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2022年11月のまとめ(個人)


公私の「私」

●家族とのふれあい

§  総括11月。
9月末に罹ったコロナの後遺症で咳に悩まされた今月の前半は、Cybozu Days 2022の出展やスナックジョイゾーへの参加といった忙しさの中で自然と治っていました。ただ、月末の今でもしゃべり続けるとたまに咳込みます。

過酷な仕事に倒れた次女が静養中の今月のわが家は、家族で動くことが多かったです。

私にとって、行きたい場所ややりたい事は無限にあります。どうすれば仕事とやりたいことを両立させることができるのか。公私でより一層の努力が必要です。
今月はついに仕事の忙しさがピークを限界を迎えたのかもしれません。本のレビューやアクアビット航海記を書く時間が取れませんでした。旅もほとんどできませんでした。

私に仕事をしてほしい方にとっては、そういうものを書く暇があれば仕事をしろと思うのかもしれません。だが、私にとっては今月のような状況はワークライフバランスの崩壊であり、個人としての停滞を意味しています。
正直、弊社の仕事は案件の引き合いが途切れず、むしろ、あふれています。それは仕事の充実の観点では素晴らしいのでしょう。ですが、私個人の生の充実にとってはあまり歓迎すべき事態ではありません。自分の時間がほとんど持てていませんので、心身のどこかに不調が生じるかもしれません。

人生は有限であり、残された時間はわずかです。
私の人生も、いつどこで突然の幕引きを迎えるかもしれません。二回目のコロナも軽症だからよかったものの、いつまた未知の感染症が私の行動を束縛するか、未来は分かりません。
今月のようなことが続くのは、私個人の生にとっては損失です。今と同じぐらい仕事の引き合いをいただきつつ、なおかつ個人としての時間も充実させる。それが私の願いです。
生きていることのありがたみを公私ともに忘れぬようにしながら、充実した日々を送りたいと考えています。

娘たちもそれぞれの道を迷いながら歩んでいます。
私も娘たちの事をフォローしながら、これからの人生を有意義なものに過ごしてほしいと思っています。
残りの限られた人生の中で家族との時間を大切にしながら、自分に与えられた可能性と時間を精一杯使い切りたいと思います。

今月は家族とは七回お出かけしました。妻とは三回、妻と長女とは三回、妻と次女とはゼロ回、長女とはゼロ回、次女とはゼロ回。


§  月表

・十一月お出かけ

相州蕎麦、キンコーズ 横浜駅西口店、ドン・キホーテ 町田駅前店、大和市文化創造拠点シリウス、くまざわ書店、キリンシティ 町田、タックルステーキ、小野路公園グラウンド、コーチャンフォー 若葉台店、サイゼリヤ、神保町酒場 八 -HACHI- TOKYO、QBハウス イオン幕張店、アパホテル&リゾート東京ベイ幕張、ボン ヴォヤージュGlocal Food BazaarRainforest Cafe#C-pla幕張メッセ山傳丸、HUB、アパホテル&リゾート東京ベイ幕張、幕張メッセ、クラフトマーケット 海浜幕張店、和風ダイニング季作、グランブッフェアリオ橋本、bar お酒の美術館、厨房 肴、大國魂神社 参道、TOKYOテレワーク・モデルオフィス府中、国府ぶた丼X、大國魂神社、上海菜館、株式会社ジョイゾー横濱家 鶴川店、君津PA (下り)、道の駅 保田小学校、ベイサイド金谷、木村ピーナッツ厳島神社野島埼灯台野島崎公園、絶景 朝日と夕陽が見える岬、房総半島最南端の地、絶景 朝日と夕陽が見える岬房総半島最南端の地道の駅 保田小学校金谷海浜公園地魚回転寿司 船主総本店横浜スタジアムBALLPARK BURGER &9港や 関内店、麺処さとう、Tully’s Coffee、サザエさん公園 (桜新町一丁目緑地)、長谷川町子美術館、カレーライス ディラン、明治大学博物館、明治大学阿久悠記念館、神田明神、名酒センター、薬師池公園薬師池公園 水車小屋町田薬師池公園四季彩の杜 ウェルカムゲート波除稲荷神社、レストラン モロッコ

・十一月ツイート
https://togetter.com/li/1980052

§  家族とのお出かけ 家族で出かけたのは、上の年表で黄地に太字にしているイベントです。家族で出かけたのは、今月は七回です。

家で静養していた次女を連れて町田へ買い物に行きました。ドン・キホーテでCybozu Days 2022で使うマスクを頼んだのですが、意に沿うものが見つかりませんでした(11/5)。

そして妻の誕生日であるこの日、私は先に都心で商談に臨み、幕張のホテルへ投宿。舞浜のイクスピアリに来た家族と合流し、レインフォレストCaféで妻の誕生日を祝いました(11/9)。そのまま私と妻は幕張のアパホテル&リゾート東京ベイ幕張へ。娘たちは一度帰宅。


その翌日はCybozu Days 2022の初日。私は三年連続となる弊社のブース対応で朝から。午後から娘たちも会場に来て、ブースでいろいろと客引きを手伝ってくれた妻も含めて会場を見学したり、他のブースを訪れたり(11/10)。まずは私がここ10年ほど賭けているkintoneのエコシステムの世界を体験してくれました。夜は弊社スタッフやカミノバさんの皆さんも交えた飲み会にうちの家族も混ざってもらい、kintoneのコミュニティの魅力を感じてもらったかも。

その数日後、家族で食事を食べに行こうとアリオ橋本へ。食べ放題のグランブッフェで腹鼓を。私は買い物には付き合わずにフードコートで仕事をしていました(11/13)。

また別の日は家族で近所のラーメン屋さんへ。次女の小学校からの同級生がいるそのお店でいろいろと語らいを(11/19)。

そして今月の個人的なクライマックスともいえる家族との千葉旅行へ(11/20-21)。結婚記念日の前日はあいにくの雨だったため、道の駅保田小学校に寄った後は、ベイサイド金谷に入って部屋でのんびりとしていました(11/20)。夜のバーベキューの量の多さに胃をパンパンに膨らませてしまいました。わんちゃんもオッケーなこのホテルはまた来ることになりそうです。




翌日の結婚記念日は一転した秋晴れ(11/21)。木村ピーナッツでピーナッツソフトを漸く次女に味わわせることができ、そこからさらに南下して房総半島最南端の野島岬へ。見渡す限りの海原と押し寄せる波を家族で散策して回りました。
帰りは道の駅保田小学校で野菜をたっぷりと仕入れ、そしてベイサイド金谷そばの海岸から沈む夕日の時間に間に合ったのでじっくりと眺めました。そして船主で美味しい房総の海の幸をたっぷりと。



弊社のお客様である法政大学アメリカンフットボール部ORANGEが甲子園ボウルへ行けるかどうかの大一番、対早稲田大学 BIG BEARS戦にお誘いし、嵐にも近い荒天の中、観戦しました(11/23)。
私がお仕事でお世話になっている法政出身の二人も合わせて応援したのですが、残念ながら逆転負けを喫してしまったのは残念です。
夜は近くのお店で鍋を囲んで残念会で締めました。

§  妻とのお出かけ 妻と出かけたのは、上の年表で桃地に太字にしているイベントです。今月は妻と二人で三回出かけました。

Cybozu Days に初めて参加したことで、kintoneをめぐりエコシステムに関心を抱いたうちの妻に、より弊社経営に関与してもらう意図をもち、スナックジョイゾー@オフライン vol.9 ~デイズナイト~にお誘いしました。
妻が思った以上にジョイゾーさんやkintoneのエコシステムに嵌ってくれたのは良かったです。

家族で訪れた千葉旅行の中で、当初車内で待っていた娘たちを置いて妻と二人いで野島埼に鎮座する厳島神社を参拝し、さらに、野島埼灯台を登りました(11/21)。ここから見た景色の素晴らしさは妻も気に入ってくれたようです。地球が丸く見える場所。朝日と夕日が見える場所。まさに結婚記念日に相応しい場所でした。

別の日の日中は妻と長女とで、近所の薬師池公園を散歩していたのですが、酉の市の熊手を買いに行きたいという妻に付き合い、夜に築地の波除稲荷神社へ。残り物には福があるとの俗説通り、妻が希望する熊手がありました(11/27)。
私も来年は自社で購入すると申し込んでおきました。


§  妻と長女とのお出かけ 妻と長女と出かけたのは、上の年表で緑地に太字にしているイベントです。今月は妻と長女との三人で出かける機会は三回ありました。

ある日は近所のサイゼリヤへ(11/7)。

また、家族で感染した横浜スタジアムでのアメリカンフットボール観戦では、次女が到着するまで三人でBALLPARK BURGER &9で(11/23)。

さらに、ある休日の午後に近所の薬師池公園から町田薬師池公園四季彩の杜 ウェルカムゲートまでをワンチャンもつれて散歩(11/27)。

Cybozu Days 2022の弊社ブースの展示パネルは昨年に続いてイラストレーターとして活動している長女にお願いしました。妻とも相談しながら、弊社のテーマに合わせたインパクトのあるモノを作ってくれたように思います。

