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天国でまた会おう 下


上巻では、戦争の悲惨さとその後の困難を描いていた。
その混乱の影響をもっとも被った人物こそ、エドゥアールだ。
戦争で負った重い傷は、エドゥアールから言葉と体の動きを奪った。さらに破壊された顔は、社交の機会も失わせた。

そのような境遇に置かれれば、誰でも気が塞ぐだろう。エドゥアールも半ば世捨て人のようにアルベールの家にこもっていた。
ところが、顔を隠すマスクを手に入れたことによって、エドゥアールの生活に変化が生じる。
そしてエドゥアールは良からぬことをたくらみ始める。それに巻き込まれるアルベール。

本作においてアルベールは、気弱でおよそ戦いの似合わない青年である。常に他人の意志に巻き込まれ、振り回され続ける。
そのような人物すらも兵士として徴兵する戦争。
戦争の愚かさが本書のモチーフとなっている事は明らかだ。

上巻のレビューに書いた通り、戦争は大量の戦死者を生む。そして、戦死者を丁重に葬るための墓地も必要となった。戦死した兵士たちの亡骸を前線の仮の墓地から埋葬し直す事業。それらはプラデルのような小悪党によっては利権のおいしい蜜に過ぎない。
プラデルによって安い作業員が雇われ、彼らによっていい加減な作業が横行する。おざなりな調査のまま、遺体と名簿が曖昧になったままに埋葬される。
国のために戦った兵士たちの尊厳はどこへ。

国のために戦った兵士も、小悪党の前には利潤をうむモノでしかない。
そんな混乱の中、国によって兵士の追悼事業を催す計画まで持ち上がる。
そこに目を付けたのがエドゥアールだ。
その企画に乗じ、架空の芸術家をでっち上げ、全国の自治体に追悼記念碑<愛国の記念>なる像を提供すると称し、金を集める。
そんなエドゥアールの意図は、プラデルの悪事と似たり寄ったりだ。

だが、大きく違う事がある。それはエドゥアールには動機があったことだ。
戦争をタネに一儲けしようとするエドゥアールの姿勢は、戦争への復讐でもある。戦争によってふた目とは見られない姿に変えられたエドゥアールには、戦争へ復讐する資格がある。
そして、戦争の愚かさをもっとも声高に非難できるのもエドゥアールのような傷痍軍人だ。
ただし、本書の語り手はエドゥアールではないため、エドゥアールの真意は誰にも分からない。不明瞭な発音はエドゥアールの真意を覆い隠す。

そもそも、おびただしい数の傷痍軍人はどのように戦後を生きたのだろう。
戦後を描いた小説には、しばしば傷痍軍人が登場する。彼らは四肢のどれかをなくしたり、隻眼であったりする。彼らは、戦争の影を引きずった人物として描かれることはあったし、そうした人物が戦争を経験したことによって、性格や行動の動機にも影響はあったことだろう。だが、彼らの行動は戦争そのものを対象とはしない。なぜなら戦争は既に終わった事だからだ。
本書は、エドゥアールのような傷痍軍人に終わった戦争への復讐を行わせる。その設定こそが、本書を成功に導いたといってもよい。
エドゥアールのたくらみとは、まさに痛快な戦争へのしっぺ返しに他ならない。

エドゥアールの意図には金や報復だけではなく、別のもくろみもあった。
それは、エドゥアールの芸術的な欲求を存分に活かすことだ。芸術家として自分のデッサンを羽ばたかせ、それを評価してもらう喜び。
親が富裕な実業家であるエドゥアールにとって、自分の芸術への想いは理解されないままだった。それが戦争によって新たなる自分に生まれ変わるきっかけを得た。

エドゥアールにとって、戦争は単なる憎しみの対象ではない。憎むべき対象であると同時に、恩恵も与えてくれた。それが彼の動機と本書の内容に深みを与えている。

そのようなエドゥアールを引き留めようとしていたはずのアルベールは、いつのまにかエドゥアールのペースに巻き込まれ、後戻りが出来ないところまで加担してしまう。
一方、後戻りができないのはプラデルも同じだ。
戦争中の悪事は露見せずに済み、戦後も軍事物資の横流しによって成り上がることができたプラデル。
だが、彼の馬脚は徐々に現れ、危機に陥る。

エドゥアールとプラデルの悪事の行方はどこへ向かうのか。
そしてエドゥアールの生存を実業家の父が知る時は来るのか。
そうした興味だけで本書は読み進められる。

こうして読んでみると、第一次大戦から第二次大戦への三十年とは、欧州にとって本当に激動の時代だったことが実感できる。

社会の価値観も大きく揺れ動き、新たな対立軸として共産主義も出現した。疲弊した欧州に替わってアメリカが世界の動向を左右する存在として躍り出た。
国の立場や主義が国々を戦争に駆り立てたことは、政府へある自覚を促した。それは、政府に国民の存在を意識させ、国民を国につなぎとめ、団結させる必要を迫った。

