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ギッシング短編集


19世紀に書かれた小説を読むと、ぎこちない場面転換や心理描写に戸惑うことが多い。現代の我々は、洗練された語りに恵まれて過ぎていて、19世紀の小説が回りくどく思えるのは仕方のないことかもしれない。偉大なるディケンズの長編小説であっても、冗長な記述に読む気を失うこともしばしばある。

著者は、その時期の英国で名を馳せた作家である。短編集である本書で初めて著者の名と作品に触れることができた。本書の語りは簡潔であり、冗長とは無縁の素朴な味わいである。名品そろいの短編集といってもよいだろう。

著者が活躍したのはビクトリア女王の治下、繁栄を極めた大英帝国の絶頂期。その繁栄の下で、貧民や中産階級の庶民が多数いたことは良く知られている。本書に登場するのは中産階級の人々。彼らが主役となる物語が多くを占める。彼らは慎ましく、素朴で質素でいて愚か。それでいて、絶対王政の軛から逃れた近代市民としての自己意識を持ち、産業革命のもたらした繁栄に浮かされている。本書では時代に翻弄され、自分の人生を生きようと努力する人々の姿が各短編に活写され、当時の時代感が良く読み取れる。

とくに冒頭の「境遇の犠牲者」は、その時代感が良く読み取れた一編として、強い印象を受けた。プライドの高く絵に才能のない絵描きと、腰が低く絵の才に溢れた細君の話。ある日夫婦のアトリエにやって来た高名な画家が持ち帰った絵が画壇で評判を呼び、売れっ子となるのだが、その絵は亭主の筆ではなく、細君の手習いの絵。以降、評判になるのは細君の絵だけで、それを亭主の絵として売り続ける。プライドゆえにその事実を認めない亭主と、実直に絵を描いては亭主の手柄にし続ける細君。やがて細君はそのプレッシャーから筆を折り、亭主のために尽くす人生を選ぶ。細君が世を去り、絵の先生として余生を送る亭主は、私は生活のために絵描きの道を諦めた「境遇の犠牲者」だ、と独白する。

まだ男女同権の風潮芽吹く前の、自己意識だけが高い哀れな男と自己の価値に気付かず男に尽くすだけの女の生涯が素朴な筆致で描かれている。

他にも本書には「ルーとリズ」「詩人の旅行かばん」「治安判事と浮浪者」「塔の明かり」「くすり指」「バンブルビー」「クリストファーソン」といった諸編が並べられているが、いずれも近代の自己意識に目覚め始めた人々の挿話である。本書には日々の糧のためだけに生きる人々は登場しない。本書に登場するのは、ようやく自分の余暇を持てる時代にあって、その余暇を持て余す人々である。彼らは余暇とどう付き合えばよいか分からず、実直な生活に回帰したり、人生に迷ったりする。素朴だった人々が余暇を得て、それを持て余す時代の転換期の雰囲気が良く出ている。

本書の語りは素朴である。素朴であるがゆえに、物事の本質をつかんでいるといえる。それはIT化の進んだ現代の我々が、生きることに対する不安の本質でもある。この時代の人々が余暇を得て持て余したように、ITによって便利になる一方の日々の営みの中、自分の存在意義を持て余すことにも通じる。19世紀の作とはいえ、読み方によっては今の我々にも得るところが多いのが本書だと思う。19世紀の著名な作家だけでなく、本書のように埋もれつつある諸作の中にも忘れ去るには惜しい本がある。そんなことを思った。

‘2014/10/22-10/24