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息吹


私が書店でSFの新刊本を、しかもハードカバーで購入するのは初めてかもしれない。
本書はその中でお勧めされていたので購入した。
とてもよりすぐりの九編が続く本書は、二度読んだほうが良さそうだ。
特に、一度目を読むタイミングが集中できない環境にあった場合は。

私も本稿を書くにあたってざっと斜め読みした。
すると、本書の奥深さをより理解できた。

「商人と錬金術師の門」
本編を一言で表すとタイムワープものだ。
だが、その舞台は新鮮だ。アラビアン・ナイトの千夜一夜物語を思わせるような、バグダッドとカイロを舞台にした時空の旅。
とある小道具屋に立ち寄った主人公は、時間をさかのぼることができる不思議な門を店主のバシャラートに見せられる。右から入ると未来へ、左から潜ると過去へ進める。
この機構は論理的に現代物理学の範疇で可能らしい。
この門に関する複数のエピソードがバシャラートから語られ、それに魅入られた主人公は自らも旅を決意する。

ここで語っているのは、未来も過去も同じ人の運命という概念だ。今までのタイムワープもので定番になっていた設定は、過去を変えると未来が変わり、変わったことで新たな時間の線が続く。行為によって新たな時間線ができることによってストーリーの可能性が広がる。だから、登場人物は過去にさかのぼって未来を変えようとする。
だが、本編では未来は過去の延長にある。つまり、従来のタイムワープものの設定に乗っかっていない。それが逆に新鮮で印象に残る。

卵が先か、鶏が先か。わからない。だが、人は結局、宿命に縛られる。ある視点ではそのような閉塞感を感じる一編だ。
だが、その閉塞感は、自分の努力を否定するものではない。それもまた、人生を描く一つの視点だ。それが本編の余韻となっている。

「息吹」
並行宇宙。そして平衡状態になると終わるとされる宇宙。二つの「へいこう」をテーマにしているのが本編だ。
本編は、地球とはどこか別の場所、または時代が舞台だ。未知の存在の生命体、もしくは機械体が自らの存在する宇宙の終わりを予感する物語だ。
空気の流れが平衡状態になりつつあることにより、生命を駆動する動力が失われる。それを回避し、食い止めようと努力する語り手は人ではない。それどころか、現代のこの星の存在ですらない。

限られた紙数であるにもかかわらず、平衡に向かう宇宙のマクロと、自らを解剖する語り手のミクロな描写を平行で書くあたりが良かった。一つの短編の中でマクロとミクロを同時に書き記す離れ業。それが本編の凄さである。

「予期される未来」
わずかな紙数の本編。
未来を予測できる機械が行き渡ったことで、自由意志を否定されたと自らで動くことをやめた人々。そのようなディストピアの世界を描いている。

本編は、一年ちょっと先の未来からメッセージを送ってきた存在が語り手となっている。その存在は、決定論を受け入れた上で、嘘と自己欺瞞で乗り切れとアドバイスを送る。その冷徹な現実認識を決定論として認めなければならない。強烈なメッセージだ。

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」
本編を読んでいると、AIBOやファービー、またはたまごっちなどの育てゲームを思い出す。どれも数年でブームを終えている。

本編にはディジエントという人工知能を有したペットのような存在が登場する。それらは動物の代替のペットとして人々に受け入れられた。だが、育てるのは難しく、飼い主の手を煩わせる。人々は飼いならせなくなったティジェントを手放し、運営する会社は廃業する。
たが、一部の人々は、手元に残されたディジエントを育てようと努力する。同じ保護者同士でコミュニティを作り、ディジエントとの共生やディジエントの自立に向けて模索する。本編はディジエントの保護者である主人公の葛藤が描かれる。ディジエントを世の中に適応させるにはどうすればよいか。

保護者がディジエントに気をもむ様子は、通常の子育てやペットの飼い主とは違う。まるで障害を抱えた子供を持つ親のようにも思える。通常の子育てと違った難しさが、本書に人間やペットと違う何かを育てることの困難さを予言している。

