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心霊電流 下


二人のなれ初めから、約二十年の間、離ればなれになっていたジェイミーとジェイコブズ師の数奇な縁。
一度は身を持ち崩しかけていたジェイミーは、再会したジェイコブズ師から手を差し伸べられる事で身を持ち直す。そして、それを機に二人の縁は再び離れる。

ジェイミーは、ジェイコブズ師から紹介を受けた音楽業界の重鎮のもとで職を得て、真っ当な生活を歩み始める。そして数年が経過する。
ジェイミーが次にジェイコブズ師の名を目にした時、ジェイコブズ師の肩書は、見せ物師から新興宗教の教祖へと変わっていた。電気を使った奇跡を売り物にした人物として。

かつて信仰に裏切られたジェイコブズ師が、今度は自ら信仰の創造主となる。その動機には何やら不穏なものを感じさせる。
それどころか、ジェイコブス師の弁舌に魅せられたコミュニティまでできている。太陽教団やマンソンが率いた教団のような。
ジェイミーは、ジェイコブズ師との数十年にもわたる因縁に決着をつけるため、再び会いにゆく。

老いたジェイコブズ師は、自らの研究の集大成として、ジェイミーをとある場所へと誘う。
そこは、彼らが最初に出会った街の近くにある、雷を集める自然の避雷針スカイトップ。
ひっきりなしに雷が落ちるこの場所を舞台に、ジェイコブズ師は最後の忌まわしい実験に乗り出す。
それはまさに、神も恐れぬ冒涜。おぞましく不吉な結末が予感できる。

この結末は、著者が今までの傑作の中で描いてきたカタストロフィーと比べても遜色ないっq。

ただ、今までのカタストロフィーは、壮健な人々によって演じられてきた。
それに比べて、本書では老いてゆくジェイコブズ師によって成されてゆく。そのため、演者としての迫力は弱い。
ただ、本書で展開される世界の秘密のおぞましさ。そこにホラーの帝王である著者の本領が発揮されている。

ジェイコブズが呼び出したおぞましき世界。そこでは、神の冒涜を主題とした本書のテーマを如実に体現した、究極の終末とも言える世界だ。
神の救い、神の恩寵、神の御手。それはどこにもない。ひたすらに救いようのない世界。
私たちが信ずる来世のおぞましさ。
今まで、神の名において未来への希望を掲げていた教団は、神の名を借りて、人々をたぶらかしてきた。

われわれは何のために生き、そして何のために死んでいくのか。
本書の結末は、そのような問いをはねつけ、絶望に満ちている。
果たして、ジェイコブズ師が一生をかけて神に背き続けた復讐は、この世界を呼び出す事によって成就したのだろうか。
なぜ、私の妻子は無残に死ななければならなかったのか。なぜ私はそれほどまでの仕打ちをくだされなければならないのか。私が神に何をしたというのか。
絶望と呪いに満ちたジェイコブズ師による実験。
その目的が残酷な現実とは違う、理想の世界を見ることにあったとすれば、神の虚飾の裏にあるおぞましい世界を呼び出した事は、牧師の人生にとって最後のとどめとなったはずだ。

本書は、あくまでも神の不在と神への冒涜が主題となっている。
もちろん、本書で描かれた世界が真実とは限らない。来世は誰にも見えない。
だが、神なき世界の真実とは、案外、このようなものなのかもしれない。

本書のカタストロフィーは、それを主宰するジェイコブ師が老いているため、迫力に欠ける事は否めない。
だが、現れた世界の圧倒的な欠乏感。そこに、今までの著者の作品にはない恐ろしさを感じる。

それは、上巻のレビューにも書いた通り、ホラー作家として突き抜けた極みだ。
神の徹底的な否定。そして、私たちが真実と信じているはずの科学技術、つまり電気が引き起こす奇跡の先に何が待っているのか。
本書は著者による不気味な予言ではないだろうか。

あわれなジェイコブズ師がまだ敬虔な牧師だった頃、ジェイミーたちに示した電気じかけのキリスト。
それはまさに、今の世の中に氾濫する価値観の象徴である。
私たちは一体、何を頼りにこれからの世界を生きていれば良いのだろうか。
宗教もだめ、科学技術もだめ。では何が。

そんな戸惑いを尻目に、時間は私たちを等しく老いへと追いやる。
下巻では、上巻でジェイミーの初体験の相手となったアストリッドが老いて死に瀕した姿で登場する。
その残酷な現実は、まさに本書のテーマそのものだ。
人は誰もが老い、そして誰もが取り返しのつかない人生を悔やむ。誰もその生と時間を取り戻すことは不可能だ。

結局、人間にとって唯一の真理とは、時間が人を死に追いやってゆく事に尽きるのかもしれない。
だが、人はその事実を認めようとせず、欲望や見栄や見かけの栄華を追い求める。ある人は神や宗教を奉じ、自ら信じたものを信じて時間を費やす。

そのような人生観にあっては、死さえも救いとなりうる。本書には何度か、このような文句が登場する。
「永遠に横たわっていられるなら、それは死者ではない。異様に長い時の中では、死でさえも死を迎えうる」(263ページ)

それに比べ、ジェイコブス姿が呼び出した世界の寒々としたあり様。それはまさに無限の生。無限に苦しみの続く生なのだ。死してのちも続く無残な生。

おそらく著者は、老境に入った自らの人生を顧み、本書のような福音のない世界を著したのだろう。
そして、その事実に気づくのはたいていが老年に入ってからだ。
私はまたその年齢に達しておらず、自分の人生を充実したものにしようと、一生懸命、日々をジタバタと生きている。
私の考えが正しいのか、それとも間違っているのか。それは死んでからの裁きによって決まるはずだ。そもそも永遠の無が待っているだけかもしれないし。

本書に唯一の救いがあるとすれば、救われない未来が待っていたとしても、本書によってある程度は免疫が得られる事だろうか。
でも、著者は神の背後に覆い隠されていた言いにくいことをズバリと書いた。本書は、ホラー作家としての著者の畢生の作品だと思う。
著者にとって、もはや思い残すところがない。そう思う。

‘2019/5/19-2019/5/20


心霊電流 上


ミステリに寄った三部作を出していた著者が、再びホラーに戻ってきたことでファンを喜ばせたのが本書だ。
数年ぶりに出された本書は、ホラーの王道を行く作品となった。

本書の凄まじさ。それは、ついに著者が神の問題に真っ向うから取り組んだことだ。
これまでにも著者は、さまざまの怪奇現象や超常現象を作品で登場させてきた。超常現象を体験する人物には牧師もいたし、教会を舞台とした怪奇現象も描かれていた。
そう考えると、惨劇を牧師や教会と結び付けること自体が神への冒涜だったのかもしれない。
だが、それを差し引いても、今までの著者は正面切って神を否定してはいなかったように思う。

神はあまねく世界を統べる。だが、神のみわざと関係なく怪異は起き、悪霊ははびこる。
神は全能だが、その関知しない領域は確かにある。そうした隙間に悪は入り込み、怪奇を起こす。
それが今までの著者のスタンスだったように思う。
もちろん、ホラー自体が敬虔なクリスチャンに受け入れられるかは、別の問題とした上で。

