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片想い


本書はとても時代を先取りした小説だと思う。というのも、性同一性障害を真正面から取り上げているからだ。本書の巻末の記載によると、週刊文春に1999/8/26号から2000/11/23号まで連載されたそうだ。いまでこそLGBTは社会的にも認知され始めているし、社会的に性同一に悩む方への理解も少しずつだが進んできた。とはいえ、現時点ではまだ悩みがあまねく世間に共有できたとはいえない。こう書く私も周りに性同一性障害で悩む知り合いがおらず、その実情を理解できていない一人だ。それなのに本書は20世紀の時点で果敢にこの問題に切り込んでいる。しかも単なる題材としてではなく、動機、謎、展開のすべてを登場人物の性同一性の悩みにからめているのだ。

著者がすごいのは、一作ごとに趣向を凝らした作品を発表することだ。これだけ多作なわりにパターン化とは無縁。そして作風も多彩だ。本書の文体は著者の他の作品と比べてあまり違和感がない。だが、取り上げる内容は上に書いた通りラジカルだ。そのあたりがすごいと思う。

本書は帝都大アメフト部の年一度の恒例飲み会から始まる。主人公の西脇哲朗の姿もその場にある。アメフト部でかつてクォーターバックとして活躍した彼も、今はスポーツライターとして地歩を固めている。学生時代の思い出話に花を咲かせた後、帰路に就こうとした哲朗に、飲み会に参加していなかった元マネージャーの日浦美月が近づく。美月から告白された内容は哲朗を驚かせる。美月が今は男性として生きていること。大学時代も女性である自分に違和感を感じていたこと。そして人を殺し、警察から逃げていること。それを聞いた哲朗はまず美月を家に連れて帰る。そして、同じアメフト部のマネージャーだった妻理沙子に事情を説明する。理沙子も美月を救い、かくまいたいと願ったので複雑な思いを抱えながら美月を家でかくまう。

ここまででも相当な展開なのだが、冒頭から44ページしか使っていない。本書はさらに377ページまで続くというのに。これだけの展開を仕掛けておきながら、この後300ページ以上もどう物語を展開させていくのだろうか。そんな心配は本書に限っては無用だ。本書には語るべきことがたくさんあるのだから。

読者は美月がこれからどうなってゆくのかという興味だけでなく、性同一性障害の実情を知る上でも興味を持って読み進められるはずだ。本書には何人かの性同一性障害に悩む人物が登場する。その中の一人、末永睦美は高校生の陸上選手だ。彼女は女子でありながら、あまりにも高校生の女子として突出した記録を出してしまうため、試合も辞退しなくてはならない。性同一性障害とはトイレ、浴場、性欲の苦しみだけではないのだ。世の中には当たり前のように男女で区切られている物事が多い。

私は差別意識を持っていないつもりだ。でも、普通の生活が男女別になっていることが当たり前の生活に慣れきっている。なので、男女別の区別を当たり前では済まされない性同一性障害の方の苦しみに、心の底から思いが至っていない。つまり善意の差別意識というべきものを持っている。ジェンダーの違いや不平等については、ようやく認識があらたまりはじめたように見える昨今。だが、セックスの違いに苦しむ方への理解は、まだまったくなされていないのが実情ではないだろうか。

その違いに苦しむ方々の思いこそが本作の核になり、展開を推し進めている。だが一方で、性同一性障害の苦しみから生まれた謎に普遍性はあるのだろうか、という疑問も生じる。だがそうではない。本作で提示される事件の背後に潜む動機や、謎解きの過程には無理やりな感じがない。普通の性意識の持ち主であっても受け入れられるように工夫されている。おそらく著者は障害を持たず、普通の性意識に生きている方と思う。だからこそ、懸命に理解しようとした苦闘の跡が見え、著者の意識と努力を評価したい。

ちょうど本稿を書く数日前に、元防衛省に勤めた経歴を持つ方が女装して女風呂に50分入浴して御用となった事件があった。報道された限りでは被疑者の動機は助平根性ではないとのこと。女になりたかったとの供述も言及されていた。それが本当かどうかはさておき、実は世の中にはそういう苦しみや性癖に苦しんだり耐え忍んでいる方が案外多いのではないかと思う。べつにこの容疑者を擁護する気はない。だが、実は今の世の中とは、男女をスパッと二分できるとの前提がまかり通ったうえでの社会設計になっていやしないか、という問題意識の題材の一つにこの事件はなりうる。

いくら情報技術が幅を利かせている今とはいえ、全てがオン・オフのビットで片付けられると考えるのは良くない。そもそも、量子コンピューターが実用化されれば0と1の間には無数の値が持てるようになり、二分化は意味を成さなくなる。私たちもその認識を改めねばなるまい。人間には男と女のどちらかしかいないとの認識は、もはや実態を表わすには不適当なのだという事実を。

