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天津飯の謎


コロナが始まった頃、逼塞を余儀なくされた人々は、さまざまな試みでこの状況をやりすごそうとした。
7日間ブックカバーチャレンジはその一つ。

Facebook上で指名を受け、自分が選んだ七冊の本を紹介するとともに、次の方を指名するというものだ。
私は七冊でそれぞれのジャンルの本を選んだ。その際、最後を飾る一冊に選んだのが本書だ。

その時に書いた内容はこちらのブログに載せている。
そこにも書いたが、著者は私にとって親しい方である。私の周囲にもISBN付きの本を出した方はいるが、最も親しい方かもしれない。
上のリンク先で著者と私の関係には触れているので本稿では詳しくは触れないが、私にとって目標とすべき人であり、実際に幾たびも御恩も受けた方だ。

ブログの中にはこのようなことを書いた。
人生にインプットの努力は当たり前だが、それに見合うアウトプットは必要。多くの人はそのアウトプットを世に出さず、仕事の書類の中だけに終わらせてしまう。どこかで自分の生きた証しを出したいのが人情であり、それを成し遂げた著者はすごい、と。

まさに私にとって導きとなる方であり、それを本書という形で手本としてくださったと思っている。

本ブログは、私が読んだ本の感想を書いている。だから、読者の視点からの文章であることがほとんどだ。
だが、本書は私のよく知る方が書いている。たまには著者の視点で描いてみたいと思う。

著者の視点といってもそう難しいことではない。
要するに面白がることだ。

世の中には無数の情報や事物にあふれている。それをただ眺めて過ごすのか、それともその事物に興味を感じ、より深く調べるのか。二つの態度の間には大きな差がある。

例えば毎日の通勤。電車の中に吊られている広告からその背後にあるつながりに思いを馳せる。
例えば毎日の通学。街の建物の形や姿から、その違いが生じた理由に想像力の翼を広げる。
例えば日々のランチ。メニューに載せられた料理の生い立ちがどこに由来し、なぜ生まれたのかを考える。

本書のテーマである天津飯は、まさにその興味から生まれた題材だろう。

中華料理店は、期限をたどればわが国の発祥の料理ではない。それでいながら、同じ漢字文化圏のよしみで親しみのある中華料理。
叉焼。餃子。焼売。拉麺。搾菜。
この字面だけでもワクワクする。チャーシュー。ギョウザ。シュウマイ。ラーメン。ザーサイ。
どこからこの漢字が当てられ、なぜこのような読み方が定着しているのか。

中華料理といえば誰もが想像するはずの代表的なメニューですら、このような興味が湧く。
本格的な中華料理店にいけば、さらに漢字だけで材料と調理法が字面で並ぶ料理の数々に目が奪われ、興味はつきない。

だいぶ前に読んだ日清食品の創業者である、安藤百福氏の伝記の巻末には、中国の各地で食べ歩いた麺料理の数々が載っていた。
そこには日本にまだ上陸していない麺料理の奥深さがあった。
ラーメン一つだけでもこの奥深さだ。他の料理を考えるとまさに無限の興味が湧いてくる。

ここで天津飯だ。
まず、料理名に地名が含まれる。天津。
北京料理や広東料理、四川料理とは違い、より狭い範囲の地名。
なぜ、天津の名が冠せられているのか。

発祥の地と日本への伝来について、著者は詳細な分析を行う。
発祥の地なのか、発明者の出身地なのか、材料の名産地なのか。
また、いつからわが国の中華料理店のメニューになじみの品となったのか。
天津飯と天津麺はどう違い、味付けにどのような違いがあるのか。

お店のメニューから、無限の可能性が追い求められている。
人の好奇心のあるべき姿を示してくれるよい手本だ。

自分の興味が向いた対象を疎かにせず、そこからより深く調べる。そしてそれを書籍の形で世に問う。
物を書く立場に立ってみると、私たちの誰にも、同じ機会に恵まれているのではないだろうか。

ましてやいまは情報があふれる時代だ。インターネットや大宅文庫、国立国会図書館。調べるための手段に事欠かない。

ところが、その一歩を踏み出す人と踏み出せない人に分かれてしまう。機会も道具も発表媒体も世にはあふれているはずなのに。
なぜだろう。疑問のタネはつきない。
上にも書いた通り、公的なアウトプットを出したいという欲求の有無なのだろうか。