§  妻と次女とのお出かけ  妻と次女と出かけたのは、上の年表で緑地に太字にしているイベントです。今月は妻と次女との三人で出かける機会は一回もありませんでした。

ただ、次女とは今後の事も含めてたくさん話をした月でした。妻と私にとって次女の利点を生かしながら、どうすればよいか。

§  娘たちとのお出かけ  娘たちと出かけたのは、上の年表で青地に太字にしているイベントです。

次女はとにかく、理不尽で過酷な毎日を過ごしていました。怒られ、怒鳴られ。
ですが、今のうちに怒られなれておくと、後の人生がグッと楽になります。今回、限界がきて倒れたことは、後々の人生に必ず活きると思います。
なんとか耐え忍び、人生を生き抜く強さと耐性を備えてほしい。親からはそれだけです。
ところが、残念なことにぽっきりと心は折れてしまったようです。精神的にはだいぶ戻ってきたとはいえ、次女にとって今後はどのように生きていくのがよいか。親として考えることが増えてしまいました。

コロナウイルス。ウクライナ。元首相の銃撃。宗教の問題。成人年齢の引き下げ。娘たちは変化の時代に生まれついてしまいました。
気の毒とは思いますが、そこで何をするかで人生は変わってきます。そもそも安定など、幻想でしかありません。
不満だらけの日々だと思いますが、そこから歯を食いしばって生きていってほしいと思います。

●私自身の十一月(交友関係)

§  関西の交流関係 今月は、全く関西の友人どころではありませんでした。

12月には関西に帰ろうと思います。すでにその時に友人たちに会う予定も二回決まっています。
月末になって実家の両親がついにコロナウィルスに罹ってしまったとか。軽傷らしいので大丈夫だとは思いますが。


§  今月の交流 今月はCybozu Days 2022もあったので、かなりたくさんの方とお会いしました。

幕張メッセ付近で開かれた夜の懇親会は二日連続で二次会まで参加しました。
スナックジョイゾーでも交流を喜びを味わいました。
そのほかはアメリカンフットボールの試合にうちの家族以外に仕事関係でお世話になっているお二方をお呼びし、スポーツ観戦を楽しみました。

日本から人々が集まってくるこの11月は、私にとっての神在月です。


●私自身の十一月(文化活動)

§  今月のブログ 読んだ本のレビューを記す読ん読ブログの執筆は、主に2020年に読んだ0冊分となりました。
レビュー執筆は、私の中では大切なライフワークとして位置付けています。ですが、このところ、書く時間があまり取れていません。今月はついに一冊もレビューを書くことができませんでした。これはかなりショックでした。読んでから原稿をアップするまでの時間も二年になろうとしています。
仕事でバタバタしている今は、本当に物を書く時間がとれていません。このところプライベートの時間がほぼ仕事によって犠牲になっています。レビューをアップする冊数と本を読んだ冊数は私にとって、ワークライフバランスのバロメーターです。ワークに傾いてしまっている今の状況を早く取り戻さねば。かなり危機感を持っています。

以前に連載していたCarry Meさんが運用する本音採用サイトの「アクアビット 航海記」の続きを弊社サイトにアップする作業ですが、今月はアップできませんでした。

今月、書いた本のレビューは0本()
今月、書いた映画のレビューは0本()。
今月、書いた抱負は0本() 。
今月、書いた旅日記は0本() 。
今月、書いた「物申す」は0本() 。
今月、書いた弊社の活動ブログは5本(
Cybozu Days 2022の今年のテーマはDX(デジタルトランスフォーメーション)でした。
Cybozu Days 2022を終えて[ブースで交流]
Cybozu Days 2022を終えて[出展までの準備]
スナックジョイゾーにて妻が覚醒~
Cybozu Days 2022を終えて[まとめ]
) 。
今月、書いた弊社の技術ブログは0本()。

なお、先月から毎営業日にnoteに書き始めた記事ですが、今月は以下の内容をアップしました。

10月28日 10月28日 Twitterはどこに向かうのか
10月31日 10月31日 プラスになる場合のみ集まる
11月2日 11月2日 マイナス×マイナスはプラス
11月4日 11月4日 長時間労働は自ら率先が前提
11月5日 11月5日 Cybozu Days 2022はすぐ
11月7日 11月7日 学ぶ事は有事の際に力となる
11月8日 11月8日 Cybozu Days 2022まで走
11月9日 11月9日 お仕事の服装を考えてみる
11月10日 11月10日 Cybozu Daysの開始所感
11月11日 11月11日 Cybozu Daysの出展効果
11月14日 11月14日 Cybozu Daysの振り返り1
11月15日 11月15日 ビジネスのご縁の連絡手段
11月16日 11月16日 kintoneに対し客観視する
11月17日 11月17日 会話に集中出来ているか?
11月18日 11月18日 Cybozu Daysの振り返り2
11月21日 11月21日 やり続けると見える景色の事
11月22日 11月22日 アドベントカレンダーの勧め
11月24日 11月24日 チーム力がなぜ必要なのか
11月25日 11月25日 お客様への聞取り出来てる?

§  今月の読書 今月は6.5冊の本を読みました。内訳は、歴史書一冊、ルポルタージュ一冊、農業本二冊、技術者啓蒙本一冊、純文学1,5冊。

今月はなかなか本が読めませんでした。本を読む間があれば連絡や調べ物をしている状態でした。

そんな中ですが、明治大学博物館を訪れた際に、隣接していた阿久悠記念館を訪問し、一時代を築いたメディアの寵児の残した言葉や小説の数々に触れることができました。
この方は多数の小説も著していたのですね。折に触れて読んでみたいと思いました。

私が昨年の年始に掲げた目標の一つは本を出版することですが、一昨年の11月に一緒に飲んだ方がそうした伝や知識を持っている方であり、必ず本を出版するとの思いは増すばかりです。
先月、甲子園歴史館を訪れた際、着想が湧き、とある方に連絡を取った件は、今月は進められずでした。

§  今月の映画 今月の映画鑑賞は0本です。

今年は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を全て見ようと決意しています。今のところ第四十三回まで全て見ることができています。何とか録画を駆使しながら。
面白いですし、俳優さんの演技が素晴らしいです。年末の大団円に向けて物語は進んでいますが、私が本当に見るための時間が取れません。


§  今月の舞台 舞台については、今月は0本です。

舞台についての考えも、上に挙げた阿久悠記念館で氏が残した言葉から示唆を受けました。
氏の場合は台本があって舞台ではないテレビ芸術の世界です。が、氏は自分を芸能という舞台で生きる人物として規定しておられた節が見られました。
人生を舞台で演ずる劇ととれば、その考えは私たちにとっても普遍的であるはず。

§  今月の音楽 コロナが始まってから’70’sを中心に活躍したアーチストの全曲を聞く活動を続けています。今月はAerosmithの全アルバムを聴き、20曲にまとめました。

ここでも1970年代の歌謡界を席巻した阿久悠氏の事を考えます。私にとっては失礼ながら過去の人であり、
氏の作詞した曲で持っているCDはおそらく10曲ぐらいのはず。ですが、私が知る曲は多く、その偉大さを感じました。


§  今月の美術 今月は美術に振れたというか、明治大学博物館でさまざまな事物に触れました。

この博物館は刑事関連の収納物が有名ですが、実は商品の歴史や伝統的な工芸品のコレクションもあり、
その意匠の進化をしるとともに、叡智の結晶である商品の魅力と奥深さを感じさせてくれました。
商品もまた、立派な芸術になりうるのです。デュシャンを持ち出すまでもなく。

§  今月のスポーツ 今月はサッカーとアメリカンフットボールの月でした。


某お客様のサッカーの各種管理をkintoneで行う仕事の視察も含めてグラウンドへ。ワールドカップ開催を控えた中でみたサッカーグラウンドは、久々にするスポーツへの渇望を私に呼び起こしてくれました。

まず、弊社のお客様である法政大学アメリカンフットボール部ORANGEの試合を見るため横浜スタジアムへ。
この試合に勝てば甲子園ボウル出場という大一番。相手は早稲田大学 BIG BEARS。
あいにくの荒天の中の試合でした。試合は、前半はリードしていたのに、後半に逆転されてしまいまして。

家族や仕事でお世話になっている法政出身のお二方とで観に行き、甲子園ボウルへの出場を願っていたのですが、残念です。
後日、関西はわが母校関大が甲子園ボウル出場を決めたと聞きました。この試合にORANGEが勝てば、甲子園ボウルに応援に行き、
本気でどちらを応援しようか悩むつもりだったのですが、残念です。

その日の夜、カタールワールドカップの日本戦の初戦が行われ、ドイツに対して歴史に残るジャイアント・キリングを成し遂げてくれたことで私の溜飲は下がりました。
今月はワールドカップ観戦も何試合もしています。仕事しながらなので、完全に集中してという感じではないですが、サッカー観戦を楽しもうと思っています。

