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ウォンカとチョコレート工場のはじまり


年末の30日に家族で四人揃って本作を見た。

うちの家族は、昔から『チャーリーとチョコレート工場』が好きだ。
私も何度も観た。おそらく、4、5回は。

私の経験を踏まえて本作についてのレビューを本稿にまとめた。
絶賛上映中なので、本稿ではまだ観ていない方の興を削がないように配慮する。
配慮するつもりだが、本作の内容について語るので、本稿のつづきは劇場で観てから読んだ方が良いと思う。
本作は『チャーリーとチョコレート工場』の世界観を踏襲し、ウィリー・ウォンカがチョコレート工場を作るまでを描いている。

なお、本作を観た後、家族で1971年に公開された映画『夢のチョコレート工場』も観た。
『夢のチョコレート工場』は原作者のロアルド・ダールが存命中に公開されたため、原作の世界観を踏襲しているのは明らかだ。
『チャーリーとチョコレート工場』は『夢のチョコレート工場』とシナリオや登場人物がほぼ同じ。正統なリメイク版として『チャーリーとチョコレート工場』がある。ただし、リメイクにあたってはいくつかの設定が変更されている。
それを踏まえ、本稿ではジョニー・デップがウィリー・ウォンカを演じた『チャーリーとチョコレート工場』とジーン・ワイルダーがウィリー・ウォンカを演じた『夢のチョコレート工場』の違いにも言及する。

大きく設定が変更されているのはウンパルンパの扱いだ。
『夢のチョコレート工場』では、鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪がウンパルンパの外見的な特徴として描かれていた。ウンパルンパのテーマを歌いながら踊る姿はとてもコミカル。
「ウンパルンパ ドゥンパティ ドゥ♪」とうたいながら踊るさまはまさに愛すべきキャラクターだ。

ところが、『チャーリーとチョコレート工場』でディープ・ロイが演じたウンパルンパのイメージは一新されている。最新技術を使って約160名の全員が同じ顔で踊るインパクトもさることながら、その踊りと歌に込められたブラックなシニカルさが洗練され、映画のインパクトに華を添えていた。
『夢のチョコレート工場』の素朴なウンパルンパが『チャーリーとチョコレート工場』の洗練されたウンパルンパに変わることで、ブラックな面白さがより強調されていたように思う。

本作のいくつかの設定、特にウンパルンパの外観は『チャーリーとチョコレート工場』より『夢のチョコレート工場』に近い。
つまり、原作者が想定していた世界観により忠実だと思う。

本作でヒュー・グラントが演じるウンパルンパも、登場シーンでウンパルンパのテーマを歌い踊る。鮮やかなオレンジ色の顔に緑色の髪を持つより原作のイメージに近い外見で。

本作に登場するウンパルンパは、ほぼヒュー・グラントによる一人のみだ。
160名のウンパルンパのインパクトには劣るが、ヒュー・グラントがもともと持っているシニカルでブラックなユーモアがうまく活かされていて、それが面白さになっていたと思う。
とても素晴らしいウンパルンパの再解釈だと思う。

ただし、本作にはブラックでシニカルな原作の良さがあまり感じられなかった。ヒュー・グラントが扮するウンパルンパだけがそれを体現していたように思う。
むしろ、ブラックでシニカルなユーモアを体現していたのが、『チャーリーとチョコレート工場』ではウィリー・ウォンカで、ウンパルンパは無表情で歌い踊ってウィリー・ウォンカのブラックな側面を強調していた。本作ではウィリー・ウォンカからブラックでシニカルな部分が姿を消し、その点を受けついだのがウンパルンパだったともいえる。

『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』には、善と悪といったわかりやすい構図がない。むしろ、主人公のウィリー・ウォンカのつかみどころのなさこそが、作品全体の特色だ。
ウィリー・ウォンカは何を考え、登場人物はどこに連れて行かれるのか。そこにドラマの興味は絞られていた。

ところが、ティモシー・シャラメが演じる本作のウィリー・ウォンカは夢をもち、希望を語り、マジカルな能力とそこから作り出す魔法のチョコを使って人々を魅了する善人として描かれている。
カルテルを組んで街のチョコレート流通を支配し、ウィリー・ウォンカを抹殺しようとする三人組やチョコレートで三人組に籠絡される悪辣警察署長が悪で、それに対するウィリー・ウォンカという構図。そのため、ブラックでシニカルな面白さが善と悪の二元構造によって薄められてしまっており、原作の持つ面白さを体現していたのがウンパルンパのみだったのが残念な点だ。

ただ、本作の悪役陣はどこか憎めない存在として描かれていた。例えば本作では、悪役たちも歌い踊る。
『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』の違いは、ウンパルンパ以外の登場人物も歌って踊る点だ。
本作は登場人物たちも歌って踊る。その点でも『夢のチョコレート工場』に回帰していたように思う。

悪役たちにもスポットライトを当てていて、特に登場する度に太っていく悪辣警察署長はコミカルの極み。
また、ウィリー・ウォンカを始めとする6人を契約の罠で閉じ込め、洗濯部屋でこき使うミセス・スクラビットとプリーチャーも憎めない悪役として描かれている。

登場人物の肌の色も含め、本作の善と悪も二元的に描かれてはいるものの、総じてなるべく多様性を配慮した作りになっている。

ただし、原作の世界観に忠実なのが本作であるものの、原作に合った肝であるブラックでシニカルな面白さが欠けている以上、その点で私は辛い点をつける。

ついでに言うと、ウィリー・ウォンカが持つマジカルなチョコレート作りの秘密こそが本作でも大きな興味を抱く点だったにもかかわらず、その能力をどこで手に入れたのかが描かれておらず、これも物足りなさを感じた点だ。
ひょっとしたら、ウィリー・ウォンカがそうした能力を身に付けていくいきさつだけでも一本物の映画が作れるのかもしれない。が、できれば本作でもそのあたりがもっと描かれていたらよかったのに、と思った。

ただ、それだと本作について辛く言うだけで終わってしまう。ここで、本作の良さを取り上げたい。
本作はチョコレートと言う誰もが憧れる夢の食材をマジカルに描き、それをミュージカルが持つ音楽の楽しさに乗せたことが魅力になっている。ブラックかつシニカルなユーモアは本作では強調されていないと割り切ったほうがよい。
つまり、原作がどうとか『夢のチョコレート工場』と『チャーリーとチョコレート工場』との違いや受け継ぎ方をあげつらうことは本作を鑑賞する上ではむしろ邪魔だ。
本作は独立した作品として観ることで、楽しい余韻だけを感じた方がよいと思う。
なお、チョコレートがきっと食べたくなるはず。

‘2023/12/30 109シネマズグランベリーパーク


男役


妻に勧められて読んだ本書。意外なことにとても感動させられた。
それは、私にとって大きな驚きだった。これだから読書はやめられない。本書から意外な喜びが得られたことに満足している。

意外だと書いたのには理由がある。
それは、今の私がタカラヅカに対して嫌悪感に近い感情を抱いているからだ。
著者の作品を今まで読んだことがなかったことと、本書について何も知識が何もないままに読み始めたことを除いても、本書から受けた感動は予想外だった。
私のようにタカラヅカに対して嫌悪をもつような人がいれば、本書はお勧めしたいと思う。
本書は「歌劇」「宝塚おとめ」や「タカラヅカ・スカイ・ステージ」よりもよっぽどタカラヅカの魅力を伝えている。

なぜ私が嫌悪感を抱いているのか。それは妻がもう長いことタカラヅカのジェンヌさんのファンクラブ代表を務めているからだ。
本稿をアップした今も、妻は一カ月以上にわたる東京公演のため、朝から夜まで忙殺されている。歯医者の仕事は週に一度がせいぜい。家事も歯科医の仕事も差し置いて、無償の代表の仕事に人生の貴重な時間を捧げている。

代表の仕事について、私が抱いた嫌悪感については、
なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか
宝塚ファンの社会学
のレビューの中に書いたから本稿では詳しく繰り返さない。
ここまでの嫌悪を抱いたのは、表だっては私的なファンの集まりだから関与しないとの建前を謳いながら、裏では運営側の都合をファンクラブ側にまかり通そうとする劇団の姿勢に憤りを感じているからだ。

