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ウイスキー起源への旅


私はウイスキーが好きだ。まだ三級しか取っていないが、ウイスキー検定の資格も得た。ウイスキー検定試験といってもなかなか難しい。事前に出題される問題を予習することが求められる。予習の中でウイスキーの歴史をひもといた時、まずでてくるのがウイスキーがはじめて文献に出てきた年だ。

1494年に出された文書にある「王の命令によりアクア・ヴィテ製造用に8ボルのモルトを修道士ジョン・コーに支給する」という文言。それがウイスキーの名前が文献に出てくる最初だという。

ウイスキーを好きになる時、味や香り、豊富な銘柄の豊富さにまず目がいく。続いて、ウイスキーの歴史にも興味が出てくる。それは、ウイスキーが時を要する飲み物であることが影響しているに違いない。出来上がるまでにぜいたくな時間が欠かせない飲み物。それを古人はどうやって発見し、どのように磨き上げてきたのか。わたしのような歴史が好きな人間はともかく、教科書を暗記するような歴史に興味がない方でも、ウイスキーに魅了された途端、ウイスキーの歴史に興味が出てくるはずだ。

だが、ウイスキーの歴史を把握することは案外と難しい。むしろ難解といっても良いぐらいだ。ウイスキーが史書に現れるのは、先に書いた通り1494年のこと。ただし、それ以降とそれ以前のウイスキーの歴史には謎が多い。それは、民が勝手気ままに醸造と蒸留を営み、時には領主の目を盗み、密造とは切っても切れないウイスキーの性格にも関係がある。つまり、ウイスキーの歴史には、体系だった資料は残されていないのだ。

だから、本当に1494年になるまでウイスキーは作られなかったのか、との問いに対する明快な答えは出しにくい。それが、ウイスキーの歴史に興味を持った者が抱く共通の疑問だ。同時にミステリアスな魅力でもある。

著者はその疑問を、ウイスキーの研修で訪れたスコットランドのエジンバラで強くいだく。というか疑問のありかを教わる。名も知らぬ老人。彼は著者に、ウイスキー作りは、ケルト民族の手によって外からスコットランドにもたらされた、と語る。外とはアイルランドのこと。つまり、アイルランドでは1494年よりもっと以前からウイスキーが作られていたはず。著者はそのような仮説を立てる。本書は、その仮説を立証するため、著者は費やした広大な旅と探求の記録だ。

著者はサントリーの社員だ。そして長年、ウイスキー部門に配属されていた。毎日の業務の中で、ウイスキーに対する見識を鍛えられてきた。本書のプロローグには、著者が農学部の学生の頃からゼミの教授にウイスキーをはじめとした蒸留酒について啓蒙されてきたことも記されている。著者はもともと、酒類全般への造詣が深く、酒つくりの起源を調べるための基本知識は備えていたのだろう。その素養があった上に、旅先での老人からの示唆が著者の好奇心を刺激し、著者のウイスキーの起源の謎を解く旅は始まる。

著者が持つお酒に関する教養のベースは、本書の前半で折々に触れられて行く。教授から教えられたこと。ウイスキーに開眼した時のこと。安ワインで悪酔いした学生時代から、後年、高級ワインのおいしさに魅了され、ワインの奥深さにはまっていったこと。ウイスキー作りに携わりたいとサントリーを志望し、入社したことや、そのあと製造畑で歩んだ日々。ウイスキー作りの研修でスコットランドやアイルランドに訪れた事など。そこには苦労もあったはずだが、酒好きにすればうらやましくなる経歴だ。

まずはエジプト。著者はエジプトを訪れる。なぜならエジプトこそがビールを生み出した地だからだ。ビールが生み出された地である以上、蒸留がなされていてもおかしくない。蒸留が行われていた証拠を探し求めて、著者はカイロ博物館を訪れる。そこで著者が見たのは、ビール作りがエジプトで盛んであった証拠である遺物の数々だ。旧約聖書を読んだことがある方は、モーゼの出エジプト記の中で、空からマナという食物が降ってきて、モーゼに着き従う人々の命を救ったエピソードを知っていることだろう。そのマナこそはビールパン。ビールを作るにあたって作られる麦芽を固めたものがマナである。しかし、イスラエルにたどり着いて以降のモーゼ一行に、マナが与えられることはなかった。なぜなら、イスラエルは麦よりもブドウが生い茂る地だったからだ。エジプトで花開いたビール文化はイスラエルでワイン文化になり替わった。

この事実は後年、アラビアで発達した蒸留技術がウイスキー造りとして花開かなかった理由にも符合する。そもそも蒸留技術それ自体は、イスラム文化よりずっと前から存在していたと著者は説く。エジプトでも紀元前2000年にはすでに蒸留技術が存在したことが遺物から類推できるという。しかし、蒸留技術は記録の上では、ミイラや香油作りにのみ使われたことしか記録に残っていないらしい。酒を作るために蒸留が行われた記録は残っていない。このことが著者の情熱にさらなる火をくべる。

一方、キリスト教の一派であるグノーシス派の洗礼では「生命の水・アクアヴィテ」が使われていたという。それはギリシャ、イタリア、フランスで盛んだったワイン製造が蒸留として転用された成果として納得しうる。ワイン蒸留、つまりブランデーだ。それがローマ帝国の崩壊後、今のヨーロッパ全域に蒸留技術が広まるにつれ、酒として飲まれるようになる。そして、ドイツ・イギリスなどブドウが成らない北の国では穀物を基にした蒸留酒として広まっていった。

