Articles tagged with: ミステリー

叫びと祈り


本書は毎年末に恒例のミステリーのランキングで上位に推された。
連作の短編集である本作は、著者の処女作。初めての小説で上々の評価を得た著者の実力は確かだと思う。

実際、本書はとても面白い。ミステリーの骨法をきちんと備えている。
語りの中にときおり詩的な描写が挟まれ、それでありながら、簡潔な文体で統一されている。さらに短編なので一つ一つの物語がすいすいと読める。ミステリーが苦手な方にも勧められる。

何よりも面白いのは、本書に登場するそれぞれの物語の舞台が国際色豊かなことだ。本書に収められた五編のうち、日本が舞台の物語は一つもない。

五編の物語はそれぞれ、サハラ砂漠、中部スペインのレエンクエントロの風車、ウクライナに隣接する南ロシアロシア南部の修道院、アマゾン奥地のジャングル、東南アジアのモルッカ諸島の島、といった特殊な環境を舞台としている。

日本人にはなじみのない環境と文化。その中で起こる謎。斉木が解決するのはそのような事件だ。
斉木は、世界の問題を取り上げる雑誌の記者だ。語学に堪能で、海外の暮らしには不自由を覚えることはない。さらに、物事に対する深い洞察力を持っている。

「砂漠を走る船の道」

本編こそが、著者の名を大きく高めた一編だ。

砂漠をゆくキャラバン。
キャラバンが向かうのは塩を算出する場所。ここで岩塩を切り出し街へと運ぶ。
太陽が目を灼き、砂が肌を痛めつける。砂がすぐに覆い隠してしまうため、過酷な道は道の体をなしていない。
その道を間違いなく行き来し、天気や環境を知悉するには長年の経験が欠かせない。
キャラバンの一行は荷駄を預けるラクダとリーダーと二人の助手、そしてリーダーに懐く若いメチャボ。
だが、帰途に砂嵐に遭遇し、リーダーは死ぬ。その帰り道には二人の助手のうち一人がナイフを刺されて死んでいた。

一体、何が動機なのか。その動機の謎と過酷な環境の組み合わせがとても絶妙。その関連が印象に残る。
結末ではもう一つの謎も明かされる。その意外性にも新たなミステリーの地平を見せられた気がする。

「白い巨人」

この一編は、風車をめぐる歴史の謎が絡む。
レコンキスタ。それはかつて、イベリア半島を支配したイスラム勢力を再びアフリカに追いやる運動だ。本編に登場する風車は、レコンキスタの戦いの中で、敵であるイスラム側の戦況を味方に伝えようとした斥候が追われ、逃げ込んだ場所だ。逃げ込んだ斥候は風車の中にうまく隠れ、レコンキスタの成就に決定的な役割を果たしたという。

本編に登場するサクラが、かつて想いを寄せた女性を見失ってしまったのも同じ風車。人を消す風車の謎を軸に本編は進む。

風車の謎以外にも、もう一つの謎が明かされる結末もお見事。

「凍れるルーシー」

生きているように、こんこんと永遠の眠りにつく遺体。それを不朽の体、つまり不朽体という。
西洋にはそうした不朽体がいくつか報告されているそうだ。

十字架の上で死んだメシアが復活する。言うまでもなくキリスト教の教義の中心にある奇跡だ。そうした現象を教義に据えるキリスト教が文化に深く影響を与えている以上、西洋のあちこちで不朽体のような現象への関心が高いことは理解できる。

本編の舞台である南ロシアの修道院にも、不朽のリザヴェータの聖骸がある。今までは世間に知られていなかったリザヴェータを聖人として認定してもらうよう、修道院長がロシア正教会に申請を出したことがきっかけで事件は動く。修道院には聖骸を熱狂的に崇める修道女がいて、聖人申請がうまく行かないのではと不安に苛まれる。

そんな所に修道院長が死体となって発見されたことで、事態は一気に混迷に向かう。

本編も短編ならではの簡潔でキレのある物語だ。効果的な謎の提示と収束が魅力的だ。

「叫び」

本編の舞台はアマゾンの奥地だ。隔絶された部族を取材したクルーが遭遇する殺人事件。
だが、斉木たちクルーが部族の集落を訪れた時点で、集落には正体が不明の伝染病が猖獗を極めていた。殺人が起こる前からすでに絶滅寸前の部族。

そのような絶望的な状況でありながら殺人が起こる。どうせ死んでしまうのに、なぜ殺人を犯す必要があるのか。その動機はどこにあるのか。
そこには部族が持つ独特な世界観が深くかかわっている。

本書を通じて思うのは、著者は動機を考えるのがとてもうまいことだ。
それは世界各国の社会や文化についての深い造詣があるからに違いない。
文化によって守るべき考えはそれぞれだ。ある文化では当たり前の慣習が、ある文化では忌むべき振る舞いとなる。よく聞く話だ。

それを短い物語の中で読者に簡潔に伝え、文化によってはそのような動機もありなのだ、ということを謎解きと並行して読者に納得させる。

その技は簡単ではない。

「祈り」

こちらは今までの四編とは少し趣が違っている。語り手によって語られるのはゴア・ドア──祈りの洞窟についてだ。
語り手は誰に対して物語を語っているのか。そこでは上に紹介した四編の物語が断片的に触れられる。

語りの中から徐々に露になってくるのは、斉木が不慮の事故で記憶を失ったこと。
世界を股にかけ、最も自由な生き方をしていた斉木。日本人の認識の枠を超え、自由な考え方をモノにしていたはずの斉木に何が起こったのか。

文化にはさまざまな形がありうるし、その中ではさまざまな出来事が起こりうる。
文化の違いに慣れ、事故に強かったはずの斉木にも防げなかった衝撃。それだけの衝撃を斉木はどこでどのように受けたのか。

果たして斉木は復活しうるのか、

本編はミステリーよりも、四編の短編を受けた一つの叙情的な物語の色が濃い。
文化はいろいろとあれど、それらを共有するのも伝え合うのも人、ということだろう。

‘2019/12/8-2019/12/11


任務の終わり 下


本書では、上巻で研がれたハーツフィールドの悪の牙が本領を発揮する。
人々を自殺へと追い込む悪の牙が。
ハーツフィールドの狡知は、旧式のポケットゲーム機ザビットのインストール処理を元同僚の女性に依頼する手口にまでたどり着く。