「美月は俺にとっては女なんだよ。あの頃も、今も」
このセリフは物語終盤366ページである人物が発する。その人物の中では、美月とは男と女の間のどれでもある。男と女を0と1に置き換えたとして、0から1の無数の値を示しているのが美月だ。それなのに、言葉では女の一言で表すしかない。男と女の中間を表す言葉がまったくない事実。これすらも性同一性障害に苦しむ方には忌むケースだろうし、そうした障害のない私たちにはまったく気づかない視点だ。これは言語表現の限界の一つを示している。そしてそもそも言語表現がどこまで配慮し、拡張すべきかというかという例の一つに過ぎない。

本書がより読まれ、私を含めた人々の間に性同一性障害への理解が進むことを願う。

‘2017/12/09-2017/12/11


継母礼讚


先日、「官能の夢ードン・リゴベルトの手帖」についてのレビューを書いた。本書は、その前編にあたる。続編を先に読んでしまったため、なるべく早く本書を読みたいと思っていた。

本書を読んで思ったこと。それは「官能の夢〜」が本書の続編ではなく、逆に本書が「官能の夢〜」のプロローグなのでは、という気づきだ。「官能の夢〜」に比べると本書のページ数はかなり少ない。本書で著者が挑んだエロスや性愛への探求。それは本書としていったん結実した。しかし、著者にとって本書は探求へのきっかけでしかなかった。本書で取り掛かったエロスや性愛への探求を、続編である「官能の夢〜」でより深く掘り下げた。そうではなかろうか。だからこそ本書は「官能の夢〜」のプロローグだという印象を受けた。

継子の少年フォンチートの小悪魔のごとき誘惑におぼれ、ルクレシアは一線を越えてしまう。「継母礼讚」とは、無邪気なフォンチートが父に読ませた、あまりに罪深い手記のタイトルだ。本書には、義理の母子の間におきた過ちの一部始終が描かれている。エロスや性愛を描くという著者の狙いは、ストレートだ。

「官能の夢〜」は、フェティシズムの観念的な思索に費やしていた。ドン・リゴベルトの手帖に記された手記の形をとって。本作は、エロスや性愛の身体感覚の描写が主となっている。その描写は執拗だが、エロスや性愛の表面的な描写にとどまっている。エロスの観念的なところまでは降りていないのだ。だが、性愛とはつまるところ身体感覚の共有であり、その一体感にある。

エロスが身体感覚である主張を補強するかのように、フォンチートとルクレシア、ドン・リゴベルトの危うい関係の合間に、本書ではリゴベルトやルクレシアやフォンチートや侍女のフスチニアーナが登場する異世界、異時代の挿話を挟んでいる。そこでの彼らは世俗と超越している。そして俗世のしがらみなど微塵も感じられない高尚で清らかな存在として登場する。異世界の彼らからは精神的なつながりは一切感じられない。思考の絡みはなく、肉体的な関係として彼らをつないでいる。といってもそこには性欲や性愛を思わせるような描写は注意深く除かれている。あくまでそこにあるのは肉体の持つ美しさだけだ。だから本書には性交をあからさまに描写して、読者の欲情を催させる箇所はない。本書が描く性愛やエロスとは、性欲の対象ではないのだ。

そのイメージを補強するかのように、本書の表紙や冒頭に数枚の絵が掲げられている。いずれも裸体の女性と子供が描かれており、その姿はどこまでも妖艶だ。しかしそこにみだらさは感じられない。美的であり芸術的。それは本書の語る性愛やエロスにも通じる。

義理の母子に起きてしまった過ちは道徳の見地からみると罪なのだろう。しかし性愛そのものに罪はない。フォンチートとルクレシアの行いは、リゴベルトとルクレシアがそれぞれの身体感覚に忠実に営む行いと根源では等しいのだから。少なくともしがらみから解き放たれた本書の挿話や冒頭の絵画から感じられるメッセージとは、性愛自身に罪はないことを示している。

著者は、本書と「官能の夢〜」の二冊で、性愛とエロスから社会的通念や、ジェンダーの役割を取り除き、性愛それ自身を描くことに腐心しているようだ。その証拠に「官能の夢〜」では、リゴベルトに道化的な役割まで担わせ、男性としての権威まで剥奪しようとしている。

性愛とは極言すれば生物の本能でしかない。脳内の身体感覚や、脳内の嗜好-ちまりフェティシズムに還元されるものにすぎない。だが、著者の訴えたいエロティシズムとはそこまで還元し、立ち返らなければ掴めないのかも。