もちろん代表の仕事によって家庭に大きな負担がかかっていることは言うまでもない。代表である妻や娘たち、もちろん私にも。
一つだけ言えるとしたら、ファンクラブ代表になるなら、結婚や仕事での昇進は諦めた方がいい、ということだ。

一方で、嫌悪感を抜きに考えると、感心することもある。
それは無償で働く代表や多くのスタッフの存在だ。これは経営者として感心する。
代表やスタッフが担うのは、ジェンヌさんのマネジメント業務だ。表向きは私的ファンクラブの仮面をかぶりながら、実際に代表が行うのはジェンヌさんのマネジメント業務だ。
こうした仕事は本来ならば劇団が行うべき仕事。それを代表に担わせ、しかもその対価は劇団から支払われることはない。つまり無償だ。

経営者の立場からは、無償で働いてくれるスタッフがいることがどれほど羨ましいか。一人親方ならともかく、従業員がいなくては、会社は成り立たない。従業員が宝であることはもちろんだが、人件費は経営者にとっては現実のストレスとしてのしかかる。
タカラヅカのジェンヌさんの多くはファンクラブを立ち上げている。各ファンクラブは代表や複数人のスタッフを抱えている。彼女たちの多くは無償だ。あくまでも私的ファンクラブなのだから、少なくともタカラヅカには賃金を払う義務がない。賃金をもらっている代表やスタッフがいるとすれば、それらの賃金は、ジェンヌさん自身やジェンヌさんの実家から支払われている。言うまでもなくそれができるジェンヌさんは一握りだ。

タカラヅカの場合、人件費をかけずに業務の一端を担わせている。人件費をかけずに済むのだから、良いものができるのは当たり前だ。

こうした無償で働いてくれるスタッフや代表は、妻も含めてタカラヅカの観劇が好きでたまらない人であり、だからこそ無償でも働こうと思うのだろう。
彼女たちが惹かれているのは、小林逸翁が立ち上げたタカラヅカ百年の伝統が磨き上げてきた美意識であることは間違いない。

百年の伝統とは、プールの上に蓋をした黎明期の舞台から、レビューが軌道に乗った時期を通り越し、軍国色の強い演目を強いられた戦時中の苦しみなど、さまざまな歴史の上に醸成されたものだ。痛ましい死亡事故や、ベルばらブームなど、タカラヅカには試行錯誤と喜怒哀楽の歴史があった。
そこには歴代のジェンヌさんや演出家、大道具小道具とオーケストラ、衣装さんの努力があった。それらの努力のたまものが百年の伝統として昇華していることは公平に認めたい。
スタッフや代表が無償の労働で成り立っているのは、決して今の経営陣の努力ではない。百年前から脈々と受け継がれてきた伝統があってこそだ。

男装の女性が美しい衣装を身にまとい、華麗に舞い、魅惑的なメロディーを響かせる。
女性だけの舞台の上で、異性である男性を演じる姿は美しい。髭もなければ、ハゲもない。ましてやオヤジの加齢臭を漂わせることもありえない。永遠に美しい存在。観客の皆さんが男役に夢中になるのもわかる。

さらにタカラヅカのスターシステムは、下から次々と生徒が送り込まれる仕組みだ。だから、新陳代謝は激しい。観客はひいきのトップスターがやめても、青田買いのように生徒さんの中からお気に入りのジェンヌさんを見つけ出す。
だからこそ、男役を務めるプレッシャーも並大抵のものではないはずだ。
先輩のジェンヌさんに憧れ、その所作を学びながら、女が男を演ずる芸を極めていく。その姿は男だから女だからといったささいなことは関係ない。そこには舞台人として芸を極めることの難しさと尊さがあるのみ。

本書はそのような男役の姿を描く。男役の舞台での姿に魅入られ、タカラヅカの門をたたいた主人公。
日々の厳しい稽古と人間関係の難しさ。そんな合間に舞台でライトを浴びる高揚感。そのような芸事の厳しさと奥の深さに一生懸命な主人公に、伝説と化したかつての男役がファントムとなって語りかける。

つまり本書はミュージカルとして演目になったことであまりにも有名なガストン・ルルーのオペラ座の怪人、つまりファントムをモチーフに取り入れているのだ。
ミュージカルのファントムも、新進女優のクリスティーヌを見染めて一流の女優へと導こうとする。舞台芸術の世界に魅入られ、劇場の主と化したファントムの妄執がなせる技だ。
オペラ座の怪人の世界とタカラヅカを絶妙にミックスしているのが本書の特色と言える。より至高の舞台へと。刹那の芸術の美へと。

本書のファントムも同じ。舞台の魅力に取り憑かれ、劇場に住み着き、これはと思った新進男役に寄り添って支えようとする。崇高な舞台の輝きへ。男役の演技のより深い奥義へと。
なぜそこまで男役に執着するのか。それは、世界でもこのように女性が男性を演じる演技形態が稀だからだ。世界でもタカラヅカは稀な女性だけの劇団であり、今、ここでしか演じられないことが、男役の価値をより高めている。それは百年の伝統の中で代々、受け継がれてきた芸能であり、その希少性ゆえに観客を魅了し、演ずるジェンヌさん自身をもからめとる。

声をつぶしてまでも低音を響かせる技。一挙手一投足まで男を演じ切らなければならず、一瞬でも素の女を見せることは許されない。舞台を降りた後ですら、ファンの視線を意識しながら、日々の生活まで男を演じる。生き方から変えていかなければ務まらないのが男役の宿命。
だからこそ、ファントムのような主が至高の芸として伝えていかねばならない。
本書のこの設定はお見事だ。

そして、男役には相手となる娘役がいるのがタカラヅカのスターシステムのお約束だ。
同じ女性であっても、娘役からはトップの男役は憧れと恋愛の対象でありうる。さまざまな演目で愛する演技を続けていくうちに情が移る。本気で恋愛感情を持つ場合もあるだろう。むしろ、それぐらいトップの男役と娘役が強く絆を結んでこそ、ファンからは絶大な支持を受ける。
単なるレズビアンではない。そんな下世話な感情さえも超越した、現実と幻と役柄が混在した恋愛。
本書にもファントムにまつわる悲恋と、主人公とのご縁が終盤のクライマックスへ向けてつながっていく。

冒頭で私はタカラヅカに対して嫌悪感を持っていると書いた。だが、私はジェンヌさんに対してはそれを向けようとは思わない。特に妻がついているジェンヌさんに対しては。
彼女たちも与えられた環境の中で一生懸命やっているだけなのだから。だから、私の嫌悪は全て劇団に向けられる。
多分妻もそれを考えて私に本書を勧めてくれたのだろうし。
くしくも本稿をアップした本日は東京公演の千秋楽であり、一カ月半にわたる妻の苦労も報われる日だ。

もう私は二度とタカラヅカを見たいとは思わない。だが、それでももし本書がタカラヅカで舞台にかけられたら、心がゆらぐかもしれない。それほど本書には心を動かされた。

‘2020/06/13-2020/06/14


劇団四季と浅利慶太


本書を読む数カ月前に浅利慶太氏が亡くなった。
演劇に一時代を築いた方の逝去とあって、盛大なお別れ会が帝国ホテルで催され、大勢の参列者が来場した。私も友人に誘われて参列した。

すべての参列者に配られた浅利慶太氏の年譜には、演劇を愛する一人の気持ちが込められていた。
その年譜には劇団四季の創立時に浅利慶太氏が書いた文章が収められていて、既存の劇団にケンカを売るような若い勢いのある文章からは、演劇への理想が強くにじみ出ていた。
また、豪華に飾られた棺の両脇には演出家として俳優に指導する姿や演劇論を語る在りし日の浅利氏の映像が流されており、棺の前で黙祷する列に並びながら、参列者が浅利氏について思いを致せるように配慮されていた。

「なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか」でも書いた通り、宝塚歌劇の運営体制の裏側を知ってしまってからというもの、私は演劇の理想を見失いかけていた。
そんな私は、浅利氏の説く演劇論に救いを感じた。
劇団四季を宝塚と並び称される劇団にまで育て上げた浅利氏は、劇団の運営をどう考えているのだろうか。
私は浅利氏のお別れ会に参列したのを機会に、浅利慶太氏と劇団四季についてきちんと本をよまねば、と決めた。タイトルそのものの本書を。

