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悪名の棺―笹川良一伝


パラ駅伝というイベントがある。健常者と障害者が八人で一チームを組み、義足や車椅子で駒沢オリンピック公園を八周する内容だ。

私が家族と見に行った11/29は、パラ駅伝 in TOKYO 2015という名称だった。桝添都知事やSMAP、宝塚歌劇団星組トップ北翔さんと妃海さん始め、多くの来賓も来ていた。その日は陸上競技場のスタンドで開会式から閉会式まで通しで見させていただいた。障害者スポーツについて、とても貴重な知見が得られたと思っている。しかし、残念なことが一つあった。それは、開会式と閉会式にたくさんの来賓から挨拶があったにも関わらず、マイクの調子のせいかほとんど私の耳に聞こえて来なかったことだ。だが、その中で一人だけ私の耳によく届いた声があった。その朗々たる声の持ち主こそ、日本財団の理事長笹川陽平氏であった。

笹川陽平氏のブログはたまに読ませてもらっている。もちろん、笹川陽平氏が日本財団に理事長である事を知った上で。そして陽平氏の父が笹川良一氏であり、日本財団とは、笹川良一氏が創設した日本船舶振興会の後継組織であることを知った上で。笹川良一氏といえば、今40歳以上の方にとってはおなじみの方ではないだろうか。私が子供の頃、日本船舶振興会のテレビCMが頻繁に流れていた。その中で一日一善や火の用心と叫んでいた人こそが、笹川良一氏であった。いまなお、ブラウン管の中の笹川良一氏の姿を思い浮かべることができるほど印象に残っている。幼い私にとっての笹川良一氏とは、ブラウン管の向こう側で一日一善や火の用心といったスローガンを叫び、壇上で賞状を授与されている何やら陽気で意味不明なお爺ちゃんであった。

昭和史に興味を持つようになってからは、笹川良一氏が単なる一日一善のお爺ちゃんではなく、昭和史に暗躍し後ろ暗い噂のつきまとう人物であることを知った。

では、笹川良一氏とは一体何者であったのか。そう自問すると、笹川良一氏のことを何も知らないことに気づく。週刊誌によるバッシング記事やWikipediaの記事を鵜呑みにするべきか。いや、そうではないはず。今回、笹川陽平氏の朗々と響く声をきっかけに笹川良一氏を一度知ってみようと思った。それが本書を手に取ったきっかけである。なお、本稿では笹川良一氏の事を以下良一氏と呼ぶことにする。

著者はノンフィクション作家である。そして著者もまた、私と同じように良一氏の実像に疑問を抱いたらしい。世間に流布している良一氏にまつわる話は、どこまでが伝説でどこまでが事実なのか。そんな疑問を解消するため、精力的に関係者へのインタビューを行った成果が本書である。著者の良一氏へのまなざしはさほど厳しくはない。礼賛とまではいかないにしろ、批判的要素はかなり薄いといってよい。著者は、取材対象である笹川陽平氏を初めとした縁故者への遠慮から批判的な論調を控えたのだろうか。それとも良一氏の真実の姿は本書に書かれたような無私の姿勢に彩られているのだろうか。ちまたでいわれるような政界の黒幕や右翼のフィクサーとのレッテルは、良一氏の表面しか見ていないのか。著者の人物探訪の旅は進む。

本書を読んだは良いが、私にはいまだに良一氏の全貌が把握できていない。むしろ、本書を読み終えた事で一層分からなくなったとさえ言える。分からなくなったのは、良一氏が黒幕か否かという表面的な部分ではない。私に分かったのは、良一氏はそんな表面的な毀誉褒貶を超えたところを生きた人物という事だ。おそらくは著者が本書で取材した内容は正しいのだろう。そしてそれは良一氏の一面でしかないはずだ。本書の及ばぬところ、例えば料亭の一室では良一氏は別の顔を演じていたに違いない。そこで話された内容の中には良一氏が黙したまま墓まで携えて行ったものもあるのだろう。大きく広い器の中に色々な世俗の清濁をあわせ呑んだまま、良一氏は96年の人生を生きぬいたのではないか。

本書を読む限りでは、良一氏の財力は本人の金儲けの才覚によるところが大きいという。だがそれは、裸一貫から築き上げた財力ではない。22歳にして父から莫大な遺産を受け継いで備わったものだ。著者は父からの相続額を今の金額にして1億2500万から3億の間ではないかと算出する。その遺産を元手に二度にわたって米相場で大儲けしたのが良一氏の冨の源泉だという。

