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逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想


本書こそまさに自伝と呼ぶべき一冊。本当の自伝を読みたいと願う読書人に薦められる一冊であると思う。

阪急電鉄を大手私鉄の雄に育て上げただけではなく、宝塚歌劇団や東宝グルーブ、阪急ブレーブスの創設など興業の世界でも日本で有数の企業を育て上げた立志伝中の人。
線と点からなる鉄道を面の事業として発展させ、鉄道を軸にした都市開発や地域開発に先鞭をつけたアイデアマン。
独創的な着眼点でわが国の近代企業史に燦然と輝く経済人。
小林一三。ロマンチストであり続けながら経営の世界でも実績と伝説を残した希有の人物である。

明治以降、わが国の財界は多くの人物を輩出してきた。それら錚々たる人物列伝の筆頭に挙げられる人物こそ、小林一三ではあるまいか。
本書はその小林一三が自らしたためた自伝だ。しかも財界人が自らを思い返したただの随想ではない。かつて作家を目指し、新聞に連載小説を受け持っていた人物が書く自伝である。それが本書を興味深い一冊にしている。

小林一三が残した遺産の多くは、幼い頃の私にとっておなじみのものだった。阪急電車。西宮スタジアム。西宮球技場。宝塚ファミリーランド。宝塚大温泉。
私の人間形成において、おそらく小林一三が残した影響はいまだに残っているに違いない。
だが、このブログでも何度も書いたとおり、私は今の宝塚歌劇団の経営姿勢に良い印象を持っていない。

その一方で、小林一三が宝塚少女歌劇団を創設したときの純粋な志まで否定するつもりはない。少女歌劇を立ち上げるにあたっての試行錯誤は、小林一三が作家として挫折した思いを考えると尊い。
不評で廃業したプールの上に蓋をした「ドンブラコ」から始まったタカラヅカは、いくつもの試練を乗り越え、100年続く劇団に育った。その功績は小林一三のものだ。
自ら戯曲を書き、作詞まで手がけた異彩の人を抜きにしてタカラヅカは語れない。

小林一三は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスは売るな」と言い残したと伝えられている。が、今の阪急グループを見て小林一三は何を思うだろうか。ロマンチストのアイデアがふんだんに盛り込まれたはずの事業は、企業を存続させるための論理の前にはかなくついえた。しかも阪急自身の手によって。
阪急ブレーブスはとうの昔に身売りされた。タカラヅカも少しずつ公演の重心を有楽町に移しつつある。宝塚ファミリーランドはなくなり、跡地にはどこにでもある商業施設がのさばっている。
本稿をアップする三週間ほど前、宝塚ファミリーランド跡地の横を車で走り抜けた。が、何の感興も湧かなかった。無惨と言うしかない。

今の阪急グループは大企業となった。つまり、株主や投資家の期待に応え、従業員を養わねばならない。それはわかる。だが、今の阪急グループにワクワクする感じを期待する事は出来ない。
経営が現実の中に縛られてしまっているのだ。経営が現実の中に逃げ込むほど、ロマンチストの思いを経営に色濃く反映させた小林一三の凄さは際立つ。
私は小林一三には尊敬の念しかない。
文学で身を立てようとして挫折し、実業界で才能を発揮した転身の妙。それも私には強烈な魅力として映る。
同じ経営者として、小林一三のユニークな経歴から学ぶべきことは多い。憧れと言ってもよい。

その型破りな発想の秘訣はなんだろうか。その発想の源泉はどこにあるのか。
その答えは、著者が自分を語る本書に載っているはずだ。小林一三が若き日の無軌道な振る舞いの中に。

著者は自分の幼いころからの日々を振り返り、その中で犯した過ちも包み隠さず書いている。

大学を十二月に卒業し、三井銀行に就職が決まった後も、入社式や卒業式もほったらかしで熱海に逗留しつづけ、そこで知り合った女性のことが忘れられず、ズルズルと出社を延ばして、結局三カ月も出社しなかったという。今の世では絶対に許されない行いだろう。
考えてみればのどかな時代ではある。現代の方が物質的にも技術的にもきらびやかで洗練されている。技術も進歩し生活も豊かである。が、実は日本人の精神力は半比例するように硬く貧しくなり、衰えているのではなかろうか。小林一三の破天荒な青年時代はそんなことさえ思わせる。

