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片想い


本書はとても時代を先取りした小説だと思う。というのも、性同一性障害を真正面から取り上げているからだ。本書の巻末の記載によると、週刊文春に1999/8/26号から2000/11/23号まで連載されたそうだ。いまでこそLGBTは社会的にも認知され始めているし、社会的に性同一に悩む方への理解も少しずつだが進んできた。とはいえ、現時点ではまだ悩みがあまねく世間に共有できたとはいえない。こう書く私も周りに性同一性障害で悩む知り合いがおらず、その実情を理解できていない一人だ。それなのに本書は20世紀の時点で果敢にこの問題に切り込んでいる。しかも単なる題材としてではなく、動機、謎、展開のすべてを登場人物の性同一性の悩みにからめているのだ。

著者がすごいのは、一作ごとに趣向を凝らした作品を発表することだ。これだけ多作なわりにパターン化とは無縁。そして作風も多彩だ。本書の文体は著者の他の作品と比べてあまり違和感がない。だが、取り上げる内容は上に書いた通りラジカルだ。そのあたりがすごいと思う。

本書は帝都大アメフト部の年一度の恒例飲み会から始まる。主人公の西脇哲朗の姿もその場にある。アメフト部でかつてクォーターバックとして活躍した彼も、今はスポーツライターとして地歩を固めている。学生時代の思い出話に花を咲かせた後、帰路に就こうとした哲朗に、飲み会に参加していなかった元マネージャーの日浦美月が近づく。美月から告白された内容は哲朗を驚かせる。美月が今は男性として生きていること。大学時代も女性である自分に違和感を感じていたこと。そして人を殺し、警察から逃げていること。それを聞いた哲朗はまず美月を家に連れて帰る。そして、同じアメフト部のマネージャーだった妻理沙子に事情を説明する。理沙子も美月を救い、かくまいたいと願ったので複雑な思いを抱えながら美月を家でかくまう。

ここまででも相当な展開なのだが、冒頭から44ページしか使っていない。本書はさらに377ページまで続くというのに。これだけの展開を仕掛けておきながら、この後300ページ以上もどう物語を展開させていくのだろうか。そんな心配は本書に限っては無用だ。本書には語るべきことがたくさんあるのだから。

読者は美月がこれからどうなってゆくのかという興味だけでなく、性同一性障害の実情を知る上でも興味を持って読み進められるはずだ。本書には何人かの性同一性障害に悩む人物が登場する。その中の一人、末永睦美は高校生の陸上選手だ。彼女は女子でありながら、あまりにも高校生の女子として突出した記録を出してしまうため、試合も辞退しなくてはならない。性同一性障害とはトイレ、浴場、性欲の苦しみだけではないのだ。世の中には当たり前のように男女で区切られている物事が多い。

私は差別意識を持っていないつもりだ。でも、普通の生活が男女別になっていることが当たり前の生活に慣れきっている。なので、男女別の区別を当たり前では済まされない性同一性障害の方の苦しみに、心の底から思いが至っていない。つまり善意の差別意識というべきものを持っている。ジェンダーの違いや不平等については、ようやく認識があらたまりはじめたように見える昨今。だが、セックスの違いに苦しむ方への理解は、まだまったくなされていないのが実情ではないだろうか。

その違いに苦しむ方々の思いこそが本作の核になり、展開を推し進めている。だが一方で、性同一性障害の苦しみから生まれた謎に普遍性はあるのだろうか、という疑問も生じる。だがそうではない。本作で提示される事件の背後に潜む動機や、謎解きの過程には無理やりな感じがない。普通の性意識の持ち主であっても受け入れられるように工夫されている。おそらく著者は障害を持たず、普通の性意識に生きている方と思う。だからこそ、懸命に理解しようとした苦闘の跡が見え、著者の意識と努力を評価したい。

ちょうど本稿を書く数日前に、元防衛省に勤めた経歴を持つ方が女装して女風呂に50分入浴して御用となった事件があった。報道された限りでは被疑者の動機は助平根性ではないとのこと。女になりたかったとの供述も言及されていた。それが本当かどうかはさておき、実は世の中にはそういう苦しみや性癖に苦しんだり耐え忍んでいる方が案外多いのではないかと思う。べつにこの容疑者を擁護する気はない。だが、実は今の世の中とは、男女をスパッと二分できるとの前提がまかり通ったうえでの社会設計になっていやしないか、という問題意識の題材の一つにこの事件はなりうる。