§  今月の滝 今月は滝を見ることができませんでした。

残念でなりません。滝の近くにすら行かれませんでした。


§  今月の駅鉄 今月は駅にも一度も行きませんでした。

海浜幕張駅は乗り降りで利用しましたし、浜金谷駅は朝のワンチャンの散歩で少しだけ訪れたのですが、駅鉄として踏み込む時間もなく。

とにかく時間がなかった今月でした。


§  今月の酒楽 今月は上にも書いた通り、ちょくちょく飲み会に参加しました。

珍しいお酒という意味で印象に残ったのは、Cybozu Days 2022の二日目のコミュニティ関連の打ち上げ会の二次会で訪れた「和風ダイニング季作」さんでいただいたやかんマッコリです(11/11)。
これがなかなか美味しくて、何倍でも飲める味でした。

また、お客様との打ち合わせの帰りに立ち寄ったのが銀座にある「bar お酒の美術館 銀座店」です。全国にチェーンを持つというこちらのお店で、三杯のウィスキーを頂きました(11/15)。
もともとはお酒の買い取り業をされていたグループオーナーがそうしたオールドボトルを中心としたバーにしたのが始まりだそうです。
どれも美味しい味でした。


あと、スナックジョイゾーにてなかじさんが持ち込んだ風の森が珍しい酵母を使っているのか、と手も美味しかったのが印象に残っています(11/18)。
美味しいと思ったものは広めたいとするなかじさんのエバンジェリスト魂とともに印象にに残りました。

最後に神田で新オフィスの立ち合いの後、明治大学博物館などを訪れ、最後に神田明神で参拝した帰りに寄ったのが「名酒センター」です。
ここで三杯の美味しい日本酒を楽しみました(11/27)。どれもとてもおいしく、秋の新酒シーズンを堪能しました。


§  今月の旅行 今月は家族で訪れた千葉旅行がほとんどすべてです。
幕張メッセや大國魂神社など、仕事の合間に訪れた場所はありますが、旅といえるほどではありません。

千葉旅行の工程については、上で書いたので割愛します。
来月以降、旅がしたいのですが、まだ年内は余裕がなさそうです。

§  今月のその他活動 人生も半分を過ぎ、一層焦りが募っています。少しでも日々に変化をつけようとする気持ちに衰えはありません。
今、心身が動くうちに仕事もプライベートも全力で。その考えには揺るぎがありません。

・公園は五カ所。「野島崎公園(11/21)」「金谷海浜公園(11/21)」「サザエさん公園 (桜新町一丁目緑地)(11/25)」「薬師池公園(11/27)」「町田薬師池公園四季彩の杜 ウェルカムゲート(11/27)」
・美術館は一カ所。「長谷川町子美術館(11/25)」
・駅はゼロ駅。
・滝はゼロカ所。
・温泉はゼロカ所。
・山はゼロ山。
・酒蔵はゼロカ所。
・神社は四カ所。「大國魂神社(11/17)」「厳島神社(11/21)」「神田明神(11/26)」「波除稲荷神社(11/27)」

・寺はゼロカ所。
・教会はゼロカ所。
・史跡は一カ所。「薬師池公園 水車小屋(11/27)」

・博物館は二カ所。「明治大学博物館(11/26)」「明治大学阿久悠記念館(11/26)」

・遺跡はゼロカ所。
・城はゼロ城。
・灯台は一カ所。「野島埼灯台(11/26)」

・動物園はゼロか所。
・水族館はゼロか所。
・土木遺産はゼロか所。
・マンホールカードは一枚。「千葉県千葉市(11/9)」
・ダムはゼロカ所。
・風景印はゼロ枚。
・御城印はゼロ枚。
・御宿印はゼロ枚。

私がまだ訪れていない場所の多さは無限です。やりたいこと、行きたい場所の多さにめまいがします。
ところが、今月は新たな場所に訪れたといえるのは房総半島最南端の野島埼や野島埼灯台のみ。また一つ私の人生の残り月が減ってしまいました。

加齢によって日々、気力は減退していきます。人の明日はわかりません。人気俳優や女優も自死を選びます。私も不意の体調不良に襲われ、コロナに感染します。咋秋にはハイキングのつもりが一晩の遭難と化し、人里のすぐそばで死ぬ可能性も体験しました。
いつかやろう、引退してからやろうという姿勢を根本的に見直さねばなりません。もう、未来の社会や環境がどうなっているかわからないからです。そこに老いつつある自らの衰えがかぶさってきます。
生きている今。今を生きているのですから、今、やるべきことをしなければ。後悔だけはしないように。
その姿勢のまま、仕事をこなしながらも、今のうちに時間の合間を見つけ、行けるところに行っておこうと思います。


死ねば全ては無に消えます。
私の経験をいくらブログにアップしても、膨大なデジタルの海の中に溶けて消えます。
それが分かっていても、自分に与えられた生を全力で全うしたいと思います。仕事もプライベートも全力で過ごそうと日々励んでいます。

今は仕事に集中し、好きなことは引退後に。そんな悠長な考えが通用しないことをコロナウィルスは教えてくれました。人生はあっという間に終わってしまう。老いたときに平穏で好きなことができる世の中があるかどうかは誰にも保証されません。一方で、仕事の難しさや面白さも強く感じています。プライベートだけど充実させるのでもなく、仕事だけに人生を捧げるでもなく、その両立を目指す。だからこそ、今のうちから毎日を公私とも全力で生きる、という決意で日々を過ごしています。
コロナだからと閉じこもっている場合ではないのです。
コロナに人生を台無しにされるぐらいなら、一人でも旅を敢行したいと思います。会話は控え、マスクに口と鼻を隠した黙旅を。
咋秋に遭難したように、命をなくしては元も子もないのは当たり前。ですが、何もしないままなら命は枯れてしまいます。

そう思い、訪れた場所で心の赴くままに俳句を詠んでいます。今月は俳句を4句。いずれもツイートまとめに載せています。

家族との縁も毎月、姿を変えています。仕事もいつかは引退を求められるでしょう。そうなった時にやることがない、とよく話に聞く老残にだけはなりたくないと思っています。
人はいつか死ぬ。コロナウィルスの蔓延はそのことを教えてくれました。何をしても最後には死にます。一昨年の九月に読んだ「「死」とは何か」という本には死生観を持つことの大切さが書かれていました。昨年の九月にはそれに加えて沢庵和尚の生涯から権力にこびず、わが道を行く生き方を学びました。

一方で、具体的に将来のこともそろそろ考えねばなりません。
法人のまとめに書いた通り、コロナに席巻された世の中ですが、弊社の売り上げはなんとか確保できています。
ただ、私個人としては投資もしておらず、賭け事もしていません。不労所得のタネも持っていません。
私が倒れた時、うちのメンバーが稼げるところまでは頑張らねば。

あらためて「私」を振り返ってみました。来月もコロナと共存しつつ、自らの生に後悔のないような日々となることを信じて。


幻のオリンピック 戦争とアスリートの知られざる闘い


東京オリンピックが延期になり、幻の開幕式も過ぎ去った今。
本当であれば、本稿を書き始めた今は熱戦の真っ盛りだったはずだ。

オリンピックの延期は、社会に大きな影響を与えた。わが国だけでなく、世界中にもニュースとなって拡散した。
当然、多くのステークホルダーにも大きな影響を与えたことだろう。
中でも、今回のオリンピックの目的を国威発揚や経済効果に当て込んでいた向きには、大会の中止は極めて残念な出来事だったと思われる。意地の悪い見方をすればだが。

オリンピックとは本来、アスリートによる競技の祭典だ。国の威信を発揚し、経済効果を高める手段に利用することも本来ならばおかしい。これらはクーベルタン男爵の掲げた理想には含まれていないはずだ。
こうした考えが理想主義であるといわれればその通り。だが、その理想を否定したとたん、オリンピックは単なるプロスポーツの大会にすぎなくなる。アスリートの競技や努力の全てに別の色がついてしまう。

いまや、すでに取り返しのつかないところまで来ているのかもしれない。すでにスポーツはショーと同義であり、アマチュアリズムは死に絶えてしまったのだろうか。

広く知られている通り、1936年に行われたベルリン・オリンピックは、ナチス・ドイツによる国威発揚の場として大いに利用された。
本書は、その次に予定されていた1940年の東京オリンピックを題材にとっている。言うまでもなく東京オリンピックは日本が中国で起こった各種の事変を理由に開催権を返上し、中止された。

本書はその東京オリンピックによって影響を受けた人々を取り扱う。
まだアマチュアリズムが残っていた時期のアスリートが中止によってどのような影響を受け、その後の戦争によってどのような人生をたどったかを紹介する。当時のわが国のアスリートは、アマチュアリズムよりもナショナリズムによって縛られていた。その関係を掘り下げたのが本書だ。

本書の最初に登場するのは鈴木聞多氏だ。
ベルリン・オリンピックの四百メートルリレー競技で吉岡選手の次の走者だった鈴木選手は、本番でバトンを受け取る際にミスを犯し、失格となった。それによって当競技で金メダルが有力視されていた日本はメダルを獲得できずに終わった。
そのことで自らを責めた鈴木氏は、日立製作所にいったんは就職したものの、競技で失敗した負い目を軍人として国に奉職する事で返そうと志願し、陸軍に入隊したという。