そのインストールが遠隔で実現できたことによって、SNSやブログ、サイトを活用し、ハーツフィールドは自らの催眠処理が埋め込まれたソフトを若いティーンエイジャーに無差別かつ広範囲に配り、自殺願望を煽る手段を手に入れた。

さらに、身動きならないはずのハーツフィールドの肉体から、他の肉体の人格を乗っとる術に磨きをかける。その結果、自らの主治医であったバビノーや、病院の雑用夫の体も完全にのっとることに成功する。
ところが、そんな恐ろしい事態が進んでいることに誰も気がつかない。病院の人々や警察までもが。
何かがおかしいと疑いを抱きつつあるのはホッジズとホリーだけだ。

果たして、ハーツフィールドの狡知をホッジズとホリーは食い止められるのか。
本来ならば、本書にはそうしたスリルが満ちているはずだ。
ところが、著者の筆致は鈍いように思える。
かつての著者であれば、上巻でためにためたエネルギーを下巻で噴出させ、ジェットコースターのように事態を急加速させ、あおりにあおって盛大なカタストロフィーを作中で吹き荒れさせていたはず。
だが、そうはならない。

『ミスター・メルセデス』で描かれていたハーツフィールドは、頭の切れる人物として描かれていた。
ところが、脳の大半を損ねているからか、本書のハーツフィールドにすごみは感じられない。
ハーツフィールドの精神はバビノーの肉体に完全に乗り移ることに成功する。
とはいえ、そこからのハーツフィールドはいささか冴えない。
そればかりか、ハーツフィールドはおかしなちょっかいをかけることでホッジズにあらぬ疑いを持たせるヘマをしでかす。
かつての著者の諸作品を味わっている私からすると、少し拍子抜けがしたことを告白せねばなるまい。

本書は、ハーツフィールドがどうやって人々にソフトウエアを配布し、自殺に追い込むか、という悪巧みの説明に筆を割いている。
そのため、本書にはサスペンスやアクションの色は薄い。著者はスピード感よりもじっくりと物語を進める手法を選んだようだ。

おそらく、著者は最後まで本書をミステリーとホラーの両立した作品にしたかったのだろう。
それを優先するため、ホラー色はあまり出さず、展開もゆっくりにしたと思われる。
老いたホッジズと、精神だけの存在であるハーツフィールドの対決において、ど派手な展開はかえって不自然だ。
本書はミステリー三部作であり、ミステリーの骨法を押さえながら進めている。

上巻のレビューでも少しだけ触れたが、本書には技術的な記載が目立つ。
どうやってSNSに書き込ませるか、どうやってソフトウエアを配布するか。
そうした描写に説得力を持たせるためもあって、本書はほんの少しだが理屈っぽい面が勝っている。

理屈と感情は相反する。
理屈が混ざった分、本書からは感情を揺さぶる描写は控えめだ。
ところが、感情に訴えかける描写こそ、今までの著者の作品の真骨頂だったはず。
感情と理屈を半々にしたことが、本書からホラーのスピード感が失われた原因だと思う。
本書に中途半端な読後感を与えるリスクと引き換えに、著者はミステリーとしての格調を保とうとしたのだと私は考える。
だが、それが三部作の末尾を飾る本書に、カタルシスを失わせたことは否めない。

だが、その点を踏まえても本書は素晴らしいと思う。
本書の主題は、ホッジスという一人の人間が引退後をどう生きるのかに置かれている。

それは本書で描いているのが、ホッジズの衰えであることも関わっているのだろう。
より一層ひどくなっていくホッジスの体の痛み。それに耐えながら、ホッジズはハーツフィールドの魔の手から大切な人を守ろうとする。ホッジズの心の強さが描かれるのが本書だ。

ホッジズの死にざまこそ、本書の読後感にミステリーやホラーを読んだ時と違う味わいを与えている。
そうした観点で読むと、本書のあちこちの描写に光が宿る。

ホッジズの心の持ちようは、ハーツフィールドの罠によっていとも簡単に心を操られるティーンエイジャーの描写とは対照的だ。
ハーツフィールドがゲームを通じて弱い心にささやきかける自殺の誘い。
その描写こそ、著者の作家としてのテクニックの集大成が詰まっている。
だが、巧みな誘惑に打ち勝つ意志の強さ。それこそが本書のテーマだ。

さらに、その点からあらためて本書を読み直してみると、本書のテーマが自殺であることに気づく。
『ミスター・メルセデス』の冒頭は、警察を退職し、生きがいをなくしたホッジズが自殺を図ろうとする場面から始まった。
ところが、三部作を通じ、ホッジズは見事なまでに生きがいを取り戻している。
そして、死ぬ間際まで自らを生き抜く男として描かれている。
それは、あとがきにも著者が書いている通り、生への賛歌に他ならない。

人はどのような苦難に直面し、どのような障害にくじけても、自分の生を全うしなければならない。
それが大切なのだ。
何があろうと人の精神は誇り高くあるべき。
人は、弱気になると簡単に死への誘惑に屈してしまう。
そこにハーツフィールドのような悪人のつけ込む余地がある。
上巻のレビューにも書いたように、電話口で誘い出そうとする詐欺師にとって、人の弱気こそが好物なのだから。

また、本書の中でザビットと呼ばれるポケットゲーム機やゲームの画面が人の心を操るツールとなっているのも著者の意図を感じさせる。
いわゆる技術が人の心に何を影響をもたらすのか。
著者はデジタルを相手にすることで人の心が弱まる恐れや、情報が人の心を操る危険を言外に含めているはずだ。

私も情報を扱う人間ではあるが、情報機器とは、あくまでも生活を便利にするものでしかないと戒めている。
それが人の心の弱さをさらけ出す道具であってよいとは思わない。
ましてや、心の奥底の暗い感情を吐き出し、自分の心のうっぷんを発散する手段に堕してはならないと思っている。

技術やバーチャルに頼らず、どうすれば人は人であり続けられるのか。
本書が描いている核心とは、まさにそうした心の部分だ。

‘2019/4/25-2019/4/26


任務の終わり 上


『ミスター・メルセデス』から始まった三部作も本書をもって終わる。

前作の『ファインダーズ・キーパーズ』のラストは、昏睡し続けるミスター・メルセデスことハーツフィールドの不気味な姿を暗示するかのようにして幕を閉じた。
『ミスター・メルセデス』では、ホリーがハーツフィールドの頭部に叩き込んだ一撃によって大量殺戮の惨劇はすんでのところで食い止められた。
脳のかなりの部分を破壊されたハーツフィールドは、植物状態で昏睡し続けているはずだった。