ディジエントに法人格を持たせることや、ディジエント同士のセックスなど微妙な問題にまで話を膨らませている。
私たちもそのうち、高度なAIと共生することもあるだろう。その時、倫理的・感情的な問題とどう折り合うのだろう。予言に満ちた一編だ。

「デイシー式全自動ナニー」
20世紀初頭に発明されたとする当時の産物のナニー(ベビーシッター)。当時にあって新奇な技術が人々から見放されていく様子を研究論文の体裁をとって描いているのが本編だ。

全自動の存在に人の成長を委ねることのリスク。本編は、現代から考えると昔の技術を扱っている。だが、ここで書かれているのは間違いなく未来の技術信仰への疑問だ。
私たちは今、人工知能に人類のあらゆる判断を委ねようとしている。そこから考えられる著者のメッセージは明白だ。

「偽りのない事実、偽りのない気持ち」
本編は人の生活のあらゆる面を記録するライフログがテーマだ。
私もライフログについては本のレビューを書いたこともあるし、自分なりの考えをブログにアップしたこともある。

人々は、自らの記憶があやふやであることに救われている。あやふやな記憶によって、人間関係はあいまいに成り立っている。そのあいまいさがある時は人を救い、ある時は人を悩ませる。
リメンという機械によって、ライフログが当たり前になった未来。人々は、リメンによって自分の過ちに気づく。本編の登場人物である親子の関係と二人の間にある記憶の食い違いが強制的に正されていく。

本編が優れているのは、もう一つ別の物語を並行で描いていることだ。ティブ族と言うどこかの部族が、口承で伝えられてきた部族の歴史が、文字や紙によってなり変わられていく痛みを書いている。古い文化から新しい文化へ。そこで起こる文化の変容。それは人類が新たなツールを発明してきた度に引き受けてきた痛みそのものだ。痛みとは、自分が誤っていたと気づくこと。自分が正しくなかったことではなく。

「大いなる沈黙」
本書の末尾には、著者自身による創作ノートのようなものが付されている。それによると本編は、もともと映像作品を補足するスクリプトとして表示していたテキストだったと言う。それを短編小説として独自に抜き出したものが本編だ。
フェルミのパラドックスとは、なぜ宇宙が静かなのかと言う謎への答えだ。宇宙に進出する前に絶滅してしまう種族が多いため、宇宙はこれだけ静かとのパラドックスだ。

「オムファロス」
進化論と考古学。
アメリカではいまだに、この世は創造主によって創造されたことを信じる人がいると言う。それもたくさん。

彼らにとっては人類こそが宇宙で唯一の存在なのだろう。彼らが仮定した創造主とは、私たちにとって絶対的な上位の存在だ。それは同時に、私たち自身が絶対的な存在だと仮定した前提がある。もちろん、この広大な宇宙の中で太陽系などほんの一握りですらない。チリよりも細かいミクロの存在だ。全体の中で人類の位置を客観的に示すことこそ、本編の目的だとも言える。

「不安は自由のめまい」
プリズムと言う機械を起動する。その時点から時間軸は二つに分岐する。分岐した側の世界と量子レベルで通信ができるようになった世界。本編はそのような設定だ。
別の可能性の自分と通信ができる。このような斬新なアイディアによって書かれた本編はとても興味深い。周りを見渡して自分の人生に後悔がない人などいるだろうか。自分が失ったであろう可能性と話す。それはある人によっては麻薬にも等しい効果がある。常に後悔の中に生きる人間の弱さとそこにつけ込む技術。考えさせられる。

‘2020/06/08-2020/06/13


さくら


最近の私が注目している作家の一人が著者だ。
著者の「サラバ!」を読み、その内容に心を動かされてから、他の作品も読みたくて仕方がない。
著者の作品は全てを読むつもりでいるが、本書でようやく三冊を読んだにすぎない。

