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時をかける少女


筒井康隆展に行き、感銘を受けた事は『宇宙衛生博覧会』のレビューで書いた。
筒井康隆展はファンにとってうれしい内容に満ちていた。会場には、今まで著者が発表してきた名作たちがさまざまな形で紹介されていた。その中でも一つの空間を占めていたのが本書だ。
著者の名を広め、一つの作品として幅広い層から支持を得た作品だから当然だろう。本書と本書からマルチメディア展開したグッズの展示は圧巻だった。

その展示を見てからというもの、私の脳裏から『時をかける少女』のテーマソングが鳴り止まなくなった。
原田知世さんと松任谷由実さんのどちらもGoogle Musicで何度も聞いたが鳴り止まなかった。鳴り止ませるには映画をみるか、原作を読むほかない。

そう思っていた時、トランクルームに本を預けに行ったら、以前しまっておいた本の山の一番上に本書が覗かせていた。これは何かの啓示に違いない。
前回、本書を読んだのがいつだろう。全く思い出せない。おそらく私が著者の本を集中的に読んでいた1995年から1997年の頃に読んだはず。

正直、本書の内容はほとんど覚えていなかった。
なので、とても新鮮だった。また、なぜ本書、いや、本書の表題作がこれほど支持されているのか、今も支持されているのかが分かった気がする。

どこかで読んだ気がする説明がある。
それによると、本編が発表されてから50年以上がたつが、いまだにタイム・リープは実現されていない。
そのため、私たちにとって本編で描かれたタイム・リープの考えは今もなお、うらやましさの対象なのだ。
だから技術がこれだけ進歩しても、読者の心をときめかせ、古さを感じさせない。
それが、映画化は4回、テレビドラマ化は5回と繰り返しメディア化されてきた理由なのだろう。

そして新しいながらも、本編からは懐かしき少年・少女小説の折り目の正しさを感じる。
読者に著者が語りかけ、同意を求めるような語り口。ポプラ社の少年探偵団・シリーズや、ルパン・シリーズを読んだ時のような懐かしさ。そうした小説に親しんだ私のような層には、本編はたまらない思い出を蘇らせてくれる。

しかも本編は、少年・少女小説でありながら恋を描いている。
その恋も、子供っぽい初恋ではなく、未来の感性を予想した率直な告白なのがよい。
本書が発表されてから50年がたつが、このような形の告白はまだ一般的になっていない。だから今も本編が新鮮なのだろう。

もう一つ。本編には未来の技術がほとんど描かれない。本編には未来が関係するのだが、それにも関わらず、著者は書いた当時の技術しか登場させていない。
昔のSF小説を読むと、現代より遥か先の未来を書いていながら、すでに私たちにとって古く寂れた技術が登場し、私たちの興を殺ぐことがままある。本編にはそれがない。唯一「磁気テープ」が出てくる場面があり、その部分は著者自身の手によって書き換えてほしいと思う。
だが、それ以外に私たちがレトロだと感じる未来の道具は登場しない。それがよい。

そうした部分は著者が執筆した当時に考慮したのかどうかはわからない。
だが、結果として本書は今でも古びずに読み継がれている。そして幾度となく複数のメディアで作られ続けている。
著者が冗談で本編を称して「金を稼ぐ少女」というが、まさにそのような存在なのだろう。

続いての二編も、少年・少女の小説の伝統をよく受け継いだ語り口だ。

「悪夢の真相」
著者が心理学に造詣が深いことはよく知られている。
本編は、日常の出来事を深層心理の面から描いていく。大人にとってみると、何気ない日常は、子供にとっては重大であり新鮮だ。

そして、自分の考えがどれだけ以前の記憶によって左右されているか。どれだけ夢が過去の経験と結びついているか。
その記憶や経験は覚えていないものも多い。例えば胎児の頃、乳児の頃の記憶も含めて。

