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川の名前


川はいい。

川は上流、中流、下流のそれぞれで違った魅力を持つ。上流の滝の荒々しさは見ていて飽きない。急流から一転、せせらぎの可憐さは手に掬わずにはいられないほどだ。中流に架かる橋を行き交う電車やクルマは生活のたくましさな象徴だ。河川敷を走る人々、遊ぶ子供たちは、川に親しむ人々の姿そのものだ。下流に至った川は一転、広々と開ける。そこでは水はただ滔々と流れるのみ。その静けさは永きにわたる行路を終えたものだけが醸し出せるゆとりを感じさせる。

私が川を好きな理由。それは二十年以上、川のすぐ近くに暮らしていたからに違いない。その川とは武庫川。兵庫の西宮市と尼崎市を分かつ川だ。丹波篠山から多彩な姿を見せながら大阪湾へと流れ込む。

川は人々の暮らしに密着している。川の近くに住む人々は川に名前をつける。そしてその名を呼びならわし、先祖から子孫へと名は伝わってゆく。いつしか、川の名前がしっかり幼い子供の心に刻まれる。私が武庫川を今も好きなように。

「川の名前」という本書のタイトルは、私を引き寄せた。それはあまりにも魅力的に。実は本書をハヤカワ文庫で目にした時、私は著者の名前を知らなかった。だが、タイトルは裏切らない。手に取ることにためらいはなかった。

本書に登場する川とは桜川。少年たちの毎日に寄り添い流れている。少年たちは五年生。五年生といえばそれなりに分別も身につき、地元の川に対する愛着が一番増す時期だ。宿題にも仕事にも追いまくられず、ただ無心になって川で遊べる。部活に没頭しなくてよく、受験も考えなくていい。五年生の夏休みとは、楽し身を楽しさとして味わえる最後の日々かもしれない。その夏休みをどう過ごすか。それによって、その人の一生は決まる。そういっても言い過ぎではない気がする。

主人公菊野脩の父は著名な写真家。海外に長期撮影旅行に出かけるのが常だ。これまで脩の夏休みは、父に連れられ海外で冒険をするのが恒例だった。だが五年生となり、自立の心が芽生えた脩は、地元で友人たちと過ごす夏休みを選ぶ。

少年たちの夏休みは、脩が桜川の自然保護区に指定されている池でペンギンを見つけたことから始まる。池に住み着き野生化したペンギン。ペンギンを見つけたことで脩の夏休みの充実は約束される。動物園で見るそれとは違い、たくましく、そして愛おしい。少年たちに魅力的に映らぬはずはない。脩は仲間である亀丸拓哉、河邑浩童を誘い、夏休みの自由研究の題材をペンギン観察にする。

私も子供の頃、武庫川でやんちゃな遊びをしたものだ。ナマズを捕まえてその場で火を起こして食べたこともある。半分は生だったけれど。捕まえた鯉を家に持ち帰り、親に焼き魚にしてもらったのも懐かしい。土手を走る車にぶつかって二週間ほど入院したのは小1の夏休み。他にも私は武庫川でここでは書けないような経験をしている。ただ、私は武庫川ではペンギンは見たことがない。せいぜい鳩を捕まえて食ってる浮浪者や、泳ぐヌートリアを見た程度だ。それよりも川に現れた珍客と言えば、最近ではタマちゃんの記憶が新しい。タマちゃんとは、多摩川や鶴見川や帷子川を騒がせたあのアザラシだ。私は当時、帷子川の出没地点のすぐ近くで働いていたのでよく覚えている。タマちゃんによって、東京の都市部の川にアザラシが現れることが決して荒唐無稽なファンタジーでないことが明らかにされた。つまり、多摩川の支流、野川のさらに支流と設定される桜川にペンギンが住み着くのも荒唐無稽なファンタジーではないのだ。