だが、本書において著者は神を真っ向から否定しにかかっている。
私たち日本人にとっては、神を否定することへの心理上の抵抗は西洋ほどはない。
日本が多神教をベースとしている以上、一人の神を否定することに抵抗は感じにくいのだ。それが良くも悪くも絶対的な信仰を持たない日本の特徴だとも言える。

だが、いまだに天動説を信じる人が多いというアメリカでは、宗教についての保守的な風潮がまだ根強いと聞く。
安易に神を否定することへの心情は、日本とは段違いだ。私はそう認識している。

つまり、著者が本書で、これほどまでに神を否定し切って見せたことは、私たちが思う以上にすごいことなのではないだろうか。
神の忠実な僕であるはずの牧師の口から、かくも激烈な神を冒涜したセリフを吐かせる。
それは作家として突き詰めるべき極点だ。と同時に触れてはならないタブーだと思う。だが、ホラーを扱う以上、いつかは越えねばならないリミットなのかもしれない。

初老を迎えたジェイミー・モートンが本書の主人公であり、語り手だ。
ジェイミーが六歳の時、街の牧師として着任してきたチャールズ・ジェイコブズ師。電気が好きで、説教に電気の仕掛けを使った見せ物を扱う風変わりな人物だ。
ジェイコブズ師に気に入られたジェイミーは、キリスト教の手ほどきとともに、電気で動く奇跡の魅力と、ジェイコブズ師の若々しい活力に育まれて少年期を過ごす。

ジェイコブズ師は牧師であり、敬虔なキリスト教徒でもある。美しい妻と聡明で愛される息子。何一つ曇りのない明快な人生。
そんなジェイコブズ師の人生は、自動車事故によって妻子を失う悲劇によって一変する。それは牧師にとって神の不在を意味することに他ならない。
神はなにゆえ、忠実な神の使徒である自らにこのような悲劇を与えるのか。そこに神の試練という安易な解釈を当てはめ、片付けてしまってよいのだろうか。あまりにも無慈悲ではないか。ジェイコブズ師は悩み、煩悶する。
そして復帰した説教壇の上から聴衆に向け、神を否定するにも等しい激烈な説教をする。
そんなジェイコブズ師に背を向け、人々は教会から去ってゆく。そして後日、教区からジェイコブズ師は追放される。

私のように信仰心の薄い日本人には、神を万能で全能な存在とみなす考えは受け入れにくい。
というのも、今までキリスト教の名の下、数えきれないほどの不条理に満ちた死が人々を覆い尽くしてきた。
宗教戦争、教化と言う名の人種殲滅、宗教改革によって起きた虐殺。また、キリスト教国の中で二度の世界大戦の間におきたポグロムやジェノサイド、ホロコーストなど。
それらの出来事は、神の存在を掲げるキリスト教の教義をあざ笑っている。
と同時に私たち異教の者の眼には、神の不在を如実に表わす証拠に映る。

人の心にとって、神は確かに救いとなる存在だ。最善の発明だったとさえ思う。
人間が作り上げた頼れる対象。神とは言ってしまえばそうした存在だ。
むしろ、そうであるからこそ神は必要であり、多くの人々にとって神は存在しなければならない。私はそう考えている。

だが、今までに過ぎ去った広大な時間と空間の中で無数の人が宗教の名のもとに弑されてきたことも事実だ。宗教の名のもとに無限の悲劇が起こってきた事も間違いない。
それらの出来事に神が救いを差し伸べる事はなかった。だから、不運な出来事に遭遇してしまった人は、神の不在を呪うしかない。
ジェイコブズ師も同じだ。ジェイコブズ師が壇上から行う悲痛な説教に対し、聴衆からは非難の声が浴びせられる。神の試練を受け止められる気骨がない、と。
だが、人は弱い存在だ。私に言わせれば最愛の妻子を失いながら、神の試練を理由に平静でいられる方がむしろどうかしていると思う。

運命とは作為がなく、かつ無慈悲なもの。
不運に出会った人とは、神の存在に関係なく、無限に張り巡らされた運命の糸の中で、たまたま悪い糸に絡まってしまったにすぎない。それを運と人は呼ぶ。
私は運命や人生をそうとらえている。

ただし、運命の糸のどれをまとい、どれを避けるかによって人の一生は変わる。悪い結果をはらむ糸をくぐり抜け、より良い人生を生きるための糸を身にまとうことで、私たちの人生は好転する。そのためにこそ、私たちは勉学に励む。そして、スキルと能力を強化し、経験と鍛錬に勤しむのだ。
それでもなお、神の意思を言い募り、人の努力を無視する考えは、人の存在を軽視する事につながると思っている。
ジェイコブズ師が悲痛な説教の中で訴えた主旨もまさにそうだった。

神は無力であり、人間の作り上げた幻想に過ぎない。
そんな冷酷で救いのない事実を、著者はついに本書の形で小説の内容にぶちまけた。
ジェイコブズ師が出て行ったあとの誰もいない教会でジェイミーは叫ぶ。
「「おまえは偽物だ」と僕は叫んだ。「本物じゃない! ぺてんの寄せ集めだ! くだばれ、キリスト! くだばれ、キリスト! くたばれ、くたばれ、くたばれ、キリスト!」」(122ページ)

神の問題は、文筆をなりわいとする者としては見過ごしてはならないテーマだと思う。
そして、それをついに取り上げたことは、ホラー作家の巨匠としての著者の矜持だと思う。

多分、本書によって著者は保守的な層からの非難を受けたことだろう。
だが、今や老境にあり、十分な名声と財産を蓄える著者にとって、そうした非難は無意味なはずだ。失うものは何もない。
今まで著者は神を遠慮がちに描いてきた。
だが、ホラーの本質である、神の不在を書いてこそ、作家人生の締めくくりになる。
著者はそう思ったのではないか。

本書はジェイミーという一人の少年の成長を描いた青春小説でもある。
だが、それだけではない。本書は彼が信心の呪縛から逃れる様子を描く。
むしろ、それが本書の主題と言っても良いかもしれない。
子供の頃は大人に呪縛され、長じてからは宗教やその他の判断基準に染められる。
そこから逃げる術を見つけることはとても難しい。
われわれを取り巻く形の有無を問わないしがらみや同調せよと迫る圧力。
その事実はデジタルが幅を効かせる今も厳然として存在する。私たちの人生を見渡せばすぐにその事実は分かる。

ジェイミーは音楽に活路を求め、生計を立てて行く。それは放浪と無頼に満ちた日々だ。麻薬で死にそうになり、人々の信頼を失う。
そんなジェイミーの姿はは、宗教のくびきがとかれ、さまよう人の姿をまざまざと表している。
そんな廃人寸前のジェイミーが偶然にジェイコブズ師に出会う。電気じかけの見せ物師に身を落とし、宗教から足を洗った元牧師。
ジェイコブズ師に救われるジェイミーは、出会うべくしてジェイコブズ師に会ったのだろう。

もちろん、そうした描写は下巻への布石である。
本書のように複数の人数が交わり、複雑な人生模様をかき分けて行く物語において、著者の手腕に揺るぎはない。
だから、読者としては、著者の紡ぐ流麗な物語にただ乗っかって居れば良い。
ジェイミーとジェイコブズ師の間に織られてゆく数奇な運命はまだまだ続く。
下巻でのカタストロフィまで。