そうした子供の視点から日々の出来事を描いていくことで、本編は少年・少女にも心の不思議さを伝えている。
当時ではいまよりも新鮮な作品として存在感があったことだろう。残念なことに私は本編のことをほとんど覚えていなかった。それは多分、本編の筋書きに印象がなかったからだろう。
もちろん本編にはドラマチックな出来事が登場する。だが、細かくエピソードを積み上げ、背後に隠されていた過去の出来事に秘められた謎を明かす本編では、それはかえって印象に残らなかったのだろう。

「果てしなき多元宇宙」
これこそSF、と呼べるような一編だ。
多元宇宙とは、複数の異なる時空で時間軸が存在し、その中では地球や日本があったり、別々の意志を持った存在が生活を行っている。お互いは行き来できることもなく、存在すら知らない。
多元宇宙は設定上では自由に理論を設定できるので、SF作家には便利な存在だ。
おそらく昔から数えきれないほど類似の設定で物語が描かれてきたはずだ。

著者もその設定を借り、とある次元で起こった大事故によって複数の時空に影響を与えるまでになったと設定する。
それによって日本の平凡な女の子が全く違う時空に移動したり、日本で夢見ていた生活が実現できる、という物語だ。

こうやって三編を読むと、ライト・ノベルの創始者こそが著者である、という理由もわかる気がする。
いつまでも作品を発表し続けてほしいと願う。ちなみに私の脳内でヘビーローテーションしたテーマ曲は、本書を読んだことで終息した。

‘2018/10/24-2018/10/24


クォンタム・ファミリーズ


最近、SFに関心がある。二、三年前までは技術の爆発的な進化に追いつけず、SFというジャンルは終わったようにすら思っていた。だが、どうもそうではないらしい。あまりにも技術が私たちの生活に入り込んできているため、一昔前だとSFとして位置づけられる作品が純文学作品として認められるのだ。本書などまさにそう。三島由紀夫賞を受賞している。三島由紀夫賞は純文学以外の作品も選考対象にしているとはいえ、本書のようにSF的な小説が受賞することは驚きだ。本書が受賞できたことは、SFと純文学に境目がなくなっていることの証ではないだろうか。

本書は相当難解だ。正直いって読み終えた今もまだ、構造を理解しきれていない。本書はいわゆるタイムトラベルものに分類してよいと思う。よくあるタイムトラベルものは、過去と現在、または現在と未来の二つの象限を理解していればストーリーを追うことは可能だ。だが、本書は四つの象限を追わなければ理解できない。これがとても難しい。

私たちが今扱っているコンピューターのデータ。それは0か1かの二者択一からなっている。ビットのon/offによってデータが成り立ち、それが集ってバイトやキロバイトやペタバイトのデータへと育ってゆく。巨大な容量のデータも元をたどればビットのon/offに還元できる。ところが、量子コンピューターの概念はそうではない。データは0と1の間に無限にある値のどれかを取りうる。

本書のアイデア自体は量子論の概念を理解していればなんとなくわかる気もする。物事が0か1かの二者択一ではなく、どのような値も取りうる世界。0の世界と1の世界と0.75の世界は別。0.31415の世界と0.333333……の世界も別。そこにSF的な想像力のつけいる余地がある。今の世界には並行する位相をわずかに変えた世界があり、違う私やあなたがいる。そんな本書の発想。それは、並行する時間軸をパラレルワールドとしていた従来の発想の上を行く。

0と1の間に数理の上で別の世界がありえるのなら、別世界を行き来するのに数列とプログラミングを使う本書の発想もまた斬新。その発想は、別世界への干渉を可能にする本書のコアなアイデアにもつながる。そして、本書の登場人物が別世界への干渉方法やアクセスの糸口をつかんだ時、別世界とのタイムラグが27年8カ月生じる設定。その設定が本書をタイムトラベルものとして成立させている。その設定は無理なくSF的であるが、本書を複雑にしていることは否めない。

本書には都合で四つの世界が存在する。それぞれが量子的揺らぎによるアクセスや干渉によって影響しあっている。ある世界にが存在する人物が別の世界には存在していなかったり。その逆もまたしかり。しかもそれぞれの世界は27年8カ月の差がある。その複雑な構成は一読するだけでは理解できない。二つの象限を理解すれば事足りていた従来のタイムトラベルものとはここが大きく一線を画している。