だからこそ、本書と続編である「官能の夢-ドン・リゴベルトの手帖」は対で読まなければならないのだ。

‘2016/10/27-2016/10/28


共喰い


「もらっといてやる」発言で有名になった著者。「もらっといてやる」とは、芥川賞受賞の記者会見で著者が語った言葉だ。候補に挙がって5度目にしての受賞。聞くところによれば候補に選ばれた作家は、編集者とともにどこかで当選落選の知らせを待機して待つそうだ。多分、著者の発言の背景には今までの落選の経緯も含めたいろんな思いがあるのだろう。Wikipediaの著者のにも発言についての章が設けられ、経緯が紹介されている。

私はもともと、作品を理解する上でクリエイター自身の情報は重要と考えない。そうではなく、作品自体が全てだと考えている。なので、作家であれ音楽家であれクリエーターその人には興味を持たないのだ。上記の発言によってクローズアップされてしまった著者の記者会見の様子も、本稿を書くにあたって初めて見たくらいだ。世間に慣れていない感じは、一見するとリアルな引きこもりにも見える。だが、ただの緊張から漏れ出た言葉ではないかとも思う。

でも、結果を出したのだから引きこもりだっていいじゃないの。そう思う。厳しいようだが、結果を出せないのなら引きこもりは同情に値しない。でも、著者は聞くところでは一切の職業を経験していないという。それなのに、ここまで濃密な物語や世界観を構築できるのはすごいことだ。本書の末尾には瀬戸内寂聴さんとの対談が収められている。対談では源氏物語の世界で盛り上がっていた。そこでの著者はいたって普通の人だ。極論を言えば、著者のように一切就職しないくらいの覚悟を秘め、とんがった生き方をしなければ受賞などおぼつかないのだろう。著者の受賞は、就職したくなかったかつての私にとって勇気づけられるし、うらやましい。

さて、本書だ。芥川賞受賞作の常として、本書にも二作が収められている。

まずは表題作であり受賞作である「共喰い」。

主人公は17歳の篠垣遠馬だ。時は1988年というから、著者と同年代の人物を描いている。すべての17歳がそうではないのはもちろんだが、性に渇望する年代だ。もっとも、遠馬の場合は会田千種というセックスの相手がいる。若く性急で、相手を思いやれない動物的な交接。遠馬は、そんな自分の飢えに気づく。というのも、父の円の姿を見ているからだ。円は仁子さんに遠馬を生ませると、セックスの時に暴力をふるうという悪癖が甚だしくなった。仁子さんはそんな円に愛想を尽かし、川向うへ移って魚屋を営んでいる。そして円はあらたに琴子さんという愛人を家に入れ、遠馬は父と愛人との三人で住んでいる。

そんな性と血に彩られた川沿いの田舎町の情景は、下水の匂いが立ち込めている。魚屋の仁子さんの店には鰻が売られていて、仁子さんの右手首は義手だ。鰻と義手は、いうまでもなくペニスのメタファーだろう。下水が垂れ流される川も、どこか排泄行為や射精を思わせる。

本書は遠馬の暴力衝動がいつ発動するか、という着地点に向けて読者を連れていく。発動をもっとも恐れているのは遠馬自身で、実際に千種に暴力衝動の片りんを見せつけてしまう。それがもとで千種に会うのを避けられる遠馬は、性のはけ口を見失う。そんな17歳の目には、町のあらゆるものが性のはけ口に見えてゆく。例えば頭のつぶれた鰻であり、仁子さんの右腕であり、下水の汚れであり。

本書の結末はそんな予想を覆すものだ。仁子さんが円を右義手で刺し殺すという結末。それは、女性による暴力の発動という点で意表をつく。それだけではない。その殺人がペニスのメタファーである義手で行われたことに意味がある。多分、暴力の円環を閉じるには円自身ではいかんともできず、仁子が手を下さなければならないということなのだろう。そしてその代償は、円自身の暴力性の象徴であるペニスのメタファーでなくてはならなかったはず。

暴力の輪廻が閉じたことを悟った遠馬は、自らの中にある暴力衝動をはっきり自覚する。そして、それを一生かけて封印せねばならないとの決意を抱く。そのあたりの彼の心の動きが最後の2ページに凝縮されている。遠馬の封印への決意は、下水設置工事が裏付けている。川に直接流れ込んでいた下水が、下水整備によって処置されて海に流される。その様は、暴力衝動によって知らぬ間に傷ついていた遠馬のこころの癒しにもつながる。

そこに本書の希望がある。 「共喰い」の円環は閉じ、17歳の少年が健やかに成長していく希望が。

もう一作は「第三紀層の魚」。

第三紀層とは、本作にも説明が書かれているが、6500万年前から180万年前の日本列島が出来上がる時期の地層を指す。その時期に堆積した植物が今、石炭として利用されているのだ。そして、石炭はいまや斜陽産業。

