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ジェノサイド


冒険小説の黄金作再び!本作の登場を歓迎する!

80~90年代、我が国の冒険小説は実に豊潤であった。私も船戸与一氏や、逢坂剛氏、谷甲州氏、北方謙三氏、志水辰夫氏、佐々木譲氏などの作品群を良く読んだものである。

以来四半世紀が過ぎ、その時々で秀作に巡り会えてはいたものの、冒険小説界隈ではあの頃のような豊作に巡り会えない日々が続いた。

これは私感だが、ITや科学技術の急速な発展が、冒険小説の世界を縮小させてしまったのかもしれない。特にモバイル技術の普及は、冒険小説の前提を制限し、スリルを大きく殺いだに違いない。

しかし、待ち望んだ甲斐あって、本作はその黄金期を彷彿とさせる作品である。科学やITの発達も作品に盛り込んだ上、アフリカを舞台の中心に据えることで、野性味までをも充たしている。

本書の新味は冒険小説の骨格はそのままに、科学技術の発達をふんだんに盛り込んだことにあるとも言える。むしろ発達こそが本書を貫くキーワードといってもよい。

一言で発達と書いたが、それは子供から大人へ成長する発達を云うのではない。ここで云う発達とは、種としての発達である。

我々ホモ・サピエンスはネアンデルタール人と生息圏を争い、ついには絶滅へと追いやった。同じように、我々ホモ・サピエンスの能力を遥かに凌駕する新種の人類によって追いやられることがないと誰が断言できようか。地球上で我が物顔にのさばり、増長する我々人類など、ネアンデルタール人と同様の運命を辿ることも考えられるのではないか。

本書は、今の人類の傲慢さ、そして残忍さをこれでもかと描き出す。スーパーパワーを自負し、国際関係を牛耳る米国の増長。アフリカでは部族間のいさかいが止まるところを知らぬ殺戮にエスカレートし、野蛮な本能に抑えが効かない。身内の不幸には関心を示すが、遠くの虐殺には無関心な上辺の同情が先進国を覆う。隣国同士がいがみ合い、過去の歴史をいつまでも引きずり、批難し合う。

醜い人間の本能がさらけ出される前半部。愚かな旧人類は、地球の片隅に生誕した新人類(ヌ-ス)により、圧倒的な能力差を見せ付けられる。ホモ・サピエンスとしての矜持を失わない一握りの旧人類により庇護されるヌースと、支配者としての既得権益の喪失を恐れ、ヌース抹殺を図る米国の陰謀との闘いが後半部を占める。

本書の構想とスケールの大きさ、着想は見事の一言に尽きる。今の人類の抱える諸問題を、新人類の存在一つで矮小なものとしようとする力業。

残念ながら、力が余って、人物描写とその背景に深みを与えようとする意図が作品世界に違和感を漂わせることとなった。違和感の正体とは、日本を客観的に書かず、自虐的に書いてしまったことである。日本を客観的に書く時、とくに本書のような人類の愚かさを書く場合は、日本を美化することで、作品全体が嘘っぽく白けてしまう。その恐れは分かるし、著者もそれを避けたのではないか。本書では随所にアジアにおける日本についての自虐的な描写が目立つ。だが、私は本書の自虐的にも見える日本についての書き振りが、日本を貶めようとするためではないと信じたい。日本人科学者を助ける有能な韓国人という話の構成は悪くない。本来は日韓が歴史認識でいがみ合うのではなく、助け合うべきというのが著者の主張したかったことではないかと思う。

本書に登場する新人類は、ガンダムシリーズにおけるニュータイプよりも一層、そのかけ離れた能力故に絵空事に近い。とはいえ、今、この瞬間にも新しい人類は誕生しており、我が世の春を謳歌する我々に鉄槌を下すべく成長を始めている可能性も皆無ではない。人類が民族や宗教、文化の隔たりを越えて団結できるのは、人類の枠を超えた強大な敵が現れた時でしかないという寂しい予想もある。人類とは自らの内から変革できるだけの器ではなく、外からの攻撃によってしか変革できない種なのかもしれない。

反日や自虐。著者がそのような括りで批難されることを想定しなかったとは思えない。むしろそういわれることを覚悟しつつ、孤高の視点から人類という種を書きたいというのが著者の真意ではないか。本書の優れた冒険小説としての完成度が、そんなありきたりのアンチワードで壊されるのは耐え難い。そう思いたくなるほど、本書の描写には力がある。

‘2014/9/5-2014/9/6