そしてタマちゃん騒動でもう一つ思い出すことがある。それはマスコミが大挙し、捕獲して海に返そうという騒動が起きたことだ。連日のテレビ報道も記憶に鮮やかだ。本書も同じだ。本書のテーマの一つは、大人たちの思惑に対する子供たちの戦いだ。身勝手で打算と欲にまみれた大人に、小学校五年生の少年たちがどう対応し、その中でどう成長していくのか。それが本書のテーマであり見せ場だ。おそらく本書が生まれるきっかけはタマちゃん騒動だったのではないか。

本書に登場する人物は個性に溢れている。そして魅力的だ。中でも喇叭爺の存在。彼がひときわ目立つ。最初は奇妙な人物として登場する喇叭爺。人々に眉をひそめられる人物として登場する喇叭爺は、物語が進むにつれ少年たちにとっての老賢者であることが明らかになる。老賢者にとどまらず、本書の中で色とりどりの顔を見せる本書のキーマンでもある。

特に、人はそれぞれが属する川の名前を持っている、という教え。それは喇叭爺から少年たちに伝えられる奥義だ。就職先や出身校、役職といった肩書。それらはおいて後から身につけるものに過ぎない。成長してから身を飾る名札ではなく、人は生まれながらにして持つものがある。それこそが生まれ育った地の川の名前なのだ。人はみな、川を通じて海につながり、世界につながる。人は世界で何に属するのか。それは決して肩書ではない。川に属するのだ。それはとても面白い思想だ。そして川の近くに育った私になじみやすい教えでもある。

川に育ち、川に帰る。それは里帰りする鮭の一生にも似ている。幼き日を川で育まれ、青年期に海へ出る。壮年期までを大海原で過ごし、老境に生まれた川へと帰る。それは単なる土着の思想にとどまらず、惑星の生命のめぐりにもつながる大きさがある。喇叭爺の語る人生観はまさに壮大。まさに老賢者と呼ぶにふさわしい。だからこそ、少年たちは川に沿って流れていくのだ。

本書を読んで気づかされた事は多い。川が私たちの人生に密接につながっていること。さらに、子供を導く大人が必要な事。その二つは本書が伝える大切なメッセージだ。あと、五年生にとっての夏休みがどれだけ大切なのか、という重要性についても。本書のような物語を読むと、五年生の時の自分が夏休みに何をしていたか。さっぱり思い出せないことに気づく。少年の頃の時間は長く、大人になってからの時間は短い。そして、長かったはずの過去ほど、圧縮されて短くなり、これからの人生が長く感じられる。これは生きていくために覚えておかなければならない教訓だ。本書のように含蓄のつまった物語は、子どもにも読ませたいと思える一冊だ。

‘2017/01/20-2017/01/22


そして、メディアは日本を戦争に導いた


私が近代史家として信頼し、その見解に全面的に賛同する方が幾人かいる。本書の著者である半藤氏と保坂氏はその中の二人だ。

本書はそのお二人の対談をまとめたものだ。内容は題名の通り。第二次世界大戦での敗戦に至る日本の破滅に当時のマスコミが果たした役割を追究している。

お二方とも今なお言論人として論壇で活発に発言されている。だが、半藤氏は文藝春秋の編集長として、発行側の立場も経験している。マスコミが戦前の世論形成に果たした役割を、執筆者としてだけでなく編集者としての立場から語ることのできる方だ。

言うまでもなく、お二人が昭和史を語れば立て板に水だ。一家言を持つ立場から紹介される、戦前の本邦マスコミに関するエピソードは私の知らないものがほとんどだった。それらのエピソードは昭和初期のマスコミの姿勢を物語るものだ。軍部に国民に迎合し、世論を戦争へと導いていった責任。お二方は当時のマスコミを糾弾する。おそらくその真意とは、今の安倍政権に警鐘を鳴らすことにある。言論統制と取られかねない動きを見せる安倍政権。お二方の発する言葉の端々に、言論統制を憂う言葉が感じられる。おそらく、政権の目指す方向が昭和初期のそれに重なるのではないか。