‘2019/5/15-2019/5/19


任務の終わり 下


本書では、上巻で研がれたハーツフィールドの悪の牙が本領を発揮する。
人々を自殺へと追い込む悪の牙が。
ハーツフィールドの狡知は、旧式のポケットゲーム機ザビットのインストール処理を元同僚の女性に依頼する手口にまでたどり着く。

そのインストールが遠隔で実現できたことによって、SNSやブログ、サイトを活用し、ハーツフィールドは自らの催眠処理が埋め込まれたソフトを若いティーンエイジャーに無差別かつ広範囲に配り、自殺願望を煽る手段を手に入れた。

さらに、身動きならないはずのハーツフィールドの肉体から、他の肉体の人格を乗っとる術に磨きをかける。その結果、自らの主治医であったバビノーや、病院の雑用夫の体も完全にのっとることに成功する。
ところが、そんな恐ろしい事態が進んでいることに誰も気がつかない。病院の人々や警察までもが。
何かがおかしいと疑いを抱きつつあるのはホッジズとホリーだけだ。

果たして、ハーツフィールドの狡知をホッジズとホリーは食い止められるのか。
本来ならば、本書にはそうしたスリルが満ちているはずだ。
ところが、著者の筆致は鈍いように思える。
かつての著者であれば、上巻でためにためたエネルギーを下巻で噴出させ、ジェットコースターのように事態を急加速させ、あおりにあおって盛大なカタストロフィーを作中で吹き荒れさせていたはず。
だが、そうはならない。

『ミスター・メルセデス』で描かれていたハーツフィールドは、頭の切れる人物として描かれていた。
ところが、脳の大半を損ねているからか、本書のハーツフィールドにすごみは感じられない。
ハーツフィールドの精神はバビノーの肉体に完全に乗り移ることに成功する。
とはいえ、そこからのハーツフィールドはいささか冴えない。
そればかりか、ハーツフィールドはおかしなちょっかいをかけることでホッジズにあらぬ疑いを持たせるヘマをしでかす。
かつての著者の諸作品を味わっている私からすると、少し拍子抜けがしたことを告白せねばなるまい。

本書は、ハーツフィールドがどうやって人々にソフトウエアを配布し、自殺に追い込むか、という悪巧みの説明に筆を割いている。
そのため、本書にはサスペンスやアクションの色は薄い。著者はスピード感よりもじっくりと物語を進める手法を選んだようだ。

おそらく、著者は最後まで本書をミステリーとホラーの両立した作品にしたかったのだろう。
それを優先するため、ホラー色はあまり出さず、展開もゆっくりにしたと思われる。
老いたホッジズと、精神だけの存在であるハーツフィールドの対決において、ど派手な展開はかえって不自然だ。
本書はミステリー三部作であり、ミステリーの骨法を押さえながら進めている。

上巻のレビューでも少しだけ触れたが、本書には技術的な記載が目立つ。
どうやってSNSに書き込ませるか、どうやってソフトウエアを配布するか。
そうした描写に説得力を持たせるためもあって、本書はほんの少しだが理屈っぽい面が勝っている。

理屈と感情は相反する。
理屈が混ざった分、本書からは感情を揺さぶる描写は控えめだ。
ところが、感情に訴えかける描写こそ、今までの著者の作品の真骨頂だったはず。
感情と理屈を半々にしたことが、本書からホラーのスピード感が失われた原因だと思う。
本書に中途半端な読後感を与えるリスクと引き換えに、著者はミステリーとしての格調を保とうとしたのだと私は考える。
だが、それが三部作の末尾を飾る本書に、カタルシスを失わせたことは否めない。

だが、その点を踏まえても本書は素晴らしいと思う。
本書の主題は、ホッジスという一人の人間が引退後をどう生きるのかに置かれている。

それは本書で描いているのが、ホッジズの衰えであることも関わっているのだろう。
より一層ひどくなっていくホッジスの体の痛み。それに耐えながら、ホッジズはハーツフィールドの魔の手から大切な人を守ろうとする。ホッジズの心の強さが描かれるのが本書だ。

ホッジズの死にざまこそ、本書の読後感にミステリーやホラーを読んだ時と違う味わいを与えている。
そうした観点で読むと、本書のあちこちの描写に光が宿る。

ホッジズの心の持ちようは、ハーツフィールドの罠によっていとも簡単に心を操られるティーンエイジャーの描写とは対照的だ。
ハーツフィールドがゲームを通じて弱い心にささやきかける自殺の誘い。
その描写こそ、著者の作家としてのテクニックの集大成が詰まっている。
だが、巧みな誘惑に打ち勝つ意志の強さ。それこそが本書のテーマだ。

さらに、その点からあらためて本書を読み直してみると、本書のテーマが自殺であることに気づく。
『ミスター・メルセデス』の冒頭は、警察を退職し、生きがいをなくしたホッジズが自殺を図ろうとする場面から始まった。
ところが、三部作を通じ、ホッジズは見事なまでに生きがいを取り戻している。
そして、死ぬ間際まで自らを生き抜く男として描かれている。
それは、あとがきにも著者が書いている通り、生への賛歌に他ならない。

人はどのような苦難に直面し、どのような障害にくじけても、自分の生を全うしなければならない。
それが大切なのだ。
何があろうと人の精神は誇り高くあるべき。
人は、弱気になると簡単に死への誘惑に屈してしまう。
そこにハーツフィールドのような悪人のつけ込む余地がある。
上巻のレビューにも書いたように、電話口で誘い出そうとする詐欺師にとって、人の弱気こそが好物なのだから。

また、本書の中でザビットと呼ばれるポケットゲーム機やゲームの画面が人の心を操るツールとなっているのも著者の意図を感じさせる。
いわゆる技術が人の心に何を影響をもたらすのか。
著者はデジタルを相手にすることで人の心が弱まる恐れや、情報が人の心を操る危険を言外に含めているはずだ。

私も情報を扱う人間ではあるが、情報機器とは、あくまでも生活を便利にするものでしかないと戒めている。
それが人の心の弱さをさらけ出す道具であってよいとは思わない。
ましてや、心の奥底の暗い感情を吐き出し、自分の心のうっぷんを発散する手段に堕してはならないと思っている。

技術やバーチャルに頼らず、どうすれば人は人であり続けられるのか。
本書が描いている核心とは、まさにそうした心の部分だ。

‘2019/4/25-2019/4/26


任務の終わり 上


『ミスター・メルセデス』から始まった三部作も本書をもって終わる。

前作の『ファインダーズ・キーパーズ』のラストは、昏睡し続けるミスター・メルセデスことハーツフィールドの不気味な姿を暗示するかのようにして幕を閉じた。
『ミスター・メルセデス』では、ホリーがハーツフィールドの頭部に叩き込んだ一撃によって大量殺戮の惨劇はすんでのところで食い止められた。
脳のかなりの部分を破壊されたハーツフィールドは、植物状態で昏睡し続けているはずだった。

本書は、意識を取り戻したハーツフィールドの視点で物語が始まる。脳に障害を持ったまま、意識を取り戻したハーツフィールド。脳に負った重大な障害により、ハーツフィールドの肉体は機械によって生かされているに過ぎない。
復讐の念だけが肥大したハーツフィールドの歪んだ想念は、ハーツフィールドの主治医である神経科医師のバビノーが違法に処方した薬によって、特異な能力を覚醒させる。
その結果、ハーツフィールドは人の心を操る術を身に付ける。