著者は政治について語る評論家だ。
そんな方がなぜ演劇を?と思う。だが、劇団四季の躍進を支えた一つの要因に浅利氏と政治家との関係があったことは言うまでもない。
そうした関係が劇団四季の経営を支えたことは、ネットで少し検索すればゴシップ記事として出てくる。
また、著者と劇団四季や浅利慶太氏の縁は、本書の「あとがき」で著者が語っている。血縁も地縁もなく、パーティーで浅利氏の知己を得たことで、著者は劇団四季や浅利慶太氏に物書きとしての興味を抱いたそうだ。
ゴシップ趣味ではなく、劇団四季や浅利慶太氏は本来、興行経営の観点から論じられるべきではないか、という著者の意志。それが本書を生んだ。
もちろん浅利氏と知己である以上、本書は劇団四季と浅利慶太氏の立場に立って論を進める。だから良い面しかみていない。それは前もって頭に入れておいても良いと思う。だが、それでも本書の分析は深いと思う。

まえがきに相当する「オーバーチュア」では、劇団四季の概要と本書がどういう方針で劇団四季と浅利氏を描くかを示す。
劇団四季に対する批判は昔から演劇界にあったらしい。その批判とは、セリフが明朗で聞き取りやすいがゆえに、かえって実生活とは乖離しているというもの。
え?と私は耳を疑う。私はあまり耳が良くない。なので、セリフがよく聞き取れない演目は評価しない。なので、セリフが聞き取れないことがなぜ批判の対象になるのか理解できない。
そもそも観客は舞台の全てを感じ取ろうとするはずではないのか。
私にとってはセリフも重要な舞台の要素だと思う。だが、昔の新劇にはそうした演劇論がまかり通っていたらしい。いわゆる「高尚」な芸術論というやつだろうか。
芸術は高尚であっても良いはず。だが、さすがにセリフが聞き取りずらい事を高尚とは認めたくない。浅利氏でなくても憤激するはずだ。そうした演劇論が「オーバーチュア」では紹介されている。かなり興味深い。

「第1章 ロングランかレパートリーか」
劇団四季は日本で唯一のロングラン・システムを演ずる劇団。それでありながらレパートリー・システムも手掛けている。
他の劇団、例えば宝塚歌劇団は五組がそれぞれに1~2カ月の公演期間の演目を切り替えるレパートリー・システムを採用している。
劇団四季は「キャッツ」や「オペラ座の怪人」「ライオン・キング」など、ロングランが多い印象がある。
それが実現できた背景には劇団四季の創意工夫があったことを著者は解き明かしてゆく。
例えば専用劇場。それによって常に劇団四季の演目が上演できるようになった。
また、地方の都市にある劇場でも演目が上演できるよう、シアター・イン・シアターという舞台装置のパッケージ化を進めるなど、効率化に工夫を重ねてきた。
そうした工夫の数々がロングランを可能にしたといえる。

「第2章 俳優」
この章は、私にとって関心が深い。もちろん宝塚歌劇団との対比において。
宝塚歌劇の場合、ジェンヌさんは生徒の扱いでありながら、実際は舞台の上ではプロとして演じている。そして生徒の扱いでありながら、公演以外のさまざまなイベントに駆り出される。
そのため、ジェンヌさんは舞台だけに集中できない。

それを補完するのが宝塚に独自のファンクラブシステムだ。
私設ファンクラブであるため宝塚歌劇団からは公認されない。当然、宝塚歌劇団からファンクラブの代表に対する手当は出ない。
ところが、実際はジェンヌさんのさまざまな雑事はファンクラブの代表が代行している。チケットの手配や席次までも。むろん、無償奉仕で。

一方の劇団四季には、そもそもそうした私設ファンクラブがない。属する俳優に序列は付けないのだ。
宝塚歌劇団は一度トップスターにになると、原則としてどの公演も主演が約束される。ところが劇団四季は各公演の配役をオーディションによって決める。毎回、公演ごとに出演が約束されていないため、出演機会も限られる。
それでありながら、団員には劇団から固定給と言う形で支払われている。
生活の基盤がきちんと保障されており、なおかつ課外活動のようにファンと触れ合う必要もない。お客様とのお食事に同席する必要もない。だから劇団四季の俳優は舞台だけに集中できる。
俳優が舞台だけに集中することが演目の質に良い影響すを与えることは言うまでもない。
本書には俳優の名簿も出ているし、給与システムや額までも掲載されている。

それでいながら、演目ごとのオーディションによって団員の中に慣れも甘えも許さない。
そうした四季の運営を窮屈だと独立し、離れた人もいる。その中には著名な俳優もいる。著者のそうした人に対する目は厳しい。
劇団四季に独自のセリフ回しや、稽古などは、他の劇団ではなかなかまねができないようだ。どちらが優れているというより、それこそが宝塚歌劇団との一番の違いではないだろうか。

「第3章 全国展開と劇場」
第1章でシアター・イン・シアターが登場した。
パッケージングされた劇場設営の仕組みは、ある程度限られた劇場にしか使えない。
だが、それ以外の地方都市までカバーし、劇団四季の公演は行われている。
劇場ごとに装置も大きさも形も違う中、演目によっては上演できる劇場との組み合わせがある。
本章には地方巡業の都市と演目のマトリクスが掲載されている。
それだけの巡業を可能とするノウハウが、劇団四季には備わっているということだ。

このノウハウはまさに劇団四季に独自かもしれない。
東京や大阪、名古屋、札幌、福岡といった大都市でなければ演劇が見られない。
そうした状態を解消し、演劇に関心を集める意味でも、劇団四季が全国を巡る意義は大きいと思う。

「第4章 経営&四季の会」
この章も私にとって関心が深い。
劇団四季は、ファンクラブによる無償の奉仕(宝塚歌劇団)のような方法を取らずに、いったいどうやって経営を成り立たせているのか。おそらく、経営の手法にも長年のノウハウが蓄積されていることだろう。
余計な人や空き時間が出ないような勤務体系が成されているに違いない。
一人の社員が複数のタスクでをこなしつつ、流動する柔軟な作業体制がつくられているのではないだろうか。その分、社員は大変かもしれないが。

また、ファンクラブを公認のみに一本化していることも特筆すべきだ。
一本化するかわりにサポートやサービスを手厚くしているのではないか。
さらに私設ファンクラブの場合、どうしてもファンクラブごとに方法やサービスやサポートに差が生じる。また、その活動が奉仕に頼っている以上、ファンクラブごとの資力の差がサービスの差となる。それはファンにとって不公平を生みかねない。
ファンクラブが一本化されていることでサービスは均質になる。密接な関係を持ちたいファンには不満だろうが、不公平さを覚えるファンも減る。

本書には、観客目線と言う言葉が頻出する。
この言葉が劇団四季と浅利氏の哲学の根底にあるのだろう。
もちろん本書が劇団四季にとってよいことを書く本であることは承知。それを踏まえると、経営の中には見えない闇もあることだろう。書けない内容もあるだろう。
それでも劇団四季がここまでの規模まで成長した事実は、政治家との関係が有利に働いただけでは説明できないと思う。
今までの歴史には経営や運営の数知れぬ試行錯誤があったに違いない。
本書には浅利氏が生涯の七割を経営に割いてきた、という言葉がある。おそらくその努力を軽く見てはならないはず。

「第5章 上演作品」
ロングラン・ミュージカル(海外)。オリジナル・ミュージカル。中型ミュージカル(海外)。ファミリーミュージカル。ストリートプレイ(海外)。現代日本創作劇。その他。
著者は劇団四季の上演する演目をこの七種類に分けている。
海外のミュージカルだけに限っても、劇団四季はかなり豊富なレパートリーを持っている。
そしてそれらの中には、劇団四季が独自に翻案し、その成果が本場からも評価されている演目があるという。もちろんそうした翻案には浅利慶太氏の手腕によるところが大きいはずだ。

結局、難解な芸術だけによっているだけでは、劇団の経営は立ちいかない。
だから、芸術を追求するストリートプレイも挟みつつ、有名なミュージカルでお客様を呼ぶ。そうした理想と現実を併用しながら劇団四季は経営されてきたのだろう。
ただ、本省に出ている現代日本創作劇の演出家がいないという浅利氏の嘆きが、少し気になる。
私もそれほど演劇には詳しくないが、日本にもよいシナリオがあるように思うのだが。

