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バベル九朔


著者の作品の魅力とは、異世界をうまく日常に溶け込ませることにある。しかも異世界と現実をつなぐ扉を奇想天外で、かつ映像に映えるような形で設定するのがうまい。

関西の三都、そして奈良や滋賀を舞台とした一連の著者の作品は、どこも私の良く知る場所なだけに著者の発想を面白くとらえられた。

本書はそうした場所の縛りがない。おそらく、関東のどこかと思われる。どこかは分からないが、鉄道の駅のすぐそばに建つ古びた雑居ビルが本書の舞台だ。主人公は親族の残した遺産であるこのビルの管理人をしている。20台半ばでサラリーマンを辞め、作家を志望しつつ、日々小説を書く。時間に自由が利くこの仕事にうまい具合にありつき、日々を満喫している。

5階建ての雑居ビルは、祖父が建てたもの。歴史のあるこのビルの歴代のテナントは野心的なコンセプトの店が多い。なぜかは知らないが、祖父はそういうお店を積極的に入れるようにしていたのだとか。なので店子の入れ替わりが激しい。今の店は以下のテナントで構成されている。
地下一階「SNACK ハンター」
一階「レコ一」
二階「清酒会議」・・双見
三階「ギャラリー蜜」・・蜜村
四階「ホーク・アイ・エージェンシー」・・四条

本書の冒頭にはカラスが登場する。カラスといえば雑居ビルにはふさわしい存在だ。そして、カラスが本書の肝となって物語を動かしてゆく。カラスのような面相の女と、謎の男たちがバベル九朔に侵入し、狼藉を働く。やがて管理人である主人公の周りにも、そしてビルのあちこちにも怪しげなきざしが満ち始める。主人公の管理の範囲をはみ出し、ビルに歪みが生じ始める。そして異世界への扉が開く。

本書が描く異世界は、今までの著者の作品の中でも異質だ。今までの著者の作品は、現実の大阪や京都、奈良や滋賀に異質な世界が密かに浸してゆく構成だった。その時、登場人物たちはあくまでも現実側の人間でありつづけた。しかし本書は違う。本書は主人公が異世界の中に入り込む。だから、本書の現実の舞台は、どこかが曖昧に描かれる。どこかの鉄道駅のそばの雑居ビル、という事しかわからぬバベル九朔。現実の世界はそのビルの中に限定される。関西の特徴的な都市に頼っていた今までの作品とは違う。

現実が曖昧に描かれている分、異世界の描写は非現実的な描写が色濃く描かれている。こちらの現実世界の法則や風景は望めない。どうやって異世界の風景や法則を描き出すか。おそらくは著者にとっても難しい挑戦だったと思う。だが、著者は本書において、現実との差異を見事に描いている。メビウスの輪のように堂々巡りする世界。坂を上った先に坂の下の景色がひらけ、坂を下ると坂の上の景色が見える世界。時間と空間が歪み、堂々巡りする光景。

その異世界は、作家を志望する主人公の妄想と願望を結び付けさらには祖父の残した秘密にも関わってくる。そのあたりの描写がうまいと感じる。なお、本作の奥付けで初めて知ったが、著者は作家としてデビューする前、実際に管理人の仕事をしていたという。どうりで管理人のリアルな業務が描けるわけだ。

上にも書いた通り、本書が特徴的なのは、日常の暮らしと奇想の世界の書き分けだ。現実の世界に住む主人公は、リアルな現実感覚の持ち主として描かれる。作家を志望しているが、実直な管理人。だからこそ、主人公の目から見た異世界は異常に映る。そのギャップがいい。

本書の各章のタイトルは、管理人の定例作業からつけられている。
第一章 水道・電気メーター検針、殺鼠剤配置、明細配付
第二章 給水タンク点検、消防点検、蛍光灯取り替え
第三章 階段掃き掃除、水道メーター再検針
第四章 巡回、屋上点検、巡回
第五章 階段点検
第六章 テナント巡回
第七章 避難器具チェック、店内イベント開催
第八章 大きな揺れや停電等、緊急時における救助方法の確認
第九章 バベル退去にともなう清算、その他雑務
終章  バベル管理人
これだけを読むと、本書は何やらつまらなそうな内容に思えてしまう。だが、逆で面白く仕上がっていることは言うまでもない。

むしろ、ここに挙げた管理人の仕事が、異世界が現実を侵食する様子に一致しており、ここでも現実と異世界の描写がうまく書き分けられている事を感じる。どうやって描いているかは、本書を読んでいただくとして、その一致を楽しむと良いだろう。現実の世界の裏側には、常に幻想の世界が控えている。