本書は著者が上梓した二冊目の作品らしい。
本書を読んでみて思ったのが、二冊目にして、すでに後年の「サラバ!」を思わせる構成が出来上がりつつあることだ。
基本的な構成は、ある奇矯な家族の歴史を描きながら、人生の浮き沈みと喜怒哀楽を描くことにある。
個性的な家族のそれぞれが人生を奔放に歩む。そして、それぞれの個人をつなぐ唯一の糸こそが家族であり、共同体の最小単位として家族を配している。
「サラバ!」も家族が絆として描かれていた。本書もまた、家族に同じ意味合いを持たせている。

本書でいう家族とは長谷川家のことだ。
主人公の薫が久しぶりに帰京する場面。本書はそこから始まる。
薫が帰ってきた理由は、広告の裏に書かれた父からの手紙がきっかけだった。
薫が帰った実家に待っていたのは、太った母親と年老いた犬さくらの気だるいお迎えだ。その傍らで妹のミキが相変わらずお洒落に気を使っている。

なにやらいわくがありそうな長谷川家。
著者は長谷川家の今までのいきさつを語ってゆく。
美男と美女だった父と母。二人が出会い、結婚して最初に生まれたのが薫の兄、一だ。
さらに薫が生まれ、しばらくしてミキが生まれる。美しく貴いと書いてミキ。
その名前は、はじめての女の子の誕生に感動した父が、こんなに美しく貴い瞬間をいつまでもとどめておきたいと付けた。

この時、長谷川家は幸せだった。幸せを家族のだれもが疑うことがなかった。
誰にでもモテて人気者の兄。それなりに要領よく、目立たぬようにそつなくこなす薫。そして誰の目をも惹く美貌を持ちながら、癇の虫の強いミキ。三人が三様の個性を持ちながら、幸せな父と母のもと、長谷川家の将来は晴れわたっているはずだった。

そんな家族のもとにやってきたのが、雑種の大型犬であるさくら。
その時期、両親は広い庭のついた家を買い、さくらはその庭を駆け回る。
何もかもが満たされ、一点の曇りもない日々。
なんの屈託もない三人兄妹と両親にはユニークな知り合いが集まってくる。
父の昔からの友人はオカマであり、ミニには同性愛の傾向がある。兄の一の彼女は美貌をもちながら家庭に問題を持つ矢嶋さん。

長谷川家をめぐる人々に共通するのは、マイノリティという属性だ。
同性愛もそうだし、性同一性障害も。
周りがマイノリティであり、そのマイノリティの境遇は長谷川家にも影響を及ぼす。それは本書の展開に大きく関わるため、これ以上は書かない。

とにかくいえるのは、本書がマイノリティを始めとしたタブーに果敢に挑んだ作品ということだ。
尾籠な話と敬遠されがちなうんこやおしっこに関する話題、子作りのセックスに関する話題、そしてマイノリティに関する話題。
どれもこれも書くことに若干のためらいを覚えるテーマだ。ところが著者はそのタブーをやすやすと突破する。さり気なく取り上げるのではなく、正面切って描いているため、読む人によっては抵抗感もあることだろう。

だが、ここまでタブーを堂々と取り上げていると、逆に読者としても向かい合わずにはいられなくなる。本書の突き抜けた書き方は、タブーをタブーとして蓋をする風潮に間違いなく一石を投じてくれた。

何よりもわが国の場合、文学の伝統が長く続いている割には、そうしたタブーが文学の中から注意深く取り除かれている。もちろんそれは文学の責任ではない。
今までの日本文学もその時代の日本の世相の中では冒険してきたはずだと思う。
だが、その時代ごとの日本社会にはびこるタブーが強すぎた。そのため、今から考えるとさほど刺激が強くないように思えても、当時の世論からはタブーを取り扱ったことで糾弾されてきた。
そして、今までに文学で取り上げられてきたタブーの中でも、障害者の問題や性的マイノリティの問題はまだまだ正面から描いた作品は少ないように思える。

