Articles tagged with: ロジック

直感に刺さるプレゼンテーション


私が読んできたかぞえきれないほど多くの本。それぞれの本にはきっかけがあり、思い出がある。それが印象的であればあるほど、その本は記憶に残る。本書もそうした本の一冊だ。なにしろ、著者の目の前で入手したのだから。今までにもサイン本を手に入れたことはあるし、私の知り合いには本を書く方も何人かいる。だが、著者自身から本を贈呈されたことはない。ところが本書を手に入れたのはまさに著者の目の前。それは私にとって初めての経験だ。

本書を入手したのは、Prezi Night Tokyo Ⅶにおいてだ。このイベントに、私は登壇者ではなく、一人の観覧者として参加した。Prezi Night Tokyo Ⅶでは三名のプロの方がPreziを使ったプレゼンテーションを披露してくださる他に、参加者有志によるLightning Talkの場が設けられていた。たびたび仕事でプレゼン(テーション)を行う私にとって、そのどれもが参考になった。そうした実例の数々を見られただけでも、Prezi Night Tokyo Ⅶには参加したかいがあったと思う。

Prezi Night Tokyo Ⅶに登壇した三名のプロのうち、著者は二番目に登壇した。「prezendouのプレゼン百鬼夜行」と題されたそのプレゼン。どこかで聞いたことがあると思ったら、トイロハで連載されていた。私も以前、トイロハでは連載していた。私も著者の連載は何度か拝見した覚えがある。今回、著者ご自身によるプレゼンを拝見できたことはとても良い学びとなった。登壇の内容は、プレゼン初心者が陥りやすい罠を百鬼夜行の各妖怪になぞらえたもの。preziの使い方、プレゼンの経験則など、さすがというべきツボを押さえていた。

Prezi Night Tokyo Ⅶの最後を盛り上げたのはじゃんけん大会だ。景品にはTシャツやパーカー、ステッカーの他に、登壇者によって書籍が提供されており、どれもが欲しくなる魅力を持っていた。ところが、こうしたイベントで私は勝ったためしがない。今回も早々に敗退するものと思っていたら、あれよあれよと勝ち残り、景品を選べる立場を得た。景品として出された中の一冊に本書はあり、著者のプレゼンに感銘を受けた私は、Tシャツやパーカーには目もくれず本書を選んだ。

本書は手に入れてすぐ読んだ。大抵の本は積ん読の山に埋もれるが、本書は別。鉄は熱いうちに打て、だ。Prezi Night Tokyo Ⅶの翌日、学んだ知識が熱いうちに本書を手に取った。そして期待に違わず、本書はとても私のためになった。

プレゼンの極意を文章で表すのは容易ではない。なぜならプレゼンとはスキルではなくセンスだからだ。私は本書を読むまでそう信じていた。Prezi Night Tokyo Ⅶに私を誘ってくれた情報親方は、プレゼンとはロジックだと教えてくれた。だが、そう教わってもなお、私は自分がプレゼンに不得手なのを、センスのせいにしていたように思う。ところが、本書はよく読んでみると、いたるところにロジックのかけらが垣間見える。ロジックで何とかなるプレゼンであれば、それはセンスではなくスキルだ。

本書は冒頭で、受け手に理解させるだけでは行動を引き起こせないことを説く。そのため、プレゼンで何をさせたいのかという目的意識をもたねばならない。そして感情を揺り動かすためには、ロジックだけでなく、もう一段上のアプローチがいる。そのためにもプレゼンにはイメージが必要というのが著者のメッセージだ。本書には図版がふんだんに使われている。

ただ、イメージも使い方によっては逆効果にもなる。そして、イメージだけでプレゼンターの意図をそのまま受け手に効果的に伝えることは難しい。ここはまさにセンスの世界だ。そこで、イメージにテキストを加える。そうすることで、プレゼンにロジックが武装される。プレゼンである以上、曖昧なメッセージは逆効果。つまりテキストはロジックに沿ったストレートなメッセージであることが求められる。テキストはロジックの方向性を決める。さらに、テキストのメッセージに沿ったイメージやデザインを組み合わせることは十分にロジックの範疇だといえる。ただ、テキストの色合いやフォントの取り扱いを間違えると、受け手に誤った混乱を招く。これもまた、センスに関係ないロジックで取り扱える範囲だ。本書はそうしたことを豊富なテキストとイメージのサンプルでそのことを解き明かしてゆく。

本書を読んで、自分がまだまだと思ったこと。それはテイストを揃えることの重要性だ。イメージを揃える作業。これは簡単なようでいて、やってみるとなかなか難しい。ついつい多様なイラストレーターが描いたイラストでプレゼンを飾り立ててしまう。その結果、プレゼンからはまとまりが失われ、失注へとつながる。

まとまりのないプレゼンを駆逐するため、本書にはストーリー構造についての章が設けられている。プレゼンである以上、プレゼンを通してどういうアクションが行われるべきかについての一貫したストーリーが求められる。その分析はビジネスフローの分析に通ずるものがある。それはフローチャートであり、まさにロジカルな部分だ。別の章では聴き手との共通点をプレゼンに組み込む方法も解説されており、私はそこからも同じ知見を得た。私がより一層意識していかねば、と思わされた部分だ。