今までの関西の諸都市を舞台に小説を発表してきた著者が、本書において新たな道を切り開いたことをうれしく思う。それは読書人の特権である、新たな世界への期待であるからだ。

著者はこれからどういう方向に進んでいくのだろう。幻想作家の道を選ぶのだろうか。それとも伝奇小説の分野に新境地を見いだすのだろうか。私にはわからない。だが、本書は著者にとって新たなきっかけとなるように思える。引き続き、新刊が出たら読みたいと思える作家の一人だ。


アラビアの夜の種族


これはすごい本だ。物語とはかくあるべき。そんな一冊になっている。冒険とロマン、謎と神秘、欲望と愛、興奮と知性が全て本書に詰まっている。

アラビアン・ナイトは、千夜一夜物語の邦題でよく知られている。だが、私はまだ読んだことがない。アラジンと魔法のランプやシンドバッドの大冒険やシェヘラザードの物語など、断片で知っている程度。だが、アラビアン・ナイトが物語の宝庫であることは私にもうかがい知ることが可能だ。

本書はアラビアの物語の伝統を著者なりに解釈し、新たな物語として紡ぎだした本だ。それだけでもすごいことなのだが、本書の中身もきらびやかで、物語のあらゆる魅力を詰め込んでいる。内容が果たしてアラビアン・ナイトに収められた物語を再構成したものかどうかは、私にはわからない。ただ、著者は一貫して本書を訳書だと言い募っている。著者のオリジナルではなく、著者が不詳のアラビアン・ナイトブリード(アラビアの夜の種族)を訳したのが著者という体だ。前書きでもあとがきでもその事が述べられている。そればかりか、ご丁寧に訳者註までもが本書内のあちこちに挿入されている。

本書が著者の創作なのか、もともとあった物語なのかをそこまで曖昧にする理由はなんだろうか。それは多分、物語の重層性を読者に意識させるためではないかと思う。通常は、作者と読者をつなぐのは一つの物語だけだ。ところが、物語の中に挿入された別の物語があると、物語は途端に深みを持ちはじめる。入れ子状に次々と層が増えていくことで、厚みが増えるように、深さがますのだ。作者と読者をつなぐ物語に何層もの物語が挟まるようになると、もはや作者を意識するゆとりは読者にはない。各物語を並列に理解しなければならず、作者の存在は読者の脳裏から消え失せる。そして本書の様に何層もの物語で囲み、ご丁寧に著者は紹介者・翻訳者として入れ子の中心に身を隠すことで、読者からの眼は届かなくなる。読者は何層にも層を成した物語の皮をめくることに夢中になり、芯に潜む著者の存在にはもはや関心を払わなくなるのだ。

それによって、著者が目指したものとは何か。著者の意図はどこにあるのか。それは当然、物語そのものに読者を引き込むことにある。アラビアン・ナイトを現代によみがえらせようとした著者の意図。それは物語の復権だろう。しかも著者が本書でよみがえらせようとした物語とは、歴史によって角を丸められた物語ではない。より生々しく、より赤裸々に。より毒を持ち、より公序良俗によくない物語。つまり、物語の原型だ。グリム童話ももともとはもっとどぎついものだったという。今の私たちが知っている童話とは、年月によって少しずつ解毒され、角がとれ、大人に都合のよい物語に変容させられていった成れの果ての。だが、本来の童話とはもっとアバンギャルドでエキセントリックなものだったはず。著者はそれを蘇らせようとしている。私のような真の物語を求める読者のために。

では、いったい何層の物語が隠れているのだろうか。本書には?

まず最初の物語は、アラビアン・ナイトブリードという著者とそれを翻訳し、紹介した著者の物語だ。それは、薄皮のように最初に読者の前に現れる。それをめくった読者が出会うのは、続いては、アラビアン・ナイトブリードの物語世界だ。その世界では今にもナポレオン軍が来襲しようとするエジプトが舞台となっている。強大なナポレオン軍を撃退するには、長年の平和に慣れすぎたエジプトはあまりにも脆い。そこで策士アイユーブは読めば堕落すると伝わる「災厄の書」を探し出し、それをナポレオンをへの贈り物にすることで、ナポレオンを自滅に追い込もうと画策する。首尾よく見つけ出した「災厄の書」は、その力があまりに強大なあまり、読むと翻訳者にも害を与えるという。だから分冊にして、ストーリーとして意味のない形にしたうえでフランス語に翻訳し、翻訳を進めながら物語を読み合わせようとしたのだ。ところがそれはアイユーブが主人であるイスマーイール・ベイをたばかるための仮のストーリー。その実は、魅力的な物語を知る語り部に物語を語らせ、それを分冊にしてフランス語に翻訳するという策だ。ここにも違う物語の層が干渉しあっているのだ。

