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ハル、ハル、ハル


本書は、三編の短編からなっている。
どれもがスピード感に満ちており、一気に読める。

「ハル、ハル、ハル」
「この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ」という一文で始まる本編。
“全ての物語の続編”というキーワード。これが本編を一言で言い表している。

全ての物語とは、出版された小説に限らない。あらゆるブログやツイッターやウォールやストーリーも含む。物語は何も発表されている必要はない。人々の脳内に流れる思考すら全ての物語に含められるべきだからだ。
この発想は面白い。

物語とは本来、自由であるはず。物語と物語は自由につながってよいし、ある物語が別の物語の続編であるべきと決めつける根拠もない。
場所や空間が別であってもいい。物語をつむぐ作者の性別、人種、民族、時代、宗教は問わない。どの物語にも人類に共通の思考が流れている限り、それが続編でないと考える理由は、どこにもない。

本編のように旅する三人組のお話であっても、読者である私の人生に関係のない登場人物が出てこようとも、それはどこかで私=読者のつづる物語とつながっているはず。
十三歳。男。十六歳。女。四十一歳。男。本編の三人の登場人物だ。

私に近いのは四十一歳の男だろう。彼と私に似ているところは性別と年齢ぐらい。
彼はリストラに遭い、妻子にも逃げられ、今はタクシー運転手をしている。そんな設定だ。

そんな彼が偶然拾ったのが、子供のような年齢の若い男女。二人はなぜか拾った拳銃を持っており、それで男を脅してきた。どこか遠くに行け、と。

三人の名前のどこかにハルがつくため、奇妙な連帯感でつながった三人は、あてもなく犬吠埼を目指す。ちょうど、人生について投げやりになっていた年長のハルは、若い二人の勢いにあてられ、誰かの続編の物語を生き始める。

そう考えてみると、そもそも私たちの人生も誰かの人生の続編と言えないだろうか。それは生殖によってつながった生物的なつながりという意味ではない。時代や場所や文化は違えど、一人の人生という物語を生きることは、誰かの人生の続きを生きることにほかならない。同じ惑星で生きている限り、人がつむぐ物語は誰かの物語に多かれ少なかれ関連しているのだから。

私たちは本編に出てくるハルたちの物語をどう読むべきだろうか。自分の人生に関係ないとして退けてよいだろうか。作り話だと知らぬふりをすれば良いだろうか。
どれも違う。
彼らの行動は自分たちのひ孫が起こす未来かもしれないし、並行している可能性の現実の中で自分がしでかす暴挙なのかもしれない。

「そして物語に終わりはない。全部の物語の続編にだって。この場面のあとにも場面はずっとずっと続いて。時間は後ろに流れ続けて」(71P)

私たちの人生にも、本来の終わりはない。意識のある生物があり続ける限り。
終わりが来るとすれば、56億7千万年あとに地球が消え去るか、あらゆる原子が一点に終息したビッグクランチの時点だろう。
だが、そんな無意味なことを考えても仕方がない。それより、誰もが誰もの人生の続編を生きていると考えたほうが、生きやすくはないか。著者が本編で提案した物語の意味とは、そういうことだと思う。

「スローモーション」
一人の少女の日記だったはずなのに、それがどんどんと意味を変えていく本編。
さまざまな少女の文体がめまぐるしく変わり生まれてゆく文章は、少女の移ろいやすい意識のあり方そのものだ。

自分と他者。世間と仲間。外見と内面。
少女の意識にとってそれらを区別することは無意味だ。
全てが少女の中で混在し、同じレベルで入れ代わり立ち代わり意識の表層に現れる。

そんな鮮やかな文章の移り変わりを堪能できる。

そして本編はある出来事をきっかけに、少女が過去をつづっていたはずの文章が、現在進行する時間の流れに沿い始める。

それもまた、現実を自我の中に消化しながら生きる少女の意識にとっては、矛盾がなく存在する自分なのだ。

さらに少女の日記はレポートとしての文章から報道としての性格を帯び始める。
その移り変わりは、今の世に氾濫するSNSのあり方を表しているように思える。
人の意識が無数に公開され、自分で自分の感想を報道して飽きない今の世相を。

著者がそれを見越して描いていたとすれば本編のすごさは実感できる。
小説としての可能性も感じさせながら、今の世を切り取って批評する一編だ。

「8ドッグス」
本編のタイトルを日本語に訳すと八犬。
ここから想像できるのは「南総里見八犬伝」だ。
言うまでもなく江戸時代に書かれた日本文学史上に残る作品だ。
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が書かれた玉を持つ八人が、さまざまな冒険をへて里見家の下に参ずる物語だ。

その有名な物語を背景に奏でつつ、著者が語るのはある男の内面だ。
彼女であるねねを思いつつ、律義に生きる彼の思考の流れはどこか危うさをはらんでいる。
ねねのためといいながら彼が行う行動。それは、八犬伝をもじった刺青を自らに彫るなど、どこか狂気の色を帯びている。

徐々に暴走してゆく狂気は、ねねを見張るところまで突き進んでいく。
そしてそこで知った事実が彼の狂気にさらなる拍車をかけてゆく。

ここで出てくるのは皮膚だ。彼は皮膚に仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字を丸で囲って彫り込む。それらの文字は社会で生きる規範となるべき意味を持っている。
だが、それらの文字が皮膚に彫り込まれることで、現実と自我を隔てる境目は破れ、彼の狂気が現実の社会に害を及ぼしていく。

狂気の流れがこれらの文字を通して皮膚へ。それを文学としてメッセージに込めたことがすごい。

‘2020/01/29-2020/01/29


オン・ザ・ロード


「おい、おまえの道はなんだい? 聖人の道か、狂人の道か、虹の道か、グッピーの道か、どんな道でもあるぞ。どんなことをしていようがだれにでもどこへでも行ける道はある。さあ、どこでどうする?」(401P)