本書で語られる前半生の著者を見ていると、自分の核がない代わりに、降ってくる話を拒まない。自らの天分と天職に巡り合うまで、自らの境遇を定めずにいる。まず飛び込んでから身の振り方を考えている。
その姿勢こそが著者の大器を晩成させたのだろう。
その姿勢は、上にも書いた通り、本気で作家を目指していた著者の資質から導かれたものだろう。

慶応大に在学中の著者が山梨日日新聞に連載していた小説「練絲痕」も本書には収められている。
いくら当時の文壇が発展途上だからといって、新聞に連載を持ったことは大したことだ。著者は半ば職業作家だった。そして、そのような経歴の持ち主で、かつ著者ほどの実績を打ち立てた経営者を私は知らない。
著者の前半生は、謹厳な経営者とは真逆だ。無頼派と呼ぶにふさわしい乱脈なその姿は、作家が文士と呼ばれた頃のそれを思わせる。

著書がすごいのは、そこから生まれ変わったかのように経営に目覚めたこと。そして、経営にしっかりと若き日の自由な発想を活かしたことにある。
それでいながら、鉄道の開通にあたって資金繰りの厳しい時に見せた辛抱強さなど、それまでの著者とは打って変わった人間性を見せた事も著者の人生を決定づけたはずだ。

こうした著者の動きを念頭におき、仮に著者が同じ人格を持っていたとしよう。ここでもし著者が世間に合わせて勤め人であろうとし、冒険を控えていたらどうだっただろう。あくまでも仮定でしかないが、阪急で成し遂げたような多角化の発想は生まれなかったのではないだろうか。
自由な発想の持ち主が心の赴くまま、自由な振る舞いにおぼれ、存分に自らの心魂を理解したからこそ、経営者になった著者の脳内には発想の豊かな泉が涸れずに残ったのではないかと思う。

今のわが国の停滞が叫ばれて久しい。
その理由を画一的な学校教育に求める人も多い。
だが、同じくらい企業文化の中にも画一化の罠が潜んでいるように思う。

本書を読み、経営者としての目標の一つに著者を設定した。

2020/11/7-2020/11/10


男役


妻に勧められて読んだ本書。意外なことにとても感動させられた。
それは、私にとって大きな驚きだった。これだから読書はやめられない。本書から意外な喜びが得られたことに満足している。

意外だと書いたのには理由がある。
それは、今の私がタカラヅカに対して嫌悪感に近い感情を抱いているからだ。
著者の作品を今まで読んだことがなかったことと、本書について何も知識が何もないままに読み始めたことを除いても、本書から受けた感動は予想外だった。
私のようにタカラヅカに対して嫌悪をもつような人がいれば、本書はお勧めしたいと思う。
本書は「歌劇」「宝塚おとめ」や「タカラヅカ・スカイ・ステージ」よりもよっぽどタカラヅカの魅力を伝えている。

なぜ私が嫌悪感を抱いているのか。それは妻がもう長いことタカラヅカのジェンヌさんのファンクラブ代表を務めているからだ。
本稿をアップした今も、妻は一カ月以上にわたる東京公演のため、朝から夜まで忙殺されている。歯医者の仕事は週に一度がせいぜい。家事も歯科医の仕事も差し置いて、無償の代表の仕事に人生の貴重な時間を捧げている。

代表の仕事について、私が抱いた嫌悪感については、
なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか
宝塚ファンの社会学
のレビューの中に書いたから本稿では詳しく繰り返さない。
ここまでの嫌悪を抱いたのは、表だっては私的なファンの集まりだから関与しないとの建前を謳いながら、裏では運営側の都合をファンクラブ側にまかり通そうとする劇団の姿勢に憤りを感じているからだ。

