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リモートチームでうまくいく


著者の名前は今までも、さまざまなインタビューやネットニュースなどで拝見してきた。著者が経営するソニックガーデン社の取り組み事例として。
著者の登場する記事の多くはCybozu社に絡んでいることが多い。
そういえば、一時期、私と同じくkintoneのエバンジェリストだった方もソニックガーデン社の社員だった。
それもあって著者やソニックガーデン社のことは前から気になっていた。

著者やソニックガーデン社が唱える理念には、共感する部分が多い。
本書の前に著者が出版した『「納品」をなくせばうまくいく』は、私の心を動かした。
情報処理業界で生計を立てるものにとって、納品という営みはついて回る。それをあっさりとやめようと宣言する著者の言葉は、私を驚かせてくれたし、共感もできた。
システム業界にとって納品という商慣習は常識だった。だが、それはもはや非合理な商慣習ではないのか。そう考えていた人はいたかもしれないが、実際に行動に移す会社がどれだけあるだろう。

本書はそんな著者がリモートワークの要諦を語ってくれるというのだ。書店で手に取り、購入した。

弊社はもともと、リモートワークを実施している。
私自身はほぼリモートワークの体制で仕事を行っている。
だから、本書を買わなくてもリモートワークの本質はつかんでいるつもりだ。ではなぜ、本書を購入したのか。
それは、私の役目がプレーヤーから経営者に変わったからだ。

私はリモートワークの全てを自分の中に言葉として血肉にできていない。
それは私がプレーヤーであり続けてきたからだ。だから、私がいくらリモートワークの効能を人に勧めても説得力に欠ける。
だが、そろそろ外部の協力技術者も含めたリモートワークの体制を作ることを考えなければ。

弊社として、今後もリモートワークでいくことは間違いない。
そのため、経営者としてリモートワークを技術者にお願いする必要に駆られるだろう。その時の裏付けを本書に求めた。本書を読み、より一層の論理武装をしたいと思った。

私がやっているリモートワークとはしょせんプレーヤーのリモートワークだ。私自身が築き上げてきた仕事スタイルでしかない。そう自覚していた。
こんごはリモートワークを管理する側としての経験や知見が求められる。
私がやっているリモートワークの管理とは、しょせんはリモートワーカー同士の連絡に過ぎない。リモートチームになりきれていない。
その構築のヒントを本書から得たかった。

本書を読んだ後、弊社は雇用に踏み切った。そこで私は監督者として立ち振る舞うことを求められた。
ところが、私はどうもリモートワークの監督者として未熟だったようだ。期待する生産性には遠く及ばなかった。

それはもちろん本書や著者の責任ではない。私が未熟だったことに尽きる。それを以下でいくつか本文と私の失敗を並列してみたいと思う。

「セルフマネジメントができる人たちで構成されたチームを作り上げることでリモートチームは成立するのであって、その逆ではありません。多くの企業において、リモートワークの導入を妨げているものは、リモートワークそのものではなく、その背景にあるマネジメントの考え方ではないでしょうか。」(118ページ)

セルフマネジメントができるとはつまり、技術力が一定のレベルに達していることが条件だ。技術があることが前提で、それを案件の内容や進捗度合いと見比べながら、適切にマネジメントしなければならない。残念ながら、その技術力の見極めと案件への振り分けにおいて失敗した。これは経営者として致命的なミスだったと思う。

「私たちの会社もROWE(完全結果志向の職場環境)をベースに考えています。私たちがアレンジしているのは、その成果とは個人の成果ではなく、チームの成果であるとする点です。」(136ページ)

弊社も私を中心としたハブ型ではなく、各メンバーが相互に連携する組織を考え、メンバーにもその意向を伝えていたつもりだった。だが、どうしてもハブ型の状況を抜け出せなかった。
残念ながらメンバーが一定程度の技術に達していないとこのやり方は難しいかもしれない。お互いが教え合えないからだ。いくつかの案件では成功もしかけたのだが。
もう一度チャレンジしたいと思う。