「第6章 半世紀の歴史」
この章では浅利慶太氏の生い立ちから、劇団四季の旗揚げとその後の発展を描いていく。
学生劇団として旗揚げしてから、さまざまな挫折をへて、今の劇団四季がある。本章では挫折の数々も描かれている。もちろん政治家との出会いについても描かれている。
もともと浅利氏の一族は政財界に顔が広かった。そうした持って生まれた環境が劇団四季の成長に寄与していることは間違いないだろう。
それでも、本書で描かれる歴史からは、日本の演劇を育ててきた浅利氏の執念を感じる。

本章で大事なのは、そうした挫折の中でどういう手を打ってきたか、だ。
劇団四季が日本屈指の劇団に成長したいきさからは経営の要諦を学べるはずだ。

「第7章 劇団四季の未来」
本書は浅利氏が存命のうちに書かれた。今から十六年前だ。
だが浅利氏はすでに社長と会長の座を降り、取締役芸術総監督の立場に降りていた。つまり経営を他の人間に任せていた。
任せるにあたっては、劇団四季は浅利慶太氏がいなくなっても独り立ちできると判断したのだろう。実際、そのような意味の言葉を浅利氏はたびたび発しているようだ。

その後、浅利氏がいなくなってからの劇団四季はどう成長するのか。著者は大丈夫だろうと書いている。
浅利氏も自らがいなくなった後の事には何度も言及しているようだ。
それらを引用しながら、舞台、経営、大道具、意匠、営業、人事、教育に至るまでの多彩な要素で劇団四季が盤石になっていることが書かれている。

私も本書を読んだ後、浅利慶太追悼公演の「エビータ」を見に行った。素晴らしい舞台であり、感動した。
あとは十数年たってどうなるか、だ。
宝塚歌劇団も小林一三翁がなくなって十数年後、ベルばらブームの成功によって当初の理想から変質していった。それは経営の正常化のためである。ただ、同じ轍を劇団四季が踏み、営利の海外ミュージカルのみを上演する劇団になってしまうのか。
それとも今のらしさを維持しつつ、世界でも通用する劇団に成長するのか。楽しみだ。

本書はそれを占うためにも有益な一冊だと思う。

‘2018/10/24-2018/10/25


The Greatest Showman


私は劇場で舞台や映画を観る前にあまりパンフレットを読まない。だが、本作は珍しいことに見る前にパンフレットを読んでいた。なぜなら妻と長女が先に観ていて、パンフレットを購入していたからだ。だから軽くストーリーの概要だけは知った上でスクリーンの前に臨んだ。家族四人で観たのだが、妻と長女は二回目の鑑賞となる。妻子にとっては何度も観たいというほど、本作に惚れ込んでいるようだ。

妻子の言う通り、確かに本作は素晴らしい。何がいいって、とにかく曲がいい。本作にはとてもキャッチーで耳に残る楽曲が多い。ミュージカルが好きな妻子にとってはミュージカル映画の王道を行く本作はたまらないと思う。私もミュージカルの舞台や映画はよく見るのだが、本作に流れる曲の水準の高さは他の名作と呼ばれるミュージカル舞台や映画に比べても引けを取らないと思う。かなりお勧めだ。妻が最初の鑑賞でサウンドトラックを買った気持ちもわかる。

妻から事前に聞いていたのは、本作が多彩な切り口から楽しめること。だが、その切り口が何なのかは観るまでは分からなかった。そして観終わった今は分かる。それは例えば家族の愛だったり、ハンディキャップを持って生まれた方への真の意味の配慮だったり、挑戦する人生への賛歌だったり、19世紀には厳然とあった差別の現実だったり、夫と妻の間の視点の違いだったり、身分を超えた愛だったり、演劇史からみたサーカスの役割だったり、米国のエンターテイナーの実力の高さだったり、あまりCGを感じさせない本作の撮影技術だったり、いつのまにか日本のテレビから消えた障がい者だったり、本作の場面展開の鮮やかさだったり、事実を脚色する脚本の効果だったり、SING/シングのシナリオと本作のシナリオが似ていることだったり、YouTubeで流れるメイキングシーンを観たくなるほどの本作の魅力だったり、さまざまだ。

そのすべての切り口から、本作は語れると思う。なぜなら本作は、限られた尺の中で視点のヴァリエーションを持たせることに成功しているからだ。メリハリを持たせているといってもよい。本作の尺は105分とそれほど長くない。そんな短い時間の中であっても構成と映像に工夫を凝らし、これだけたくさんの切り口で語れるような物語を仕上げている。その演出手法は見事だ。

本作はどちらかといえば物語の展開を楽しむ類の作品ではない。19世紀のアメリカで異彩を放ったP・T・バーナムの生涯をモチーフとしているが、彼の生涯は詳細に語らず、端折るところは大胆に端折っている。特に、バーナムと妻のチャリティの出会いから子を持つまでの流れを「A Million Dreams」の曲に合わせて一気に描いているシーンがそうだ。曲の一番を子役の二人に歌わせ、そのあと、ヒュー・ジャックマンがふんする青年バーナムとミシェル・ウィリアムズの演ずるチャリティの声が二番を引き継ぐことで、観客は視覚と聴覚で二人の成長を知る。しかも、この流れの中で挟まれるシーンは、チャリティが身分の違うバーナムに一生をかけて添い遂げようとする意志の強さと、バーナムの上流階級を見返したいとの反骨の心を観客に伝えている。

本作には上に挙げたシーンのように、登場人物の視点や心の揺れを画面の動きだけで表す演出が目立つ。それによって映像の中に多種多様な物語をイメージとして詰め込んでいるのだ。だからこそ、上に挙げたようなさまざまな切り口を本作の中に描写できるのだろう。

私は先に挙げた切り口のうち、三つほどが特に印象に残った。それを書いてみたい。

まずは、障がい者の取り上げ方だ。かつてドリフターズがやっていた「8時だョ!全員集合」では何度か小人のレスラーがでていた。ところが、最近はそういった障がいのある方を笑うような番組は全く見かけなくなった。障がいのある方を笑うなどもってのほか、というわけだ。だが、もともとエンターテインメントとは、本作でもバーナムが語っていたように猥雑で日常には出会えない出来事を楽しめるイベントだったのではないか。障がいのあった方でも、喝采と拍手でたたえられるような場。観客が彼らを笑うのではなく、彼らが観客を笑わせる。それこそがエンターテインメントの存在意義ではないかと思うのだ。だからこそ、彼らが一団となって自分が自分であることを高らかに歌い上げる「This is me」がこれだけの感動を呼ぶのだ。

本作には大勢のフリークスと呼ばれる人々が登場する。体の一部に障がいをもち、普段は日陰に追いやられていた方々だ。本作に登場する障がい者のうち、犬男やヒゲ女、入れ墨男などは、特殊メイクだろう。だが、当時人気を博した親指トム将軍を演ずる方と巨人を演ずる方は、実際に小人症と巨人症を患いつつ俳優として糧を得ている方だと思われる。かつて「ウィロー」という、小人の俳優がたくさん出演する映画を劇場で観た。今の日本に、こういうハンディキャップを持った方々の活躍する場があり、エンターテインメントとして成立っていることを私は寡聞にして知らない。スポンサーに配慮しての、リスクを考えてのことなのかどうかも知らない。もしそうだとすれば、もし日本の一般的な娯楽であるテレビに昔日の勢いが失われているとすれば、そういう見せ物的な要素が今のテレビから失われたからではないだろうか。

もちろん、障がい者もさまざまな人がいる。人によっては表に出たくないと思う人もいるだろう。だが逆に、人前に出て自分を表現し、賞賛を受けたいと思う障がい者だっているはず。障がい者だからといって十把一絡げにあつかうのはどうだろう。本作にも、彼らのようなフリークスたちが、バーナムサーカスに入って初めて本当の家族を得たというセリフがある。とすれば、そういう場をもっと作っても良いと思うのだ。エンターテインメントとはお高くとまった娯楽であっても良いが、同時に猥雑で珍しいものという側面もなくてはならないはず。アンダーグラウンドで後ろ暗い要素は全て排除され、インターネットに逃げてしまった。それが今のテレビがオワコン扱いを受ける原因だと思う。本作は、今の我が国のエンターテインメントに足りないものを思い出させてくれる。