政府による国民への働きかけは、それまでの欧州ではあまり見られなかった動きではないだろうか。
だが、働きかけは、かえって国民の間に政府への反発心を生む。
それを見越した政府は、戦争という犠牲を慰撫するために催しを企画し、はしこい国民は政府への対抗心とともに政府を利用する事を考えた。
そのせめぎ合いは、政府と国民の間に新たな緊張を呼び、その不満を逸らすために政府はさらに戦争を利用するようになった。
それこそが二十世紀以降の戦争の本質ではないかと思う。

本書をそうやって読みといてみると、エドゥアールやプラデルの悪巧みにも新たな視点が見えてくる。

そうした世相を描きながら、巧みな語りとしっかりした展開を軸としている本書。さまざまな視点から読み解くことができる。
まさに、称賛されるにふさわしい一冊だ。

‘2019/6/29-2019/7/2


天国でまた会おう 上


本書は評価が高く、ゴンクール賞を受賞したそうだ。

本書は第一次世界大戦の時代が舞台だ。悲惨な戦場と、戦後のパリで必死に生きる若者や元軍人の姿を描いている。

第一次世界大戦とは、人類史上初めて、世界の多くが戦場となった戦いだった。しかも、それまでの戦争にはなかった兵器が多数投入され、人道が失われるほどの残虐さがあらわになったことでも後世に語り継がれることだろう。
ただ、第一次大戦の時は、戦争とはまだ戦場で軍人たちによって戦われる営みだった。市街地が戦場になることは少なく、一般市民にはさほど害が及ばなかった。だから、一般には戦争の悲惨さが知られたとは言い難い。

二十年後に勃発した第二次世界大戦では、空襲、原爆、島を巡る熾烈な戦い、ホロコースト、虐殺の映像が無数に記録されている。それに比べ、第一次世界大戦には映像や動画があまり残っていないことも、私たちの印象を弱めている。
第一次世界大戦の実相を私たちが目にすることは少ないし、大戦中にそれほど大規模な戦闘が行われなかった東洋の果ての私たちにとってはなおさらだ。

だが、第一次大戦とは人類の歴史にとって記録されるべき戦争なのだ。飛行機や戦車、毒ガスなどの兵器は兵士たちの肉体を甚だしく損ない、たくさんの傷痍軍人を生み出した。
それまでの戦争とは違い、人道に反する兵器が多数投入されたこと。それゆえ、第一次世界大戦とは人類の歴史でもエポックに残る出来事であることは間違いない。

人類にとってはじめての大規模な戦いだった第一次世界大戦は、もう一つ、新たな概念を人類にもたらした。それは戦後処理の概念だ。
大規模な戦線が構築されたことは、大量の兵士の徴兵につながった。
彼ら兵士は、戦争が終われば戦場からの帰還者となる。しかも、その中にはひどい傷を負った大勢の兵士がいた。また、戦死者もそれまでの戦争とは段違いに多かったため、葬るための墓も用意しなければならなかった。さらに、徴兵されて職を失った兵士が一斉に復員することになり、失業問題も発生した。

国としてそれまで経験のなかった戦後処理。それをどうさばくのか。国のために戦った兵士に対してどう報いるのか。やることは山積みだ。

兵士たちは兵士たちで、戦後の自らの生活の糧をどうやって得るのか考えなければならない。誰にとっても経験のない大規模な戦争は、国と国民に多大な被害をもたらした。そんな悲惨な戦場の後遺症を人々はどう乗り越えたのか。

本書はそういった時代を生き生きと描いている。

本書の主人公であるアルベール・マイヤールとエドゥアール・ペリクールは、塹壕の中で深い絆を結んだ。
上官の策略によって生き埋めにされてしまったアルベールをエドゥアールが助けたことによって。
だが、エドゥアールが助けてくれたため、アルベールは命を永らえることができたが、砲弾がエドゥアールの下顎を永久に失わせてしまった。

自分の命の恩人であるエドゥアールに恩義を感じ、戦後もともに生活を続ける二人。
エドゥアールは下顎を失ったことから言語がはなはだしく不自由となり、アルベールとしか意思を通ずることが出来ない。
しかも顔の形は生前から大きく損なわれ、その変貌は肉親ですら気づかないと思われるほど。

エドゥアールの父マルセルは富裕な実業家。エドゥアールはその後継ぎとして期待されていた。だが、エドゥアールの芸術家としての心根は、実業家としての道を心の底から嫌っていた。
自分が戦死したことにすれば、後を継ぐ必要はなくなる。
そんなエドゥアールの意思をくんだアルベールは、エドゥアールを戦死した別人として入れ替え、エドゥアールを戦死したものとするように細工をする。

それによってエドゥアールは自分の世界に浸ることができ、アルベールは罪の意識にさいなまれる。

一方、エドゥアールの姉マドレーヌは、父の会社を継ぐはずだった弟の死がいまだに受け入れられない。会社はどうなってしまうのか。父の落胆の深さを知るだけにマドレーヌの心は痛む。
そんなマドレーヌに巧みに近づいたのがプラデル。彼は大戦中、エドゥアールとアルベールの上官だった。
そもそもアルベールが塹壕に生き埋めにされたのも、プラデルの悪事に気づいたからだ。

だが、プラデルの悪事は誰にも気づかれずに済んだ。それどころか、大戦後のプラデルは軍事物資の横流しによって一財産を築くことに成功した。
そして、首尾よくマドレーヌと結婚することによって大物実業家のペリクールの娘婿に収まる。