主人公信道の住む町は、かつて石炭産業で栄えていた。だが、石炭産業の斜陽化は、街に閉塞感をもたらしている。加えて信道の家は、母と祖母と曽祖父の4世代がすみ、それぞれの世代が1人ずつという珍しい構成だ。曽祖父の回顧話を聞かされる役回りの信道にとっては、現代とは全てが過去に押しつぶされているようにも思える。だが、チヌ釣りの師匠としての曽祖父が持つ知恵は、信道に恩恵も与えてくれる。

釣りとは水の下に沈む魚を海面の上へと引き上げる作業だ。日の当たる場所への上昇。過去のしがらみに押しつぶされそうになっている信道の家にも、上に引き上げられるチャンスはある。そのチャンスが母の身に訪れる。東京への栄転だ。

本作は、地元を離れる信道の葛藤と、曽祖父の死で東京に行く決心をつける経緯が描かれる。地方から東京へ。それは、一昔前の日本にとっては紛れもなく立身出世への道だったと思う。本作は、そのような地方の閉塞感を、第三紀層という途方もない深さの地層に見立てた作品だ。地方創生が叫ばれる今だが、その創生とは、第三紀層を掘りつくさないと実現しないのか。それとも第三紀層の上に立派な地面を敷き詰めるところにあるのか。そんなところも考えながら、本作を読んだ。

最後に本書には、瀬戸内寂聴さんと著者の対話が収められている。源氏物語についての話題が中心だが、それだけではない。対談では、寂聴さんから著者への作家としての生き方の励ましでもある。小説を書くことでしか証が立てられない生き方とは、一見すると不器用に思える。でもその生き方はありだと思う。そして、とてもうらやましい。著者だけでなく読者をも励ます対談。実は私は瀬戸内寂聴さんの著作は一冊も読んだことがない。だが、この対談であらためて寂聴さんに興味を持った。作家としての覚悟というか、生きることの多様性をこの対談で示してくれたように思う。ビジネスの世界に住んでいると、目の前の課題に集中してどうしても視野が狭くなってしまう。その意味でも、この対談は読んでいて自分の視野狭窄を思い知らされた。また、対談では著者はとても素直に受け答えをしている。そこにはコミュニケーション障害などという言葉は断じて感じられない。この対談は、冒頭に書いた受賞会見で妙な印象がついてしまった著者の人物像を正しく見直すために、とてもよいと思う。

‘2016/07/01-2016/07/03


ひとりの体で 下


上巻のレビューの最期で、本書にまつわるほとんど布石が撒かれ尽したと書いた。下巻では冒頭からミス・フロストが実は男であったことが著者に明かされる。実は上巻で主人公とミス・フロストが結ばれるシーンでは、ミス・フロストは主人公に注意深く挿入させず、裸も晒さなかった。そのため、そうとしらずに思いを遂げたと信じた主人公に衝撃が走る。さらに主人公はミス・フロストが自らの学校の卒業生であることを知る。そして、学校に残されたイヤーブックからミス・フロストの素性を探る中、自分の前から姿を消した実父の姿もイヤーブックから探り当てる。

男が女に姿を変えることは可能。今でこそ、そのようなことは誰でも知っている。が、60年代が始まったばかりのアメリカでは、それは容易なことではなかったはず。ましてやそれが、主人公の親の高校時代1930年代となれば。

高校を去るにあたり、主人公はミス・フロストと別れの儀式としてレスリングの技を伝授される。かつて男だった時、レスリングのチャンピオンとして有望だったというミス・フロストは、将来同性愛者として迫害を受ける恐れがある主人公に、護身術を贈ったのだ。そしてまた、キトリッジもまた高校時代はレスリングで鳴らしていたことが述べられる。キトリッジがミス・フロストへ向ける視線はまた、キトリッジの性癖がヘテロセクシャルのそれでないことを連想させる。本章から連想させられるのが、肉体を密着させるレスリングという競技と同性愛の関係である。著者もそのあたりの危険は考えていたとは思うが、この描写はかなりレスリング界からの論議を呼んだのではないだろうか。私自身、レスリングについての偏見は持っていないつもりだが、本書を読んで以来、意識しないと云えばうそになる。上巻のレビューでも書いたが、著者の作風は著者自身の人生を誤解させかねない危険がある。それは、著者のレスリングへの思いも誤解させかねないことにも繋がる。少し微妙なシーンである。

