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オッペンハイマー


本作を見たのは、3月29日に公開されてから5日後だった。私にしてはとても早い。

本作はそれほどまでに観たかった。クリストファー・ノーラン監督が原爆をテーマにした映画を手がけると言うニュースを聞いた時から、必ず見に行こうと決めていた。

ところが本作は、原爆を投下されたわが国の国民感情に配慮したからだろうか、日本公開が遅れに遅れた。

まず、その点から取り上げてみる。
結論を言うと、本作から日本人を貶めるような描写はほとんど感じられなかった。

敢えて私の心をざわつかせたシーンを挙げるとすれば、それは巨大な核爆発の様子が描かれるトリニティ実験のシーンではない。
広島と長崎に原爆が投下された後、ロスアラモスの職員たちに対してオッペンハイマーが壇上から挨拶するシーンと、トルーマン大統領に謁見するシーンは、人によっては心穏やかでいられないだろうと感じた。

後者のシーンでは、落とした本人が広島に言及するが、長崎を忘れ、オッペンハイマーから補足される。
トルーマン大統領は自分の手は血塗られていると言ったオッペンハイマーのセリフに不快感を示し、泣き虫を二度と呼ぶなと言う捨て台詞を吐く。
このように、オッペンハイマーは、彼なりに被害者の痛みを想像し、その痛みに精一杯共感しようとしている。

その感受性は、壇上から挨拶するシーンでも遺憾なく発揮される。
足元に炭化した遺体の幻影を見いだし、自分に歓声を送る人々が最大輝度まで白くなり、顔の皮膚がめくれるイメージが眼前にちらつく。観客の発する地響きはオッペンハイマーの視野を揺らし、精神も合わせて揺れ動く。
オッペンハイマーが感じた強烈な罪の意識が描写される。

広島に投下されて33日後の記録映像をみんなで見るシーンでは、オッペンハイマーはそこから画面から目を背ける。

無邪気に喜ぶ人々の心情は、戦勝国の国民の態度としては、至極真っ当だろう。だが日本人としては心穏やかに見られない人がいるのは分かる。
日本で公開が遅れた理由は、これらのシーンが日本人の国民感情を逆なでするとの懸念があったのだろう。

ただ、喜ぶアメリカの人々の描写に比べ、オッペンハイマーの態度は日本人にとっては被害者感情に共感してもらえたように感じた。
本作を見ていると、アメリカ人向けの映画と言うよりも、日本人向けに描かれたのではないかとすら思える。
なぜ日本向けに公開が遅れたのか、判断に苦しむところである。

私が自分のこととして本作から興味深く受け取ったメッセージとは、冷静であることと人々を導くリーダーシップの両立についてだ。
オッペンハイマーがマンハッタン計画の実現にあたり、類まれなる能力を発揮した事は誰もが認めることだろう。
そのリーダーシップの源がどこから来ているのかに深く興味を持った。オッペンハイマーが頭脳明晰である事は確かだが、頭脳が明晰であることとリーダーシップの間には直接の関係は無いはずだ。

むしろ本作では、その冷静な仮面の裏にあるオッペンハイマーの人間としての部分をあえてさらけだそうとしたかに思える。

例えば、本作はR15に指定されている。
最初の恋人であるジーン・タトロックとセックスに及ぶシーンが何度か描かれる。上半身裸で抱き合う2人。ジーンの胸もさらされる。ベッドの上で、そして聴聞会の面々の中で二人が裸で抱き合うイメージも挿入される。
理論で武装する科学者としての性分。明晰であることが求められるとともに、多くの技術者を束ねて目標にまい進させるリーダーシップを兼ね備えたオッペンハイマー。それだけを打ち出せば、オッペンハイマーを描いたことにはならない。人間としてのオッペンハイマーをさらけだすには、スーツ姿のオッペンハイマーから服を脱がせるしかない。さらには性交にふけるオッペンハイマーを描くべき。そう判断したのだろう。
聴聞会に呼ばれた妻のキティが、人間として汚されていくと吐き捨てるようにオッペンハイマーに言ったのは、まさにこの点だろう。

そうした人間的な面を引きずりながら、それでも類まれなリーダーシップを発揮したことは、私個人が精進すべき課題として、とても強く印象に残った。

本作を見るにあたり、私は予備知識なしで劇場に臨んだ。
もちろん、水爆の父として知られるエドワード・テラーとマンハッタン計画の中から既に対立が生じ、オッペンハイマーが実際の水爆開発に反対することで、さらにテラーとの対立を深めたことも知っていた。共産主義との関係を疑われ、晩年は死の直前に名誉回復されるまで、不遇の生涯を送ったことも知っていた。もちろん、「我は死なり、世界の破壊者なり」というバガヴァッド・ギータ―の一説を唱えたことも。

しかし、私は本作で見るまで知らなかったことがいくつもあった。ジーン・タトロックの事も知らなかったし、妻のキティについてもあまり知らなかった。さらに本作で重要な人物として描かれるルイス・ストローズとの対立についてはほとんど知らなかった。もちろん。ストローズについても初めて知った。

本作は、オッペンハイマーの視点で書かれたシーンはすべてカラー。そして、ストローズの視点から描かれたシーンは全てモノクロで描かれている。
分かりやすい例でいうと、陽の当たるところにいたのがオッペンハイマーで、日陰にいたのがストローズという構図である。
核を知らない人類の歴史を鮮やかに描き、禁断の兵器を知ってしまった人類の罪をモノクロで描いたという解釈もできる。また、オッペンハイマー自身の個人史で栄光に満ちた時代をカラーで、汚辱にまみれた時代をモノクロにしたという解釈も可能だ。
だが、私としては以下の解釈を採りたい。
それは、ストローズが何度かセリフで言っているように、真理を理解した明晰な技術者の見える世界と、庶民が見る世界の解像度の差、という解釈だ。

本作で描かれるストローズとは、庶民としての劣等感に苛まれる存在だ。
ストローズの被害妄想が対立のきっかけであるような描写が冒頭に提示される。プリンストン高等研究所におけるオッペンハイマーとアインシュタインとの会話にストローズが全く排除されたように思えたこと。そこで二人の間に交わされた会話については最後の方で明かされる。
そのような些細な出来事が対立の種となったこと。さらにオッペンハイマーが名声を得ていながら、ストローズが推し進める水爆開発に反対するオッペンハイマーに対する劣等感が亢進する。
そこから私たちが受け止めるべきメッセージは、技術者としての職務や理論を突き詰めていけばいくほど、孤高になり、孤独になっていき、そして誤解される宿命だ。

それは技術者として、経営者として私自身が自らの振る舞いを顧みるきっかけにもなった。
もちろん、私はお客様に対しては可能な限り、技術の内容をわかりやすく伝えるようにしている。
だが提案側の仲間に対して、どこまで私の考えや理論を分かりやすく伝えているのだろうか。私の考えや技術面のノウハウがどこかで浮いていないだろうか。きちんと説明を尽くしているのだろうか。
そこが手抜かりがあると、オッペンハイマーのように孤独な晩年になってしまいかねない。
私もその辺は気をつけなければと肝に銘じた。

本作は、音響や視覚効果に関してはとても良い。映画館で見るべき映画として製作されている。
私が見たのは通常のスクリーンだが、本作はIMAXで見た方が良いはずだ。家のテレビやスマホでは本作の良さは十分に伝わらないと断言できる。
特に音響だ。爆発シーンの音響もそうだが、全体的に本作は音響が観客に映像を抜きにした原爆の恐怖感を与える効果を生んでいる。
本作は三つまたは四つの異なる時代のシーンが並行で切り替わる。素早く切り替わるシーンの背後に、観客を追い立てるような音響が流れることにより、原爆の恐ろしさを観客に想像させる効果を狙っているのだろう。
上にも書いた通り、本作には原爆による被災映像は断片的なイメージしか投影されない。だが、被災状況の映像など、いくらでもウェブで見られるし、その映像を超えた何かを出すことに意味はない。
むしろ監督が企図したのは、この音響とシーンの断片的な繰り返しが観客を追い立て、観客自らがそれぞれの恐怖を創造するようにしているのだろう。

もう一つ、監督が企図した観客に伝えたかった恐怖がある。
それは人工知能、AIだ。
そもそも、なぜ今、オッペンハイマーを描いたのだろうか。それは、神に近づいた人物を描く必要に迫られたからだ。
今、世界中で神に近づこうとする人物が無数にいる。AIという神を。

この当時、原爆開発は国にしかできなかった巨大プロジェクトだ。
組織が構築され、予算が承認され、責任者も設けられていた。責任の所在がはっきりしたプロジェクトだった。そのシンボルこそがオッペンハイマーだった。
だが、今のAI開発競争においてオッペンハイマーはいない。国ですらない。複数の企業がそれぞれ独自にAIを開発し、日々目覚ましい成果を挙げているはずだ。もはやその流れを押しとどめる事は不可能だろう。
押しとどめることが不可能である以前に、そもそもAIが何ができるかの臨界点すら誰にも制御できない状況になっている。
神に近づく人々が無数に現れ、さらには全く技術に詳しくない一般人ですら、AIを使って神の域に近づくことができる。
そんな時代になっている。

オッペンハイマーのように神に近づいた人物は、人間に貶められ、苦汁をなめさせられた。羽ばたこうとして墜落死したイカロスのように。
しかし、AIを使って神に近づきつつある多くの人物は、スケープゴートにもされることもなく、晒し者にされることもない。

本作が私たちにとって重要なのは、技術の限界を抑える者がもはやいないと言う恐怖を示しているからではないだろうか。
本作の映像の切り替わるスピードと追い立てられるかのような音響は、今の人類を取り巻く変化の速さであり、人類がトリニティ実験の成功によって得た進歩という名の地獄とは違った、さらにおそるべき未来を暗示しているように思えた。

今、どこかの国を壊滅させるには、原爆など不要である。テクノロジーとデータの力で十分なのだから。

‘2024/4/2 TOHOシネマズ日本橋


HIROSHIMA


著者の作品は読んだことがないが、第二次大戦の戦場で数々のノンフィクションをものにした方だそうだ。
また、イタリア戦線にも従軍し、その内容を『アダノの鐘』に著し、ピューリッツァー賞の小説部門を受賞したそうだ。それらはウィキペディアに載っている。

