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オールド・テロリスト


著者は近年、近未来の日本を描くことで現代に警鐘を鳴らそうとしている。『希望の国のエクゾダス』は、中学生たちが日本に半独立国を作り上げる物語だった。本書はそのシリーズに連なっている。本書の主人公は当時、中学生を取材したジャーナリスト、セキグチ。彼がルポルタージュの執筆依頼を受けた時から本書は始まる。セキグチにルポを依頼した人物は、自らを満州国の人間と名乗り、セキグチをNHKに招く。

その指示に従ってNHKを訪れたセキグチは、若者による自爆テロに遭遇する。九死に一生を得たセキグチは、ルポをウェブマガジンに発表して世間の反応を見る。そこにさらにニュースが飛び込む。自爆犯の仲間達の自殺死体とその傍に置かれていた犯行声明が見つかったのだ。その声明は隷書体で書かれており、セキグチの捜索の糸は、駒込の書道教室へと伸びる。そこには謎めいた女性カツラギと、老人たちのコミュニティが築かれていた。そこでセキグチに託されたのは次なるテロ現場への手がかり。池上の柳橋商店街。そこでセキグチは、植栽を整えるための苅払機の刃が通行人の首を切り裂く瞬間に遭遇する。

セキグチは何かが起ころうとしている事を理解する。老人たちのコミュニティが何か大それたことを計画しているに違いない。希望を持てなくなった若者をそそのかし、自爆テロに向かわせるコミュニティー。その正体は曖昧であり、謎に包まれている。目的を完遂するため、相互の関係がわかりにくい組織を構築した。ちょうどアルカイダのような。

カツラギと親しくなったセキグチは、そのつてで精神科を営むアキヅキの知己を得る。そして老獪なアキヅキとの会話から、オールド・テロリストたちの目指す大義の一端をうかがい知る。

心療医ならではのソフトな口調を操るアキヅキ。彼が発する膨大なセリフの中に本書の肝は含まれている。その中の二つを抜粋してみたい。

「・・・・前略・・・・

老人に関して言うと、弱虫は老人にはなれないんだ。老いるということは、これが、それだけでタフだという証明なんだ。

・・・・後略・・・・」(124P)

「・・・・前略・・・・

 誰もが生き方を選べるわけではない。上位の他人の指示がなければ生きられない若者のほうが圧倒的に多く、それは太古の昔から変わらない。それなのに、現代においては、ほとんどすべての若者が、誰もが人生を選ぶことができるかのような幻想を吹き込まれながら育つ。かといって、人生を選ぶためにはどうすればいいか、誰も教えない。人生は選ぶべきものだと諭す大人たちの大半も、実際は奴隷として他人の指示にしたがって生きてきただけなので、どうすれば人生を選べるのか、何を目指すべきなのか、どんな能力が必要なのか、具体的なことは何も教えることができない。したがって、優れた頭脳を持ち、才能に目覚め、それを活かす教育環境にも恵まれ、訓練を自らに課した数パーセントの若者以外は、生き方を選ぶことなどできるわけがないし、生き方を選ぶということがどういうことなのかさえわからない。そういった若者にとって、人生は苦痛に充ちたものとならざるを得ない。苦痛だと気づいた者は病を引き寄せるし、気づかない者は、苦痛を苦痛と感じないような考え方や行動様式を覚える。同じような境遇の人間たちが作る群れに身を寄せ、真実から目を背けるのだ。

・・・・後略・・・・」(132~133P)

このセリフなど、今の日本の抱える二分化の状況を端的にあらわしている。今の若者に何が起こっているのか。私も含めた若者たちはどういう試練を課せられてきたのか。実に考えさせられる。また、最初のセリフからは、老いているから弱いという思い込みをはねつける強靭なメッセージが伝わってくる。老いるということはそれだけ長く試練に耐えてきた証拠なのだ。今の私たちが生きていること自体が、先祖たちが生き抜いてきた証であるのと同じように。

