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蒼き狼


著者の書く文章が好きだ。
端正でいて簡潔。新聞記者から小説家になった経歴ゆえ、まず伝わる文章を徹底的に鍛えられたからだろうか。読んでいて安心できる。

そうした、端正な文章が、地上最大の帝国ともいわれるモンゴル帝国を一代で築き上げたチンギス・ハーンをどう描くのか。前々から本書は一度読んでみたいと思っていた。ようやくこの機会に一気に読み終えることができた。

本書の主人公はテムジン(鉄木真)だ。テムジンはモンゴルの一部族を率いるエスガイとその妻ホエルンの間に生まれた。
当時のモンゴルはさまざまな部族が争っており、中国の平原を治めていた金からすれば与し易い相手だった。
たまにモンゴルと金の間で小競り合いが起こる度、部族の首長の誰かが惨たらしく殺されていた。
口承による伝達が主だった当時のモンゴルで、先祖が惨たらしい目にあった悲劇が伝えられる。何度も何度も。話を聞かされる間に、幼いテムジンに金への憎しみを植えつけていった。

もう一つ、テムジンには悩みがあった。
生まれた頃、母ホエルンはメルキト部に拉致された。メルキト部の男たちに犯され、すぐにエスガイに奪還された。そしてテムジンを産んだ。
つまり、テムジンの父はエスガイなのか、それとも他の誰かなのか。誰にもわからない。幼いテムジンがふと知ってしまったこの疑惑に、テムジンは死ぬまで悩み続ける。
本書はエスガイとホエルンを描くことから筆を起こし、テムジンの出生の悩みのみなもとを描いている。

テムジンが幼い頃から聞かされ続けた伝承は他にもある。
「上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる慘白き牝鹿ありき」
で始まる伝承。それは祈祷の形をとっていた。その話を聞かされ続けるうちに、テムジンの胸にはモンゴル部に生まれた誇りが燃え盛っていった。それとともに、蒼き狼の子孫として恥じぬように生きたい、との思いも。

ところが、自らの血にメルキト部の誰ともしれぬ血が混じっているかもしれない。その恐れがテムジンを苛んでゆく。
その恐れこそが、テムジンの飽くなき征服欲の源泉であり、生涯をかけてテムジンを駆り立てた。そのテーマを掘り下げるため、著者はテムジンの心をむしばむ疑いを何度も違う角度から掘り下げる。

エスガイの不慮の死により、モンゴル部はテムジンとエスガイの係累を除いていなくなってしまう。
テムジンの身の回りの肉親だけになってから、少しずつ勢力を盛り返してゆくモンゴル部。必死に勢力を戻そうとするテムジンの奮闘が描かれる。

あらゆる人や組織の一代記に共通することがある。
それは、若年期や創業期の試練を丁寧に描くことだ。最初の頃は試練が続き、歩みも遅い。
それがある一点を超えた途端、急速に発展していく。加速度がつくように。

それは自分自身にスキルが身につき、はじめは苦労していたことがたやすく成し遂げられるようになるため。
もう一つは経験が人を集め、それを活用することでさらなる成長につながるため。
それは私自身の人生を顧みてもわかる。

伝記に費やされる字数も同じだ。苦労して成長の歩みが遅い時期は濃密に描かれるため、速度も遅い。
だが、一度軌道に乗った後は濃度が薄くなり、読む速度も加速する。

本書もその通りの展開をたどっている。
だが、著者は規模が大きくなったモンゴル部を描くにあたり、ある工夫を施している。そのため、立ち上がりの苦労をして以降の本書は、濃度を薄めずに読みごたえを保つことに成功している。
それは長男のジュチは、果たしてテムジンの血を受け継いだ息子か、という疑問だ。
テムジンの妻ボルテも、結婚の前後に他部族に拉致された。それはテムジンの母ホエルンがたどった軌跡と同じ。

自分の血ですら定かではないのに、自らの長男もまた同じ運命にとらわれてしまう。

ジュチは、父が自分に対して他の兄弟とは違う感情を抱いていることを察する。そのため、自分が父の息子であることを証明するため、なるべく困難で試練となる任務を与えてほしいと願う。
その心のうちを承知しながら、あえて息子を遠くに送り出す父。

本書を貫くテーマは、父と息子の関係性だ。それが読者の興味を離さない。

もう一つは、男女の役割のあり方だ。草原に疾駆するモンゴルの男にとって、子育ての間に自由に動けない女はとるに足らない存在でしかなかった。
その考えにテムジンも強く縛られている。それは彼の行動原理でもある。敵の女は全てを犯し、適当にめとわせる。
ところが、メルキト部を破った後に得た忽蘭(クラン)は違った。それは女ではあるが、自分の意思を強く持っていることだ。従順なだけで手応えのないそれまでに知った女性とは違う存在。

忽蘭は戦地であっても側においておかねば死ぬといい、従軍もいとわない。そんな忽蘭はテムジンを引きつけ、数ある愛妾の中でも寵愛を受ける。

だが、忽蘭がテムジンの子を身ごもったことで、二人の関係に変化が生じる。
そうした描写からは、今の感覚でいくら平等を唱えようとも、生物が縛られる制約だけはいかんともしがたい運命が見える。
そうした生物の身体に関する不平等は、力こそが全てで、衝動と本能のままに動く当時のモンゴル帝国では当たり前の考えのだからこそ、鮮やかに浮き上がってくる。

文明に慣れ、蒼き狼でも白き牝鹿でもない現代人にとって、男女平等の考えは当たり前だ。
だが、この文明が崩壊し、末法の世に陥った時、男女のあり方はどう変わってゆくのか。
本書から考えさせられた点の一つだ。

また、本書は文化の混淆もテーマになっている。
本書の終盤では、モンゴル帝国の版図が拡大するにつれ、遠いホラズムとも交流が生じた。そのホラズムの文物に身を包む雄々しきモンゴルの武将たちの姿に違和感を抱いたテムジン、あらためチンギス・ハーンが、自分だけはモンゴルの部族のしきたりに従っていこうと決意する姿が描かれている。
版図が拡大すると、違う文化に触れる。それはまさに文化の混合の姿でもある。

今やその混合が極点に達した現代。現代において急速に混じり合う文化のありようと、モンゴルが武力でなし得た文化の混合のありようを比較すると興味深い。

本書の巻末には著者自身による「『蒼き狼』の周囲」と題した小論が付されている。創作ノートというべき内容である。
その冒頭に小矢部全一郎氏の「成吉思汗は源義経也」が登場する。著者が本書を描くきっかけとなったのは、成吉思汗=源義経説に感化されたというより、そこからチンギス・ハーンの生涯が謎めいていることに興味を持ったためだという。

私が最も再読した二冊のうちの一冊が高木彬光氏の「成吉思汗の秘密」だ。とはいえ、本書には成吉思汗=源義経説が入り込む余地はないと思っていた。そのため、著者が記したこの成り立ちには嬉しく思った。

‘2020/02/14-2020/02/17


人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27