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ウォンカとチョコレート工場のはじまり


年末の30日に家族で四人揃って本作を見た。

うちの家族は、昔から『チャーリーとチョコレート工場』が好きだ。
私も何度も観た。おそらく、4、5回は。

私の経験を踏まえて本作についてのレビューを本稿にまとめた。
絶賛上映中なので、本稿ではまだ観ていない方の興を削がないように配慮する。
配慮するつもりだが、本作の内容について語るので、本稿のつづきは劇場で観てから読んだ方が良いと思う。
本作は『チャーリーとチョコレート工場』の世界観を踏襲し、ウィリー・ウォンカがチョコレート工場を作るまでを描いている。

なお、本作を観た後、家族で1971年に公開された映画『夢のチョコレート工場』も観た。
『夢のチョコレート工場』は原作者のロアルド・ダールが存命中に公開されたため、原作の世界観を踏襲しているのは明らかだ。
『チャーリーとチョコレート工場』は『夢のチョコレート工場』とシナリオや登場人物がほぼ同じ。正統なリメイク版として『チャーリーとチョコレート工場』がある。ただし、リメイクにあたってはいくつかの設定が変更されている。
それを踏まえ、本稿ではジョニー・デップがウィリー・ウォンカを演じた『チャーリーとチョコレート工場』とジーン・ワイルダーがウィリー・ウォンカを演じた『夢のチョコレート工場』の違いにも言及する。

大きく設定が変更されているのはウンパルンパの扱いだ。
『夢のチョコレート工場』では、鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪がウンパルンパの外見的な特徴として描かれていた。ウンパルンパのテーマを歌いながら踊る姿はとてもコミカル。
「ウンパルンパ ドゥンパティ ドゥ♪」とうたいながら踊るさまはまさに愛すべきキャラクターだ。

ところが、『チャーリーとチョコレート工場』でディープ・ロイが演じたウンパルンパのイメージは一新されている。最新技術を使って約160名の全員が同じ顔で踊るインパクトもさることながら、その踊りと歌に込められたブラックなシニカルさが洗練され、映画のインパクトに華を添えていた。
『夢のチョコレート工場』の素朴なウンパルンパが『チャーリーとチョコレート工場』の洗練されたウンパルンパに変わることで、ブラックな面白さがより強調されていたように思う。

本作のいくつかの設定、特にウンパルンパの外観は『チャーリーとチョコレート工場』より『夢のチョコレート工場』に近い。
つまり、原作者が想定していた世界観により忠実だと思う。

本作でヒュー・グラントが演じるウンパルンパも、登場シーンでウンパルンパのテーマを歌い踊る。鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪を持つより原作のイメージに近い外見で。

本作に登場するウンパルンパは、ほぼヒュー・グラントによる一人のみだ。
160名のウンパルンパのインパクトには劣るが、ヒュー・グラントがもともと持っているシニカルでブラックなユーモアがうまく活かされていて、それが面白さになっていたと思う。
とても素晴らしいウンパルンパの再解釈だと思う。

ただし、本作にはブラックでシニカルな原作の良さがあまり感じられなかった。ヒュー・グラントが扮するウンパルンパだけがそれを体現していたように思う。
むしろ、ブラックでシニカルなユーモアを体現していたのが、『チャーリーとチョコレート工場』ではウィリー・ウォンカで、ウンパルンパは無表情で歌い踊ってウィリー・ウォンカのブラックな側面を強調していた。本作ではウィリー・ウォンカからブラックでシニカルな部分が姿を消し、その点を受けついだのがウンパルンパだったともいえる。

『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』には、善と悪といったわかりやすい構図がない。むしろ、主人公のウィリー・ウォンカのつかみどころのなさこそが、作品全体の特色だ。
ウィリー・ウォンカは何を考え、登場人物はどこに連れて行かれるのか。そこにドラマの興味は絞られていた。

ところが、ティモシー・シャラメが演じる本作のウィリー・ウォンカは夢をもち、希望を語り、マジカルな能力とそこから作り出す魔法のチョコを使って人々を魅了する善人として描かれている。
カルテルを組んで街のチョコレート流通を支配し、ウィリー・ウォンカを抹殺しようとする三人組やチョコレートで三人組に籠絡される悪辣警察署長が悪で、それに対するウィリー・ウォンカという構図。そのため、ブラックでシニカルな面白さが善と悪の二元構造によって薄められてしまっており、原作の持つ面白さを体現していたのがウンパルンパのみだったのが残念な点だ。

ただ、本作の悪役陣はどこか憎めない存在として描かれていた。例えば本作では、悪役たちも歌い踊る。
『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』の違いは、ウンパルンパ以外の登場人物も歌って踊る点だ。
本作は登場人物たちも歌って踊る。その点でも『夢のチョコレート工場』に回帰していたように思う。

悪役たちにもスポットライトを当てていて、特に登場する度に太っていく悪辣警察署長はコミカルの極み。
また、ウィリー・ウォンカを始めとする6人を契約の罠で閉じ込め、洗濯部屋でこき使うミセス・スクラビットとプリーチャーも憎めない悪役として描かれている。

登場人物の肌の色も含め、本作の善と悪も二元的に描かれてはいるものの、総じてなるべく多様性を配慮した作りになっている。

ただし、原作の世界観に忠実なのが本作であるものの、原作に合った肝であるブラックでシニカルな面白さが欠けている以上、その点で私は辛い点をつける。

ついでに言うと、ウィリー・ウォンカが持つマジカルなチョコレート作りの秘密こそが本作でも大きな興味を抱く点だったにもかかわらず、その能力をどこで手に入れたのかが描かれておらず、これも物足りなさを感じた点だ。
ひょっとしたら、ウィリー・ウォンカがそうした能力を身に付けていくいきさつだけでも一本物の映画が作れるのかもしれない。が、できれば本作でもそのあたりがもっと描かれていたらよかったのに、と思った。

ただ、それだと本作について辛く言うだけで終わってしまう。ここで、本作の良さを取り上げたい。
本作はチョコレートと言う誰もが憧れる夢の食材をマジカルに描き、それをミュージカルが持つ音楽の楽しさに乗せたことが魅力になっている。ブラックかつシニカルなユーモアは本作では強調されていないと割り切ったほうがよい。
つまり、原作がどうとか『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』との違いや受け継ぎ方をあげつらうことは本作を鑑賞する上ではむしろ邪魔だ。
本作は独立した作品として観ることで、楽しい余韻だけを感じた方がよいと思う。
なお、チョコレートがきっと食べたくなるはず。