アキヅキは日本を焼け野原にするという。そして日本の原発の脆弱さを不気味に語る。さらに、謎かけのように歌舞伎町の映画館について言及する。予感を感じたセキグチは、新宿のミラノ座で「AMAOU」なるAKBやSKEの亜流グループが出る映画を見に行く。そして、そこでテロに巻き込まれる。高温で焼き尽くされた劇場からは数百人から千人に迫る規模の死者がでた。イペリットを使ったテロ。セキグチとカツラギ、そしてセキグチが出版社で机を並べていた同僚のマツノはそのテロで危うく死にかける。

そのテロこそ、コミュニティが真に牙を剥いた瞬間。そして遥かな満州国の頃から日本の奥底でうごめく策動が本格的に始動した証だった。そのコミュニティを作り上げ、満州国の生き証人である老人。明日にでも死んでしまいそうなほど衰えたその老人とセキグチは面会を果たす。そして老人から、コミュニティの中で先鋭的な手段に訴えるグループがあること、映画館のテロはそのグループが独断で行ったこと。グループの過激な行動は老人の意図を超えており、そのたくらみを止めて欲しいと頼まれる。老人から託された運動資金は十億。十億など老人にとっては単なる数字。金の流れを把握しきった老人による金の本質を突くセリフも興味深い。

セキグチとカツラギとマツノは、豊富な資金を元手にグループの計画に迫る。565ページある本書はここから、さらに紆余曲折がある。そしてその折々に重要なメッセージが読者に突き付けられる。例えば、

「わたしはあの人に興味がないし、あの人も、もちろんわたしに興味がない。ただし、だからあの人はわたしを信用しているの」

「・・・・前略・・・・

そういう人って、興味を持つ対象がいた場合、まず思うのは、とにかくこいつを殺したいってことです。

・・・・中略・・・・

彼は、どういうわけか、わたしには興味がなかったんですね。わたしのことを、殺したいやつだと思わなかったんです。だから信用されたんだと思う」(289P)

このセリフも、信用や人の関係の本質をナイフのようにえぐっている。

また、こういったセリフも登場する。

「テロの実行犯は、静かな怒りとは無縁です。衝動的に通行人をナイフで刺すような人にあるのは、甘えなんですね。もちろん、彼らにも怒りという感情はあります。ただ、静かな怒りではなく、現実が思うようにならないという幼児的な怒りです。そういう人は、甘えられる対象を常に探しています。自分をコントロールできない、また問題が何かもわかっていないし、見ようとしないし、認めようとしない。だから現実が思い通りにならないのは自分自身のせいではなく社会や他人のせいだと決めつけていて、誰かに、頼りたい、服従したい、命令されたい、そう思っているんです。今、そういう人間は社会にあふれかえっているので、探し出して、洗脳というか、誘導するのは、そうむずかしいことではないでしょう。

・・・・中略・・・・

特攻隊がなぜ美しいか、わかるか。彼らは、二十歳そこそこの若さで、国や、故郷、そして愛する人々を守るために、喜んで犠牲となった、彼らは、七十年後の今でも、尊敬され、英雄として崇められている、崇高で、偉大なものの犠牲になる、それがいかに美しく、素晴らしいかわかるか。

 そういう洗脳をされるのは、気持ちがいいものです。ある種の人たちにとっては、信じられないくらい圧倒的に気持ちがいい。自分で考える必要もないし、自分をコントロールできないと苦しんだり不安になったりする必要もない。

・・・・中略・・・・

その種の洗脳は、甘えることを当然と考える人間が多い社会において、宗教的で、恐ろしい効果を生むんです」(334-335P)

この言葉も読者にはささるはず。

著者の作品を読むといつも思わされるのは危機感の欠如だ。現実の営みがどれだけ緩やかな流れに乗っているか。仕事や家庭で忙しない国民たち。今の我が国にはある程度のセーフティネットが用意されている。それは世のぬるい流れに乗って生きることの快適さを保証してくれている。その流れに乗っていれば楽だ。楽だが、生の証を刻みつけるには、はなはだ心もとない。そもそもその様な生きざまでは、いざ有事が発生した際、まっさきに淘汰される。

むろん、老人たちにしてみても、若い頃は軍国の流れに乗らざるを得なかった。望まぬまま有事に巻き込まれ、その記憶に引きずられている。だが老人たちは今、意図して有事を作り出そうとする。ぬるま湯の日本に刺激を与えるために。