本書は、意識を取り戻したハーツフィールドの視点で物語が始まる。脳に障害を持ったまま、意識を取り戻したハーツフィールド。脳に負った重大な障害により、ハーツフィールドの肉体は機械によって生かされているに過ぎない。
復讐の念だけが肥大したハーツフィールドの歪んだ想念は、ハーツフィールドの主治医である神経科医師のバビノーが違法に処方した薬によって、特異な能力を覚醒させる。
その結果、ハーツフィールドは人の心を操る術を身に付ける。

古いポケットゲーム機のゲームの画面から、人の脳を催眠状態に導き、人の脳を操る能力。それによって殺人鬼であるハーツフィールドことミスター・メルセデスが再び蘇る。

その設定は、本書を正統なミステリーの枠からはみ出させる。
『ミスター・メルセデス』は、正統なミステリーとして著者にエドガー賞を受賞する栄誉を与えた。
それは、著者の筆力がミステリーの分野でも認められた証であり、もちろん素晴らしいことだ。
だが、著者の本分がホラーにあることは言うまでもない。
人の心を操れる殺人鬼、との非現実的な設定は、著者がホラーの分野に戻ってきた事を意味する。著者のファンにとっては喜ばしい事でもある。

ところがホラーに戻ってきた著者は、本書を荒唐無稽な設定にしない。そこが著者の素晴らしいところだ。
ハーツフィールドの体は自ら動かせられない。だから殺人鬼にとって制約は多い。
人の心に操れるようになったとは言え、体が動かせない以上、手段は限られる。
その手段とは、人の心を催眠状態に導くゲームしかない。
そこをどうやってハーツフィールドが成し遂げていくのか。これが本書の主眼だ。

本書は、ハーツフィールドによって徐々に操られていく人々を描く。ハーツフィールドの意志が徐々に彼らの意思を侵食してゆくにつれ、二つの意思が混じり合ってゆく。
それを書き分けてゆく手腕は、著者の筆力の真骨頂だ。
本書には著者がかつての作品で描いたような、原色のけばけばしさを想起させるような描写はあまり現れない。
あくまでも端正な描写でありながら緊張感を保っている。

その中でどうやっハーツフィールドが人の心を操るのか。どうやって人の脳を催眠状態にもっていくのか。そしてどのようにしてゲーム機の中身を改造し、それを人々に広めていくのか。
そこには、ハーツフィールドの職歴にあったプログラマーとしての知識が欠かせない。
そこの部分を荒唐無稽にせず、あくまでも理路整然としたミステリーの体裁を崩さないところがとてもよい。

一方、ファインダーズ・キーパーズ探偵社のホッジスとホリーの2人は、コンビネーションが板につき、順調に業務をこなしている。
そして、『ミスター・メルセデス』ではホッジスは、定年で退職した刑事との設定だった。
そこから長い年月がたち、ホッジズの肉体はさらに老い、異変が生じる。ホッジズが残された人生の中で何を成し、何を防ぎ、何を残してゆくのか。そして何を引き継いでいくのか。
それが本書の読み応えだ。

本書はホッジズとハーツフィールドが繰り広げる頭脳と頭脳の戦いとして読める。
前作の欠点として、登場人物がベラミーとホッジズとホリー、そしてピートとアンディの限られた人数に絞られており、人物の動きに予定調和が見られ、著者によるご都合主義が見られると書いた。
本書には、そうした欠点はあまり見られない。

ハーツフィールドが脳に障害を負ってから、少しずつその能力を悪事に発揮してゆく様がじっくりと時間を掛けて描かれている。
そこに不自然な印象や著者のご都合主義は感じられない。
人を催眠に掛け、操るスキルがハーツフィールドの中で熟していく様子が気を遣って書かれている。

ホラーの要素も盛り込みつつ、そうした配慮が本書をミステリーとして成立させている。

本書がテーマにしているのは、人の心の強さと弱さだ。
人が自我を保ち続けるためには、何が必要なのか。
そしてその鎧を壊すために最も有効な方法とは何か。
著者は長年の作家生活で得た心理学の知識の全てを本書に詰め込んでいるように思える。

人の心がいかに弱いものか。
それは私たち自身がよく知っている。
例えば催眠状態とは、人が意識する事もなしに、簡単に自らにかけることができる。
暗示とは、自分への罠でもある。
例えばテレビをボケーっと見る。例えば携帯をなんとなく眺める。それだけで人の心はたやすく無防備な状態になる。

心理とは人の心にとって弱みであり、強みでもある。
ハーツフィールドのように超能力を使うことがなくとも、私たちは弱みにつけ込まれやすい。
電話越しに聞く詐欺師の口調、いわゆるオレオレ詐欺の類の手口が一向に減らない事でもそれは明らかだ。
不意をつかれた時、弱みをつかれた時、狼狽した時、人は簡単に自らの弱さをさらけ出す。
それは、ハーツフィールドのような悪意を持つ人物には格好の弱点だ。

本書の設定を荒唐無稽と片付けるのはたやすい。
だが、それを絵空事として片付けていてはもったいない。
本書をせっかく読んでいるのだから、スリルを愉しみながら学ぶべきこともあるはずだ。
どうやって自分の心の弱さをさらけ出さずに済ませるか。
ホッジズのように体に異変を覚えつつも、信じる者のために突き進む意志の保ち方とは何か。
本書からは得る物が多い。

‘2019/4/23-2019/4/24


七日間ブックカバーチャレンジ-占星術殺人事件


【7日間ブックカバーチャレンジ】

Day3 「占星術殺人事件」

Day3として取り上げるのはこちらの本です。

Day2で書いた、私が生涯でもっと多く読み返した二冊の本。
その一冊がDay2で取り上げた「成吉思汗の秘密」で、もう一冊が本書です。ともに十回は読み返しているはずです。

Day2で私が読書の習慣にハマったのは9歳の頃、と書きました。
いたいけな私を読書の道に引きずり込んだのは、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズでした。
ポプラ社から出されており、怪人二十面相や明智小五郎、小林少年でおなじみですね。

