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サイゼリヤ おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい料理だ


サイゼリヤは私が上京してからよく訪れているレストランだ。さまざまな店舗を合わせると、百回近くは行っているはずだ。
その安さは魅力的だ。そして味も常に一定のレベルの品質が保たれている。
(一度だけ、わが家の近所の店であれ?ということはあったが)

著者はサイゼリヤの創業者であり、今も会長として辣腕を振るっている。
その著者がサイゼリヤを創業し、経営していく中でどのように一大チェーンを築き上げたのか。そのノウハウや哲学を語るのが本書だ。

本書は、レストランの業界誌に連載されていた内容をもとにしているという。そのため、ページ数はさほど多くない。とはいえ、内容がコンパクトにまとめられているので、著者なりの経営の要点が学べる。

私が経営者として感じている壁は無数にある。その一つが、個人からチェーン展開への壁だろう。
個人で全てを回せているうちはまだいい。だが、規模を拡大しようとした途端、個人の能力や時間では賄えなくなってしまう。個人には24時間しか与えられていないからだ。
そこで人を雇う。さらに拠点を増やす。そうなると経営者の目は行き届かなくなる。個人のノウハウをどうやれば伝達できるのか。社員を多く雇い、規模を大きくするには、個人のノウハウを伝達しなければならない。スキル、哲学、規律。それを教えることが最初の壁だ。経営者が自らのビジネスを拡大するためには、まずその壁を乗り越えなければならない。その壁は高く険しい。
それは私自身が今、零細企業の経営者として実感していることだ。

本書は、地に足のついた経営を実践する上で参考になる点が多い。
個人から組織へと規模を拡大するにはどうすればよいか。
本書を読むと、サイゼリヤの成長の軌跡が分かる。サイゼリヤは、資金を調達し、急拡大を遂げてきたのではない。本書から受けるのは、一歩一歩徐々に規模を大きくし、自社でノウハウを積み上げながら経営を進めてきた印象だ。
それは経営の壁にぶつかっている私の立場からは、とても心強い。融資を受けるにはハードルが高いからだ。

著者は市川で開業した一号店で、多くの苦労と失敗をした。そしてそこから多くを学んだ。
著者は状況を打開するため、イタリアに視察に行った。そしてイタリア料理に着目した。当時は高級料理だったイタリア料理に着目したのは著者の先見の明だ。だが、それだけではない。そこから、思い切って金額を下げることで他店との差別化を行った。それらは著者が失敗から学んだことであり、それも著者の明断だといえる。

金額を下げる。それは、いわゆる安売りである。だが、一般に安売りはよくないとされている。私自身、かつては自分の単価を安く設定してしまい、自分の価値を下げてしまった失敗がある。
だが、著者は安く売ることで状況を打開した。私もそこを本書から学びたいと思った。

安売りといっても単に安く売るのではない。安く売るためには、安くてもなお、利益を出せなければ。そのためには利益を出すための体制が欠かせない。

著者は創業の頃から人時単位での生産性を重視してきたという。粗利益÷従業員の1日の総労働時間。この基準を著者は6000円という金額に設定しているそうだ。
また、ROI(Return On Investment)、つまり投資利益率を求める計算式は利益÷投資額×100だ。これも最低基準として20%に設定しているとのこと。

本書を読んでいると、サイゼリヤの成功の秘訣が見えてくる。それは、創業者である著者がどんぶり勘定ではなく、初めから利益と経営への意識をしっかり持っていたことによるのだろう。
だからこそ、継続的に成長を刻みながら、今の規模まで育てられたのだと思う。

もちろん成功の理由はそれだけではない。商品開発や組織開発なども必要だ。本書には財務だけでなく、経営全体に対する著者の努力も書かれている。
財務と組織。その両輪をきちんと押さえていたからこそ今のサイゼリヤがあるのだろう。

翻って私の反省だ。
私は個人で動くことに慣れてしまっていた。一人でやる分には、仕事も十分に回る。私は独立したとはいえ、長い期間を常駐の現場で働いてきた。そのため、私が本当の意味で経営者となったのはごく最近のことだ。常駐から抜け、個人で仕事を請けて回すようになったこの五年。それが私の経営者としての歴史だ。