もちろん代表の仕事によって家庭に大きな負担がかかっていることは言うまでもない。代表である妻や娘たち、もちろん私にも。
一つだけ言えるとしたら、ファンクラブ代表になるなら、結婚や仕事での昇進は諦めた方がいい、ということだ。

一方で、嫌悪感を抜きに考えると、感心することもある。
それは無償で働く代表や多くのスタッフの存在だ。これは経営者として感心する。
代表やスタッフが担うのは、ジェンヌさんのマネジメント業務だ。表向きは私的ファンクラブの仮面をかぶりながら、実際に代表が行うのはジェンヌさんのマネジメント業務だ。
こうした仕事は本来ならば劇団が行うべき仕事。それを代表に担わせ、しかもその対価は劇団から支払われることはない。つまり無償だ。

経営者の立場からは、無償で働いてくれるスタッフがいることがどれほど羨ましいか。一人親方ならともかく、従業員がいなくては、会社は成り立たない。従業員が宝であることはもちろんだが、人件費は経営者にとっては現実のストレスとしてのしかかる。
タカラヅカのジェンヌさんの多くはファンクラブを立ち上げている。各ファンクラブは代表や複数人のスタッフを抱えている。彼女たちの多くは無償だ。あくまでも私的ファンクラブなのだから、少なくともタカラヅカには賃金を払う義務がない。賃金をもらっている代表やスタッフがいるとすれば、それらの賃金は、ジェンヌさん自身やジェンヌさんの実家から支払われている。言うまでもなくそれができるジェンヌさんは一握りだ。

タカラヅカの場合、人件費をかけずに業務の一端を担わせている。人件費をかけずに済むのだから、良いものができるのは当たり前だ。

こうした無償で働いてくれるスタッフや代表は、妻も含めてタカラヅカの観劇が好きでたまらない人であり、だからこそ無償でも働こうと思うのだろう。
彼女たちが惹かれているのは、小林逸翁が立ち上げたタカラヅカ百年の伝統が磨き上げてきた美意識であることは間違いない。

百年の伝統とは、プールの上に蓋をした黎明期の舞台から、レビューが軌道に乗った時期を通り越し、軍国色の強い演目を強いられた戦時中の苦しみなど、さまざまな歴史の上に醸成されたものだ。痛ましい死亡事故や、ベルばらブームなど、タカラヅカには試行錯誤と喜怒哀楽の歴史があった。
そこには歴代のジェンヌさんや演出家、大道具小道具とオーケストラ、衣装さんの努力があった。それらの努力のたまものが百年の伝統として昇華していることは公平に認めたい。
スタッフや代表が無償の労働で成り立っているのは、決して今の経営陣の努力ではない。百年前から脈々と受け継がれてきた伝統があってこそだ。

男装の女性が美しい衣装を身にまとい、華麗に舞い、魅惑的なメロディーを響かせる。
女性だけの舞台の上で、異性である男性を演じる姿は美しい。髭もなければ、ハゲもない。ましてやオヤジの加齢臭を漂わせることもありえない。永遠に美しい存在。観客の皆さんが男役に夢中になるのもわかる。

さらにタカラヅカのスターシステムは、下から次々と生徒が送り込まれる仕組みだ。だから、新陳代謝は激しい。観客はひいきのトップスターがやめても、青田買いのように生徒さんの中からお気に入りのジェンヌさんを見つけ出す。
だからこそ、男役を務めるプレッシャーも並大抵のものではないはずだ。
先輩のジェンヌさんに憧れ、その所作を学びながら、女が男を演ずる芸を極めていく。その姿は男だから女だからといったささいなことは関係ない。そこには舞台人として芸を極めることの難しさと尊さがあるのみ。

本書はそのような男役の姿を描く。男役の舞台での姿に魅入られ、タカラヅカの門をたたいた主人公。
日々の厳しい稽古と人間関係の難しさ。そんな合間に舞台でライトを浴びる高揚感。そのような芸事の厳しさと奥の深さに一生懸命な主人公に、伝説と化したかつての男役がファントムとなって語りかける。