著者はウイスキー造りの技術が1494年よりずっと以前に生まれていたはず、との仮説を胸に秘め、調査を進める。ついで著者が着目したのが、アイルランドに伝わったキリスト教だ。アイルランドのセント・パトリックスデーは緑一色の装束でよく知られている。その聖パトリックがアイルランドでキリスト教を布教したのは4~5世紀の事。当時のアイルランドには、ローマ帝国の統治がぎりぎり及んでいなかった。ところが、すでにキリスト教が根付いていた。後にキリスト教がローマ帝国全域で国教とされる前から。そればかりか、土着のドルイド教とも融合し、アイルランドでは独自の文化を築いていた。その時に注目すべきは、当時のブリタニアやアイルランドではブドウが育たなかったことだ。ローマ帝国にあった当時のアイルランドやブリタニアでは、ワイン文化が行き渡っていたと思われる。ところが、ワインが飲めるのは、ローマからの供給があったからこそ。ところが、ローマ帝国の分裂と崩壊による混乱で、ワインが供給されなくなった。それと同時に、混乱の中で再び辺境の島へ戻ったブリタリアとアイルランドには、独自のキリスト教が残された。著者はその特殊な環境下で麦を使ったアクアヴィテ、つまりウイスキーの原型が生まれたのではないかと推測する。

このくだりは本書のクライマックスともいうべき部分。ウイスキー通に限らず、西洋史が好きな方は興奮するはず。ところが、アイルランドのあらゆる遺跡から著者の仮説を裏付ける事物は発掘されていない。全ては著者の想像の産物でしかない。それが残念だ。

本書はそれ以降、アイルランドの歴史、アイルランドでウイスキー造りが盛んになっていたいきさつや、スコットランドでもウイスキー造りが盛んになっていった歴史が描かれる。その中で、著者はアイルランドでなぜウイスキーが衰退したのかについても触れる。アイルランドでの製法にスコッチ・ウイスキーでなされたような革新が生まれなかったこともそう。アイリッシュ・ウイスキーにとって最大の市場だったアメリカで禁酒法が施行されたことなど、理由はいろいろとある。だが、ここ近年はアイルランドにも次々と蒸留所が復活しているという。これはウイスキーブームに感謝すべき点だろう。

本書で著者が試みた探索の旅は、明確な証拠という一点だけが足りない。だが、著者の立てた仮説には歴史のロマンがある。謎めいたウイスキーの起源を解き明かすに足る説得力もある。

何よりも本書からは、ウイスキーのみならず、酒文化そのものへの壮大なロマンが感じられる。酒文化とともに人々は歴史を作り上げ、人々の移動につれ、酒文化は多様な魅力を加えてきた。それは、酒好きにとって、何よりも喜ばしい事実だ。

‘2018/7/29-2018/08/13


望郷


NHK朝の連続ドラマ「マッサン」は、私のようなウイスキー愛好家に大きな影響を与えた。ウイスキーがブームとなり、酒屋の店頭からウイスキーが売り切れていった。原酒は不足し、製品のラインアップは変わった。それを差し置いても、ウイスキーが人々の身近な酒となったことはとても素晴らしいことだ。何よりも素晴らしいのは、我が国で造られたウイスキーの品質の優秀さを日本人自身に知らしめたことだ。そこには「マッサン」のモデルとなった竹鶴政孝氏の努力と情熱もさることながら、妻として支え続けたリタさんの献身が欠かせなかったと思う。竹鶴リタこそは、日本のウイスキーを語る際に欠かせない人物であり、「マッサン」によってその生涯に脚光が当たったことはとてもうれしい。20年ほど前に初めて訪れた余市蒸留所。そこには夫妻の自宅を再現したリタハウスが建っていた。そこで飲んだアールグレイの味は忘れてしまったが、おいしかったことと、リタハウスの落ち着いた雰囲気はとても印象に残っている。

私は夫妻に関する関連書籍は何冊か読んできた。そのうちの2冊「竹鶴政孝とウイスキー」と「マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生」は当ブログでレビューにも書いた。しかし、それらの本は二人のロマンスよりもウイスキー造りやニッカウヰスキーの歩みを記すことに焦点が当てられていたように思う。

しかも、上に書いたその二冊はノンフィクションに属する内容だ。「 竹鶴政孝とウイスキー 」はウイスキー評論家として著名な土屋守氏によるもので、「 マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生」は、日英関係を研究する英国女性の著者の視点から書かれている。前者はウイスキー作りを学ぶ政孝の努力や当時のウイスキー作りの比較や分析に力が置かれているし、後者においては、異邦の日本で住まう英国女性の苦労を描くことに重心が置かれている。 後者には、リタと故郷のカウン家で交わされた往復書簡もたくさん紹介されている。英国に残されたリタの手紙には、日本にいては言いづらいリタの望郷の思いや、異国にきて竹鶴政孝の妻として最善を尽くそうとするリタの意地もにじみ出ていたようだ。リタは政孝の妻として精一杯生きたが、そこには異郷に住む女性として、後悔や弱音を吐きたくない矜持があったはずだ、と著者は英国女性の立場からリタの肩を持っていた。