私は安倍政権の改憲への動き自体には賛成だ。今の憲法をそのまま墨守すべきだとは思わない。だが、昭和初期の日本のあり方が正しかったとも思わない。そして、我が国が急速に国粋主義に偏った責任を軍部のみに負わせようとは思わない。当時のマスコミにも相応の責任があると思っている。

本書は、昭和初期のマスメディアが右傾化していった経緯が詳細に解き明かされてゆく。中でも見逃せないのが、新聞の売れ行きと記事の反戦度合いの相関性を分析する箇所だ。万朝報と言えば反戦で知られる明治時代を代表する新聞だ。だが、日露戦争の時期、同紙の反戦記事は発行部数の低下を招いたという。経営的に追い詰められた主筆の黒岩涙香が、論調を戦争推進に転向した途端、発行部数は劇的に回復した。そして、報道転向を不服として著名な記者が何人も同紙を去った。

つまり、新聞は第四の権力でも社会の木擇でもなんでもなく、読者からの収入に支えられる媒体に過ぎないということだ。万朝報をはじめとした反戦論調が経営に与える影響。それを間近で見て骨身に刻んだ経営者たち。彼らが、昭和の軍部の専横に唯々諾々と従ったというのが、二人ともに一致した意見だ。軍の圧力で偏向報道に至ったのではなく、売上を優先して国威発揚の論調を率先して発信した。つまり、当時の国民に迎合したという事だ。それはまた、日本の破滅の要因として、軍部、マスコミ、に加えて当時の付和雷同した日本国民が含まれることも示す。それは重要な指摘だと言える。なぜなら、今の日本についても同じことが言えるからだ。これからの我が国の行く末が国民の民度にもよることが示唆されている。日本の行く末は、安倍政権や自衛隊、マスコミだけの肩に掛かっているのではない。国民が安易に多勢に流されず、きちんと勉強して対処することが求められる。

選挙の度に叫ばれる投票率向上の声。ヘイトスピーチを初めとしたウェブ上での右極化。シールズに代表される戦争に反対するデモの波。右も左も含め、かつてよりも日本国民が声を挙げやすくなっていることは確かだ。楽天的に考えると、かつてのように情報統制によって国の未来が危機に瀕することはないように思う。

だが、だからこそ二人の論者は警告を発する。むしろ、今のように誰でも情報を発信し、情報を受け取れる環境ゆえに、人々は簡単に流れに巻き込まれてしまうのだ。マスメディア以外にもネットからの膨大な情報が流れて来る昨今。著者はともに、同調しやすい日本人の国民性を冷静に指摘する。そして戦前の日本の過ちを繰り返しかねない現代を憂えている。

それを避けるには、国民のひとりひとりが過去から学ばねばならない。そして簡単に周囲と同調しないだけの矜持が求められる。本書では、気概のジャーナリストとして信濃毎日新聞の桐生悠々氏が再三取り上げられている。桐生悠々とは、戦前の言論統制にあって抗議の声をあげ続けた気骨のあるジャーナリストだ。著者たちは、現代の桐生悠々を待ち望んでいる。ジャーナリストの中に、国民の中に。

本書は共著者による遺言のようにも読める。実際に本書の中で、これからの日本にいない身として責任は負えない、との気弱な発言すら吐いている。半藤氏は齢80を越え、保坂氏も70代後半に差し掛かっている。既に先の永くない二人の論者を前にして私に何ができるか。聞くところによれば、二人の著者を左寄りと指弾するネット上の書き込みもあるとか。なにをかいわんや、である。私はお二方の著作を多数読んできた。その上で、お二方が特定のイデオロギーによらず、歴史の本筋を歩まんとする姿勢に共感している。