本書はこのあと結末に向かって進んでいく。その結末は書かない。本書の筋書きよりも、あちこちにちりばめられた警句めいた言葉から何かをつかみ取ることが重要だ。本書は著者からの危機感を持つように、というメッセージなのだから。

‘2018/07/07-2018/07/08


資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ


誰だって若い頃は理想主義者だ。理想に救いをもとめる。己の力不足を社会のせいにする時。自分を受け入れない苦い現実ではなく己の望む理想を望む誘惑に負けた時。なぜか。楽だから。

若いがゆえに知識も経験も人脈もない。だから社会に受け入れられない。そのことに気づかないまま、現実ではなく理想の社会に自分を投影する。そのまま停滞し、己の生き方が社会のそれとずれてゆく。気づいた時、社会の速さと向きが自分の生き方とずれていることに気づく。そして気が付くと社会に取り残されてしまう。かつての私の姿だ。

私の場合、理想の社会を望んではいたが、現実の社会に適応できるように自分を変えてきた。そして今に至っている。だから当初は、資本主義社会を否定した時期もあった。目先の利益に追われる生き方を蔑み、利他に生きる人生をよしとした時期が。利他に生きるとは、人々が平等である社会。つまり、綿密な計画をもとに需要と供給のバランスをとり、人々に平等に結果を配分する共産主義だ。

ところが、共産主義は私の中学三年の時に崩壊した。その後、長じた私は上京を果たした。そして社会の中でもがいた。その年月で私が学んだ事実。それは、共産主義の理想が人類にはとても実現が見込めないことだ。すべての人の欲求を否定することなどとてもできないし、あらゆる局面で無限のパターンを持つ経済活動を制御し切れるわけがない。しょせん不可能なのだ。

人の努力にかかわらず結果が平等になるのであれば、人はやる気をなくすし向上心も失われる。私にとって受け入れられなかったのは、向上心を否定されることだ。機会の平等を否定するつもりはないが、結果の平等が前提であれば話は別。きっと努力を辞めてしまうだろう。そう、努力が失われた人生に喜びはない。生きがいもない。それが喪われることが私には耐えがたかった。

また、私は自分の中の欲求にも勝てなかった。私を打ち負かしたのは温水洗浄便座の快適さだ。それが私の克己心を打ちのめした。人は欲求にはとても抗えない、という真理。この真理に抗えなかったことで、私は資本主義とひととおりの和解を果たしたのだ。軍門に下ったと言われても構わない。

東京で働くにつれ、自分のスキルが上がってきた。そして理想の世界に頼らず、現実の世界に生きるすべを身につけた。ところが、私が求めてやまない生き方とは、日常の中に見つからなかった。スキルや世過ぎの方法、要領は身についたが、それらは生き方とは言わない。私は生き方を日々の中にどうしても見つけたかった。それが私のメンタリティの問題なのだということは頭では理解していても、実際に社会の仕組みに組み込まれることへの抵抗感が拭い去れない。それは日々の通勤ラッシュという形で私に牙をむいて襲い掛かってきた。

果たしてこの抵抗感は私の未熟さからくる甘えなのか。それともマズローの五段階欲求でいう自己実現の欲求に達した自分の成長なのか。それを見極めるには資本主義をより深く知らねばならない、と思うようになってきた。資本主義とは果たして人類がたどり着いた究極なのだろうか、という問いが私の頭からどうしても去らない。社会と折り合いをつけつつ糧を得るために、個人事業主となり、法人化して経営者になった今、ようやく社会の中に自分の生き方を溶け込ませる方法が見えてきた。自分と社会が少しだけ融けあえたような感覚。少なくともここまで達成できれば、逃げや甘えと非難されることもないのでは、と思えるようになってきた。

それでもまだ欲しい。資本主義の極意が何で、どう付き合っていけばよいかという処方箋が。私にとって資本主義とは自らと家族の糧を稼ぐ手段に過ぎない。今までは対症療法的なその場しのぎの対応で生きてきたが、これからどう生きれば自らの人生と社会の制度とがもっともっと和解できるのか。その疑問の答えを本書に求めた。