‘2023/12/30 109シネマズグランベリーパーク


ほら男爵 現代の冒険


著者の作品を読むのは久しぶりだ。

しかも本書は多数のショートショートを集めたものではなく、長編小説の体裁をとっている。
私は今までに著者の長編小説を読んだ記憶が思い出せない。ひょっとしたら初めてかもしれない。

ほら男爵。シュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵の異名だ。
高名なミュンヒハウゼン男爵の孫だ、と自ら名乗るシーンが冒頭にある。
私はミュンヒハウゼン男爵の事を知らなかったが、この人物は実在の人物であり、Wikipediaにも項目が設けられている。

18世紀のドイツの人物で、晩年に人を集めて虚実を取り混ぜて話した内容が『ほら吹き男爵の冒険』として出版され、いまだに版を重ねているようだ。本書は、それを著者が新しく翻案し、孫のシュテルン・フォン・ミュンヒハウゼン男爵を創りだし、冒険譚として世に送り出した一冊だ。

著者は、かつてSF界の御三家と言われた。
SF作家の集まりでも奇想天外なホラ話を披露しては、一同を爆笑の渦に巻き込んでいたと言う。
ショートショートの大家としても著名だが、ホラ話の分野でも第一人者だったようだ。

そうであるなら、著者がドイツのほら男爵の話を書き継ぐのはむしろ当然といえる。

本書は四つの章に分かれている。ほら男爵が奇想天外な冒険をサファリ、海、地下、砂漠で繰り広げる。

それぞれの場所で時間も空間も無関係にさまざまな人物や物が登場し、出来事が起こる。それはもう想像力の許す限りだ。
鬼ヶ島に向かう桃太郎に遭遇し、ギリシャの神々と仲良くなる。幽霊船に乗れば人魚がくる。さらには不思議の国のアリスやドラキュラ伯爵まで。ニセ札をばらまく犯罪者が現れ、東西の首脳は茶化される。現代の文明が発明したはずの事物が実は古代のピラミッドの下に埋められたタイムカプセルにある。
もう、やりたい放題だ。
古今東西のあらゆる空間と時間が混在し、著者の思うがままにほら男爵の冒険は続く。

本書の内容は決して難しくない。むしろ、子どもでも読めると思う。
もともと、著者は読みやすい小説を書く。それは長編でも変わりないようだ。
長編であってもショートショートと同じテンションで書くには苦労もあっただろう。だが、著者は本書にも次々にエピソードを繰り出し、読みやすい作品に仕上げている。

ただし、本書には毒が足りない。著者のショートショートは風刺に満ちていて、考えさせられるものが多い。
だが、本書の毒とはより広い範囲に及んでいる。それは、人々が常識に囚われる様子を笑う毒である。

あらゆる常識、知識、思い込み、考え方。
人が囚われる思い込みにはいろいろある。

それは、教育と文明の進展によって人々が備えてきた叡智だ。
教育によって人々は知識を蓄え、常識を身につけてきた。
それが現代文明の根幹を支えている。

だが、それによって奪われたのが人間の想像力の翼ではないだろうか。
本書は1960年代の終わりに発表された。つまり、日本の高度経済成長期の真っ只中だ。大阪万博を翌年に控え、公害が日本のあちこちを汚している頃。科学万能の信仰がピークを迎え、行きすぎた科学の力がまだ自然を汚染するだけで済んでいた頃。
人の生き方や働き方に深刻な影響はなく、皆がまだ右上がりの成長を信じ、それを望んでいた頃。
ところが著者はその時、想像力の枯渇を予期していた。そしてそれを風刺するかのように本書を著した。

人々の行動範囲は文明の進展によって広くなり、世界は狭くなった。時間のかかる仕事は少しずつ減り、人々のゆとりが少しずつ生まれてきた。
ところが、本書が著された頃からさらに未来のわれわれは、相変わらず不満を訴え欲望の行き場を探している。そして、想像力は枯渇する一方だ。

かつては、夜になれば火の明かりだけが頼り。あらゆる娯楽は会話の中だけで賄われていた。話を聞きながら、人々はそれぞれの想像力を働かせ、楽しみを心の中に育んでいた。
ちょうど、ミュンヒハウゼン男爵が人々に語っていたように。

そのような昔話やおとぎばなしが世界中のあちこちで語られ、現代に受け継がれた。
なぜ受け継がれたのか。それは、物語こそが人々にとって大きな娯楽だったからだ。
今やそれが失われ、人々は次々に注ぎ込まれる娯楽の洪水に飲み込まれている。そして、想像力を働かせるゆとりすら失いつつある。

著者はそれを予見して本書を描いたのではないだろうか。
ほら男爵の時代に立ち返るべきではないかと。

本書が発表されてから五十年以上が過ぎた今、豊かなはずの人々は満たされていない。生きがいを失って死を選ぶ若者がいる側で、いじめやパワハラが横行している。誰もが持て余した欲望のはけ口を他人や環境にぶつけ、自らの不遇を社会のせいにしようとしている。

人の心の動きは外からは把握できない。心の中で何を想像しようとも、それは他人には容易には悟られない。想像力を働かせればその限界はない。時間や空間を気にせず、あらゆる場所であらゆる事ができる。想像力こそが、人に残された最後の自由なのかもしれない。
その世界では自らを傷つける人はいない。空も飛べるし地下にもぐれる。本書に描かれたような奇想天外な人や出来事にも出会う事だって可能だ。

想像力は自らを助けるのだ。

本書のように一度自分の中で好き放題に想像してみよう。
そして借り物の世界ではなく、自分だけの物語を紡ぎだしてみよう。
その時、何かが変わるはずだ。

‘2020/04/28-2020/04/30


ジーヴズの事件簿 才知縦横の巻


本書は妻がはまっていた。面白そうなので私も貸してもらった。
実際、とても面白かった。

私は無知なことに、本書の主人公ジーヴズや著者の存在を知らなかった。かつてイギリスの推理小説はいろいろと読んだが、その時もジーヴズのことは知らずにいた。
私の知らない面白い本は無数に世の中にある、ということだろう。

本書は完全無欠の執事ジーヴズが、快刀乱麻を断つがごとく、さまざまな事件の謎を解いていくのがパターンだ。
軽快にしてスマート。すいすいと読めてしまう。
かつて、英語圏の諸国でジーヴズのシリーズは好評を博し、著者やジーヴズも良く知られていたという。
紳士淑女が就寝の前、読む友として最適だったのだろう。
ジーヴズのシリーズはわが国でも国書刊行会から出版されているし、本書のように改めて編まれて文庫に収められている。
一世紀近く前の外国のユーモア小説など、無数に出版物があふれる今、忘れられてもおかしくない。それなのに、本書は今もこうして手に取ることができる。
そうした人気のほども本書を読むとわかる。とにかくわかりやすく、面白く、後味も爽やかなのだ。