結局、歴史とは軽々しく断罪も賞賛もできないものだ。立場によってその目に映る歴史の色合いは違う。解釈もさまざまに変わってゆく。多分、お二方にとってそんなことは自明のはず。そして、それゆえに軽々しく当時の人々を断罪できないことも感じているのだろう。碩学にしてそうなのだから、われわれには一層努力が求められる。そのためには、本書内でも二人の著者が度々ジャーナリストの不勉強を嘆いているように、中途半端な知識はもっての他。もっともっと勉強して、軽々しい言説を一笑に付すくらいの見識を身に付けなければ。

‘2016/08/21-2016/08/24


キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる


情報の溢れかえる現代。現代とは、情報から価値が急速に失われつつある時代でもある。つまり、情報は無料で手に入るが、情報量に反比例して情報自体の相対価値は減り続けているのだ。現代とは、情報に対して取捨選択するためのスキルが必要な時代でもある。

取捨選択するためのスキルとは、審美眼や知識の蓄積である。ある程度の知識を持っていないと、画一化された情報の下で同じような価値観を植え付けられることになる。最近のネットニュースの氾濫はまさにそうだ。油断していると釣り記事に引っかかり、シェアしてしまった後で決まりの悪い思いをすることになる。ここにきて、ネットに溢れる情報の真贋の見極めがいよいよ重要になりつつあるように思える。

それは逆に、情報発信者にとっては自らの発信する情報が人々に行き渡らなくなることを意味する。かつて情報を発信するためにはマスコミというフィルターを通す必要があった。今は情報が溢れかえるあまり、人々は情報を疑いの目で見る。釣り記事に釣られまいと滅多なことでは情報に食いつかなくなっている。

本書はそういった情報の相対価値が落ちた現代にあって、情報が伝達される形態を考察する。いかにして情報は伝わり、情報を発信した人と受け取った人の間に価値観の共有が行われるのか。もはや従来のマスコミュニケーションによる画一化された情報伝達が通用しない今、我々は何を受けとり、何を発信するべきか。本書から得られる示唆は多い。

私自身、二十歳過ぎの頃の自分を振り返ると、流行に乗るまいと抵抗していた気がする。トレンディ・ドラマには背を向け、オリコンでTOP10に入るような音楽からは耳を塞いでいた。替わりに興味を持っていたのは、ラテンアメリカの文学であり、ラテンアメリカの音楽であり、プログレッシブ・ロックの世界だった。すでに70年代に先鋭的な若者にとってさんざん持て囃されたそれらのジャンルを、遅れてきた青年として背伸びし、吸収しようとしていたのが私だった。

しかし本書では、流行に乗るまいと抵抗するまでもなく、そういったメインストリームの価値観が解体しつつあることを指摘する。人々は自分の信ずる価値観に集い、そこで価値観を同じくする仲間と過ごすことが主流となりつつある。インターネットの出現は、そういった行為をより簡単に成しえるようになった。

本書では、そういった情報の集いをビオトープと表現する。ビオトープとは本書に出ている定義によると「有機的に結びついた、いくつかの種の生物で構成された生物群の生息空間」となる。水槽に海草を生やして魚たちの生態圏を作るようなものだ。つまり本書で著者が言うビオトープとは、情報の海に浮かぶ、価値観の似通った人々によって構成される情報の交換空間とでもいおうか。

ビオトープという情報の集約点が出来るようになったことで、情報発信者はビオトープ目がけて情報を発信するほうが早いことに気付きつつある。その例として、著者は音楽プロモーターの田村直子さんの事例を取り上げる。田村直子さんが発信しようとするのは、ブラジルのエグベルト・ジスモンチの来日公演の告知。ブラジル音楽好きとしては、エグベルト・ジスモンチの名は避けては通れない。私もCDこそ持っていないものの大物として存在は知っている。そして、日本においてはジスモンチの知名度はさほど高くなく、集客に苦労するであろうことも理解している。限られた時間と予算の中、効果的にジスモンチに興味を持ちそうな愛好家たち―ビオトープにどうやって告知を打つのか。そのやり方を、ネット時代の情報発信の手本として著者は紹介する。ジスモンチのビオトープの一つとして、私の好きなマリーザ・モンチのコミュニティも登場している。私にとってなじみのあるブラジリアン・コミュニティの数々が本章には登場し、私にとって親近感のある導入部となった。