続いては、バーナムがパートナーのフィリップをバーでスカウトするシーンだ。「The Other Side」のナンバーに乗って二人が丁々発止のやりとりを繰り広げる。本作には記憶に残るシーンが数多くあるが、このシーンもその一つ。ミュージカルの楽しさがこれでもかと堪能できる。カクテルバーのフレアショーを思わせるようにグラスとボトルが飛び交う。今の地位を捨てて冒険しようぜと誘うバーナムと、上流階級に属する劇作家の地位を盾に拒むフィリップ。スリリングなグラスのやりとりに対応して、「The Other Side」の歌詞は男の人生観の対決そのものだ。もちろん人によって価値観はさまざま。どう受け取るかも自由だ。私の場合は言うまでもなくバーナムのリスクをとる生き方を選ぶ。バーナムが今もなお名を残す成功者であり、彼の後ろには何百人もの失敗者がいることは承知の上で。それは本作が多面的な視点で楽しむことができるのと同じだ。全ては人生観の問題に帰着する。でも、それを差し置いてもこのバーで二人が掛け合いを演ずるシーンは心が躍る。すてきな場面だと思う。

あと一つは、結婚とは夫婦の感じ方の違いであることだ。バーナムは先に書いたとおり、成功に前のめりになる人物だ。リスクをとらない人生などつまらないと豪語し、フィリップを自らの生き方に巻き込む。だが、奥さんのチャリティはバーナムとは少し違う。彼女にとって成功はどうでもいいのだ。彼女は夫のバーナムが夢を追う姿に惹かれるのだから。そのため、バーナムが成功に浮かれ、夢を忘れた姿は見たくない。フリークスの仲間や家族を置いたまま、欧州から招いたジェニー・リンドとの興行に出かけるバーナムには夢を忘れて成功に溺れる姿しか感じない。そして、リンドとバーナムにスキャンダルの報道がでるに及んでチャリティは家を出てしまう。チャリティにとってみれば成功とはあくまでも結果に過ぎない。結果ではなく、経過。理想を見る男と現実を見る女の違いと言っても良いかもしれない。

つまり、本作はただ無責任にバーナムのような投機的な生き方をよしとする作品ではない。それとは逆のチャリティの価値観を置くことでバランスをとっている。それに応えるかのようにバーナムは最後までジェニー・リンドからの誘惑に揺るがず、妻子に操を立て続ける。彼が娘たちと妻を慈しむ心のなんと尊いことか。本作、そして主演のバーナムに魅力があるとすれば、この点だろう。山師の側面と家族に誠実な側面の釣り合いがとれていること。自らペテン師と大書されたシルクハットをかぶる姿も彼からうさん臭さを払拭している。

不具のフリークスたちをたくさん抱えてはいても、根本的に彼の側の人物で悪く書かれる人は登場しない。外見は中身の醜さに比例しないからだ。むしろ、つまらぬ差別意識で垣根を築こうとする上流階級の心の狭さこそが本作においては醜さの表れなのだ。本作は、一見するといびつな人物が多数登場するキワモノだ。だが、実は本作はあらゆるところでバランスをとっているのだ。それこそが本作を支える本質なのだと思う。

バーナムとチャリティは、身分の差を乗り越えて結ばれる。もう一組、身分の差を乗り越えて結ばれるカップルがいる。フィリップとアンだ。見た目や身分の壁を取っ払おうとする本作の試みがより強調されるのが、ザック・エフロンが演ずるフィリップとサーカスの空中ブランコ乗りアンにふんするゼンデイヤが夜の舞台で掛け合うシーンだ。演目に使うロープを使って二人が演ずるダイナミックな掛け合いは「Rewrite The Stars」のメロディに合わせ、サーカスを扱う本作にふさわしい見せ場を作る。ここも本作で見逃せないシーンの一つ。バーナムがとうとう義父と分かり合えなかったように、フィリップもアンとの恋を成就させるため両親と縁を切ってしまう。このシーンは、私が妻と結婚した頃のさまざまなことを思い出させる。立場は逆の。それもあって本作は私を魅了する。

本作はとにかく歌がよいと冒頭に書いた。それらの歌は、歌い手の姿が映えていればなおさら輝く。挿入歌が良い映画はたくさんある。だが、それらはあくまでも映像の後ろに流れる曲にすぎない。本作は演者がこれらの曲を歌いながら演ずる。曲はBGMではなく、作品そのものなのだ。全ての歌い手が輝いている。(ジェニー・リンドがステージで歌うシーンはさすがに吹き替えだったが。ミッション・インポッシブルであれだけのアクションをこなしていた彼女がこれだけ歌ったとすれば、それこそ感嘆する)。特にタイトルソングと上に書いた「This is me」はフリークスが勢ぞろいして見事なダンスを見せながら歌われるのだからたまらない。

欧米はミュージカルが芸術として欠かせない。我が国も宝塚や劇団四季、その他の劇団が頑張っているとはいえ、まだまだ主流にはなっていない。それは、テレビであまりミュージカルが流れてこないためもあると思う。たぶん、ミュージカルの魅力に気付いていない日本人はまだまだ多いはず。

今の私はジャニーズ事務所に何も含むところはない。秋元康さんにも。なので、ジャニーズ事務所や秋元康さんに逆にお願いしたいのだが、所属のアイドルの皆さんにはミュージカルで遜色なく歌い踊り演じられるぐらいのレベルになってほしいと思う。そうすれば、本作のようなレベルの作品が日本から生まれることだって夢ではなくなるのだから。

それこそ、何度でも本作をリピートしてみて欲しいと思う。

‘2018/03/10 イオンシネマ新百合ヶ丘


THE SCARLET PIMPERNEL


タカラヅカのスターシステムはショービジネス界でも特徴的だと思う。トップの男役と娘役を頂点に序列が明確に定められている。聞くところによると、羽の数や衣装の格やスポットライトの色合いや光度まで差別されているとか。

トップの権限がどこまで劇団内に影響を及ぼし得るのか。それは私のような素人にはわからない。だが想像するに、かなり強いのではないか。それは演出家の意向を超えるほどに。本作を観て、そのように思った。

今回観たスカーレット・ピンパーネルは、星組の紅ゆずるさんと綺咲愛里さんがトップに就任して最初の本格的な公演だ。ほぼお披露目公演といってもよい。鮮やかな色を芸名に持つ紅さんだけに、スカーレットの緋色がお披露目公演に選ばれたのは喜ばしい。

紅さんを祝福するように舞台演出も色鮮やかだ。革命期のフランスを描いた本作では、随所で革命のトリコロール、今のフランス国旗でも知られる自由平等博愛のシンボルカラーが舞台を彩る。青白赤が舞台を染め、スカーレット・ピンパーネル、つまり紅はこべの緋色がアクセントとして目を惹く。イギリス貴族達のパーティーでは、フランスからの使節ショーヴランの目を眩ませるため、あえて下品とも言えるド派手な色合いの衣装に身を包む貴族達。ここで下品さを際立たせる事で、他の場面の色合いに洗練された印象を与える。つまり、舞台の演出効果として色使いだけで下品さと上品さを表現しているのだ。

この演出は、本作の主役のあり方を象徴している。イギリスの上流階級に属する貴族パーシーと、フランス革命に暗躍しては重要人物をフランスから亡命させるスカーレット・ピンパーネル、そして大胆にもフランス革命政府内部でベルギーからの顧問として助言するグラパン。これらは同一人物の設定だ。実際、これら三役を演ずるのは紅さん一人。この三役の演じ分けが本作の見所でもある。

ただし、演出と潤色を担当した小池氏の指示が及ぶのはここまでだろう。ここから先の演出はトップの紅さん自らが解釈し、自らの持ち味で演じたように思う。本作は、演出家の意図を超え、トップ自らが持ち味を演出し、表現したことに特徴がある。

トップのお披露目とは、トップのカラーを打ち出すことにある。殻にハマった優等生の演技は不要だ。とはいえ、本作での紅さんの演技はいささかサービス過剰といっても良いほどにコメディ色が奔放に出ていたように思う。紅さんは、タカラヅカ随一のコメディエンヌ(いや、この場合コメディアンと言うべきか?)として知られる。紅さんのシリアスな演技とは一線を画したコメディエンヌの演技は、本作に独特の味を付けている。そして、この点は本作を観る上で好き嫌いの分かれる部分ではないか。