ウィキペディアには本書も載っている。その内容によれば、本書は学校の社会科の副読本になり、20世紀アメリカジャーナリズムのTOP 100の第1位に選出されたそうだ。
実際、本書の内容は、原爆を投下した側の国の人が書いたと考えるとかなり詳しい。しかも、まだ被爆の記憶が鮮やかな時期に書かれたことが、本書に資料としての価値を与えている。

本書についてはウィキペディアの英語版でかなり詳しく取り上げられている。ウィキペディアの記述も充実しているが、本書の末尾に付された二編の解説もまた素晴らしい。
一つは、本書を和訳した三人の一人でもあり、本書に取り上げられた六人の被爆者の一人でもある谷本清氏が1948年9月に著した長文の解説。もう一つは、訳者である明田川融氏が2003年6月に著した解説。この二つの解説が本書の内容と価値を十分に説明してくれている。

解説の中では、被爆地である広島で本書がどのように受け止められたかにも触れている。広島でも好意的に受け取れられたそうだが、それだけで本書の価値は明らかだ。
原爆がヒロシマに落とされてから75年の年月がたった。
その間にはいろいろな出来事が起こり、歴史が動いた。そして、記録文学や映画や絵画が数え切れないほど書かれてきたし描かれてきたし撮られてきた。
そうした数多くの作品の中でも、投下から一年以内にアメリカ人によって取材された本書は際立っている。
なにしろ、1946年の8月にニューヨーカー誌面で発表されたというのだから、本書の取材内容の新鮮さは、永久に色あせないだろう。

本書は、六人の被爆者の被爆から数日の日々を取材している。丹念に行動を聞き取り、そこで目撃した投下直後の悲惨な街の状況が克明に描写されている。私たちは、当時のアメリカ進駐軍が被爆地に対して報道管制を敷き、日本人の国民感情を刺激せぬように配慮した事実を知っている。
だから、本書を読み始めたとき、本書にはそこまで大したことが書かれていないのでは、と考えていた。
だが、本書には私が思っていた以上に、原爆の悲惨さと非人道的な側面が記されている。もちろん、本書が発表された当初はさまざまな配慮がなされたことだろう。たとえば、本書が日本ではなくアメリカでのみ発表されたことなど。
そうした配慮によって、日本人の国民感情を刺激せず、同時にアメリカ人に対して自国が行った行いを知らしめる意図を満たしたはずだ。

著者は告発というより、ジャーナリズムの観点から事実を報道することに徹したようだ。だが、恐るべき原爆の被害は、事実の報道だけでもその非日常的さと非道さが浮き彫りになる。
著者は、被爆者が語った内容をそのままに、添削も斟酌もなしに書いているが、それがかえって本書に不朽の価値を与えているのだろう。

当然のことながら、本書に取り上げられた六名の方の体験だけが原爆の被害の全てではない。二十万人以上の人々が被爆したわけだから、悲惨さは二十万通りあって当然だ。
本書に登場する方々は、いずれも爆心地から1キロメートル以上離れた場所で投下の瞬間を迎えた。しかもたまたま建物の影にいたため、熱線の被害にあわなかった方々だ。
言うまでもなく、本書に取り上げられている六名の方の悲劇を他の被爆者の悲劇と比べるのはナンセンスだ。むしろ失礼に当たる。
この六名の方も、無慈悲で無残な広島の光景を十分すぎるほど目に焼き付けたはず。それがどれほど心に深い傷を残したかは、想像するしかない。
本書に描かれた六通りの非道な運命だけで、ほかの数十万の悲劇について、どこまで当時のアメリカの人々に届いたのか。それはわからない。

とはいえ、本書はアメリカ人にとっては報道の役割を十分に果たしたと思われる。自国で生み出された原爆がヒロシマとナガサキの人々の上に筆舌に尽くし難い惨禍をもたらしたこと。多くの人々の人生を永久に変えてしまったこと。この二つを知らしめただけでも。原爆の悲劇が早い時期に報道されたことに本書の意義はある。
本書に登場した六名の被爆者の方々が、西洋文化に理解を持っており、被爆を通してアメリカを恨み続けていないことも、アメリカの方々の心には届いたと思いたい。

夫を南方の戦場で失い、一人で三人の子供を助け、その後の惨状を生き延びた中村初代さん。日赤病院の医師として不眠不休の治療にあたった佐々木輝文博士。同盟国ドイツの人物として、西洋人の目で原爆の惨禍を見たウィルヘルム・クラインゾルゲ神父。事務員で崩れた建物に足を粉砕された佐々木とし子さん、病院の院長であり、崩壊した病院の再建とともに一生を生き抜いた藤井正和博士。かつてアメリカで神学を学んだ牧師として、原爆の被害をアメリカに訴え続けてきた谷本清氏。

六名の方が語る体験が描かれた本書は、後日談も描かれている。
39年後、再び広島を訪れた著者がみた、平和都市として生まれ変わったヒロシマ。その移り変わった世の中を被爆者として懸命に生きた六名の人生。

被爆者としての運命を背負いながら、長い年月を生きた六名の被爆者。ある人は原爆とは直接関係のない理由で亡くなり、ある人はいまだに反核運動に生涯をささげ、ある人は神の僕としてそれなりの地位についている。

上にも書いた通り、もともと六名の方が西洋文化に素養があったからこそ、著者のインタビューを受ける気になったのかもしれない。そうした六人だったからこそ、その後の人生も懸命に生きたことだろう。

六名の方が、被爆直後の恨みを傍にいったんおき、苦しい体験をあの時期に、それも原爆を落とした相手の国のジャーナリストに語る。
その決断が、民間レベルでの日米間の交流にどれほど貢献したかははかりしれない。
そして、その決断にどれほどの葛藤があったことだろう。敬意を表したい。

‘2019/9/6-2019/9/7


原爆 広島を復興させた人びと


広島平和記念資料館を私は今までに三度訪れたことがある。1995年、1997年、2013年。
それぞれの訪問のこともよく覚えている。中でも初めて訪れた時の印象は強烈に刻まれている。
投下から五十年目の前日、8/5の朝を原爆ドームの前にテントを立てて野宿で迎えた私。その後に訪れたのが初訪問だ。
翌朝、8/6の投下時刻には、他の大勢の方々とともに原爆ドームの前でダイ・インに参加したことも懐かしい。

平和記念資料館を訪れると、東西に分かれたそれぞれの棟をつなぐ渡り廊下のガラス窓を通して平和記念公園が一望できる。完全に計算された配置は機能的で洗練されている。
洗練された公園の整備は、このあたりが原爆によって更地にされたからこそ実現した。資料館の中を訪れると、無残で悲惨という言葉しか絞り出せない被曝の資料の数々が私たちの胸を打つ。それらは、一瞬でなぎはらわれた荒野に残された痛ましいモノたちだ。

資料館、広島平和記念公園、平和大通り。この三つを含む地域は、川の対岸の原爆ドームや相生橋、元安橋と合わせて、平和都市広島を象徴している。

被曝で75年は草木も生えぬ、と言われた焼け野原の広島。その都市を復興させ、平和の尊さを世界と未来に伝え続けるシンボルとして整備を行ったのは誰か。膨大な資料館の展示品は、そもそも誰が最初に集めたのか。
本書はそうした巨大な事業に関わった四人の物語だ。

資料館に展示された膨大な展示物の中から、最も印象に残る物は、人によっていろいろだろう。
その中でも、実際に被爆し、亡くなった方が被爆当時に身に付けていた服は、実物そのものであるだけに、来館者の心に強く刻まれるに違いない。
でも考えてみてほしい。その展示物とは、着ていた方の肉親にとっては、亡くなった方の唯一の形見である場合も多いのだ。
遺族にとっては、亡くなった息子や娘を思い出すよすがとなる遺品。そうしたかけがえのない遺品が資料館には陳列されている。この事実に今の私たちはもっと意識を向けるべきだろう。
ただ単に歴史の証として展示されているのではない、ということに。

本書の主役は、膨大な被曝の収集物を集め、初代の平和資料館館長に就任した長岡省吾さん、原爆市長と称された浜井信三市長、広島の平和都市として都市計画を設計し、出身である広島に報いた丹下健三さん、そして自らが被爆者でありながらその被曝の思いを世界に発信し続けた高橋昭博さんの、四人だ。

被爆後のあたり一面の焼け野原に公園を設計し、整備し、シンボルを創り出す。
私のように都市計画を知らない素人には、人も家もないため、かえって楽じゃないかなどと考える。
だが、そうではない。
原爆の惨禍からかろうじて生き延びた人々は家を失っている。生き延びた彼らは、これからも生きるために家を確保しなければならない。ありあわせの材料をかき集め、バラックの家を建てる。
誰もいない荒れ地には、都市計画も道路計画も無意味だ。所有権も借地権も証明する書類は全て灰になり、証明する人もいない。あり合わせの材料で建てられたバラックも、被曝した人々が長らく住み続ける間に居住権が発生し、市当局はますます都市整備がやりにくくなる。

浜井市長が当選し、広島市の復興に向けて立ち上がった当時の昭和22年の広島は、そんな混乱の時期だった。
平和公園などを立案する以前に、現実に市民の最低限の生活をどうするか、という目先の仕事で精いっぱいの時期。
復員などで人が増えるにつれ、無秩序が市を覆い始めていた。そのような都市をどうやって平和都市として蘇らせるのか。それは、市政の先頭に立つ浜井市長の手腕にかかってくる。
浜井市長はもともと東大を出ながら結核で広島に帰郷し、広島市役所に奉職せざるをえなかったという。いわば挫折の経歴を持った方だ。
原爆の投下当時は配給課長として、被爆市民にいかに食料や衣料を提供するかの困難な課題に立ち向かった人物だ。戦後、その功績が認められ助役に、そして市長に推される。
原爆市長として十六年の間、市長を務める中で、粘り強く都市計画をやり遂げた功績は不朽だ。その困難な市政を遂行するにあたり、浜井市長が育んできた経験や人生観が大きく影響したことは間違いないだろう。