後ろ盾を得たプラデルは、その勢いを駆って、よりうまみのある利権を漁る。
その利権とは、大戦で亡くなった大勢の兵士のための墓だ。
おびただしい数の兵士がなくなり、彼らの墓を埋める人も土地も足りない。前線の粗末な墓にとりあえず埋められた兵士たちの亡骸を戦没者追悼墓地に埋めなおさねば、国のために命を捧げた兵士と遺族に顔向けが出来ない。
その作業を請け負ったのがプラデルだ。

プラデルはここでも請け負った費用の利潤を少しでも浮かせるため、作業の費用を極端に切り詰める。それは作業員の質の低下につながるがプラデルは意にも介さない。懐が潤えばそれでよいのだ。

大戦によって濡れ手で粟を掴むプラデルのような人物もいれば、エドゥアールとアルベールのように食うや食わずの日々を送る若者もいる。

上巻は、第一次世界大戦の悲惨さと戦後のただれた現実を描く。

‘2019/6/20-2019/6/28


愚者の夜


本書は芥川賞を受賞している。
ところが図書館の芥川賞受賞作品コーナーで本書を見かけるまで、私は著者と本書の名前を忘れていた。
おそらく受賞作リストの中で本書や著者の名前は見かけていたはずなのに。著者には申し訳ない思いだ。

だからというわけじゃないが、本書は読んだ甲斐があった。
別に芥川賞を受賞したから優れているということはない。
だが、受賞したからには何かしら光るものはある。そして、読者にとって糧となるものがある。私はそう思っている。
私にとって本書から得たものはあった。

本書からは、旅とは何かについて考えさせられた。
旅。それは私にとって人生の目的だ。
毎日が同じ人生などまっぴらごめん。日々を新たに生きる。少しでも多く新たな地を踏む。一つでも多く見知らぬ人々と会話する。異国の文化に触れ、異国の言語に耳を傾け、地形が織りなす風光明媚な姿を愛でる。
それが私の望むあり方だ。

旅とは、私の生涯そのものだといってもよい。
確かに、日常とは心地よいし、安心できるものだろう。
だが、その日々が少しでも澱んだとたん、私の精神はすぐに変化を求めて旅立ちたくなる。
好奇心と変化と刺激を求める心。それはもはや、私が一生、付き合ってゆく性だと思っている。

本書の主人公の犀太は、まさに旅がなければ生きられない人物だ。
日本で海外雑誌の紹介で生計を立てている。
妻はオランダから来たジニー。
その日々は変化に乏しく、ジニーはそんな状況に甘んじる犀太にいらだっている。犀太もまた、不甲斐ない自分と今の八方塞がりの状況に苛立っている。

以前の自分は旅と放浪で輝いていたはずなのに、今の体たらくはどうしたことだろう。
何よりも深刻なのは、旅に行こうという気にならないことだ。
日本にしがみつこうとする心の動き。
それはほんの数年前には考えられなかったことだ。
二人が知り合ったのは犀太が海外を放浪していた間だ。
その時の犀太は溌溂としており、二人はすぐに意気投合し、パリで結婚生活を送る。

ところが、犀太はパリで新婚生活を送るにあたり、定期収入を得るための暮らしに手を染める。
人生で一度ぐらいは体験しておこうと軽い気持ちで始めた暮らし。
犀太は、定期的な収入を稼ぐ生活で調子を崩してしまう。
作家になる夢を目指すため、執筆に手をつけるが全く進まない。
ジニーをオランダに帰らせてまで、執筆に集中しようとしてもうまくいかない。
ついにはパリの生活を切り上げ、ジニーをともなって日本に戻ってしまう。

あんなに憧れていて、自由を満喫していたはずの旅。
なのに所帯をもって母国に帰ると、なぜか旅に惹かれなくなってしまう。冒険心が不全を起こしたのだ。

ジニーはパリでも奔放に生き、別の男と夜をともにし、そのことを隠し立てなく犀太に話す。
すべてに嫌気がさした犀太は、何度もジニーとの離婚をくわだてる。が、ちょっとした加減で二人の関係は元のさやに戻る。
本書は、そんな二人の生々しいやりとりに満ちている。

生活の疲れが旅の記憶にまで影響を及ぼす。そんな人生の残酷な一面。
それが本書にはよく描かれている。
あれほど憧れていた旅。日本で生まれ、一生を日本で過ごす境遇からすれば、例えば定期的に職場に通っていたとしても、フランスでの生活はそれだけで一大冒険のはず。

だが、異国であっても規則的な日常を送るようになると、途端に毎日は旅ではなくなる。パリの日々は確実に犀太から旅の意欲を削り取ってゆく。そこから次の場所に刺激を求めに行こうにも、もう力は残されていない。
そのような旅をめぐる描写は、人生の残酷な現実そのものだ。
本書はそれがとても印象的だ。

つまり旅の本質とは、母国から離れることではない。
そうではなく、決まりきった日常こそが、旅の対極なのだ。
であれば、日本にいたとしても、変化に富んだ毎日であればそれは旅とは呼べないだろうか。