高校を卒業した主人公は、ヨーロッパへと旅立つ。誘ったのは、予てから主人公に熱烈な崇拝を捧げていたトム。トムからの誘いを機会とし、主人公は青年期に生活を送ったフェイヴォリット・リヴァーから去る。それはミス・フロストやエレインやキトリッジへの思い出を置きざりにすることとなる。もちろん、下巻でも折に触れ、三人の名前は登場するのだが。ヨーロッパでは主人公とトムとの仲は上手くいかなくなり、ウィーンに落ち着いた主人公は、バイセクシャルである自らをカミングアウトする。しかしカミングアウトの発端は、キトリッジへの思いではなく、トムからの同性愛としての崇拝だった。上巻と下巻を含めた全体に言えることだが、主人公の性的嗜好の原因の多くは外的なものである。主人公が進んで身を投じる能動的な描写よりは、主人公が受け身に回るシーンが多いように思える。それでいて、同性とのセックスにおいて、主人公はトップとして自覚する。ヘテロな私にはそのあたりの心理的な部分が理解できないが、面白いところである。

下巻は、祖父をはじめ、主人公の周りの人々が次々に死んでゆく。ハイスクール時代の仲間達はベトナム戦争やその他の人生の障害によって死んでゆき、一緒にヨーロッパにいったトムは堅い職業につき、自らの性的嗜好を隠したまま女性と結婚して一家をなす。キトリッジは実の母とのセックスに耽っていたことが発覚し、以来、主人公の前から姿を消す。それらは人生につきものの別れであり、それらの別れを経て主人公は作家としての熟成を高めてゆく。そんな中、父がスペインにいることが明かされる。ここで、本書は終わってもおかしくなかった。事実、次の章は「エピローグの世界」と名付けられている。

しかし「エピローグの世界」と次の「自然的原因ではなく」は、本書を語る上で避けては通れない章である。なぜなら、ゲイやバイセクシャルについて回るAIDSの章だからだ。両章では80年代を席巻したAIDS禍による様々な悲劇が書かれている。私も数冊、AIDSに関する本は読んだことがある。しかしこの両章で書かれたAIDSの実態は、それらに勝るとも劣らない。作家的な技巧が悲劇を彫琢し、患者の悲惨な末路を色濃く印象づける。トムもまた、その中で病に蝕まれてゆく。主人公と床を共にしたパートナーたちもまた、次々とAIDSの毒牙に掛けられてゆく。しかし主人公はなぜかAIDSには犯されない。そのあたりの不条理なことも描きつつ、社会的なマイノリティを狙い撃ちするかのようなAIDS禍の実態を、著者はえぐるように書き続ける。

本章は「エピローグの世界」と名付けられているが、内容は下巻の幹を成すものだ。公式には著者はゲイでもバイセクシャルでもないそうだ。しかし、実際に80年代にこうした悲劇を目撃したという。作家として人間として、後世に語っておかねば作家の魂が許さなかったのかもしれない。それはゲイやバイセクシャルとして生きることの苦しみに添ったものではなかった。また著者自身による蔑視がゲイやバイセクシャルへ注がれていた訳でもない。本書では様々なゲイを指すスラングが登場し、それらのスラングに蔑視の意味が含まれていることは承知の上で書かれている。しかし、著者自身がそういった性的嗜好についての侮蔑の念を抱いていたとは思えない。AIDSの悲惨な実態を知ってしまったものとして、自分の嗜好や性的マイノリティの人々への蔑視に関係なく、ゲイやバイセクシャルの間で蔓延してしまったAIDSという業病のことは、どうしても書かずにはいられなかったのであろう。上巻のレビューで、著者が作風柄受けがちな作中のエピソードと著者個人のエピソードが混同されるリスクを覚悟で、性を前面に出した本書を書いたことを指摘した。おそらくはそこにはAIDSの実態を書かねばならないという思いも含まれていたのではないだろうか。

最終章、作家として名を成した主人公は、60年代のフラワームーブメントを経て、AIDS禍の80年代を乗り越え、同性愛が一定の理解のある現代に住んでいる。フェイヴォリット・リヴァーで教壇に立つという機会も得、劇団で演劇指導も行っている。それは自分を育ててくれた祖父母や母、継父のように。昔のようにシェイクスピア劇ができる環境ではないが、作家としての老境を不満も抱かずに過ごしている。そしてなお、主人公の人生に影響を与えた人々の動向は風の便りに聞こえてきている。しかしそこにはもはや、かつてのような濃密な空気はない。性的嗜好のことなることがこれほどまでに人の人生にインパクトを与えていたのか、といわんばかりに。性的嗜好が自由になった今、人間関係までも軽やかになってしまったかのように思わされる。

上巻のレビューで著者がよく用いるモチーフを挙げた。その中に敢えて書かなかったが、著者の作品に必ずと言ってよいほど出てくるモチーフがある。それは再会である。終章で、70歳になろうとする主人公は自分の人生に影響を与えて行った人で、最も重要な人に再会する。その人は、本書、または本レビューを読んだ方にはお分かりだと思う。主人公の実父である。主人公が性的に翻弄された人生を送ってきた間、実父はスペインで同性のパートナーを伴侶とし、長く平穏な同性愛者としての人生を送ってきた。そこにはもはやなんの驚きもなかったが、本書の締めくくりとしては、一番納得のいく再会といえる。