違うパラレルワールドの量子の位相の違いで、同じひと組の夫婦が全く違う夫婦関係を構築する。そしてその位相に応じて家族のあり方の違いがあぶり出されてゆく。その辺りを突っ込んで描くあたりは純文学といえるかもしれない。本社は家族のあり方についても深い考察が行われており考えさせられる。だからこそタイトルに「ファミリー」が含まれるのだ。

村上春樹氏の「世界のおわりとハードボイルドワンダーランド」が批判的に幾度も引用されたり、四国の某所にある文学者記念館が廃虚と化している様子が描写されたり、かといえばフィリップ・K・ディックの某作品(ネタばれになるので書かない)で書かれた世界観が仄見えたり。それら諸文学を引用することで、文学の終わりを予感しているあたり、文学者による悲観的な将来が示唆された例として興味深い。

特に主人公は同じ人物が別世界の同一人物と入れ替わったり、性的嗜好が歪んでいたり、テロリズムに染まったりとかなりエキセントリックに分裂している。それほどまでに複雑な人物を書き分けるには、本書のようなパラレルワールドの設定はうってつけだ。むしろそうでも分けないことには、四つの象限に遍在する登場人物を区別できないだろう。

理想と現実。虚構と妄想。電子データで物事が構成される世界の危うさ。本書で示されるネット世界のあり方は、恐ろしく、そして寂しげ。このような世界だからこそ、人はコミュニティに頼ってしまうのかもしれない。

今、世界はシンギュラリティ(技術的到達点)の話題で持ちきりだ。しかし本書は2045年に到来するというシンギュラリティよりも前に、熟しきって腐乱しつつある世界を予言している。

本書を終末論として読むのか、それとも未来への警鐘として受け止めるのか。または単なるSFとして読むのか。本書は難解ではあるが、読者に無限の可能性を拓く点で、SFの今後と純文学の今後を具現した小説だといえる。

‘2017/04/04-2017/04/08


11/22/63 下


ジェイクがダラスにいる理由、そして過去にやって来た理由。それは、リー・ハーヴェイ・オズワルドによるジョン・F・ケネディ大統領の暗殺を阻止することだ。通説ではケネディ大統領の暗殺犯はリー・ハーヴェイ・オズワルド一人とされている。公式な調査委員会であるウォーレン委員会による調査結果でも単独犯という結論だ。しかし一方で、われわれはジョン・F・ケネディ大統領暗殺を巡ってたくさんの説が流布していることも知っている。マフィアによる、キューバによる、ジョンソン副大統領による、フーバーFBI長官による、、、きりがない。

本書を通して著者が一貫して採っているのは、リー・ハーヴェイ・オズワルドによる単独犯行説。オズワルドが逮捕直後の移送中にジャック・ルビーによって暗殺されたことや、魔法の弾丸の存在など、ケネディ大統領暗殺に関する謎の数々は依然として闇の中だ。著者はそれら全ての陰謀説を脇に置き、オズワルド単独犯を前提として話を進める。その真偽や著者の判断の是非はともかく、本書の筋の進め方としてはそれでいいのかもしれない。ジェイクはひたすらリー・ハーヴェイ・オズワルドの身辺調査に時間を割く。暗殺決行の前年、ソ連から新妻を連れて戻ってきたオズワルドの動向を、さまざまな手段を使ってウォッチする。1962年の時点で可能な最先端の機器を揃え、盗聴器をオズワルドの家に設置する。それによってオズワルドの動向の大半が本書でさらけだされる。その粗暴な性格もあわせて。著者が描くオズワルドは、とてもリアルで巧みに描かれている。ケネディ暗殺という大それた所業に手を染めてもおかしくないと感じさせるだけの狂気と正気を備えた人物として。本書下巻では、事細かにオズワルドの動向が記されている。それは同時にオズワルドについて著者が調べ上げた努力の跡を示している。私もケネディ大統領暗殺に関する本は何冊か読んできたが、事件の数年前からのオズワルドの足跡がここまで調べ上げられているとは思わなかった。本書で描かれているオズワルドの足跡がほぼ事実に基づいた著者による創作でないことは間違いないだろう。