この五年、個人で仕事を回せるようになってきた。とはいえ、著者の例でいうと、私はまだ、商品開発に没頭している状態だ。組織開発や財務への意識は二の次。
著者を例に例えると、店内で調理をしながら配膳をし、レジ打ちもこなしている。それが私だ。多店舗展開とは程遠い状態にある。

ようやく本書を読んだ数カ月後から、弊社でも人を雇い始めた。ようやく次の壁を乗り越えようとし始めたのだ。

その壁を乗り越えるためにも、経営者としての心の持ち方を養わねばならない。また、失敗を次への教訓として生かさねばならない。また、経験を次代に伝えなければならないし、そのためにも公平な評価を心掛けなければならない。あれもこれも追うのではなく、要となる商品をベースにおき、数値目標は一つに絞る。
ここに書いたことは、どれも本書にも書かれている経営の要諦なのだろう。

そして、経営を行うためには、単なる精神論に頼らない。気持ちを前向きに持ちながらも、押さえておくべき経営のツボはきちんと把握する。その大切さ著者は説いている。
それは例えば在庫回転率や立地の重要性である。著者はそうした観点や指標を例に挙げる。ただ、著者が経営するチェーンストア業界ではなく、それぞれの読者の属する業界によって、その指標は臨機応変に変わるはず。まずはそれを理解すべきだろう。

例えば私のような情報処理業界の場合に置き換えてみる。
例えば、適切な案件が継続的に請けられ、その用意と準備と実装と保守が順調に回る状況。それこそがあるべき姿なのだろう。
そのためには、自社の得意分野を踏まえた上で、正当な商圏を見据える。そして、むやみやたらと広告や営業を打つのではなく、特定の企業に売り上げを依存するのでもなく、適度に分散してリスクを負わない営業チャネルを構築する。そんなところだろうか。

著者は働くことは幸せになることだ、という理念を掲げ、それを常に見直しているという。さらに、経営に失敗という概念はなく、失敗に思えるものはすべて次へつながる成功なのだとも説く。
そして、著者が説くことでもっとも私の心に刺さったことがある。それは、変化に対応するために必要なのが「組織」だと著者はいう。
普通に考えると、機動力と行動力のある一人の方が変化に対応しやすいのではないか。だが、一人だと、対応できるのは一人が動ける時間に限られる。一人の一日の持ち時間は24時間だ。
だが、組織の場合、人数×営業時間が持ち時間として与えられる。分業だ。それぞれが分業をこなし、その能力を磨きつつ、能力を発揮する。それができたとき、組織は一人の時よりも変化に対応できる。

本書で著者が説いている内容は決して難しくない。だからこそ、理屈をこねくり回す必要もない。経営とは複雑なものではなく、本来は単純なものなのかもしれない。だが、そう分かっていても経営は難しい。だが、経営者はそれをやり遂げなければならない。

私は自分の会社をどうしたいのか。経営理念は作り、雇用に踏み切った。失敗もして、ようやく少しずつ組織が形になりつつある。
税理士の先生、社労士の先生に加え、人財コンサルタントの方にもご指導を受けている。
本書で学んだこと、諸先生方のご指導を踏まえ、少しずつ経営の実践と安定に努力しようと思う。

2020/10/5-2020/10/5


DINER


人体。私たちは常に、自らの体がこうあるという身体感覚を持っている。この感覚が狂った場合、私たちが感じるのは気持ち悪さだ。それは自分の体が狂った場合だけではなく、他人の体でも当てはまる。他人の体が人体としてあるべき状態になっていないとき、私たちは本能的に気色悪さを覚える。例えば障害を抱えた方の体を見た時、残念ながら気持ち悪さを感じてしまう事だってある。これは本能の振る舞いとして認めなければならない。

だからホラー映画でハラワタがのたうち、血が飛び散る描写をみると私たちはおののいてしまう。そうした描写が私たちの心の闇をかき乱すからだ。ホラーに限らず、人体がグロテスクに変貌する描写は、ほとんどの人にとって、動揺の対象となる。もちろん、人によって動揺には強い弱いがあるだろう。だが、その動揺が表に出なかったとしても、居心地の悪さを感じることに変わりはない。