あと、私があっと思ったことがある。それは、スライドの冒頭とラストをおろそかにしていないか、という著者の指摘だ。特にプレゼンの最後によく見かける「ご清聴ありがとうございました」が無駄との指摘は耳が痛い。直近の私がやっていたことだからだ。次から改めなければなるまい。冒頭のスライドにもう一工夫を加える事もあわせ、実践しなければと痛感した。

本書を読んでいくと、センスの問題とあきらめていたことの多くがスキルで置き換えられることに気づく。ところが、スキルとはいえ、習得するのは容易ではない。本書を一度だけ読んだところでなかなか習得できない。センスとは、スキルを習得するためのコツや適正を指すのではないかとさえ思う。著者も本書の末尾では、繰り返す練習することが重要であると述べている。私もそうだと思う。なぜなら本書の極意をまだつかめたとはいえないから。私そして、私がプレゼンを行うようになってから、少しは上達してきているプレゼン技術も、まだ著者には到底及んでいないと思うから。

本書の最後にはMicrosoft Powerpointの使用法についてもテクニック付きで紹介されている。そこも参考になる。だが、私がPreziがきちんと扱えるようになるには、まだ時間が必要だ。ついついslide.comの簡易さに頼ってしまう。Preziはもう少し触ってみたいのに。プレゼンとは、センスだけでなく、スキルでまかなえる部分があると勇気づけられたのだから。

‘2018/07/14-2018/07/17


神のロジック・人間のマジック


実は著者の作品を読むのは初めてかもしれない。本書を読み終えてからそのことに気づいた。本書は文藝春秋の本格Mystery Mastersの中の一冊だ。本格Mystery Mastersといえば、そうそうたる作家が執筆陣にそろっている。私もシリーズに収められた作品はいくつか読んでいる。

本書を無理やりカテゴライズするとすれば孤島物になるだろうか。孤島物とは、閉ざされた空間ー人里離れた島や洋館などーで起こる事件を扱うミステリの一ジャンルだ。アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」が有名だ。本作はどことも知れない広大な土地にポツンと建つ施設(ファシリティ)を舞台にしている。周りは建物どころか木や山も見えない平原。その中で集められた11、12歳前後の少年少女六人。主人公のマモルは日本の神戸出身。 それにハワード(ちゅうりつ)、ビル(けらい)、ステラ、ケイト(妃殿下)、ケネス(詩人)の五人の生徒で構成されている。ファシリティを運営するのは校長先生(プリンシパル)のシウォード博士と寮長(RA)のミスター・パーキンス。そして食事その他の日常の世話をするミズ・コットンの三名だ。

少年少女らは幾分大人びた話し方をする。彼らの日常は、授業と実習(ワークショップ)で埋められている。そして縛られてもいる。ワークショップとは二班に分かれて寮長から出される課題を解く実習だ。そのような単調な日々は、彼らの心に疑問を生む。一体何のためにこのような場所に集められたのか。その謎こそ本書の肝だ。さらに、彼らにとって気になるものはまだある。それはファシリティに潜むあるモノだ。その正体が何かについても気になる。たまに入って来る新入生は、その彼らが抱える謎をさらに深める。それだけでなく動揺すら与える。新入生の存在がファシリティに潜むあるモノを目覚めさせると悲劇がおこるというからだ。

そして本書はお約束どおりに悲劇が起こる。その辺りは推理小説の骨法にのっとっている。本書は道具立がシンプルだ。そして布石として効果的に配置されている。なので曖昧な舞台設定であっても、全てが解決した時に爽快感が感じられる。

本書は最近話題となっている「約束のネバーランド」に影響を与えているのではないか、と私には思える。本書は2003年の作品だし。「約束のネバーランド」の設定に本書のそれが感じられる。

本書の末尾には「疎外感とアメリカー西澤保彦論」という円堂都司昭氏による作家論が収められている。著者の作風を分析し本書の構造を描いた優れた書評だ。
・人物と世界の齟齬
・心理分析の多さとセクシュアリティへの関心
・ディスカッションによる推理
この三つを円堂氏は著者の作風として挙げている。さらに著者の作品には科学と宗教の相克がテーマとして取り上げられていると氏は指摘する。前者は個々を固定的に体系化する象徴、後者は認識の共有の象徴であると分析する。アメリカでは個々の体系化はアメリカン・ドリームに代表される個人主義となり、認識の共有は民主主義として現れる。そう著者は分析する。

そんなアメリカナイズされた著者の認識が、エッセンスとして作品になったのが本書だ。これについて私の意見も書きたいところだ。だがこれ以上書くと本書の核心に迫ってしまうかもしれない。それは本稿を読んでくださっている方の興覚めになりかねない。だからここらでやめておこう。

本書は著者にとっては会心作だったようだ。上に触れた円堂氏による論考の後、円堂氏が著者にインタビューしたやり取りが本書には収められている。そのやり取りの中で著者が会心作だと述べている。つまり実験精神と著者が小説で表したいアメリカ精神が表現されたのが本書なのだという。となれば他の作品も読んでみなければ、と思わされるではないか。

‘2017/03/04-2017/03/08