つまり本書はミュージカルとして演目になったことであまりにも有名なガストン・ルルーのオペラ座の怪人、つまりファントムをモチーフに取り入れているのだ。
ミュージカルのファントムも、新進女優のクリスティーヌを見染めて一流の女優へと導こうとする。舞台芸術の世界に魅入られ、劇場の主と化したファントムの妄執がなせる技だ。
オペラ座の怪人の世界とタカラヅカを絶妙にミックスしているのが本書の特色と言える。より至高の舞台へと。刹那の芸術の美へと。

本書のファントムも同じ。舞台の魅力に取り憑かれ、劇場に住み着き、これはと思った新進男役に寄り添って支えようとする。崇高な舞台の輝きへ。男役の演技のより深い奥義へと。
なぜそこまで男役に執着するのか。それは、世界でもこのように女性が男性を演じる演技形態が稀だからだ。世界でもタカラヅカは稀な女性だけの劇団であり、今、ここでしか演じられないことが、男役の価値をより高めている。それは百年の伝統の中で代々、受け継がれてきた芸能であり、その希少性ゆえに観客を魅了し、演ずるジェンヌさん自身をもからめとる。

声をつぶしてまでも低音を響かせる技。一挙手一投足まで男を演じ切らなければならず、一瞬でも素の女を見せることは許されない。舞台を降りた後ですら、ファンの視線を意識しながら、日々の生活まで男を演じる。生き方から変えていかなければ務まらないのが男役の宿命。
だからこそ、ファントムのような主が至高の芸として伝えていかねばならない。
本書のこの設定はお見事だ。

そして、男役には相手となる娘役がいるのがタカラヅカのスターシステムのお約束だ。
同じ女性であっても、娘役からはトップの男役は憧れと恋愛の対象でありうる。さまざまな演目で愛する演技を続けていくうちに情が移る。本気で恋愛感情を持つ場合もあるだろう。むしろ、それぐらいトップの男役と娘役が強く絆を結んでこそ、ファンからは絶大な支持を受ける。
単なるレズビアンではない。そんな下世話な感情さえも超越した、現実と幻と役柄が混在した恋愛。
本書にもファントムにまつわる悲恋と、主人公とのご縁が終盤のクライマックスへ向けてつながっていく。

冒頭で私はタカラヅカに対して嫌悪感を持っていると書いた。だが、私はジェンヌさんに対してはそれを向けようとは思わない。特に妻がついているジェンヌさんに対しては。
彼女たちも与えられた環境の中で一生懸命やっているだけなのだから。だから、私の嫌悪は全て劇団に向けられる。
多分妻もそれを考えて私に本書を勧めてくれたのだろうし。
くしくも本稿をアップした本日は東京公演の千秋楽であり、一カ月半にわたる妻の苦労も報われる日だ。

もう私は二度とタカラヅカを見たいとは思わない。だが、それでももし本書がタカラヅカで舞台にかけられたら、心がゆらぐかもしれない。それほど本書には心を動かされた。

‘2020/06/13-2020/06/14


なぜ宝塚歌劇に客は押し寄せるのか 不景気も吹き飛ばすタカラヅカの魅力


私の実家の近くを流れる武庫川にそって自転車で一時間も走れば、宝塚市に着く。宝塚大橋を過ぎると右手に見えるのが宝塚大劇場。今や世界に打って出ようとするタカラヅカの本拠地だ。そのあたりは幼い私にとってとてもなじみがある。宝塚ファミリーランドや宝塚南口のサンビオラにあった大八車という中華料理屋さん。このあたりは私にとってふるさとと言える場所だ。

ところが本書を読み始めた時、私の心はタカラヅカとは最も離れていた。それどころか、車内でタカラヅカのCDが流れるだけで耐えがたい苦痛を感じていた。

なぜタカラヅカにそれほどストレスを感じるようになったのか。それは、妻が代表をやっていることへのストレスが私の閾値を超えたからだ。代表というのはわかりやすくいうと、タカラジェンヌの付き人のことだ。タカラジェンヌの私設ファンクラブの代表であり、マネジャーのようによろずの雑事を請け負う。その仕事の大変さや、理不尽なことはここには書かない。また、いずれ書くこともあるだろうから、そちらを読んでもらえればと思う。