著者の履歴はとてもユニーク。高校時代は共産主義国の東欧・ソ連に留学し、大学の神学部では神について研究し、外務省ではソ連のエキスパートとして活躍した。そのスケールの大きさや意識の高さは私など及びもつかない。しかし一つだけ私に共通していると思えることが、理想を目指した点だ。神や共産主義といったテーマからは、資本主義に飽き足らない著者の姿勢が見える。さらに外交の現場で揉まれた著者は徹底的なリアリストの視点を身に着けたはず。理想の甘美も知りつつ、現実を冷徹に見る。そんな著者が語る資本主義とはどのようなものなのか。ぜひ知りたいと思った。

本書は資本主義を語る。資本主義の中で著者が焦点を当てるのは、日本で独自に根付いた資本主義だ。「私のマルクス」というタイトルの本を世に問うた著者がなぜ資本主義なのか。それは著者の現実的な目には資本主義がこれからも続くであろうことが映っているからだ。私たちを縛る資本主義とは将来も付き合わねばならないらしい。資本主義と付き合わねばならない以上、資本主義を知らねばならない。それも日本に住む以上、日本に適応した資本主義を。もっとも私自身は、資本主義が今後も続くのかという予想については、少し疑問をもっている。そのことは下で触れたい。

著者はマルクスについても造詣が深い。著者は、マルクスが著した「資本論」から発展したマルクス経済学の他に、資本主義に内在する論理を的確に表した学問はないと断言する。私たちは上に書いた通り、共産主義国家が実践した経済を壮大な失敗だと認識している。それらの国が採用した経済体制とは「マルクス主義経済学」を指し、それは資本主義を打倒して共産主義革命を起こすことに焦点を与えていると指摘する。言い添えれば統治のための経済学とも言えるだろう。一方の「マルクス経済学」は資本主義に潜む論理を究明することだけが目的だという。つまりイデオロギーの紛れ込む余地が薄い。著者は中でも宇野弘蔵の起した宇野経済学の立場に立って論を進める。宇野弘蔵は日本に独自に資本主義が発達した事を必然だと捉える。西洋のような形と違っていてもいい。それは教条的ではなく、柔軟に学問を捉える姿勢の表れだ。著者はそこに惹かれたのだろう。

この二点を軸に、著者は日本にどうやって今の資本主義が根付いていったのかを明治までさかのぼって掘り起こす。

資本主義が興ったイギリスでは、地方の農地が毛織物産業のための牧場として囲い込まれてしまった。そのため、追い出された農民は都市に向かい労働者となった。いわゆるエンクロージャーだ。ただし、日本の場合は江戸幕府から明治への維新を通った後も、地方の農民はそのまま農業を続けていた。なぜかというと国家が主導して殖産興業化を進めたからだ。つまり民間主導でなかったこと。ここが日本の特色だと著者は指摘する。

たまに日本の規制の多さを指して、日本は成功した社会主義国だと皮肉交じりに言われる。そういわれるスタートは、明治にあったのだ。明治政府が地租を改正し、貨幣を発行した流れは、江戸時代からの年貢という米を基盤とした経済があった。古い経済体制の上に政府主導で貨幣経済が導入されたこと。それが農家を維持したまま、政府主導の経済を実現できた明治の日本につながった。それは日本の特異な形なのだと著者はいう。もちろん、政府主導で短期間に近代化を果たしたことが日本を世界の列強に押し上げた理由の一つであることは容易に想像がつく。

西洋とは違った形で根付いた資本主義であっても、資本主義である以上、景気の波に左右される。その最も悪い形こそが恐慌だ。第二章では日本を襲った恐慌のいきさつと、それに政府と民間がどう対処したかを紹介しつつ、日本に特有の資本主義の流れについて分析する。

宇野経済学では恐慌は資本主義にとって欠かせないプロセス。景気が良くなると生産増強のため、賃金が上がる。上がり過ぎればすなわち企業は儲からなくなる。設備はだぶつき、商品は売れず、企業は倒産する。それを防ぐには人件費をおさえるため、生産効率をあげる圧力が内側から出てくる。その繰り返しだという。