解決すると胸の支えがスッと取れる複雑怪奇な謎。そしてどことなく怪しげな、推理小説の放つ魅惑の世界。幼い頃の私はそうした推理小説の魅力に一気にハマりました。ルパン、ホームズはもとより、子供向けに書かれた世界の名作と呼ばれた本にまで手を出し。
友だちに本キチガイと呼ばれ、足しげく西宮市立図書館に通っていたのはこの頃です。

もっとも、私がハマっていたのは推理小説だけではなく、野球史や歴史小説、動物小説も読んでいました。ですが、ベースは推理小説でした。トラベルミステリーや三毛猫ホームズにもハマっていましたし。
そして、そんな私を最もガッチリと捕らえたのが本書でした。

本書は江戸川乱歩賞の応募作でしたが落選しました。
当時の推理小説はまだ社会派と称された推理小説(松本清張氏の一連の作品が有名です)の分野が主流で、謎解きに特化した本書の作風が選考委員の先生方に受けなかったのかもしれません。
ところが、本書の登場によって、謎解きに焦点を当てた本格派と呼ばれる推理小説が復権したのですから面白い。
私はそうした本格物と呼ばれる作品も読み漁りました。ですが、やはりルーツとなるのは本書です。

本書のトリックがどれだけ独創性に溢れていたか。そして意外な真相につながる驚きを秘めていたか。
それは後年に「金田一少年の事件簿」で本書のメイントリックが流用されたことからもわかります。
当時、少年マガジンで連載を読んだ時、すぐに本書のトリックのパクリや!と気づいたぐらいですから。

本書はまさに推理小説の魅力的な謎、そして謎が解き明かされる時の快感と驚きに満ちています。

そればかりか、世の中には不思議な事が確かに存在する事を教えてくれました。そうしたことは普通、学校では学べません。
また、不思議の背後には論理的なタネがあり、それはヒラメキと知識によって理解できることも。

後年、SEになった私が、アルゴリズムを解き明かした時の快感。
またはビジネスの流れをロジックで再現できた時の喜び。
本書を始めとした推理小説は、そうした喜びを私の無意識に教えてくれていたのかもしれません。

本書は推理小説のジャンルで何がおすすめか聞かれた際、自信を持って挙げられる一冊です。
推理小説に限らず、読書の喜びを知らない人にも。
実際のところ、本書をまだ読んでいない方はうらやましい。謎が解かれた時の喜びを新鮮に味わえるのですから。

もちろん、本書の他にも推理小説の名作は数え切れないほどあります。多分、百冊は挙げられると思います。
ここでは割愛しますが、皆さんがさまざまな作品に触れられますように。

ということで、二つ目のバトンを渡させていただきます。
本を愛する友人の 野田 収一 さんです。
野田さんはマーケターでありディレクターでありながら純文学にも造詣が深く、私にとっては文学談義を交わせる数少ない方の一人です。

それでは皆さんまた明日!
※毎日バトンを渡すこともあるようですが、私は適当に渡すつもりです。事前に了解を取ったうえで。
なお、私は今までこうしたチャレンジには距離を置いていました。ですが、このチャレンジは参加する意義があると感じたので、参加させていただいております。
もしご興味がある方はDMをもらえればバトンをお渡しします。

「占星術殺人事件」
文庫本:544ページ
島田荘司(著)、講談社(2013/8/9出版)
ISBN978-4-06-277503-8

Day1 「FACTFULLNESS」
Day2 「成吉思汗の秘密」
Day3 「占星術殺人事件」
Day4 「?」
Day5 「?」
Day6 「?」
Day7 「?」

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
7日間ブックカバーチャレンジ
【目的とルール】
●読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する
●本についての説明はナシで表紙画像だけアップ
●都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする
#7日間ブックカバーチャレンジ #占星術殺人事件


アリス殺し


「このミステリーがすごい」で本書が上位に入っていたこともあって久々に著者の本をよんだ。

夢の世界に起きた殺人が現実の世界にも影響を与える設定。これはSFでは有りそうな設定だが、ミステリーでは冒険だ。なぜ設定のような現象が起きるのか。そんな整合性は度外視される。ただつながっているからつながっている。そんな突き抜けた感じが本書の全体に漂っている。

そういうことが許されるのも、アリスの不思議な世界をモチーフとした夢の世界という本書の設定がユニークだからだろう。その設定だけで、不条理なことも何となく丸く収まってしまうから面白い。夢の世界とこちらの世界。世界は全く違うのに、人物が一対一になっているのが本書のミソだ。自分のもう一人の分身が夢の世界にいる。そのことに気付く人と気づかない人。それは鋭敏な感覚、または夢の世界を克明に覚えている人物だけが気づく。夢の中では己の分身は人間ではなく別の物に化けていることもある。三月ウサギとか、ハートの女王とか。夢の中に自分の分身がいることに気づく登場人物とそうでない人物によって現実の世界の人物の行動が変わることにも注目だ。

違うものに化けている。つまり、夢と現実が人の意識でリンクしている。だがそれが誰が誰ことに気づいている者たちの間ですら、現実の誰が夢の誰か、夢の誰が現実で誰か、お互いにわからない。そしてそれは読者も同じ。それが本書のキモだ。読者は誰が誰に対応しているのか、さんざん著者のミスディレクションに振り回されることになる。私もやられた口だ。

夢の世界、つまりアリスの世界には奇妙キテレツな言動の主がわんさか登場する。彼らが発する不条理で混沌とした言葉がさらに読者を惑わす。現実の世界で起こった事件が、夢の世界では違う趣の事件に対応する。犯人と探偵役が、どういう関係になっているか、果たしてこのアンフェアにすれすれのミスディレクションに惑わされない読者はいるのだろうか。本書の帯にもこうかかれている。「正解不可能」と。

本書は、犯人が判明したあとの展開も面白い。その不思議の国の不条理な世界だからこそありのグロテスクさ。著者の作品は以前にも読んだことがある。その時にもグロテスクな世界観を好む作家だなあと思った記憶がある。不条理な夢の世界では、人間の世界の規範に当てはめるとドギツイこともたくさん登場する。犯人に対するお仕置きのシーンのグロテスクさなどは著者の本領が発揮されているのではないか。そうした描写がいとも簡単に書き込めるのも、著者が仕掛けた設定の妙にあることは言うまでもない。しかも、最後にはさらなる仕掛けが読者を別の世界に突き落とす。これもまた、たまらない。