本書を読むと、妻が以前にはまっていた漫画『黒執事』を思い出す。とはいえ、『黒執事』と似ているのは執事が完璧ということだけ。
ジーヴズは『黒執事』に出てくるセバスチャンのように超常能力を持つ執事ではない。
ジーヴズはあくまでも普通の人間である。いたって慇懃で、そつなく物事を処理できる。頼りない主のウースター・バーティからの頼みもあっという間にこなしてしまう。
しかも、ただ従順というだけではない。
主のバーティの頼みをすげなく断ったり、無視したりもする。そうしたジーヴズの取った措置が回りまわってバーティにとって有利な結果となる。そんなジーヴズにほれ込んで、バーティはますます頼ってしまう。
そんな執事ジーヴズが、身の回りのあれこれの難事をスマートに処理する様子は読んでいて気持ちが良い。さらにバーティとジーヴズのやりとりもとても洗練されている。そうしたユーモア精神にあふれていることが本書の読みやすさの肝だろう。

また、本書にはむごい描写も残忍な心の持ち主も出てこない。
そのかわりにあふれているのはユーモアだ。本書の語り口やユーモアは本書の魅力として真っ先にあげられる。
著者はそもそもユーモア小説の大家として名高いというが、本書を読んでそれを納得した。

本書は20世紀初頭に出された多くのジーヴズの短編を選りすぐっているという。

時代が時代だけに、本書の舞台や登場する小道具も古めかしいはず。だが、本書からはあまりそうした古さを感じない。
この時代だから当然、現代で慣れ親しんだ事物は登場しない。旅をする際はせいぜい鉄道だ。ジェット機は登場しない。ましてや携帯もスマホも登場しない。
それなのに、本書から古さを感じない。それはなぜだろう。

まず一つは当時の最先端のファッションや道具を強調していないことが理由としてあげられる。当時の最先端は現代では骨董。
だから、当時の最先端の品々を登場させることはかえって後世では逆効果になる。それを著者や編者は承知しているのだろう。

もう一つは、本書がユーモア小説ということだ。つまり人間の弱さや滑稽さを描いている。
そうした人間の心は百年、二百年たとうが変わらない。
本書はそうした人間のユーモアを描いているから古びないのだと思う。

一方で、本書のバーティとジーヴズの関係のように、主と執事という関係自体がすでに時代遅れではないかという懸念もある。
だが、執事という職業になじみのないわが国でも執事のような職業はあまたの作品で見慣れている。
前述した『黒執事』もそうだ。また、第二次大戦前の華族や富豪を描いたわが国の作品にはかならず使用人が登場する。
今でこそ、使用人やお手伝いさんといった職業はあまり見かけない。とはいえ、秘書や運転手など、執事を思わせる職についている方は多い。
そうした職業が今でも健在である以上、本書のバーティとジーヴズの関係もあながち不自然には思えない。それが本書やジーヴズの一連のシリーズに古さが感じられない理由ではないかと思う。

また、バーティとジーヴズの関係も本書をユーモア小説と思わせる魅力を発している。
ジーヴズに家事や身の回りの世話を任せきりのバーティだが、居丈高にならず、ジーヴズへの讃嘆を惜しまない。まず、そのように描かれるバーティの性格に好感が持てる。主なのに威厳などどこかにうっちゃったバーティだからこそ、私たちも共感を覚えやすい。
そのバーティから頼りにされるジーヴズも、完璧な立ち居振る舞いをそつなくこなす。主のバーティにいうべきことはいうが、執事としての節度をわきまえ、慇懃に応対する。
その落差が本書のユーモアの源だろう。

本書は七編の短編からなっている。
どの編も短い。その中でジーヴズとバーティのほほえましい主従関係が簡潔に描かれ、さらにその中では謎や事件が起こり、さらにそれがジーヴズの才知縦横の活躍によって軽やかに解決される。それらが気軽に読めるのは、本書の入門編としての良い点だろう。
編者もそれを狙って本書を編んだものと思われる。

本稿では各編について、あまり詳しいことは書かない。だが、引き続きこの二人の活躍する物語を読みたい、という気にさせられるのは間違いない。

著者の生み出したジーヴズものが英語圏でとても親しまれている様子は、本書の末尾に英国ウッドハウズ協会機関紙『ウースター・ソース』編集長の方が寄稿された内容からも明らかだ。
「ご同輩、あなたはついていらっしゃる」とはその冒頭に掲げられた文だが、ジーヴズの口調を借りたと思われるこの文章からは、著者の作品群にこれから初めて触れることのできる読者へのうらやましさすら感じられる。

ジーヴズものは長編も含めてまだまだあるらしい。私も機会があれば読んでいきたいと思う。

‘2019/12/1-2019/12/2


心のふるさと


今までも何度かブログで触れたが、私は著者に対して一方的な親しみを持っている。
それは西宮で育ち、町田で脂の乗った時期を過ごした共通点があるからだ。
また、エッセイで見せる著者の力の抜けた人柄は、とかく肩に力の入りがちだった私に貴重な教えをくれた。同士というか先生というか。

タイトル通り、本書で著者は昔を振り返っている。
すでに大家として悠々自適な地位にある著者が、自らの活動を振り返り、思い出をつづる。その内容も力が抜けていて、老いの快適さを読者に教えてくれる。

冒頭から著者は自らのルーツに迫る。
著者のルーツは岡山の竹井氏だそうだ。竹井氏にゆかりのある地を訪ね、自身のルーツに思いを馳せる内容は、まさに紀行文そのものだ。

続いて著者は、若き日の思い出を章に分けて振り返る。
著者がクリスチャンであることはよく知られている。そして、当社が幼い頃に西宮に住んでいたことも。
西宮には夙川と言う地がある。そこの夙川教会は著者が洗礼を浴びた場所であり、著者にとって思い出の深い教会であるようだ。
そこの神父のことを著者は懐かしそうに語る。そして著者が手のつけられない悪童として、教会を舞台にしでかした悪行の数々と、神父を手こずらせたゴンタな日々が懐かしそうに語られる。

また、著者が慶応で学ぶなか、文学に染まっていった頃の事も語られる。同時に、著者が作家見習いとして薫陶を受けてきた先生がたのことも語られていく。
その中には、著者が親交を結んだ作家とのエピソードや、他の分野で一流の人物となった人々との若き日の交流がつぶさに語られていく。