このあたりの経歴については、本書にも確とした根拠が書かれているわけではない。全ては伝説の領域に属する話である。全ての冨が合法の下に蓄えられたかどうか、もはや誰にも分からない。しかし、一つだけ言えることがある。それは、当時いた多くの国士やフィクサー達と違い、良一氏が当初から金銭に困らぬ生まれ育ちだったということだ。その事実は、良一氏の生涯を理解する上で外せないポイントだ。

また、良一氏は、幼き頃川端康成氏と同じ郷里で育ったという。歳も近く、よく連れ立って遊んでいたのだとか。その事は本書で始めて知った事だ。川端康成氏の生家には20年ほど前に訪れたことがある。生家には川端という表札が掲げられ、今なお親族の方が住まわれている事が察せられた。偉大な作家の生家としては、生活感にあふれるたたずまいが記憶に残っている。本書によると良一氏の生家もその近くだとか。そして良一氏は、自らの生家に強い愛着を持ち、晩年になるまで妹さんの住む家を足しげく訪れていたという。私が川端氏の生家を訪れた頃は、まだ良一氏もご存命だった。あるいは出会えていたのかも知れない。

良一氏の人生に転機が訪れたのは1929年末。世界大恐慌である。その時期、良一氏は国粋大衆党を結党する。世界大恐慌はソビエトの共産主義革命により起こされた、そこから国を守るには右翼の力を強めねばならないという理屈だ。その解釈には疑問符が付くが、世界大恐慌でも破産しなかった良一氏は、資産家の右翼党首という珍しい立ち位置を手にする事になる。

良一氏は飛行機にも関心を持つ。自らも飛行機を操縦していたというから、本格的な関心だったのだろう。良一氏は東大阪あたりに広大な飛行場をつくる。そしてその飛行場を惜しげもなく軍に寄付する。このような行いこそが良一氏が誤解される一因なのだろう。実際、飛行場寄贈が後年、収賄の容疑をかけられる原因になり拘置までされたそうだ。だが飛行機好きの右翼党首という立場は、時代を下って山本五十六海軍元帥との交流につながる。

その交流は、海軍の飛行使節という形で良一氏を大戦前のイタリアへ赴かせる。そこで良一氏はムッソリーニとの会談を実現することになる。これもまた良一氏が生涯誤解され続けた原因の一つだろう。

開戦前から敗戦まで良一氏が過ごした日々の様子は、本書では簡潔に書かれている。山本元帥との交流は、良一氏に日独伊三国同盟や対英米戦にも反対の立場をとらせる。また良一氏は開戦後に行われた翼賛選挙に非推薦で出馬し、当選する。当選後は東條首相にも議会質問を行ったようだ。その質問内容も本書には紹介されている。それによると、東條内閣に恭順の意を示さなかったことで非推薦の扱いを受けたこと、非推薦候補であるがために受けた妨害の事実を糾弾した風にとれる。また、戦後社会党の党首となる西尾氏とは議員活動を通じて親しい交流も重ねたことも紹介されている。これらの戦前の活動からは良一氏の右翼や左翼といった型にはまらぬスケールのでかさがうかがえる。国粋大衆党の党首だから右翼の黒幕と決めつけることが、かえってつけた側の器の小ささを際立たせるような。もし著者が本書を良一氏の汚名を雪ぐ意図があって書いたのだとすれば、この辺りの事情についてもう少し紙数を割いてもよかったのではないか。

そのかわりに著者は、GHQによるA級戦犯調査の過程をつぶさに書いている。そこでもGHQが良一氏の扱いに困った様子が読み取れる。戦前の良一氏の活動は、右翼の黒幕として戦犯容疑の範囲に括れないスケールだったのだろう。著者が良一氏の替わりに批判の俎上に載せるのは児玉與志雄氏である。後年ロッキード事件で逮捕されたことでも知られる政界のフィクサーだ。著者は児玉氏こそが良一氏の悪評をばらまいた張本人である事を指摘する。戦前の良一氏の行いのあれやこれやが児玉氏によって非難され、罪とされたことが本書には記されている。良一氏は児玉氏による流言を知った上で素知らぬ風を装って遇していたらしい。その経緯が本当であれば、良一氏の器の広さはただ事ではない。

ではなぜ良一氏は進んで戦犯の汚名を被ったのか。それは、良一氏が戦犯として巣鴨プリズンに自ら望んで入獄したかったからだと著者は記す。自分自身が飛行場の収賄容疑で拘置された経験。この経験を元に他の入獄者の獄中生活の助けになりたかったのだという。にわかには信じられない話だ。それが本当なら、良一氏とは凄まじいまでの胆力の持ち主ではないか。