本書に掲げられた鈴木氏の肖像写真は、俳優としても通用するほど端正な顔立ちをしている。
鈴木氏の肖像からは、国のために異常なほどの重圧を受けた悲壮さは感じられない。
だが、オリンピックの失敗によって人生を変えるしかなかった鈴木氏がどれほどの決意を強いられたのかは、その後の鈴木氏の選択からも明らかだ。
戦前のアスリートの多くが受けていた国威発揚という名の圧力。お国のためにという言葉がアスリートの競技人生だけでなく、人生そのものを左右したことが鈴木氏の生涯から読み取れる。

第二章では、当時のサッカー日本代表が取り上げられる。ベルリン・オリンピックにおいてスウェーデンを相手に逆転勝利を収めた当時のサッカーチームだ。全くの格下だった日本がスウェーデンを破ったことは、「ベルリンの奇跡」と称された。

サッカー史におけるジャイアント・キリングの例として挙げられるベルリン・オリンピックでのスウェーデン戦での勝利。
小柄な日本人の体格を生かすため、当時からパスサッカーを採用し、それを完成させたこと。それは、戦前の日本サッカー史のピークを作った。
その代表チームでエース・ストライカーを担っていた松永行氏は、ガダルカナル島における困難な任務の合間を縫ってサッカーに興じていたと言う。松永氏は未来の日本のサッカーのために本気で力になろうとしていたそうだ。
松永氏が戦死せずに生きていれば、日本のサッカー史は全く違う道筋をたどっていたかもしれない。本書を読んでそう思った。

続いて本書が追いかけるのは、わが国の水泳史だ。戦前の日本の水泳陣は、世界でも屈指の実力を持っていたことは良く知られている。ロサンゼルス・オリンピックでもメダルを量産した。戦後すぐにフジヤマのトビウオとして国民を熱狂させた古橋広之進氏もこの伝統の延長にいる。
その水泳チームを率いたのが監督の松澤一鶴氏。
当時にしては先進的な科学理論に裏打ちされた松澤氏のトレーニング方法は日本の力を飛躍的に高めた。
だが、戦争は教え子の多くを松澤氏から奪った。
そして、東京オリンピックの晴れ舞台さえも。

当時、東京オリンピックが中止となった後も大日本体育協会の評議員だった松澤氏は、スポーツが軍事色で塗りつぶされそうになる世相に一石を投じようと意見を具申していた。
私は松澤氏のことを本書で初めて知った。こうした人物が当時のわが国にいたことを知るのはうれしい。また一人、人物を見いだした思いだ。もっと広く松澤氏の事が世間に知られなければならない。

とある座談会では、他の出席者が国威発揚の迎合的な意見を述べる中、松澤氏は以下のような意見を述べて抵抗している。
「戦争とスポーツ、あるいは戦争と体育を結び付けて考える場合に、戦争についてこれだけしか要らないから、これだけやっておればいいのだ、これ以外のものは要らないという考えは非常に非文化的じゃないか。さっき井上さんが体育の理念について言われましたが、われわれ体育関係者はもう一つ高度な理念をもっているのです。」(149ページ)

第四章では、東京オリンピックの水泳選手として選ばれていた白川勝三氏の思いが紹介される。また、戦時下で記録会の名目で水泳大会が行われていた事実も著者は掘り起こしている。

児島泰彦氏はベルリン・オリンピックでメダルを期待されていた。だが敗退した。戦時中は沖縄戦で戦い、海岸に追い詰められた後、与論島まで泳いで逃げるといったきり、戻ってくることはなかったという。
さらに、東京オリンピックの中止によって出場の機会を奪われたのは、女性のアスリートも同じだ。本書に登場する簱野冨美氏もその一人。
こうした人々が語る言葉に共通するのは無念さだ。
そして、今の平和な時代にスポーツにまい進できる若人たちをうらやみつつ、ねたまず素直に応援する姿勢には心を動かされる。

最終章は、第三章に登場した松澤氏が再び登場する。1964年の東京オリンピックの実行委員となった松澤氏は、戦争に翻弄された無念を晴らすように、閉会式である仕掛けを決行する。そのいきさつが本書で掘り起こされている。
その仕掛けとは閉会式の入場だ。予定では整然と行進するはずだった。だが、松澤氏は直前になって各国の選手がバラバラに自由に場内に入る演出を決行する。選手たちが自由気ままに振る舞う演出は、民族も人種も国も違うアスリートたちがスポーツを通じて交流し、一つになる平和を思わせてくれる。

掲揚される国旗の監修を担当していた吹浦氏が閉会式の裏事情を本書で証言してくれている。
この閉会式の演出は東京オリンピック以来、オリンピックでは恒例となっている。
この背景には、戦争に翻弄された松澤氏の思いが込められていた。そのことを知ると、松澤氏に対する敬意が湧いてくる。
それとともに、戦前のアスリートがいかに不自由で理不尽な環境に置かれていたのかについて、松澤氏の無念がどれほどのものだったかについて思いが深まる。

本稿を書き始めた時、白血病によって長期入院を余儀なくされた競泳の池江選手が試合に復帰したニュースが飛び込んできた。
白血病を克服した彼女の精神力には敬服するしかない。コロナで延期が決まったとはいえ、東京オリンピックが開催されることを願ってやまない。

本稿をアップしてから随分だったが、その間にオリンピックは無観客で無事に開催され、幾多もの感動を与えてくれた。池江選手も競技に出場し、復活を印象付けてくれた。
そうした姿に、本書に登場した先人たちも泉下で喜んでくれていると信じたい。

‘2020/08/15-2020/08/16


ワールドカップ


サッカーのロシア・ワールドカップが終わった。総じてよい大会だったと思う。その事は好意的な世評からも裏付けられているのではないか。私自身、ロシア・ワールドカップは今までのワールドカップで最も多くの試合を観戦した大会だ。全部で十数試合は見たと思う。

私がサッカーのワールドカップを見始めたのは、1990年に開催されたイタリア大会からだ。それ以来、三十年近く、八回のワールドカップを見てきた。その経験からも、ロシア・ワールドカップは見た試合の数、質、そしてわれらが日本代表の成長も含め、一番だと思っている。

総括の意味を込め、大会が終わった今、あらためて本書を読んでみた。本書が上梓されたのは、1998年のフランス大会が始まる直前のことだ。フランス大会といえば、日本が初出場した大会。そして若き日の私が本気で現地に見に行こうと企てた大会でもある。

最近でこそ、ワールドカップに日本が出場するのは当たり前になっている。だが、かつての日本にとって、ワールドカップへの出場は見果てぬ夢だった。1998年のフランス大会で初出場を果たしたとはいえ、当時の日本人の大多数はワールドカップ自体になじみがなかった。2002年には日韓共催のワールドカップも控えていたというのに。本書は当時の日本にワールドカップを紹介するのに大きな役割を果たしたと思う。

本書を発表した時期が時期だけに、本書はブームに乗った薄い内容ではないかと思った方。本書はとても充実している。薄いどころか、サッカーとワールドカップの歴史が濃密に詰まった一冊だ。1930年の第一回ウルグアイ大会から1994年のアメリカ大会までの歴史をたどりながら、それぞれの大会がどのような開催形式で行われたのか、各試合の様子はどうだったのか、各大会を彩ったスター・プレーヤーの活躍はどうだったのかが描かれる。ワールドカップは今も昔もその時代のサッカーの集大成だ。つまり、ワールドカップを取り上げた本書を読むことで、サッカースタイルの変遷も理解できるのだ。本書は、ワールドカップの視点から捉え直したサッカー史の本だといってもよい。

ワールドカップの歴史には、オリンピックと同じような紆余曲折があった。例えば開催権を得るための争いもそう。南米とヨーロッパの間で開催権が揺れるのは今も変わらない。だが、当初は今よりも争いの傾向が強かった。そもそも第一回がウルグアイで開かれ、そして開催国のウルグアイが優勝した事実。その事は開催当時のいびつな状況を表している。当時、参加する各国の選手の滞在費や渡航費用を負担できるのが、好況に沸いていたウルグアイであったこと。費用が掛からないにもかかわらず、船旅を嫌ったヨーロッパの強国は参加しなかったこと。それが元で第二回のイタリア大会は南米の諸国が出なかったこと。特に当時、今よりもはるかに強かったとされるアルゼンチンが、自国開催を何度も企てながら、当初は隣国の大会に参加すらボイコットしていたこと。

他にもまだある。サッカーの母国と言えばイギリス。だが、イギリス連邦の四協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)は母国のプライドからワールドカップへの参加の必要を認めていなかった。実際、開催からしばらくの間、ワールドカップに発祥国イングランドの諸国は参加していない。上記の四協会は、今もフットボールのルール改正に大きな権限を持っている。ところが、当時はそもそもFIFAにすら加入していなかった。それ以後もなんどもFIFAへの脱退と再加入を繰り返し、サッカーの母国としてのプライドを振りかざし続けた。そんな歴史も本書には描かれている。