私は「マッサン」はいまだに見ていない。なので、二人のスコットランドでのロマンチックな出会いやその後の苦労は知識としてしか知らない。ウイスキーを日本で造ることに情熱を燃やす竹鶴青年とスコットランドのおとなしい少女であったリタが出会い、結婚するまでにどのようなことがあったのか。特にリタは、おとなしい少女だったという描写が多い。だが、日本の青年について異国へ向かう度胸を見せるリタの心をおとなしい、だけで片付けるのは物足りなさを感じていた。政孝と出会う前のリタに何があったのか。リタの心のうちに焦点を当て、リタを日本に赴かせた背景に何があったのか。 日本人にとって国際結婚がとても珍しい当時の事情にも興味があるが、リタの心の動きにはとても興味があった。リタの心を描く作業は小説家の独擅場だ。 そして私は、リタの生涯を取り上げ、蘇らせた本書の存在をつい最近まで知らなかった。

本書は森瑤子氏による作品だが、女性的な視点でどこまでリタの内面に踏み込んでいるかを期待しながら読み進めた。じつは著者の作品を読むのは本書が初めて。だから、小説家としての技巧はよく知らなかった。しかし、本書で書かれるリタは丁寧に描写されており、同じ女性からの感性で書かれた感情の揺れには説得力があった。リタの生涯がまざまざと読者の前に蘇るようだ。

本書は、リタのスコットランド、カーカンテロフでの少女時代を丹念に書いている。今までの夫妻の出会いを描いた文章はどちらかといえば政孝の視点で描かれることが多い。政孝に出会う前のリタの少女時代は省かれているように思う。でも本書はその部分を重点的に書いている。なぜなら本書の主人公はリタだから。リタの少女時代について、われわれはあまり知ることがない。たとえばリタが政孝と出会う前、婚約者を第一次世界大戦で亡くしていたことや、リタに妹や弟がいたことなど。それは、政孝のウイスキー修行とニッカウヰスキーの歩みにとってはあまり重要なことではないのだろう。でも、リタがなぜ政孝からのプロポーズを受け入れ、遠い日本へ渡る決断を下したか。それを推し量る上で婚約者ジョンの戦死とその後に続いた父サミュエル・カウンの死は忘れるわけにはいかないのだ。また、日本に渡った後のリタは、一度だけ政孝のスコットランド視察に付き添って母国に帰ったものの、それ以外はとうとう64歳で亡くなるまで日本を離れることはなかった。その理由は、リタが夫に従い夫の夢を支えようと決意したことだけでない。スコットランドを離れる際にカウン家の妹エラや弟ラムゼイとこじれてしまったことも原因としてあったのだろう。

リタを主人公とした本書は、リタがイギリスを離れるまでの日々に全体の半分以上を費やしている。ページ数にして252ページ。リタが日本で異邦人として生き、日本婦人以上に日本を大切にした背景を描くためにはそれだけの紙数が必要だったのだ。婚約者ジョン、父サミュエル・カウン、母アイダ・カウン、妹エラ、ルーシー、弟ラムゼイ。彼らとの満ち足りた日々。出会った当初は反発しあう仲だったジョンとの恋愛、そして婚約。引っ込み思案な少女に訪れた幸せは、シリアの戦場から届いたジョンの戦死の知らせによって打ち砕かれる。ジョンの命はイギリスに捧げられ、同時にリタの心もイギリスから、日常から、そして神からも離れてしまう。

そんなところにやってきたのが竹鶴政孝だった。快活な青年タケツルは、カウン家にやって来たリビングルームで、ラムゼイに語る。「男が命をかける場所は戦場じゃないよ」「男が命をかけるのは、自分の夢に対してなのだ、と思うな。夢を実現させるために、命がけで闘うのさ」(142ページ)。鮮烈な出会い。タケツルの存在はカウン家に新風を吹き込む。しかし、父サミュエルも老い、タケツルとの出会いを警告するかのように娘たちに告げる。「良かった。それで安心したよ。人間というものはな、自分の国の言葉が通じるところで生き続けるのが一番幸せなことなのだ。いいかね、人間の感情の中で何よりもつらいのは、望郷の念なのだ」(149ページ)。

自分の余命を知った上で警句のように言葉を掛ける父サミュエル。しかし、若い二人が惹かれることは最初から定められていたかのように、二人の距離は迫る。そしてサミュエルは世を去ってしまう。政孝の夢を支えようと決意したリタは、婚姻届を出す。幸せをふっと掴んでは行ってしまうリタに、ジョンの時もマサタカのときもそうだったと憎しみをぶつける妹エラ。妹ルーシー以外の誰にも理解されぬまま、スコットランドをたつリタの姿は決意に満ちている。ルーシー以外の家族の誰にも見送られなかったにもかかわらず。

日本に着いてからも、夫婦の前途は多難だ。摂津酒造は不景気でウイスキー作りどころではなくなり、自らの志と違った状態に退社を決意する政孝。そして桃山中学での教師時代と雌伏の時を過ごす。後日、鳥井 信治郎から誘われ壽屋に入社し、山崎蒸留所の建設に取り組む政孝。政孝のウイスキー造りの仕事に従ってリタの生活も変化する。だが、リタも必死に日本に溶け込もうとする。そんな日々を著者は丹念に追う。そして、不慮の事故からの流産や孤児院から養子沙羅を貰い受ける経緯など、本書はあくまでもリタの視点から物語をつむいでゆく。