紅さんがおちゃらけた演技を見せる際、どうしても声色が高くなってしまう。地声も少し高めの紅さんの声がさらに高くなると言うことは、女性の声に近くなる。知っての通り、ヅカファンの皆様は男役の皆さんが発する鍛え抜いた低音に魅力を感じている。それは、トップであればあるほど一層求められる素養のはず。男役トップのお披露目公演で、男役トップから女性らしさが感じられるのはいかがなものか。第一幕で感じたその違和感は、男役にのぼせることのない私でさえ、相当な痛々しさを感じたほどだ。幕あいに一緒に観た妻に「批判的な内容書いていい?」確認したぐらいに。私でさえそう感じたのだから、タカラヅカにある種の様式美を求める方にとっては、その感情はより強いものだったと思う。

だが、第二幕を観終えた私は、当初の否定的な想いとは別の感想を持った。

私がそう思ったのは、紅さんのバックボーンに多少触れたことがあるからかもしれない。まだ娘達がタカラヅカの世界に触れ始めた数年前、父娘3人で通天閣を訪れたことがある。紅さんの出身地に行きたいとの娘たちの希望で。当時、二番手男役として頭角を現していた紅さんは、紅ファイブなるユニットを組むほどにコメディに秀でた異色のタカラジェンヌさんだった。

通天閣のたもととは、大衆演劇の聖地。街を歩けば商店街の各店舗がウィットに富んだポスターを出し、そこらにダジャレがあふれている。ツッコミとボケが日常会話に飛び交い、それを芸人でもない普通の住民がやすやすとこなす街。紅さんはこのような街で生まれ育ち、長じてタカラジェンヌとなった。隠そうにも出てしまうコメディエンヌとしての素質。これは紅さんの武器だと思う。

一方で、タカラヅカとは創立者小林逸翁の言葉を引くまでもなく、清く正しい優等生のイメージが付いて回る。随所にアドリブは挟みつつもまだまだ演出に縛られがち。そもそもいくらトップとはいえ、対外的には生徒の位置付けなのだから、演出家の意向は大きいのではないか。自然とトップとしての持ち味も出しにくい。実際、妻の意見でも、最近のジェンヌさんは綺麗な美少年キャラが多くなりすぎ、だそうだ。

そんなタカラヅカに、新風を吹かせるには、紅さんのキャラはうってつけ。お笑いを学んだSMAPがお茶の間の人気者になったことで明らかなように、生き馬の目を抜くショービズ界で生き残るには笑いがこなせなければ厳しい。であれば、本作の紅さんの過剰なコメディ演技に目くじらを立てるのはよそうじゃないか。幕間に私はそんな風に思い直した。

すると、第二幕では、第一幕で感じた痛々しさが一掃されたではないか。視点を変えるだけで舞台から受ける印象は一変するのだ。ただ、その替わりに感じたのは、紅さんの魅力をより際立たせる演出の不足だ。それはメリハリと言い換えても良い。私の意見だが、演出家は、メリハリを男役トップの紅さんのコミカルさと、二番手のショーヴランを演じた礼真琴さんの正統な男役としての迫力の対比に置こうとしたのではないか。確かにこの対比は効果を上げていたし、礼真琴さんの男役としての魅力をより強めていた。私ごときが次期トップをうんぬんするのは差し出がましいことを承知でうがった見方を書くと、次期トップの印象付けととれなくもない。

だが、上に書いた通り、紅さんのトップお披露目は、タカラヅカ歌劇団が笑いもこなせる万能歌劇団として飛躍するまたとないチャンスのはず。であれば、紅さんのコメディエンヌとしての魅力をより引き出すためのメリハリが欲しかった。そのメリハリは、役の演じ分けで演出できていたはず。本作で紅さんは、パーシー 、ピンパーネル、グラパンで等しくおちゃらけを入れていた。だが、それによってキャラクターごとのメリハリが弱まったたように思う。例えばパーシーやピンパーネルでは一切おちゃらけず、替わりにグラパンを演ずる際は徹底的にぶっ壊れるといった具合にすると、メリハリもつき、コメディエンヌとしての紅さんの魅力がアップしたのではないか。特にずんぐりむっくりのグラパンからスラッと爽やかなピンパーネルへの一瞬の早がわりは、本作の有数の見せ場なのだから。この場面を最大限に活かすためにも、コミカルな部分にメリハリをつけていれば、新生星組のトップとして、笑いもオッケーの歌劇団として、またとないお披露目の舞台となったのに。

‘2017/06/06 東京宝塚劇場 開演 13:30~

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ガイズ & ドールズ


ガイズ & ドールズ。何とも時代を感じさせる題名だ。ガイズはまだしも、女性は人形扱いされているのだから。もっとも、時代は1948年。第二次大戦の勝利の余韻が鮮明に残るアメリカはニューヨークが舞台。戦争とその勝利によって男たちの意気が上がっていた頃の話である。男性優位のこのような題名が付けられたのも分かる気がする。

今、私の手元には一冊の写真集がある。そこに載っているうちの一枚は、第二次大戦の戦勝日にタイムズスクエアで看護婦にキスする水兵を撮ったものだ。アルフレッド・アイゼンスタットの撮ったその写真は、LIFE誌を語る上で欠かせない一枚として知られている。と同時に、当時のニューヨークの開放的で陽気なGUYS & DOLLSの雰囲気をそのままに映し出した一枚にもなっている。私にとって、当時のニューヨークのイメージは、この写真によって決定づけられている。

本作に登場する舞台美術は、舞台であるニューヨークのタイムズスクエアを模していると思われる。かの写真のように、明るく華やかなGUYS & DOLLSが闊歩したニューヨークが舞台に再現されている。今回は二階からの観劇となった。その分、舞台の奥行きにまで配慮された舞台美術の粋が堪能できた。

例えばニューヨークの大通りを表すため、背後の書き割は中心点に向けて描かれる。観客は遠近法が駆使された舞台にニューヨークの大通りを感じる。ネオンの看板は手前に立体的に配置され、それは夜のニューヨークにたむろするギャンブラー達の猥雑さを表しているようだ。そして床の反射である。背後の中心点に向け絞って書かれたニューヨークの夜景には、街の灯りが灯っている。これが床に反射することで、実に幻想的な効果を舞台に与えている。丁度、人通りの途絶えたニューヨークの夜が、観客の目前に再現されるという仕掛けだ。この反射の効果は、二階席だからこそ味わえた特権なのかもしれない。

本作は舞台の役者たちが立体的に動き回るわけではない。どちらかといえば、平面的な配置が多い。しかし、舞台のセットは立体的に作られている。なので、ギャンブラー達が生息する都会の息吹が舞台から感じられるようになっている。また、左右の花道を効果的に使っている。たとえばネイサンがクラップゲーム(サイコロ賭博)のショバを確保するため、ジョーイと交渉するシーン。ここでは、上手の舞台脇にある電話ボックスと下手の花道にあるジョーイの事務所の間で会話する。オーケストラボックスや銀橋を跨いでの掛け合いは、本作有数のコミカルなシーンである。また、下水道の賭場とストリートを行き来させるのに、上手の花道に設えられたマンホール状の出入り口を使う。主役やギャンブラー達はマンホールに消え、または現れる。その様は、かのマイケル・ジャクソンのBeat Itのビデオクリップのシーンを思い出させた。本作は役者達の配置を平面的にした分、こういった立体的な演出が印象に残った。

本作は平面的な役者配置が多い、と書いた。配置こそ平面的ではあるが、それは舞台を広々と使うためだと思われる。本作は場面展開毎に大勢の役者がストリートプレイを演じるシーンが多い。例えばニューヨークの雑踏。ニューススタンドやボクサー、トレーナー、旅行者、物売り、兵士、警官や浮浪者、ギャンブラーがひっきりなしに行き来する。役者たちの動きは恐らく計算された演出に従っているのだろう。ただ、私のような本作初見の観劇初心者には把握できない程のせわしなさだった。観劇後に妻から教えられたが、あのような雑多な動きこそが、観客をリピーターに仕立てるのだという。確かに、この動きは一度や二度の観劇で把握できるものではない。こういった観客を飽きさせないための仕掛けが、本作の随所に仕込まれている。それがまた、本作をロングラン作品へと変えたのではないだろうか。そして、妻から教えてもらったことがもう一つある。それは、雑踏の中の動きについての役者側の工夫である。役者たちは、演出家の演出意図をさらに展開するかのような工夫を行っているのだという。例えば、雑踏の中で演じられる寸劇。これらの寸劇の一つ一つに、役者同志でドラマの設定を当てはめているのだという。