「監視されなければサボる人たち、監視されないと安心しない人たち、そんな人たちでチームを組んだところで、リモートチームは実現することはできませんし、そもそもそんな人たちがオフィスに集まったとしても、大した成果を上げることなどできないのではないでしょうか。」(173ページ)

これも完全に書かれている通りだ。ただ、私としては実際は働き具合がどうだったのか、今となっては確かめる術もないし、そのつもりもない。結果が全てだからだ。

「オンラインでは物理的な近さも遠さもないので、フラットに誰とでも絡むことができるからです。」(206ページ)

私が間違えたことの一つが、本書の中でも紹介されているRemottyのようなお互いの顔が見られるツールを導入しなかったことだ。それによって例えば雑談がオンライン上で産まれることもなかったし、日記や日報を書いて見せ合う環境も作りきれなかった。

「新人のリモートワークは“NG”」(177ページ)

外部の人に弊社の失敗事例を告げた時、真っ先に指摘されるのはこのことだろう。私がしでかした間違いの中でもわかりやすい失敗がこれだ。いきなりリモートワークで走り出してしまった。

私がしでかした失敗によって、本稿をアップする一週間前に一人のメンバーを手離してしまった。お互いが持つ大切にしたい考えやスキルのずれなど、もう少しケアできることがあったのに。とても反省している。

弊社の救いはまだメンバーが残っていることだ。もう一度このメンバーでリモートワークの関係を作っていきたいと思う。
私を含めた弊社のメンバーにリモートワークが時期尚早だったのは確かだ。ただ、まがりなりにも一年近くはリモートワークの体制を続けてこられた。なんといってもCybozu Days 2021は、弊社と弊社に近しいメンバーだけで無事に出展できたのだから。
今後も週二回程度はリアルの場を作りながら、もう一度リモートワークの環境を作っていきたいと思う。

なお、本書に書かれている社長ラジオは、毎朝のスラックでのブログアップとして続けている。これは私の考えを浸透させる意味では貢献してくれているはずだ。そう信じている。
本書に書かれていることで役に立つことは多い。

‘2020/05/29-2020/05/31


サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~


本作を映画館で見られてよかった。心底そう思った。
もともと聴覚に関心があった私は、本作に対してもほのかにアンテナを張っていた。昨日になって上映がまもなく終わると知り、慌てて劇場に行くことに決めた。もし間に合わずにテレビやパソコンで見たら、本作の真価は味わえなかったに違いない。

聴覚に失調をきたした時、どのように聞こえるのか。本作はそれをリアルなサウンドで体感させてくれる。

主人公のルーベンはドラマーだ。恋人のルーがボーカルで金切声を上げる後ろで、ハードなメタル・サウンドをドラムで刻んでいる。ボーカルとドラマーという変則コンビの二人は、トレーラーで暮らしながら街から街をライブで巡っている。

だが、ある日突然ルーベンの聴覚がおかしくなる。くぐもった音しか聞こえなくなり、急速に会話にも支障をきたすようになる。ルーとの演奏も合わなくなり、ライブ活動どころではなくなる。
聴覚失調者のコミュニティに入ることになったルーベンは、ルーと別々に暮らす。そしてコミュニティの中で手話を覚え、やがてコミュニティに溶け込む。リーダーのジョーにも信頼されたルーベン。
しかし、ジョーから今後ずっとコミュニティに関わってもらえないかと言われた後、トレーラーを売って脳内にインプラントを埋める手術に踏み切る。
ジョーからはコミュニティの信念に反するため荷物をまとめて出てゆくように言われる。
「失聴はハンデではなく、直すべきものではない」との言葉とともに。
ルーベンは、インプラントを埋め込んでも聴覚が完全に回復しなかったことを知り、ある行動に出る。
これが本作のあらすじだ。