古いポケットゲーム機のゲームの画面から、人の脳を催眠状態に導き、人の脳を操る能力。それによって殺人鬼であるハーツフィールドことミスター・メルセデスが再び蘇る。

その設定は、本書を正統なミステリーの枠からはみ出させる。
『ミスター・メルセデス』は、正統なミステリーとして著者にエドガー賞を受賞する栄誉を与えた。
それは、著者の筆力がミステリーの分野でも認められた証であり、もちろん素晴らしいことだ。
だが、著者の本分がホラーにあることは言うまでもない。
人の心を操れる殺人鬼、との非現実的な設定は、著者がホラーの分野に戻ってきた事を意味する。著者のファンにとっては喜ばしい事でもある。

ところがホラーに戻ってきた著者は、本書を荒唐無稽な設定にしない。そこが著者の素晴らしいところだ。
ハーツフィールドの体は自ら動かせられない。だから殺人鬼にとって制約は多い。
人の心に操れるようになったとは言え、体が動かせない以上、手段は限られる。
その手段とは、人の心を催眠状態に導くゲームしかない。
そこをどうやってハーツフィールドが成し遂げていくのか。これが本書の主眼だ。

本書は、ハーツフィールドによって徐々に操られていく人々を描く。ハーツフィールドの意志が徐々に彼らの意思を侵食してゆくにつれ、二つの意思が混じり合ってゆく。
それを書き分けてゆく手腕は、著者の筆力の真骨頂だ。
本書には著者がかつての作品で描いたような、原色のけばけばしさを想起させるような描写はあまり現れない。
あくまでも端正な描写でありながら緊張感を保っている。

その中でどうやっハーツフィールドが人の心を操るのか。どうやって人の脳を催眠状態にもっていくのか。そしてどのようにしてゲーム機の中身を改造し、それを人々に広めていくのか。
そこには、ハーツフィールドの職歴にあったプログラマーとしての知識が欠かせない。
そこの部分を荒唐無稽にせず、あくまでも理路整然としたミステリーの体裁を崩さないところがとてもよい。

一方、ファインダーズ・キーパーズ探偵社のホッジスとホリーの2人は、コンビネーションが板につき、順調に業務をこなしている。
そして、『ミスター・メルセデス』ではホッジスは、定年で退職した刑事との設定だった。
そこから長い年月がたち、ホッジズの肉体はさらに老い、異変が生じる。ホッジズが残された人生の中で何を成し、何を防ぎ、何を残してゆくのか。そして何を引き継いでいくのか。
それが本書の読み応えだ。

本書はホッジズとハーツフィールドが繰り広げる頭脳と頭脳の戦いとして読める。
前作の欠点として、登場人物がベラミーとホッジズとホリー、そしてピートとアンディの限られた人数に絞られており、人物の動きに予定調和が見られ、著者によるご都合主義が見られると書いた。
本書には、そうした欠点はあまり見られない。

ハーツフィールドが脳に障害を負ってから、少しずつその能力を悪事に発揮してゆく様がじっくりと時間を掛けて描かれている。
そこに不自然な印象や著者のご都合主義は感じられない。
人を催眠に掛け、操るスキルがハーツフィールドの中で熟していく様子が気を遣って書かれている。

ホラーの要素も盛り込みつつ、そうした配慮が本書をミステリーとして成立させている。

本書がテーマにしているのは、人の心の強さと弱さだ。
人が自我を保ち続けるためには、何が必要なのか。
そしてその鎧を壊すために最も有効な方法とは何か。
著者は長年の作家生活で得た心理学の知識の全てを本書に詰め込んでいるように思える。

人の心がいかに弱いものか。
それは私たち自身がよく知っている。
例えば催眠状態とは、人が意識する事もなしに、簡単に自らにかけることができる。
暗示とは、自分への罠でもある。
例えばテレビをボケーっと見る。例えば携帯をなんとなく眺める。それだけで人の心はたやすく無防備な状態になる。

心理とは人の心にとって弱みであり、強みでもある。
ハーツフィールドのように超能力を使うことがなくとも、私たちは弱みにつけ込まれやすい。
電話越しに聞く詐欺師の口調、いわゆるオレオレ詐欺の類の手口が一向に減らない事でもそれは明らかだ。
不意をつかれた時、弱みをつかれた時、狼狽した時、人は簡単に自らの弱さをさらけ出す。
それは、ハーツフィールドのような悪意を持つ人物には格好の弱点だ。

本書の設定を荒唐無稽と片付けるのはたやすい。
だが、それを絵空事として片付けていてはもったいない。
本書をせっかく読んでいるのだから、スリルを愉しみながら学ぶべきこともあるはずだ。
どうやって自分の心の弱さをさらけ出さずに済ませるか。
ホッジズのように体に異変を覚えつつも、信じる者のために突き進む意志の保ち方とは何か。
本書からは得る物が多い。

‘2019/4/23-2019/4/24


ミスター・メルセデス 下


下巻は上巻からの承前で「毒餌」の章で始まる。ホッジズの友人ロビンスンの捜査を妨害しようと、ブレイディはロビンスン家の犬を毒殺しようとくわだてる。ところがその毒餌を、ブレイディの同居する母アンが誤って口にしてしまう。泡を吹いて死んでゆく母。これをみた時、ブレイディからタガが外れる。善良な市民という名のタガが。

ただでさえ、ホッジズとの息迫るやりとりでささくれ立ち高ぶっているブレイディの精神。すでに暴走し始めていた彼の心の崩壊は、母の死によってますます拍車がかかる。身から出た錆、という言葉はブレイディはこれっぽっちも届かない。「青いデビーの傘の下」のメッセージにホッジズを殺すと宣言し、ホッジズの車に爆弾を仕掛ける。ところが車が爆発した時、ホッジズの車を運転していたのはジャネル・パタースン。ホッジズがメルセデスを調査する中で知り合い、恋仲になったミセス・トレローニーの妹だ。恋人を殺されたホッジズの怒りは頂点に達し、二人の戦いは誰にも止められない段階に突入する。この戦いは「死者への電話」の章で著者の培ってきたスキルのすべてを費やして描かれる。

本書には登場人物がそれほど多くない。少なくとも著者の今までの大作よりは控えめだ。そして、ホッジズとブレイディの対決が大きな構成となっている。なので物語の視点は二人の行動に合わせて動く。二人のすぐ上から見下ろす神の視点だ。視点も限定され、視野も広くない。ホッジズとブレイディの戦いに迫った描写が主になる。だから読者は存分に二人の戦いを堪能できる。

ホッジズは、メルセデス・キラーがどうやってミセス・トレローニーのメルセデスのキーを開けたかを突き止める。そしてメルセデス・キラーがブレイディ・ハーツフィールドであることも突き止めてしまう。

荒ぶるブレイディの次なるたくらみ。それをホッジズがどう食い止めるのか。一気に物語はクライマックスに向かう。「キス・オン・ザ・ミットウェイ」で描かれるクラスマックスへの流れは著者が得意とするところだ。著者の熟練のストーリーテリングを読者は存分に堪能できる。この章は、著者が今までに発表して来たホラーの骨法をいかし、従来の筆さばきのまま、のびのびと書ける。この章の流れは、過去に著者が出してきた幾多の名作を思い出させる。そしてミステリーである以上、超常現象も不要だ。

