていることもあって、日本との違いに興味津々。日本にはない商品もあり、いろいろと買い込みました。


さて、この日の最初の目的地は台湾スイーツの名店です。家族が行きたいと望んだのはMr.雪腐というお店。
削ったかき氷にたっぷりとかかったシロップが絶品でした。妻も娘もとてもおいしいと絶賛の味でした。こうしたスイーツがさして行列もせずに食べられるのが本場のうれしさです。


Mr.雪腐のお店を出た後、次の目的地に向かおうと通りを歩いていると、なんと、KAVALAN Whiskyの路面店を発見しました。
今回の旅では花蓮にあるKAVALAN Whiskyの蒸留所にも行きたいと思っていた私。行程の都合であきらめていましたが、こうやってお店に巡り合えて感激です。
私一人でお店に入り、なめるようにボトルの数々を見て回りました。日本ではあまり見かけないブレンドや樽が並ぶさまはまさに眼福。
店員さんに断りをいれて店内も撮らせてもらいました。
そして、見るだけではなく一本買って帰りました。


MRTの台電大樓駅まで歩き、そこからMRTの中正記念堂駅へ。そこで淡水信義線に乗り換え、台北101/世貿駅へ。
言わずとしれた台北101のふもとの駅です。
台北101は超高層ビルとして、一時は世界一の高さを誇っていました。今も台北の新たな観光名所として名高いと聞きます。
24年前にはできていなかったので、私にとっては初めての訪問です。


そこのフードコードでしばらく時間を過ごした私たち。
妻も娘たちも、すでにおなかも旅の経験も満腹の様子。もりもりと101のお店を巡ろうとは思わなかったらしく、まったりとした時間を過ごしました。
私はフードコートの中でBuckskinのカウンターを見つけ、クラフトビールをいただきました。今回の旅ではクラフトビールのブルワリーにも行きたかったのですが、期せずして最終日にいただくことができました。
その後、妻子でいくつかのアパレルの店々を巡っているさなかに、きちんとしたBuckskinのパブを見つけたので、つたない英語で「コースターをくれないか?」と話しかけて無事にコースターも入手できました。


妻も娘たちも満足したところでMRTに乗って中正記念堂駅と西門駅を経由し、龍山寺駅へ。そろそろホテルに預けている荷物を持って空港へと向かわねばなりません。
ホテルに別れを告げ、台北駅を通り、台湾のにぎわいを目に焼き付けました。
そして桃園国際機場へ向かうMRTへ乗り換えました。いよいよ台北の景色ともおさらばです。


空港では日本でもおなじみのタピオカチェーンのCOCOでタピオカを頼む娘たち。今回の旅で、いったい何店舗のタピオカを制覇したのか。覚えていないぐらい、タピオカ店に行きました。
初日にはおどおどしていた娘たちも、だいぶ台湾に慣れてきており、しかも台湾が好きになってくれたのがうれしいです。
ただ、時間に余裕がなかったため、免税店にはあまり長くいられず、食事をとる時間もありませんでした。
それでも、素晴らしい四日間の余韻に漂いながら、日本へ帰る旅人として出発の時間を待つ私たち。


いよいよ、peach航空に乗る時間は迫り、夕闇の桃園国際機場を離陸した私たち。
羽田に着いたのは夜中の一時過ぎで、Tully’s Coffeeでしばし時間を過ごしました。
そしてそこから車を駆って家へ。

四日間の旅はこうして終わりました。実に楽しく有意義な時間が家族と過ごせたと思います。
娘たちも妻もまた台湾には来たいとか。娘たちにとっては物心がついてから初めての海外が台湾でよかった。気に入ってくれて親としても満足です。

私は帰宅して少し寝た後、さっそくCybozu社の本社で長時間の開発者向けイベントCybozu DevCampへと。
尾瀬から台湾、そして都心へと続いた六日間は、全力で開発者としての本分に立ち返る時間で締めました。
DevCampの会場でしきりと足を掻きむしり、真っ黒に焼けた変な人を見かけた方。私は前日まで台湾で日に焼け、虫に刺されていたので許してください。

そうしたあれこれの思い出も、この素晴らしい毎日のたまものから。すべてに感謝です!

そして、コロナで一変した世界に生きる私たちが、またこうした海外への旅に出かけられる日を心の底から願いたいと思います。


人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27