本書は日常と旅をくらべることで、人生の真実を探り当てようとしている。
私にとって、人が旅をしなくなる理由。それがまさに現実の日常の日々の中に隠れている。

それゆえ、人は日常の罠にハマらぬよう、日ごろから気をつけねばならない。
日常であっても、無理やりに変化をつける。日常であっても、強引に刺激を受け入れる。そうした工夫を私は今までしてきた。
それによって、私は最近、ようやく日常の罠から逃れられるようになった。場合によっては日常に絡め取られることもあるが。

そうした意味でも本書は、人生の真実と機微を描いた作品として印象に残る。
実際、作者は犀太が目指していた作家として独立できた。
だが、世の中には作者のように大成できず、日常の中に沈んでいった人間は多いはず。
読者として、本書から受けた学びは自分自身の戒めとして大切にしたい。

私自身、三十代の頃は、日常が仕掛ける罠にほとんど、ハマりかけていた。そのことを思い起こせただけでも本書には価値があった。
本書はほぼ世の中から忘れられているが、今の若者だけでなく、四十代を迎えたかつての青年にも読まれるべき価値があると思う。

ただし、本書に登場するセリフ。これはちょっと受け入れられない。
悲鳴にしても感嘆詞にしても、本書のセリフはとてもリアルな人の発するそれには思えなかった。
これは、本書にとってもったいないと思う。今、本書が敬遠されているとすれば、これが理由のはずだ。
本書の生々しい会話と、旅をした者にしかわからない旅の魅力。その反対の日常の倦怠がよく描かれていると思うだけに残念だ。

‘2019/4/5-2019/4/8


眼ある花々/開口一番


洋酒文化と純文学。私がそれらに興味を持ったのは20代前半の頃だ。酒文化の方が少し早い時期だったと覚えている。今もなお、その二つは私にとって人生を生きる原動力となっている。その二つの文化を代表する作家として、著者の名前を外すわけにはいかない。

その二つの文化を体現していた著者は、当時、苦悩の淵に沈んでいた私に光を照らしてくれた。それ以来、著者のことは常に意識していた。著者は壽屋(現サントリー)の広報部に属し、キャッチコピーやその他の文章で健筆を振るっていたことで知られる 。なので、洋酒文化に興味を持った私は、著者の文章に相当多くの知識を授けられて来た。サントリーの広報誌「洋酒天国」の総集編の書籍は、わざわざ古本屋の通信販売で取り寄せた。

だが、読むべき作家とは知りながら、著者の作品は思うように読めなかった。私が著者の作品を読まなければと思ったのは、ある日茅ケ崎市の開高健資料館の存在を知ってからだ。なぜそのことを知ったのか。そのきっかけは、茅ケ崎でジーンズショップを開くKさんとのご縁だ。何度かKさんのお店に遊びに行くうちに、茅ヶ崎市には開高健資料館がある事を知った。いずれ行こうと思っていたが、それから数年の月日が過ぎてしまった。私がようやく訪れることができたのは、本書を読む少し前のこと。

訪れた記念館で私が受けた開高健の印象。それは行動する作家ということ。ベトナム戦争に従軍し、世界各国の魚を釣らんと訪ね巡る。その行動は、書斎にこもる作家のイメージとは対極にある。そのような著者のライフスタイルは、私の求める理想にかなり近い。それを知り、著者が残した作品を片っ端から読みたいと思った。そのはじめの一冊が本書だ。

本書はかつて刊行された二冊のエッセイ集から成っている。二冊を一冊に編みなおし、文庫化したのが本書だ。わあ最初の「眼ある花々」は旅の作家にふさわしく、世界の旅先で著者の目に焼き付いた花々についてのエッセイを集めている。

メコン川の豊穣な流れと、肥沃な大地にあるベトナム。凄惨で救いのない戦闘がすぐ近くで行われていながら、花の都の呼び名にふさわしく、多種多様な花が売られている街並みに、人の、自然の営みのたくましさを思う。「君よ知るや、南の国」

パリの街角にさりげなく活けられている花の取り澄ました感じを眺め、そこから都市論に話を伸ばしてゆく。芸術家たちが愛した街の都市の景観と、初のオリンピックを前に切りはりの発展を遂げようとする東京を比較する。「一鉢の庭、一滴の血」

鬱に沈んでいた著者がアラスカの大地でサケと出会い、生命の奔放さに活力を取り戻す。釣りやサケの魅力に内容がほぼ費やされるが、最後に、アラスカの国花がワスレナグサであり、その慎ましやかな花が雄大な大地を象徴することに自然のバランスを感じる。「指紋のない国」

ジャスミン茶が茶碗に浮いている様子から、花茶の数々を並べ立て、ウンチクを傾ける著者。やがて著者の初めての海外旅行で味わった中国での思い出話と、その後の文化大革命が著者の想い出を汚したことに感傷を挟む。「茶碗のなかの花」

ついでに著者は北海道に目を向ける。スズラン、そしてハマナス。実は北海道が花にあふれた北の国であることに気づかされる。原生花園。原野。著者の第一の関心事は魚にあるのかもしれないが、花の描写が楽しげで旅情を刺激される。北海道を描いた旅のエッセイとして覚えておきたい。「寒い国の花」