第二章は背伸び記号消費の終焉と題されている。従来は大衆向けの一方通行の情報発信が主流だった。情報発信する手段が大衆には与えられていなかったためだ。しかしネットの発展は今や大衆に発信する力を与えている。しかし容易に情報を発信できるということは、すなわち承認欲求の生じる機会を増やすことにもなる。また、情報の流れに参加できないことは、孤立感や焦燥感などを産み出すことにもつながる。本章ではマスコミによる一方通行の情報発信の限界が語られる。そして、それとともに人と人とのつながりや承認欲求の高まりがかつてなく高まっていることが指摘される。ネット時代にあっては、大量消費大量生産大量発信の時代が終わりを告げ、個人の力による情報発信が重く見られつつあることを意味する。

第三章は、視座にチェックインするという新たな行動パターンを解説する。本章ではFourSquareのサービス紹介を中心に話が進められる。実は私は本書を読む前からすでにFourSquareを愛用している。私の場合は他人の視座からその地の風物を楽しむといった活用ではなく、単に私自身のライフログとしての活用なのだが。

FourSquareは、プライバシーの侵害に気を揉むことなく、ネットライフを満喫する手段としてはありだろう。そもそも私自身からしてSNSはそのように使うことが多い。つまり、他の方のアップするイベントの写真と文章からその方の視座から見た人生のヒトコマを楽しむ。私自身がアップするイベントの写真と文章によって、他の方に私の視座を提供する。私が妻と子供とどこに行ってどうしたという体験。この体験に共感し、私という人間の視座を面白がってくれる方には、投稿はよい効果を上げる。それが単なる飯テロやリア充自慢と受け取られてしまったとすれば、それは視座の提供以前の話で、拒絶されてしまっていることを示す。

そもそも、SNSやブログを例に出すまでもない。新聞や雑誌や書籍での文筆家によるエッセイの数々が、すなわち書き手の視座の提供に他ならなかったのではないだろうか。こう考えると、著者の主張する内容も分かる。また、ブログやSNSが流行る意味も理解できる。理解できるばかりか、私自身がSNSで発信を続ける意味についても得心がいった。

第一章で紹介されたビオトープ。私自身の価値観や視座を世の中に提供し、共に人生を豊かにするための場-ビオトープを作る。これこそがSNSやブログの存在意義と云えるのかもしれない。

FourSquareは本書を読んだ時点では、チェックインのみに特化したSwarmというアプリが分離され、しかも本書で紹介されているメイヤーやバッヂの機能が一旦廃止されるなど迷走に入ったかに見えた。現在はそれらの機能は復活したというものの、FourSquareもかつての勢いはないように見える。また、本稿を書いている2016年2月初旬ではSNSの状況も暗い。Google+は完全に頓挫し、Twitterも行く末に迷いが見える。Facebookですら、個人用途とビジネス用途の使い分けを模索しているようだ。SNSの活用方法については、単なる視座の提供や体験だけでは説明がつかない状況にあるといえる。これらの点をどう解釈し、どうプラットホームとして提供できるかが、今後のITを使ったコミュニケーション、つまりICTを語る際には欠かせない視点なのだろう。その答えはまだ出ておらず、SNSの各社ともに模索している状態だ。もちろん、その答えを5年前-2011/2に上梓された本書に求めるのは酷な話だ。

第四章はキュレーションの時代という題名が付されている。本書のタイトルと同じであり、本書の中核を為す思想が詰まっている。プロローグでジョゼフ・ヨアキムという画家のことが紹介される。七十歳になって絵を描き始めるまでのヨアキムの人生は、数奇ではあったが、無名のまま埋もれてもおかしくないものであった。それがたまたま通りに見えるように窓にぶら下げておいた絵が見出され、一躍美術界の寵児となる。つまり、ヨアキムの絵の価値が分かる人間にキュレーションされたわけだ。本章ではヨアキム以外にもキュレーターによって見出された画家が二人登場する。ヘンリー・ダーガーとアロイーズ・コルバス。