著者の名前を一気に有名にした『独白するユニバーサル横メルカトル』は、あらたな人体改造の可能性を描いた奇書である。身体感覚が歪む読後の気持ち悪さ。それは読者に新たな感情をもたらした。本書もまた、著者の身体への独特の感性が自在に表現される。その感性はもはやある種のすごみさえ発している。何しろ本書に登場するほとんどの人物がいびつな人体の持ち主なのだから。

オオバカナコは、人生の敗残者になりかけている三十歳。当座をやり過ごすための金を求め、闇求人サイトで三十万の運び屋の仕事に応募する。だがその仕事はヤバい筋にちょっかいを掛ける仕事。捕まったオオバカナコはその筋の者たちに拷問され、生きながら人が解体されて行くところを見せつけられる。ヤクザ者の手に墜ち、オークションにかけられる。そして誰も買い手が付かなかったため、人の絶えた山奥で生き埋めにされる。穴に埋められ、スコップで土を掛けられるオオバカナコ。彼女は自分の利用価値を認めてもらうため、やけっぱちで「料理ができる!」と絶叫する。その叫びがかろうじて裏社会に張り巡らされた求人条件にマッチし、あるレストランのウェートレスとして送り込まれる。

そこは殺し屋だけが訪れる会員制のレストラン”キャンティーン”。ウェートレスといっても、実態は買われた奴隷そのもの。店を仕切っているボンベロに逆らえばすぐに殺される。カナコの前任も、客の気まぐれで肉片に変えられた。カナコは欠員の出たウェートレスに送り込まれたのだ。もちろん使い捨て。

全てが不条理な状況。その中に放り込まれたカナコはしぶとくボンベロの弱みを握り、生き延びようとする。全てが悪夢のような冗談に満ちた不条理な店。しかし殺し屋たちやボンベロにとっては当たり前の日々。彼らはそこでしか居場所を見いだせないのだから。身体中に縫い目が走り、破れっぱなしの頬から口の中が見えるスキン。見た目はこどもなのにそれは全身整形の結果。中身は非情な殺し屋キッド。異常に甘いものしか食わない大男のジェロ。超絶美女なのに凄腕の毒を盛り、相手をほふる炎眉。妊婦の振りをして膨れた腹に解毒薬を隠す毒婦のミコト。そんな奇天烈な客しか来ない”キャンティーン”は、客も店主もぶっ飛んでいる。そして、ボンベロが振る舞う料理もまた神業に近い。居心地の良さと料理の質が高いため、客足が途切れないのだ。

そんな”キャンティーン”は組同士の抗争の場にもなるし、いさかいの場にもなる。ボンベロ自身、かつて凄腕の殺し屋として名をはせ、その筋に属する人々だけが来るだけに、なおさら血なまぐさい場となる。

カナコもいろいろな修羅場をくぐらされる。だが、しぶとく食らいつくカナコにボンベロの見方も少しずつ変化する。ボンベロとカナコの間の関係性が少しずつ変わって行く描写が読みどころだ。そして客とボンベロ、カナコとボンベロの間柄が、ボンベロの出す料理で表現されており、そこがまた絶妙だ。

全てが常軌を逸した店の中でカナコはどう生き延びていくのか。そのサバイバルだけでも読者にとって読み応えがある。異常で常識が通じない本書は、すこぶる上質のエンターテインメントに仕上がっている。人体改造や拷問の知識が惜しげもなく披露され、グロテスクで闇にまみれた感覚が刺激される。それを意識しながら、読者はページを読む手がとめられないはず。

人体。それはタブー。だが、それを超えた人間は強靭だ。戦争経験者が一目置かれるように。ダメ女として登場したカナコが心の強さを発揮していく本書は、著者の思いがにじみ出ている。それは、日常が心を強く持たなくても生きていけること、そして、修羅場こそが人を鍛えるということだ。つまり、本書は極上のハードボイルド小説なのだ。日本冒険小説協会大賞や大藪春彦賞を受賞したこともうなずける。面白い。

‘2017/07/26-2017/07/27


聖痕


本書は221党員にとってして待ちに待った最新作である。221党なんて言葉はない。著者のファンを勝手にこう呼んだだけだ。だが、パソコン通信の時代から運営されている著者のフォーラムの名前は221情報局という。221=ツツイであることはいうまでもない。221は著者の番号であり、ファンにとってはお馴染みの数字なのだ。