そして、丹下健三さん。
世界的な建築家として著名な方である。
広島平和記念資料館が実質的な建築家としてのデビュー作だそうだ。
デビューまでにも、丹下氏は幾度も挫折に遭遇し、それを乗り越えてきた。特に、死を前にした父を見舞おうと広島に向かう途中、尾道まで来たところで原爆が投下されたこと。父はすでに八月二日に亡くなっていたこと。五日から六日にかけての今治空襲で母を亡くしたこと。
原爆投下の前後に起こったこれらの出来事は、丹下さんの一生を通して、原点となり続けたに違いない。
高校時代を過ごした丹下さんの広島への想いが、平和大通りの横軸と、平和祈念資料館、慰霊碑、原爆ドームを通す縦軸への構想を生み出す原動力になったと思うと、平和記念公園を見る目も変わる。

丹下さんは、平和祈念公園を手がける前にも復興計画についてのコンペ募集があり、その時に挫折を経験していた。
さらに平和祈念公園ができた後も、平和のシンボルとなった公園を巡ってはさまざまな人々の思惑や暗躍が入り混じる。

本書を読んだきっかけに丹下さんのことをウィキペディアで調べると、手掛けた代表作のリストに私ですら知っている建物の実に多いことか。入ったことがある施設だけでも二十カ所近い。あらためて丹下氏に興味を持った。

長岡省吾さんの人生も実に陰影が深い。
若い頃に満州で過ごし、そこで現地の陸軍特務機関に入ったことで、一生をその経歴につきまとわれることになる。
鉱物に興味をもち、在野の研究者として活動した後、内地に戻る。在野の研究者として名が通っていたため、広島文理大学の地質学講師に職を得るが、研究者としては経歴が弱かったことが災いして不遇の日々を送る。

被爆後、経歴と興味から被爆遺物の収集を開始した長岡さんは、原爆の研究も開始する。
その努力は、後に初代の資料館館長に推されることで報われる。ところが経歴の不足が足を引っ張り、それ以上の待遇が長岡さんに与えられることはなかった。冷遇され続けた長岡さんは、個人で原爆研究を続けるためにUCAAにも籍を置く。だか、そこでも論文の署名が末尾に置かれるなど、長岡さんの不遇には同情するほかはない。

平和資料館の展示内容が、国や政府の思惑によってで原子力の平和利用の展示が追加されるなど、長岡さんの思いは裏切られ続ける。
長岡さん自身がUCAA活動によって市や資料館との関係が疎遠になったり、出征していた長岡さんの子息が戻ってきて対立したり、と長岡さんと資料館の関係は長年、良好とは言い難かった。
長岡さんの経歴には不明な点が多く、ウィキペディアにも独立の項目はない。
本書で著者が一番苦労した点は、長岡さんの経歴を調べることにあったようだ。長岡さんもまた、戦争に人生を狂わされた一人であることがわかる。

高橋さんは、資料館の展示でも著名な「異形のツメ」の持ち主だ。
投下の瞬間、屋外の作業に従事させられていた大勢の中学生が熱線をモロに浴びた。高橋さんもその一人。
死ぬまでの何十年の間、異形のツメは生え続けた。反核の活動者として、広島市の職員として、後には資料館の館長にもなった高橋さんの記憶に被曝の体験が残っている間。

被爆のケロイドとどのように向かい合い、葛藤をどのように乗り越えたのか。
長岡さんの後継者として目をかけられたが、長岡さんのように被爆資料と向き合うことができず、苦痛のあまり、一度は後継者にと目をかけながらも袂を分かった高橋さん。
被爆の瞬間を70キロ離れた場所で迎えた長岡さんと、1.5キロの至近で浴びた高橋さんには被爆物への思いの桁が違うのだろう。

高橋さんは、原爆ドームの保存を決断した浜井市長やそれに賛同した丹下さんの力も得て、原爆ドームの保存運動に市の担当者として貢献する。
なお、高橋さんは結婚したが子孫を残せなかったという。それは被爆の影響が大きいのだろうが、かわりに原爆ドームという平和のシンボルを残せたことで、わずかにでも心が安らいだのなら良いのだが。
著者は高橋さんの奥様にもインタビューを行っている。まさに奥さまが語った言葉が高橋さんの思いを代弁していることだろう。

本書は、かたちあるものを残すことの困難と、残すことができた建造物がいかに人類に永く影響を与えられるか、を示している。
私は今まで、人工の建造物に対しては山や滝を見るよりも思い入れが少なかったが、本書を読んで思いが変わったように思う。

本書には、高橋さんの体験だけでなく、資料館に陳列された遺品の持ち主の遺族のインタビューもかなりの数が挿入されている。読んでいて涙が出そうになる。
資料館では説明パネルの枠の幅から、遺品の背後にある被爆者の思いの全てが汲み取りにくい。
だが、著者はきちんと遺族を訪ね、インタビューを行ったのだろう。言葉の1つ1つにあの日の血と肉が流れているようで痛ましい。肉親をなくした悲しみが文章から吹きこぼれ、私に迫ってくる。

著者の取材は丁寧で、文体も端正。
私が知らなかった資料館の展示に一時、原子力の平和利用があったことや、浜井市長が一度落選した経緯、反核・非核の運動の紆余曲折など、押さえるべきところを押さえた内容はお見事だ。
そして、20代の初めにヒロシマを訪れ、ヒロシマから影響を受けながら、とうとう本書のような作品を書こうともしなかった私自身が本書から受けた感銘は深い。

著者の作品を読むのは本書が初めてだが、他の作品も読んでみたいと思った。
本書は広島を描いたノンフィクションとして、私の中では最高峰に位置する。

‘2019/9/4-2019/9/4


日本の原爆―その開発と挫折の道程


「栄光なき天才たち」という漫画がある。かつてヤングジャンプで連載されており、私は単行本を全巻揃えていた。日本の原爆開発について、私が最初にまとまった知見を得たのは、単行本6巻に収められていた原爆開発のエピソードからだ。当時、何度も読み返した。

我が国では原爆を投下された被害だけがクローズアップされる向きにある。もちろん、原爆の惨禍と被爆者の方々の苦しみは決して風化させてはならない。そして、それと同じくらい忘れてはならないのは、日本が原爆を開発していた事実だ。日本が原爆を開発していた事実を知っていたことは、私自身の思想形成に少なからず貢献している。もし日本が原爆開発に仮に成功していたら。もしそれを敵国に落としていたら。今でさえ複雑な日本人の戦争観はさらに複雑になっていたことだろう。

本書は日本の原爆開発の実態にかなり迫っている。著者の本は当ブログでも何度も取り上げてきた。著者の筋の通った歴史感覚にはいつも信頼をおいている。そのため、本書も安心して手に取ることができた。また、私は著者の調査能力とインタビュー能力にも一目置いている。本書のあちこちに著者が原爆開発の関係者にインタビューした内容が引用されている。原爆開発から70年以上たった今、関係者の多くは鬼籍に入っている。ではなぜ著者が関係者にインタビューできたのか。それは昭和50年代に著者が関係者にインタビューを済ませていたからだ。原爆開発の事実を知り、関係者にインタビューし、原稿に起こしていたそうだ。あらためて著者の先見性と慧眼にはうならされた。

「はじめに」からすでに著者は重要な問題を提起する。それは8/6 8:15から8/9 11:02までの75時間に日本の指導者層や科学者、とくに原爆開発に携わった科学者たちになすすべはなかったのか、という問いだ。8/6に原爆が投下された時点で、それが原爆であることを断定し、速やかに軍部や政治家に報告がされていたらポツダム宣言の受諾も早まり、長崎への二発目は回避できたのではないかという仮定。それを突き詰めると、科学者たちは果たしてヒロシマに落とされた爆弾が原爆であることをすぐ判断できたのか、という問いにつながる。その判断は、技術者にとってみれば、自分たちが作れなかった原爆をアメリカが作り上げたこと、つまり、技術力で負けたことを認めるのに等しい。それが科学者たちの胸の中にどう去来し、原爆と認める判断にどう影響したのか。そしてもちろん、原爆だと判断するためには日本の原爆開発の理論がそこまで及んでいなければならない。つまり、日本の原爆開発はどの程度まで進んでいたのか、という問いにもつながる。

また、著者の着眼点の良さが光る点がもう一つある。それは原爆が開発されていることが、日本の戦時中の士気にどう利用されたか、を追うことだ。空襲が全国の都市に及び始めた当時、日本国民の間に「マッチ箱一つぐらいの大きさで都市を丸ごと破壊する爆弾」を軍が開発中である、とのうわさが流れる。「広島 昭和二十年」(レビュー)の著者が著した日記の中でも言及されていたし、私が子供のころ何度も読んだ「漫画 日本の歴史」にもそういったセリフが載っていた。このうわさがどういう経緯で生まれ、国民に流布していったか。それは軍部が劣勢の戦局の中、国民の士気をどうやって維持しようとしたか、という考察につながる。そしてこのようなうわさが流布した背景には原爆で敵をやっつけたいという加害国としての心理が国民に働いていたことを的確に指摘している。

うわさの火元は三つあるという。学者の田中館愛橘の議会質問。それと雑誌「新青年」の記事。もう一つ、昭和19年3月28日と29日に朝日新聞に掲載された科学戦の様相という記事。それらの記事が国民の間にうわさとなって広まるまでの経路を著者は解き明かしてゆく。

そして原爆開発だ。理化学研究所の仁科芳雄研究室は、陸軍の委嘱を受けて原爆開発を行う。一方、海軍から委嘱を受けたのは京都帝大の荒勝文策研究室。二つの組織が別々に原爆を開発するための研究を行っていた。「栄光なき天才たち」でも海軍と陸軍の反目については触れていたし、それが日本の原爆研究の組織的な問題点だったことも描かれていた。本書はそのあたりの事情をより深く掘り下げる。とくに覚えておかねばならないこと。それは日本の科学者が今次の大戦中に原爆の開発は不可能と考えていたことだ。日本に作れないのなら、ドイツにもアメリカにもソ連にも無理だと。では科学者達は何のために開発に携わっていたのか。それは二つあったことを関係者は語る。一つは、例え原爆が出来なくても研究することに意義があること。もう一つは、原爆の研究に携わっていれば若い研究者を戦場に送り出さずにすむ計算。しかし、それは曖昧な研究への姿勢となり、陸軍の技術将校に歯がゆく思われる原因となる。