丁度本作のレビューを書いている時、世界的にゲイ・バイセクシャルからの献血が解禁方向にあるとの記事を読んだ。80年代のAIDSに震撼した世界が、ようやく落ち着きを取り戻しつつある兆候なのかもしれない。ゲイ・バイセクシャルへの言及がそれほどエキセントリックでもなくなった今、実はまだそれらの世界は大手を振って表舞台に出ているとは思えない。ここまでレビューを書いてきた私も実は、ゲイの世界はよく分かっていない。ビデオの類も見たことがなく、明らかにゲイの世界を描いたと思しき小説も「禁色」か「フロント・ランナー」くらいしか読んだことがない。しかし、ゲイ・バイセクシャルを扱った文化が表に出ても良い気がしている。むしろ、音楽の世界ではかのY.M.C.Aがそうであるように、随分前からミュージシャンもカミングアウトし、歌詞にもゲイ文化を表現する文化が盛んだ。小説も続々と世に問われてもよいのかもしれない。

とはいえ、それは私が単に知らないだけに過ぎないともいえる。かつて三島由紀夫が「禁色」を世に問うたように、世界的な作家がゲイ・バイセクシャルを世に問うことは私のような無知なるものにとって良いのかもしれない。その意味でも、世界的に名の知られている著者がこういった題材を選んだことは、性的マイノリティにとっても或いは福音といえるのかもしれない。とすれば、本書はまさにエポックメイキングな一冊といえるのだろう。20世紀に性文化の多様性が一気に花開いたことを、本書が後世に証明することになるかもしれない。

‘2014/12/8-2014/12/11


ひとりの体で 上


著者の作品はほとんど読んでいる。どれも壮大なスケールの大きさと、細部まで行き届いた描写がない交ぜになった傑作である。

愛読者にはよく知られていることだが、著者の作品には特定のモチーフが様々に登場する。熊、軽業、レスリング、飛行機、母への思い等々。それらモチーフを小出しにしつつ、壮大な旅路を突飛な挿話の数々と共に歩むのが著者の作品に共通する構成となる。

著者の一連の優れた作品もここ数作は、幼少期より老境に至るまでの人生を大河のように下るような内容となっている。まるで老境に入った著者自身の生を総括するかのように。それらは、遺された作家生活の全てを振り絞り、あらゆる生の有り様を純化して、文章の中に彫り込んだかのように想わされる力作揃いである。

細かいエピソードを集めて一本の筋を作り上げる描写をお手の物とする著者だけに、それら作品では、些細な挿話が主人公の人生を様々に彩る。それら些細なエピソードは、著者が自分自身を事細かに語るかのような細やかさに充ちている。余りのリアルさに、読者によっては、これらの作品は著者自身の自叙伝であると思う向きもあるかもしれない。そう錯覚してもおかしくない。もちろん、全ては著者の創作である。だが、読む人によって作中の想像力に基づいたエピソードと著者個人のエピソードを混同して受け止めることもあり得る。その可能性は避けられないだろう。性的な嗜好や描写満載の本書などは、まさにそのリスクが溢れるばかりに詰まっていると思う。

これは私の推測だが、著者の長い作家生活の中で、そのことを恐れていたのではないだろうか。つまり、作風のエピソードからそのように私生活が勘違いされるリスクを。元々、著者の作品には性的な描写が頻繁に随所に現れていた。が、本書のようにテーマとして前面に出した作品はなかったと思う。だが、本書は性という、ある意味では人間存在の根源へと迫っている。しかも性を生殖の手段として取り上げていない。つまり男と女の関係だけではなく、男と男、性転換、フェティシズムなど、人間のある限り避けては通れない文化の一つとして様々な性の姿を取り上げている。本書は、老境に入った著者が、私生活と本書の内容を混同されるリスクを省みず、畢生の大作のつもりで性を世に問うた一作ではないか。そう思った。

著者の作品にとって筋を追うことはあまり重要でない。というより、本書のように無数に入り組んだ筋を紹介するには、私の文章では心もとない。むしろ筋よりも、章ごとの主人公を取り巻く境遇を説明する方が相応しい。

主人公は発音障害を患う十三才の少年として読者の前に登場する。一緒に暮らすのは、母と母方の祖父母との四人。実父は母によれば「ほかの人とキスしてるのを見ちゃった」ことで別れたことになっている。母は地元劇団のプロンプターをやっており、その劇団には祖父母も俳優として所属しており、祖父は専ら女形を得意とした役者として女装に磨きをかけている。