「マドンナ愛子と灘中生・楠本」
本書に登場する人物は、著者も含めてほとんどが物故者である。
だが、唯一存命な方がいる。それは作家の佐藤愛子氏だ。
90歳を過ぎてなお、ベストセラー作家として名高い佐藤愛子氏だが、学生時代の美貌は多くの写真に残されている。
この章では、学生の頃の佐藤愛子氏が電車の中で目を引く存在だったことや、同じ時期に灘中の学生だった著者らから憧れの目で見られていたこと。また佐藤愛子氏が霊感の強い人で、北海道の別荘のポルターガイスト現象に悩んでいたことなど、佐藤愛子氏のエッセイにも登場するエピソードが、著者の視点から語られる。

「消えた文学の原点」と名付けられた章では、著者は西宮の各地を語っている。書かれたのは、阪神・淡路大震災の直後と思われる。
著者のなじみの地である仁川や夙川は、阪神・淡路大震災では甚大な被害を被った。
著者にとって子供の時代を過ごした懐かしい時が、地震によってその様相をがらりと変えてしまったことへの悲しみ。これは、同じ地を故郷とする私にとって強い共感が持てる思いだ。
本編もまた、私に著者を親しみをもって感じさせてくれる。

本書を読んでいて思うのが、著者の交流範囲の広さだ。その華やかな交流には驚かされる。
さらに言えば、著者の師匠から受けた影響の大きさにも見るべき点が多々ある。
私自身、自らの人生を振り返って思い返すに、そうした師匠にあたる人物を持たずにここまで生きてきた。目標とする人はいたし、短期間、技術を盗ませてもらった恩人もいる。だが、手取り足取り教えてもらった師匠を持たずに生きてきた。それは、私にとって悔いとして残っている。

別の章「アルバイトのことなど」では、著者が戦後すぐにアルバイトをしていた経験や、フランスのリヨンで留学し、アルバイトをしていたことなど、懐かしい思い出が生き生きと描かれている。かつて美しかった女性が、送られてきた写真では、おばあさんになってしまったことなど、老境に入った思い出の無残が、さりげなく描かれているのも本書にユーモアと同時に悲しみをもたらしている。

また別の章「幽霊の思い出」では、怪談が好きな著者が体験した怪談話が記されている。好奇心が旺盛なことは著者の代名詞でもある。だから、そんな好奇心のしっぺ返しを食うこともあったようだ。
私に霊感は全くない。ただ、好奇心だけはいまだに持ち続けている。こうした体験を数多くしてきた著者は羨ましいし、うらやましがるだけでなく、私自身も好奇心だけは老境に入っても絶対に失いたくないと強く思う。

他の章には、エッセイが七つほどちりばめられている。

「風立ちぬ」で知られる堀辰雄のエッセイの文体から、「テレーズ・デスケルウ」との共通点を語り、後者が著者にとって生涯の愛読書となったことや、堀辰雄やモウリヤックの作品から、宗教と無意識、無意識による罪のテーマを見いだし、それが著者の生涯の執筆テーマとなったことなど、著者の愛読者にとっては読み流せない記述が続く。

また、本書は著者の創作日記や小説技術についての短いエッセイも載っている。
著者のユーモリストとしての側面を見ているだけでも楽しいが、著者の本分は文学にある。
その著者がどのようにして創作してきたのかについての内容には興味を惹かれる。
特に創作日記をつける営みは、作家の中でどのようにアイデアが生まれ育っていくかを知る上で作家への志望者には参考になるはずだ。

著者は、他の作家の日記を読む事も好んでいたようだ。作家の日々の暮らしや、観察眼がどのように創作物として昇華されたのかなどに興味を惹かれるそうだ。
それは私たち読者が本書に対して感じることと同じ。
本書に収められた著者のエッセイを読んでいると、一人の人間の日常と創作のバランスが伺える。本書を読み、ますます著書に親しみを持った。

‘2019/7/21-2019/7/21


日本列島七曲り


これこそ著者の毒がそこいらにまかれたスラップ・スティックの宝の山だ。

著者にかかればタブーなどどこ吹く風。性も英雄も深刻な事件も政治も茶化してしまう著者の悪ノリが盛り込まれている。

「誘拐横丁」
複数のご近所家族が子どもを誘拐しあうぶっ飛んだ内容の短編。
ご近所同士で子を奪い合い、金をよこせとお隣さんの間で金が飛び交う。
そんな狂った関係も本当の殺戮につながらず、最後は乱交パーティーに突入するあたりが、本編のユーモラスな後味につながっている。
そこには著者の根本の人の良さが垣間見える。

「融合家族」
一つの家屋を奪い合った結果、二組の夫婦が標準的な広さの家屋に無理やり同居する話。
片方の家族の居間がもう片方の家族の使う台所で、片方の家族の玄関はもう片方の家族の夜の寝室を使う。しかもお互いを意識しつつ無視しながら。
こんなこんがらがった設定は小説ならでは。本編こそ映像化できない作品といえるのではないか。そして著者のすごさが堪能できる作品だと思う。
ちなみに本編も最後は乱交パーティーに突入する。

「陰悩録」
本書を読む一カ月前に訪れた世田谷文学館の筒井康隆展で、数作品の拡大された生原稿のすべてが壁に掲げられていた。
「関節話法」「バブリング創世紀」と並んで本編も。
ひらがなを主体に記された本編は、ユーモアを失わずにオチで読者を驚かせる。その点からも著者の名作の一つである事は言うまでもない。
おそらくは著者が入浴した際にひらめいたのだろうけど、そこから本編にまで発想をふくらませられたことがすごい。

「奇ツ怪陋劣潜望鏡」
人の心に潜む欲望が妙な幻覚として日常をむしばんでいく様子が描かれている。妙な幻覚とは、抑圧された性への渇望を抱えたまま結婚したあるカップルに起こる。
具体的には潜望鏡の形をとって日常のあらゆる場所に登場する。
今から思うと、よくありがちなネタなのだろう。だが、無意識の現れなど随所に著者の心理学の知識が現れているのが面白い。
もっとも、本編が前提としている性の抑圧は、ネット上でいくらでも性的な発散ができる現代では通用しない気もするが。

「郵性省」
これまた性のエネルギーについて。
オナニーによってテレポーテーションができる能力を身につけた益夫の物語。
男子の、しかも高校生の性のエネルギーはかなり高そう。だから、本編のような突き抜けた物語もあながち夢物語には思えない。
それにしても著者の突き抜け方はさすがと言うしかない。着想からの展開の広がりは、著者の感嘆すべき点だ。
本編はオチも秀逸。