つまり、ワールドカップの歴史の始まりには、さまざまなプライドや利権が付いて回っていたのだ。世界の主要なサッカー強国が初めてそろったのが1958年のスウェーデン大会まで待たねばならなかった事実は、サッカーの歴史の上で見逃してはならない。

本書の読みどころは他にもある。サッカースタイルの象徴である選手の移り変わり。なぜ、ブラジルのペレが偉大だといわれるのか。それは彼が1958年大会で鮮烈なデビューを飾ったからだ。当時、サッカー界を席巻していたのは1950年初頭に無敵を誇り「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー代表だ。その中心選手であるフェレンツ・プスカシュ。彼は当時の名選手として君臨していた。しかし、プスカシュはサッカーの王様とは呼ばれない。また、レアル・マドリードの五連覇に貢献したディ・ステファノも当時の名選手だ。ペレやマラドーナ、その他の世界的スターからサッカーのヒーローとして今も名前が挙げられ続けるディ・ステファノ。しかしディ・ステファノもサッカーの王様とは呼ばれない。それだけ、1958年のペレの出現は、当時のサッカー界に衝撃を与えたのだ。ワールドカップが初めて世界的な大会となった1958年の大会。真の世界大会で彗星のように現れたペレが与えた衝撃を超える選手が現れるまで、サッカーの王様の称号はペレに与えられ続けるのだろう。

1958年大会以降、サッカーは世界でますます人気となった。そして、その大会で優勝したブラジルこそがサッカー大国としての不動の地位を築く。しかし、1966年のイングランド大会では地元イングランドが地元の有利を活かして優勝する。1978年のアルゼンチン大会でも開催国アルゼンチンが優勝した。著者はそうした歴史を描きながら、開催国だからと言って、あからさまなひいきや不正があったわけでないこともきちんと記す。

その一方で、著者はつまらない試合や、談合に思えるほどひどい試合があったこときっちりと指摘する。この度のロシア大会でも、ポーランド戦の日本が消極的な戦いに徹し、激しい論議を呼んだのは記憶に新しい。そのままのスコアを維持すると決勝トーナメントに進むことのできる日本が、ラスト8分間で採ったボール回しのことだ。だが、かつての大会では、それよりもひどい戦いが横行していた。予選のリーグ戦ではキックオフに時間差があり、他の会場の試合結果に応じた戦い方が横行していた。特に1982年大会。1982年のスペイン大会といえば、幾多もの名勝負が行われたことでも知られる。だが、その中で西ドイツVSオーストリアの試合は「ヒホンの恥」と呼ばれ、いまだにワールドカップ史上、最低の試合と呼ばれている。

そして1986年のメキシコ大会だ。神の手ゴールや“五人抜き “ ゴールなど、マラドーナの個人技が光った大会だ。当時の私にとっても、クラスメイトの会話から、生まれて初めてサッカーのワールドカップの存在を意識した大会だ。私が実際にワールドカップをリアルタイムで見るようになったのは冒頭にも書いた1990年のイタリア大会だ。だが、本書でも書かれているとおり、守備的なゲームが多かったこの大会は、私の印象にはあまり残っていない。

守備的な試合が多かったことは、1994年のアメリカ大会でも変わらなかった。だが、私にとってはJリーグが開幕した翌年であり、今までの生涯でも、サッカーに最もはまっていたころだ。夜中まで試合を見ていたことを思い出す。

そして1998年だ。この大会は冒頭に書いたとおり、私が現地で観戦しようと企てた大会だ。初出場の日本は悔しいことに一勝もできず敗れ去った。そして、その結果は本書には載っていない。

だが、本書の真価とは、初出場する日本にとって、ワールドカップが何かを詳しく記したことにある。それまでのワールドカップの歴史を詳しく載せてくれた本書によって、いったい何人の日本人サッカーファンが助かったことか。本書はまさに、語り継がれるべき名著だと思う。

本書がよいのは、ワールドカップをゲーム内容だけでなく、運営の仕組みまで含めて詳しく書いていることだ。ワールドカップが今の形に落ち着くまで、どのように公平で中立な大会運営を目指して試行錯誤してきたのか。その過程がわかるのがよい。それは著者が政治学博士号を持っていることに関係していると思う。組織論の視点から大会運営の変遷に触れており、それが本書を通常のサッカー・ジャーナリズムとは一線を画したものにしている。

本書には続編がある。そちらのタイトルは「ワールドカップ 1930-2002」。私はその本を2006年に読んでいる。2002年の日韓ワールドカップの直前に、1998年大会の結果を加えて出されたもののようだ。私はその内容をよく覚えていない。それもあって、2002年の日韓共催大会の結果や、その後に行われたドイツ、南アフリカ、ブラジル、ロシア大会の結果も含めた総括が必要ではないかと思うのだ。参加国が拡大し、サッカーがよりワールドワイドなものになり、日本が出場するのが当たり前のようになった今、本書の改定版が出されてもよいと思うのは私だけだろうか。

‘2018/07/18-2018/07/20


鹿島の旅 2018/7/15


あまりよく寝られないままに起きました。あたりはうっすらと白んできています。朝ぼらけの鉾田駅前は人通りが全くなく、通り掛かる車もわずか。まだ時間は四時半ごろ。睡眠が満足に取れたとはいえませんが、私は行動を始めました。

この鉾田駅、廃駅になってからすでに十年以上の月日をへています。しかも、その十年の間に起こった東日本大地震が、残っていたホームの遺構を完全に壊してしまいました。なので、バス会社の車庫に併設されたバスターミナルがあるとはいえ、ここがかつて駅だったことを示すものはほとんど残っていません。かろうじて壊れて陥没したホームや線路の後はまだ残っており、バス会社の事務所がかつての駅舎だったことを想像させる程度。あるいは脇に立つコンクリート造りの廃屋が駅舎だったのかもしれません。
草深き 路盤の鉄路 今はなし

私は荒れ果てた駅の跡地を散策しつつ撮影します。まだ早朝の霧が体にまとわりつく中、私は思うがままにあたりを歩きまわりました。鉾田駅の裏手には、広大な草原のようなものが広がっています。湿原とでもいえそうなこの湿原、後で調べましたが、何なのかよくわかりません。ゴルフ場でもなく、湿原として登録されていることもなさそう。ですが、北海道や尾瀬でみられるような光景は、旅立ちの朝として旅情をかき立ててくれます。立ち上る霧の向こうに果てなく広がる湿原。鉾田駅にはあらためて訪れたいと思いました。

駅周辺を存分に撮影した後、私は移動に踏み切りました。と、すぐに鉾田駅から数百メートルほど離れた場所にあるファミリーマートを発見。このファミリーマート、イートインコーナーを擁しています。ここのファミリーマートを昨夜知っていれば、充電ができたかもしれないのに残念。ここで朝食を食べたり充電したりして1時間近くを過ごしたでしょうか。バッテリーと胃を満たしたところで次の行き先へ向かいます。

鉾田市内をぐるっと回り、訪れたのは新鉾田駅。鹿島臨海鉄道大洗鹿島線の駅です。新鉾田駅は高架の上に設けられた単線の駅。有人改札でした。後で調べたところでは、鹿島臨海鉄道でも数駅しかない有人駅のうちの1つだとか。早朝とはいえ、時間も限られているので、私は新鉾田駅にはそれほど長居せず、次の場所へと向かいました。

次に私が訪れたのは、北浦湖畔駅です。鹿島臨海鉄道大洗鹿島線は単線で、しかも非電化の路線です。なので外から見ても鉄道があるようには見えません。延々と伸びる高架。それが、なかなか良い風情をこの鉄道に与えています。

北浦湖畔駅は、築堤の上にありました。この駅を私は下から、そして築堤の上から存分に撮影しました。ちょうどその時、気動車がやってきました。この気動車、二両編成です。朝の北浦に沿って走ってきたのでしょう。気動車がぶるぶると息もあらく駅を去っていく様も、物悲しいような情緒にあふれていました。朝もやの中に徐々に姿を消していく気動車。その様子は、鹿島臨海鉄道に対する私の愛着を産みました。
気動車の吐く煙 ともに霧に去り

今日の予定は、鹿島神宮をじっくりと参拝する予定でした。ですが、鹿島臨海鉄道の風情が気に入った私は、他の駅にも寄ってみることにしました。朝が早かったため時間もたっぷりありますし。

北浦湖畔を南に向かう途中、北浦に架かる橋を見つけました。行方市へ渡る橋のようです。ちょっと渡ってみました。この辺はとにかく農業の盛んな土地のようです。畑が一面に広がっています。ここが関東とは思えないほどののどかさを発揮していました。行方に渡ってはみたものの、丘の上の体育館に立ち寄った程度。私はすぐに橋を渡り、鹿島臨海鉄道の鹿島灘駅へと向かいました。