ルーベンの視点に立った時、音が歪み、不協和音を立てる。そのリアルな音響は、聴覚が壊れたら私たちの生活が壊れるとの気づきを観客に与えてくれる。
ただ、聴覚が狂っても振動は感じられる。それも本作が教えてくれたことだ。
私が本作を見たのは新宿のシネマートだが、BOOST SOUNDというシステムを導入している。このBOOST SOUNDは普通よりスピーカーを多く備え、サウンドのリアルな変化や、重低音による振動を腹で感じさせてくれた。
ルーベンの冒頭のメタル・ドラマーとしての迫力の音や、施設の子どもと振動でコミュニケーションする様子など。
本作こそ、映画館で見なければいけない一本だと思う。

私が聴覚に関心があると書いたのは、私自身、あまり聴覚がよくないからだ。
十数年前に96歳で亡くなった祖父は、晩年、ほとんど耳が聞こえていなかった。うちの親や兄妹が補聴器を買ってあげたが、ノイズを嫌がったのかあまりつけておらず、晩年は孤独の中にいたようだ。私はそんな祖父の姿を見ていた。

そして、私も上京した20代の中頃から音の聞こえにくくなってきたことに気づいた。
大学時代に友人とノイズのライブ(非常階段)に行ったことがあるが、ライブの後、数日間は耳がキーンとしていた記憶がある。その後遺症が出たのか、と恐れた。または祖父の遺伝が発言したのか、と。
ただ、私の場合、耳の不調は鼻の不調(副鼻腔炎)に関係しているらしい。そのため、耳の手術や補聴器には踏み切っていない。だが、七、八年前に聴覚の検査をしてもらった際は、ぎりぎり正常値の下限だと診断された。

最近はリモートワークでヘッドホンを使うようになり、ようやく仕事にも影響を及ぼさなくなった。だが、電話で連絡を取り合っていた時期は、相手の滑舌が悪かったり、電波がつながりにくかったりすると全く聞こえず、私を苛立たせた。また、居酒屋での会話は今もあまりよく聞こえない。
本作でルーベンが最初に自覚したくぐもった音は、私にとっては自分の実感として体験していることだ。

だからこそ、本作は私にとって重要な作品だった。また、私自身の今後を考える上でも自分事として身につまされながら見た。

本作は、聴覚障碍者向けにバリアフリーで作られている。つまり、作中の音についても全て字幕が表示されるのだ。ルーベンのドラムやため息。ルーの鳴き声、風のざわめきや歪んだ鐘の音など、全ての音。
また、コミュニティでは人々が手話で話し合う様子がリアルに描かれている。十人ほどの人が輪になってめいめいが手話を操ってコミュニケーションを取る様子。それは、テレビでよく見かける、話者の横にいる手話通訳者のように一方通行ではない手話であり、とても新鮮だった。
そうした意味でも聴覚障碍者が見ても自分のこととして楽しめるに違いない。
だが、やはり正常な聴覚を持っている人にこそ、本作は見てほしい。

もう一つ、本作を見ていて気になったことがある。それは「Deaf」という言葉が頻繁に登場することだ。
「Deaf」とは、いわゆる英語の聴覚障碍者を表す言葉だ。日本では放送禁止用語になっている「つんぼ」にあたるのだろうか。
最近は聴覚障碍者という呼び名が定着しているが、英語ではそうした読み替えはないのだろうか。とても気になった。
最近はSDG’sやMeTooやダイバーシティーやLGBTという言葉が浸透している。だが、昔はそうではなかった。だから差別を助長するのではとの懸念から「つんぼ」が忌避されたのは分かる。
だが、今の時代、そうした差別の意図はあからさまに出せないはずだ。「つんぼ」「めくら」などの言葉には否定的なニュアンスがあるから復活できないのだろうか。「Deaf」が英語圏ではどのようなニュアンスなのか調べてみようと思う。

本作は終幕になるにつれ、ルーベンを演じたリズ・アーメッドの演技に引き込まれていく。パワフルなドラミングと自らを襲った悲劇に悪態をつく様子と、失調の苦しみを懸命に押し込もうとする演技は、アカデミー主演男優賞にノミネートされただけはある。
彼の感じる聴覚の不自由さが観客に伝わるからこそ、彼の表情が生きる。