「日本列島七曲り」
表題作。発表された当時、盛んだったハイジャックを風刺している。
こうした深刻な事件も著者の筆にかかれば、スラップ・スティックの格好の題材になる。実際、思想のために飛行機を乗っ取る行いなど、悪い冗談でしかない。9.11でワールドセンタービルに飛行機が突っ込む瞬間を中継で見ていた私は、なおさらそう思う。
本編を不謹慎というのは簡単だが、テロ行為をこうした手法で批評したっていいじゃないかと思う。

「桃太郎輪廻」
桃太郎という誰もが知る童話も著者が翻案すると、悪趣味な内容へと早変わり。
桃太郎だけでなく、グリム童話の名作も取り込んだ内容は、童話のほのぼの感とは無縁。
本能のままに突き進んだ桃太郎一行がやらかす悪事は、童話として中和され薄められた物語の元となった逸話がもっとギラギラとヤバかった事を思わせる。
本編のオチは有名な桃太郎の冒頭シーンにきっちりと輪廻させていて、そうした部分に著者の着想のすばらしさを感じる。

「わが名はイサミ」
メタキャラとして著者が顔を出しまくる本編は、新撰組局長の近藤勇を茶化しまくっている。歴史上の英雄だろうが知ったことか、とばかりに。
勝沼の戦いに赴くまでに甲陽鎮撫隊が連日宴会を繰り返しながら進軍し、新政府軍に先に甲府城を押さえられた失態は史実に残されている。その史実をモチーフに、近藤勇の人物を徹底してけなしている。
まったく、著者にはタブーなどないのか、と思いたくなる。

「公害浦島覗機関」
本編は著者の作品の中でも上位に挙げられるべき作品ではないかと思う。
ホテルの中にある謎の空間の存在に気づいた主人公。
空間からは二つの部屋がのぞける。部屋の様子から、どうも空間の中は周囲に比べて時間の進みが遅くなるらしい。
客室の一つでは首都から人を追い出すため公害を促進しようと画策する政治家が指示を出している。その政策が功を奏し、人が住めないレベルにまで大気汚染が進む。ところが人は首都圏にしがみつき続けそして。
作品のオチが見事。

「ふたりの秘書」
二人の女性の秘書に二股をかける社長のドタバタ。
著者にはフェミニストを敵に回す作品がいくつかあるが、本編もその一つ。
見えと虚栄と相手との比較に余念がない女性の一面を、二人の秘書を描くことで表現している。
ロボット秘書もチラッと登場させることで、人間の人間臭さを揶揄しつつ、人間のおかしみを出すあたり、著者の人の良さがわずかに見える気がする。

「テレビ譫妄症」
テレビ評論家が大量のテレビを見ているうちに、現実との境目が曖昧になっていく様が描かれている。
これはありがちな設定かもしれない。だが、数日間ぶっ通しでオンラインゲームをして死ぬ若者が報道される今、違う意味で現実味を持って迫ってくる。
VRやARなどが私たちの暮らしに身近になってきた最近では。

‘2018/11/08-2018/11/09


宇宙衞生博覽會


本作は、著者が発表してきた著作の中でも、屈指の短編集だと思う。著者が生み出した短編は膨大にあるが、ファンによってその中から人気投票を行ったとする。多分、その中には本書に納められた短編がいくつも入るに違いない。

例えば「関節話法」。著者の短編の中でも大好きな一編だ。本書に収められている。「関節話法」が著者の短編の中で傑作に数えられていることは、本書を読む少し前に世田谷文学館で開催された筒井康隆展において、パネル上に著者直筆の原稿を拡大した「関節話法」の全編が展示されたことからも確信できる。今まで「関節話法」には何度も笑わされてきたが、この時も巨大な原稿を読みながら、笑いが堪えられなかった。

本書にレビューは不要。ただ読んでください、とお勧めすればいい。あとはハマってもらうだけ。ところが、こういう世界にハマるであろう長女に貸したところ、読んだ様子がない。著者が原作を書いた「パプリカ」は好きなはずのに。情報があふれている今、私がキュレーターとなって本書を紹介する必要を感じた。ほとんどの人にとって、ドラマ化や映画化されていなければ、読むきっかけにならないのだ。著者で言うと、「時をかける少女」「家族八景」「富豪刑事」のような。

本レビューを書くために本書をいったん長女から返してもらい、各編を紹介してみる。

「蟹甲癬」
これも私の好きな一編だ。小林多喜二の「蟹工船」といえば、プロレタリア文学の金字塔でありながら、虐殺事件のイメージもあって陰惨なイメージが強い。著者はそのタイトルから、これだけ全く違う傑作を作り上げてしまった。人の顔に疥癬ができ、それがカニの甲羅っぽくなる、という着想。さらにその内側にカニミソに似たうまいものが付着し、人々はこぞってそれを食べるように。ところが、、、、。

もう、着想の天才としか言いようがない。今はあまりみないが、ハナクソを食べる子供は人々の嫌悪の対象となっている。本編はその発想を延長し、極上の一編にしている。短編の理想にも思えてしまう。

「こぶ天才」
コブといえば、奇型の象徴にみられがち。それを、子供の教育に奔走する教育ママのヒステリーと掛け合わせている。付着させ、寄生させることで、天才になれるという寄生生物。コブをつければ容姿は醜くなるが、そのかわりに天才になれる。嫌がる我が子につけようとする教育ママの醜さが描かれる。ところが、、、、

その結果、どうなったか、という結末が著者の風刺精神を全開にしていて、面白い。本編はオチが秀逸ことでも印象に残る。

「急流」
著者が江戸川乱歩に認められたのが「お助け」であることはファンには有名な話だ。自分以外、時間の進み方が遅くなった世界を描いた作品だ。本作は逆に全世界の時間が加速度的に速くなる様子を描いている。ドラえもんのエピソードでも似たような話があった気もするし、本編のアイデアは古典的にすら思える。国外には似たような話がないのだろうか。もし本作が同様のネタの嚆矢だとすれば、すごいことだと思う。

著者の多彩な作風を支えるのはSFであり、スラップ・スティックだ。その典型が本編で読める。

「顔面崩壊」
本編もまた、著者の悪趣味な毒が全開の快作だ。普段、誰もが見慣れている顔面。ただでさえ整っているのに、ご丁寧に化粧までする。だが、そんな顔も河を一枚はがすと、恐ろしい形相へと。そんな見た目にだまされず、著者の観察眼は本質をさらけだす。そこに笑いは生まれ、それが私たちの普段の認識から遠ざかるほど、笑いは増してゆく。