そんなリタの懸命の努力にもかかわらず、日本には戦時の空気が満ち、敵性外人であるリタへの風当たりは厳しさをまして行く。さらに、完璧な日本人であろうとするリタの姿勢は娘沙羅にも疎まれ、出奔される。父サミュエル・カウンから言われた警句である望郷の念がリタをさいなむ。だが、リタの真面目さは日本婦人になり切らないと、と自分を甘えさせない。そしてそんな日々はリタの身体を知らぬ間にむしばんで行くことになる。

だが、竹鶴夫妻が新たに広島の竹鶴本家から迎えた威が、リタの心のこわばりをほぐす。リタが威の胸で泣き崩れ、神が自分から奪って行った人々を威という形で返してくれたことに感謝するシーンは感動的だ。本書はリタの死の前年、仲たがいしていた妹エラからの手紙で幕を閉じる。望郷の念を忘れ去ろうとするあまり、リタが自分で凍り付かせていた故郷とのつながりが現れた瞬間だ。エラとの確執と和解こそが、本書のテーマなのだと思う。本書はウイスキー作りの物語ではない。 望郷の思いを押し殺 した一人の女性の物語なのだから。ならばこそ、故郷からの和解の手紙はリタだけでなくわれわれをも感動させるのだ。

残念なことにリタは、夫政孝が一生を掛けて作り上げたウイスキーが本場スコットランドから高い評価を受けることを知らずに死んだ。だが、望郷の念に打ちのめされたまま死なず、最後にエラとの和解がなったことは彼女のためにも祝福したいと思う。それにしても「マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生」ではこの和解の手紙には触れていなかった。この和解は事実なのだろうか、それとも著者による脚色なのだろうか。とても気になる。

私が最後に余市を訪れてからもはや12年以上の日々が過ぎてしまった。そして私はまだお二人の眠る墓地を訪れたことがない。「マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生」のレビューにも書いたが、竹鶴家による墓参り自粛のお願いがあったという。そのお願いは解けたのだろうか。そろそろマッサンブームも落ち着いたころだと思うので、余市を訪れた際は墓参したいと思う。そして、リタという一人の女性が過ごした数奇な一生に思いをはせたいと思う。

‘2016/09/05-2016/09/06


マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキーの誕生


北海道の余市蒸留所にいくことがあれば、リタハウスにはぜひ訪れていただきたい。実際に竹鶴リタさんが使っていた居室が移築されている。

そのたたずまいは来訪者に不思議な落ち着きを与える。こうして文をつづっている今も、そこで飲んだアールグレイティーのベルガモット香を思い出す。全体的に男性の無骨な風情を感じさせる余市蒸留所の構内にあって、この一角だけ可憐な風が吹いていたような気がする。

竹鶴リタさんは、おととしブームを巻き起こしたNHK朝の連続ドラマ「マッサン」でヒロインとなった女性のモデルだ。

遠く離れた極東の島国から、スコッチウイスキーの製法を学びに来たマッサンこと竹鶴政孝氏。そのマッサンと恋に落ち、日本でスコッチウイスキーを作るというマッサンの夢を支えるため、日本に入り嫁したリタさん。そのドラマチックな生涯は、連続ドラマの題材としてうってつけだろう。

結局私は、観たかった「マッサン」を一度も観なかった。なのでドラマの内容については感想も批評も書けない。想像だが、単なる夫婦愛のドラマではなかったと思う。特に日本についてからの二人の歩み。竹鶴政孝氏の摂津酒造退社から、雌伏の教師時代、さらに壽屋入社から山崎蒸留所建設、そして壽屋の鳥居信二郎氏とたもとを分かっての大日本果汁設立。ニッカウヰスキー設立までの苦しい歩みを夫婦で乗り越える姿が、起伏をもって描いていたことだろう。ドラマ内でのリタさんの立ち位置は、異文化に溶け込む努力を重ねつつ望郷の想いを胸にしまい、夫の夢の実現を甲斐甲斐しく支える妻、というところか。

だが、リタさんにとっては、そんな風に簡単に人生を括られるのは心外だろう。本書にも書かれているが、太平洋戦争中には敵性外人として目をつけられ、迫害される苦しい想いをしたこともあったらしい。そういった時、スコットランドにすむ母や姉妹と頻繁に文通を繰り返していたという。マッサンの存在以外にも母国語でやりとりした手紙が異郷で心細いリタさんの心のよりどころとなったことは容易に理解できる。

私が今まで読んできた竹鶴リタさんについて書かれた文章は、日本側からの視点で書かれていたように思う。だが本書は、英国人によって英語で書かれたものだ。著者は、スコットランドのリタさんの実家カウン家にも遺されているリタさんから届いた手紙を読み解いている。その手紙は母国語で書かれたリタさんの想いが詰まっている。著者は英国での取材だけでなく、日本の竹鶴家にも許可を得てスコットランドからリタさん宛に来た手紙も読み解く。その内容も本書に盛り込まれている。