一幕の終わり近くで、主役のスカイ・マスターソンとサラ・ブラウンがハバナに行くシーンがある。そのシーンでは、キューバンなラテンリズムに乗って舞台狭しとダンサーたちが躍り回る。その人数は、私のような初見者にはわけがわからなくなるほどの数だ。しかし、そのような場面でも役者たちがドラマを設定しているという。つまり、一つ一つの役者はその他大勢ではなく、それぞれの主役を演じているのだ。舞台で輝くのは主役の二人だけではない。周りの役者の一人一人に実は観客には分からないドラマが仕込まれているとすれば、観客のリピーター心はくすぐられること必至のはず。そういった細かい演出の数々によって、舞台にはさらに魂が吹き込まれるに違いない。アデレイドがトップ女優として踊るHOTBOXの場面でもそう。私は今回、ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じる美城れんさんの動きのコミカルさが気に入ったのだが、彼女の動きをよく見ていると気付いたことがある。舞台の中央で主役二人がすれ違いを演じている間も、ホール係やギャルソン役の役者と掛け合いをしているのだ。それもおそらく、観客にはドラマの内容が届かないことを承知の上での演技なのだろう。しかし、目の肥えた宝塚ファンには、そういった周辺をも疎かにしない細かい芸こそが喜ばれるのだろう。

私は最近、観劇のたびに、そういった主役だけではない、周囲の役者達の動きを観るようにしている。彼ら彼女らが舞台の壁の花に甘んじるだけで、「何かをしている振り」の演技を見せられると残念に思う。リアルに考えると、我々が一人の客としてお店に入った場合、我々自身が主役として現実のドラマを演じているはずだから。そういったリアリティは大事にしてほしいと思う。

今回、歌は安心して聞けると妻から聞いていた。スカイ演ずる北翔海莉さんの歌のうまさについては、先日のビルボード東京でのライブを鑑賞させて頂き、十分すぎるほど分かっているつもりだ。その上で言うのだが、本作で北翔さんはアドリブを効かせて歌っていたように思う。”こぶし”とでも言おうか。しかし北翔さんは、色を出さずに敢えて素直に歌っても良かったのではないか。こう書くと妻に首を絞められそうだが。なぜなら、サラ演じる妃海風さんの歌がとても綺麗で伸びやかで、北翔さんの声質に似ていたから。主演二人のハーモニーは実に良かった。なので、ここはハーモニーを聞かせることに徹して頂いても良かったのではないかと思う。どことなく、タメのような間合いが挟まっていて、それが一瞬の感覚のずれとして私の耳に残った。

歌については上に書いたような違和感も感じたが、総じて安心して聞けた。そのため、専ら私は演技を見ていた。そして主役二人の演技に関してはすごく良かったと思う。最初にスカイがサラのいる救世軍を訪ね、口説くシーン。ラブコメの定石通り、最初はつんけんし合う二人。だが、このシーンでスカイを拒絶しようとするサラの立ち居振舞いが、その堅苦しい救世軍の衣装に似合っていて実に自然だった。どうせ喧嘩していても、この後くっつくんでしょ的なラブコメ予定調和の匂いを感じさせない演技が気に入った。また、二人のすれ違いから相思相愛に至るまでの二人の見つめ合う顔。これもまた見物だと妻はいう。もっとも、妻がオペラグラス越しに舞台の二人の側から離れなかったので、私には二人の顔が見えなかった訳だが。二階席だし。でも妻曰く、スカイこと北翔さんが顔の表情だけで二人の間の感情の流れを演じきるところが実に良いと褒めちぎっていた。私も次回もし本作を観る機会があれば、望遠鏡を持って行こうと思う。

本作はブロードウェイで演じられた際も、コメディタッチだったと聞く。本作においてコメディ担当なのは、二番手の紅ゆずるさん演じるネイサンである。私にとっては、紅さんは今の星組の生徒さんの中でもっとも馴染みの一人といってもいい。妻から数限りなく見せられた他の星組作品でも、そのコメディエンヌとしての実力は承知の上。今回もトチりを瞬時に笑いに変える切り返しや、随所に挟むアドリブ?と思われるシーンに流石と唸らされた。かつて父娘三人で紅さんの出身地である通天閣の辺りを散歩したことがある。その産まれ育った環境を活かして、次代のトップとして新しい風を吹かせて欲しいものである。ただ、今回のネイサンはホンの少しだけコミカルな演技が空回り気味だったように思う。そもそも主演の北翔さんからして、お笑い系の素養が高い方である。なので、紅さんも少しコメディのトンガリ度を落として、お笑い系二人による相乗効果を狙っても良かったのではないかと思った。あと、アデレイド役の礼真琴さんもコメディエンヌ的な感じがとてもよかった。妻に聞いたところ、普段は男役でも出ているのだとか。そう思わせないほどに14年もネイサンに婚約状態で飼い殺しにされたままの娘役をコミカルに演じていた。ストレス性のクシャミを患っているという設定だが、そのクシャミの音が実にリアルでリアルで。

さて、ここまで演者さんたちの演技について私なりの感想を書かせて頂いた。だが、本作で一か所だけ解せなかった点があった。それは一幕の演出についてである。

ここで本作の筋を少々書く。ネイサンがクラップゲームのショバを開くために千ドルが工面できず四苦八苦していた。そのところにスカイがニューヨークに帰ってくる。さっそくそこで千ドルを巻き上げようとスカイに賭けを持ちかけるネイサン。それはネイサンの指定する女性をハバナに食事に連れて行けるか、というもの。その女性が救世軍で活動しているお堅いサラ・ブラウン。スカイがサラにツレなくされているのを見て、賭けに買ったとほくそ笑むネイサン。しかしその時点ではまだスカイは負けた訳ではないので、スカイからの千ドルは手に入らない。そして、クラップゲームのショバを求めるギャンブラー達の圧力はますますネイサンを追い詰める。そして、ある日、ネイサンたちはスカイが姿を消し、街を行進する救世軍の中にサラの姿がないことに気付く。ハバナに首尾よくサラを連れて行ったスカイは、二人で再びニューヨークに戻り、救世軍前でサラと別れようとするが、そこに救世軍の中からギャンブラー達が沢山飛び出してくる。ショックを受けて傷つくサラ。

ここである。ギャンブラー達は如何にして夜中の救世軍の教会が空いていることを知ったのか。救世軍の教会に夜中に忍び込んで賭場を開帳できることをいつ知ったのか、についての伏線がどこにもなかったように思う。しかも、サラがスカイからのハバナへの申し込みを承諾するシーン。ここも唐突だったように思う。分かる人には分かる台詞でサラはスカイの誘いを承諾する。だが、そこから急に舞台はハバナへと飛ぶ。この部分の流れが少し分かりにくく、私のような本作初見者にはスッと頭に入らなかった。後で幕間に妻に聞いたほどである。

例えばこのシーンは、サラがスカイの誘いに乗ることを観客に伝える工夫ができたのではないだろうか。その上で、その夜は救世軍が夜間空き家になることを、例えば舞台袖でギャンブラーの誰かに聞かせることで、ギャンブラーと観客双方に伝える演出。そういった演出上の工夫で筋を説明的になることなく演出すれば、私のように勘の悪い観客にも上手く伝わるのに、と思った。一幕と違い、二幕が実に分かりやすかっただけにここは残念。是非機会があれば他の組の演目や、ブロードウェイバージョン、またはマーロン・ブランドの映画版でこのシーンの扱い方を見てみたいと思った。

さて、私にとって良いことも悪いことも書いたが、結果としては素晴らしい作品だと思った。観劇の満足感が残る。ブロードウェイの香りのする優れた作品を優れた役者=生徒さんたちによって観させて頂くのは実に素晴らしい。しかも舞台の内容を思い出すと、他の版とも比較して見てみたいという欲求が湧く。おそらくはそうやって思ってくれる観客が何世代にもわたって居続けたことが、再演また再演と宝塚でリバイバル上演され、そしてその積み重ねが101年という年月に繋がったのではないか。本作もまた、どこかの組でいずれは再演されるのだろうか。その時はまた観てみようと思う。