いくら情報技術が幅を利かせている今とはいえ、全てがオン・オフのビットで片付けられると考えるのは良くない。そもそも、量子コンピューターが実用化されれば0と1の間には無数の値が持てるようになり、二分化は意味を成さなくなる。私たちもその認識を改めねばなるまい。人間には男と女のどちらかしかいないとの認識は、もはや実態を表わすには不適当なのだという事実を。

「美月は俺にとっては女なんだよ。あの頃も、今も」
このセリフは物語終盤366ページである人物が発する。その人物の中では、美月とは男と女の間のどれでもある。男と女を0と1に置き換えたとして、0から1の無数の値を示しているのが美月だ。それなのに、言葉では女の一言で表すしかない。男と女の中間を表す言葉がまったくない事実。これすらも性同一性障害に苦しむ方には忌むケースだろうし、そうした障害のない私たちにはまったく気づかない視点だ。これは言語表現の限界の一つを示している。そしてそもそも言語表現がどこまで配慮し、拡張すべきかというかという例の一つに過ぎない。

本書がより読まれ、私を含めた人々の間に性同一性障害への理解が進むことを願う。

‘2017/12/09-2017/12/11


夜愁〈下〉


承前として、上巻から続く1944の章で本署は始まる。これから読まれる方の興を削いでしまうので、登場人物たちの動向については書かない。が、本章で起こる様々な出来事は、運命や時代に左右される人々について、心に訴えかけるものがある。戦争という緊迫した状況下では、人は普段被る仮面を剥がされ、うろたえ、醜い姿もエゴもさらけ出す。空襲に怯えるロンドンで、爆撃された廃墟の傍で、V2が飛来する恐れの中、人々は生きる。

人が懸命に、も生きようとする本章には、色々と心に残る場面が登場する。空襲のさなかにどうしようもなく惹かれあうレズビアン。爆撃が迫る中、牢獄に閉じ込められた子供たち。爆撃された街で、堕胎によって瀕死となる女性。わが日本でも空襲体験やそれを描いた小説も多々あれど、本書の空襲描写は、ことさら印象に残る。おそらくは私を捨てて救護活動に没頭する消防士の視線からみた空襲描写が多いからであろうか。

1944の章の描写を通し、1947の章に登場した人々の過去に何があったのか、読者は理解する。1947の登場人物達に共通する空虚さの中に、嵐の中を潜り抜けてきた人々の反動を観る。

最後に1941年。

普通の小説ならば、プロローグとして書かれる内容の本章だが、本書は末尾の章として置かれている。1944年の大戦を懸命に生きる登場人物達。彼らがどうして大戦の混乱を、それぞれの立場で身を置くようになったのか。本章ではそれが書かれる。

繰り返すが、本章の内容は登場人物たちの紹介であり、本来ならばプロローグとして物語の前提を説明するものである。

上巻のレビューの最初に、本書を読んだことを3年半しか経っていないのに忘れたと書いた。なぜ忘れたかについては、すでに上に書いてきた通りである。つまり、文章の構成順と物語の時間軸の順序が逆だからであり、本来ならプロローグにあたる部分が最後に来ているためである。物語の時間軸に沿えば、最後に置かれるべきシーンが冒頭の1947の章に配されている。そのため、従来の小説の読み方では読後感が混乱してしまうのである。特に、斜め読みに読んでしまうと、全く記憶に残らないということになってしまう。おそらくは3年半前の私は、そのような読み方をしてしまったのだろう。言い訳をするようだが、丁度この時は、私的に衝撃的な出来事があり、本書に集中できていなかったのかもしれない。

だが、今回は前回の失態を取り返せたのではないかと思う。本書の凄さと意図が把握を実感することができたように思う。

1941の章の最期は、廃墟の中から救い出された少女の美しさに、消防士が感動する場面で終わる。
1944の章の最期は、空襲に死んだと思った恋人が見つかり、消防士がそのことを友人に告げる場面で終わる。その恋人が友人と情を通じあっているとも知らずに。
1947の章の最期は、ロンドンをさまよい、ロンドンの静けさを、うつろに見る元消防士の視線で幕を閉じる。元消防士のケイの視線で。

本書はレズビアンという愛の形を、時代に翻弄された無残な愛の終わり方で描いたものである。その無残な愛の形を描くためには、時間軸では無残に、文章構成では感動で終わらせる必要があったのだと思う。本書のラストが、感動で終われば終わるほど、その愛が無残に終わる結末を知る読者には、なおさら虚しく響いてしまう。そんな効果を狙っての、本章の構成だとすれば、その効果は確かに上がっているといえる。