著者は英国では日英交流史の研究家として知られている方のようだ。本書はマッサンブームの余波を受けて翻訳重版となった。でも著者が本書を著したのはマッサンブームよりも随分前のこと。1998年のことだ。その頃は世界的なスコッチウイスキーの退潮が一段落し、再びブームになり始めた時期だ。つまり著者はウイスキーよりも日英交流史を語る上でリタさんとマッサンを格好の題材としたのだろう。本書はそれだけではなく、日本の飲酒事情やニッカウヰスキーの歩み
、摂津酒造とマッサンの関係や竹鶴酒造など、本書だけでも竹鶴夫妻の歩みを学ぶことができる。

英国女性である著者の筆致はリタさんに同情の色が強い。それは当然かもしれない。ただし著者はリタさんに同情するあまり、マッサンを悪く書くことはしない。そのかわりにマッサンがニッカウヰスキーを一流企業へと育て上げる過程で、リタさんに淋しく心細い思いをさせたという著者の不満や当時の軍部による弾圧がリタさんの寿命を縮めたという糾弾の色が行間より汲み取れる。

マッサンも仕事一筋でリタさんを省みなかったわけではない。それを物語るエピソードとして、リタさんが亡くなった際、竹鶴氏は自室から二日間出てこなかったという逸話が伝えられている。しかしそのエピソードは本書に取り上げられていない。これは少し残念だ。

本書が重心に置いているのは、どちらかと言えばスコットランドの母や姉妹と日本のリタさんの文通だ。マッサンとリタさんの夫婦間の交流についてはあまり触れていない。それは夫婦間に立ち入る事を遠慮したのか、それとも夫婦仲を偲ばせるような手紙が残っていないため想像で書くのを戒めたのか。いずれにしてもリタさんとマッサンの関係については筆があまり割かれていない。

所詮、夫婦間のことを詮索するのは野暮なのだろう。しかし誰がなんと言おうと、マッサンが極東の果てからスコッチウイスキーを学びに来たのも確かならば、そこでリタさんと相愛の仲になったのも確か。当時はまだ珍しい国際結婚、ましてや日本なる何処の国とも知れぬ新興国に嫁に行かせた恋心は純粋だったに違いない。その恋は様々な障害や妨害を乗り越え、終生二人を繋ぎとめていた。マッサンは、リタ夫人が日本でスコッチウイスキーをというマッサンの夢を信じて日本に来てくれた恩に報い、ニッカの製品を世界一の称号を得られるまでに育て上げた。それでいいじゃないか、と思う。著者は2004年に世を去っているが、2001年にシングルカスク余市10年がWHISKY MAGAZINEで最高得点を取ったことや、2002年にザ・スコッチ・モルト・ウイスキー・ソサエティが選ぶモルト蒸留所に日本の蒸留所として始めて余市が選ばれたことを知ったかもしれない。

この文章を書いている今日(2016/5/30)、偶然にも妻から教えて貰ったのだが、竹鶴家からマッサンとリタの墓参り自粛のお願いがあったらしい。だが本書を読んだからには、是非参らせてもらいたいと思っている。今まで余市蒸留所には二回訪問しているのだがお二人の墓に詣でる機会は訪れてない。

次回、私が余市蒸留所に訪れる際は、さしものマッサンブームも終わっていると思う。誰もいないお墓の前で、酒飲みとしてではなく、本書に心動かされた者として頭を下げたいと思う。

‘2016/05/03-2016/05/03


竹鶴政孝とウイスキー


ジャパニーズウイスキーが国際的に評価されている。

最近はジャパニーズウイスキーの銘柄が国際的なウイスキーの賞を受賞することも珍しくなくなってきた。素晴らしい事である。ウイスキー造りには勤勉さと丁寧さ、加えて繊細さが求められる。風土、環境以外にも人の要因も重要なのだ。日本にはそれら資質が備わっている。近年になってジャパニーズウイスキーが賞賛されている理由の一つに違いない。

今のジャパニーズウイスキーの栄光は、全てが本書の主人公である竹鶴政孝氏の渡英から始まった。まだ日本に洋酒文化が根付かず、ウイスキーの何たるかを日本人の誰も知らぬ時代。そんな時代に竹鶴氏は単身スコットランドで学ぶ機会を得た。そして、そこで得た知見を存分に発揮し、日本にウイスキー文化の種を蒔いた。山崎、余市、宮城峡。どれもがジャパニーズウイスキーを語る上で欠かせない蒸留所だ。竹鶴氏はこれら蒸留所の設計に欠かせない人物であった。

それらの蒸留所を設計するにあたり、竹鶴氏が参考としたのは自らがスコットランドで実習した成果をノートにまとめたものだ。通称竹鶴ノート。

この竹鶴ノート、実は私は見かけたことがある。見かけただけでなく、手にとってページを繰ったことさえある。本書でも触れられているが、以前六本木ヒルズで竹鶴ミュージアムというイベントがあった。そこでは竹鶴ノートの現物が展示ケースに収められていた。私ももちろんじっくりと拝見した。さらに後日、麹町のbar little linkさんでは、関係者に限り複製頒布されたノートを見、それだけだけでなくページまで繰らせて頂いた。

竹鶴ノートの細かな描写からは、求道者の熱意が百年の時を超えて感じられる。日本に本場のスコッチウイスキーを。考えてみれば凄いことだ。あれだけの原材料をつかい、あれだけの時間をかけて熟成される製品を、ノートと記憶だけを頼りに地球の裏側にある日本で再現するわけだから。ITの恩恵に頼り切った現代人にはとてもできない芸当だ。