巣鴨での一挿話として東條元首相との関わりが紹介されている。東條元首相がGHQによる逮捕直前に自殺を図り、すんでの所で命を永らえたのは有名な話だ。その東條氏は東京裁判が始まるや態度を一転させ、昭和天皇に罪が及ばぬよう罪を自ら引き受ける堂々とした陳述を行なった事もよく知られている。本書では、東條元首相の態度が一変した裏に良一氏の貢献があったとしている。東條氏を諭したのが良一氏であったことは本書を読むまですっかり失念していた。

東京裁判の結果、七人のA級戦犯が刑場で処刑された。無罪として釈放された良一氏は、篤志匿名で遺族への援助に奔走する。幼い私の記憶に刻まれた日本船舶振興会だが、年度あたりの売り上げが兆を超していたという。そしてその売上の多くはABC級戦犯の遺族へ援助金として供出されたのだとか。ここまで来ると良一氏のスケールのあまりの巨大さに眉に唾つけて読みたくもなる。いったい、良一氏とはどのような人物なのか、本書を読むほどにその実像は遠ざかっていくようだ。

その一方で本書は良一氏の私的な部分にも踏み込む。公的な活動スケールの大きさは十分すぎるほどわかった。では良一氏の人間的な部分はどうなのか。これがまた規格外なのだ。聖人君子どころか英雄色を好むとの言葉そのものなのが良一氏の私生活のようだ。女性遍歴の豊かさについて本書は十分に書いている。浜松を境にして、東に行くと東京の愛妾を愛し、西に戻れば大阪の本妻に愛を注ぐ。それ以外にも陽平氏と兄二人の母がいて、さらに京都山科にも愛する女性がいて、隠れ家として使う。公的な伝説については虚実が曖昧だ。どこまでが本当なのか、それを知る本人はすでに泉下の人となっている。だが良一氏の私生活については深く関わった人々が存命だ。良一氏がパンツにうんこを付けて泰然としていたことや、性的な逸話など豊富に登場するのが本書だ。著者が陽平氏を初め、お手伝いさんや良一氏の愛妾など広く深く話を聞いた成果だと思われる。私的なエピソードからは良一氏の器のでかさよりは、幼いというか奔放な氏の性格が伺える。

著者は笹川陽平氏にも様々な私生活の良一氏を聞いたことだろう。本書における私的なエピソードの数々に登場するのは、息子からみた良一氏の素の姿。けちで有名だった良一氏からの極端でかつ筋の通った躾の数々。陽平氏と母は、東京大空襲の最中を九死に一生を得て生き延びたが、良一氏は当然そこにはいない。それでいて同居していなくても息子へのしつけは欠かさない。かなり規格外れの父親像ではないか。

しかし、陽平氏を初めとする三兄弟は、企業家として、議員として、日本財団の理事長として良一氏の残した物を守り継いでいる。その教育の証こそが、私が聞いた陽平氏の臍下丹田に力の入った声ではないだろうか。

結果として良一氏の破天荒な父親振りが良い父親だったとすれば、同じ父親として、私のあり方を省みて自信をなくすほかない。

そして、この期に及んでなお私は、幼き日に刷り込まれた良一氏による一日一善の言葉の底が、全く見えないことを知るのである。本書を読んで余計に良一氏が分からなくなったと書いたのは、そういうことである。

‘2015/12/04-2015/12/08


鉄の骨


一世を風靡した半沢直樹による台詞「倍返しだ!」。文字通り倍返しに比例するように著者の名前は知られるようになった。著者の本が書店で平積みになっている光景は今や珍しいものではない。自他ともに認める流行作家といえよう。とはいえ、私の意見では著者は単なる流行作家ではない。むしろ、経済小説と呼ばれるジャンルを再び活性化させた立役者ではないか。そう思っている。

かつて、城山三郎氏や高杉良氏、清水一行氏による経済小説がよく読まれていた。経済的に上り調子だったころ、つまり高度経済成長期のことだ。それら経済小説には、戦後日本を背負って立つ企業戦士たちが登場する。読者はその熾烈な生き様をなぞるかのように経済小説を読み、自らもまた日本の国運上昇のために貢献せん、と頑張る気を養った。しかし、今はそうではない。かつて吹いていた上昇の風は、今の日本の上空では凝り固まっているように思われる。いわゆる失われた二十年というやつだ。長きに亘った停滞期は、人々の心に自国の未来に対する悲観的な視点を育てた。これからも日本の未来に自信を失う人々は増えていくことだろう。あるものは右傾化することで自国の存在意義を問い、あるものは左傾化して団結を謳う。そんな時代にあって、著者は新たな経済小説の道を切り開こうとする。