本書のようなタイプの小説は、現実を現実の外の視点で、つまりメタ現実として眺めることを読者に求める。それは認識の原点にまで関わることだ。そもそも私たちが生きるこの世界の法則が正しいなど、誰が決めたのだろうか。誰にも強いられたわけではない。ただ子どものころからの教育としつけのたまものに過ぎない。周りがその認識を正しいと信じているから、それに従ったほうが角を立てずに生きていけますよ、という約束事として私たちが教え込まれてきただけの話だ。優れた芸術とは、積もりに積もった既成の観念を揺さぶることに存在価値がある。

存在価値を揺さぶることにかけて、本書のアプローチはとても面白い。童話の世界の中から読者に挑んでくる。不思議の国のアリス、という有名な作品をモチーフに取り上げることで、本書の世界観は奇天烈でありながらも、どこか読者に懐かしさを感じさせる。つまり、不条理でありながら、読者に拒否感を与えないのだ。これはとても賢いアプローチだと思う。

童話とはそもそも不条理な世界ではなく、幼い頃の私たちには驚きと冒険に満ちた物語だったはず。幼い無垢な心には、童話とは不条理どころか心のよりどころとだったのではないか。大人になるまでに私たちは、童話とは作りごとに満ち、現実とは程遠いおめでたい世界との常識を植えつけられる。汚れ、くすんだ大人の心には童話の世界がはらむ「わくわく感」は決して届かない。

だがそれは、大人になる過程で私たちが世の常識をさんざん吸い込まされ、世のあり方に従うことが生きる最適な道と学ばされてきただけのこと。童話とは、私たちの常識を打ち破るはずの世界とは、もっと私たちの心の垣根を乗りこえる何かを秘めているのではないか。常識という鎧をまとうことで、私たちの心は守られているようで、その実は大変な鎖が巻き付けられてしまったのではないか。本書を読んでそんなことを思う。本書のアプローチは、私たちに童話に込められた違う世界を見せてくれる。それは夢と魔法の国が演出するテーマパークではなく、心で読み込んで感じるものだ。目や耳や舌ではなく、もっと違う側面。たとえば心の認識のあり方において。フロイトがかつて提唱したイド、ユングがかつて説いた集合的無意識。なんでもいい。それは私たちの中で凝り固まった自我の彼方で目覚めを待っているはずなのだ。

本書は無意識や認識の壁を破るための方法を、推理小説という形式で私たちの前に提示する。謎解きというプロセスを過ぎることによって、大人でありながら論理に沿った楽しみも味わえる。なおかつ本書は、結末で童話の世界の不条理性を示す。私たちは不条理性が提示されることで、かえって子供の頃にはなんの疑いも抱かずに不条理を受け入れていたことを思い出す。謎解きが間に挟まることで、論理と常識の壁を乗り越え、不条理が不条理とは限らないことを私たちに教えてくれる。

なかなか味わえないテイストを持つ本書だが、ミステリーファンは一度読んでおくことをお勧めしたい。もっとも、私も著者の作品はぜんぜん読めていない。いくつも出版されている著者の作品で読むべきものは多いはず。これを機会にもっともっと読まねばと思った。

‘2017/10/27-2017/10/30


ミスター・メルセデス 下


下巻は上巻からの承前で「毒餌」の章で始まる。ホッジズの友人ロビンスンの捜査を妨害しようと、ブレイディはロビンスン家の犬を毒殺しようとくわだてる。ところがその毒餌を、ブレイディの同居する母アンが誤って口にしてしまう。泡を吹いて死んでゆく母。これをみた時、ブレイディからタガが外れる。善良な市民という名のタガが。

ただでさえ、ホッジズとの息迫るやりとりでささくれ立ち高ぶっているブレイディの精神。すでに暴走し始めていた彼の心の崩壊は、母の死によってますます拍車がかかる。身から出た錆、という言葉はブレイディはこれっぽっちも届かない。「青いデビーの傘の下」のメッセージにホッジズを殺すと宣言し、ホッジズの車に爆弾を仕掛ける。ところが車が爆発した時、ホッジズの車を運転していたのはジャネル・パタースン。ホッジズがメルセデスを調査する中で知り合い、恋仲になったミセス・トレローニーの妹だ。恋人を殺されたホッジズの怒りは頂点に達し、二人の戦いは誰にも止められない段階に突入する。この戦いは「死者への電話」の章で著者の培ってきたスキルのすべてを費やして描かれる。

本書には登場人物がそれほど多くない。少なくとも著者の今までの大作よりは控えめだ。そして、ホッジズとブレイディの対決が大きな構成となっている。なので物語の視点は二人の行動に合わせて動く。二人のすぐ上から見下ろす神の視点だ。視点も限定され、視野も広くない。ホッジズとブレイディの戦いに迫った描写が主になる。だから読者は存分に二人の戦いを堪能できる。

ホッジズは、メルセデス・キラーがどうやってミセス・トレローニーのメルセデスのキーを開けたかを突き止める。そしてメルセデス・キラーがブレイディ・ハーツフィールドであることも突き止めてしまう。

荒ぶるブレイディの次なるたくらみ。それをホッジズがどう食い止めるのか。一気に物語はクライマックスに向かう。「キス・オン・ザ・ミットウェイ」で描かれるクラスマックスへの流れは著者が得意とするところだ。著者の熟練のストーリーテリングを読者は存分に堪能できる。この章は、著者が今までに発表して来たホラーの骨法をいかし、従来の筆さばきのまま、のびのびと書ける。この章の流れは、過去に著者が出してきた幾多の名作を思い出させる。そしてミステリーである以上、超常現象も不要だ。

それどころか、著者はスタイルを変える必要もない。なぜならここまで本書を読んで来た読者は、すでに本書がミステリーであると了解しているからだ。だからこの章が今までの著者の作品を思い出させたとしても、ミステリーとして違和感なく読める。追い詰められ、自暴自棄になった犯罪者と、猟犬のような探偵の知恵比べ。そこには善と悪の対立が明確に描かれている。

断章として置かれた「公式声明」は本書のミステリーとしての締めだ。ここで著者はミステリーとしての作法にのっとっている。いったん本書をミステリーとして終わらせた後、著者は本書の結末を読者が予想する方向から少しずらす。カタルシスでもカタストロフィでもない結末へと。その結末は本書の続編を予感させる。そして実際、本書には続編が用意されている。本書の結末も、続編以降と密接につながるはずだ。