私が常々思うこと。それは、生産効率が上昇し続けるスパイラル、との資本主義の構造がはらんだ仕組みとは幻想に過ぎず、その幻想は人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティによって終止符を打たれるのではないかということだ。言い換えれば人類という労働力が経済に要らなくなった時、人工知能によって導かれる経済を資本主義経済と呼べるのだろうか、との疑問だ。その問いが頭から去らない。生産力や賃金の考えが経済の運営にとって必須でなくなった時、景気の波は消える。そして資本すら廃れ、人工知能の判断が全てに優先される社会が到来した時、人類が排除されるかどうかは分からないが、既存の資本主義の概念はすっかり形を変えるはずだ。あるいは結果の平等、つまり共産主義社会の理想とはその時に実現されるのかもしれない。または著者や人類の俊英の誰もが思いついたことのない社会体制が人工知能によって実現されるかもしれないという怖れ。ただそれは本書の扱うべき内容ではない。著者もその可能性には触れていない。

国が主導して大銀行や大企業が設立された経緯と、日本が日清・日露を戦った事で、海外進出が遅れた事情を書く海外進出の遅れにより、日本の資本主義の成長に伴う海外への投資も活発にならなかった。その流れが変わったのが第一次大戦後だ。未曽有の好景気は、大正デモクラシーにつながった。だが、賃金の上昇にはつながらなかった。さらに関東大震災による被害が、日本の経済力では身に余ったこと。また、ロシア革命によって共産主義国家が生まれたこと。それらが集中し、日本の資本主義のあり方も見直さざるを得なくなった。我が国の場合、資本主義が成熟する前に、国際情勢がそれを許さなかった、と言える。

社会が左傾化する中、国は弾圧をくわえ、海外に目を向け始める。軍が発言力を強め、それが満州事変から始まる十五年の戦争につながってゆく。著者はこの時の戦時経済には触れない。戦時経済は日本の資本主義の本質を語る上では鬼っ子のようなものなのかもしれない。また、帝国主義を全面に立てた動きの中では、景気の循環も無くなる、と指摘する。そして恐慌から立ち直るには戦争しかないことも。

意外なことに、本書は敗戦後からの復興について全く筆を割かない。諸外国から奇跡と呼ばれた高度経済成長の時期は本書からスッポリと抜けている。ここまであからさまに高度経済成長期を省いた理由は本書では明らかにされない。宇野経済学が原理論と段階論からなっている以上、第二次大戦までの日本の動きを追うだけで我が国の資本主義の本質はつかめるはず、という意図だろうか。

本書の最終章は、バブルが弾けた後の日本を描く。現状分析というわけだ。日本の組織論や働き方は高度経済成長期に培われた。そう思う私にとって、著者がこの時期をバッサリと省いたことには驚く。今の日本人を縛り、苦しめているのは高度経済成長がもたらした成功神話だと思うからだ。だが、著者が到達した日本の資本主義の極意とは、組織論やミクロな経済活動の中ではなく、マクロな動きの中にしかすくい取れないのだろうか。

本書が意図するのは、私たちがこれからも資本主義の社会を生きる極意のはず。つまり組織論や生き方よりも、資本主義の本質を知ることが大切と言いたいのだろう。だから今までの日本の資本主義の発達、つまり本質を語る。そして高度成長期は大胆に省くのではないか。

グローバルな様相を強める経済の行く末を占うにあたり、アベノミクスやTPPといった問題がどう影響するのか。著者はそうした要素の全てが賃下げに向かっていると喝破する。上で私が触れた人工知能も賃下げへの主要なファクターとなるのだろう。著者はシェア・エコノミーの隆盛を取り上げ、人と人との関係を大切に生きることが資本主義にからめとられない生き方をするコツだと指南する。そしてカネは決して否定せず、資本主義の内なる論理を理解したうえで、急ぎつつ待ち望むというキリスト教の教義にも近いことを説く。

著者の結論は、今の私の生き方にほぼ沿っていると思える。それがわかっただけでも本書は満足だし、私がこれから重きを置くべき活動も見えてきた気がする。

‘2017/11/24-2017/12/01


夕暮れをすぎて


著者の本国アメリカでは、本書は「Just After Sunset」という短編集として出版された。日本ではそのうち前半部が本書となり、後半部は「夜がはじまるとき」として出版されている。どういった契約になっているのかは知らないが、著者の短編集にはこのような形態をとるものが多い。