そんな求道者の風格を備えた東洋人に、リタ夫人が惹かれたのも分かる気がする。当時、どこにあるかも良く知らない東洋の国日本。スコットランドの女性が国際結婚で向かうには人生を賭けねばならない。そんな決断を下し、日本に来た竹鶴夫妻の日々は、想像以上にドラマチックだったことと思う。それが今「マッサン」としてNHKで朝の連続ドラマとなる。素晴らしいことだ。店頭から竹鶴や余市、宮城峡といった年数表示のモルトウイスキーが姿を消すぐらいに。「マッサン」は日本人にもわが国にこれほどのドラマと、これほどの魂のこめられた製品があったことを知らしめたと思う。

本書が「マッサン」を機に企画された事は否めない。だからといって、本書は単なるブーム便乗本と判断するのは早計だ。そうでない事は本書を読めば一目瞭然。なぜならば、「マッサン」のウイスキー考証は、我が国ウイスキー評論の第一人者である著者が担当したからだ。そして本書は考証の成果の一環として書かれた事は明らかだ。本書はいわば「マッサン」の副産物として世に出たといえるだろう。だが副産物とはいいながら本書は「マッサン」の絞りかすどころか、さらに深い内容を含んでいる。

本書の構成は三部からなっている。第一部は、マッサンとリタの歩みを概括している。それも単なる「マッサン」の粗筋ではない。日本の洋酒業界事情もそうだが、竹鶴氏の生い立ちから筆を起こしている。竹鶴氏が広島の竹原で今も日本酒醸造を営んでいる竹鶴家の一族である事はよく知られている。本書はその辺りの事情からなぜ摂津酒造に入社したのかと言う事情にも触れている。さらには摂津酒造の社長阿部氏が政孝青年をスコットランドにウイスキー留学させようとした経緯までも。もちろんスコットランドでの竹鶴夫妻の馴れ初めや修行の様子、日本に帰ってからの壽屋入社と大日本果汁の設立といった足取りもきちんと押さえている。

続いての第二部は本書の肝だ。竹鶴ノートが著者の注釈付きで全文掲載されているから。日本にウイスキーをもたらした原典。それはすなわち当時の本場ウイスキー製造の様子を伝える一級資料でもある。そして竹鶴ノートはウイスキー製造の時代的な変遷を追う上で優れているだけではない。今はなき蒸留所の製造事情を伝えていることも貴重なのだ。竹鶴氏が実習したヘーゼルバーン蒸溜所は今はもうない。ヘーゼルバーンがあったキャンベルタウン地区も、当時はスコッチ先進地域だったにもかかわらず衰退してしまった。今でこそスコットランド各地で蒸溜所が次々と復活・新設され、シングルモルトブームに湧いているが、それでもなお、キャンベルタウンには復活した一つを加えても三つしか蒸溜所がない。竹鶴氏が留学した当時はキャンベルタウンにある蒸留所の数は二十をくだらなかったというのに。その意味でも竹鶴ノートは貴重な資料なのだ。

竹鶴ノートの内容もまた凄い。書かれているのは精麦から発酵、蒸留、そして貯蔵・製樽といったウイスキー製造工程だけにとどまらない。従業員の福利や勤務体制など、当時の日本からみて先進的な西洋の制度まで書かれている。一技術者に過ぎなかった竹鶴氏がウイスキー作りの全てを吸収しようとした意欲と情熱のほどが伺える。著者が今の視点から注釈を入れているが、竹鶴ノートの記述に明らかな誤りがあまりないことも重要だ。それは竹鶴氏が本場のウイスキー作りを真剣に学んだために相違ない。後年、イギリスのヒューム副首相が来日した際に語った「スコットランドで四十年前、一人の頭の良い青年が、一本の万年筆とノートでわが国の宝であるウイスキー造りの秘密を盗んでいった」という言葉は、竹鶴ノートの重要性を的確に表している。それももっともとだと思えるほど、竹鶴ノートは正確かつ実務的に書かれている。学ぶとは、竹鶴氏がスコットランドで過ごした日々を指すのでは、とまで思う。決して頭の中の理論だけで組み立てた成果ではないことを、後世のわれわれは教訓としなければならない。(もっとも山崎蒸溜所建設の際、蒸留釜と火の距離を調べ直すために竹鶴氏はスコットランドを再訪したらしい)

第三部では著者が竹鶴威氏にインタビューした内容で構成されている。竹鶴威氏は政孝氏の甥であり、実子に恵まれなかった竹鶴氏とリタ夫人の養子として迎えられた人物だ。竹鶴氏とリタ夫人をよく知る人物として、本書に欠かせない方である。それだけではなくニッカウヰスキーの後継者として夫妻の期待以上の功績を残した方でもある。マスターブレンダーとしてもニッカウヰスキーに世界的な賞をもたらしている。竹鶴威氏へのインタビューは、竹鶴家の歴史や広島原爆や東京大空襲の遭遇、政孝氏やリタ夫人との思い出、ニッカ製品の変遷など幅広い話題に飛びながらも面白い。

著者はおそらく「マッサン」の考証にあたっては竹鶴ノートは熟読したことだろう。竹鶴氏の洋行やニッカウヰスキーの歩みをとらえ直したことだろう。そして竹鶴威氏とのインタビューによって竹鶴氏の生涯にほれ込んだのではないか。そしてそれは私も同じ。