そこで著者は、ほんの少しだけ著者の得意とするジャンルに読者を誘い込む。もちろん、ミステリーの枠組みを大きく外れない程度に。ミステリーとしての本書が締められた後、エピローグで描かれるのが「ブルー・メルセデス」だ。

本書は見事なまでにミステリーとして完結している。そればかりか、続編としての色っ気を放ちつつ、著者の従来のホラー路線のファンにもサービス精神を発揮している。「ミステリーを書いたけど、ホラーもまだまだ書くよ」と。だが、そのようなサービス精神を断章に挟み、続編に色気を出すにせよ、ミステリーとしての結構が素晴らしいことが第一だ。そこがきちんと描かれていること。ロジックやプロットがかっちりしており、読者のイマジネーションをホッジズとブレイディの対決に向かせたこと。それが本書をミステリーとして成り立たせている。
だからこそ、本書はエドガー賞を受賞できたのではないか。

本書はすでに続編とさらに続々編まで出ているという。近いうちに読もうと思う。

‘2017/08/10-2017/08/11


ミスター・メルセデス 上


著者と言えばモダン・ホラーの帝王。私は著者の作品のほとんどを読んできた。そして私の意見だが、著者はホラーに関わらず現代で最高の作家の一人だと思っている。例えば『IT』は読んでいて本気で鳥肌が立った。映画のような映像のイメージに頼らず、文章だけでこれほどの怖さを読者に届けられる。著者の腕前はもはやただ事ではない。

そして本書は、著者が初めて本格的なミステリーに挑んだ一作だ。信じられないことに、はじめて本格的に手掛けたミステリーがいきなりアメリカのミステリーの最高賞であるエドガー賞の長編部門を受賞してしまった。まさにすさまじいとしか言いようがない。

本書は著者にとって初の本格的なミステリーと銘打たれてはいるが、ここ数年の著者の作品にはミステリーの要素が明らかに感じられていた。作品を読みながら、ミステリーの要素が増していることは感じていた。いずれ著者はミステリーにも進出するのではないか。そんな気がしていた。そして満を持して登場したのが本書。当然のことながら抜群に面白い。

ただ、言っておかなければならないのは、本書がミステリーだからといって著者のスタイルが全く変わっていないことだ。たとえば冒頭。早朝から市民センターに列を作り、合同就職フェアの開場を並んで待つ人々。眠いながらも職を求めることに必死な人々の様子を著者は熟練の筆致で書き分ける。細かく、しかもくどくなく。たくさんの登場人物を書き分け、血の通った人物として肉付けする著者の腕は今までの作品の数々で目の当たりにしてきた。本作にもブレはない。まさに安定の筆さばき。プロローグにあたる「グレイのメルセデス」で見せる著者の腕は、ホラーの巨匠として読者の顔を恐怖に引きつらせた今までと劣らず素晴らしい。たかだか10数ページのプロローグにおいてすら、すでに読者をひきつけることに成功している。ライトを煌々と照らしながら列をなす人々に突っ込んでくるメルセデス・ベンツの強烈な恐ろしさ。人々の恐怖と絶望と呆然の刹那が描かれた出だしからしてページを繰る手が止まらない。

続いての「退職刑事」では、スミス&ウェッスンの三八口径のリボルバーを撫でつつ、人生を無気力に過ごすホッジズの姿が映し出される。彼は刑事を退職して半年たち、時間と暇を持て余している。ついでに人生も。退職後に失ってしまった生きがいを、永遠の眠りに変えて救ってくれるはずのリボルバー。その日を少しずつ先延ばししながら、テレビを無気力に眺めている。そんな日々を送っていたホッジズに一通の封書が届く。その送り主は、自分こそが市民センターで8人の市民が轢き殺した事件の犯人、メルセデス・キラーであると名乗っていた。そして手紙の中で己を捕まえられないまま警察を退職したホッジズをあざ笑い、挑発していた。

日々に倦みつつあったホッジズに届いた手紙。それは老いた刑事の心に火をともす。果たしてその手紙は、ホッジズは元同僚に渡すのか。そうするはずがない。ホッジズはまずじっくりと長文の手紙を検討する。文体や語句、活字に至るまで。そこから犯人の人物像を推測し、これが果たして真犯人によって書かれたものかどうかを考える。その知的な刺激はホッジズから自殺の欲望を消し飛ばす。そればかりか、現役の頃、自らを充実させていた猟犬の本能を呼び覚ました。

そしてすぐに登場するのがブレイディ・ハーツフィールド。のっけから犯人であることが示される彼は、犯人の立場で読者の前に現れる。そう、本書は刑事と犯人の両方による視点で描かれる。読者はホッジズとブレイディの知恵比べを楽しめるのだ。ブレイディは挑発的だが、知能も持っている。ホッジズとの駆け引きをしながら、善良な市民として町に溶け込んでいる人物として登場する。

ホッジズがどうやってブレイディに迫るのか。読者はその興味で次々とページをめくるはずだ。まず、ホッジズは元同僚に連絡し、調査を進める。そこで問題となるのは、どうやってブレイディはメルセデスを運転したのか、という謎だ。8人を轢き殺したメルセデスの持ち主はミセス・トレローニー。ところが彼女は絶対に鍵は施錠したし、自分が持っているマスターキーは紛失したこともないし、スペアキーは常に同じ場所に保管していると言い張る。ところがもしそれが事実だとすれば、メルセデス・キラーはメルセデスをどうやって運転したのか。できるはずがないのだ。そして今や、ミセス・トレローニーはこの世の人ではない。愛車が殺戮に使われた事実は彼女を自死に追いやるに十分だった。つまり、どうやってメルセデス・キラーは運転席に入り、人々の上に猛スピードで突っ込んだのかという謎を説くヒントはミセス・トレローニーからはもらえなくなったのだ。その謎を解くべきは刑事たち、そしてホッジズたち。

今までの著者の作品と本書を読み、大きく違う点。それは、「どう」物語が進むのかではなく、「なぜ」という視点を持ち込んだことだ。鍵はどうやって使われたのか。その謎こそが本書を王道のミステリーとして成り立たせている。ここにきて、読者は本書をミステリーとして読まねばならないことに気づく。ホラー作家のストーリーテリングに酔いしれている場合ではないぞ、と。これはいつものスティーヴン・キングとは一味違うぞ、と。そして本書は正当のミステリーとして読まれ始める。