また、著者の短編集にお馴染みの趣向として、必ず短編集全体に対する著者の解説と、各編に対する解説が付されることが挙げられる。この解説を読むだけでも、稀代のストーリーテラーである著者の創作エピソードが理解できる。本書に収められた諸編は、著者の解説によると短編を書く喜びを取り戻した時期に書かれたものだそうだ。内容的には中編といってもよい分量のものもあるが、いずれも粒ぞろいの秀作揃いといえる。

以下に一編ずつ、レビューを書いていくことにする。

【ウィラ】

列車のアクシデントにより駅に足止めを食らっている乗客たち。彼らは手持ち無沙汰に迎えの列車をただひたすらに待っている。デイヴィッドの婚約者ウィラは待つことに飽き、デイヴィッドと共に近くの街へと向かう。そこで気付くこの世の真実。

気づいた真実を携え、それを他の乗客に伝えるために駅へ戻る二人。しかし、相手にされることはない。もはや迎えの列車など来ないことに気付いてしまった二人と気付かない乗客たち。列車は当の昔に廃線となり、今の自分達が世を去る原因となった事故が完全に復旧されることはもはや永遠にない。生者ではなく死者の視点から残酷な世界を見渡した構図が印象的な一編だ。

【ジンジャーブレッド・ガール】

本書随一の長さを持つ中編。物語の構成としては新味は感じられない。離婚の危機に瀕し、独り島に住まう主人公。そこで殺人鬼に遭遇してしまい、あわや惨殺されそうになる話。著者には悪霊の島という長編が上梓されているが、そのモトネタとなったのが本編ではないかと思われるが、そのことは著者の解説にはない。

【ハーヴィーの夢】

予知夢の話である。倦怠の中にある初老の夫婦。第一線で働く敏腕で成功者の夫との生活にももはや刺激は感じられない。そんな中、急に饒舌に夢を語り始める夫。そのリアルな内容と語り口に引き込まれる妻。

正夢としか思えないその夢は、彼らの身内に近づく不幸を暗示している。そしてその夢が正夢かどうかは読者に委ねられる。夢と同じく、現実の彼らに電話がなったところでこの物語は終わる。

著者の解説によるとこの物語を閃いたのは夢の中だとか。そのこと自体がすでに一つの物語といえる。

【パーキングエリア】

平凡な教師。それが主人公である。そして、ささやかな作家活動の成果とともに、想像力も人並み以上に持った人物。

その主人公が、たまたまパーキングエリアの女子トイレで虐待現場を目撃する。迷いとの戦いに勝ち、虐待する男を懲らしめる主人公。生まれて一度も喧嘩したことがないのに、生まれてはじめて味わう暴力衝動に驚く。女を解放し、虐待男に対して完全に優位に立つ主人公。主人公を覆う殻が割れた瞬間である。

【エアロバイク】

四年前に妻をなくした画家が、医者から不摂生を警告されるシーンから始まる本編。
無聊を慰めるためと体力をつけるためにエアロバイクを購入した主人公は、地下室に据え付けたそれを漕ぎながら、壁に大作を作り始める。そしてニューヨーク州のポキプシーからハーキマーヘの想像上の旅をエアロバイクに乗って行くことになる。道中見た脳内の風景を壁に描きながら。

トランス状態になるにつれ、壁の絵は主人公の制御から徐々に離れ始める。そして、絵の中で彼が乗る自転車は見えない追跡者に追われることとなる。

追跡者とは果たして、、、?

現実と虚構の境目を曖昧にする奇想の物語である。絵が現実を侵食する話は、著者の他の長編でも見掛ける。が、冒頭の医者による警告が見事に落ちへと繋がる結末は、見事に短編としての構成を成している。

【彼らが残したもの】

9.11の同時多発テロは日本にいる我々にも衝撃的な出来事だった。アメリカの方々にとってはもっと衝撃だったろう。

本編は、私が初めて読んだ9.11に関する一編である。おそらくは他の作家による小説の題材には相当取り上げられているのだろうが。

9.11で亡くなった方々の遺品が、偶然その日に休んで難を逃れた主人公の身辺に現れる。ビルの倒壊する轟音とともにこの世から消えたはずの品々が。

それらの品々は、咎なくして世を去った人々の無念の象徴だ。なぜそれが彼の元へ現れるのか。著者得意の怪異現象である。だが、怪奇現象を怪奇現象に終わらせず、それをアメリカの人々の鎮魂の想いに結びつけるのは流石である。私自身、本書に収められた秀作の中でも本編に最も強い印象を受けた。主人公がそれら遺品を届けるため、遺族を訪ねる結論もよかった。