それどころか、著者はスタイルを変える必要もない。なぜならここまで本書を読んで来た読者は、すでに本書がミステリーであると了解しているからだ。だからこの章が今までの著者の作品を思い出させたとしても、ミステリーとして違和感なく読める。追い詰められ、自暴自棄になった犯罪者と、猟犬のような探偵の知恵比べ。そこには善と悪の対立が明確に描かれている。

断章として置かれた「公式声明」は本書のミステリーとしての締めだ。ここで著者はミステリーとしての作法にのっとっている。いったん本書をミステリーとして終わらせた後、著者は本書の結末を読者が予想する方向から少しずらす。カタルシスでもカタストロフィでもない結末へと。その結末は本書の続編を予感させる。そして実際、本書には続編が用意されている。本書の結末も、続編以降と密接につながるはずだ。

そこで著者は、ほんの少しだけ著者の得意とするジャンルに読者を誘い込む。もちろん、ミステリーの枠組みを大きく外れない程度に。ミステリーとしての本書が締められた後、エピローグで描かれるのが「ブルー・メルセデス」だ。

本書は見事なまでにミステリーとして完結している。そればかりか、続編としての色っ気を放ちつつ、著者の従来のホラー路線のファンにもサービス精神を発揮している。「ミステリーを書いたけど、ホラーもまだまだ書くよ」と。だが、そのようなサービス精神を断章に挟み、続編に色気を出すにせよ、ミステリーとしての結構が素晴らしいことが第一だ。そこがきちんと描かれていること。ロジックやプロットがかっちりしており、読者のイマジネーションをホッジズとブレイディの対決に向かせたこと。それが本書をミステリーとして成り立たせている。
だからこそ、本書はエドガー賞を受賞できたのではないか。

本書はすでに続編とさらに続々編まで出ているという。近いうちに読もうと思う。

‘2017/08/10-2017/08/11


ミスター・メルセデス 上


著者と言えばモダン・ホラーの帝王。私は著者の作品のほとんどを読んできた。そして私の意見だが、著者はホラーに関わらず現代で最高の作家の一人だと思っている。例えば『IT』は読んでいて本気で鳥肌が立った。映画のような映像のイメージに頼らず、文章だけでこれほどの怖さを読者に届けられる。著者の腕前はもはやただ事ではない。

そして本書は、著者が初めて本格的なミステリーに挑んだ一作だ。信じられないことに、はじめて本格的に手掛けたミステリーがいきなりアメリカのミステリーの最高賞であるエドガー賞の長編部門を受賞してしまった。まさにすさまじいとしか言いようがない。

本書は著者にとって初の本格的なミステリーと銘打たれてはいるが、ここ数年の著者の作品にはミステリーの要素が明らかに感じられていた。作品を読みながら、ミステリーの要素が増していることは感じていた。いずれ著者はミステリーにも進出するのではないか。そんな気がしていた。そして満を持して登場したのが本書。当然のことながら抜群に面白い。

ただ、言っておかなければならないのは、本書がミステリーだからといって著者のスタイルが全く変わっていないことだ。たとえば冒頭。早朝から市民センターに列を作り、合同就職フェアの開場を並んで待つ人々。眠いながらも職を求めることに必死な人々の様子を著者は熟練の筆致で書き分ける。細かく、しかもくどくなく。たくさんの登場人物を書き分け、血の通った人物として肉付けする著者の腕は今までの作品の数々で目の当たりにしてきた。本作にもブレはない。まさに安定の筆さばき。プロローグにあたる「グレイのメルセデス」で見せる著者の腕は、ホラーの巨匠として読者の顔を恐怖に引きつらせた今までと劣らず素晴らしい。たかだか10数ページのプロローグにおいてすら、すでに読者をひきつけることに成功している。ライトを煌々と照らしながら列をなす人々に突っ込んでくるメルセデス・ベンツの強烈な恐ろしさ。人々の恐怖と絶望と呆然の刹那が描かれた出だしからしてページを繰る手が止まらない。

続いての「退職刑事」では、スミス&ウェッスンの三八口径のリボルバーを撫でつつ、人生を無気力に過ごすホッジズの姿が映し出される。彼は刑事を退職して半年たち、時間と暇を持て余している。ついでに人生も。退職後に失ってしまった生きがいを、永遠の眠りに変えて救ってくれるはずのリボルバー。その日を少しずつ先延ばししながら、テレビを無気力に眺めている。そんな日々を送っていたホッジズに一通の封書が届く。その送り主は、自分こそが市民センターで8人の市民が轢き殺した事件の犯人、メルセデス・キラーであると名乗っていた。そして手紙の中で己を捕まえられないまま警察を退職したホッジズをあざ笑い、挑発していた。

日々に倦みつつあったホッジズに届いた手紙。それは老いた刑事の心に火をともす。果たしてその手紙は、ホッジズは元同僚に渡すのか。そうするはずがない。ホッジズはまずじっくりと長文の手紙を検討する。文体や語句、活字に至るまで。そこから犯人の人物像を推測し、これが果たして真犯人によって書かれたものかどうかを考える。その知的な刺激はホッジズから自殺の欲望を消し飛ばす。そればかりか、現役の頃、自らを充実させていた猟犬の本能を呼び覚ました。

そしてすぐに登場するのがブレイディ・ハーツフィールド。のっけから犯人であることが示される彼は、犯人の立場で読者の前に現れる。そう、本書は刑事と犯人の両方による視点で描かれる。読者はホッジズとブレイディの知恵比べを楽しめるのだ。ブレイディは挑発的だが、知能も持っている。ホッジズとの駆け引きをしながら、善良な市民として町に溶け込んでいる人物として登場する。

ホッジズがどうやってブレイディに迫るのか。読者はその興味で次々とページをめくるはずだ。まず、ホッジズは元同僚に連絡し、調査を進める。そこで問題となるのは、どうやってブレイディはメルセデスを運転したのか、という謎だ。8人を轢き殺したメルセデスの持ち主はミセス・トレローニー。ところが彼女は絶対に鍵は施錠したし、自分が持っているマスターキーは紛失したこともないし、スペアキーは常に同じ場所に保管していると言い張る。ところがもしそれが事実だとすれば、メルセデス・キラーはメルセデスをどうやって運転したのか。できるはずがないのだ。そして今や、ミセス・トレローニーはこの世の人ではない。愛車が殺戮に使われた事実は彼女を自死に追いやるに十分だった。つまり、どうやってメルセデス・キラーは運転席に入り、人々の上に猛スピードで突っ込んだのかという謎を説くヒントはミセス・トレローニーからはもらえなくなったのだ。その謎を解くべきは刑事たち、そしてホッジズたち。

今までの著者の作品と本書を読み、大きく違う点。それは、「どう」物語が進むのかではなく、「なぜ」という視点を持ち込んだことだ。鍵はどうやって使われたのか。その謎こそが本書を王道のミステリーとして成り立たせている。ここにきて、読者は本書をミステリーとして読まねばならないことに気づく。ホラー作家のストーリーテリングに酔いしれている場合ではないぞ、と。これはいつものスティーヴン・キングとは一味違うぞ、と。そして本書は正当のミステリーとして読まれ始める。