そんなマイノリティを描いた本書であるが、マイノリティであるからこそ、それをつなぐ絆が求められる。
それこそが家族だ。本書では、マイノリティをつなぐ紐帯として家族の存在を中心に置いている。
あまりにも残酷な運命の神は、長谷川家をバラバラにしようと向かい風をひっきりなしに吹き付けてくる。
本書の表現でいうと、「ああ神様はまた、僕らに悪送球をしかけてきた。」という感じで。

そうした逆境の中、薫と父の帰還を機に家族が一つになる。
そして、一つになろうとする家族にとって欠かせないのがさくらの存在だ。
さくらは言葉がしゃべれない。それゆえに、自己主張が少ない。だからこそ奇天烈な家族の中でさくらは全員をつなぐ要であり得た。
著者はさくらの心の声を描くことで、さくらにも人格を与えてる。むろんその声は作中の人物には聞えない。だが、さくらの心の声をさりげなく混ぜることで、さくらこそが家族をつなぎとめる存在であると伝えているのだろう。

実は人間社会にとって、ペットも立派なマイノリティだ。
そして、ペットとはマイノリティでありながら、要の存在にもなりうる。そのようなペットの役割を雄弁に語っているのが本書だ。
実際、著者はあとがきにもそのことを書いている。そのあとがきによると著者の飼っていたサニーという雑種がさくらのモデルらしい。著者はいかなる時も尻尾を振って意志を表わすサニーにどれだけ慰められたかを語る。その経験がさくらとなって本書に結実したのだと思う。

私もペットを二匹飼っている。彼女たちには仕事の邪魔もされることが多いが、慰安となってくれる時もある。
ワンちゃんを飼うとその存在を重荷に感じることがある。だが、本書を読んでペットもマイノリティであることを感じ、もう少し大切にしないとな、と思った。

また、私の中に確実にあるはずのマイノリティへの無意識のタブー視も、本書は意識させてくれた。勇気をもってタブーに目を向けていかないと。そして克服していかないと。
そもそも誰しもマイノリティだ。
自我は突き詰めると世界から閉ざされている。その限りにおいて、人は本質では確実に孤独で少数派の存在なのだ。
だからこそ、最小の信頼しあえるコミュニティ、家族の重要さが際立つ。

そして、人生にはマイノリティにもマジョリティにも等しく、山や谷が待ち構えている。
そうした試練に出会う時、本心から心を許せる家族を持っていると強い。
本質的にマイノリティな人間であるからだ。
マイノリティが自らの核を家族に預けられた時、マイノリティではなくなる。たとえ社会の中ではマイノリティであっても、孤独からは離れられるのだ。
その確信をくれたのが本書だ。

‘2019/3/24-2019/3/28


旅猫リポート


久々に著者の本を読んだ。本書は猫が主役だ。

冒頭から「吾輩は猫である」を意識したかのような猫の一人称による語りから始まる。そこで語られるのは、猫の視点による飼い主とのなれ初めだ。猫にとっては自らを養ってくれる主人との出会いであっても、そこに猫によるおもねりはない。飼われてやった、とでもいいたげに。自我と自尊心を持つ猫による、猫ならではのプライド。しょっぱなから、猫の心を再現したような描写が思わず読者の頬を緩めさせる。猫好きならばなおさら本書の出だしにはぐっと心をつかまれることだろう。ああ、猫やったらこんな風に考えそうやな、とか。

ナナ、が本書の語り手だ。旅する猫。ナナは五年前、冒頭でナナによって語られたようななれ初めをへて、優しそうな主人ミヤワキサトルの飼い猫となる。今、サトルにはナナを手放さねばならない理由が生じてしまった。

本書のタイトルにもある「旅」とは、ナナとナナを託せる相手を探すサトルの旅のことだ。サトルの小学校の時の親友コースケ、中学校の時の大切な友達ヨシミネ、高校時代に微妙な三角関係を作ったスギとチカコ。彼らはサトルにとってナナを託すに足る人々だ。彼らを訪問し、ナナを預けられないかをお願いしつつ、サトルの人生を旅する一人と一匹。その旅をナナの視点でリポートするのが本書の内容だ。旅をする猫によるリポートだから「旅猫リポート」。