主人公は町の図書館でミス・フロストに恋をする。それは少年が漠然と抱く憧れにも似た恋心ではない。セックスしたいという、直接的な欲望を伴ったものだ。

本書の語り手は作家として名を成した、七十代にならんとする老境の語り手である。語り手が自分の少年時代から自分の人生を振り返るというのが本書の構成となる。

語り手である主人公は、自らの作家人生の出だしが、ミス・フロストの手解きにあることを述壊する。図書館の司書であるミス・フロストは、少年に読むべき本を指南する。「トム・ジョーンズ」や「嵐が丘」、「ジェーン・エア」などの自分と不適切な相手と恋する話を。ミス・フロストの薦める本は周到になっていて、まずは不適切な相手への恋物語から、そののち、主人公の成長につれて薦める本に工夫を加えてゆく。異性に恋する話だけではなく、同性もその対象に含まれるような話も。上巻は少年が作家となるまでの成長の話でもあるが、自分の性的嗜好を育ててゆく内容にもなっている。そして、主人公がミス・フロストに対する思いを遂げ、クライマックスを見せる。

その間、主人公は地元の寮のある学校(フェイヴォリット・リヴァー)に入り、多感な青春期をすごす。母はその学校の教師であるリチャード・アボットと再婚し、主人公の父役のバトンは祖父から継父へと受け継がれる。ただし主人公は寮生であり、家にいない。そのため、継父が父として主人公に接するのは専ら教師の立場としての教育面に限られる。つまり、情操教育を担うべき父不在のまま、主人公は成長していく。姿を消した実父は第二次大戦の英雄でありながら、「ほかの人とキスしてるのを見ちゃった」ことで母と主人公の前から姿を消し、祖父は劇団で女装姿の似合う祖父として主人公の情操に影響を与える。

上巻では合間を縫って、バイセクシャルとして生きる青年時代の主人公の挿話が挟まれる。時代はまだ1950年代から1960年代に移ろうとする時期。ヒッピー文化の開花にはまだ早い時期である。フラワーチルドレンもまだ時代の先におり、フリーセックスもまだ時代に抑圧されている。古き良きフィフティーズ末期である。そこで主人公はウィーンでの日々を送る。ウィーンもまた、著者お得意のモチーフの一つである。ゲイが市民権を得る前のウィーンの社会状況も豊富に描かれる。ガールフレンドであるエズメラルダとのセックスも経験するが、一方でトップかボトムか、といったゲイ文化にも造詣を深めてゆく。本書においてウィーンという場所設定は、著者が好むモチーフである以前に、主人公の性的成長を遂げる舞台としては、真に相応しく思えた。

著者の作品は、空間と時間を行き来して語るのが特徴的だ。しかし、本書では基本的な時間の流れは、過去から未来への時間として流れている。時間軸を行き来するのは、いくつかの合間に挟まるエピソード紹介のほかは、ウィーンでの挿話だけである。理由は語り手である主人公自身が作中で独白している。バイセクシャルとしての主人公を語る上では、女性との普通のセックスは通っておかねばならないからであろう。本書はいずれの性的嗜好にも属さず、しかもそれで疎外感を覚えることなく老境まで生き延びた男の話なのだから。

ウィーンの挿話は終わり、1963年のウィーンから、再び50年代終盤のヴァーモントへ。

寮生活を送る中、劇団で娘役を祖父から受け継ぐ主人公は、全寮制の学校で閉鎖的な寮の中でエレインというガールフレンドを得る。さらには、年下の少年トムから熱烈な崇拝を浴びる。しかし主人公の恋心は、同じ寮のキトリッジという餓鬼大将的な少年に向く。キトリッジは主人公に色々とちょっかいを掛けてくる。女性的な面を目ざとく発見し、ニンフというあだ名をつけて。エレインとの仲も詮索しては大声でからかいの声を投げつける。それなのに主人公はキトリッジが気になってしまう。そのあたりの同性への思慕の情が、ぎりぎりの曖昧さで描かれる。

性的に早熟な振りをするキトリッジは、結果として主人公とエレインが結ばれ「かける」のに手を貸す。そのくせキトリッジ自身は主人公にとってミステリアスな存在のまま学校生活を送る。エレインはその一夜のことが原因で、主人公との仲を疑われ、離れた学校へと遠ざけられる。しかしエレインとのドタバタの中、エレインのブラジャーは主人公の手元に残り、主人公にフェティシズムの何たるかを間接的に教えることとなる。

主人公は自分がはっきりと恋する対象がエレインではなく、キトリッジであることに気付く。そしてその告白をミス・フロストに告げる中、とうとうミス・フロストと結ばれることになる。ミス・フロストが本当は男であることに気付かぬまま。そしてその場を祖父に見つかってしまい、一方で、母によってエレインのブラジャーは切り刻まれてしまう。このあたりの流れは、ややこしいが、様々なメタファーや布石があちこちに置かれていて、実に興味深い。それらは全て主人公の性的嗜好の成長にとって欠けることのできないピースとなり、下巻で効果を発揮する。