彼ら二人の創作活動は、完全に自分のためであった。自分の内なる衝動に導かれ、書かずにはいられなかった絵画。受け狙いや商売気など微塵もなく創られた作品は、キュレーターによって見出されなければ、埋もれたまま廃棄されてしまってもおかしくない。しかしそれを見出し、精神病者や孤独者の視座にチェックインし、その視座のまま世に紹介したのはキュレーターの手柄だ。つまり、いくら優れたコンテンツといえども、キュレーターの存在なしにはコンテンツたりえない。第二章で取り上げた背伸び消費は、キュレーションするまでもなく、対象が個人の嗜好や性格を無視した遍く広い大衆に向けてだった。しかしキュレーション過程を省いたことによって、コンテンツがコンテンツ自身の山に埋もれる結果を招いていた。しかしこれからのコンテンツは背伸び消費の視座ではなく、大衆という括りから外れたアウトサイダーの視座から生まれる。その視座を世に紹介するのがキュレーターの仕事。キュレーターとは創作者の作品に新たな意味を付与し、価値を与えるのが仕事の本質なのだ。

第五章では、それらキュレーターやコンテンツが流通する上で、プラットホームの重要性が改めて説かれる。プラットホームというと画一された価値観のもと、アートすらも一緒くたにして俎上に上げられるという印象が強い。しかし著者は多様性を担保するためには、プラットホームは欠かせないという。ここでいうプラットホームとは画一された価値観のことではなく、コンテンツが流通する上での仕組みとでも言おうか。利便性と交換性に優れたシステム。といえば当然インターネットが連想される。ここで著者がいうプラットホームとは、インターネットを指すと云っても間違いはあるまい。

つまり、コンテンツは、インターネットというプラットホームのもとでキュレーターによって見出され、流通される。流通の中で愛好家によって無数のビオトープが形成される。また、その中には旧い価値観では精神病患者としか見られなかった人々の作品までも含まれる。しかしそういった作品さえもが、精神病者に特有の芸術性を愛好するビオトープというコミュニティでは受け入れられるのだ。

ただでさえ広大な世界でネットを猟渉し、ビオトープを見つけ出す。これは至難の業といってもよい。また、ビオトープがないのなら、自分で作ってしまえという考えもまたありだろう。ただしビオトープを作りだすには、本書に登場したダーガーやコルバスやヨアキムの高みが必要となる。それこそ難易度の極めて高い、アーチストの域だ。

本書の論旨から考えるに、これからの表現者とはコンテンツの創造者とイコールではない気がする。むしろ、コンテンツを探しだし、それを世の中にキュレーションすることが表現者に必須のスキルとなるのではないだろうか。無論、コンテンツを産み出すだけではなく、その価値を自身で世界に広められることに越したことはない。だが、ビオトープを探し出すための嗅覚や、広めるためのプレゼン能力を備えることも、情報の発信者としてこれからの時代に求められる。それが著者の言いたかったことだと思う。

私にそれが出来るか。出来ると思うし、やるしかないだろう。私自身、誇れる部分として、サイボウズ社のクラウドアプリkintoneのβテスト時から将来性を見込んだことがある。これは今に至るまでkintoneエバンジェリストとしての活動の原点だ。また、ブログにアップしているメジャーではない本のレビュー執筆は、このところすっかり私の作業としてお馴染みになっている。私には出来る、と信じて進むのみ。

今後も私自身が情報発信者でありたいとすれば、引き続き努力するだけの話。私が表現者として認知されるかどうかは分からないが、本書で得られたキュレーションという営みから示唆をもらいつつ、文章書きの作業を続けていきたいと思っている。

’15/04/06-15/04/07