私は、本書を献本して頂いた際、また遠くに置いていかれてしまったと思った。
すごい、と。

私が本書のような書籍を世に問うには何が足りないのか。時間なのか意欲なのか。それともきっかけなのか。
全ては私の怠惰にすぎない。
私には機会も道具も発表媒体もある。
おそらく私は世の中の事物をまだ表面でしか見ていないのだろう。そこを掘り下げると無限の知識と可能性が湧いて出るにもかかわらず。

まずは好奇心の泉を涸らさずにいなければ。
思えば私が大学を卒業した後、初めて仕事をした現場にいたシステム・エンジニアの方がとても強い好奇心の持ち主だった。
私はその方から好奇心の大切さを学んだはず。そろそろこの好奇心を明確なアウトプットとして世に問わねばなるまい。
人生の師匠である早川さんが本書を献本してくださったご厚意にも報いなければ。早川さん、ありがとうございます。

‘2019/12/3-2019/12/3


七日間ブックカバーチャレンジ-天津飯の謎


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day7 「天津飯の謎」

Day7が終わろうとしています。

Day1~Day7の中では、挙げるべき作品はまだまだありました。
歴史・時代小説や純文学でも挙げるべき作品はたくさんあります。ラテンアメリカの小説をはじめとした世界の諸文学も。
SFでも名作はいくつもあります。小松左京、筒井康隆の両氏の作品を挙げられなかったのは無念です。
私が当チャレンジでお渡ししたバトンのどれかが、こうした本を紹介してくれることを願っています。
私のブログでも今後、読んだ本のレビューは続けていくつもりです。

さて、それらの本を差し置いて、ブックカバーチャレンジの最終日にこちらの本を取り上げるのには理由があります。

今までのDay1~Day6で、私は本の紹介をしながら、人生観についても触れてきました。
その人生観は今までに読んできた5000冊ほどの本から培ってきたものです。
思い込みを排し、データを重視する(Day1)。
史実を尊重しつつ、歴史のロマンを大切にする(Day2)。
人生の中で現れる謎に感謝し、それを解く前向きな心を持つ(Day3)。
ゼネラリストではなくエキスパートであろうとする(Day4)。
入門書を読み込み、スキルを磨く(Day5)。
多様性を重んじ、自らの想いを体現するサービスに奉仕する(Day6)。
どれもが、私の人生にとってかけがえのないインプットを与えてくれました。

人生とは、システムと同じくインプットに対してアウトプットを行ってこそ完結すると思っています。
私が読んできたあらゆる本からインプットし、自らの中に育ててきた人生観。
あとは、それをどうやってアウトプットするかです。
私はそろそろ、アウトプットも視野に入れなければならない年齢に差し掛かっています。

ここでいうアウトプットとは、ビジネスの現場からすれば成果物です。
そうした意味でいえば、私は小学生のころから数えきれないほどのアウトプットを生み出してきました。
夏休みの絵日記、読書感想文、自由研究、テストの答案、年賀状、発表会、大学の卒論、Excelの帳票、Wordの文書、ホームページ、メール、提案書、プレゼン資料、プログラム、仕様書、テストエビデンス、学会発表、セミナー、エトセトラエトセトラ。

もちろん、それらはアウトプットです。
ですが、それらを人生のアウトプットとして、集大成とみなしてよいかと問われるとどこか違う気がするのです。

私には妻も娘もいます。家も持ち家です。
そのように、家族や家庭の基盤を残すことも人生のアウトプットと呼べるかもしれません。
そして、家族はいなくとも、後輩にスキルを伝授したり、次の世代に知恵や技術を託すことも立派なアウトプットの一つでしょう。

ですが、スキルや技術や思いはしょせん、形のないものです。
それがどう伝えられるかは、次の世代に渡した時点で自らの手から離れてしまいます。

子にしても同じです。確かに、幼い頃に家庭でほどこした教育は子どもが成長した後も人生に大きく影響を与えます。
ですが、成人してから後の子どもの人生は、子ども自身のものです。親のアウトプットとみなすことには抵抗があります。