本編に登場する人物が発するセリフの中で、以下のようなものがある。

「あいつらはあれを神の名のもとにおこなった。でも、神なんかどこにもいないの。もし神がいたのならね、ミスター・ステイリー、神はあの十八人だかの犯人全員を、やつらが搭乗券を手にしてラウンジで待っているあいだに始末していたはずよ。でも、そんな神はいなかった。ただ、乗客に搭乗を呼びかけ、あのクソ野郎どもにゴーサインを出しただけよ」

このセリフがアメリカの声を代弁しているとは思わないが、こういう声もまた、神なき今となっては主流なのだろう。

そして、このセリフは私に別の思いを連想させた。本書の筋やプロットをほぼ同じに、ヒロシマやナガサキを題材に物語を作っても良いのではないか、と。念のためにいうと、原爆を投下したのがアメリカだから因果応報で9.11のテロが起きたとか、そういった意図はない。8.6と8.9と9.11には何の関係はない。ただ、云えるのはあの日ニューヨークの空を覆った焔と煙がアメリカの人々に永久に刻印されたように、日本人にも二つのキノコ雲の映像は永久に刻印されているということだ。テロルや暴力との闘いは人類がいまだに克服できないテーマだ。それに向かい合わねばならない宿命は、日本人であってもアメリカ人であっても等しく持っている。本書の様な着想の物語はヒロシマやナガサキを舞台にあってもよいし、日本人にこそかかれるべきではないかと思った。

【卒業の午後】

9.11の生中継映像は私も見た。日本時間では深夜だったが、雲ひとつない鮮やかな背景と、ビルから立ち上る煙り。そこに突っ込んでくる二機目と吹き上がる爆発の炎。そういった映像が無音のまま、何の解説もないまま流される様はまさに衝撃だった。映像越しでも十分に衝撃を受けたのだから、現地での衝撃は尚のことだったろう。

本編は、マンハッタン対岸で卒業式を終えた少女が目撃した、平穏な日々が崩壊する瞬間を描いている。一読しただけでは、ホラー要素が薄く、著者の作風とは違うように思える。しかし、本編は紛れもないホラー作品である。作家の想像力の産物ではない、現実に起こりうる恐怖。それは平穏な日々が崩壊する恐怖であり、現実こそが最も恐ろしい恐怖を潜めているという予感。著者の筆は、その恐怖を余すところなく書いている。そして著者が描くのがマンハッタンの現地ではなく、対岸からの映像として描くことで、リアルと非現実の合間を絶妙に現している。

‘2015/05/18-2015/5/21


Facebookのフランス国旗騒動について


Facebookのプロフィール画像のフランス国旗化の話。案の定騒ぎになっていますね。

とはいえ、変える変えないは個人の自由です。言うまでもなく。なので、変えたからと言って引け目を感じる必要もなく、変えなかったことを誇る話でもありません。

ただ、皆さんのプロフィール画像が一斉に三色に染められて行く様は、興味深いものがありました。で、しばらくするとある記事がシェアされ始めました。プロフィール画像を設定すると個人情報が抜かれるというあれです。すると、みるみるうちに皆さんの画像が元へ戻っていきました。

その様子をみていて、思う事があったので、記事を書いてみます。

思う事とは、情報の受け止め方とその反応についてです。時代に合わせて、新聞、テレビ、ネットとメディアの主役は移り変わりました。それに伴い情報を受け取った我々の反応も変わりつつあります。

新聞が情報源だった頃、我々は時間をおいてニュースを知り、時間をおいて義援金を送るなどして現地に反応していました。その際も我々にはニュースに対して考える時間が与えられていたように思います。テレビが情報源だった頃は、リアルタイムで情報は届きました。しかし、それに対する反応の時間はまだ与えられていたように思います。