続いての「デビーの青い傘の下で」では、ホッジズとメルセデス・キラーの間でメッセージが交換される。章の名前にもある「デビーの青い傘の下で」とはオンラインチャットの名称だ。メルセデス・キラーから送られてきた最初の手紙にIDが書かれており、メルセデス・キラーは大胆にもホッジズとの会話のパイプをつないできたのだ。そのオンラインチャットを通じて、ホッジズがメルセデス・キラーに連絡を取る。もちろん周到に準備を重ねた上で。ホッジズの狙いは一つ。いかにしてメルセデス・キラーを揺さぶり、日の光の下に引きずり出すか。そこに長年、猟犬として修羅場を潜ってきたホッジズの知恵のすべてが投入される。そしてホッジズとブレイディの間に駆け引きが始まる。この駆け引きこそ、本書の一番の魅力だ。ただでさえ登場人物の心を描き出し、さも現実の人物のように縦横無尽に操ることに長けた著者。そのスキルのすべてが宿敵の二人の会話に再現されるのだ。これが面白くならないはずがない。ディスプレイに描かれた文字を通し、元刑事と犯人が知恵のすべてをかけてぶつかり合う。ここが真に迫る描写だったからこそ、本書はエドガー賞を受賞したのだと思う。

ホッジズとブレイディの戦いは、続いての「毒餌」によって一層激しくなる。そして、感情をあらわにした駆け引きがブレイディの勝ち誇った心にほころびを生じさせる。正常に世の中を送っているように日々を繕っているが、彼の抱える異常性が少しずつあらわになってゆく。その結果がこの章の題となっている毒の餌だ。少しずつ二人の対決が核心に入り込んでいくところで本書は終わる。

著者の盛り上げ方の巧みさは相変わらずだ。一気に下巻に突入してしまうこと間違いなし。

‘2017/08/08-2017/08/09


硝子の葦


帯のうたい文句にこう書かれている。
「爆発不可避、忘却不能の結末
ノンストップ・エンタテイメント長編!」
さすがにこの文句は盛りすぎだと思う。
でも、一気に本書を読めたのは確か。

序章で厚岸の街を舞台に起こった爆発事故。そこで亡くなった幸田節子は、なぜ死ななければならなかったのか。本書は冒頭に爆発事故を置くことで、なぜ爆発事故が起こったのかという謎を読者に提示する。その謎を解きほぐすため、爆発事故までの出来事を追ってゆくのが本書の構成だ。厚岸といえば、北海道の東に位置する牡蠣が有名な海辺の町だ。だが、厚岸はさほどにぎやかな街ではない。それどころか単調な気配が濃厚だ。

ところが、そんな街に住む幸田節子の周囲は単調とは程遠い。複雑な家に生まれたためか、節子は人間をさめた目で見る。さらに人生に対しても乾いた感性でしか向き合えないようになってしまった。彼女は厚岸で飲み屋を営んできた母の律子から虐待を受けていた。律子の男との関係は奔放で、節子の父親も流しの漁船員だという。一夜だけの関係を結んだだけで行方知れずになった父。父を知らず、奔放な母に育った節子は、尖ったりグレる前に、人生を達観してしまった。達観のあまり、人生を平板なものと考えている。そして何の期待も希望も持たずに人生を過ごしている。だからこそ節子は母の元愛人だった喜一郎からの求婚を受け入れたのだ。喜一郎の求婚は、気楽な人生を送らないか、という愛情とは遠い言葉だった。そして節子は、喜一郎の経営するラブホテルに隣接した住居で日々を送っている。

節子は日々を無意味にしないため、短歌の会に参加している。喜一郎の援助のもと、自費出版で歌集も出した。そのタイトルが「硝子の葦」。葦は中が空洞であり、うつろ。硝子は折れやすくもろい。まさに節子の人生観そのもののようなタイトルだ。

そんな節子の日々は、喜一郎が事故を起こし、意識が不明のままというニュースで一転する。ニュースが入って来たその時、節子は結婚する前まで勤めていた税理士事務所の所長澤木と情事の最中だった。澤木は長年喜一郎の事業の経理を担当しており、なにくれとなく節子にも目をかけてくれている。喜一郎の事故をきっかけに、次々に節子の周りに事件が起こる。

節子の作風は性愛。男女の営みをテーマに取り上げるのは、ラブホテルの隣に住むことで己の人生に溜まってゆくオリを取り除くためだろうか。だが、節子の歌は、会の中で節子を少し浮いた存在にしていた。ところがもっと浮いているのが同じ会に属する佐野倫子。家族の健やかな平和と穏やかな日常を描く彼女の短歌に何か偽善のにおいを感じ、節子は佐野倫子を遠ざけていた。それなのに、佐野倫子の方から節子に近づいてくる。

節子の予感は正しく、佐野倫子の旦那の渉は倒産した地元百貨店の親族。日々、生活感のなさを発揮し、落ちぶれた己のうっぷんを妻子にぶつけるダメ夫。娘のまゆみは日々虐待を父から受けている。

そんな日々を描きながら、物語は徐々に疾走を始める。冒頭にあげた帯の文句ほどにはスピード感はないが、物事が次々につながっていき、そして冒頭の爆発事故に至る。その後、どうなってゆくのかは、これ以上書かない。ミステリの要素と犯罪小説の要素が濃い本書。その中で核となる節子の人生の転換がわざとらしくないのがいい。

なぜわざとらしさを感じなかったのか。それは、本書の中で随所に描かれる色彩と関係があるのかもしれない。冒頭から爆発の火と煙で幕を開ける本書。そして主な舞台となるのは、けばけばしいラブホテル。カバーイラストにもある壊れた車の鮮やかな朱色。読者は本書にちらつく艶やかな原色のイメージに気づくはず。ところが、節子の心情を表わすかのような乾いた世界観と、原野を思わせる北海道のイメージが本書の色合いを徐々にセピアに変えてゆく。原色からセピアへと色褪せていく描写。それが節子のあり方にわざとらしさを感じられなかった原因かもしれない。短歌の会という限られた場の閉塞感とラブホテルから漏れ出る性愛の爛れた感じが、節子の乾いたセピア色の世界にアクセントを加える。本書の色相はセピアの中に原色が時折混じり、それが本書のアクセントだ。その原色は節子という一人の女性が願った輝きだったとも解釈できる。