のびのびと続く道路の脇に、鹿島灘駅のロータリーへのパスが見えます。私はロータリーに車を停め、駅を散策しました。と、ちょうど気動車がやってきました。その気動車にはラッピングがされていました。鹿島臨海鉄道の沿線には大洗があり、そこにある水族館「アクアワールド」の水族たちをあしらっていました。なお、大洗はアニメ「ガールズ&パンツァー」の舞台にもなっているようです。それにあやかった「ガールズ&パンツァー」とのタイアップによって観光客を呼び込んでいるようです。駅にも「ガールズ&パンツァー」のキャラクターをあしらったポスターやステッカーが見受けられます。私は「ガールズ&パンツァー」を観ていないので、全くわかりませんが。

さて鹿島灘の駅の次に訪れたのは鹿島大野駅。この駅には最初から寄るつもりでした。なぜなら、鹿島大野駅は関東の駅百選に選ばれていたからです。この駅も無人駅でしたが、駅舎は立派なもの。独特の意匠が存在感を出していました。駅前は広大で、十分なゆとりがあり、百選に選ばれる理由も理解できます。ただ、コンクリートの駅舎には歴史の重みよりも、材質に由来する疲れと、随所に荒れが見られ、手入れがなされていない無人駅の悲しみを感じました。

鹿島大野駅よりも私が好感を持ったのは、次の長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅です。日本で一番長い駅名だそうです。ここでは、駅のロータリーに花壇が設えられており、地元のボランティアの方々と思しき年配の方々が一生懸命に手入れしていました。駅の周囲は白い砂で覆われています。その様はまるで三カ月前に訪れたばかりの沖縄を思わせます。駅のすぐ横を道路がまたいでおり、そこから駅を見下ろすこともできます。駅に到着し、遠ざかる気動車を見送ることもできました。

せっかく日本一駅名の長い駅に訪れたのだからと、近所のはまなす公園にも足を伸ばしてみました。この辺りは、北浦と太平洋に挟まれた長い砂州のような土地ですが、それなりに起伏があります。はまなす公園は名前こそ浜辺にありそうな名前ですが、実は起伏に富んだせせらぎや池を擁しており、公園が好きな向きには興味深い場所です。昇龍の滝と名付けられた人口の滝もしつらえられており、期せずして今回の旅で滝も訪問できました。オニヤンマが辺りを遊弋し、地震で壊れたままとはいえ、水琴窟が設えられています。この公園の目玉は展望塔です。私もお金を払って上に登りました。

朝方に辺りを覆っていた靄こそ消えたものの、展望塔からの景色はあいにくの雲でさえぎられていました。なので鉾田や鹿島の風土を一望に見渡すことはできませんでした。ただ、展望塔にはこの地を紹介する展示がありました。鹿島の歴史や風土。かつての鹿島神宮が置かれた地理や、鹿島神宮を中心として栄えてきた歴史の一端。それらを知ることができたのはよかったです。展望塔から見下ろすと、グラウンドでは少年野球の試合が行われ、フリーマーケットが催されています。のどかな朝の様子を堪能しました。
鹿島灘 霧とハマナス 斑色

私が続いて訪れたのは、荒野台駅。駅の名にそむかず、駅の片側の地は全くの未整備。道路だけは区画されていますが、区画された未来の駅ちか物件は、植物が奔放に蔓や枝を伸ばしています。一組の家族連れが、虫かごと網を持って昆虫を探していました。多分、この辺りには昆虫がわんさかいるのでしょう。その証拠に、私もロータリーの地面でバタバタしていたカブトムシのオスを捕まえました。その傍の林の樹の幹でもカミキリムシを捕まえました。荒れ野どころか、自然の豊かな駅。私にとっての荒野台駅はそんな印象を残しました。

さて、そろそろ鹿島の街並みが近づいてきました。次に私が向かったのは、塚原卜伝の墓と生家跡です。かつては梅香寺の境内にあったとされる墓ですが、寺は昔に焼失し、元は寺の境内だったと伝わる地に祠と墓が残るのみです。でも、小高い斜面を登った場所にある墓の位置は素晴らしい。周りの小高い丘に囲まれており、そこからの景色は素朴な感じに覆われていました。ここで眠れる塚原卜伝は、剣豪として生き抜いた怒涛の生涯からは一転、安らかでくつろいでいられそうです。私は自分の墓の場所にはあまりこだわりはありません。ですが、塚原卜伝の墓の場所だけは望ましいと思いました。こういう場所で永遠の眠りにつきたい。
剣聖を 詣でし我に トンボ守り

続いて私が向かったのは、鹿島神宮駅です。昨夜訪れた時は、暗闇の中に立つ塚原卜伝の像はよく見えませんでした。お日様の下でみる、剣豪は鹿島の街とその発展を見据え、堂々としています。鹿島神宮の駅前は、昨夜見た時の印象とさほど変わりません。にぎやかではなく、店もあまり見られません。ただ、鹿島神宮へ至る参道の玄関口としては、十分な広さがとられていました。駅には鹿島臨海鉄道の気動車も停車しており、ターミナル駅であることは十分に理解しました。


さて、ようやく鹿島神宮へ参拝する時がやってきました。昨晩訪れた参道は、誰もいない静けさに満ちていました。ですが昼間はさすがに人通りがあり、店々が軒を開いています。門前町としてにぎわっていますが、あくまでも節度をわきまえているようです。私は駐車場に車を停め、参道を歩いて境内に入りました。楼門から、拝殿で参拝し、さらに奥宮へと歩を進めます。

鹿島神宮は初めての参拝ですが、ここは拝殿や本殿よりもさらに奥の樹叢や奥宮、そして御手洗池が印象に残りました。御手洗池。この池は全く涸れることがないそうです。横から湧き出る泉の水は汲み放題。御手洗池から流れ出した水流はさらに奥へとせせらぎとして流れ、辺りを潤しています。このせせらぎにはザリガニが多数生息しています。その多さはなみではありません。少年たちが無限に思えるほどのザリガニを捕まえていました。私も手で何匹か捕まえてみました。簡単に手で捕まえられるほど、ザリガニがうじゃうじゃといます。これほどたくさんのザリガニを一つ所で見たのは生まれて初めてでしょうね。東屋が設けられていますが、笛を吹く方が多彩なメロディーを奏で、あたりのなごやかな光景に彩りを添えています。
熱暑にも きのこ育む 清き杜

御手洗の 霊験篤し ザリガニズ

御手洗池とその周辺の景色。豊かな自然の中を流れる緩やかな時間。私は時の過ぎるのを忘れ、ここでしばしの癒しを受け取りました。茶店でイワナの塩焼きを食べ、日あたりのよい景色を眺めながら、御手洗池にはもう一度来たいと心から思いました。境内には鹿園があり、何匹もの鹿が餌を食んでいました。鹿の餌が売られていたので、私も餌を買って鹿と触れ合いました。鹿と言えば奈良が有名ですが、もともと鹿島の鹿が由来なのだとか。

境内の樹叢は、まっすぐな高みを持つ杉が何本も林立し、ここが神聖な杜を感じさせてくれました。縦に伸び、広がりを持つ樹叢は、はるか向こうまで奥行きをもって続いています。それらの樹々は長い年月をかけて育ち、時間の積み重ねを体現しています。縦横奥行きに加えて時間をも。この樹叢は、四次元の空間そのものなのです。その一角には、要石と呼ばれる石が埋まっています。古くから今までに幾多の地震を食い止めて来たのだそう。事実、鹿島を震源とした地震はあまり聞いたことがありません。北には北米プレートと太平洋プレートがせめぎ合う日本海溝を、西には関東大震災や遠からず来る東海地震の震源を擁するこの地。古人は経験からこの地が地震の緩和地帯であることを見抜いていたのかもしれません。この先も要石がわが国の地震の被害を最小限に留めてくれることを祈りました。

鹿島神宮は果てしないほど境内が広いわけではありません。かつては広大な所領を有していたのでしょうが、今は道路や住宅地、店舗に囲まれています。ですが境内の中に入ると、広く感じられるから不思議です。四次元の空間がそう感じさせるのか、自然に富んだ御手洗池がそう思わせるのか。さほど広くもなく、寝ていない割には疲れを感じません。もう一度行ってみたいと思える神社でした。
人の来ぬ 道を進んで 涼をとる

参道を歩いて駐車場に戻りました。参道で鹿島名物を食べたかったのですが、掲題の御手洗池のほとりで食べたイワナで我慢。次回はいろいろと食べたいと思います。

続いて私が向かったのは、鎌足神社です。藤原鎌足が鹿島の出身である事は、前掲の「本当はすごい!東京の歴史」にも載っていました。私ももともとの知識として持っていました。その出自を証明するかのような鎌足を祀る神社があると知り、これは行かねばなるまい、と思いました。鎌足神社は鹿島神宮とは比べ物にならないほど小規模で、宮司も常駐していないような小さなお社でした。ですが、この神社こそが、日本を長年にわたって支配し続けた藤原氏の由来が鹿島にあった証なのです。
明日香へと 史よ届けと 汗立ちぬ