また別の日に著者はカメラマンとバンコクに飛ぶ。美しい海とそこで獲られる貝。そこに著者は花の美しさを重ねる。饒舌な会話がちりばめられる中、著者の観察は目を飽きさせないほど生息する色とりどりの動植物を味わい尽くす。その豊かさこそが人生の味わいとでも言うかのごとく。「南の海の種子」

続いてはギリシャだ。白い家々に多彩な花弁が咲き誇る様は、さぞや見応えがあるだろう。著者はギリシャの豊穣な神話や戦争で明け暮れた歴史にギリシャの雑多さをみる。著者の想像力は、ギリシャに咲き誇る百花斉放の花の一つ一つがギリシャを主張しているかのように表現する。それが。あゝと叫ぶ。「 ああ!・・ 」

著者は続いてソバの花を語る。あの白くて小さいやつだ。ソバの花の可憐でひっそりとしたすがたに著者は価値を見いだす。痩せた大地でも花を咲かし実をならせる生命力に著者の称賛はやまない。そして痩せた大地の恵みに妙味を発見した人類のたくましさを著者は褒めそやす。「ソバの花」

同じ白い花でも、著者が続いて取り上げる塩の花、つまり死海に咲く塩の華は、投げ込んだ枯れ枝に群がった塩が、ひっしとしがみついて花を咲かせる。それは著者に自然の摂理の美しさと人類には決して味わい尽くせない妙味を教えてくれる。「死の海、塩の華」

著者の旅はバリ島へと至る。バリ島といえば人々の集う地。そこで著者の思索は人種の差とは何かにたどり着く。人間、どこに生まれようと営みは一緒。それを思い出させるようなエッセイだ。分析のような論理展開がなく、ダラダラとつながっているだけのような文の行間から、著者の考えを立ち上らせるあたり、見事。「バリ島の夜の花」

かと思えば、著者は越前岬の荒々しい自然にたたずむ旅の宿で、冬の水仙を堪能している。越前岬はかつて福井の母の実家まで自転車で走破した際に通り過ぎたことがある。人のおらぬ地で旅情に浸る。これもまた、著者の流儀だ。本書を読んでいると、つくづく思わせてくれる。旅人が備えるべき観察眼とはかくありたいものだ、と。「寒い国の美少年」

最後を締めてくれるのは、アンコールワットやノイシュヴァンシュタイン城のような城が歴史を超えて咲き誇っている様をバラに見立てた著者の着眼だ。城がその精妙で複雑な造形で数百年後にも残り続けているように、バラもその飽きさせない姿で私たちの目を数千年のちまで楽しませてくれるはず、と。「不思議な花」

花々のイメージを豊かに世の事物とつなげ合わせ、語る手法。それは私にエッセイの妙とその味わい方を教えてくれた。

本書の後半六割は「開口一番」が収められている。「開口一番」はかつて出版されたエッセイ集の再録だ。こちらはテーマを絞っていない。さまざまに話題が展開される。釣り、魚、パイプ、スキー、セキフェなどのゲテモノ料理、銘酒の数々。著者の博学はとどまるところを知らない。

そうかと思えば、三浦朱門氏が唱えた結婚反対論に挑戦し、「早婚絶対幸福論」と題して硬軟を織り交ぜた議論を展開する。 「結婚は人生の墓場である」とのたまう三浦朱門氏の論に対し、慇懃かつズバリとその矛盾をつき、たしなめるのだ。曽野綾子氏を伴侶に持つ三浦朱門氏の言葉は、曽野綾子氏への侮辱ですよ、といわんばかりに。まあ、著者の唱える結婚も、希望も何もないサバサバとしたものだが。

そして著者の筆は美女の定義を求めてさまよう。各国の中でルーマニアが一番美女ぞろいであったという著者の感想を皮切りに、本書は急速に品を落として行く。ルーマニアで翻訳を頼んだ女性に日本語の一、二、三(ひー、ふー、みー)と話すと、その二番目がルーマニア語で女性器を表していたため、彼女を恥じらわせてしまった話。中国語のウォーアイニーも発音によっては我愛泥になってしまう話題とか。

続いて著者が語るのは銀座だ。著者の庭のような場所なので話は尽きない。次から次へと店や名物、名酒が登場し、客の酔態が暴かれる。話題は銀座から麻布や六本木へと移動しつつ、著者のウンチクは都内の繁華街を縦横に取り上げてゆく。その行く先はゲイの発展場。著者の話題に果てはない。

次いではスリだ。東京のスリは世界一の腕前だとか。警視庁の警部に取材した会話を交えつつ、その中で披歴されるスリの手口や生態。それらをつらつらと俎上に乗せ、批評する。読んでいるこちらまでスリの専門知識を蓄えてしまう。著者の語り口にはただ酔わされるばかりだ。

そしてついに著者はわいせつを語り始める。編集者たちを集めてブルーフィルムの鑑賞会を開帳した話。そこであからさまに映し出される性器の形をあれこれ品評する話から、諸外国での大人のオモチャ屋さんやエログロメディアの今を語ってゆく。何でも規制が緩むことは、表現者にとっては必ずしも恵まれてはいない、と釘をさしつつ。

このような話題の乱雑さと広大な論理の展開。これこそ私がそうありたいと望む生き方なのだ。引き出しが多いとはまさにこのこと。著者の生き方に一つの目標を見いだしている私にとって、著者の高みは遥か先にある。

飽きを知らない豊富な話題を語りつつ、その中に人生の叡智を紛れ込ませる技。その技はあとがきで女優・演出家の野崎美子氏が語る通り、作家が一瞬見せたナイフの研がれ様。著者の域に達するにはあとどれぐらい旅をすればよいのだろう。

  若きの日に
   旅をせずば、
  老いての日に
   何をか、
    語る?