そして次の物語の幕が上がる。直列に連なる三つの物語は、これぞ物語とでもいえそうな幻想と冒険に満ちている。その中では魔法や呪文がつかわれ、魔物がダンジョンを徘徊し、一千年間封じられた魔人が復活の時を待ち望む。裏切りと愛。愛欲と激情。妖魅と交わる英雄。剣と謀略だけが生き残る術。そんな世界。極上のファンタジーが味わえる。読むものを堕落させるとのうたい文句は伊達ではない。

一つ目は王子でありながら醜い面相を持つアーダム。彼が身を立てるために妖術師になっていく物語だ。醜い面相を持ちながら、醜い性格を隠し持つ。裏切りと謀略に満ちているが、とても面白い。

二つ目は、黒人でありながらアルビノとして生まれため、ファラーと名付けられた男。生き延びるために魔術を身に着け、世界を放浪して回る。その苦難の日々は、成長譚として楽しめる。

三つめは、盗賊でありながら、実は貴い出自を持つサフィアーン。盗賊でありながら義の心を持つ彼の、逆転につぐ逆転の物語。予想外の物語はそれだけでも楽しめること間違いない。

三つの物語はどんな結末を迎えるのか。三つの物語がアイユーブ達によって読み上げられ、一つの本に編まれた暁には何が起こるのか。それは本書を読んでもらわねばなるまい。一つ思い出せるのは「物語とは本来、永遠に続かねばならない」という故栗本薫さんの言葉だ。

もちろん本書は終わりを迎える。何層にも束ねられた物語も、本である以上、終わらねばならない。仕方のない事だ。それぞれの物語はそれぞれの流儀によって幕を閉じる。ただ、読み終えた読者は置き去りにされたと思わず、満足して本を閉じるに違いない。極上の物語を同時にいくつも読み終えられた満足とともに。

本書はとても野心に満ちている。複雑さと難解さだけに満ちた本は世の中にいくらでもある。本書はそこに桁違いのエンタメ要素を盛り込んだ。日本SF大賞と日本推理作家協会賞を同時受賞できる本はなかなかない。本書は何度でも楽しめるし、何パターンの読み方だってできる。その時、作家が誰であるかなど、どうでもよくなっているはず。それよりも読者が気をつけるべきは、本書によって堕落させられないことだけだ。

‘2017/08/27-2017/09/17


PAN ネバーランド、夢のはじまり


最近の映画には、有名な物語を題材にした内容が多い。それも単純なリメイクではない。その物語があまりにも世間に広まっていることを逆手に取っていることが多い。例えば内容を解釈しなおしたり、製作秘話を紹介したり、さらには前日譚を披露したり、といった趣向だ。映画製作者にとっては金鉱を掘り当てたに等しい題材なのだろう。

今日観た「PAN ネバーランド、夢のはじまり」ピーターパンもそう。有名なピーターパンの内容の前日譚、いわばプロローグを創造したのが本作だ。ピーターパンの製作秘話については、すでに映画化されている。ジョニー・デップが戯曲の原作者ジェームス・マシュー・バリーに扮した「ネバーランド」がそうだ。内容のレベルが高く、感動させられた一作だった。私も泣かされたものだ。だが、その内容は大人向けであり、子どもには若干伝わりにくかったと思われる。

だが、本作は子供に伝えることを第一に考えた内容となっている。なぜピーターパンは、フック船長と始終争っているのに、笑っているのか。なぜ彼らの戦いはどことなくのどかで、トムとジェリーみたいなのか。ピーターパンはいつからネバーランドにいるのか。どうやって空を飛べるようになったのか。本作ではそれらの秘密が明かされる。ピーターパン好きにとってはたまらない一作だろう。

母親によって孤児院に預けられたピーターは、子供時代を孤児院で過ごす。母が恋しくて仕方ないピーターは、ある日、ドイツ軍によるロンドン空襲の最中、孤児院の地下で母が自分宛に送った手紙を見つける。親友のニブルとシスターからのいじめに耐えるピーター。ここら辺りまでは暗い色調の落ち着いた雰囲気で話が進む。