仁科博士が二枚舌ととられかねない程の腹芸を見せ、陸軍と内部の技術者に向けて違う話を語っていた事。複数の関係者が語る証言からは、仁科博士が対陸軍の窓口となっていたことが本書でも述べられる。著者の舌鋒は仁科博士を切り裂いていないが、仁科博士の苦衷を察しつつ、無条件で礼賛もしないのが印象的だ。

また、実際に原爆が落とされた前後の科学者たちの行動や心の動き。それも本書は深く詳しく述べている。その中で理化学研究所出身で陸軍の技術将校だった山本洋一氏が語ったセリフがは特筆できる。「われわれはアメリカの原爆開発を疑ったわけですから、アメリカだって日本の技術がそのレベルまで来ているか、不安だったはずです。そこで日本も、原子爆弾を含む新型爆弾の開発に成功したのでこれからアメリカ本土に投下する、との偽りの放送を流すべきだったのです。いい考えではありませんか。そうするとアメリカは、たとえば長崎には投下しなかったかもしれません」(186ページ)。著者はこの発想に驚いているが、私も同じだ。私は今まで多くの戦史本を読んできたが、この発想にお目にかかったことはなかった。そして私はこうも思った。今の北朝鮮と一緒じゃねえの、と。当時の日本と今の北朝鮮を比べるのは間違っている。それは分かっているが、チキンレースの真っただ中にいる北朝鮮の首脳部が戦意発揚に躍起になっている姿が、どうしても我が国の戦時中の大本営に被ってしまうのだ。

山本氏は8月6日にヒロシマに原爆が投下された後、すみやかにアメリカの国力と技術力から算出した原爆保有数を算出するよう上司に命じられる。山本氏が導き出した結論は500発から1000発。その計算が終わったのが8月9日の午前だったという。そのころ長崎には二発目の原爆が炸裂していた。また、広島へ向かう視察機に搭乗した仁科博士は、搭乗機がエンジンの不調で戻され、ヒロシマ着は翌八日になる。つまりここで冒頭に書いた75時間の問題が出てくる。ヒロシマからナガサキまでの間に意思統一ができなかったのか、と。もっとも戦争を継続したい陸軍はヒロシマに落とされた爆弾が原爆ではあってほしくなくて、それを覆すためには確固たる説得力でヒロシマに落とされた爆弾が原爆であることを示さねばならなかった。

そして科学者たちの脳裏に、原爆という形で核分裂が実証されたことへの感慨と、それとともに、科学が軍事に汚されたことへの反発が生じること。そうした事情にも著者はきちんと筆を割き、説明してゆく。

それは戦後の科学者による反核運動にもつながる。例えばラッセル=アインシュタイン宣言のような。そのあたりの科学者たちの動向も本書は見逃さない。

「おわりに」で、著者はとても重要なことをいう。「今、日本人に「欠けている一点」というのは、「スリーマイル・チェルノブイリ・フクシマ」と「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」とは、本質的に歴史的意味がことなっていることを強く理解すべきだということだ。この二つの構図を混同してはならないと自覚しなければならない」(258ページ)がそれだ。私もそのことを強く思う。そしてぼんやりと考えているとヒロシマ・ナガサキ・フクシマを同列に考えてしまいかねない罠が待ち受けていることにも思いが至る。

もう一つ「日本での原爆製造計画が実らなかったために、私たちは人類史の上で、加害者の立場には立たなかった。だが原発事故では、私たちのこの時代そのものが次の世代への加害者になる可能性を抱えてしまった」(260ページ)という指摘も重要だ。下手に放射能被害の不安を煽ったりする論調には反対だし、私は事故後の福島には三度訪れている。だが、煽りに対して反対することと、原発事故からの教訓を読み取る必要性は分けるべきだ。

「あとがき」で著者は重ねて書いている。「本書は、あえて日本の原爆製造計画という、日本人と原子力の関係の原点ともいうべき状態を改めて確認し、そこに潜んでいた問題をないがしろにしてきたために現在に繋がったのではないかとの視点で書いた。」(266P)。この文章も肝に銘ずる必要がある。いまや日本の技術力は世界に冠たるレベルではなくなりつつある。このまま日本の技術力が地に落ちてしまうのか、それとも復活するのか。それは原発事故をいかに反省し、今後に生かすかにかかっている。海外では雄大な構想をもつ技術ベンチャーが増えているのに、日本からはそういう風潮が生まれない。それは原爆開発の失敗や敗戦によって萎縮してしまったからなのか、それとも原発事故の後遺症によるのか。問うべき点は多い。

‘2017/11/21-2017/11/23


被爆のマリア


本書のタイトルに惹かれた。なにしろ「被爆のマリア」だ。私が浦上天主堂で見つめたあの被爆のマリアを指しているに違いない。

2016年の秋、家族で訪れた長崎。その際、私は三度目の長崎訪問にして初めて浦上天主堂を訪れた。そこで礼拝堂の片隅に置かれていたのが頭部だけのマリア像だ。戦前は浦上の信者たちの信心を集めていたであろうマリア像。被爆したのち、廃虚の中に行方不明となってしまった。そして何十年たった後に数奇な運命の末、頭部だけが浦上天主堂へと戻された。

私は被爆のマリア像の存在を浦上天主堂を訪れるまで知らなかった。そして実物を目にして衝撃を受けた。マリア像の顔半分は焼け爛れ、目の嵌め込まれていた部分は虚ろな洞になっている。目がないマリア像の感情は茫洋として推し量れない。その呆然とした印象が、被爆を体験した身の瞬間の非現実さ物語っているよう。私の目を逸らさせない何かが被曝のマリア像には宿っていた。マリア像にくぎ付けになってしまった私は、視線を引きはがすのに苦労した。せめて写真を撮りたかったが、浦上天主堂の堂内は写真撮影ができない。なので絵はがきを買って帰った。

被爆のマリアは、被爆の語り部であることを放棄した浦上天主堂の遺構のほとんどが喪われた今、破壊され側溝に転んだままとなっている鐘楼とともに私の心に深い印象を与えた。浦上天主堂の訪問の前日、私は浦上天主堂が被爆遺構であることを放棄した経緯が記されたノンフィクション「ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」」を読んでいた。それだけに、被爆遺構のほとんどが喪われた浦上天主堂の中で出会った被爆のマリア像は私の心に刺さった。

実は、著者の作品を読むのは初めて。名前は知っていたが読む機会がないままだった。本書が初めての著者の作品でよかった。本当にそう思う。

本書は四編からなっている。「永遠の火」「時の川」「イワガミ」「被爆のマリア」の四編だ。

戦後に産まれた私たちがどうやって戦争体験と向き合うか。その課題は私の心の中でずっとくすぶっていた。それはある種の切実さをはらんでいた。

表題作「被曝のマリア」に登場する主人公”佐藤さん”は、高校の頃から原爆に関する本を読むのが好きだったとある。それはまさしく私のことだ。私も小学生の頃から原爆に関する本を読むのが好きな子供だった。

また「イワガミ」では作家の主人公”私”がヒロシマを題材に小説を書こうともがく。そして途方にくれる。その心情には心から共感できた。

冒頭の「永遠の火」ではイチローとの結婚を控えた”キャシー”が、原爆の火をキャンドルサービスの火に使えと提案する父に反抗し、なぜそんなものを今さら使わねばならないのか、と戦後世代の正直な気持ちをぶつける。私自身、平和な今を生きる身だ。歴史の中にあるものが、実生活に登場してきたら戸惑うに違いない。それが原爆の歴史を今に引きずるものであればなおさら。

それは「時の川」に登場する”タカオ”のように、私が子供のころに広島を訪れ、ミツコのような語り部から話を伺っていたとしてもそう思うはずだ。子供の頃の私は、たとえ原爆に興味を持っていたとしても語り部の話を今ほどの気持ちで受け止められなかったからだ。

多分、著者は正直な人だと思う。おそらく本書に収められた四編の主人公”キャシー”、”タカオ”、”私”、”佐藤さん”がヒロシマや被爆のマリアに対して抱く思い。それは著者の気持ちを投影しているはずだ。

私たちはついつい綺麗事や理想論でヒロシマやナガサキを見ようとしてしまう。それはそれで悪いことではない。だが、平和な戦後に生きるわれわれがいくら被曝の実情に迫ろうとしても、悲劇の上澄みしかすくえない。著者の素直な姿勢は、上澄みではない被曝の悲劇を何とかして今にすくい取り、描写しようと苦闘する。その過程で著者が被曝の投影対象として見すえたのが、原爆の火に戸惑いつつ伝える行為の意味を掴みかけようとする”キャシー”であり、語り部の中に自らの弱さと対照的な強さを見いだした”タカオ”の心であり、ヒロシマを被爆の一瞬ではなく過去から今に至る広島の時空の一つとして捉え直す”私”の試みであり、虐げられた日々の救いを被曝のマリアに託そうとする”佐藤さん”の思いだったのではないか。

原爆という題材は、作家自身の立場を誤解されかねない危険をはらんでいる。実際、著者の意図は誤解されなかったのだろうか。私はそれが不安だ。本書は著者のイデオロギーの主張でもなければ、立場の右左を問うものでもない。著者は人類のしでかした悪の究極、つまり原爆投下をより深く広い軸の中で解釈しようとする。広島や長崎が土地として成立してから今まで、いったいどれほどの時間が過ぎ去り、広大な空間の中に属してきたのだろうか。その悠久の次元の中では、原爆もまた些細な出来事に過ぎない。だが一方で原爆に被爆した体験は、当事者にとっては一生をかけて問い続ける真摯な歴史のはずだ。そのギャップを捉えようとして、文章に著そうとした著者の成果。それこそが本書のような気がする。

著者が本書で示したアプローチは、私に新たなヒロシマとナガサキ像を与えてくれた。

‘2017/03/09-2017/03/10


広島 昭和二十年


2016年も師走に入った。師走とは一年を総括する時期だ。

今年一年、日本国内ではさまざまなニュースが報じられた。人によって印象に残ったニュースはそれぞれだろう。私がもっとも印象を受けたのは、オバマ大統領が広島の原爆記念碑に訪れ、献花したニュースだ。