中国の古典が原典というこちら、開高健記念館で購入した絵葉書に書いてある文句だ。老いて語れるような人間になるためにも、まだまだ旅をせねばなるまい。本書は家族で訪れた東京ディズニーシーで読んでいたが、東京にあるジャングルではなく、ジャングルにあるジャングルで読んでこそ旅の感性は養われるのだから。

‘2017/11/17-2017/11/20


ミッション:インポッシブル フォールアウト


イメージがこれほどまでに変わった俳優も珍しい。トム・クルーズのことだ。ハンサムなアイドルとしての若い頃から今まで早くも30年。今なお第一線にたち、相変わらずのアクションを見せている。しかもスタントなしで。ここまで大物俳優でありながら、芸術的な感性を感じる作品にも出演している。それでいて、50歳も半ばを超えているのに、本作のような激しいアクションにスタントなしで挑んでいるのだからすごい。もはや、若かった頃のアイドルのイメージとは対極にいると思う。

正直言うと、本作も半ばあたりぐらいまでは、『ミッション:インポッシブル』や『007』シリーズなどに共通するアクション映画のセオリーのような展開が目についてしまい、ほんの少しだけだが「もうおなかがいっぱい」との感想を抱きかけた。だが、本作の後半は違う。畳みかけるような、手に汗握る展開はシリーズでも一番だと思う。それどころか、今まで私が観てきたアクション映画でも一、二を争うほどの素晴らしさだと思う。

なぜ本書の後半の展開が素晴らしいのか。少し考えてみた。二つ思いついた。一つは、トム・クルーズふんするイーサン・ハントだけを完全無欠なヒーローとして描いていなかったことだ。もちろん、ハントのアクションは驚異的なものだ。それらのアクションのほとんどを50代半ばになるトム・クルーズがスタントなしで演じないことを考えるとなおさら。だが、彼にはIMFのチームがある。ベンジーとルーサー、そしてイルサのチーム。クライマックスに至るまで、ハントとハントのチームは最後の瞬間まで並行して難題に取り組む。普通、こうした映画の展開は、主人公が最後の戦いに挑むまでの間に、露払いのように道を開く仲間の活躍を描く。それは主人公を最後の戦いに、最大の見せ場にいざなうためだけに存在するかのように。だが、本作ではハントが最後の努力を続けるのと同時に、ハントの仲間たちもぎりぎりまで戦う。その演出はとてもよかった。もはや一人のスーパーヒーローがなんでも一人で成し遂げる展開は時代にそぐわないと思う。

また、超人的な活躍を繰り広げるハントの動きも本作のすばらしさに一役買っている。ハントの動きにうそが感じられないのだ。スタントが替わりに演じていたり、ワイヤーアクションによる動きは目の肥えた観客にはばれる。要するにトム・クルーズ自身がスタントなしで演じている様子が感じられるからこそ、本作の後半の展開が緊迫感を保てているのだと思う。

それを是が非でも訴えたいかのように、パンフレットにもスタントなしの撮影の大変さに言及されていることが多かった。トム・クルーズが撮影中に足を骨折したシーンと、全治9カ月と言われたケガからわずか6週間で撮影に復帰したトム・クルーズの努力。トム・クルーズがけがしたシーンは、パンフレットの記述から推測するに、ハントがイギリスで建物の屋根を走って追いかけるシーンで起こったようだ。骨を折っても当然と思えるほど、本書のアクションは派手だ。そして、ここで挙げたシーンの多くは、本作の前半のシーンだ。私が「もうおなかがいっぱい」とほざいたシーンとは、実は他のアクション映画ならそれだけでメインアクションとなりえるシーンなのだ。それらのシーンを差し置いても、終盤のアクションの緊張感が半端ないことが、本作のすごさを表している。

なお、50代半ばというトム・クルーズの年齢を表すように、直接肉体で戦うアクションシーンは本書にはそれほど出てこない。だが、本書にはそのことを感じられないほど、リアルで斬新なアクションシーンが多い。例えば成層圏を飛ぶ飛行機から飛び降りたり、ヘリコプターから吊り下げた荷物へと10数メートル飛び降りるシーン。パリの街並みを逆走してのバイクチェイス。イギリスで建物の屋上を走り抜け、ジャンプするシーン。そもそも、ミッション:インポッシブルのシリーズにはアクション映画におなじみの格闘シーンはさほど登場しない。それよりも独創的なアクションが多数登場するのがミッション:インポッシブルのシリーズなのだ。