本書を読んでいると、オズワルドの下劣さが際立って強調されている。オズワルドが正真正銘の暗殺犯かどうかはともかく、本書を読むとオズワルドに対して偏見を持つようになるのは間違いない。そもそもアメリカにあってオズワルドがどういう位置づけの人物となっているのか、私はしらない。ただ、少なくとも分かることが一つある。それは、スティーブン・キングという現代アメリカでも最高の人士がオズワルドについてどういう感情を持っているか、ということだ。

上にも書いたとおり、オズワルド単独犯には少々無理があると思う。1978年になって下院暗殺調査委員会が出した結論は、オズワルドには少なくとも協力者が一人いたとされている。私は陰謀説をことさら強調するつもりはない。とはいえ、本書の採る単独犯説には賛成できない。だが、本書の記述を読んでいると、単独犯説に傾きそうになってしまう。著者が何らかの組織や利益を代弁して単独犯説を世に広めるために本書を書いた。そんな妄想めいた陰謀論はやめにしたいところだ。だが、本書の結論が、アメリカ国内の定説をどの程度反映しているのかは気になる。ま、私がそれを知ってもどうなるものではないのだが。

ジェイクが遂行しようとする任務に対し、過去は一層抵抗の色を強める。歴史を変えられることを拒む過去自身の力は、ますますジェイクの周りに影響を及ぼそうとする。まずはセイディー。かつての夫がやってきてセイディーの顔に取り返しのつかない傷を負わせる。それはセイディーを二度と人前に立ちたくないと拒ませるほどの傷だ。その事件によってセイディーは愛するジェイクの正体を疑うどころではなくなる。しかしジェイクは、セイディーの頬についた二度と治らぬ傷を治すため未来で治療することを提案し、自分が未来から来たことをセイディーに告白する。そして、ダラスでの高校教師だけではオズワルドの行動ウォッチの費用がまかなえなくなっている今、滞在費を稼ぐためボクシングのチャンピオン決定戦に賭けるという行動に出る。

著者が上巻から打ってきた布石はここでも聞いており、ジェイクの勝ちは剣呑な胴元に疑いを抱かせる。そしてジェイクは胴元によって半死半生の目に遭わされることになる。ジェイクが遭遇した災難は、自らを変えられたくない歴史がした全力で抵抗した結果であることは言うまでもない。それによってジェイクの記憶は喪われ、体すらまともに動かせない状態になる。

刻一刻とケネディのダラス遊説の日は近づく。果たしてジェイクはオズワルドの凶行を止められるのか。ラスト数日のジェットコースターのような話の進み様は、著者お手の物とはいえ、息を止める思いで読み進んだ。さすがというしかない。

さて、ここから先の粗筋については、何も書くまい。これを読んだ方に本書を読んで頂きたいから。ただ、一つだけ。上巻で著者は、二度にわたってジェイクを1958年に行かせた。それはタイムトラベルのルールを読者とジェイクに分かってもらうためだ。そのルールとはこうだ。1958年で行った行為は、2011年に戻った時点では有効。しかし再度1958年に行った時点で、前回1958年で行った影響は全てリセットされる。これが本書の結末にとても大きな影響を与える。

全ての布石と伏線がかっちりとはまる様を堪能してほしい。そして物語の面白さを心行くまで味わってほしい。そして、目前に与えられたあらゆる選択肢を慈しみながら、極上の物語を書き上げた著者の才能をうらやんで欲しい。物語作家としてのスティーブン・キングの世界にようこそ、だ。