十月になり、家族で長崎を旅行した。その際に原爆資料館にも訪れ、オバマ大統領が手づから折った千羽鶴も目にした。原爆を投下した当事国がようやく原爆の外道な本質に向き合おうとしたことに感慨も深い。

長崎旅行から帰った翌週、私は仕事で淡路島を訪れた。私の仕事とは淡路島の某大学で催されている学園祭で実証試験を行うこと。合間に少し学園祭を見学する時間もあり、学生や地元のコミュニティによる展示の数々を見た。その中に何百冊もの本を無料で配布するブースが目についた。本書は、そこに並んでいた一冊だ。

運命の巡り合わせのような出会い。2016年も暮れを迎えつつあるわけだが、本書を2016年のうちに読めて良かったと思う。

本書は昭和二十年の広島を描いた日記だ。本書が特筆すべきなのは、ここに書かれた日記が昭和二十年に書かれたということだ。原爆投下のあとに当時を思い出して書かれた日記ではない。しかも著者は当時、中国新聞社の記者の職にあった。記者の目からみた昭和二十年の日記であることが、本書の価値を高めている。ここには投下前の広島が克明に描かれている。著者の過ごした等身大の日々。市民として、家庭人として、記者としての思いや日常の由なし事。自分たちの未来に何が起こるか知らぬ人々の平穏な日常が。

何も知らぬまま、市民は米英を敵とした戦争の日常生活への影響を憂い、大本営の発表を疑う。戦局がどれほど危機的な状況かも知らない。ビアホールに集い、食料品を買い出しに田舎へいき、配給切符を持ちながらも闇の相場を元に食糧を手に入れる。そして、動ける人は田舎へと疎開する。また、海辺に走る列車の海側の窓が閉ざされていることに閉塞感を感じ、灯火管制の不便さにやりきれなさを覚える。戦局が不利であることはうすうす気づきながら、軍が開発しているという、一発で戦局が挽回できるはずの爆弾が敵戦艦を吹き飛ばすことを期待する。

著者は東京に出張に向かい、中国地方の各県知事を広島に集めた会合に出席し、行政単位の再編についての会合にも出席する。記者としての職務に忠実に励む著者の日々には何のてらいもはぐらかしもない。本書の記述は市民の生活が細かく観察されており貴重な資料だと思う。

興味深いのは、原爆製造計画について市民の中に流れているの風評と、なぜ広島だけが空襲に遭わないのかを市民があれこれ取りざたしていることの記述だ。アメリカに広島からの移民が多いからとか、地形の問題であるとか。それらは原爆が落ちる前の市民の偽らざる疑問であり、希望的観測なのだ。そういったエピソードが本書をリアルにしている。

仕事、家庭、地区、親子、夫婦、同僚、後輩、先輩、同窓、同業。さまざまな関係が、日常のなかで営みを行う。彼らは決して未来を知ることはない。著者もまた、原爆が日々の営みを一変させることを知らずに、広島市の中心部から海田の方へ疎開する。身重の妻とともに。

人の日記を読むことはそうそうない。そもそも大抵の日記は個人的な内容なので、興味すら持たないものだ。だが、本書は先行きが気になる。なぜなら日記の果てに何が起こるのか、少なくとも、読者は8/6の出来事を知識として知っている。それでいて、この日記に登場する人々の身に何が起こるのかは知らない。

人類史上でも未曽有の残虐な兵器、原爆。原爆の悪は、人々の生を奪ったことだけにあるのではない。一番残虐なこととは、その瞬間に生死を選別したことだ。屋外にいたもの、屋内にいたもの、屋外でもたまたま爆心に背を向けていたもの、勤労奉仕で建物の影にいたもの、上半身裸で作業していたもの、見張り塔で空襲に備えていたもの。そして、著者のように、投下三十分前まで広島市中心部で夜番を勤めていたが、郊外に疎開した家へ帰ったもの。

原爆が炸裂した瞬間の位置と行動が、その瞬間広島にいた人々の生死を分けた。その瞬間の行動は、どういう前世の綾で定められたのか。熱線が体を焦がすか否かは誰が決めたのか。その一瞬の差が、冷酷に生と死を分けた。いっそのこと、その一瞬の行動を前世の宿縁や、今世での因果のせいにできればまだいい。だが、そんな仮定自体が被爆者の方にとっては不遜にあたる。一瞬の差で生き残った被爆者にとってみれば、なぜ自分は生き残れたのか、一生かけて考える宿命を背負うことになる。思うに生き残れた被爆者の方とは、放射能障害に加え、生き残った事に罪悪感を感じるサバイバー症候群にまで罹患してしまった方々なのだと思う。あまりにも不条理な生死の境目から、自分はなぜ生き残ったのか。刹那の運命の分岐点。原爆が通常の空襲と違う人の道に外れた兵器である理由は、こういうところにもあると思う。

炸裂の瞬間を郊外の自宅で迎えた著者は、無事だった妻や義姉に家を任せ、凄惨な市内へと駆けつける。記者の鍛えられた目に凄惨な光景を焼き付け、脳裏に叩き込み、日記に書き付けた。それが臨場感の迫り来る本書の記述として結実しているのだ。

私もずいぶんと被爆者による体験記は読んできたが、それらの多くは、戦後に体験を思い出して書かれたものだろう。しかし、記者が己の五感で感じ、その記憶の鮮やかなうちに文にしたためた本書は、あの当日の様子を克明に鮮やかに描いている。それは当日に撮影された写真に劣らず貴重な記録になっている。おそらく本書は、被曝当日の目撃記録として永久に残るだろう。

本書は昭和二十年についての日記だから、終戦後の広島も描かれる。その記述のほとんどは、街の復興の様子や戦後日本を支配したGHQによる民主化政策の動きに費やされる。なかでも印象的なのは、新聞人としての自分たちの戦中の振る舞いを激しく悔やむ記述が散見されることだ。それは戦争遂行に協力した当時の言論人のほとんどに共通した意識だったのだろう。そしておそらく、この意識が左に振り切れてしまったのが朝日新聞なのだろう。著者が戦中の新聞人を自省する本書の記述を読むとそのことがよくわかる。実際、著者の周りにも共産主義へ走るものがいたことが紹介されている。

著者はおそらく、バランスの取れた人物だったのだろう。左右どちらにも記述の振れ幅が少ない。むしろ、中国新聞の復刊に力を注ぎ、身重の妻を考えて家のことに重心を置く記述が目立つ。このバランス感覚も、本書の良さとして評価したい。

一方で著者の日記から次第に登場しなくなる人がいる。それは、被爆者たち、それも重症を負った人々のその後だ。もちろん、著者に悪気はない。だが本書が誠実な日記だけに、本書の記述から、重症者の人々がケロイドをはばかって病院や家に籠りがちになったことが推し量れる。戦後、後遺症で長く苦しめられる被爆者の未来すら、本書の日記から読み取ることができる。

なお、本書で著者は、あまり人を批判しない。批判された人物を挙げるとすれば、阿南陸軍大将だ。著者は本書の中で阿南陸相の自刃を責任逃れの卑怯なふるまいと二度にわたって指弾している。後世のわれわれは阿南陸軍大将の自刃の背景には責任逃れどころか、まれに見る高潔な誇りや責任感が伴っていたであろうことを知っている。でも、著者の感想は、戦争によって不自由を余儀なくされた銃後の、しかも原爆を落とされた人が戦争直後に抱く感想としてはきわめて正直な感想だといえる。

その怒りは、同時にアメリカにも向いている。それは正当なものだし、全ての被爆者が世を去ったあとも受け継がれていくべき怒りだ。だからこそ、オバマ大統領の広島訪問と慰霊碑への献花の意義は大きい。わたしが2016年度を代表するニュースとして重要視するゆえんでもある。

‘2016/11/28-2016/12/02


二重被曝


本書は、一つ前に読んだ「原子雲の下に生きて」と同じく長崎原爆資料館で買った一冊だ。「原子雲の下に生きて」を購入した理由はレビューに書いた。そして本書をえらんだのにも訳がある。

明確な殺意のもと落とされた二発の原爆。ピカドンが引き起こした惨劇を目の当たりにしたのが被爆者の方々だ。強烈な光、爆風、人間を瞬時に蒸発させる焦熱。被爆者の方々が見聞きし、感じた強烈な衝撃は、とても文字では再現できない。被爆者とは、長い人類の歴史でもっとも過酷な運命に直面させられた方々だといえる。

被爆者にもいろいろあって、原爆投下後に救出作業などで被爆地に入り、放射能を浴びた人も入市被爆者と呼ばれる。また本書で扱う二重被爆者と呼ばれる人々もいる。二重被曝者とは、ヒロシマとナガサキの二カ所で原爆の投下に遭遇した方のことだ。人類が味わいうる極限の状況を二度も経験する。それはもはや、人間が耐えうる限界を超えている。二重被爆者とは、一体どんな宿命のもとに産まれてきた人なのだろう。

山口彊さんは、二重被爆者としてよく知られている。だが、山口さんがどういう境遇の下で二重被爆に遭ったのか、私は本書を読むまで詳しく知らなかった。

例えば二重被爆者といっても、厳密には分かれる。山口さんのように投下炸裂の瞬間に両都市にいた直接被爆者もいれば、どちらかに入市して被爆した方もいたそうだ。聞くところによると、私の妻の大叔父も長崎にいて、広島での投下の報を聞き、救助のために広島に移動したそうだ。その結果、広島で入市被爆したと聞いている。二重被曝者とはいえないが、ほぼそれに近い体験をしたことになる。私はなんども妻の大叔父には会っていながら、そのような間一髪の体験をしていたことを知ったのは亡くなった後だった。その話を聞けなかったことは今でも心残りだ。そしてそれこそが本書を購入した大きな理由でもある。もう一つ理由があるとすれば、私の母が生まれたのが昭和20年8月7日ということにある。その前後でこのような出来事があり、その二つを経験した人というのは、どこかで私という人間の存在と被爆という出来事を通じてリンクしているような気がするのだ。