本編も、語り方や落ちにいたるまで、著者が短編の巧者であることを味わえる一編だ。

「問題外科」
本編は既存の倫理を笑い飛ばす著者の真骨頂だ。倫理もへったくれもない、とある病院の外科。医術とは倫理があってこそもの。倫理や職業意識が失われた外科は、なまじ道具も技術もあるだけ始末が悪い。ヨーゼフ・メンゲレや七三一部隊の手術室にアルコールを充満させたらこんな風になるだろうか。本編に描かれたような振り切った毒々しさこそが著者の素晴らしさだと思う。

笑いとは、既存の価値観を崩した先にある。医は仁術。そんな価値観が跡形もなく壊されたあと、本編のような笑いが残る。

「関節話法」
冒頭に書いた通り、私にとって本編は笑い袋に等しい。言葉とは意味がつながってこそ。それが乱された時、本人が真剣であればあるほど、笑いは増大する。不謹慎なほどに。そういう笑いのエッセンスが全て本編には詰まっている。

間接を関節と読み替えるだけでここまでの物語を作り上げる著者には、本当に脱帽だ。尊敬する。

「最悪の接触」
これまたコミュニケーションの不条理を描いている。そしてそのシチュエーションは、SFという便利な道具を用いれば、自由自在に設定できる。SFの可能性を感じさせる一編だ。異星人とのコンタクトは、SFでは必須のプロット。これをここまでの笑いに変えられる著者の才能に、いつもながら尊敬する。もはや嫉妬できるレベルからははるかに超越している。

同じ人類でも、コミュニケーションの難しさを感じさせることがある。本編には、そうした絶望や達観もあるだろう。そこで諦めるず、鮮やかに笑いに変えられることに、著者の文学的な才能があるのだと思う。

「ポルノ惑星のサルモネラ人間」
著者の父上は、天王寺動物園の園長も務めた著名な動物学者だったという。その博物学の素養は著者にも受け継がれているはずで、著者の他の作品には博物誌と名がついたものもある。そうしたが医学な知識をSFに適用したらどうなるか、という見本のような一編だ。ここにもSFの装置を使うことで、無限の可能性が生まれる実例がある。

本稿をアップする数日前、同じ世田谷文学館で開催された小松左京展を訪れた。著者の肉声を聞くこともできた。そこで感じたのは、SFの限りない可能性だ。本書はSFの可能性が存分に感じられる。40年以上前に書かれたというのに。技術を追うことがSFではない。既存の価値観を取っ払えるからこそSFなのだ。

‘2018/10/16-2018/10/16


あさあさ新喜劇 「しみけんのミッションインポジティブ」


26、7年ぶりの吉本新喜劇。そらもうめっちゃおもろかった!ゲラゲラ笑って、夏の暑さを吹き飛ばす。これが関西のお笑いやねん! クーラーの効きが悪うてスンマヘン、と座長の清水けんじさんが謝ってはったけど、暑さも感じひんほど、笑った一日やった。もう満足満足。

終わった後は、楽屋口のコロラドの入り口で、妻の友人、佑希梨奈さんと立ち話。圧巻のアドリブの嵐やった舞台の興奮をまくし立てる私。このライブ感が笑いの原点やがな!と一人でツボに入りまくり。もちろん妻も大笑い。いやあ、よかったよかった!

と、ここで観劇レビューを終えてもええんやけど、せっかくなんで、もうちょい書いてみよかいな。

前回、私が吉本新喜劇を観たのは、私が大学一年生の頃。当時、私がアルバイトをしていたダイエー塚口店のバイト先の社員さんやパートさんたちとなんばグランド花月まで観に行った。本場の吉本新喜劇を前にゲラゲラ笑ったのをめっちゃ思い出す。

今回の帰省で妻は、賀茂別雷神社にお参りをしたいと望んでいた。そのため、最終日は家族で京都を訪れるつもりだった。ところが、この日照りの中、興味もない神社には行きたくないと娘たちは言う。なので急遽、妻と二人きりの旅が決まった。そんな時、妻がFacebookで見かけたのが、妻の友人である佑希梨奈さんの書き込み。それによるとちょうど祇園花月の吉本新喜劇に出演しているとか。せっかくの機会なので、佑希さんの舞台を観たいと妻がいう。私も異論はない。26、7年ぶりの吉本新喜劇。しかも祇園花月にはまだ行った事がない。よし、行こうか、と夫婦の意見が合い、祇園花月での観劇が予定に加わった。

阪急の西宮北口から神戸線と京都線を乗り継ぎ、終点の河原町へ。鴨川を渡り、南座や八坂神社を横目に見ながら、祇園花月に到着。あたりは京都の風情と芸能の色で染まっている。祇園花月の外見は見るからにコテコテの吉本印。吉本のおなじみのキャラクターのパネルが入り口に立ち、いかにもな感じを醸しだしている。

うちら夫婦が訪れたこの日、吉本興業は、闇営業問題で大きく揺れている真っ最中。けど、問題なのはテレビに出ずっぱりの売れっ子だけの話。そうした問題は、昔からの演芸を地道にまじめにやっている吉本新喜劇にはあまり関係がないはず。私はそう信じている。

開幕前の前説ではピン芸人の森本大百科さんが、軽妙に客を盛り上げつつ、今日の客層をさぐろうとしている。一階席の前半分はほぼ埋まっていたが、後半分の席は私たちを含め四、五人しか座っていない。私たちの後ろの席はすべてがら空きで、いささか寂しい客の入り。まさか闇営業問題が尾を引いているとは思いたくないけれど。

客の入りが少ないのも理由があり、あさあさ新喜劇と名付けられた演目は新喜劇のみ。午後は、新喜劇のほかに漫才やその他、舞台芸が演じられる。私がかつて観たのもそうだった。けれど、あさあさ新喜劇は新喜劇のみ。だから値段が安く設定されているのだろう。

「しみけんのミッションインポジティブ」と題された演目のあらすじは、旅館の娘たちを狙う結婚詐欺師を捕まえるため、旅館の前に張り込む両刑事と旅館の人々が織りなすドタバタの物語だ。そして、冒頭に書いた通りとても面白かった。何が面白いかと言うとライブ感がすごいのだ。もちろん、練り込まれた笑いだって面白い。けれども、その場のアドリブや即興で逸脱していく面白さも喜劇の醍醐味だ。私はそう思う。客席からのヤジを絶妙に受け返してこそなんぼ。舞台に出る演劇人はそうしたあうんの呼吸を学び、台本にない演技をこなす「芸」を舞台の上で鍛え上げてゆく。