最後に一つだけ。本書の主人公はケネディ大統領でもなければ、リー・ハーヴェイ・オズワルドでもない。それどころか、本書は歴史に題を採ったサスペンスですらない。本書は愛の物語だ。このような形で結末を迎える愛の物語など、私は読んだこともないし聞いたこともない。モダン・ホラーの帝王としての名声をほしいままにしているスティーブン・キングが、紛うことなき愛の物語を紡ぎあげたのが本書だ。著者のストーリーテラーとしての本分を堪能できたことは幸せとしかいいようがない。著者の文才と、その世界を損なうことなく私に届けてくれた訳者には感謝するしかない。

本書をもって、2015年は幕を閉じた。2015年の読書は、実はスティーブン・キングの「第四解剖室」から始まった。そして本書という至高の読書体験で2015年は幕を閉じた。素晴らしい94冊たちに感謝だ。

‘2015/12/29-2015/12/31


11/22/63 上


現役作家の中でも世界最高峰のストーリーテラー。著者のことをそう呼んでも言い過ぎではないだろう。大勢の登場人物を自在に操り、複雑な言動の糸を編み上げて一つのストーリーを練り上げる力量。下卑た言葉も残虐な描写も含め、著者の作品から放たれる迫力には毎度圧倒される。

そんな著者の作品を注意深く分解してみると、実は単純な構造になっていること多い。大枠をシンプルにし、そこに補強材をあれこれ張り巡らせる。著者は補強材の張りかたが実に巧みなのだ。しかも、補強材には著者一流の俗っぽいガジェットを練りこみ、ディテールを豊かに貼り付けて現実にありそうな世界観に仕立て上げる。その巧みさゆえ、著者の世界観は輝きを放ち、活き活きとした世界観に魅了された熱狂的な愛読者が今日も世界のどこかで産まれている。私も熱狂度では劣るかもしれないが愛読者の一人である。

最近の著者の長編は、補強材の組み合わせ方にさらに磨きが掛かっているように思える。そのレベルはもはや常人離れしているといってもよいほどだ。そればかりか本書では、大枠の構造からすでに隙のない緻密さと大胆さを備えている。

本書は早い話がタイムスリップものだ。しかし、著者は本書を書く上で絶妙な設定を仕掛けている。その設定が本書を複雑でしなやかな構成に組み上げている。

本書の題名は米国で一般的な日付書式である。これを日本風の日付に直すと1963年11月22日となる。この日、ケネディ米大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。50年以上経った今も、アメリカの暗部を象徴した事件として人々の心に陰を落とし続けている。その陰の広大さは2001年3月11日の同時多発テロに勝るとも劣らない。

主人公ジェイクは、作家志望の高校教諭。ある日、行きつけのアルズ・ダイナーの店主アルに呼ばれる。前日に会ったばかりなのに、前日の姿とはかけ離れやつれ切った様子のアルは、ジェイクを店の裏の食糧庫へと誘う。そこは、1958年へと通ずる通路。つまりタイムトンネルになっている。

タイトルが示す通り、本書はケネディ大統領暗殺事件がテーマだ。そしてそのテーマに読者とジェイクを導くため、著者は本書に時間移動の仕掛けをもちこんでいる。本書を面白く読み応えのある内容にしたのは、時間移動の設定の妙にある。2011年側と1958年側を行き来するには、メイン州リスボン・フォールズのみ。2011年側はアルズ・ダイナーの食糧庫だが、1958年側は紡績工場裏手の倉庫。そこはいつでも行き来可能。そして、1958年側でどれだけ過ごそうとも、2011年側に戻った時点では2分しか経過しない。ただ、1958年側で過ごした時間、ジェイク当人の生物学的時間、つまり老化は進む。1958年側で過ごした時間が長かったアルは、ジェイクから見ると一夜しか経っていないが、肺がんの病状を瀕死の状態まで悪化させるほどに命を削る。また、1958年で行った行為は未来へと影響を及ぼすが、その改変は、もう一度2011年から1958年に戻った時点でリセットされる。この設定が絶妙で、本書全体の骨組みに大きな影響を与えるファクターとなる。