著者の凄いところは、経済や資本、組織の冷徹なシステムを描いて、それでいて面白いエンターテイメント性を残しているところである。先に描いた先人たちの経済小説は、経済活動や競争の事実それ自体の面白さをもって小説を成り立たせていたように思う。しかし、これだけ情報や娯楽が溢れる今、経済活動を描いただけでは目の肥えた読者を振り向かせることは難しいのかもしれない。著者はその点、江戸川乱歩賞受賞者として娯楽小説の骨法にも通じている。元銀行員としての知識に加え、娯楽小説の作法を会得したのだから売れないはずがない。

本書は、建設業界を描いている。「鉄の骨」とは建設業界を表すに簡潔で的を射た比喩だといえる。建設業界の中で一人の青年が揉まれ、成長する様が書かれるのが本書だ。

現場で建設に携わる事が何よりも好きな主人公平太。ある日、辞令が出され、本社業務課へ異動となる。そこは別名談合課とも言われる、建設業界の凄まじい価格競争の最前線。公共プロジェクトを入札で落とさねば業績は悪化するため、現場の空気は常に厳しい。

業界では、入札競争が過熱しないよう、業者間で入札の価格や落札者を順番に割り当てる商慣行が横行している。これを談合という。調整者・フィクサーが手配し、族議員が背後で糸を引くそれは、云うまでもなく経済犯罪。露見すれば司法の手で裁かれる。

平太の働く一松組も例外なく談合のシステムに組み込まれている。凄まじい暗闘が繰り広げられる中、一松組は少しでも利益を確保しつつ安価で入札し受注につなげようとする。他方ではフィクサーに対して受注を陳情し、フィクサーは他の工事案件との釣り合いを見て、各業者に受注量を割り振る。きちんと機能した談合では、入札の回数や各回の全ての談合参加業者の入札額まで決められているのだとか。本書にはそういった業界の裏が赤裸々に描かれている。銀行出身者である著者の面目躍如といったところか。

談合の中には、傍観者を決め込み、冷徹にリスクを見極め回避しようとする銀行の存在も垣間見える。そして、談合の正体を暴き、法に従って裁きを下そうとする検察特捜部も暗躍する。

談合につぐ談合で思惑が入り乱れる建設業界とは無縁に、平太の彼女である萌は大学を卒業して銀行に勤めている。建設業界の闇慣習に染まりつつある平太の価値観と、冷徹な銀行論理に馴染みつつある萌の思いはすれ違い始める。悩める萌に行員の園田が接近し、萌の思いを平太から引き離そうとする。園田は一松組の融資担当者であり、仕事柄入手した一松組の将来性の危うさを萌に吹き込み二人の仲を裂こうとする。このように、著者は経済や資本の論理の中に人間の感情の曖昧さを持ち込む。そのさじ加減が実にうまい。

談合という非人間的な戦場にあっても、平太の業務課の仲間も人間味豊かに描き分けられている。先輩。同僚、課長。そして専務。談合と一言で切って捨てることは誰にでもできる。問題はその渦中に巻き込まれた時に、どういった態度を取るか。このことは、現場のリアリティを知る者にしか語れない葛藤である。本書で描かれる登場人物は、端役に至るまで活き活きとしている。平太や業務課先輩の西田。課長の兼松。専務の尾形。フィクサーの三橋やライバル社の長岡。それぞれがそれぞれの役柄に忠実に、著者の作り上げるドラマの配役を演じている。中でも機縁から平太が何度も相対することになるフィクサーの三橋が一際目立つ。三橋が語る台詞の端々からは、談合に関わる人々の宿命や弱さを見ることができる。善悪二元論では語れない、経済活動が内包する宿業を淡々と語る三橋は、本書を理解する上で見逃せない人物である。

著者はおそらくは銀行員時代の人脈から談合の実録を綿密に取材し、本書に活かしたのだろう。おそらくはモデルとなった人物もいるのかもしれない。そう思わせるほど、本書で立ち振る舞う人物達の活き活きした人物描写は本書の魅力だ。談合という経済論理に対する人間臭さこそが本書の肝と言っても良い。経済活動の制約や非人間的な論理の中でなお生きようとする人々の群像劇。本書をそう定義しても的外れではないだろう。

本書の結末は、ここでは明かさない。が、本書を読み終えた時、そこには優れた小説に出会った時に感じるカタルシスがある。一つの達成感といってもよいだろうか。確かに一つの物語の完結を見届けたという感慨。このような読後感を鮮やかに読者の前に提示する著者とは、まだまだこれからも付き合っていきたいと願っている。著者のこれからの著作からは日本の経済小説の未来、ひいては日本の未来すら読めるかもしれないのだから。

‘2015/6/23-2015/6/24