著者の作品を読むのは初めて。Wikipediaの著者の項に書かれていたが、著者の実家は本書と同じくラブホテルだったそうだ。しかも名前まで同じ「ホテルローヤル」。だからこそ著者は、ここまで実感を持ってラブホテルを書けるのだろう。しかもどこか距離をおいて男女の営みを眺めるような視点で。しかも著者は釧路出身だという。厚岸にほど近い地に育ち、道東に広がる原野になじみ、それでいてラブホテルの色彩感覚を知る。だからこそ本書のような色彩感覚が生み出せたのだと思う。

私はあの道東の色を忘れたような色彩感が好きだ。厚岸も。その近くの霧多布湿原も。かつて訪れた道東の静寂にも似た色合い。本書から感じたのは道東の色遣いだ。本書を読み、また道東に行きたくなった。そして、著者の他の作品にも目を通したくなった。旅情にも通じる色彩の描写を楽しむのも、本書の読み方の一つかもしれない。

‘2017/08/04-2017/08/05


ジョイランド


著者の作品は短編も長編も含めて好きだ。とくに著者の長編はそのボリュームでも目を惹く。あれだけのボリュームでありながら一気に読ませるところに著者のすごさがある。著者の長編が果てしなく長くなる理由。それは伏線を張り巡らせ、起承転結を固め、登場人物を浮き彫りにするため周囲を細かく描くからだ。登場人物が多くなればなるほど、著者は周到に伏線を張り巡らせる。その分、全体が長くなるのは仕方ないのだ。

ところが本書のサイズは著者の長編の中ではめずらしく薄い。文庫本で1.5センチほどの厚み。薄いとはいえ、本書のサイズは世の小説でいえば長編に位置付けられる。だが、著者にしては短めだ。その理由は、舞台がジョイランドにほぼ限定されていて、登場人物もそう多くないためだと思う。

本書はいわゆるホラーではない。確かに本書には若干の怪異現象も登場する。それもまた、本書を構成する重要な要素だ。だが、どちらかと言えば本書は主人公デヴィンの青春を描くことに重きが置かれている。つまり、じわじわと読者の恐怖感を高めなくてもよい。そのため伏線も読者の恐怖をかき立てる必要もない。それも本書が短めになっている理由の一つだと思う。

主人公のデヴィンは大学生。時代は1973年。舞台はノースカロライナ州の海沿いの遊戯施設ジョイランドとその周辺だ。

大学生の夏を3カ月のバイトで埋めようと思ったデヴィンは、ジョイランドに来て早々、付き合っていた彼女ウェンディと別れてしまう。失恋の痛みを仕事で発散しようとしたデヴィンは、ジョイランドでのあらゆる仕事に熱意を持って取り組む。コーヒーカップや観覧車の操作。もぎりや屋台販売。着ぐるみに入って子供達との触れ合い。危うく窒息しかけた子供を救った事で新聞にも載る。デヴィンがジョイランドに雇われた時、ディーン氏にこう言われる。
「客には笑顔で帰ってもらわなくちゃならない」
ジョイランドは客だけでなく、従業員をも笑顔にする。そこに本書の特色がある。

著者はこういうカウンティー・フェア(郡の祭り)や遊戯施設をよく小説に登場させる。このような施設は読者に恐怖を与える絶好の舞台だ。小説の効果のためもあるが、それだけではない。多分、著者もこういった施設が好きなのではないか。そして好きだからこそ、ホラー効果をところ演出するのに絶好の舞台と登場させるのだろう。ところが本書に登場するジョイランドからはホラー要素がほぼ取り除かれている。その代わりに著者は古き良き遊戯施設としてジョイランドを描く。客だけでなく従業員をも笑顔にする場所として。今までに発表された著者の作品で、遊戯施設は何度も登場している。だが、本書ほどに喜ばしい場所として遊戯施設を描いたことはなかったはずだ。

ただし、一カ所だけジョイランドはホラーを引きずっている。それはかつて屋内施設で起きた殺人事件だ。そしてその施設では殺人事件の被害者が幽霊となって登場するうわさがある。今までの著者の作品であれば、ここからホラーの世界に読者をぐいぐいと引っ張ってゆくはず。ところが本書はホラーではない。その設定は本書を違う方向へと導いてゆく。

本書がホラーではない証拠が一つある。それは、幽霊とそれに伴う怪異が主人公デヴィンの前に現れないことだ。しかしジョイランドでデヴィンの終生の友となるトムは幽霊を目撃する。それなのに主人公デヴィンの前に幽霊が現れない。それは主人公の目を通して直接読者に怪異を見せないことを意味する。ホラーを直接に見せず間接に表現することで、著者は本書がホラーではないことをほのめかしている。その代わりに読者には謎だけが提示されるのだ。つまりミステリー。近年の著者はホラーからミステリーへと軸足を移しつつあるが、本書はその転換期の一冊として挙げられると思う。

デヴィンは結局、3カ月の勤務期間を大幅に延長してジョイランドにとどまり続ける。それは失恋の痛みを忘れるためだけではなく、デヴィン自身がジョイランドの中で何かをつかみ取るためだ。デヴィンが何かをつかみ取るのはジョイランドの中だけではない。ジョイランドの外でもそう。その何かとはアニーとマイクのロス親子だ。

車椅子生活を余儀なくされ、余命もあまりないマイクと心を通わせたデヴィンは、彼のため、ジョイランドを貸し切りにするプレゼントを企画する。

ロス親子との交流はデヴィンをさまざまなものから解き放つ。失恋、青春時代、ジョイランド。そしてホラーハウスにまつわるミステリー。さらにはアニーやマイクとの交流。最後の40ページで、デヴィンは一気に解き放たれる。その急転直下の展開は著者ならではの開放感を読者に与える。

青年が大人になってゆく瞬間。その瞬間は誰もが持っているはず。だが、それを描くことは簡単ではない。そしてそこを本書のように鮮やかに描くところに、著者の巨匠たるゆえんがあるのだ。

マイクとデヴィンが揚げた凧が空の彼方へ消えてゆくラストシーン。それは、本書の余韻としていつまでも残る名シーンだ。地上に青年期を残し、新たな人生へのステージへと昇ってゆく凧。それは著者が示した極上の青春小説である本書を象徴するシーンだ。そして、著者が示した新たな作風の象徴でもある。本書は著者の小説を読んだことのない方にもお勧めできる一作だ。

‘2017/04/08-2017/04/09