まず小学校時代。サトルは小学校の修学旅行で京都を訪れている間に両親を交通事故で失う。その時にサトルが飼っていた猫がハチ。両親を失ったことでハチを遠縁の親戚に預けざるを得なくなった。それからのサトルは両親を喪失した心の傷を繕いつつ、離ればなれになったハチを案じつつ生きてきた。コースケこそが、一緒にハチを拾った親友であり、大きくなった今は写真館の店主として切り盛りしている。

中学時代の親友はヨシミネだ。両親のいないサトルにとって、両親からの愛を得られずにいたヨシミネとの絆は大切だった。そんな日々を懐かしむ二人がナナの視点で描かれる。サトルがナナにそそぐ愛情の源が感じられるシーンだ。

高校時代によくつるんでいたのはスギとチカコ。彼らは結婚し、富士山のふもとでペットが泊まれるペンションを営んでいる。結果として結ばれたのはスギとチカコだが、サトルとチカコの間に恋が生まれていたかもしれない。そんな思い出を描くのは著者の得意とするところ。また、ここでは犬と猫どっちが好き?というおなじみのテーマが語られる。なぜならスギは犬派でチカコは猫派だから。

小学校、中学校、高校とサトルは大切な友人との旧交を温める。だが、彼らにはナナを託せない。コースケは家を出た奥さんを呼び戻すためナナを飼いたがるが、それを察したナナがゲージから出てこない。ヨシミネの飼い猫とは相性が悪く、スギとチカコのペンションにいる飼い犬とは相性が合わず、ナナを託せる相手は見つからない。だが、サトルがかつて結んだ人生の絆は再び温められて行く。彼らとのエピソードにはサトルとハチのその後が語られ、その思い出がナナとの旅によって思い出させられる。少しずつ、サトルがどうしてナナを飼えなくなったのかが明かされていく。そのあたりのさじ加減は絶妙。

最後にサトルとナナは北海道へ渡る。ここにサトルの両親は眠っている。墓参りを済ませる二人。墓は人が最後に辿り着く場所だ。北海道もまた、サトルにとって最後の場所となる。そこでサトルは叔母のノリコと最後の日々を過ごす。それはナナにとってもサトルとの最後の日々になる。

サトルとの旅の間、ナナがみたさまざまな景色が記憶に蘇る。ナナはサトルの病院から動かず、ただサトルのそばにいる。犬に比べて薄情と言われることの多い猫に、ナナのような感情はあることを著者は訴えたいかのようだ。とても感動させられる。

本書を読み、一カ月前に亡くなったチワワの風花のことを思った。そして残されたヨーキーの野乃花のことを思った。はじめて私が本格的に飼った犬が風花だ。風花を肩に載せたまま町田の駅前をともに闊歩した日々。北海道の幸福駅で行方不明になりかけて探し回った思い出。今の家に引っ越してすぐに2週間行方不明になり探し回った日々。

風花が亡くなってから、野乃花が私にべったりくっつくようになった。そして本書を読んだ数日後、私は野乃花を連れて八王子の金剛の滝に向かった。ここで野乃花と二人で山を歩き、滝を見た。野乃花に心があれば、滝を見ながら何を思うんやろうかと思った。旅猫リポートならぬ、滝犬リポートやな、とひとりごちた。そして野乃花や風花もナナのようにいろいろな心を持ちながら飼われていたんやろうな、と思った。本書を読むまで、私は本当に犬の立場で考えることがなかった。じっとこちらを見つめてくる時、犬には確かに感情がある。そして心がある。それは多分、猫も。