著者のホームページ(https://www.jali.or.jp/tti/)には221情報局へのリンクに貼られている。パソコン通信の頃からネットを活用した文筆活動を自在に行っていた著者にふさわしく、シンプルかつ読み応えのあるページとなっている。だが、更新頻度がさほど高くないのが惜しいところだ。だが、そんな221党員のためにASAHIネット企画「笑犬楼大通り」が開設された。もちろん著者のホームページからも笑犬楼大通りへのリンクが貼られている。笑犬楼大通りの中でも「偽文士日碌」はちょくちょく拝見している。それはWeb上の日記。だがblogとは少し違う。ページは書籍をあしらったデザインになっている。読者はページをめくるように紙の端をクリックする。すると著者の日々を行き来できるのだ。

著者の日々とはテレビに出たり、著書にサインをしたり、編集者を応対したり、執筆活動をしたり賑やかだ。作家と役者とタレントを兼ね、座長やクラリネット奏者やパネリストをこなし、東京と神戸の両方に家を持つ著者の日々はマンネリとは程遠い。ファンにはお馴染みだが、著者は今までに何度となくこうした日記スタイルの作品を出版している。「偽文士日碌」も今までの日記スタイルの作品を踏襲している。自らも家族も編集者も作家も友人も、著者の日記に登場する人や事物は全て実名だ。著者の日記スタイルには私も大きく影響を受けている。そんな私にとって「偽文士日碌」を読むことは楽しみの一つだ。

さて、本書である。なぜ前置きで「偽文士日碌」を紹介したかというと、本書の筆致は「偽文士日碌」に良く似ているからである。本書は葉月貴夫の生涯を書いている。幼少時から髪に白いものが混じる年齢までの生涯が書かれている。本書で描かれる貴夫と貴生の周囲の人々の織りなす日常は、「偽文士日碌」で描かれた著者の日常を思わせる。

先に私は著者の日記スタイルに多大な影響を受けたと書いた。著者の日記は今までに何冊も出版されている。それらに共通するのは露悪的な姿勢である。つまり、謙譲や遠慮とは無縁のスタイル。生活や出来事を隠さずに描く。例えそれが贅沢三昧な日々であろうとも。自粛などという小癪な態度とかけ離れた日記スタイルは実に小気味良い。下手な隠し事はかえって読む人にとって侮辱となり、隠すことがすなわち嫌みにもなる。そのスタイルは、「偽文士日碌」でも本書でも顕著といえる。

葉月貴生は幼い頃に暴漢にナニ(本書内の雅語では露転と呼ばれる)をちょんぎられる。そのため、中性的な美しさを損なわない。また、性欲にも悩まされることがない。しかも、頭脳明晰で東大卒。料理の腕も抜群で、経営するレストランは客が引きも切らない。レストランに来店する各界の名士とも懇意で、友人関係にも困っていない。また、彼の年の離れた妹を娘として育てる。その娘がこれまた美形で躍りの名手だ。そういった恵まれた、華麗な日常が描かれるのが本書である。そんな彼の日常が遠慮や謙譲など一切なく語られる。

本書には露悪以外にもう一つ特徴がある。それは、かつて世界の文学史で脚光を浴びたラテンアメリカ文学からの影響だ。マジックリアリズムと称されたその作風は、現実に即した描写をしながら極端な状況を描写することで人間の認識を超えたところに読み手を運ぶ。本書には突飛なことが起こるわけではない。ありえない風景が出現するわけでも超人がスゴ技を披露することもない。だが、葉月貴生の周辺の人々や事物は出来すぎている。理想的過ぎるぐらいに理想的なのだ。その誇張された美化こそが、本書に漂っているマジックリアリズムの影響だと思う。ちなみに著者はラテンアメリカ文学からの影響を隠そうとしていない。かく言う私がラテンアメリカ文学の愛好家となったのも、著者からの感化なのだから。