続いて、近くにある根本寺でも参拝。ここには芭蕉も訪れたことがあり、鹿島でも、いや、日本の国内でも有数の古刹とのこと。誰もいない境内には蝉の鳴き声が響き、夏を感じさせてくれました。すぐそばには鹿島城山がそびえていました。車で頂上の駐車場までアクセスでき、そこからの景色はなかなかの絶景でした。鹿島神宮側が見られず、神宮を一望できなかったのが残念です。鹿島城を見られたことで、もう一つの目的地に足を向けました。
燃える日に 発願せんと 蝉時雨

早朝の 霧は何処へ 高気圧

霧去りて 陽が照り返し 水郷や


まず最初に訪れたのがクラブハウス。鹿島の臨海工業地の一角に立つそこは、見事な設備で私を迎えてくれました。アントラーズと言えばJリーグ屈指の名門チームとして有名です。ところがJリーグ発足前のチームは、住友金属工業のサッカー部を母体とした、弱小な地方の一クラブでしかありませんでした。それが、今や、Jリーグ最多の優勝回数を誇るクラブに成長しています。その成功の秘密の一端がこのクラブハウスの設備から垣間見えました。暑い中、選手が練習している姿も見えます。アントラーズグッズもさまざまなものが取りそろえられています。ここでは鹿嶋市のマンホールカードを配布していましたが、マンホールをあしらったマウスパッドも購入しました。本当はユニフォームなども買いたかったのですが、そうそう来られないので我慢しました。

クラブハウスの近くには、風力発電の風車がいくつも回っていました。私はそれらを写真に撮ろうと鹿島港へと車を走らせました。鹿島の街の発展は、鹿島神宮や塚原卜伝に代表される武道の伝統だけではなく、鹿嶋港を中心とした工業地帯に支えられたことも忘れてはなりません。鹿島アントラーズもまた、港を中心とした産業から生まれたクラブだったのですから。


日が昇り、暑さがかなり厳しくなってきました。私は続いてカシマサッカースタジアムへと向かいました。ゆうべ見た繭のように白く輝くスタジアムは、太陽の下でも同じように輝いていました。ジーコの像があり、サッカーボールのモニュメントがスタジアム前に飾られています。私はカシマサッカーミュージアムがあることを知り、外観をじっくり眺める間も惜しく、そこへ入りました。鹿島アントラーズといえばJリーグ発足時を彩った幾人もの名選手を忘れるわけにはいかないでしょう。ジーコはもちろん、アルシンドや本田選手、黒崎選手、長谷川選手、秋田選手、古川選手、レオナルドやジョルジーニョなど、枚挙に暇がありません。

ミュージアムには当時のロッカールームがそのまま残されています。展示コーナーにはクラブが今まで勝ち取ってきたトロフィーやペナントで埋め尽くされています。おびただしい新聞記事が額装されたパネルとして並び、当時の熱狂を思い出させてくれます。今までに在籍した選手のうち、アントラーズの歴史で特に選ばれた十数名が殿堂入りと同等の扱いで顕彰されるコーナーも設けられています。まさに、Jリーグが発足してから二十数年の歴史がこのミュージアムに凝縮されています。2002年日韓ワールドカップの舞台としても使われたことや、そもそもスタジアム建設前からの歴史など、町おこしのレベルをはるかに超え、世界にカシマの名を轟かせたいきさつを知ることができました。かつて、Jリーグ発足前にはサッカーでは無名だった鹿島が、なぜここまで国内屈指のサッカーの街になりえたのか。その歴史は日本のこれからを考える上で参考となりました。

私はカシマサッカースタジアムの中で至福の数時間を過ごしました。ミュージアムからはグラウンドのピッチにも少し足を踏み入れることができます。広大な空間を選手の視線から見渡す感動。私が訪れた日は試合は開催されていませんでしたが、試合となるとこのスタジアムがどう変わるのか。興奮がまざまざと伝わってくるようです。

私は、ミュージアムの中に図書室を見つけました。図書室に展示されている膨大なサッカー関連の雑誌や書籍の数々。目をみはりました。サッカー、ストライカー、サッカーマガジン、サッカーダイジェスト。その他いくつものサッカー雑誌の数々。私が知らないものもあります。そうした貴重な雑誌の数々がバックナンバーとして創刊号から含めて並んでいます。サッカーがまだ日本ではそれほど人気でなかった頃のサッカー雑誌など、そうそう読めるものではありません。七十年代、八十年代の記事を時間のたつのを忘れて見入っていました。タブレットを充電させてもらいながら。

寝不足もあって、三十分から一時間ほどの仮眠もさせてもらい、私はこのミュージアムの設備をあらゆる意味で堪能しました。

すでに時刻は閉館の5時近くになろうとしています。私はミュージアムを出て、カシマサッカースタジアム駅へと向かいました。この駅はスタジアムで試合が開催される日だけ営業し、普段は臨時駅として使われていません。この日も駅の中には入れませんでしたが、鹿島臨海鉄道とJR東日本の共同駅の様子を外から思うままの角度で撮りました。

そろそろ日が落ちてきました。私が鹿島にいられる時間もそう長くはありません。本当は銚子の方にも行きたかったし、香取神宮や息栖神社にも行きたかった。ですが、とても行けそうにありません。そこで私が向かったのは鹿島灯台。住宅地の中にぽつんと立つ灯台は、海に面していないにもかかわらず、なかなか見ごたえのあるものでした。

おお、日が今にも落ちそうとなっています。鹿島に来れるのはいつかわからず、あと一カ所どこかに行っておきたい。そこで、私は近くのもう一駅だけ寄ることにしました。北浦を渡る橋から見事な夕日を眺めながら、対岸の潮来市へ。延方の駅前を散策します。JR東日本の駅をじっくりと堪能しました。

鹿嶋市を去るにあたり、最後にやり残したこと。そう、それは昨晩ばんどう太郎に行けなかったこと。銚子方面に足を伸ばせなかったこと。なので神栖市にあるばんどう太郎を訪れ、うどんで鹿島の旅を締めました。疲れた体においしいうどんがとてもうれしかった。

お店を出た時、すでにあたりは闇に覆われており、私は都心への帰途に就きました。高速道路を飛ばして都心へ。途中、妻子を帝国ホテルで拾い、家へと。充実に充実を重ねた二日間でした。


場所 日時
Pasar幕張 幕張PA (下り) 2018/7/14 19:41
ミニストップ Pasar幕張下り店 2018/7/14 19:47
酒々井PA (下り) 2018/7/14 20:09
大栄PA (下り) 2018/7/14 20:25
佐原PA (下り) 2018/7/14 20:45
鹿島神宮大鳥居 2018/7/14 21:01
鹿島神宮 楼門 2018/7/14 21:16
カシマサッカースタジアム 2018/7/14 21:47
出光 セルフ鹿嶋SS 2018/7/14 22:14
ちゃあしゅう屋 鹿嶋店 2018/7/14 22:20
鹿島神宮駅 2018/7/14 22:56
剣聖 塚原卜伝生誕之地 プレート 2018/7/14 23:07
ミニストップ 鹿島神宮駅前店 2018/7/14 23:15
セイコーマート鹿嶋中店 2018/7/14 23:28
鉾田駅 2018/7/15 0:13
ファミリーマート 鉾田中央店 2018/7/15 5:38
新鉾田駅 2018/7/15 6:13
北浦湖畔駅 2018/7/15 6:23
鹿島灘駅 2018/7/15 7:06
鹿島大野駅 2018/7/15 7:30
長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅 2018/7/15 8:37
大野潮騒はまなす公園 2018/7/15 9:16
荒野台駅 2018/7/15 10:58
セイコーマート 鹿嶋小山店 2018/7/15 11:14
塚原卜伝の墓 2018/7/15 11:24
塚原卜伝像 2018/7/15 11:41
鹿島神宮大鳥居 2018/7/15 11:48
鹿島神宮 楼門 2018/7/15 11:51
鹿島神宮 拝殿・本殿・御神木 2018/7/15 11:56
鹿島神宮 境内鹿園 2018/7/15 12:15
鹿島神宮奥参道 2018/7/15 12:15
鹿島神宮 奥宮 2018/7/15 12:16
鹿島神宮 要石 2018/7/15 13:00
鎌足神社 2018/7/15 13:34
根本寺 2018/7/15 13:40
鹿島城山公園 2018/7/15 13:56
鹿島アントラーズ クラブハウス 2018/7/15 14:22
セイコーマート 鹿嶋平井店 2018/7/15 14:44
カシマサッカースタジアム 2018/7/15 15:20
カシマサッカーミュージアム 2018/7/15 15:20
鹿嶋灯台 2018/7/15 17:39
延方駅 2018/7/15 18:24
ばんどう太郎 神栖店 2018/7/15 18:48
大栄PA (上り) 2018/7/15 20:15
辰巳第二PA 2018/7/15 21:44
神田橋出入口 2018/7/15 21:53
帝国ホテル 東京 2018/7/15 22:00