本書を読むと、犬猫の気持ちが少しは理解できるような気持ちになる。

‘2017/08/07-2017/08/08


都心には皇居という緑があるのに、自然には冷たい


梅雨入りとなり、湿度の高い日々が続きます。そんな湿っぽい日常をもっと湿らせる光景を目撃しました。 それは、燕の巣に対するこの仕打ち。 IMG_5934

毎日通っている客先近くのビル。このビルの一階部分は、立体駐車場の入口も兼ねています。この入口の天井には警告用のパトランプが備え付けられていて、毎年、燕が営巣します。今年も五月の連休が明けた頃、巣作りに励むつがいを見かけました。野生でありつつ、たくましく人間の施設を利用する子育てに共感し、毎日の通りすがりに応援していました。 IMG_5053

やがて雛たちも数羽姿を見せ、ますます賑わいを見せる天井の巣。私も毎日巣を横目に見ながらその家庭的な営みに癒されていました。ところがある日、巣を残して忽然とツバメ達は姿を消してしまいました。私も相当落胆しました。 ところが、数日後、何気なく通りがかったところ、パトランプの反対側に巣が出来ているではありませんか!不屈のツバメがめげずに営巣の準備に勤しむ様子を確認できました。或いは別のツバメがよい場所を見つけたとやってきたのかもしれませんが、やった!頑張れ~と私は内心で喝采を叫びました。

ところが翌日、わくわくしながら、雛の誕生を見に行ったのですが、そこで見たのは冒頭に載せた写真のような衝撃的な仕打ちでした。燕の営みは破壊され、二度と復活出来ないようにされていました。

毎朝この場所を通うようになって、三度目の春です。実は巣が壊される光景を見るのは今回が初めてではありません。この場所で巣作りをしたツバメは、毎年何者かに巣作りを中断させられているのです。壊されたり撤去されたり。それにも関わらず、今年も果敢にチャレンジしたつばめの行為は無惨な結末を迎えました。それも今まで見た中で一番救いのないやり方によって!

おそらく巣を撤去した何者かは、このビルの関係者かもしれません。その何者かが巣を撤去するに当たっては、私などのうかがい知れぬ深い事情があったのかも知れません。店子の車の天井に粗相をしたり、あるいは店子が頭にウンを授けられたりしたのかも。店子の怒髪が天を衝き、巣は刺されたのでしょう。撤去した何者かの気持ちも分からないでもありません。私としても、家の玄関の頭上に営巣されたら温かく見守りますが、妻の歯科診療室の入口頭上に営巣されたら、何らかの策は考えざるを得ません。巣の撤去人の事情が分からない以上は安易な断罪は控えるべきなのかもしれません。ええ、そうですとも。

しかし、あの口をピーチク開けていた雛たちの行く末を思うと、心の片隅がじめじめし、カビが繁殖していくかのようです。梅雨だというのに、誕生日を迎えたばかりというのに。せめて、巣の処刑人が、巣をまるごと安全な場所に移設し、そこで無事に雛を旅立たせてくれていれば、私の心も晴れ渡るのですが。

一方で、そんな私の気持ちを晴れやかにさせる出来事もありました。

我が家の四女であるヨークシャーテリアの野々花。このやんちゃなレディが野生に呼ばれ、行方不明になってしまいました。夜間のことだったので、闇に紛れてしまい、探しても見つからず。しかも悪いことには、今梅雨史上最高の土砂降りが我が家の周辺を襲いました。気温が上がったとはいえ、これだけの雨に叩かれたら、せめて雨の凌げる場所に逃げていてくれたら・・・そんな夜を過ごしました。

翌朝、野々花の行方は、町田警察署からの連絡で判明しました。しかも、保護されたのが雨の降る前だったらしく、つやつやした毛並みのままに。届けて下さった方には感謝の言葉しかありません。その方に直接お礼の言葉を掛けられればどんなに良かったか。(個人情報保護を盾に警察署では教えてくれませんでした。この件については云いたいこともあるので、また書きます)