今、ネットの時代の真っ只中です。ニュースは発生から間髪入れずに我々の元へと届けられます。国民総ジャーナリストですから。また、我々にも現場に対する反応が即座に返せる環境が整いました。

ただ、その便利さを享受する替わりに、我々には無言無形の圧力が課せられるようになったのかもしれません。それは、ニュースを受け取ったら反応しなければならない、という圧力です。今のニュースに対する反応を見ると、そのような圧力が生まれ、それに流されてはいないか、と思うのです。

勿論、ニュースにたいし、無反応でいることは自由です。また、ニュースにたいしてじっくりと考え、考えを表明する自由もあると思います。

しかし、今生まれつつある圧力はそれを許さない方向へと向かっているように思います。ニュースを吟味し考える余裕も与えられぬまま、情報に対して即座にレスを返すことが求められているように思えるのです。
情報に対する判断力、決断力は無論重要でしょう。特にビジネスの世界においては。でも、今回のフランスでのテロに関しては、なにかそういう圧力が働いていたかのようでした。

情報に対して無反応であったり、時期を逸して意見を発したりすると情報弱者と見なされる風潮。そういう風潮にはなってほしくないですね。そう思いません?



私の中でも読み通すのに苦戦した本の一つとして思い出されるであろう本書。あまりこういう言い方はしたくないけれど、訳に問題があるように思えてならない。

最初はこういう特異な文体を持つ著者なのかとも思ったが、どうにも読み進めにくい。設定や話の進め方にかなりのわざとらしさと不自然さが目立つのは元々の原書からしてそうなのか、それとも訳に問題があるのか。トルコ語訳者に競争はないのかもしれないけれど、せめて英訳版を参考にして頂きたかった。

読みにくさについての苦言はこれぐらいにして、本編に触れると、トルコの北東部カルス(Kars)という実在の街を舞台に、イスラムと西洋文明の相克を描き出した小説だ。主人公の名前を縮めてKaと記され、トルコ語では雪をKarというらしい。訳者あとがきによれば、そのあたりには特に意味はないとのことだが、そういう韻や言葉遊びが随所に散りばめられていると思われ、それが訳者や読者の苦労に繋がっていると思えてならない。

主人公のKaはドイツに政治亡命をして、10数年ぶりに帰省した詩人。西洋文明の空気を十分に吸った彼から見た、半分西洋で半分中近東というトルコ独自の文化がKaとその遺稿を呼んだ友人こと私の視点を交えて語られる。

イスラム原理主義者と西洋との折衷主義者などの争いが、雪に閉ざされたKarsで繰り広げられる中、登場人物が幾分芝居がかった口調で、トルコの国の抱える矛盾に苦しみつつ、クーデター騒ぎで騒然とする町の中で、愛や憎しみ、国家や民族へのそれぞれの思いをぶつけ合う、というのが本書のあらすじとなる。

本書の真骨頂は、トルコという国の抱える問題点を上記のような形で鋭く描きだし、熱く炙り出したところにあると思う。東洋と西洋の交差点として栄光と挫折の歴史を持つ同国、最近ではドイツへの移民に活路を見出そうとするも迫害にあい、かたや国内ではクルド人問題など自らも民族問題を内包した国であり、イスラム教国でありながらヨーロッパの一員として振る舞ったりと、国として民族としてのアイデンティティ確立に苦しんでいるような印象がある。東洋と西洋のはざまでアイデンティティ確立に苦しむ我が国に対しても他人事とは思えないところが、親日国として知られる所以ではあるまいか。

本書を読んでいる中、年末に読んだ養老氏内田氏の対談で出てきたユダヤ人とは何か、という問題を思い出さざるを得なかったけれど、本書でもトルコ人とは何か、というテーマが底流に流れていると思われる。

冒頭に訳者から登場人物や単語、そしてトルコの背景について解説がなされていることからも、トルコのそういった事情を知らずに本書を読むとなると相当読みづらいと思われる。

特に、詩人であるから本書中で19編の氏が重要なキーワードとして登場し、19編を雪の結晶のごとく図示化までしていながら、肝心の詩の中身については殆ど出てこないなど、文学研究家の研究対象となりそうな要素もあるだけに。

’12/1/3-’12/1/17