何か、確固としたアウトプットを残したい。
仕様書のどこかに記した名前ではなく、セッション資料の冒頭に記した名前ではなく、会社の創立者として登記簿に載せる名前でもない。
ある時点の自分の一部をくっきりとした形として残せるような、人生のアウトプットが欲しい。

様々なブログやツイートやウォールをアップし、ExcelやWordやPowerpointでドキュメントをせっせと作っても、そうしたアウトプットは、すぐにファイルサーバーやオンラインストレージの片隅でアーカイブされていきます。誰からも顧みられずに。
それは寂しい。
もっと確固としたアウトプットの手段はないものか。

例えば、本書のように自らの名が冠された著作として。
それもISBNが付与され、国立国会図書館に収められるような著作として。

まさに本書はそうやって生み出された一冊です。

本書は、皆さんが中華料理店で注文する天津飯を取り上げています。
その名前の由来は何なのか。作り方の変遷、起源、材料、伝来のルートはどういう歴史をたどってきたのか。
そうした点まで含めて調べ上げた労作です。
本書を読むと、中華料理店のメニューを見る目が変わります。

私たちが普段過ごしている生活の中に、こうした謎は無数に埋もれています。
そうした謎を見つけだし、興味を向け、調査に没頭する。
なんと豊かな人生なのだろう、と思います。

著者は、天津飯という興味の対象を自らの職業とは関係のないところから見つけています。
そうした対象を見つけるには、普段から広く興味と関心を抱いていないと難しいはずです。

仕事に没頭するのも良いですが、日々の忙しさの中に、そうした視野を持つ努力を怠ってはなりません。
さもないと、引退した途端、やりがいを失って一気に老け込むということになりかねません。

私にとって本書は、常に私の先をゆく、人生の師匠が示してくれた、文字通りの手本です。

ということで、五つ目のバトンを渡させていただきます。本書の著者である 早川 貴正 さんです。
23歳の頃、強烈な鬱から脱出しようとあがく私が、Bacchus MLというメーリングリストのオフ会で早川さんに出会ってから24年がたちました。
風来坊で何をやりたいのかもわからずにいた若い頃の私は、早川さんのような生き方をしようと思って一念発起し、今に至っています。
妻との結婚式の二次会では乾杯の発声もお願いしましたし、長女が乳児のころから何度もお世話になっています。
私がかつて、広大かつ膨大な家賃のかかる家を苦労して売却するにあたって、わざわざ大阪からやってきて、親身に相談に乗ってくださいました。

20代前半の私が大変お世話になり、一生頭が上がらない恩人は何人かいます。
ですが20数年の年月は、そうした人たちとの連絡を途絶えさせてしまいました。
ですから、早川さんが今もこうやって、つながってくださっていることにとても感謝しています。

私もはやく、ISBN付きの本を出版し、師匠に追いつけるように努力したいと思います。
世の中の面白さにきづき、その謎を掘り進めてゆけるように。
そして、一度は一緒にスコットランドを旅したいです。

「天津飯の謎」
新書:207ページ
早川貴正(著)、ブイツーソリューション(2018/10/26出版)
ISBN978-4-86476-639-5

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「成吉思汗の秘密」
Day3 「占星術殺人事件」
Day4 「ワーク・シフト」
Day5 「かんたんプログラミング Excel VBA 基礎編」
Day6 「チームのことだけ、考えた。」
Day7 「天津飯の謎」

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7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする
#7日間ブックカバーチャレンジ #天津飯の謎


沖縄にとろける


本書は、沖縄旅行の前に読んでおきたかった。なぜなら、本書には沖縄を楽しむための知識、それも私が大好きな類の知識がたくさん詰まっているからだ。

本書が語る沖縄とは、海や戦跡、水族館や琉球舞踊、音楽についてではない。ありふれた日常の中にある沖縄を語る。

本書が主に扱うのは食文化や酒文化からみた沖縄だ。その観点からみた沖縄は、混じり合った異文化の魅力を放っている。それは観光客として訪れるだけでも存分に楽しめる。実際、私を魅了し続けている。独特の食材を使い、独自の風味で味付けられた料理。お店には泡盛の甕やシーサーが飾られ、飲み食いしながら味わえる旅人の実感は格別だ。