そして山口さんは両方の地獄に遭遇しながら、かろうじて致命傷を負わず生き延びることができた。山口さんは三菱重工の造船技師であり技術者だ。宗教や神とは無縁だったかもしれない。が、何かに選ばれたような運命の導きを感じたのだろうか。語り部としての活動に身を投じた。山口さんが語り部の活動に身を投じたのは無理もない。山口さんは、二度も生かされたその余生を、原爆の悲惨さを訴えるために捧げた。とても意味のある生涯を送られたと思う。

資料館に展示されている惨劇を語る残骸。デジタルアーカイブで見られる写真や音声の数々。それらはその瞬間を切り取り固定した情報でしかない。その瞬間を時間の流れとして記憶した動画が残っていない以上、山口さんをはじめとした語り部の皆さんの活動はとても貴重だ。そして、とても尊い。私はそう思う。私も一度山口さんにはお話しを伺いたかったものだ。そもそもまだ語り部の方に話を聞いたことすらないのだから。

しかし、すでに山口さんはこの世の人ではない。本書の元となったドキュメンタリー映画『二重被爆』の完成。それをきっかけに、山口さんのもとを訪れたジェームズ・キャメロン監督との面会。山口さんが亡くなったのは、キャメロン監督との面会から10日ほど後のことだ。ターミネーターやタイタニックで知られる世界的な映画監督に原爆の悲惨さを世に伝える役目を託して。その経緯も本書には取り上げられており、キャメロン監督による原爆を取り扱った映画がもし完成すれば、本書の記述は貴重な資料になるだろう。そして映画化の実現にはまだまだ途方もない困難があるだろう。が、完成の暁にはぜひとも観てみたい。

著者は、山口さんの使命を次代に託す役割を果たした。 あとは本書を読んだわれわれの番だ。私が妻の大叔父に話を聞きそびれてしまった後悔がないようにしたい。しかし、世間は急速に原爆の惨禍を忘れつつある。イギリスのテレビ番組が山口さんを指して「世界で一番運の悪い男」と言って物議をかもしたことは記憶に新しい。そのような揶揄が今後はどんどん増えてゆくに違いない。まだまだ原爆は風化するには早すぎる。後世に伝えて行かなければ。

‘2016/11/14-2016/11/14


教誨師


本書にはとても考えさせられた。

教誨師。私は今までの人生で教誨師を名乗る方に会ったことがない。教誨師と知り合いの人にすら会ったことがない。それもそのはず。教誨師が活躍するのは一般人にあまり縁のない場所だ。つまり刑務所や拘置所。そのような施設に収監された方々の話し相手として宗教的救いを与える。そういった職業の方を教誨師と呼んでいるようだ。と、一般的にはそういうことになっている。私も本書を読むまでそのように思っていた。

昭和史、とくに太平洋戦争に関する本を読むと、巣鴨でのA級戦犯の方々の挿話をよく目にする。その中で登場するのが花岡信勝教誨師。A級戦犯が死刑に行く際に外界へのメッセージを受け取る役としてよく登場する。私にとっての教誨師のイメージとはこの方によるものが多い。しかし、そういった巣鴨での挿話からは教誨師の実像は掴みにくい。教誨師からの目線では書かれていないからだ。本書は、囚人に影のように付き添う存在である教誨師の目線から書かれた一冊だ。教誨師についてより深く知ることができる。

本書は、教誨師として活動されていた渡邉普相氏へのインタビューを元に構成されている。本来ならば教誨師の仕事はこのような形で公開されない。権利と職掌という網の目のように張り巡らされた糸。それは、獄中で教誨師が見聞きしたエピソードを漏らすことを許さない。教誨師として知りえたことは、決してわれわれが知ることはない。教誨師の胸の中に仕舞われたまま秘密のベールに隠され、報道されることも公言されることもない。

本書の主人公である渡邉師もまた、本書は自身の死後に出版してほしいと著者に言い残し、教誨師として僧侶としての生涯を全うした。しかし渡邉師は、死ぬ前に教誨師の仕事を言い残したいと思ったのだろう。死刑囚が直面する生死のはざまとは、教誨師にしか明かされない死刑囚の想いとは。それは教誨師が伝えなくては、どこにも残らない。それを言い残さぬままでは成仏することができないと思ったのか。本書はまさに遺言である。教誨師として半世紀以上も勤めた人間による率直な反省の弁であり、そこで掴み取った人生の視線といえる書だ。

渡邉師の遺言どおり、著者は渡邉師の死後に本書を出している。教誨師と呼ばれる仕事の本質を渡邉師のインタビューを元に組み立てたのが本書だ。

本書の内容は、教誨師の仕事を知る上で興味深い。それだけではなく、教誨師の仕事の中でいや応なしに突きつけられる現実に焦点を当てている。生死とは、教育とは、矯正施設の持つ意義とは。私たちの知らない世界がそこにはある。

本書のページ数は250Pほど。さほど多くない。しかし、内容はとても充実している。本書は渡邉師の生いたちから筆を起こす。だが、単に順に生い立ちを追うわけではない。そうするには、渡邉師の生きざまはあまりにも波乱に満ちているからだ。

なので本書はなぜ渡邉師が教誨師としての道を選んだか、のいきさつから筆を起こす。篠田隆雄師から教誨師としての後継者と目されたからだ。そこに至るには、さらに渡邉師の生い立ちをさかのぼる必要がある。 渡邉師は人間が直面させられる極限な試練を受けている。広島原爆で九死に一生を得た 渡邉師 は、横にいた友人たちが一瞬で焼かれた刹那を経験している。炎と煙渦巻くキノコ雲の下、生きたいと必死に逃げた自分との直面。水を乞う人々を見捨てて生き延びた罪悪感。

二度と逃げ出すようなことはしたくない、との思い。それが渡邉師を半世紀にわたって教誨師の地位に留めたともいえる。

しかし、渡邉師は心の強靭な聖人君子ではない。教誨師も罪人と同じく弱い人間であるということ。それをきちんと描いていること。そのことが本書をたんなる伝記や宗教書と一線を画した大きな点だ。そもそも聖人君子には教誨師は勤まらない。渡邉師も著者に対して根がいい加減だから勤まったと述懐する。

本書には渡邉師が教誨師として向き合った幾多もの囚人との挿話が収められている。存命関係者に迷惑を掛けぬようその多くは仮名で登場している。仮名なのに死刑執行が昭和40年代以前の人しか語らない。

教誨師は囚人を宗教的に救う人。しかし、その作業がそんなに生易しい作業ではないことを読者は知る。沙婆と違い、刺激のない単調な獄中の日々。そんな囚人にとって、教誨師とは唯一外界の空気を持ち込む存在となる。普通に生活を営む人々が思う以上に、囚人は相対する人物の一挙手一投足に敏感だ。一瞬たりとも態度に馴れは出せない。事務的な定型の対応はもってのほか。一度そういう対応してしまうと囚人との信頼関係は壊れてしまう。教誨師の仕事とは、全てが真剣勝負。気を抜く間もない。

本書には、数多くの囚人との挿話を通じて渡邉師が得た苦しみや挫折が赤裸々に告白される。本書を読み終えると、死刑囚とはこれほどまでに孤独な存在で、教誨師とはこれほどまで過酷な仕事であることがわかる。そして、いくら死刑に価するだけの犯罪を犯したとはいえ、死刑が確定した途端に死刑囚に代表される画一の枠に収めて済ませようとするわれわれへの警句も読み取れる。

また、渡邉師は、死刑囚の多くがやむを得ず犯罪に走ったのであり、あるいは彼や彼女を親身になって支えてくれる人がいたら、こうはならなかったと残念がる。

関心や愛情を注がれれば、それを受け止めるだけの素養は人間みな持ち合わせているのに本当に惜しい、と渡邉は思った。(226p)

との記述がある。これこそまさに渡邉師が教誨師の仕事で会得した実感なのだろう。

ここで「いや、どんな境涯にあっても踏みとどまれた人だっている」とか、「同じような環境でも誘惑に屈しなかった人もいる」と思ったとすれば、渡邉師の思いを全く汲み取っていないことになる。死期を察した師がなぜ著者に対して一切を告白しようと思ったか。

渡邉師は、大勢の死刑囚との日々の中で、救いを与えるという自分の考えすら思い上がっていたのではないかと気づく。教誨師に出来ることとは、ただ聴く。囚人の発する思いを不安をただ聴く。これに尽きるのではないか。そんな境地に至る。

だが、そんな悟りくらいでは渡邉師が被った心の痛手はいやされるはずもない。 渡邉 師はアルコールが手放せなくなってしまう。そして断酒の為、入院。しかし、そのアル中の入院経験は、かえって囚人の心を開くのだから面白い。それがもとで教誨師の仕事に一つ山を相談を受けるようになる。

このくだりは印象深い。教誨師と囚人の一方的な関係では何も変わらないことを示している。結局、教誨師とは一方的に上から救いを与えるだけの存在ではないか。全国教誨師組合長を務めた渡邉師が得たこの悟りは深い。それは教誨師が善人、囚人は悪人、そんな二元論で済ませてはいないか、という反省である。親鸞は問うた。悪人とは、自らの悪を自覚した者。善人とは、自らの悪を未だ自覚していない者。

苦闘の末、アル中という聖職者にあるまじき病に身をおとし、初めて師は自らが悪人なのだ、との事に思い至る。罪を悔い改めよと説く人もまた罪人。そんな結論は、あらゆる宗教が喪ってしまった原点を思わせる。

本書は聖職者である渡邉師の悟りの軌跡を描いた書。とても考えさせられる一冊だ。

‘2016/09/28-2016/10/02


赤ヘル1975


世に原爆を題材にした小説は数あるが、被爆後のヒロシマを描いた代表作の一つとして本書を取り上げてもよいのではないか。戦後の広島の復興を、1975年の広島東洋カープ初優勝に象徴させた本書は、全く新しい切り口で原爆を描いている。

そもそも私は、広島東洋カープを舞台にした小説自体をあまり知らない。ノンフィクションであれば、「江夏の21球」を皮切りに、カープを舞台とした文章は幾つか読んでいる。樽募金のエピソードは白石選手や石本監督の自伝などでお馴染みだ。カープの歴史は、戦後プロ野球史の多様性を語る上で欠かせない。だが、小説の形式でカープを語った作品を私は知らない。私にとって本書は初めてのカープ小説のはずだ。そんな私に、原爆とカープを巧みに交わらせた本書はとても新鮮に映った。