私は、妻や妻がお世話をしているジェンヌさんに含むところは何もない。だが、それでも私が宝塚歌劇に抱いたストレスは、CDを聞くだけで耐えがたいレベルに達していた。

本書は、タカラヅカの世界に偏見を持つ方へ、タカラヅカの魅力を紹介する本だ。だから、わたしには少しお門違いの内容だった。

断っておくと、私は観劇は好きだ。今までにもいくつもの観劇レビューをブログにアップしてきた。舞台と客席が共有するあのライブ感は、映画やテレビや小説などの他メディアでは決して味わえない。コンサートの真価を感情を発散させることにあるとすれば、観劇の真価は感情に余韻を残すことにあると思う。

だから著者が一生懸命に熱く語るタカラヅカの魅力についても分かる。観客としてみるならば、タカラヅカの観劇は上質の娯楽だ。もし内容がはまれば、S席の金額を払っても惜しくないと思える。私が今まで見たタカラヅカの舞台も感動を与えてくれた。だが、本書を読むにあたって、私の心はタカラヅカの裏方の苦労や現実も知ってしまっていた。

心に深い傷を負った私がなぜ本書を手に取ったか。それは本書を読む10日ほど前、友人に誘われ、劇団四季の浅利慶太氏のお別れ会に参列したためだ。

浅利慶太氏は劇団四季の創始者だ。晩年は演出家としてよりも経営者として携わることの方が多かったようだ。つまり、理想では運営できない劇団の現実も嫌という程知っている。そんな浅利氏だが、すべての参列者に配られた浅利慶太の年譜からは、演劇を愛する一人の気持ちがにじみ出ていた。劇団四季の創立時に浅利慶太氏が書いた文章が収められていたが、既存の劇団にケンカを売るような若い勢いのある文章からは、創立者が抱く演劇への理想が強くにじみ出ていた。

ひるがえってタカラヅカだ。すでに創立から105年。創立者の小林一三翁が亡くなってからも60年がたつ。きっと小林翁が望んだ理想をはるかに超え、今のタカラヅカは発展を遂げたのだろう。だが、小林一三翁が理想として掲げた国民劇としての少女歌劇団と今の宝塚歌劇のありように矛盾はないだろうか。私には矛盾が見えてしまった。上にも書いた代表という制度の深い闇として。

もう一度ファンの望むタカラヅカのあり方とはどのようなものか知りたい。それが本書を読んだ理由だ。代表が嫌だからと駄々をこねて、すねていても仕方がない。タカラヅカから目を背けるのではなく、もう一度向き合って見ようではないか。

本書は私の気づいていなかった視点をいくつも与えてくれる。とても優れた本だと思う。

ヅカファンに限らず、あらゆるオタクは自らがはまっているものを熱烈に宣伝し、広めたがる。いわばエバンジェリスト。著者も例外にもれず、一生懸命ファンを増やそうとしている。中でも著者のターゲットは男性だ。

第一章では「男がタカラヅカを観る10のメリット」と題し、読者の男性をファンにしようともくろむ。たしかにここに書かれていることは分かる。モテる? まあ、私はタカラヅカに理解があるからといってモテた記憶はないが。ただ、タカラヅカを観ると意外に教養が身につくことは確かだ。もっとも、私が妻子に言いたいのは、タカラヅカが取り上げたから食いつくのではなく、元から自分の知らない世界には好奇心は持っておいてほしいこと。もっとも、極東の私たちが西洋の歴史など、タカラヅカがやってくれなければ興味が持てないのもわかる。そうやって受け身でみるからこそ、新たな知識が授かるのもまた事実。

第2章でも著者のタカラヅカ愛は止まらない。ここで書かれている内容も、妻からはたまに聞く。絶妙としか言いようのない世界。勧進元にしてみれば、完璧なビジネスモデルだと思う。ある程度放っておいても、ファンがコミュニティを勝手に運営し、盛り上げてくれるのだから。著者が挙げるハマる理由は次の五つだ。