では、アルは肺がんを押してまで何を1958年側でやろうとしていたのか。アルはジェイクに何を託そうとしたのか。著者は読者をグイグイと小説世界に引き摺り込む。アルが過去の世界でジェイクに成し遂げて欲しいと願うことはただ一つ。1963年11月22日のケネディ大統領暗殺を阻み、未来を変革して欲しいこと。

過去を描く場合、普通は視覚的な情報の違いに頼ってしまいがちだ。例えば新聞の記事、変貌した景色、陳列された商品など。しかし著者は、2011年と1958年の違いを表現するにあたって聴覚と嗅覚も駆使する。著者はまず、1958年を描くにあたってジェイクの目に映る情報ではなく、耳と鼻に届く音と匂いを描く。目から映る過去の景色は、CGに慣れ過ぎた我々にはインパクトを与えない。CGが自在に過去の映像を再現しまうからだ。しかし耳と鼻が受け取る情報は別だ。今いたはずの場所から聞きなれない音が鼓膜を震わせ、鼻を衝く臭いが漂って来たら? アルズ・ダイナーの1958年は、紡績工場だった。蒸気が紡績機械を絶え間なく動かす轟音と紡績工場につきものの硫黄の匂い。これにより、ジェイクは単なるCGや仮想現実の世界ではない1958年に来たことを実感する。そしてそれは我々読者も同じだ。

以降、著者の手練れの筆は、あますところなく1958年の世界を描き出す。視覚・聴覚・嗅覚だけでは表現できない世界に。それは人々の話す言葉や辺りを取り巻く空気感でしか表現しようのない世界だ。いうなれば五感を統合する脳による感覚とでもいえようか。一言でいうとセンスと言い換えてもよい。1958年のエッセンスをジェイクと読者に届けるため、1947年生まれの著者は自らの幼少期の記憶を掘り起こし、持てる才能をフルに駆使する。

そのセンスは、ジェイクが最初に1958年に踏み出し訪れたケネベク・フルーツ商会での会話に凝縮されている。2011年にはもはや営業しているのかどうか定かではないほど老いぼれた店舗と店主。しかし、1958年のお店は繁盛し、商売も順調だ。著者の凄さは、ジェイクが店の中で交わす会話にも表れている。このシーンだけで、著者は1958年の時代のリズムやテンポまでも表現してしまう。著者の練達の文章を心行くまで味わえる名シーンといえよう。

では、1958年とは2011年からみて何がどう違うのか。これは案外難しい問いだ。洗練されてないデザインやITの手が入っていない日用品など、時代を感じさせる品物は多々あるだろう。それは、現代の日本人からみてもたやすく気づく違いだ。しかし、我々日本人が当時のアメリカにピンと来ないことが一つある。それは、1958年のアメリカとは人種差別が大手を振ってまかり通っていた時代ということだ。その描写は避けては通れない。そして本書はその点に抜かりなく触れ、有色人種専用トイレや専用エリアなどを登場させている。

1958年の時代感覚を表現するため、著者は徹底的に細かい描写を重ねて行く。ページを進めるごとに、読者とジェイクは徐々に1958年の世界観に慣れてゆく。その中で私はほんの少し違和感を感じた。違和感とは、普段の著者の作風と本書が違うことだ。たとえば、本書では著者が得意とする下卑た表現が控えられている。それは1958年という時代の保守的な空気を再現するためなのだろうか。それだけではない気がする。また、著者の作品ではおなじみのじわじわと読者の恐怖心をあおるような描写も鳴りを潜めている。さらに本書を読んでいて感じたのは、ジョン・アーヴィングの作品との共通点だ。あくまで私見であるが、本書で著者はジョン・アーヴィングの作風を参考にしたような気がする。本書からはジョン・アーヴィングの著作と同じ筋の組み立て方が感じられる。ジョン・アーヴィングの物語を読んでいると、過去と現在が頻繁に入れ替わる。トリッキーな飛び方ではないにせよ、登場人物の追憶の形で物語の時制は次々と切り替わる。その構成のテクニックや語り口を、著者は本書で参考としたのではないだろうか。本書上巻の14Pにはジョン・アーヴィングの名前が登場する。それは著者がひそかにジョン・アーヴィングへ向けた謝辞だったのではないだろうか。