そしてその空襲の後、話は一気にファンタジー溢れる場と化す。空飛ぶ海賊船が孤児院上空にやってきて、孤児院は子さらいの場と化す。ニブルは連れ去られる間際に孤児院へ飛び降りたが、ピーターはそのまま空飛ぶ海賊船に乗って黒ひげの下へと連れ去られる。黒ひげは、大規模に奴隷を使って妖精の石ピクサムの採掘をさせつつ、妖精の粉の不老効果を浴び続けている。そこでピーターと知り合ったのが、フックと名乗る男。作業監督のスミとともに、採掘所からの脱出に成功し、部族の集落へと向かう。そこで自らが部族の伝説の少年であることを知らされるピーターは、母もまた部族に所縁をもつ人であることをしり、部族で母と合うことを求める。そこへ黒ひげが襲来し、妖精の王国までもが黒ひげによって蹂躙されてゆき・・・・という話。

つまり、ここにはフック船長vsピーターという図式は出てこない。悪役はヒュー・ジャックマン扮する黒ひげなのである。フック船長はギャレット・ヘトランドが爽やかに演じている。そこには手鉤もなければヒゲもない。フック船長のイメージを全く新しい物として提示したのが本作の演出で一番工夫した点かもしれない。ピーター・パンとフック船長は、本作においては仲間であり戦友なのである。なぜピーターパンは、フック船長と始終争っているのに、笑っているのか。なぜ彼らの戦いはどことなくのどかで、トムとジェリーみたいなのか。その2つの疑問は、本作を観ていると解消されることになる。

ピーター・パンの物語の登場人物への思い入れが強ければ強いほど、スクリーンの登場人物が生き生きとして見える。なので、俳優陣にはかなり高いハードルが課せられる。その点、残念ながら私にとって、本作の俳優陣の演技はそれほど役のイメージと合わなかったといわねばなるまい。いや、イメージというよりか、俳優間の掛け合いの間合いがしっくりこなかった。そこが残念であった。特にミスター・スミはフックに協力するかと思えば、黒ひげの手先となって妖精の王国のありかを教えるなど忙しい役である。ドジでのろまな愛敬ある悪役の手下のイメージを作り上げたといえばミスター・スミ。これには同意いただける方も多いのではないか。しかし本作でのミスター・スミの繰り出す様々なボケが少し間を逸していたのだ。黒ひげとの掛け合いでもフックやピーターとの掛け合いでも。そこが残念であった。また、掛け合いの間がずれているように思えたのは、フック船長とピーター、タイガー・リリ-の間での掛け合いもそう。私の求める間合いと劇中の彼らの間合いのずれは最後までとうとう解消されないままだった。

それはフック船長のイメージが異なり過ぎていたといったことでもない。タイガー・リリーがイメージ的に妖艶過ぎたためでもない。なぜだろう。

黒ひげのヒュー・ジャックマンの演技は格別で、抑揚とアクセントの効いた悪役っ振りは素晴らしかった。また、リーヴァイ・ミラー扮するピーターは、その瞳の美しさやスクリーンでの立ち居振る舞いすべてがピーター・パンのイメージそのままで、素晴らしいものがあった。それだけにこのずれが私の中で惜しいと思わされた。

このずれの原因は分からないが、あるいはこういうことかもしれない。本作の中で、全てのピーター・パンの話は明かされる訳ではない。たとえばフック船長の手鉤。様々なミュージカルやアニメによって右腕にもなったり左腕にもなったりしているという手鉤の由来は本作では出てこない。また、フック船長とピーター・パンが争うようになった理由。これも本作では提示されていない。伏線的なものすらない。この違和感が余韻となって、本作内での俳優たちの掛け合いの違和感を強調させたのかもしれない。

とはいえ、本作の美術効果や音楽効果は素晴らしい物があった。特に第二次大戦中のロンドンの様子や孤児院、ネバーランドや妖精の王国など、見事というしかない色彩の使い方で、美術の素晴らしさは見るべきものがあった。また、音楽面でも見逃せない。特に、NIRVANAの「Smells Like Teen Spirit」に独創的なアレンジを施して黒ひげの登場シーンに流したセンスは唸らされた。まさか第二次大戦やファンタジーの王国の話で、NIRVANAが流れるとは。他にもラモーンズも使われていた。

ひょっとしたら第二弾が作成され、その中で先に書いた手鉤や争いの理由が書かれるのかもしれない。そうしたら、また娘たちと観てみようと思う。本作でリーヴァイ・ミラー少年が演じたピーター・パンの瞳は、そのぐらい魅力的だった。

’2015/11/1 イオンシネマ新百合ヶ丘