また、ジョーに扮するポール・レイシーの演技も見事だ。何とかルーベンを立ち直らせよう、コミュニティに溶け込ませようとする演技も素晴らしかったと思う。
「静寂の世界は私を平穏な気持ちにさせてくれる」という言葉は、本作を見る上でキーになるセリフだ。

‘2021/10/24 シネマート新宿


伊達政宗 謎解き散歩


続けて、伊達政宗を扱った書籍を読む。

本書は、磐越西線の車中で読んだ。ちょうど摺上原の戦いの舞台を車窓から見つつ、雄大な磐梯山の麓を駆ける武者たちを想像しながら。

伊達政宗の生涯を眺めると、大きく二つの時期に分かれていることに気づく。
前半は南東北の覇者となるまでの時期。そして、後半は天下取りを虎視眈々と画策しながら、仙台藩主として内政に専念した時期。
本書はそれに合わせ、前者を第1章「戦国武将政宗編」とし、後者を第2章「近世大名政宗編」としている。

本書が、伊達政宗の生涯を彩ったさまざまの出来事をQandAの形で紹介している。QandAで問いと答えを用意しながら、同時に伊達政宗の魅力を描いている。
本書はまた、カラー写真がふんだんに用いられている。それが功を奏しており、とても読みやすい。また、QandAの形式になっていることで、読者はテーマと内容と結論が明確に理解できる。

読みやすい構成になっている本書だが、本書は「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」に比べると学術的に詳しく踏み込んでいる印象を受けた。本書の中には書状が引用され、古図面が載っている。それらは本書に学術の香りを漂わせる。だが、難しいと思われかねない内容もあえて載せていることが本書の特徴だ。そうした配慮には、著者が元仙台市博物館館長という背景もあるはずだ。
また、本書には著者の個人的な意見や思いや推論はあまり登場しない。「秀吉、家康を手玉に取った男「東北の独眼竜」伊達政宗」には、伊達政宗は天下への野心をどれだけ持っていたかという著者の推論が載っていた。それに比べると、本書の編集方針はより明確だ。

第3章「趣味・教養・その他編」は、戦国時代でも有数の傾奇者だったとされる伊達政宗の文化的な側面に焦点を当てている。
その教養は、幼い時期に師として薫陶を受けた虎哉宗乙からの教えの影響が大きい。だが、戦国の殺伐とした日々の合間を縫って伊達政宗自身が精進した結果でもあると思う。
伊達政宗がそのように自己研鑽を欠かさなかったのも、みちのおく(陸奥)と呼ばれた地に脈々と受け継がれた伊達家の歴史が積み上げた文化や環境の影響があったに違いない。

文武に励んだからこそ、後世まで語り継がれる武将となったこと。
培った素養が伊達政宗の生涯にぶち当たったさまざまな苦難を乗り越える助けになったことも。

武だけで戦国の世は生き抜けない。機転も利かせなければ。それでこそ人間の真価が問われる。機転を利かせるには豊富な前例を知っていたほうがよいことは言うまでもない。
戦国はまた、外交の腕も試される時代だ。外交には交渉や駆け引きの能力が必要。時には故事を引用した文も取り交わされる。
文を受けたとき、とっさに適切な故事を交えた文を返せなければ恥をかく。極端な例では、それがもとで国を喪うことだってある。武将といえども教養が求められるのだ。
この章はそうした教養を備えた武将であった伊達政宗の姿を描いている。

特に筆まめな武将であったとされる伊達政宗の一面を紹介する際は、コミュニケーションに長けていた姿が強調されている。
おそらくコミュニケーションに長けた能力は、伊達家の内政と外交を巧みにさばいていくにあたって大いに助けになったはずだ。

本書を読んで感じた気づき。それは、戦国武将が戦国の世を生き抜くのに最も必要な能力とは対人折衝能力ではないかということだ。
知力や武力といった分かりやすい能力よりも、部下を慰撫して忠誠心を集め、他国の武将と交流してその表裏を見極める能力。それこそが戦国の世にあって最も大切だったのではないか。これは大名や武将だけでなく、農民や商人や僧も含めての話だ。