ジェイクが受け持つ年配の生徒で、脳や足に障害を持っている校務員のハリー・ダニングがいる。ひょんなことからジェイクはハリーが幼少期、実父に殺されかけたことを知り衝撃を受ける。ジェイクにとって最初の過去行きは、こわごわとケネベク・フルーツ商会にいって自らがまぎれもない1958年にいることを確かめるだけだった。様子見もかねての。二度目の過去行きは、ハリーとハリーの家族を実父から救い出すための旅となる。

ジェイクの二度目の過去行は、メイン州デリーが主な舞台となる。デリーといえば、著者の幾多の作品で舞台となった架空の街として有名だ。そのうち、1958年のデリーが舞台となる作品がある。それは、著者の作品中でも傑作として多くの人が挙げるであろう『IT』。『IT』の作中で少年たちが不気味なピエロに襲われるのがちょうどこの頃なのだ。本書のこの部分では、その少年たちのことが噂として度々出てくる。おそらくは著者から愛読者へのファンサービスの一つだろう。

メイン州デリーでの下りは、種明かしすると本書そのものには大きく影響を与える部分ではない。だが、この二度の過去行きは、ジェイクにも読者にも必要な旅だったのだ。1958年の空気感と、本書そのものの構造を読者に知らせるための。その結果、ジェイクと読者は本書の時間旅行のルールを学ぶことになる。一度過去を変えると2011年に戻った時点では過去は改変されたまま。だが再び1958年に戻ることで、前回1958年で行った行為はなかったことになるルールを。著者はそのルールを読者に徹底させるため、二度に渡ってジェイクを1958年から2011年に帰らせたのだ。

ところが2011年。戻ってきたジェイクに後を託し、アルは帰らぬ人となってしまう。1958年への移動手段を知る人物はもはやいない。ジェイクに助言を行う人物も、過去を変えたことで恩恵を受ける人物も。二度の1958年への旅を通じ、あちらでの生活方法は大分呑みこめた。過去を変えることが未来をどう変えるかについても学習した。そしてもう一つ学んだこと。それは、過去は過去を変えられることを嫌がり、あらゆる方法で過去を変えようとする圧力に対し、抵抗するということ。それはアルが幾度も体験したことであり、ジェイクも二度目の1958年への旅で過去からの抵抗に妨害されて身につまされたことでもある。

次の過去行きは、ケネディ大統領暗殺を食い止めるための長い旅になる。そう覚悟したジェイクは三度目の旅に出る。1958年に踏み入れたジェイクはハリーや他の2011年で困ったことになっている人物の過去を変化させる。さらに、東海岸経由でダラスへと向かう。ここでも下巻に向けた伏線がいっぱい張られるので注意して読むと良いだろう。

ダラスでは身分を隠して教師の職に就くジェイク。2011年のジェイクは教師をしているから生活の糧には困らない。教職はお手の物というわけだ。1958年のジェイクは高校教師として2011年よりも成功を収める。未来を知っているから当然のことだろう。ジェイクは学校に取ってなくてはならない人物となり、同じ教師であるセイディーと恋仲となる。

順風満帆なダラスでの生活は、ジェイクをして2011年への郷愁を薄れさせるものだ。しかし、注意深く振る舞っていたはずのジェイクも、間違えてローリングストーンズの未発表曲を口ずさんでしまうという失敗を犯し、セイディーに拒絶されてしまう。果たしてジェイクは過去での生活を営みながら、ケネディ大統領を救えるのか。上巻だけでも充分な読み応えだが、本題はこれからなのだ。