本書は1975年のセ・リーグペナントレースの経過とともに物語が進む。春先からの赤ヘル旋風と称されるカープの戦いぶり。これがノンフィクション並に克明に描かれる。毎年、Bクラスでシーズンを終わることが当たり前だったカープ。しかし、カープとて手をこまねいていた訳ではない。1975年のカープは、シーズン前にユニフォームを一新して臨んだ。それまでの紺から、鮮烈な赤へ。チームカラーの劇的な変化。しかも、それを推進したのはカープにとって初の外国人の監督であるルーツ。

本書は、慣れ親しんだ紺から赤への変化を受け入れられない少年ヤスの葛藤で幕をあげる。「赤はおなごの色じゃ」という子供らしい葛藤で。

ヤスとユキオは中学一年生の熱狂的なカープファンだ。新聞記者を志望するユキオは皆が新学期に慣れないうちから、クラスの掲示板にカープ新聞を貼り出すことを提案する。本書は著者の地の文に加え、誤字脱字だらけのカープ新聞の記事がカープ初優勝までの盛り上がりを描いていく。その構成がとてもいい。カープファンですら期待薄だったシーズン開始から、奇跡とも言われた初優勝まで。読者は1975年当時のカープ優勝までの歩みや人々の盛り上がりをともに体験することになる。

21世紀の今でこそカープ女子の存在もあって人気は全国区だ。だが、1975年のシーズン当初は地方都市広島に本拠地を置く万年Bクラスのマイナーチーム。単にカープファンの一喜一憂を書くだけでは全国の読者が話に乗りづらい。著者はそこでマナブという東京から引っ越してきた少年を主人公におく。根っからのカープファンのヤスやユキオを差し置きマナブの視点で描いたことで、本書は全国の読者につながる視点を得た。

マナブがヤスとユキオに出会うシーンも秀逸だ。引っ越し早々、町の探検にジャイアンツの帽子をかぶって出かけるマナブ。カープ狂のヤスとユキオが因縁をつけるところから彼らの友情は始まる。二人と触れ合いながら、マナブは広島の街を徐々に理解してゆく。本書はマナブの異邦人の視点で広島を描いているため、広島に縁のない読者にも我が事のように広島を思わせる効果を挙げている。マナブが広島を理解してゆくにつれ、カープは躍進を続け、原爆投下後30年たってもなお残り続ける被爆者の実情や複雑な思いが徐々に現れてゆく。とても考えられた構成だと思う。

本書は単に広島東洋カープという万年Bクラスのチームが奮起して優勝した、という小説ではない。なぜカープ優勝が昭和史の年表で特筆されているのか。なぜあれほどまでに当時の広島の人々は熱狂したのか。それを理解するには、被曝都市としての広島を描くことが不可欠だ。野球史を詳しく掘り下げただけのノンフィクションではその辺りは描けない。著者が小説の体裁を採ったのもそれゆえだと思う。そして地元広島からの視点だけでなく、外からの視点で描いたことに本書の意味がある。

1975年はまだ被曝して30年しか経っていないのだ。身内や親族の誰かが被曝し肌を無残にめくり上げられた姿。めくり上げられ、吹き飛ばされ、燃え上がり続ける凄惨で不条理で鮮烈な街。薄暗さの中に、鮮血や炎の赤が揺れる網膜に刻まれる。30年経っても、被爆者たちが見た凄惨な光景は心にしまいこまれ、色褪せることはない。被曝体験が風化するにはまだ早すぎる。

本書には印象的な登場人物がたくさん出てくるが、横山庄造さんと妻の菊江さんも原爆で悲惨な目にあった一人。

家族全員を喪った菊江さんは、家族のそれぞれを広島以外の場所で喪っている。戦死や空襲など。広島だけが戦争被害に遭ったわけではないとの視点を著者はさりげなく提示する。同居する庄造さんは体中にケロイドを遺し、初対面のマナブを戦慄させる。長年、原爆体験には口をつぐみ続けてきたが、NHKが募った原爆体験の絵に取り組む決意を固める。庄造さんは、貼り絵に自らの表現の手段を見出す。庄造さんを手伝うため、色とりどりの紙を集めるマナブとクラスメートの真理子。その貼り絵は庄造さんの思いを表現するにはあまりに薄く、貼り絵はさまざまな色で厚く覆われる。庄造さんが貼り絵で混ぜ合わせる色が、カープの鮮やかな赤と対比されていることはいうまでもない。

カープが優勝するためには、生半可な色では駄目なのだ。あの夏の朝、流されたどの血の色よりも鮮烈な赤。しかもそれを選んだのは原爆を落とした国から来た監督。そこには因縁すら感じる。だがそんな因縁を乗り越えて変化を選んだのは広島の人々。そこには戦後の復興の確信を持ちたいという願いと、それをカープに託す人々の希望があったはずだ。ルーツ監督は意見の相違から早々に帰国してしまうが、チームは首位戦線に食い下がる。あの赤は、投下後の30年を思い起こすとともに、新たな広島を見据える為の赤なのだ。

マナブも広島に馴染んで行く。が、マナブには生活力のない父勝征がいた。そもそもマナブが広島に来たのも、父の商売の都合による。サラリーマンとしての勤めに向かず、ヤマっ気に富んだオイシイ話にばかり目の向く父は、広島にきた当初の商売に見切りをつけ、次のもうけ話に飛び付く。その商売というのが、ねずみ講。しかもあろうことか、ヤスの家業である角打ち酒場の客や、ヤスの母にまで声をかける。

カープ初優勝に熱狂する広島をよそに、夜逃げも同然に広島を離れるマナブと父。しかし、ヤスはマナブに友情を抱き続ける。あわや家を崩壊させかけた男の息子なのに。それは、マナブが度々示したヤスへの気遣いや、広島を理解しよう、溶け込もうとするマナブの努力が報われた瞬間である。だが、私は他にもあると思う。それは父がおかした過ちを息子がかぶることはない、という著者のメッセージではないか。父とはつまり、原爆を投下したアメリカの関係者を指し、太平洋戦争開戦を食い止められなかった当時の日本人を指す。息子とは、投下されて30年を経た広島の人々。血を思わせる赤を米国人の監督に提示され、受け入れた子の度量は父の過ちを許すかのよう。

過去を忘れちゃぁいけんが、前も向かにゃぁ。その思いに報い、優勝を果たしたのが、カープの面々である。日本の昭和史にあってカープ初優勝が特記されるのも、それ故のこと。そして、原爆を取り扱った小説の代表作の一つに、と私が本書を推す理由もそこにある。

本書を読み終えたタイミングは、米国のオバマ大統領が広島を訪問し、原爆慰霊碑に献花した印象的な出来事から少し経った頃。それに合わせたかのようにカープも「神ってる」快進撃を見せ、25年ぶりのリーグ優勝を遂げることになる。7度目のリーグ優勝は、すでにカープが全国区の人気チームになった後の話。1度目のリーグ優勝は、やはり格別な出来事だったのだとあらためて思った。

‘2016/06/21-2016/06/22


土門拳の写真入門―入魂のシャッター二十二条


「もっと早く本書を読んでおけば」
本書を一読しての私の感想だ。新刊本で購入した本書。あろうことか、一年以上も積ん読状態にしていた。怪しからぬ扱いを本書にしていたと反省している。そもそもなぜ本書を購入したか。それは自分の撮った写真の質に飽きたらなかったから。

三、四年前からFacebookに毎日写真付き投稿を行っている。投稿にあたって自分に課した縛りとは、毎日、自分自身が撮影した、違う被写体の写真を投稿すること。そのココロは日々が単調に陥るのを防ぐことにある。さらにFacebookは実名なので自然と文章に責任が伴う。だらだらと匿名で文章を書き散らすのではなく、締まりのある投稿を習慣付けたかった。その二点については日々のFacebookへの投稿を通して成果が出たと思っている。が、肝心の写真の品質はといえばまだまだ。被写体の見栄えが良ければたまに良い写真は撮れた。しかしそれは素材自体の出来がよいから。私ではなくて他の人による同じようなアングルの写真など、Instagramやflickrを覗けば無数に落ちている。

もっと私の個性を写真に出したい、写真に魂を込めたい。そのことをずっと思っていた。もっともっと日々の生きざまをくっきりと刻むような写真が撮りたい。そういった写真を毎日撮り収めたい。

が、私の写真で満足できる出来はごくわずか。やはり独学ではなく、きちんと学ばねば。そう思っていた私が書店で見かけたのが本書。他にも写真撮影入門が並ぶ中、本書は他と比較した上で購入した。

なのに本書を一年以上も平積みのままにしていた。それではせっかく本書を新刊で買った甲斐もない。

本書は土門拳氏の生涯を取り上げている。土門氏についての私の知識はないに等しかった。もちろん写真家として一時代を築き上げた人という認識は持っていた。でも土門氏の代表作はと問われても黙るほかなかった。そんな私の浅い知識は、本書に描かれる土門拳氏の写真への執念にガツンとやられた。本書は読者に写真を撮る事への覚悟を突き付ける。

そもそも本書は、私が漠然と期待したような写真ノウハウ本ではない。写真の技法に触れた記述ももちろんあるがそれはごく一部。それよりも土門拳氏の写真への執念と被写体の本質を原版に焼き付けるための不屈の魂を伝えるためにのみ書かれたといってよい。本書から私は他の書籍ではおそらく得られなかったであろう写真の心を受け取ったように思う。

例えば人の肖像写真を撮る前にはその人についてのありとあらゆる文献に目を通す。被写体が仏像であれば、創られた時代背景、彫仏師の生きざま、思想などなど。土門氏は単にファインダーに写るモノを切り取るだけの写真屋ではない。土門氏は対象の質感はもちろんのこと、写真に写るはずのない対象の情念すらもファインダーに捉えた上でシャッターを切る。