上巻の終わりまでに、主人公を巡る性的冒険の布石はほぼ撒かれ尽した。読者はすでに主人公がバイセクシャルの作家であることを知っている。このあと、下巻では上巻で撒かれた多数の布石が著者の手によって拾い集められてゆく。いかにしてバイセクシャルの作家は、人生を生き延びたか、について。

‘2014/11/28-2014/12/6


時計じかけのオレンジ


本書は今さら言うまでもなく、スタンリー・キューブリック監督による同名映画の原作である。念のために書いておくと、本書は映画のノベライズ小説ではない。小説が先にあり、それに後追いして映画が作成された。

なぜこんなことをわざわざ書くか。それは私が本書を読むのが初めてだからである。しかも、かなり以前に映画版を見終えている。

有名な映画の多くは、母体となった小説を基にしている。中には小説版の存在を知られぬまま、映画だけが独り歩きするケースがある。本書もまたその一つといえるだろう。

私にとっての本書もそのような存在であった。ならば原作も読まねばなるまいと、本書の存在は長く心に沈殿していた。そんな中、昨年読んだのが、三上延「ビブリア古書堂の事件手帖」である。その中で本書は取り上げられていた。その中で幻となった21章についての言及があり、映画版も長年流通していた版も21章については削除されていたことを知る。そんな経緯があって改めて手に取ってみたのが本書である。

映画では印象的なフレーズとして「デボチカ」「ホラーショー」「マレンキー」といった言葉(ナッドサット語)が使われている。私はうかつにもそれらの言葉がロシア語に起因することに気づいていなかった。しかし、本書を読めばそれらはスラヴ語から派生した言葉であること理解できる。なぜなら冒頭で作者自身が解説を補っているから。

小説と映画の理想的な関係でよくいわれることがある。視聴覚イメージは映画が得意で、内なる思考や状況説明は小説に利があると。

本書と本書の映画版の関係もそれに似ている。上述のナッドサット語についての解説もその好例である。字面で読んでいくと頻出するナッドサット語がスラヴ語であることに容易に気が付くが、映画だと勘が良くないと気が付かないかもしれない。(私だけかもしれないが)。いささか論文的で回りくどい解説であるが、あることで小説世界の理解は進む。

状況説明についても同じことがいえる。舞台が全体主義国家であることは映画版でもわかるのだが、あからさまにソビエト連邦による支配下にあるイギリス、といった構図は本書を読むことで理解が及ぶ。また主人公のアレックスの内面描写も本書に一日の長があるといえる。映画版だと暴力嗜好や性的欲求、第九への愛着などの内面の理由が曖昧なままで、ただ粗暴な人間としてのアレックスしか見えない。

しかし映画には映画でしか出せない点がある。本書を読む事で、キューブリック監督の翻案の素晴らしさに改めて思い至った。アレックスの感情の推移は主演のマルコム・マクダウェルが演技からある程度推理できる。とはいえ、「雨に唄えば」を口ずさみながら暴力に及ぶといった臨場感は映画ならではのものがある。これは映画化にあたっての脚色とのことだが、本書にない説得力がある。さらに、本書ではセリフ回しにナッドサット語が頻繁に混ざるためかなりまどろこしい。映画版ではそのあたりがうまく映像と絡めて処理されている。また、物語後半でアレックスはかつて暴力を加えた相手に遭遇する。被害者は徐々にかつての加害者が目の前にいることに気付く。絶好の復讐の機会である。本作でも盛り上がる部分である。しかし、その状況描写は本書では原文または訳文に問題があるのか、不自然極まりない文章が続き、興ざめする。それは本書が主人公の一人称による語りであり、主人公の視点からかつての被害者を語る描写になるためやむを得ないのかもしれない。が本書の映画版ではそのあたりの描写が役者の演技力で補われている。本書の影が薄くなりつつあるとすれば、そのあたりの記述の稚拙さに原因がありそうだ。

本書も映画版も上に書いたように21章が削除された版である。21章は実験から醒めた主人公が無頼な生活を繰り広げる。が、ある日かつての仲間と会うことで、改心し、かつての暴力衝動を若さ故、として回顧するという筋書きらしい。21章が作者の意図に反して削除されたとすれば、本書は不完全であり、21章の内容を含めた上で改めて読みたいものである。聞けば最近、21章が復活した形で復刊されたとか。暴力や怒れる若者、全体主義など、東西冷戦最盛期に書かれた本書。そのような時代であれ、アレックスがどのような形で自らの若かりし頃を総括したのか、作者の見解を読んでみたいものである。

’14/04/07-’14/04/08