‘2015/12/21-2015/12/29


ナミヤ雑貨店の奇蹟


帯に「一か八かの大勝負でした」との著者の言葉が記されている。大げさに思うかもしれないが、本書の難易度からすると、決して誇張した言葉ではない。

難易度といっても、内容が読者にとって難しいわけではない。難しいのはむしろ書き方だ。筋を破綻させずに辻褄を合わせ、なおかつ複雑な構成を読者に理解させ、楽しませる。本書で著者が自らに課したハードルは実に高い。特に本書のように時間の流れを自在に扱う小説となると、著者の力量が問われる。

昔からタイムトラベルものは、有名な作品がある。例えば「夏の扉」。例えば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」。例えば「ドラえもん」。本書にはこれら有名な時間旅行ものと違う点がある。それは本書には時間を旅する人物も猫も現れないということだ。替わりに本書の中で旅するのは手紙である。ナミヤ雑貨店という建物のシャッターに取り付けられた郵便受け。これが本書においてはデロリアンの役割を果たし、のび太君の勉強机の引き出しの役割を果たす。

廃屋と化したナミヤ雑貨店の建物。そこに忍び込む三人組から本書は始まる。ひょんなことから忍び込むことになってしまったナミヤ雑貨店で朝を待つことになる三人組。夜中、長らく下りたままのシャッターのポストから郵便物が落ちる音がする。こんな時間に誰が、というところから本書は始まる。ためしにその手紙に返信したところ、差出人の文章から判断すると、どう考えても過去からの返信にしか思えなくなる。

そうして三人組による返信から始まった手紙のやりとりは、本書を通じて色んな人々によって、時空を超えて行われるようになる。

本書は五章からなっている。
第一章 回答は牛乳箱に
第二章 夜更けにハーモニカを
第三章 シビックで朝まで
第四章 黙祷はビートルズで
第五章 空の上から祈りを

これら各章には、三人組以外にも音楽の夢を追い続けるミュージシャン、両親の夜逃げに戸惑う少年、年老いた養親のために経済的な野心を持つ女性などが登場する。彼ら彼女らは等しく人生に迷っている。そしてナミヤ雑貨店の店主が趣味でやっていた悩み相談に救いを求める。ナミヤ雑貨店のポストに悩みを記した手紙を投函すると、店主が独特の感性で返事を認める。その返事が気が利いていると、人々の心のよりどころとなる。そしてそれは店主が世を去り、ナミヤ雑貨店がもはや廃屋と化した現代にまで残り続ける。五章のそれぞれは、いづれもナミヤ百貨店の近隣を舞台としている。だが、それらは全て異なる時代が流れている。ITコミュニケーション全盛の今、インターネット前夜のバブル弾けた頃、高度成長期の昭和。これらの三つの時間軸を、ナミヤ雑貨店の手紙は行き来する。悩み事の告白とそれに対する回答を載せて。そこにはそれぞれの時代の中で人生を悩みつつ生きぬく人々の懸命さが流れている。

冒頭にも書いたように、著者は本書の複雑な時系列を乱さず矛盾も作らず、さらに本書の五章にわたる複雑な筋を破たんさせずに大団円に持って行くことに成功している。それは至難の業といえる。しかし著者はそれに加えて心温まる読後感を本書に添えることに成功している。そのアクロバティックな難度Eの技にはただただ驚き、翻弄されるのが本書の醍醐味だろう。

だが、本書からは別の読み方もできるのではないだろうか。

ナミヤ雑貨店の店主が趣味としていた悩み事の回答は、いつの時代にも需要があるだろう。今のネット界隈にだって、Yahoo知恵袋やOKWAVEなどQAサイトの形で健在だ。時空を超えたコミュニケーションが成り立つのが今のITの世だ。でもそこには人間味が薄味でしか残っていないとも言える。思うに著者は、ネットのコミュニケーションに血を通わせたかったのではないだろうか。そこに血を通わせ、身を入れ、温かみを与えるとどうなるのだろう。そんな試みをしたのが本書ではないかと思う。

ナヤミを相談するには、ミを真ん中に入れるだけで身の有る回答となる。それがナミヤ雑貨店の店主がこの世に残した奇蹟なのだ。

‘2015/5/13-2015/5/14