‘2015/11/15 東京宝塚劇場 開演 15:30~
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宝塚歌劇百周年によせて


 数日前、「宝塚歌劇100年展 夢、かがやき続けて」を観てきました。本展は宝塚歌劇100周年記念と銘打たれたものです。今夏に兵庫県立美術館で開催されていたのですが、行かれずじまいでした。それが東京でも催されるというので、妻子と有楽町まで足を延ばしました。

 今年は宝塚歌劇が生まれて100年。各メディアでも大きく取り上げられました。宝塚に縁のない方でもあちらこちらで関連イベントを目にしたことと思います。

 宝塚。まだ観たことのない方にとって、その世界は奇異なものに映るかもしれません。女性だけの劇団で、男性も女性が演じ、洋物も和物もなんでもござれ。同じスカーフを巻いたヅカファンが目を輝かせて出待ち入待ちと称して劇場前で列をなし、目当てのスターに嬌声を浴びせる。劇場内外で繰り広げられる独特の世界観は、宝塚に偏見を持つ人をますます遠ざけさせるものがあります。

 妻が両足どころか腰まで浸かったレベルのヅカファンであることから、私はその世界にはある程度親しんでいます。もっとも私の場合、初めて宝塚を観劇したのは、妻と一緒ではありません。大学時代にお付き合いしていた女性がヅカファンで、その時に連れて行ってもらったのが最初でした。

 それまでは宝塚に対する知識も皆無で、世間のイメージに歪められた少しの偏見も持っていました。さぞやカルチャーショックを受けただろうと思われるかもしれません。しかし、全く宝塚に対する免疫のなかったその時ですら、舞台の素晴らしさに衝撃を受けました。阪神・淡路大地震の記憶も新しい中、宝塚大劇場で、大勢の女性と一緒に早朝から並び、ファンクラブのお世話役さんに席を取って頂いた経験も想い出深いです。

 その時の舞台は天海祐希さんのサヨナラ公演でした。彼女を始め、タカラジェンヌの多くがテレビを始めとした芸能界で活躍されています。今回観た100周年展でも退団された歴代のタカラジェンヌの色紙が飾られていました。宝塚が100年永らえたのも、創設した故小林逸翁の先見の明と、日本に老若男女誰もが楽しめる国民劇をという意識が連綿と受け継がれたことに加え、歴代の生徒、スタッフの努力があったからに他なりません。

 たとえそれが、箕面有馬電気軌道という弱小会社の苦肉の策とはいえ。関西の奥座敷にある温泉場の余興が始まりとはいえ。プールに蓋をして舞台とした発祥は、忘れたい過去であるどころか、むしろ誇るべきものと思います。

 最近、ヅカファンたちに「ムラ」と親しみを込めて呼ばれる宝塚大劇場の近辺が、さびれつつあるような気がしてなりません。宝塚ファミリーランドの跡地は住宅展示場やガーデンフィールズなる施設として放置されています。一基残されたメリーゴーランドが、かつての賑わいを今に伝えています。いや、そうではなく、忘れ去られようとしている創設当時の夢と熱意を体現しているのかもしれません。

 このところ、演目は宝塚大劇場で上演された後、有楽町の東京宝塚劇場で千秋楽を迎えるのが恒例になりつつあるようです。本当にこの順番でよいのでしょうか。演目の千秋楽や、トップスターのさよならショーが宝塚大劇場でなく、東京で行われることが当たり前になりつつある現状。宝塚から有楽町へ、本拠地を気づかぬうちに少しずつ移そうという動きが透けて見えるかの如く。

 東京、有楽町、銀座。日本の繁華街の代表的な存在です。確かにここに劇場を構えることは、一つの到達点と言えると思います。山梨出身の逸翁にとっても、或いは泉下で本懐を遂げた想いでいらっしゃるかもしれません。しかし、私は、宝塚には発祥の地を忘れて欲しくないと思います。

 プールの上でドンブラコを演じた幕開けから、華々しいレビューを花咲かせた昭和初期。戦時下の不条理にも思える戦意称揚演目の数々から、戦後の復興。凄惨な舞台上での死亡事故やブロードウェイミュージカルの導入、ベルバラブーム。先人の築き上げた歴史の上に、今のプラチナチケット化した星組の隆盛があるのではないでしょうか。そこには華やかさだけでなく、苦労と苦難が下積みになってのものだと思います。

 これからも日本発の本格的な劇団として、宝塚は続いていくことと思います。宝塚の名を残すため、登記上の本店は宝塚市に置いているけれど、実質的な本社機能は有楽町に、といった上辺を飾った劇団には堕ちて欲しくないと思います。便利でステータスのある有楽町ではなく、わざわざ奥まった宝塚-ムラに呼び寄せるだけの魅力。これこそが宝塚の原点だと思います。当初しのぎを削った松竹歌劇団が衰退したのも、安易に東京と大阪に分けたことにも一因があるとか。東京で大いにやるのも結構。東京宝塚劇場も結構。経営が安定してこその劇団です。でもそれは宝塚の出先としての東京であってほしい。発祥を忘れて東京に軸を移した途端、東京の喧騒に呑みこまれて存在感を失くす。そんな将来図が目に浮かびます。

東京集中の流れに異を唱えるかのように、大正から昭和にかけ、阪神間モダニズムが栄えました。その頃の阪神間は、日本でも有数の文化ゾーンでした。阪神間モダニズムのエリアは、そのまま今の阪急阪神ホールディングスの路線網に重なります。宝塚歌劇団のバックボーンには、阪神間モダニズムを線路でつなぎ続けた誇りがあるはずです。その流れを汲み、しっかりと本拠を宝塚に置き、東京への誘惑に屈しないで頂きたい。

今回100年展を観覧し、改めてそんな思いに駆られ、本稿を書きました。


アナと雪の女王


2日連続で劇場で映画鑑賞するのは久しぶりである。今日は本作を家族とともに鑑賞した。

昨日がディズニーの映画製作の裏側を描いた実写なら、今日は、ディズニー映画の王道である、アニメーションによるファンタジーである。

映画館での予告編を何度かみていて、圧倒的な氷と雪の映像、そして素晴らしい歌唱を見聞きしていただけに、期待できそうだ、という思いを持ってスクリーンに臨んだ。

果たして、映像と歌唱については、実にすばらしいものがあった。この2つを劇場で体験するだけで映画代の価値はあると思える。氷や雪の質感がCGだけであれほどまでにリアルに表現できる時代に生きていることを素直に喜びたい。IT技術の端くれで生計を立てているものとして、これ以上のCG技術の進化はありえるのだろうか、と思わせるほどであった。

歌唱についても、耳に残るだけでなく、過去のディズニー主題歌と比べてもオペラチックな盛り上がりは一頭群を抜くものがある。パンフレットに載っていたが、ミュージカル仕立ての本作にふさわしく、声優の多くがミュージカル経験者のようである。今回観たのは日本語吹き替え版だったが、松たか子さん、神田沙也加さんともにミュージカルでも活躍されていることもあり、日本語の歌も素晴らしかった。鑑賞前は、本家に比べて歌のパートが劣るのでは、と若干の不安があったがそんな失礼な心配は杞憂であり、伸び伸びとした歌いっぷりは見事なほどであった。

ただ、ストーリー面では、一連のディズニー大作に比べると、新鮮味が落ちることは否めない。アンデルセンの「雪の女王」を原案としているため、街と城、そして遠く離れた地に建てられた城とを登場人物たちが往復する、といった構成に既視感を覚えてしまうのである。ただし、それも含めて、大胆な脚色や翻案があちらこちらでくわえられており、鑑賞後の感想としては新たな物語の創出がなされた、と思える。特に結末については、見事な肩透かしを食わされた。と同時に膝を打って納得したい想いである。時代は今、家族や肉親のきずなを見直す方向に舵切っているのかもしれない。

なお、映画冒頭では「ミッキーのミニー救出大作戦」という短編アニメが上映される。ディズニーの原点であるスチームボートウィリーの世界観を活かしつつ、現代風に大幅にアレンジした本作、必見である。丁度昨日、ディズニーの基礎について学んだばかりであり、非常に嬉しい。本作だけでもDVDを購入したいぐらいである。

’14/3/22 イオンシネマ 新百合ヶ丘