では、理想的すぎる葉月貴生の生活をここまで露悪的に描いたのは何故だろうか。

一つは、日本的な偽善性への著者なりの態度表明だろう。昭和天皇の崩御の際や、東日本大震災では自粛という言葉が大分取り沙汰された。

もう一つは著者の考える美、にあるのではないか。葉月貴生は去勢された身だ。そのため、性欲に煩わされない。しかし、性を嫌悪するかと思えばそうでもない。それは自ら経営するレストランの上階を逢い引きの場として提供することでも表明されている。つまり、真の美とは周囲に影響されず、世俗にあっても美しさが損なわれない。清濁併せ呑んでもなお、美が決然と立っている様とでもいうか。世俗にありながら超然かつ孤高を保てる強さこそが真の美ということだろう。要するに著者が考える美とは自ら無欲であること、ではないだろうか。

美をテーマとした本書を書くにあたり、著者はある工夫を施している。それは雅語の多用だ。いまやほとんどの日本人から忘れ去られ、誰にも顧みられなくなった語が本書にはたくさん登場する。ページが進むにつれ、使われる雅語の割合は増えていく。このところの著者の作品に目立つのはことばに関するこだわりだ。昔から、愚鈍ではなく魯鈍という言葉を使う著者に相応しく。

本書は老いてなお創作意欲盛んな著者の、余生の手慰みとはかけ離れた力作である。私も著者の作品はほぼ全て読んでいるつもりだが、まだまだ著者の日々は追いかけて行きたいと考えている。

‘2015/03/05-2015/03/09


ブエノスアイレス食堂


ラテンアメリカ文学といえば、マジックリアリズムとして知られる。写実的な描写の中、現実ではありえない出来事が繰り広げられ、読者は著者の術中に喜んではめられる。

本書もまた、マジックリアリズムの黄金の系譜に連なろうと目論む一冊といえる。というのも、本書の内容は明らかにその路線を狙っているからである。マジックリアリズムの骨格に、料理という万人の好むスパイスと猟奇食という奇人の好む劇薬をまぶし、それをブエノスアイレス食堂というレストランの盛衰記で彩ったのが本書といえる。

本書は赤ん坊であるセサル・ロンブローソが母を食するという衝撃から幕を開ける。衝撃の舞台となったのはブエノスアイレス食堂。なぜ食堂を名乗りながら母は餓死を余儀なくされたのか。なぜこの食堂が凄惨な場面の舞台とならねばならないのか。冒頭から読者を惹きつける本書は、そこから歴史を一気に遡る。そして、食堂の歴史とアルゼンチンの歴史を糾える縄のように描きながら、現代へと至る。

食堂を開いたカリオストロ兄弟が著した、南海の料理指南書。この料理本を軸に旨そうな料理の数々が本書では登場する。アルゼンチンへとイタリアからの移民が押し寄せ、華麗なるバンドネオンの音色がタンゴのリズムを奏でる中、第一次大戦にあってアルゼンチンは好況を享受する。そして好況とともに食堂は繁栄を極める。しかし、アルゼンチンの好況は長くは続かない。度重なるクーデターや内戦、第二次大戦後のナチス高官達の秘密裏の亡命やフアン・ペロン政権とエビータ体制の終焉など、アルゼンチンは世界の近代化に逆行して徐々に衰えてゆく。本書は、近代アルゼンチン史を一巻の絵巻物で傍観させられているかのようだ。しかし、本書はアルゼンチンの歴史書ではない。あくまでブエノスアイレス食堂の歴史書である。退廃を極めては、一転して閑散とする食堂の栄枯盛衰。それをアルゼンチンの歴史のうねりに絡めながら、そこに集う人々の営みとして描く。さながら、ブエノスアイレス食堂という共同体の視点から、アルゼンチンという国を描いているのが本書といってもよいだろう。

美食といえばフランスがまず頭に浮かぶ。しかし、フランス料理も元を辿ればイタリア料理を源としていることはよく知られている。同じように、南米のアルゼンチンにイタリア料理が花開く本書は、一つの文化が伝播していき、そこで消え細っていく様を描いているかのようだ。カリオストロ兄弟の料理指南書には確かに人肉食が究極の料理として描かれている。しかし自家中毒のように子を母が食べるという営みは、究極もよいところで、もはやその先の希望がない行為だ。