続いての「デビーの青い傘の下で」では、ホッジズとメルセデス・キラーの間でメッセージが交換される。章の名前にもある「デビーの青い傘の下で」とはオンラインチャットの名称だ。メルセデス・キラーから送られてきた最初の手紙にIDが書かれており、メルセデス・キラーは大胆にもホッジズとの会話のパイプをつないできたのだ。そのオンラインチャットを通じて、ホッジズがメルセデス・キラーに連絡を取る。もちろん周到に準備を重ねた上で。ホッジズの狙いは一つ。いかにしてメルセデス・キラーを揺さぶり、日の光の下に引きずり出すか。そこに長年、猟犬として修羅場を潜ってきたホッジズの知恵のすべてが投入される。そしてホッジズとブレイディの間に駆け引きが始まる。この駆け引きこそ、本書の一番の魅力だ。ただでさえ登場人物の心を描き出し、さも現実の人物のように縦横無尽に操ることに長けた著者。そのスキルのすべてが宿敵の二人の会話に再現されるのだ。これが面白くならないはずがない。ディスプレイに描かれた文字を通し、元刑事と犯人が知恵のすべてをかけてぶつかり合う。ここが真に迫る描写だったからこそ、本書はエドガー賞を受賞したのだと思う。

ホッジズとブレイディの戦いは、続いての「毒餌」によって一層激しくなる。そして、感情をあらわにした駆け引きがブレイディの勝ち誇った心にほころびを生じさせる。正常に世の中を送っているように日々を繕っているが、彼の抱える異常性が少しずつあらわになってゆく。その結果がこの章の題となっている毒の餌だ。少しずつ二人の対決が核心に入り込んでいくところで本書は終わる。

著者の盛り上げ方の巧みさは相変わらずだ。一気に下巻に突入してしまうこと間違いなし。

‘2017/08/08-2017/08/09


11/22/63 下


ジェイクがダラスにいる理由、そして過去にやって来た理由。それは、リー・ハーヴェイ・オズワルドによるジョン・F・ケネディ大統領の暗殺を阻止することだ。通説ではケネディ大統領の暗殺犯はリー・ハーヴェイ・オズワルド一人とされている。公式な調査委員会であるウォーレン委員会による調査結果でも単独犯という結論だ。しかし一方で、われわれはジョン・F・ケネディ大統領暗殺を巡ってたくさんの説が流布していることも知っている。マフィアによる、キューバによる、ジョンソン副大統領による、フーバーFBI長官による、、、きりがない。

本書を通して著者が一貫して採っているのは、リー・ハーヴェイ・オズワルドによる単独犯行説。オズワルドが逮捕直後の移送中にジャック・ルビーによって暗殺されたことや、魔法の弾丸の存在など、ケネディ大統領暗殺に関する謎の数々は依然として闇の中だ。著者はそれら全ての陰謀説を脇に置き、オズワルド単独犯を前提として話を進める。その真偽や著者の判断の是非はともかく、本書の筋の進め方としてはそれでいいのかもしれない。ジェイクはひたすらリー・ハーヴェイ・オズワルドの身辺調査に時間を割く。暗殺決行の前年、ソ連から新妻を連れて戻ってきたオズワルドの動向を、さまざまな手段を使ってウォッチする。1962年の時点で可能な最先端の機器を揃え、盗聴器をオズワルドの家に設置する。それによってオズワルドの動向の大半が本書でさらけだされる。その粗暴な性格もあわせて。著者が描くオズワルドは、とてもリアルで巧みに描かれている。ケネディ暗殺という大それた所業に手を染めてもおかしくないと感じさせるだけの狂気と正気を備えた人物として。本書下巻では、事細かにオズワルドの動向が記されている。それは同時にオズワルドについて著者が調べ上げた努力の跡を示している。私もケネディ大統領暗殺に関する本は何冊か読んできたが、事件の数年前からのオズワルドの足跡がここまで調べ上げられているとは思わなかった。本書で描かれているオズワルドの足跡がほぼ事実に基づいた著者による創作でないことは間違いないだろう。

本書を読んでいると、オズワルドの下劣さが際立って強調されている。オズワルドが正真正銘の暗殺犯かどうかはともかく、本書を読むとオズワルドに対して偏見を持つようになるのは間違いない。そもそもアメリカにあってオズワルドがどういう位置づけの人物となっているのか、私はしらない。ただ、少なくとも分かることが一つある。それは、スティーブン・キングという現代アメリカでも最高の人士がオズワルドについてどういう感情を持っているか、ということだ。

上にも書いたとおり、オズワルド単独犯には少々無理があると思う。1978年になって下院暗殺調査委員会が出した結論は、オズワルドには少なくとも協力者が一人いたとされている。私は陰謀説をことさら強調するつもりはない。とはいえ、本書の採る単独犯説には賛成できない。だが、本書の記述を読んでいると、単独犯説に傾きそうになってしまう。著者が何らかの組織や利益を代弁して単独犯説を世に広めるために本書を書いた。そんな妄想めいた陰謀論はやめにしたいところだ。だが、本書の結論が、アメリカ国内の定説をどの程度反映しているのかは気になる。ま、私がそれを知ってもどうなるものではないのだが。

ジェイクが遂行しようとする任務に対し、過去は一層抵抗の色を強める。歴史を変えられることを拒む過去自身の力は、ますますジェイクの周りに影響を及ぼそうとする。まずはセイディー。かつての夫がやってきてセイディーの顔に取り返しのつかない傷を負わせる。それはセイディーを二度と人前に立ちたくないと拒ませるほどの傷だ。その事件によってセイディーは愛するジェイクの正体を疑うどころではなくなる。しかしジェイクは、セイディーの頬についた二度と治らぬ傷を治すため未来で治療することを提案し、自分が未来から来たことをセイディーに告白する。そして、ダラスでの高校教師だけではオズワルドの行動ウォッチの費用がまかなえなくなっている今、滞在費を稼ぐためボクシングのチャンピオン決定戦に賭けるという行動に出る。

著者が上巻から打ってきた布石はここでも聞いており、ジェイクの勝ちは剣呑な胴元に疑いを抱かせる。そしてジェイクは胴元によって半死半生の目に遭わされることになる。ジェイクが遭遇した災難は、自らを変えられたくない歴史がした全力で抵抗した結果であることは言うまでもない。それによってジェイクの記憶は喪われ、体すらまともに動かせない状態になる。

刻一刻とケネディのダラス遊説の日は近づく。果たしてジェイクはオズワルドの凶行を止められるのか。ラスト数日のジェットコースターのような話の進み様は、著者お手の物とはいえ、息を止める思いで読み進んだ。さすがというしかない。

さて、ここから先の粗筋については、何も書くまい。これを読んだ方に本書を読んで頂きたいから。ただ、一つだけ。上巻で著者は、二度にわたってジェイクを1958年に行かせた。それはタイムトラベルのルールを読者とジェイクに分かってもらうためだ。そのルールとはこうだ。1958年で行った行為は、2011年に戻った時点では有効。しかし再度1958年に行った時点で、前回1958年で行った影響は全てリセットされる。これが本書の結末にとても大きな影響を与える。

全ての布石と伏線がかっちりとはまる様を堪能してほしい。そして物語の面白さを心行くまで味わってほしい。そして、目前に与えられたあらゆる選択肢を慈しみながら、極上の物語を書き上げた著者の才能をうらやんで欲しい。物語作家としてのスティーブン・キングの世界にようこそ、だ。