ちなみに、本作はIMAXでみた。本当ならば4Dでみたかった。だが、なぜか4Dでは字幕ではなく、吹替になってしまう。それがなぜなのかわからなかったが、おそらく4Dの強烈な座席の揺れの中、観客が字幕を読むのが至難の業だからではないか、という推測が妻から出た。IMAXでもこれだけの素晴らしい音響が楽しめた。ならば、4Dではよりすごい体験が得られるのではないだろうか。

よく、映画は映画館でみたほうがよい、という作品にであう。本作は、映画館どころか、4Dのほうが、少なくともIMAXで観たほうが良い作品、といえるかもしれない。

なお、スタントやアクションのことばかり誉めているが、共演陣が素晴らしいことはもちろんだ。だが、本作の俳優がどれほど素晴らしかろうとも、アクションシーンの迫力がそれを凌駕している。

また、本作は少々ストーリーがややこしい。誰が誰の味方で、誰が誰の敵なのか、かなり観客は混乱させられる。私自身、本作の正確なストーリーや、登場人物の相関図を書けと言われると詰まってしまう。多分、そこは正式に追っかけるところではなく、アクションシーンも含めて大迫力の映画館で何度でも見に来てね、という意図なのかもしれない。私もそれに乗ってみようと思う。

‘2018/08/14 TOHOシネマズ ららぽーと横浜


アメリカの鳥


通勤車内が私の主な読書の場である。そのため、読む本はどうしても文庫か新書が多い。全集に至ってはどうしても積ん読状態となる。かさばるし重いし。そんな訳で、全集を読む機会がなかなかない。池澤夏樹氏によって編まれたこの全集も、ご多分に漏れず読めていない。この全集は、英米に偏らず世界の名作が遍く収められており、私も何冊か持っている。が、実際に読むのは本書が初めてだろう。

法人化を控えた2015年元旦。2015年の巻頭に読むべきは、会社設立の心構えについての本が相応しい。それは分かっていたが、全集を読める機会は年始しかないのもまた事実。普段読めない文芸大作が読みたい、という動機で本書にチャレンジした。

とにかく時間がかかった。本作や著者について事前の知識がないままに読み始めたものだから尚更。本書ではピーターという一人の青年の成長が丁寧に描かれている。彼の成長やいささか難解な学びの遍歴をじっくり読むあまり、なかなかページが進まなかったというのが理由だ。

思えば、ジャン・クリストフや次郎物語といった人間の成長をつぶさに書き綴る物語から遠ざかって久しい。この忙しい時代、そういった物語を読み耽ることの出来る時間を捻出することは困難だ。時代に巻き込まれている私もまた、本書のような本を読む時間はあまり与えられていない。

しかし、逆を言えば忙しない時間の合間に本書のような成長の過程を描く物語に触れることで、忙しない日々の中で我々が忘れ去ろうとしているものを取り戻せるのではないか。

そのことは、本書を読むと殊更に思う。何せ本書のテーマのひとつが文明の利器への抵抗なのだから。主人公ピーターの母ロザモンドは、その信条を愚直に貫こうとする人物である。加工食品を頑なに拒み、素材をいかした料理をよしとする。ミキサーやフードプロセッサーには見向きもせず、昔ながらの料理法こそが正しいと信ずる。充分に聡明でありながら、ロザモンドの信念は堅い。

本書は1960年代中盤を舞台とする。遺伝子組み換え食品の問題など影も形もなく、公害すらもようやく問題化され始めた時期である。文明の行く末に過剰な消費文化が待っていることや、IT化の申し子ロボットによって職が奪われる可能性も知らない時代。誰もが文明の利器の便利さに飛び付いていた頃。主人公ピーターは、そのような母ロザモンドと二人きりの家庭で育つ。古きよきピルグリム・ファーザーズのような価値観の中で。

母の薫陶の下、真面目に人生の価値を求める主人公。カント倫理学を奉じ、誰であれ人を手段として利用してはならないと自分に誓う主人公。まだアメリカが1950年代の素朴さを辛うじて残していた時代を体現するのがピーターだ。時は1964年で、ピーターは19歳。自立を追及する余り、放蕩に走るヒッピー文化前夜の話である。母から自立する人生を敢えて選ぼうとするピーターは、かろうじて素朴なアメリカを保つ主人公として読者の前に現れる。本書はそのような危うい時期の危うい主人公ピーターの成長の物語である。

冒頭、ピーターは四年前に母と訪れた地ロッキー・ポートを再訪する。前に訪れた際に巣を拵えていたアメリカワシミミズクに再会するために。しかし、アメリカワシミミズクは、姿を消していた。アメリカワシミミズク。アメリカの鳥だ。本書は冒頭からアメリカの鳥が失われる。そしてその喪失感が読者の脳裏に刻まれる。読者に本書が失われたアメリカの鳥を求める物語であることが示される。アメリカの鳥が失われるのが、アメリカが泥沼のベトナム戦争に踏み込む最中であることは決して偶然ではない。我を失ったアメリカの現状と、それに背を向けるように姿を消したアメリカワシミミズクは、本書の全体のトーンを決める。その時期はまた、既成の権威に背を向けるヒッピー文化花開く前であることも見逃せない。ピーターの性格設定がヒッピーと対極にあることと併せて作者の意図するところだろう。