私が幼稚園まで住んでいた家は、ニッカウヰスキー西宮工場のすぐ近くだった。なので私の脳裏には”ニッカウイスキー”ではなく”ニッカウヰスキー”の文字が染み付いている。後年、22、3歳の頃からウイスキー文化に魅了された私が、神戸の高速長田駅の古本屋で非売品の竹鶴氏の自伝を見つけた時も不思議なご縁を感じた。余市蒸留所には二度ほど訪れている。また、本書が発売されて一年後、私は著者と言葉を交わし、ツーショット写真も一緒に写って頂いた。そんな訳で、本書はとても思い入れのある一冊なのだ。

‘2016/05/01-2016/05/03


ウイスキーは日本の酒である


山崎蒸留所を独り訪問したのは、平成27年4月末のこと。高校時代の友人たちとの再会を前にし、僅かな合間を縫っての見学だったが、貴重な時間を過ごすことができた。

山崎の駅に降り立った私。駅鉄と称して駅のそこらを撮りまくっていた。と、私の視線が窓口で切符購入の順番を待っていた人物を認める。その途端、その人物から目を離せなくなった。その人こそ、本書の著者輿水氏である。

私の眼差しに気付いたのか、氏の視線も私に注がれた。咄嗟に面識もないのに会釈してしまった私。本来ならば、会話の一つも交わしたいところだが、気楽な旅人である私と違い、スーツに身を包んだ氏は明らかに所用でお急ぎの様子。窓口の順番を気忙しく待つ氏に声を掛けるのも憚られ、遂に会話することなく、歩み去る後ろ姿を見送った。もちろん写真などもっての他。

本書は、つかの間の邂逅の後に訪れた山崎蒸留所の売店で、記念に購入した一冊である。

私が著者を見掛けてすぐにご本人と気づいたように、ウイスキー好きで著者を知らぬ者はいない。ここ十年、ジャパニーズウイスキーが世界中で賞賛され、名だたる賞を獲得している。著者はその中にあってサントリーのチーフブレンダーとして世に知られた存在である。雑誌や広告でお顔を見掛けたのも一度や二度では済まない。いわば日本のウイスキー業界の広告搭といっても過言ではないだろう。

本書は著者が満を持して、一般向けにウイスキーの魅力を語り尽くした一冊である。今までの本書の存在は知っていたが、何故か縁がなく未読であった。しかし、今回の偶然の出会いがなくとも、遅かれ早かれ手に取っていたであろうことは確信できる。

内容もまた含蓄に富んでいる。一般向けとはいえ、私のようなウイスキー愛好家にとっても充分楽しめる内容となっている。本書には、ブレンダーとしての著者のバックグラウンドにある経験や哲学が詳しく説明されている。それが本書の内容に深みを与えている。

著者はブレンダーとなる前、ウイスキーの製造現場を広く長く勤めたという。単なるブレンディングだけでなく、熟成やボトリングなど、ウイスキー製造工程の広範囲を経験したことが本書で紹介されている。充実していたであろう著者の職歴から得られた経験が、チーフブレンダーとしての製品造りにどれだけの貢献をもたらしたかは言うまでもない。

本書の中で特に印象に残ったのは、著者の控えめな姿勢である。

サントリーという企業が後ろに控えていると、文中からは自身の属する企業礼賛のような色合いが出てしまいがちだ。しかし本書からはそういった印象を受けない。もちろんサントリーに所属する著者であるから、記されているのはサントリーに関する内容が多い。しかし、ニッカウイスキーやキリンシーグラム、本坊酒造やベンチャーウイスキーといった本邦のウイスキーメーカーとサントリーを比べて優劣を云々する記述は全く見られない。むしろ、それらの同業者に対しては、ともにジャパニーズウイスキーを盛り立てる戦友としての扱いに終始している。今や、ジャパニーズウイスキーは名実ともに世界の五大ウイスキーの一角を占めている。だからといってジャパニーズウイスキーを持ち上げるため、他のスコッチやアイリッシュ、カナディアン、アメリカンを貶めることもない。題名こそ若干自尊心が感じられるものになっているが、内容はあくまで謙虚だ。ジャンルや国を超え、本書にはウイスキーに関わる全ての文化への尊敬と愛情が満ちている。

序章に、本書執筆に当たっての著者の想いが述べられている。曰く、「正直、これまで、ブレンダーたちは、自らの仕事を積極的に語ることをしてこなかったような気がします。そのため、私たちの仕事が、神秘のヴェールに覆われたものと思われているようにも感じます。
しかし、複雑系の酒であるウイスキーは、やはり、作り手側が、分からないところは分からないこととして、どんな酒であるのかを語ってゆくことが必要なのではないか、と思うのです。」と。

この語り口である。控えめであり、かつ、とても上品な口調。それが本書全体を通して「天使の分け前」のようにじみ出ている。「天使の分け前」とは熟成の間に樽の隙間から蒸発してゆくウイスキーの中身のことであり、それが熟成庫の中に何とも言えない香りを充満させる。本書の語り口は、まさに熟成庫に入った時に感じられる馥郁とした香りそのものであり、読み応えや余韻は上質のウイスキーのようである。