日本代表はこれからも成長し続ける。


ロシアワールドカップが佳境を迎えています。

今朝未明には、日本がベルギーに対して後一歩まで追い詰める戦いを見せてくれました。私もテレビの前で応援していました。そして感動しました。サッカーの試合をみた後、ここまで放心状態になったのは久しぶりです。多分、ドーハの悲劇以来かも。でも、今は日本代表の選手やスタッフの皆さんに激闘をねぎらいたい気持ちでいっぱいです。特に今回のワールドカップの日本代表は攻める気持ちに満ちていたのでなおさらうれしかった。

もちろん、ポーランド戦の最後の8分+アディショナルタイムは、観ていた私もイライラが募りました。でも、よく考えると当然ありうる批判を承知であういう戦術を取ったのだから、それは逆説的に攻めの姿勢だといえます。ポーランド戦のあの時間の使い方にはさまざまな方から多様な意見がでました。それでいいと思います。いろいろな意見が同居してこそ成熟していけるのですから。さまざまな意見は成長にもつながります。私はあのパス回しは、ドーハの悲劇を経験したからこその成長だと思っています。

私は何よりも今回の戦いで日本の成長が感じられたことがうれしかった。感謝です。私にとって日本代表のあるべき姿とは、奇跡でもジャイアント・キリングを成し遂げることでもなく、着実な成長によって一歩一歩成長していくことなのです。ベスト8に行けなかったとしても、成長の結果があれば胸を張れます。なぜならそれは私自身の生き方にかぶるからです。

1993年のドーハの悲劇も同点シーンの直前までテレビ観戦していました。あの同点ゴールの瞬間、私はやきもきしていたあまりに見ちゃいられないと目を離しました。その悔しさから1997年のジョホールバルの歓喜はテレビで目撃していました。そして1998年、日本が初めて参加するフランス大会を応援に行こうと一念発起しました。スコットランドの蒸留所で働きながら、フランスへ休暇をとって遠征しようと。英文で蒸留所に履歴書を送りもしました。結局、渡英も渡仏もできませんでしたが、そのエネルギーは単身東京に出て一人暮らしする推進力となりました。上京した私は、2002年の日韓ワールドカップをスカパーのカスタマーセンターで体験しました。それはまさにワールドカップ景気の真っただ中でした。以来、2006年、2010年、2014年と毎回テレビで観戦しています。日本代表がワールドカップで戦う日々は、私が勤め人から個人事業主へ独立し、家族や家の問題で悩む私の人生の浮き沈みと軌を一つにしています。だからこそ、今回の日本代表チームがオフェンシブな姿勢を見せてくれたことがうれしいのです。守りではなく攻めの姿勢でいてくれたことが。

私の人生には失敗もたくさんあります。それは全て攻めの姿勢から出た失点です。でも、私は後悔していません。その失敗は私の糧となりました。ちょうど日本代表がドーハの悲劇で攻め続けたことで逆襲を食らい同点にされた経験を、今回のポーランド戦で生かしてくれたように。それが成長の証なのだと思っています。そして、批判されたポーランド戦の振る舞いを倍返しするかのように、ベルギー戦では躍動する姿で見返してくれました。ベルギー戦の最後のカウンターアタックも、性急に攻めたとの批判をあるようですが、私はそれを含めて誉めたいとおもいます。その姿は守りの姿勢では日本代表は強くなれないことの何よりの証明です。そして人生も守りに入るとそこで成長は終わりです。

おそらくファンの方には性急な結果を求める人もいることでしょう。ベスト8に進みたかったと。でも、私には今回の戦いで日本が成長していることを世界の人々に分かってもらったことで十分です。そしてピッチの中だけでなくスタンドでもそう。サポーターの皆さんがスタンドの清掃を率先して行うことで、日本が世界の中で存在感を見せてくれました。ベルギー戦の敗戦後もロッカールームをきちんと清掃した日本代表の姿も称賛されました。

私がサッカーを見始めたころの日本にとって、ワールドカップとは夢の世界でした。三菱ダイヤモンド・サッカー(かつて放映していたテレビ番組)の中で髪を振り乱して疾走するマリオ・ケンペスの姿に印象を受けた頃、私は日本がワールドカップに出られるなんて考えてもいませんでした。それから30何年。いまや日本は世界から称賛される国になりました。これを成長と呼ばずして、何と呼ぶのでしょう。成長を続けていけば、いずれは日本もベスト8に勝ち残り、ゆくゆくは決勝の舞台を戦うことだってあるでしょう。私が存命中に日本のキャプテンがトロフィーを掲げる姿が見られることもあるはず。女子がすでにそれを成し遂げているのですから。

私はサッカーと政治を結び付けることはくだらないと思います。政治とは関係なく、まずサッカーでさらなる成長を遂げること。それが望みです。そして日本サッカーの成長を楽しみながら、これからの人生を歩みたいと思っています。その望みを叶えるためには、もっと関心が高まらないと。日本が敗退したから「はい、ワールドカップみるのやんぴ」というのではなく、引き続きサッカーを見てほしいのです。これから準々決勝、準決勝、決勝と世界の強豪チームによる素晴らしい試合が見られるはず。今回も私が観た中でスペインVSポルトガル、アルゼンチンVSフランス、日本VSセネガル、日本VSベルギーといった名勝負がありました。同じように素晴らしい試合をまだ楽しめるはず。決して一過性のブームでやり過ごすのではなく、サッカーを楽しみ、サッカーに興味を持ってほしい。人々が祭りだけでなく、普段からサッカーに関心を持ってくれれば日本はさらに成長できるはず。

そんな私もここ十年ほどは、J1、J2の試合を年に一度見に行くぐらいの、ワールドカップの時に湧き出るにわかサッカーファンの一人に成り下がっていました。だからこそ私は、今回の日本代表の戦いに感銘を受け、これではいかんと思いました。そんなわけで、弊社にできることといえば地元チームのサポートです。今回、弊社は地元の町田ゼルビアの一口サポーターになりました。まだ弊社には余裕がないので一口しかサポートできませんし、オフィシャルサイトに名前も載りません。そもそも登録してくれたのはうちの妻ですし。ですが、私もこの機会に町田ゼルビアをまた応援しようと思います。町田ゼルビアは娘たちがチアリーディングチームに属し、お世話になったチーム。私もその頃は何度も観戦に行きました。なので、この機会にまず地元から協力しようと思います。そしてここ二年ほど、応援にも行けていないので、サポーターに登録したことを機会にゼルビアの試合から観に行こうと思います。日本がより強くなるためにも。


PK


2014 FIFAワールドカップ Brasilの開催中に読んだ本書。旬なタイトルもあって手に取った。

著者はすでに「あるキング」という野球の不条理さと文化を逆手に取った興味深い一冊をものしている。本書もそれに連なり、サッカーに絡めたエスプリの効いた一篇であることを期待した。キッカーとキーパーの息詰まる駆け引きと、その周辺の思惑を絡めたような。

著者にかかると、こうなるか、という意表を突く展開である。精彩を欠いたサッカープレーヤーの逡巡。そこには何があったのか。脅迫や八百長など、可能性は様々に浮上する。著者の筆は時空を自在に行き、謎の登場人物や出来事を次々に繰り出す。SFめいた展開があるかと思えば、サッカーというスポーツの本質を突くような描写もある。単なる謎解きに終わらない展開もよい。それでいて、冒頭に提示された謎はさわやかな読後感を残して物語は閉じられる。

旬な時期に本書を読めてよかったと思えた一冊。

’14/06/18-‘14/06/19


4‐2‐3‐1―サッカーを戦術から理解する


昨年末から今年にかけ、サッカー観戦の集まりに参加する機会を何度も頂き、今年はサッカーじゃ!と燃えていた時期に読んだのが本書。

この本を読んでから7か月が経つが、予想以上の残業の日々で観戦の機会がせいぜい2,3度しか取れず、本書から得た知見を活かせる機会がないのは残念としかいいようがない。

だが、本書から得た知見は古びた訳ではなく、日本代表が4-2-3-1の布陣に変えたことで、本書の分析が的を射ている証左になったと思う。

サッカーの戦術面について多くを割いている本書だが、戦術、ひいては規律の重要性を強調し、そこからビジネスの話につなげるといったつまらない内容ではない。サッカーのダイナミズム、華麗な個人プレイと並び称されるべき布陣、戦術の魅力を、豊富な試合例から解説している。

サッカーの布陣というとなんとなく4-3-3とか5-3-2とか、数字だけが独り歩きしている印象が強いが、なぜそうでなければならないのかを正確に語れる人は少ない。少なくとも本書を読むまでの私はそうであった。

本書を読むと、なぜ一時代を築いたあのチームは強かったのか、また、あの大会あの試合でジャイアントキリングがなぜ起きたのか、について興味深い知見が得られるだろう。また、上に書いたことと矛盾するが、ビジネスや人生の上で組織を築く役割に就く際にも本書は参考となると思われる。実際に本書を読んで少し後に、総務部長として組織を作りあげる必要があったが本書から得た知見も参考になった。

最近は時間がなくYouTubeやスポーツ番組でダイジェストを見るだけの関わり合いに甘んじているが、布陣を理解するには一試合通した観戦が必要であり、自分の人生を豊かにするためにも、観戦の機会を作らねばとつくづく思う。

’12/03/27-12/03/28