ただ、歴史上の人物を評する上で対人折衝能力はあまり取り上げられないようだ。
信長の野望などのシミュレーションゲームにおいては、戦国武将を能力値で評価する。
例えば「信長の野望 創造」の場合、武将のパラメーターは「統率」「武勇」「知略」「政治」「主義」「士道」「必要忠誠」が用意されている。
もちろん統率や政治に対人折衝能力が必要なことは言うまでもない。対人折衝能力の総体が統率や政治としてあらわれるのだから。
だが、対人折衝能力だけを抽出しても、戦国武将のパラメーターとしては成り立つように思うがいかがか。

伊達政宗の場合、もちろん知力や武力が人より抜きんでていたことは間違いない。
だが、本書を読んで伊達政宗の生涯を振り返ってみると、戦場で圧倒的な武力を見せつけたような印象は受けない。また味方をも欺く剃刀のような智謀を発揮した形跡も見えない。
そのかわり、人と交渉することで死地を切り抜け、部下から信望を受け、領国を統治してきた繰り返しが伊達政宗の生涯には感じられる。

なぜそう思えたのか。それは今、私自身が会社を経営しているからだ。
社長とは一国一城の主。弊社のような零細企業であっても主には違いない。
経営してみると分かるが、社長には知力や武力は必要ない。むしろ人とのコミュニケーション能力こそが重要。他社や自社、協力社との対人折衝能力。それこそが社長のスキルであることが分かってきた。

その視点から本書を読むと、実は伊達政宗とはコミュニケーションに長けた武将であることに気づく。また、その能力に秀でていたからこそ苛烈な戦国の世を生き抜き、最後は御三家をも上回る待遇を得たのだ。
言うまでもないが、コミュニケーション能力とは阿諛追従のことではない。実力がないのに人との交流を対等にこなせるわけがない。人と対するには、裏側に確かな武術の素養と文化への教養を備えていなければ。
私も伊達政宗の達した高みを目指そう。そう思った。

‘2020/01/16-2020/01/18


一生に一度の月


小松左京展を見に行ってから、著者に興味を持った私。集中して著者の作品を読んだ。本書はその最後の一冊だ。

本書はショート・ショート傑作選と銘打たれている。
ショート・ショートといえば、第一人者として知られるのが星新一氏。星新一氏といえば、著者や筒井康隆氏と並び称されるSFの三巨頭の一人として著名だ。

三巨頭といってもそれぞれに得意分野がある。
著者の場合、あまりショート・ショートは発表していない印象がある。私は今まで著者のショート・ショートを読んだことがなかった。

本書は著者が1960年代から70年代中期にわたっていろいろな雑誌に発表したショート・ショートが収められている。
いろいろな、といっても本書に収められているのは雑多なショート・ショートではない。構成として五部のカテゴリーに分けられている。

例えば第一部「向かい同士」に収められた八編。それらは、「団地ジャーナル」が初出展だそうだ。
雑誌名から想像できる通り、八編は全て団地をテーマにしたショート・ショートだ。団地という濃縮された人間関係の中で起こり得る出来事をタネにアイデアを膨らませたこれら。ショート・ショートとしても傑作に仕上がりだと思う。

団地から想像されるのは、サラリーマンと核家族の集まり。そして、そうした世帯に付き物の小市民そのものの出来事。
著者はそれらから話を膨らませ、簡潔でしかもオチのあるショート・ショートにまとめている。
団地の上も下も筒井という名字の家族が住んでいたり、ゴールデンウィークと仕事人間を風刺したり、不倫に忙しい二組の夫婦を描いたり、団地への憧れを逆手にとったり、酔った亭主が最上階の家へと昇ったり、訪問販売員への風刺をしてみたり。