実は我が家にはチワワのお姉さんも居て、名を風花といいます。この風花も飼い主に似てか、しょっちゅう脱走し、放浪するのです。特に引越日当日にいなくなった際は、全く行方がつかめず、町田市中のペットショップに貼り紙をしてもらい、近所のスーパーにも貼り紙をさせてもらいました。その結果、2週間後に我が家に戻ってきたのですが、その際にも親切なお宅の家で保護されていました。しかも前よりも肥太って悠々と。

私の住む町田は、駅前の繁華街こそ西の渋谷という異名をとるほどに俗っぽくなってしまいました。しかし、私の住む家の近所はまだまだ自然に恵まれ、住宅地と農地が共存できています。そして、犬を愛する親切な人々が住まって下さっている場所でもあります。貴志祐介氏による小説「悪の経典」の舞台でもあるのですが、小説に出てくる「ハスミン」とは違って人情の感じられる場所です。

都会だから酷薄で、田舎だから人情。そういった紋切り型の判断をするのは禁物です。それはよく分かっています。分かってはいるのですが、今回のツバメの一件を思い返すに、どうしてもそういう思いが湧いてしまうのです。一度そう思ってしまうと、このあたりの瀟洒な邸宅街に対して、少し距離を置いた感想を抱いてしまいかねません。住まわれている方々はツバメを排除する人々ではなく、むしろ素晴らしい人々なのでしょう。なのに、ツバメの一件だけでそう思わせてしまうほど、今回の一件からは強烈な印象を植え付けられました。靖国神社や東郷元帥記念公園、清水谷公園、千鳥ヶ淵公園といった素晴らしい公園を擁し、大使館や学校といった上品な建物が多いこのあたり。私もその雰囲気に好意を持っているこの地。

そういえば、この界隈、普段昼食で歩き回っていて、犬や猫にほとんど会うことがありません。ツバメが営巣に来るくらいだから、近隣の自然も相当豊かなのに違いありません。あるいは皇居の森は相当数のツバメの一大繁殖地となっているのかもしれません。このあたり、本来は自然にあふれた素晴らしい場所のはずなのです。私のような町田の農村地に住む者にとっても、このあたりの緑の豊かさは一頭群を抜いています。これは私の故郷大阪の都心部の緑の乏しさと比べれば断然の違いです。例えば大阪環状線の内側で思いつく緑といえば、大阪城公園と靱公園、天王寺公園、御堂筋の並木くらいでしょうか。それに比べ、東京の都心部の豊かさはくらべものになりません。

それなのに街からはツバメを排除し、人間の営みを優先する。何かがズレテイル。

この辺りは、かつて入江でした。入り江であるがゆえに、地盤は脆弱です。そしていずれは来るといわれている首都圏直下型地震もこのあたりに甚大な被害をもたらすとされています。自然を目の前にしながら、自然を忘れた人々。存在を遠ざけ、忘れていた自然から、いつか手痛いしっぺ返しを食らわないとも限りません。

皇居ではよく自然観察会が開かれているといいます。私もまだ一度も参加したことがありません。もし、ツバメの巣を××された方が、ツバメに対して愛着がゼロなのであれば、こちらの拙文を読む機会があったら、一度は皇居の見学会に行かれてみてはいかがでしょうか。普段どれだけの宝物に囲まれ、どれだけの不安定な場所に住んでいるのか、思いを致すとよいです。


アヒルと鴨のコインロッカー


この本も著者の本で読めていなかった本の一つ。

読み終えた直後にブータン国王夫妻来日のニュースを耳にし、ブータンの風土や国民性に色々の描写があっただけに興味深かった。

過去の様々な出来事とその2年後の現在とが交互に登場し、現在の謎の出来事が2年前の出来事のどういう結果から生じるのか?ということで否応なしに話に引き込んでいくところはさすがというか。

単純に殺害や事件の謎というよりも、奇妙な行動を提示し、そこから出来事の理由に迫っていく作風は、初期の著者の特徴だったのだな、と改めて思った。

謎がさらりと明かされつつ、その謎が解明されると小説の盛り上がりも余韻以外残らない、といった推理小説とは違った魅力を再確認した。

’11/11/13-’11/11/14