しかし、その装いや味付けはどことなくよそ行きの雰囲気をまとっているように思うのは私だけだろうか。つまりは観光客向けの。それは私がまだ沖縄を観光地でしか知らないからだろう。観光客は決して知らない、沖縄にしかない食文化が、沖縄の日常には隠れているはずなのだ。シーブンのような。旅の楽しみの一つは、その奥深さに触れることにある。普段は観光客の目に触れないが、日常に足を踏み入れると時折その姿をのぞかせる食文化。それらに触れるには、市場やスーパーなど地元民が訪れる場所に行くのが早い。

沖縄は日本屈指の観光地だ。それだけに観光客として訪れるだけでも十分楽しめる。だが、沖縄の日常には、観光客として行くだけでは決して味わえない、さらなる深い麻薬のような魅力を放っているように思う。

その魅力とは、町の大衆食堂の中にメニューとして掲げられている。自動販売機やA&Wの店を訪れ、店内を注意深く見ると気づく。離島のゆっくりした時間に漂っている。うらぶれた裏通りのホテルに染み付いている。地元民しか訪れないビーチで波に洗われている。

私は今回の沖縄が三回目となるが、観光客がよく行くと思われる沖縄本島の有名な観光地はようやく二割近くは訪問できた。となると、次はより沖縄の日常に触れてみたくなる。当然だ。実は二回目も今回も沖縄在住の方にお会いしている。だが、限られたわずかな時間では本書に取り上げられているような深い経験はできない。本書にはいわゆる観光地は登場しない。旅人としてではなく、住んでみて初めて気づく視点。それが紹介されるのが本書だ。

その視点とは、沖縄に住み、地元の方と長い時間を共有してようやく気づく類いのことだ。たとえば本書には住民のビーチパーティーに招かれた著者が、ビーチパーティーとはなんぞや、と考察する章がある。そもそも観光地を訪れ、普通にホテルに泊まっているだけではビーチパーティーには呼ばれるどころか存在にすら気づかないはず。地元の方との親密な関係を築いてはじめてビーチパーティーに呼ばれるのだから。

他の章では、数十メートルの距離を歩かずに車で移動しようとするウチナーンチュを揶揄している。観光客向けのレストランや居酒屋には登場せず、地元住民が足しげく通う店でしか見られないメニューの数々が登場する。法の遵守などまったく見向きもせず、たくましく生きるウチナーンチュの夜型の生活が描かれる。生活のためなら論外と言わんばかりに自販機の夜間販売の制限を無視するふてぶてしさにも触れる。食品衛生法など度外視で造られる島豆腐の製法から、食品の美味しさを賛美する。どの視点も生活をともにせねば書けない内容だ。著者はそうした沖縄のしたたかさとたくましさが、管理と治安が最優先の日本本土で失われつつあることをいいたいのではないか。自主規制が幅を利かせ、画一的な文化しか見られなくなったメインストリームの文化。そのような対比が透けて見えるため、本書はなおさら面白く興味深い。

本書から見えるのは沖縄のたくましさだ。そのたくましさはアジアのそれを思い出させる。たとえば台湾のような。

かつて私は台湾を自転車で一周したことがある。その時に見かけた台湾の人々はとてもエネルギッシュで活力にあふれていた。町中をバイクで五人乗りで走行する少年たちの姿。日本ではまず見られないものだ。その辺で交尾をし、放し飼いで買われている犬たち。私は夜の道を自転車で走っていて何度犬に追っかけられたことか。そのおおらかなアジアの猥雑さは、当時の私に大きく影響を与えた。本書から垣間見える沖縄の姿は、あのときの台湾を思い出させる。

私が台湾で活気むんむんだった庶民を見かけたのも観光地ではなく、日常の中だった。その経験は私に旅の極意を教えてくれた。旅とは観光地ではなく、日常に入り込むことによって得られるものだと。

その経験からいうと、私はまだ沖縄の表しか見ていない。私が沖縄の日常を知るにはあと何度訪れなければならないのだろう。より深く活気にあふれた沖縄。そのエネルギーは少々管理に疲れたように見える日本人に活気を与えてくれるはずだ。活気だけでなく、日本再生のヒントを。

私ももちろん、沖縄からエネルギーを分け与えてもらいたいと思っている。そしてこの整頓と秩序を重んじる日本で生きるためのヒントを。私の残り時間は短い。

‘2018/03/31-2018/04/02