フランスでは文化として認められた料理が、アルゼンチンではなぜ人肉食という奇形に堕ちるのか。少なくとも人間の死肉を赤ん坊に食べさせるといった冒頭のシーンはアルゼンチンの歴史に対する重大な侮辱になっている気がしてならない。ナチス残党の逃げ込み場として知られるアルゼンチンを、著者は退廃した文化の吹き溜まりとして書こうとしたのだろうか。または、ゆっくりと熟し腐ってゆくアルゼンチン文化に対する強烈な風刺として本書は著されたのだろうか。であるならば、赤ん坊とネズミに食べられ骸骨となる母の姿は、アルゼンチンにとって痛烈な予言に他ならない。

私はアルゼンチン文化の愛好家とまではいかないが、常々好意的に見ている。キラ星のようなサッカーのスター選手達。ラテンアメリカ文学の数々の巨匠たち。タンゴの魅惑的で軽快なリズム。地球の裏側の国という一番日本からは地理的に遠い国だが、心理的な距離は逆に近しいものとして受け止めている。アルゼンチン文化にはまだまだ世界を驚嘆せしめるだけの成果を産み出して欲しいと思うのは私だけではないはず。かつて文化的に成熟した国の成れの果てが、飢え乾いた自家中毒の如き人肉食なのはあまりにもさびしい。

‘2015/7/3-2015/7/6


食堂かたつむり


本書は実際に読んだほうがいい。読んで、じっくりと味わったほうがいい。そして、食べることの意味をかみしめた方がいい。本書はそんな小説だ。

インド人の彼氏にある日突然捨てられた倫子。ふるさとに帰り、私生児として産んでくれたものの、心が全く通わない母の家で居候し、食堂をオープンする。

その食堂の名は、食堂かたつむり。

振られたショックで話せなくなった彼女は、母の愛豚エルメスの飼育をしながら、豊富な食材と素朴で温かみのある里の人々に支えられ、一日一組限定で心のこもった料理を作る。それこそ全身全霊を掛けて。ずっと守り続けていた祖母からの糠床を基本に、メニューもないまま、その日の食材によって料理を変える。おもてなしは素朴だが、食べものへの感謝の気持ちが詰まった料理はやがて評判を呼び・・・という内容だ。

料理を作ること。料理を食べること。人が生きるということは突き詰めて行けばそれしかない。情報だ、地位だ、名誉だという前に、人はまず物を食べる。それによって人は生きる。あるいは生かされる。生きるためには限りある命を奪い食材とする。それを人は原罪と呼ぶのだが、本書は現在という重いテーマを問う前に、何よりもまず生きるということの根源を見つめる。生きるとは活きるに通じ、生かされるとは活かされるに通じる。

単なるグルメに堕さず、料理が人を幸せにするということの意味、料理を食べるという営みにはこんなに素晴らしいストーリーが流れているのだよ、という著者の想いが伝わってくる。

だが、そんなじっくりとした歩みは、終盤から結末へ掛けて急展開を見せる。怒涛のような勢いで進んでゆく筋。急ぎ足になるあまり、お涙ちょうだい的な作りになってしまったことは否めない。こういう展開もはまる人にははまるのだろう。だが、折角ここまでじっくり弱火でトロトロと煮込みつつ育ててきた物語は、結末に至るまでじっくりと料理して欲しかった。とろとろと煮込んだ料理を最後の最後になって強火で油を注ぎ、フランベしたら焦げが付いてしまった。私にとってはそういう読後感だった。途中までが良い感じだったので、そこが残念。

ただ、救いなのは急展開の中にあっても、語り口はあくまでスローな風味を失わなかった。前半のゆっくりじっくりとした語り口に浸れるものならいつまでも浸っていたい。そう思わせる魅力が本書にはある。そのゆるりとした流れの中で、じっくりと自らの人生の意味に思いを馳せたい、と思わせるだけの魅力が。そして、本書からは今自分が生きていられることの喜びを感じ、生かされていることの意味を知りたい、とまで思わせられる。

生きるということは綺麗ごとだけでない。残酷さや汚さや不条理もある。しかし、それでもなお人は物を食べる。食べて生きる。本書は決してメルヘンチックなほのぼの物語ではない。が、生きるだけではなく活かしたい。生かされるだけでなく活きたい、というメッセージが込められている。それが本書である。

できれば、結末の急展開を終えた後は、もう一度最初から読みなおすことをお勧めしたい。

‘2015/6/8-2015/6/11