最後に一つだけ。本書の主人公はケネディ大統領でもなければ、リー・ハーヴェイ・オズワルドでもない。それどころか、本書は歴史に題を採ったサスペンスですらない。本書は愛の物語だ。このような形で結末を迎える愛の物語など、私は読んだこともないし聞いたこともない。モダン・ホラーの帝王としての名声をほしいままにしているスティーブン・キングが、紛うことなき愛の物語を紡ぎあげたのが本書だ。著者のストーリーテラーとしての本分を堪能できたことは幸せとしかいいようがない。著者の文才と、その世界を損なうことなく私に届けてくれた訳者には感謝するしかない。

本書をもって、2015年は幕を閉じた。2015年の読書は、実はスティーブン・キングの「第四解剖室」から始まった。そして本書という至高の読書体験で2015年は幕を閉じた。素晴らしい94冊たちに感謝だ。

‘2015/12/29-2015/12/31


11/22/63 上


現役作家の中でも世界最高峰のストーリーテラー。著者のことをそう呼んでも言い過ぎではないだろう。大勢の登場人物を自在に操り、複雑な言動の糸を編み上げて一つのストーリーを練り上げる力量。下卑た言葉も残虐な描写も含め、著者の作品から放たれる迫力には毎度圧倒される。

そんな著者の作品を注意深く分解してみると、実は単純な構造になっていること多い。大枠をシンプルにし、そこに補強材をあれこれ張り巡らせる。著者は補強材の張りかたが実に巧みなのだ。しかも、補強材には著者一流の俗っぽいガジェットを練りこみ、ディテールを豊かに貼り付けて現実にありそうな世界観に仕立て上げる。その巧みさゆえ、著者の世界観は輝きを放ち、活き活きとした世界観に魅了された熱狂的な愛読者が今日も世界のどこかで産まれている。私も熱狂度では劣るかもしれないが愛読者の一人である。

最近の著者の長編は、補強材の組み合わせ方にさらに磨きが掛かっているように思える。そのレベルはもはや常人離れしているといってもよいほどだ。そればかりか本書では、大枠の構造からすでに隙のない緻密さと大胆さを備えている。

本書は早い話がタイムスリップものだ。しかし、著者は本書を書く上で絶妙な設定を仕掛けている。その設定が本書を複雑でしなやかな構成に組み上げている。

本書の題名は米国で一般的な日付書式である。これを日本風の日付に直すと1963年11月22日となる。この日、ケネディ米大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。50年以上経った今も、アメリカの暗部を象徴した事件として人々の心に陰を落とし続けている。その陰の広大さは2001年3月11日の同時多発テロに勝るとも劣らない。

主人公ジェイクは、作家志望の高校教諭。ある日、行きつけのアルズ・ダイナーの店主アルに呼ばれる。前日に会ったばかりなのに、前日の姿とはかけ離れやつれ切った様子のアルは、ジェイクを店の裏の食糧庫へと誘う。そこは、1958年へと通ずる通路。つまりタイムトンネルになっている。

タイトルが示す通り、本書はケネディ大統領暗殺事件がテーマだ。そしてそのテーマに読者とジェイクを導くため、著者は本書に時間移動の仕掛けをもちこんでいる。本書を面白く読み応えのある内容にしたのは、時間移動の設定の妙にある。2011年側と1958年側を行き来するには、メイン州リスボン・フォールズのみ。2011年側はアルズ・ダイナーの食糧庫だが、1958年側は紡績工場裏手の倉庫。そこはいつでも行き来可能。そして、1958年側でどれだけ過ごそうとも、2011年側に戻った時点では2分しか経過しない。ただ、1958年側で過ごした時間、ジェイク当人の生物学的時間、つまり老化は進む。1958年側で過ごした時間が長かったアルは、ジェイクから見ると一夜しか経っていないが、肺がんの病状を瀕死の状態まで悪化させるほどに命を削る。また、1958年で行った行為は未来へと影響を及ぼすが、その改変は、もう一度2011年から1958年に戻った時点でリセットされる。この設定が絶妙で、本書全体の骨組みに大きな影響を与えるファクターとなる。

では、アルは肺がんを押してまで何を1958年側でやろうとしていたのか。アルはジェイクに何を託そうとしたのか。著者は読者をグイグイと小説世界に引き摺り込む。アルが過去の世界でジェイクに成し遂げて欲しいと願うことはただ一つ。1963年11月22日のケネディ大統領暗殺を阻み、未来を変革して欲しいこと。

過去を描く場合、普通は視覚的な情報の違いに頼ってしまいがちだ。例えば新聞の記事、変貌した景色、陳列された商品など。しかし著者は、2011年と1958年の違いを表現するにあたって聴覚と嗅覚も駆使する。著者はまず、1958年を描くにあたってジェイクの目に映る情報ではなく、耳と鼻に届く音と匂いを描く。目から映る過去の景色は、CGに慣れ過ぎた我々にはインパクトを与えない。CGが自在に過去の映像を再現しまうからだ。しかし耳と鼻が受け取る情報は別だ。今いたはずの場所から聞きなれない音が鼓膜を震わせ、鼻を衝く臭いが漂って来たら? アルズ・ダイナーの1958年は、紡績工場だった。蒸気が紡績機械を絶え間なく動かす轟音と紡績工場につきものの硫黄の匂い。これにより、ジェイクは単なるCGや仮想現実の世界ではない1958年に来たことを実感する。そしてそれは我々読者も同じだ。

以降、著者の手練れの筆は、あますところなく1958年の世界を描き出す。視覚・聴覚・嗅覚だけでは表現できない世界に。それは人々の話す言葉や辺りを取り巻く空気感でしか表現しようのない世界だ。いうなれば五感を統合する脳による感覚とでもいえようか。一言でいうとセンスと言い換えてもよい。1958年のエッセンスをジェイクと読者に届けるため、1947年生まれの著者は自らの幼少期の記憶を掘り起こし、持てる才能をフルに駆使する。

そのセンスは、ジェイクが最初に1958年に踏み出し訪れたケネベク・フルーツ商会での会話に凝縮されている。2011年にはもはや営業しているのかどうか定かではないほど老いぼれた店舗と店主。しかし、1958年のお店は繁盛し、商売も順調だ。著者の凄さは、ジェイクが店の中で交わす会話にも表れている。このシーンだけで、著者は1958年の時代のリズムやテンポまでも表現してしまう。著者の練達の文章を心行くまで味わえる名シーンといえよう。

では、1958年とは2011年からみて何がどう違うのか。これは案外難しい問いだ。洗練されてないデザインやITの手が入っていない日用品など、時代を感じさせる品物は多々あるだろう。それは、現代の日本人からみてもたやすく気づく違いだ。しかし、我々日本人が当時のアメリカにピンと来ないことが一つある。それは、1958年のアメリカとは人種差別が大手を振ってまかり通っていた時代ということだ。その描写は避けては通れない。そして本書はその点に抜かりなく触れ、有色人種専用トイレや専用エリアなどを登場させている。