本書の一章、二章は、日本のウイスキーの紹介に割かれている。材料や製法、風土など、本場となにが違い、どこに特徴があるのか。山崎・白州の両蒸留所の特色から始まり、ジャパニーズウイスキー独自のミズナラ樽の紹介をはじめとした樽の種類の説明。貯蔵場所や樽を自由に組み合わせ、一つのメーカーだけで様々な原種を産み出すことのできるジャパニーズウイスキーの強み。樽すらも自社製造にこだわる姿勢。世界で評価されるジャパニーズウイスキーの秘密が本章では惜しげもなく明かされる。

第三章では著者の職歴が披瀝される。武蔵小杉の多摩川工場でのボトリングから、中央研究所への抜擢。中央研究所では熟成の研究に没頭し、樽と熟成に関して経験を積む。続いて山崎蒸留所での品質管理、次いで貯蔵部門。そのような現場を経て、ブレンダー室へ異動となる。ここらの下りを読むと、サントリーという会社の人事計画の妙が垣間見えて興味深い。製品化まで長い時期を必要とするウイスキー。そのウイスキーを扱う会社であるがゆえに、人事計画まで周到な時間を見越して立てる社風が確立しているのかもしれない。著者も本書の168ページで、製樽と貯蔵の工程を経験することはウイスキーの現場に必須と述べている。

ブレンダー室でブレンダーとしてのあれこれを一から覚え込んだ著者。その努力によって「膳」の開発を任される。杉樽を使用し、竹炭濾過を採用した膳はヒットし、著者の名声も上がる。「膳」は発売当時、私も親しんだ記憶がある。しかし、続く「座」が不発となる。著者の挫折である。この経験と挫折について、著者は率直に語っている。その姿勢はビジネスだけでなく、人生訓としても深く私の心に刻まれた。

第四章では、「響12年」を産み出した経緯が記される。日本を代表するブレンデッドウイスキーの12年物をという声に応え、著者は味の組み立てを明かす。ブレンデッドウイスキーとしての「響」の味の組み立てを苦心して創り上げた下りは、本書のハイライトである。普段はシングルモルトを好む私だが、この部分を読んでいるだけで無性に「響」が、「響」だけでなく他のブレンデッドウイスキーも含めて呑みたくなった。

第四章では、ブレンディングの手順や取り組みにあたっての姿勢などが惜しげもなく披露される。その中には著者の生活習慣も含まれる。よくブレンダーの素養として、暴飲暴食を避け刺激物の摂取を控えるといった自己管理の重要性が言われる。しかし、本章で紹介されるエピソードからは、それ以上に規則正しい生活習慣もブレンダーに不可欠な素養である事が読み取れる。

わずかな味や臭いの変化を感じとるためには、普段から澄み渡った不動の構えが必要。それは良く分かる。不動の構えであるからこそ周囲の波動の揺らぎを感ずることができるのだろう。私もせめて、バーにいる間はそのようでありたいものだ、と思った。

続けて本書はブレンディングの精髄ともいえるテイスティングの紹介に移る。エステリー、ピーティー、ウッディと言った用語。これらの用語は土屋守氏やマイケル・ジャクソン氏の著作、またはウイスキーマガジンなどにおいて頻繁に登場する。そういった用語が円形にカラーチャートのように並べられるフレーバーホイール。これはテイスティングにおいて必携の書であり、著者の説明もそれに沿って行われる。

ここで著者は、そういった語彙を駆使しつつ、ブレンディングの妙を披露する。しかし、所詮は文字。行き着くところは読者の脳内での理解でしかない。ブレンディングには実践が不可欠であることは云うまでもない。

それに関して著者が面白い意見を語っている。それは、ウイスキーづくりは、音楽よりも絵画を描く行為に近いのでは、というものだ。絵画を描く。それは著者のブレンディング技術の根幹に触れたようでとても興味深い。嗅覚と味覚と視覚。この組み合わせを人工知能が代替する日は来るのだろうか。常々思うのだが、ITやAIがあらゆる職種を侵食する中、最後まで人類が守り抜ける職種とは、ブレンダーや調香師といった五感を駆使する仕事だけではないだろうか。私の個人的な想いとしても、ロボットがブレンディングを行うような光景は見たくないものだ。

第六章では、最近のジャパニーズウイスキーの躍進ぶりが紹介される。ここでも一貫しているのが、先に挙げたとおりウイスキー文化と歴史に対する謙虚な姿勢だ。謙虚な姿勢を象徴するかのように、おわりに、の末文で著者の呟きが引用される。「まだ私はウイスキーというものが分からない」と。

これからのジャパニーズウイスキーも、この謙虚さを忘れずにいて欲しいと思う。効率化の誘惑に負けずにいれば、世界一の名声に相応しいだけの製品を作り続けられるに違いない。私は本書を読んでそう確信した。

そして私もまた、ウイスキー愛好家の一人として、謙虚にウイスキーの魅力に関わって行ければこの上なく嬉しい。そう思っていたところ、某所で行われたウイスキーのイベントで土屋守氏にお会いする機会に恵まれた。また、そのご縁でウイスキー検定にも合格することが出来た。

私も引き続き奢らず謙虚にウイスキーの道を究めてゆけば、いつかは著者と相対する機会を頂けるかもしれない。是非、その際は肉声でウイスキー作りの真髄を伺ってみたいものである。

‘2015/5/7-2015/5/8