(1)じつは健全に楽しめる。
(2)「育てゲー」的に楽しめる。
(3)財布の中身に応じて楽しめる
(4)年代に応じて楽しめる。
(5)「死と再生のプロセス」を追体験できる。

結局のところあらゆるビジネスはファンを獲得できるかどうかにかかっている。そして実際にタカラヅカはこれだけの支持を受けている。これはタカラヅカのコンテンツが消費者を魅了したからに他ならない。代表制度には矛盾を感じる私も、このことは一ビジネスマンとして認めるにやぶさかではない。

第3章では組織論に話が行く。ここは私にとっても気になった章だ。だが、ここの章では裏方には話が及ばない。代表の「だ」の字も出ない。あくまで表向きのスターシステムや組ごとにジェンヌ=生徒を切磋琢磨させる運営システムのことを紹介している。外向けには「成果主義」、組織内では「年功序列」、この徹底した使い分けがタカラヅカの強さの源泉である。と109ページで著者は説く。徹底したトップスター中心主義を支える年功序列と成果主義。さらに著者はそれの元が宝塚音楽学校の厳しいしつけから来ているという。

ここで私は引っかかった。最近は宝塚音楽学校もかつての厳しさがなくなり、生徒の親の圧力もあってかなり変質しつつある、と聞く。その割には、厳しい上下関係が代表の間でも守られる圧力があることも聞く。生徒間の軋轢の逃げ場が代表に行っているとなれば、ちょっと待てと思ってしまうのだ。たしかにタカラヅカはベルばらブームで復活した。それ以降は安定の運営が続いている。代表の制度などのファンクラブの組織もベルばらブームの頃に生まれたという。だから代表がタカラヅカの隆盛に大きな役割を担っているのは確かだろう。

そりゃそうだ。ジェンヌさんのこまごました身の回りのフォローも代表やスタッフがこなしているのだから。そしてその労賃はタカラヅカ歌劇団から支出されることはないのだから。代表制度は、ファンたちが勝手に作りあげた制度。宝塚歌劇としては表向きは全く知らぬ存ぜぬなのだ。

もちろん、今のジェンヌさんの活動が代表に支えられているのはわかる。メディア出演や舞台、練習。今のジェンヌさんの負担はかつてのジェンヌさんをかなり上回っているはず。今の状態で代表制度を無くせばジェンヌさんはつぶれてしまうだろう。それも分かる。日本社会のあり方は変わっている。昔は大手を振りかざして精神論をぶっても通じたが、今やパワハラと弾劾されるのがオチだ。

だが、それにしても代表に頼る風潮が生徒さんの間で濃くなってはしまいか。タカラヅカの文化を受け継ぐにあたってついて回る歪みやきしみや負担が代表にかかっている場合、代表制度が崩壊すれば、それはタカラヅカ崩壊につながる。

私が危惧するのは、宝塚の厳しい伝統やしつけとして受け継がれてきた文化が、じつは形骸化しつつあるのでは、ということ。しかもそれが代表制度への甘えとして出て来てはしまいか、ということだ。できればこの章ではそのあたりにも触れてほしかった。

本書で描かれるようなタカラヅカの魅力は確かにある。一観客としてみると、これほど素晴らしい世界が体験できることはそうそうない。そりゃ、皆さんだって劇場に足を運ぶだろう。だが、先にも書いた劇団四季も同じぐらい人々を魅了している。そして劇団四季にはそうした半ば公認され、非公認の私設ファンクラブなる矛盾した存在はない。劇団員がお茶会に駆り出されることもなく、舞台に集中できる仕組みが整っている。四季にできていることがタカラヅカにできない? そんなはずはない、と思うのだが。

裏方を知ってしまった私は、タカラヅカの今後を深く憂う。私が平静な心でヅカのCDを聞けるのがいつになるのかはともかく。著者の熱烈な布教にも関わらず、私の心は揺るがなかった。

‘2018/10/4-2018/10/4