私がアップした写真も含め、巷のSNSには写真が溢れている。けれどもその中に土門氏が被写体に対して燃やした情熱と同じ熱量の写真はあるのだろうか。多分ないだろう。高価なレンズを用意し、貴重なネガに感光させ、慎重を期して現像液に浸し、ようやく現像できる土門氏の時代。その頃に比べると今は恵まれている。撮り損じてもすぐに削除できるデジタルカメラ。即座に自分の写真を世界に発信できるインターネット。われわれには、もはや氏の求道心を真似ることは不可能なのだろうか。私はこれを書いている今もなおデジタルカメラの便利さに頼っている。時間のない事を言い訳にして。

本書を読み終えて数日後、知り合いの方からFacebook経由で御招待を頂き写真展を訪問した。

そこで見たものは、土門氏の好む被写体ではなかったかもしれないが、私の好む被写体だった。すなわち山。そこで展示されている写真は、SNSに氾濫する写真とは対極にある。自然と対峙した写真家が、刻一刻と変わる被写体の一瞬を切り取る。寒い中、シャッターチャンスを待ち続ける写真家の志は、土門氏のそれを継承するといってもよいだろう。

この展示会で思ったことはもうひとつある。それは、写真を選ぶということだ。ここで出展した写真家のほとんどは、一人あたり多くて二点の出展にとどめている。展示された一枚の写真の背後にはその何十倍、何百倍の写真があるはずだ。土門氏も写真集の発刊に当たっては掲載点数の数百倍の写真を撮ったという。

写真家とは、撮る労力を惜しまず、選ぶ労力も引き受けるから写真家なのだ。ことに被写体を徹底的に調べ抜く土門氏の労力は抜きん出ていると思う。そのことは本書に明らかだ。

撮り忘れた一枚を思い出したとの理由で広島への夜行に飛び乗っていった話。それも本人の結婚記念日当日と言うのだから奮っている。二度の脳卒中を経て体の動かぬ中、投げ入れ堂を撮るために全身をぐるぐるに縛らせ持ち上げさせた話も壮絶だ。土門氏の写真への鬼気迫る姿勢を物語るエピソードは本書に豊富に紹介されている。本書から伝わってくる土門氏の写真家としてのプロとしての意識は凄まじいと言うしかない。

さて、写真に対する姿勢のいい加減な私である。毎日違う被写体で、という目標を立てたのだから毎日違う被写体をアップするのはいい。私の場合、投稿は一日一回と決めている。けれどアップしたい写真には限りがない。そんな中選んだのが複数写真を一つにまとめる策だ。でも、複数の写真を並べて一つの写真としてアップするのは本書を読んだあとでは恥じ入るしかなかった。上に挙げた展示会に出展するような方々や土門氏から言わせると、複数写真を組み合わせる私のやり方は素人写真の典型なのだろう。自分でもそう思う。私はその状態を改善するため、不定期ではあるがInstagramにも写真をアップし始めた。これかなと思う写真を一点選び、写真をフィーチャーするためキャプションは最低限の言葉に留めている。タグをいっぱい付け、多くの人に配信されるようにしている。写真の顕示に特化しているため、思ったよりも反応がある。

でも、まだ足りない。油断するとすぐに写真がダレてしまう。まずは機会を見て土門氏の「ヒロシマ」「古寺巡礼」を観てみようと思う。気合の入った写真から学ぶものはまだまだたくさんある。一眼レフカメラはそれからだ。

‘2016/05/08-2016/05/08


オバマ大統領の謝罪を経ての原爆忌


毎年この時期が来ると必ず原爆関連の写真集やその他書籍に目を通します。私自身が平和記念資料館を訪れた際、何を感じ何を目に焼き付けたのか。あの夏の朝、何が人類に起こり、何を人類は行ったのか。その記憶を新たにするため、この時期は広島・長崎への原爆投下関連資料に目を通すようにしています。

先日、重松清さんの「赤ヘル1975」を読みました。1975年の広島東洋カープが、原爆からの復興に向け努力する広島市民にとってどれだけ劇的な存在だったか。カープの優勝が原爆投下から30年という節目の年に広島市民からどれほど歓迎されたか。そのことが「赤ヘル1975」には書かれています。すでにレビューとしてまとめているので、いずれアップしたいと思います。

今年のカープは強い。カープがこのまま優勝まで突き進んだとすれば、それは広島市民にとって1975年の初優勝に匹敵する出来事になるかもしれません。セ・パ12球団の中でもっとも優勝から遠ざかったチームであるカープ。しかし今年は優勝に向けて力強くペナントレースを戦っています。それは今年の広島を象徴するに相応しい戦い振りです。というのも、今年は広島にとって重要な出来事があったからです。

この5月にオバマ大統領が広島を訪問しました。云うまでもなく原爆を落とした当事国である米国の現職大統領です。オバマ大統領の広島訪問でのスピーチには、米国の責任を回避するためのレトリックが注意深く散りばめられていました。おそらく、そのことに一番違和感を覚えたのは被爆者の方々でしょう。でも、たとえポーズであったとしても、訪問したという事実を作るだけであったとしても、私はオバマ大統領が訪れたという事実を評価したい。

私はオバマ大統領のスピーチから米国の抱える投下国としての罪の意識と、それを認めまいとする面子のせめぎあいを感じました。当時の人々の行為を断罪できるのは当時の人々だけ、というのが私の持論です。当時のアメリカの行為を断罪できるのは、云うまでもなくあの夏の朝、原爆の惨禍を目の当たりにした被爆者の方々です。断罪という言葉では言い足りないくらいでしょう。しかし、様々な資料を読むと、当時のアメリカ国民の多くが本気で大日本帝国による本土侵略を脅威に思っていたことは事実のようです。ナチスドイツや日本でも原爆開発が行われていたこともよく知られています。マンハッタン計画に邁進したアメリカの判断はいまさらどうこう非難できるものではないと思っています。ただ、すでに死に体となっていた敗戦間際の日本に敢えて原爆を投下した当時のトルーマン大統領の判断は、明らかに戦争犯罪といえます。もはや戦争の勝利よりも戦後の国際関係の主導権掌握のためだけに原爆を投下したようなものですから。30万以上の人々の上に。

繰り返しますが、原爆投下というアメリカの戦争犯罪を真の意味で断罪できるのは、被爆者の方々だけです。被爆者の方々はもっと怒っていいはずです。ですが、広島・長崎の人々はもっと広く高い立場からアメリカを断罪しています。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑に刻まれた文面はまさにその象徴です。あの文面から読み取れるのはただ平和を求める想いです。被爆者の方々にとってそれほどまでにも平和への想いは切実だったといえます。焼け爛れたヒトや町並みを目の当たりにした方々だからこそ、そう思えたのかもしれません。私は原爆死没者慰霊碑の碑文を敗戦国による勝者への阿りとは思いません。あの碑文の価値はおそらくこれから先よりいっそう真価を発揮していくと思っています。あの碑文が被爆者としての直接的な恨み辛みを書いたものであれば、たぶんこの碑の意義はもっと低くなっていたことでしょう。オバマ大統領による献花もなかったかもしれません。とはいえ、今回のオバマ大統領の広島訪問にあたっては、被爆者の方々はもっとオバマ大統領個人の、アメリカの面子に拘らぬオバマ大統領の肉声の謝罪を聞きたかったことでしょう。その気持ちはもっともです。でも、オバマ大統領も戦後産まれの方です。あのような微妙に責任をぼかしたようなスピーチ以上のことは言えなかったのではないでしょうか。私は偽善やポーズだけといった批判を承知でなお、広島に行くことを望んだオバマ大統領の行為そのものに大統領の謝罪の気持ちと誠意が顕れていると思いました。

たぶん、アメリカで原爆投下への罪の意識が大勢を占めるのは、第二次大戦に実際に参加した軍人や政治家が全て亡くなった後のことになろうかと思います。たとえパールハーバーで日本から騙まし討ちを受けたとしても、その報復としてはリトルボーイとファットマンはあまりに過剰なものだった。アメリカでもそういった歴史的評価が定まることでしょう。でも、そのときには被爆体験をした方々も全てお亡くなりになっていることでしょう。それは被爆者の方々にとって実に無念なことだと思います。

だからこそ、われわれのような平和な時代しか知らない人間は、資料や書簡や書籍から、特定のイデオロギーやトンデモ陰謀論に惑わされることなく、客観的な姿を伝えていかなければならない、と思っています。「過ち」を繰り返さないためにも。

今年ばかりは広島東洋カープを応援しています。カープ出身のアニキ率いる阪神タイガースにも頑張ってほしいのですが。1975年の赤ヘル旋風を知らない私にとって、カープ女子の席巻する広島が祝賀ムードに染まる姿が観てみたい。米国大統領による実質上の謝罪があった年を締めくくるイベントとして。

写真は3年半前に家族で訪れた際に撮影した原爆死没者慰霊碑。秋に訪れられれば訪れたい。IMG_8677


70年目のヒロシマを考える


ここ8日ほど、連日東京は熱暑の中にゆだっています。丁度70年前もそうだったように。今朝は、廣島に原爆が投下されてから70回目の朝。その時間、電車の中で黙とうを行いました。

20年前の今日、8:15に原爆ドームの前でダイ・インに参加しました。以来20年。それだけの時間が経ってもまだ原爆が風化していないことに胸をなでおろす気持ちがあります。

周辺国が日本に向ける視線は、70年近く守ってきた憲法をそのままにしておけないところまで来ています。とはいえ、日本は何があろうと平和を礎として行かねばなりません。自衛隊はあくまで自衛のための軍隊です。かつてのように武力をもって日本の国威を外に向ける、そのような過ちはもう繰り返してほしくありません。

安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから
との有名な碑文も、賛否はあれど、真理と云えましょう。

原爆ドームも広島平和記念資料館も、日本が身を以て体験した戦争の愚かさを後世に永久に残すための施設です。少しでも多くの人々に、これらの施設を訪れて欲しいと思います。原爆の引き起こしたむごたらしい被害の前では、主義の右も左も沈黙するはずです。これからの日本の外交がどうあれ、二度も原爆を落とされた国として、平和を礎とした思いは忘れないで頂きたいものです。

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我が家も、妻や娘達を連れて一昨年のゴールデンウィークに訪問しました。写真に写した本のうち数冊はその際に広島平和記念資料館で買い求めたものです。また機会を見て再訪し、意識を新たにしたいと思います。