’14/07/02-‘14/07/08


夜愁〈上〉


実は本書を読むのは二度目である。3年半前に一度読み終えている。本好きで、様々な本を読んできた私だが、再読する本はそれほどあるわけではない。どれだけ面白い本を読もうが、同じ本をもう一度読むよりは、別の本に手を伸ばす。それが私の読書スタイルである。

本書はわずか3年半の間を経て再読することになった。本書がそれだけ再読に耐えうる内容か、と問われるとそうとばかりは云えない。では、なぜ再読したか。それは、単に私が前に読んだ内容を忘れてしまっていたからである。読み始めて数十ページでようやくそれに気が付いた。3年半しか経っていないのに、内容を忘れてしまう本書。本書が読むに堪えない内容かというと、違う。むしろ素晴らしい内容であることを、再読によって再確認させられた。本書で描かれている作品世界は、実に濃密で素晴らしい。では、私がなぜ内容を忘れてしまったのか。そのことについて、本書の素晴らしさと合わせて、上下巻の本レビューを通じて記そうと思う。

本書の舞台は第二次大戦中の英国ロンドンである。大戦下の各都市に違わず、ロンドンもまた、様々な戦争の荒波に晒された都市である。きな臭い欧州情勢に怯える開戦前夜。V2ロケットの空襲に脅かされた開戦中。勝利するも、第二次大戦中勝利者の主役の座をアメリカに奪われた空虚感の漂う終戦後。第二次大戦中の写真集を観ても、ロンドンを被写体とした写真は、空襲に備えたガスマスクを被った人物や、空襲に被災した建物など、陰鬱とした対象が採り上げられている。

本書は、文庫本で上下2巻に別れているが、その中で3章に分かたれている。1947、1944、1941という順番の3章に。これは云うまでもなく、西暦の年数を示している。すなわち、終戦後の1947、大戦末期の1944、大戦開始直後の1941。本書の最大の特徴は、この3章の順番にある。

まず、1947年。

大戦に勝利したものの、勝利の立役者であるチャーチルは失脚し、インドをはじめとした海外の植民地も独立の動きを強める。勝者の高揚感もなく、没落の予感に震える大英帝国。衰退の道を辿るロンドンの匂いが、本章の行間のあちこちから立ち上っている。屋根裏部屋に逼塞するケイ。37歳の彼女は、男に見間違えられる格好で、世捨て人のような暮らしを過ごす。彼女の過去に何があったのか。ヘレンとジュリア。レズビアンの関係である彼女たちは、ヘレンの嫉妬からくる倦怠期の兆候を迎えている。彼女たちはどうやって出会ったのか。ヘレンと共に働くヴィヴ。新しい時代の働く女性である彼女には、探し求めている女性がいる。それは誰で、なぜ探し求める必要があるのか。恋人のレジーとは不倫の関係を続けている。真面目に働く技師であるダンカン。ヴィヴの弟であり、まだ若いのにマンディ氏という老人と生活を共にし、沈滞しきった毎日に苛立ち始めている。偶然にも仕事場でばったり、過去の友人であるフレイザーに出会い、若者らしい振る舞いを思い出したかのように街にでる。マンディ氏とはなぜ同居することになり、フレイザーとはどんな過去を共有したのか。

本章の終わりで、何かが劇的に変わることはない。何かが解決することもない。しいて言えば、ヴィヴが探していたケイに巡り合い、過去に託された品物を渡せたのみである。ダンカンはマンディ氏との時間から逃れようと飛び出し、ヘレンは嫉妬の余りに自殺を図り、ジュリアとの仲は倦怠から醒めない。

ロンドンは、大戦後の溌剌とした勝者気分を取り戻す訳でもなく、ぼんやりとした時間を過ごしていく。登場人物たちのその後は、ロンドンの霧のように、杳として見えない。

続いて1944年。

V2ロケットの襲来と、バトル・オブ・ブリテンの興奮が街を活気で覆っている。至る所に空襲があり、家屋が爆撃され、人々は斃れ、泣き崩れ、泣く間もないほどの救助活動に忙殺される。

1947の章にでてきた登場人物たちの境遇は大きく違っている。まだ読んでいない方のために、詳細は書かないが、1947のそれぞれの過去が、戦争という非常時の中、細やかに、鮮やかに描かれる。

上巻は、1944の章の途中で一旦幕を閉じる。戦争に翻弄される、人々のその後が、どうなるかに気を持たせつつ。

’14/06/25-‘14/07/02