1958年の時代感覚を表現するため、著者は徹底的に細かい描写を重ねて行く。ページを進めるごとに、読者とジェイクは徐々に1958年の世界観に慣れてゆく。その中で私はほんの少し違和感を感じた。違和感とは、普段の著者の作風と本書が違うことだ。たとえば、本書では著者が得意とする下卑た表現が控えられている。それは1958年という時代の保守的な空気を再現するためなのだろうか。それだけではない気がする。また、著者の作品ではおなじみのじわじわと読者の恐怖心をあおるような描写も鳴りを潜めている。さらに本書を読んでいて感じたのは、ジョン・アーヴィングの作品との共通点だ。あくまで私見であるが、本書で著者はジョン・アーヴィングの作風を参考にしたような気がする。本書からはジョン・アーヴィングの著作と同じ筋の組み立て方が感じられる。ジョン・アーヴィングの物語を読んでいると、過去と現在が頻繁に入れ替わる。トリッキーな飛び方ではないにせよ、登場人物の追憶の形で物語の時制は次々と切り替わる。その構成のテクニックや語り口を、著者は本書で参考としたのではないだろうか。本書上巻の14Pにはジョン・アーヴィングの名前が登場する。それは著者がひそかにジョン・アーヴィングへ向けた謝辞だったのではないだろうか。

ジェイクが受け持つ年配の生徒で、脳や足に障害を持っている校務員のハリー・ダニングがいる。ひょんなことからジェイクはハリーが幼少期、実父に殺されかけたことを知り衝撃を受ける。ジェイクにとって最初の過去行きは、こわごわとケネベク・フルーツ商会にいって自らがまぎれもない1958年にいることを確かめるだけだった。様子見もかねての。二度目の過去行きは、ハリーとハリーの家族を実父から救い出すための旅となる。

ジェイクの二度目の過去行は、メイン州デリーが主な舞台となる。デリーといえば、著者の幾多の作品で舞台となった架空の街として有名だ。そのうち、1958年のデリーが舞台となる作品がある。それは、著者の作品中でも傑作として多くの人が挙げるであろう『IT』。『IT』の作中で少年たちが不気味なピエロに襲われるのがちょうどこの頃なのだ。本書のこの部分では、その少年たちのことが噂として度々出てくる。おそらくは著者から愛読者へのファンサービスの一つだろう。

メイン州デリーでの下りは、種明かしすると本書そのものには大きく影響を与える部分ではない。だが、この二度の過去行きは、ジェイクにも読者にも必要な旅だったのだ。1958年の空気感と、本書そのものの構造を読者に知らせるための。その結果、ジェイクと読者は本書の時間旅行のルールを学ぶことになる。一度過去を変えると2011年に戻った時点では過去は改変されたまま。だが再び1958年に戻ることで、前回1958年で行った行為はなかったことになるルールを。著者はそのルールを読者に徹底させるため、二度に渡ってジェイクを1958年から2011年に帰らせたのだ。

ところが2011年。戻ってきたジェイクに後を託し、アルは帰らぬ人となってしまう。1958年への移動手段を知る人物はもはやいない。ジェイクに助言を行う人物も、過去を変えたことで恩恵を受ける人物も。二度の1958年への旅を通じ、あちらでの生活方法は大分呑みこめた。過去を変えることが未来をどう変えるかについても学習した。そしてもう一つ学んだこと。それは、過去は過去を変えられることを嫌がり、あらゆる方法で過去を変えようとする圧力に対し、抵抗するということ。それはアルが幾度も体験したことであり、ジェイクも二度目の1958年への旅で過去からの抵抗に妨害されて身につまされたことでもある。

次の過去行きは、ケネディ大統領暗殺を食い止めるための長い旅になる。そう覚悟したジェイクは三度目の旅に出る。1958年に踏み入れたジェイクはハリーや他の2011年で困ったことになっている人物の過去を変化させる。さらに、東海岸経由でダラスへと向かう。ここでも下巻に向けた伏線がいっぱい張られるので注意して読むと良いだろう。

ダラスでは身分を隠して教師の職に就くジェイク。2011年のジェイクは教師をしているから生活の糧には困らない。教職はお手の物というわけだ。1958年のジェイクは高校教師として2011年よりも成功を収める。未来を知っているから当然のことだろう。ジェイクは学校に取ってなくてはならない人物となり、同じ教師であるセイディーと恋仲となる。

順風満帆なダラスでの生活は、ジェイクをして2011年への郷愁を薄れさせるものだ。しかし、注意深く振る舞っていたはずのジェイクも、間違えてローリングストーンズの未発表曲を口ずさんでしまうという失敗を犯し、セイディーに拒絶されてしまう。果たしてジェイクは過去での生活を営みながら、ケネディ大統領を救えるのか。上巻だけでも充分な読み応えだが、本題はこれからなのだ。

‘2015/12/21-2015/12/29


1922


著者の真骨頂は長編にあり。そう思う向きも多いだろう。しかし、実は中短編にも優れた作品が多数ある。むしろ饒舌なまでに読者の恐怖を煽りたてる長編よりも、シンプルで勘所を得た中編こそ、著者のストーリーテリングの素晴らしさが味わえるといってよい。本書は著者が世に問うた中編の中でも出色の出来と言える。本書は、4つの中編を編んだ「Full Dark, No Stars」のうち、「1922」と「公正な取引」の2編を文庫化したものである。

原題からも分かるとおり、本書の元となった中編集はダークな内容に満ちている。巨匠がダークサイドに徹した時、どこまで暗くなれるか、本書を読めばその結果は自ずと導かれる。

前者、「1922」は、アメリカ中西部のネブラスカを舞台にした一品である。都会はローリング・トウェンティーズの好景気に沸く一方、まだその波が及ばぬ地方都市は、都会の価値観とフロンティアのそれがせめぎ合っていた時代である。本編では、ここで繰り広げられるある一家の転落を通じ、その時代のアメリカが孕んでいた矛盾を炙り出している。とはいえ、ホラーの妙手である著者がより暗きを目指して描いたのが本編である。そのような純文学的なトーンとは無縁といってもよい。本編では実に徹底的に一家の転落と破滅が紡がれる。超常現象は最小限に抑え、時代に即した小道具と舞台設定が散りばめられた本編は、読者を1920年代のアメリカの片田舎の情景を思い出させる。それでいて饒舌に陥らず、簡潔に中編に収めた上、ダークな色合いで塗りつぶした著者の技には文句のつけようがない。

後者、「公正な取引」は、悪魔との取引譚である。その悪魔が、著者の作品によく出てくるステレオタイプな描写になっているのは残念だが、悪魔はその取引のシーンにしか登場しない。本編の登場人物は主人公一家と、その親友一家。癌に犯され、人生も落ち目な主人公は、偶然出会った悪魔と取引を行う。その取引によって、境遇が暗転したのが、順風満帆な人生を歩んでいた主人公の親友とその一家である。その落魄振りと主人公の上向き度合いの落差は、もはやギャグといっても過言ではなく、著者もブラックユーモリストとしての本領を存分に楽しみながら書いたのではなかろうか、と思えるほどである。つまり、本編は暗いといってもブラックユーモアの暗さである。これまた楽しみながら読める一編である。

冒頭に「Full Dark, No Stars」のうち、2編を本書に収めたと書いた。「1922」の絶望的な闇と、「公正な取引」の戯画的なダークネスの双方を収めた本書は、つり合いもとれており、編者の選出の妙が光っているといえる。

’14/08/11-‘14/08/12