つまり、本書は失われつつあるアメリカの伝統を、主人公に託して探し求める物語なのだ。

失われたアメリカを求め、母ロザモンドはロッキー・ポートに留まり古き良きアメリカに拘り続ける。一方でピーターは自らのルーツを求め、ヨーロッパへと旅立つ。

新大陸から旧大陸へ。それはアメリカのルーツ探しでもある。リーヴァイというユダヤ人の姓を持つピーター。とはいえ、敬虔なユダヤ教徒でもないピーター。彼がヨーロッパに求めたのは、ユダヤ教ではない。ユダヤ教よりも、自ら信ずる哲学の源泉、連綿と続く芯の通った文化を求めにいったのだ。

だが、その冒険心は、自分が後にしてきたアメリカと同じ性格を持つことにピーターは気付かない。それはアメリカを狂騒の渦に巻き込み、古き良きアメリカを失わせようとする。ピーターがアメリカ人としての自らに気付くのは、ヨーロッパに着いてからの事。ヨーロッパについて早々、手違いでバイクを手放すはめになる。替わりに乗った列車のボックスシートでは、いかにもアメリカ的な賑やかな中年婦人に囲まれ閉口する。この二つの出来事を通じ、ヨーロッパではアメリカ人もまた異邦人に過ぎないことを悟ることとなる。旧大陸はアメリカとは違うのである。その事を改めて実感して。

浮ついたお上りさんとしてのアイデンティティにうろたえ、必死に冷静さを保とうとするが、ますます空回りするばかり。ピーターの姿は第二次大戦の勝利者の地位を得てはじめて国際秩序の守護者としての体裁を整えようとするアメリカそのものだ。

そういった異邦人としての疎外感と母なる文化の産まれた地に住む喜び。そして、狂騒度を増す一方のアメリカ人とは自分は違うという自意識のまま、ピーターはパリやローマで成長を遂げてゆく。友人との交流。家族ぐるみの一家との付き合い。そのパーティーに参加していた女性への片思い。住宅改善デモへの参加。文化的知識と俗っぽい部分を同居させる変わり者のスモール教授との交流。そんな風に徐々にヨーロッパに馴染むピーター。

異国にアメリカを、アメリカの鳥を探しに来たのに、当の母国はベトナム戦争やヒッピー文化に騒がしく、ますますピーターからは遠ざかり、ヨーロッパに愛着は増す。しかしそれでもアメリカの鳥を求め、ピーターは遠い母と文通を重ねる。しかし、母の奮闘もむなしく、アメリカはますます文明の利器に溺れる一方。

しかし、パリで親しくなった一家の晩餐に招かれたピーターは、アメリカのジョンソン政権が北ベトナム爆撃の敢行が間近であることを聞かされ、動揺する。ヨーロッパ人として馴染みつつあった仮面が剥がれた瞬間である。自らがアメリカ人であることに辟易し続けたピーターは、報道を通して自らがアメリカ人であることに狼狽し、図らずもさらけ出してしまったということだろう。

ローマへ旅立ったピーターは、システィーナ大聖堂にスモール教授と赴く。そこでツーリズムについて思いをぶちまける。その思いとは自らがツーリズムの本場であるアメリカ市民であることや、そのツーリズムが俗にまみれ、ヨーロッパの文化の深淵を観ることなく、あまりに表面をなぞることしかしないことへの苛立ちである。そこには現代においては先進国となっているアメリカ人として、豊饒な文化的空間にいることの座りの悪さの裏返しなのだろう。また、この中でピーターは、もはやこの地球には真の旅行に値する処女地は残されていないことも指摘している。それは、母ロザモンドの拘る古き良きアメリカの文化、そして食文化がもはや残されていないことへの諦めとも取れるのかもしれない。

パリへ戻ると、浮浪者の女性を義侠心から部屋に泊める。そこには性的な欲望も何もなく、ただ単に厚意からの行動である。それは若者の正義感でもあり、おそらくはベトナム戦争の反動といった意味が込められているのだろう。本書を通してピーターは童貞を通すが、それもフリーセックス全盛のアメリカ文化への対比軸であることは言うまでもない。

しかし、アメリカの北爆は敢行され、友人と動物園に行ったピーターはそこで鳥に噛まれる。アメリカの鳥を求めてヨーロッパに来たピーターは、黒い鳥に噛まれて感染症にかかる。これ以上ない皮肉である。意識を取り戻したピーターは枕元にいる母ロザモンドを認める。夢から覚めてみれば結局アメリカからの使者が待っていたという結末だ。朦朧としたピーターは夢の中である人に出会う。その人が発した「もう見当はついているかもしれないね。自然は死んだのだよ、マイン・キント(我が子よ)」で本書は締められる。

アメリカが苦しみ、変化を遂げた1960年代にあって、本書のような物語が語られたことは、必然であったのかもしれない。アメリカのうろたえ振りは、当時の著者にとって本書を書かせるまでに深刻に映っていたのだろう。その堕ちていくアメリカと、失われていく自然を描いた本書は、大河小説としても一級であるし、我々が現代で失われていたものを気付かせる点でももっと読まれてもよいのではないか。

結果として、帰省中に読了することができず、痛勤車内で読むはめになってしまった。本書がどこかの文庫も再録されればよいのに。

‘2015/01/02-2015/01/15