今回、見た舞台で言うと、チャーリー浜さんのアドリブや、山田花子さんのアドリブが目立っていた。山田花子さんは今の吉本をめぐる問題をおいしくアドリブのセリフにかえ、笑いをとっていた。そのアドリブのきわどさは座長の清水けんじさんを焦らせるほど。

そして、チャーリー浜さんだ。前回、私が見たときはちょうどチャーリー浜さんの全盛期にあたっていた。その時もチャーリー浜さんは舞台を食っていたような記憶がある。往年の「ごめんくさ〜い」のギャグは今回も健在。出演者一同がずっこけるのも相変わらず。そうしたお約束のボケツッコミは、吉本のDNAのようなもの。見に来たかいがあってうれしい。ただ、それよりも今回すごいなと思ったのは、アドリブのすごさだ。

清水けんじさんとの掛け合いは、あまりに二人の掛け合いのテンポが良いので、あらかじめ決まった台本なのか、と思えるほど。ところが、掛け合いの中で、大御所であるチャーリー浜さんにツッコミを入れる清水けんじさんのセリフはだんだんヒートアップしていく。台本にないアドリブをかますチャーリー浜さんを座長として叱っているようにも思えてくる。あらかじめ決まった筋書きが突如命を吹き込まれたような瞬間。こうなるともう完全なアドリブの世界だ。絶妙なアドリブを挟みつつ、その全てが観客にとってクスグリとなり、笑いを誘発する。それがすごい。さらに、ゲラゲラ笑えるのに二人の笑いは誰も傷つけない。せいぜい傷つくのは清水けんじさんの座長のプライドぐらい。

私は、今回まで清水けんじさんのことを全く知らなかった。吉本新喜劇の座長と言えば、過去のたくさんの名物座長が浮かび上がる。ところが私は、今の座長が誰かなんて知らずにいた。そんな私の認識を、清水けんじさんの姿は一新してくれた。チャーリー浜さんに猛烈にツッコミを入れる座長はすごいなと思った。こういう即興の笑いを生み出せる喜劇人は、いつ見てもすごいと思う。頭の回転が速くない私にとっては憧れだ。

何もかもがデータ上で流れる今。映画、テレビの笑いは編集された笑いになりつつある。視聴者もまた編集されたことを前提で笑っている。しょせんはスクリーンやテレビ越しの笑い。時差と空間差のある笑いだ。しかも、スポンサーや世論に遠慮して、どぎつく際どい笑いはもはや味わえなくなりつつある。ところが、新喜劇のお笑いには即興性がある。しかも誰も傷つけない笑いを会得しているため、忖度や遠慮は無用。だから面白いのだろう。

私は、喜劇とは生身のライブ感で味わうのがもっともふさわしいと思っている。それを心から感じ取れた笑いの時間だった。出演者の皆さんが、即興で笑いを呼び込む空間を作り、観客はそれに乗っているだけでいい。これこそ笑いの殿堂だ。確かに、よく練られたコントは絶品だ。面白い。だが、笑いとは場を共有することによってさらに増幅する。テレビにはそれがない。

舞台が始まる前、ズッコケ体験を受け付けていた。私たちも申し込んだ。ズッコケ体験とは、観客が舞台の上でギャグにズッコケられる観客体験型のイベント。舞台が一度終わった後の舞台挨拶で、ズッコケ体験の方々が四名呼ばれた。私は申し込んだ時点でズッコケ体験ができるものと思い込んでいた。四名の次に呼ばれるのは自分だと思い、どうやってズッコケようか真剣に悩んでいた。財布も席に置いて行こうとすら思ったほどだ。抽選で四名の方だけ、ということを知り拍子抜けした。次回、もし舞台の上でずっこけられたら、少しは私も笑いの極意が身に着けられるだろうか。

あー、東京でビジネスやっていると、笑いのセンスが身体から抜けていく。そもそも、こういう時間が取れてへんなあ。また見に行かんならん。

‘2019/08/04 祇園花月 開演 10:30~

https://www.yoshimoto.co.jp/shinkigeki/gion_archive/ar2019_07.html


戦いすんで 日が暮れて


『血脈』を読んで以来、今さらながらに著者に注目している。『血脈』に描かれた佐藤一族の放蕩に満ちた逸話はとても面白い。一気に読んでしまった。もともとは甲子園にある私の実家と著者が幼少期を過ごした家がすぐ近く。そんな縁から『血脈』を読み始めたのだが、期待を遥かに超える面白さを発見したのは読書人として幸せなことだと思っている。

『血脈』には印象的な人物が多く登場する。著者の二度目の結婚相手である田畑麦彦氏もその一人。田畑氏は、著者が文藝首都という文学の同人誌で知り合った人物だ。『血脈』に登場する田畑氏は誠二という仮名で登場する(文庫版の下巻、348p、349p、399pでは意図的か、うっかりか分からないが「田畑」と「麦彦」の表記が見られるが)。そこでの彼はペダンティックな態度で世間を高みから見下ろし、超越した境地から言説を述べる人物として描かれている。それでいながら生活力のなさと人の良さで会社をつぶし、著者に多大な迷惑をかけた人物としても。著者がその時の体験をもとに小説にし、直木賞を受賞したのが本書だ。

『血脈』は佐藤一族の奔放な血を描き切った大河小説だ。そのため、著者と田畑氏のいざこざの他にも筆を割くべき事は多い。『血脈』では田畑氏との別れや田畑氏の死まで描いている。だが、それらは膨大な大河の中の一部でしかない。そのため著者は、田畑氏との因縁はまだ書き切れていないと思ったのだろう。『血脈』の後、著者は最後の長編と銘打って『晩鐘』を上梓する。『晩鐘』は著者と田畑氏の出来事だけに焦点を当てた小説で、二人は仮名で登場する。そこで著者は「田畑氏とは何だったのか」をつかみ取ろうと苦闘する。その結果、著者がたどりついた結論。それは「田畑氏はわかりようもない」ということだ。『晩鐘』のあとがきにおいて、著者はこう書いている。
「畑中辰彦というこの非現実的な不可解な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。」(475p)
レビュー(https://www.akvabit.jp/%E6%99%A9%E9%90%98/)。

それほどまでに著者の人生に影響を与えた田畑氏との一件。なので、田畑氏との日々が生々しい時期に書かれた本書は一度読みたいと思っていた。『血脈』や『晩鐘』は田畑氏との結婚生活から30年ほどたって描かれた。『晩鐘』に至っては田畑氏がなくなった後に書かれた。しかし本書が書かれたのは、田畑氏の倒産や夫妻の離婚からほんの1、2年後のことだ。面白いに決まっている。そんな期待を持って読み始めたが思った通りだった。