「こういうスナップ写真をぼくらの子どもたちはいつの日か不思議そうにながめて、親たちはなにごともなくきちんと、写真に収まるような人生を過ごし、朝起きると胸を張って人生の歩道を歩んでいったのだと考えるのだろう、とぼくは思った。ぼくらのじっさいの人生が、じっさいの夜が、その地獄が、意味のない悪夢の道がボロボロの狂気と騒乱でいっぱいだったとは夢にも考えないのだろう。」(406P)

若いときに読んでおかねばならない本があるとすれば、本書はその一冊にあげられるにちがいない。先日ノーベル賞を受賞したボブ・ディランは、本書を自分の人生を変えた本と言ったとか。

多分、中高生の私が本書を読んでいたならば、私にとっても人生を変えた本になっていたことだろう。私ももっと前に本書を読んでおきたかったと思う。

ただ、20代の私が本書を読んでも、どの程度まで影響を受けていたかはわからない。放浪癖に目覚めた頃だったので、同じ嗜好を持ち、同じ方向を向いている本書はかえってすっと受け入れてしまい、なじみすぎて印象に残らなかったかもしれない。親しんだ記憶は残っただろうけど。

今回、40の坂を越えてからはじめて本書を読んだ。そこから感じた読後感も悪くない。二十歳の頃には出逢えなかったが、40代の感性でしか感じられない新鮮さもある。もっとも、40代の今の視点で本書を読むと、自分自身の過ぎ去った日々を懐かしむ思いがどうしても混じってしまうのも事実。ただ、40代が感じた本書の感想も悪くないはず。その視点でつづりたいと思う。

本書は、あてなき放浪の物語だ。アメリカ大陸の東と西をさまよい、北から南へと越境してメキシコまで。時は1947年〜1949年。第二次世界大戦に勝利し、世界の超大国となったアメリカ。まだソ連が原爆を持つ前の、ベルリンが東西に分割される前の、中華人民共和国が建国される前の勝利の幸福に浸れていた頃のアメリカ。そんなアメリカを縦横に旅しまくるのが本書だ。主人公サル・パラダイスの名前のとおりに幸せなアメリカは、また、素朴なアメリカでもあった。

東西冷戦が始まるや、アメリカは西側の同盟国を引き締めにかかる。自国の文化を紐がわりにして。それは文化的な侵略といってよいだろう。だが、本書で描かれるアメリカは、自国の文化を世界中にまき散らす前のアメリカだ。大戦の勝利の余韻が尊大さの色を帯びる前のアメリカでもある。

主人公サルとアメリカ中を駆け巡るディーンは、狂人すれすれの奇行と社交性を持つ人物として描かれる。だが、そんな彼らにも、やがて落ち着きの日がやってくる。いくら乱痴奇騒ぎを繰り広げようが、彼らも叔母の前では汚い言葉を控えるようになる。彼らとつるんで騒いでいた友人たちも、やがて常識的な言動を身に付け始める。

それは、アメリカが建国以来持ち続けいた、素朴な開拓者スピリットを脱ぎ捨て、政治・文化のリーダーとして振る舞い始める様を思わせないか。サルとディーンが見せる躁鬱の繰り返しは、アメリカ自身が19世紀後半から見せて来た内戦と繁栄の焼き直しに思える。

本書で印象を受けたのは、冒頭に掲げたような言葉だ。これらのセリフは、彼らが旅を終えてから次の旅までの間、金を稼ぎ妻子を養ったりしている間にはかれる。旅中のハイテンションな日々を躁とすれば、旅の合間の準備期間は鬱ともいえる。

だが、本書がひときわ輝いているのは、実はその合間とも言える鬱の時期だ。狂騒の時期はひたすら騒がしい描写に終始しているが、静かな時期にこそ、人生の陰影が彫り込まれてる。その深みは、読者に印象を与える。

冒頭に掲げた二つの文はまさに旅の合間のセリフだ。このセリフには、旅というものの本質が見事に表されている。

私自身、旅への衝動に従って生きてきた。今もそれに身を委ねては、気の向くままに放浪したいと思っている。なので、彼らが旅の合間、稼いだり妻子を養っている間に感じる焦燥感や衝動はとても理解できるのだ。

旅にこそ、人生の実感はある。旅にこそ、人々との触れ合いがある。

だが、旅とはリスクの塊だ。離婚と結婚を繰り返すディーンの生きざまは、旅が結婚という定住生活の対極にあることがわかる。

旅と結婚。その二つは相反するものなのかもしれない。

二つの生き方に迷い、引き裂かれてわれわれは生きていく。本書のサルとディーンのように。

サルが著者ケルアックであり、ディーンがニール・キャサディてあることは訳者が後書きで触れている。著者はビート・ジェネレーションの名付け親であり、その代表的な存在としても知られている。キャサディもまた、破天荒な人生を送った事で知られている。結局、二人ともヒッピー文化が華やかなりし時期に相次いで亡くなっている。本書の終盤で、ディーンはサルと離ればなれになってしまう。サルもディーンも本書において、どういう末路をたどったのか本書には書かれていない。多分、定住を拒み続けただろうし、末路も平穏では済まなかっただろう。

でも、人の一生はそれぞれ。彼らは後悔しなかったに違いない。そもそも人生とは旅なのだから。たとえ結末が惨めなものだったとしても。決して後悔しない。安定を求めない。それが旅人というもの。

私もそういう姿勢で生きていこうと思う。

‘2016/11/01-2016/11/13