「戦いすんで日が暮れて」は表題作。倒産の知らせを受け、その現実に対して獅子吼する著者の面目が弾けている。少女向けユーモア小説を書き、座談会に出演し、人を笑わせ、愛娘を笑わせる。その一方ではふがいない夫に吠え、無情な借金取りに激高し、同業の作家に激情もあらわな捨てぜりふをはく。そんな著者の八面六臂の活躍にも関わらず、夫は観念の高みから論をぶつ。著者に「あなたは人間じゃないわね。観念の紙魚だわ。」(55P)という言葉を吐かせるほどの。ところが著者は悪態をつきつつも夫のそうしたところに密かな安堵を覚えるのだ。本編はそうした静と動、俗と超俗、喜怒哀楽がメリハリを持って、しかも読者には傍観者の笑いを与えるように書かれている。

同業作家の川田俊吉とは作家の川上宗薫氏のことらしいし、著者の名はアキ子だし、娘は響子ではなく桃子で登場し、夫の名は麦彦ではなく作三と書かれる。それにしても、関係者の間に生々しい記憶が残る中、よくここまで書けるな、と感心する。文庫版のあとがきによると、本編が発表される半年前に田畑氏の会社は倒産したらしい。『血脈』であれほど赤裸々に書いたのも、本編を読めばなるほどと思える。

「ひとりぼっちの女史」もおなじ時期を描いた一編。女史とはもちろん著者自身がモデルだ。カリカリイライラしている日々の中、孤立感を深めつつ、激情をほとばしらせることに余念のない女史。しかし夫に背負わされた借金の債権者は家に来る。そして夫はいない。そんな女史のお金をめぐる戦いは孤独だ。それなのに、頭を下げて泣かれる債権者を前にすると女史の心はもろい。他に影響があると知りつつ、投げつけるように金を返す。もろいだけかと思えば、あやしげな張型のセールス電話など、女史を怒らせる出来事にも出くわす。電話越しのセールスマンと女史のやりとりは笑えること間違いなし。セールスマンから慰められてふと涙する女史の姿に、著者の正直な気持ちの揺れが描かれていて、笑える中にも心が動く一編だ。

「敗残の春」も同じ時期を題材にしている。著者をモデルとした宮本勝世は男性評論家の肩書で紹介される人物だ。目前の金のためなら仕事を選ばず、会社をつぶした夫の宮本達三から身を守るため、日々憤怒する人だ。お人よしで他人から金を巻き上げられるためにいるような夫。自分はそうではないとわが身を語りつつ、不動明王のような炎を噴き上げ日々奔走する。債権者の対応をしながらやけになって叫ぶ。別の男性から好意を寄せられ戸惑う。そんな45歳の女。複雑な日々と感情の揺れを描いているのが本書だ。

「佐倉夫人の憂鬱」もまた、頼りない夫をもった夫人の憂いの物語だ。著者の体験を再現していないようにも読めるが、著者に言い寄る童貞男子の存在に、まんざらでもない期待を寄せてしまう夫人。だが、全ては幻と消え去る。そんな女としての無常を感じさせる一編だ。

「結婚夜曲」はかなり色合いの異なる一編だ。証券会社に勤める夫を持つ主人公。だが、夫の営業成績は振るわず、家庭でも顔色が冴えない。そんな中、主人公は旧友に再会する。その旧友はかつてのくすんだ印象とは一変して裕福な暮らしに身を置いている。その旧友を夫に紹介したところ、夫は営業をかけ、それが基で信頼される。証券を売りまくり、お互いが成功に浮かれ、夫は輝く。ところが、ある日それがはじけ、全ては無にもどる。旧友から金を返して欲しいとの懇願と夫の情けない姿に、どうにか夫を奮起させようとする主人公。だが、夫は再び死んだように無気力となる。そこに息子の結婚だけは考えたほうがよいなぁとのつぶやきが重なる。その言葉が、著者の心のうちを反映するような一編。

「マメ勝ち信吉」は、著者の無頼の兄貴たちの生態を参考にしたと思える一編。『血脈』でも著者の四人の兄貴がそろいもそろって不良揃いであることが書かれている。詩人として成功したサトーハチローの他は皆、非業の死を遂げる。そんな兄貴たちを間近で見てきた著者の観察が本編に表れている。風采は悪くとも、女を口説くことは得意の信吉。映画のプロデューサーの地位を利用し、新進女優とも浮名を流す。が、ある日彼が心から惹かれる女性が現れる。その女をモノにしようと信吉は奮闘するが、軽くいなされてしまう。その一方で、信吉は華のない女とくっつき、結婚することになってしまう。まじめに生きれば外れくじを引く。無頼に生きれば身をもち崩す。そんな矛盾した著者の人生観が垣間見える一編だ。

「ああ 男!」は脚本家の剛平の付き人でもあり監視役でもある忠治が主人公だ。無頼な剛平にくっついて方々に顔を出すうち、忠治も場数を踏んだ男だと勘違いされる。だが実はウブで童貞。そんな忠治が剛平に忠義を尽くし、慕ってついていく様子が描かれる。そんな無頼な日々は、狙っていた女優にあっけらかんとした裏表を見せられ、意気消沈する。本編もまた、著者の兄貴たちの生態が下敷きになっていることだろう。

「田所女史の悲恋」は著者自身を描いている。男勝りのファッションデザイナーで、周囲からはやり手と思われている独身。45歳でありながら恋には見向きもせず仕事に猛進する強い女性。だが、そんな彼女はある会社の若い男に恋をする。しかし素直になれない。それがゆえ、打った手は全て裏目に出る。勇気をふり絞って生涯唯一の告白を敢行するも、相手に伝わらず空回り。それをドタバタ調に書かず、世間では強き女とみられる女性の内面の弱さとして描く。著者がまさにそうであるかのように。

本書の最後には文庫版あとがきと新装版のあとがきが付されている。後者では93歳になった著者が自分の旧作を振り返っている。そこでは五十年近く前に書かれた旧作など今さら見たくもない、と言うかのような複雑な思いが表れている。二つのあとがきに共通するのは、表題作に対してしっかりした長編に仕上げたかったという事だ。それが生活の都合で中編になってしまった無念とともに。著者のその願いは『血脈』と『晩鐘』によって果たして叶えられたのだろうか。気になる。

‘2018/04/18-2018/04/21