第二部「歌う空間」の四編は「新刊ニュース」が初出展のようだ。四編のどれもがSFの彩りを備えた作品だ。
宗教を風刺してみせたかと思えば、コミュニケーションの脆弱な本質を暴いてみせ、コンピューターに依存する人類の未来を予言したかと思えば、意識と肉体の実存について鋭くついてみせる。

ここで取り上げられた四編のどれもがショート・ショートというには長い気がする。原稿用紙に換算して二枚近くに及ぶような。
また、内容も、現代から見るといささか発想に古さを感じる。だが、これらのショート・ショートが発表されたのが、EXPO’70が開催された頃だと考えれば、どれもが未来への深い洞察を感じさせる。

第三部「一生に一度の月」は、毎日新聞で発表された一編だ。アポロ13号の月面着陸に湧く世間をよそに、一番盛り上がるはずのSF作家の生態を描いていて面白い。月面着陸を中継するテレビ番組をしり目に、マージャンに興じるSF作家というのがたまらない。まさに逆説そのものだ。

その時の感慨を表すのにふさわしく、著者はマージャンパイを月に向けて投げ、これが現代だと喝破する。なんとも本質をついているようで面白い。
テレビ中継で月の様子が見られる。そのイベントは当時よりもさらに技術が発達し、ネット社会になった今、考えてもすごいことではないだろうか。
ましてや当時の技術力ではとてつもない出来事で、一生に一度の月だったはず。

SF作家の矜持として、その様子をテレビにかじりつくことをよしとせず、あえてマージャンに身をやつし、無視して見せることで逆に技術の到達を体験した。その逆説的な態度がとても印象に残った。

第四部「廃虚の星にて」に収められた十三編は、朝日新聞が初出展とある。全てが環境問題に着想の源をもとめたブラックな内容になっている。

これらもまた、環境問題がしきりに起こっていた当時の世相を表している。ましてや当時はオイル・ショックによって高度経済成長が止まる前に書かれた話。だからどの編も明るそうに見える前半とそれが環境問題としてはね返ってくる後半の対比になっており、SF作家が鳴らす未来への警鐘としてもてはやされたのだろうなと思わせる。

それと同時に、不思議なことにこれらのショート・ショートが現代でも通じるのではないかという相反する思いすら感じた。
つまり、高度経済成長やバブル景気の破綻を経験した今の日本と、当時、未来を予見していた著者の立場が同じだったのではないか、ということだ。それが著者の尋常ではない学識を表していたとも言える。すでにある程度の経済レベルや技術力や文明の高みを達成したという意味で、著者と今の私たちはそう変わらないと思う。

第五部「人生旅行エージェント」に収められた十一編は、媒体もまちまちだ。雑誌名からはそれが何をテーマとしたものか判然としない。例えば原子力についての雑誌であれば、それに沿ったテーマのショート・ショートなので納得できるが、何を表しているのか定かではない出展もとも記されている。

それぞれのショート・ショートが指折りの内容なのはもちろんだ。それにも増して感心させられるのは、その雑誌に合わせてテーマをかき分ける著者の筆力だ。
もちろん著者の博学の広さと深さゆえであるのは今ら言うまでもない。

『日本沈没』のような一つのテーマに知識量を詰め込めるタイプの小説とは違い、ショート・ショートはテーマに沿った気の利いたオチがもとめられる。
だからかえって書くのは難しいように思う。
それをさまざまな媒体に描き分けた著者の筆力とアイデアに感服する。

本書のあちこちには、著者が人間を根本的な部分で信頼しておらず、むしろ愛すべき愚かな存在として慈しむ様子が感じられる。一方で自然や科学が必ずしも人間にとって有益ではないという哲学も見られる。
だからこそ、著者はSFをテーマに作品を書き続けたのだろう。

著者のSF史における立ち位置や、ショート・ショートの歴史などについては、本書の解説で最相葉月氏が触れている。『星新一』という評伝を発表した氏。著者についても評伝を手掛けてほしいものだ。

‘2020/01/04-2020/01/05


古道具 中野商店


最近、めっきり古本屋を見かけなくなった。
私にも関西や関東でいくつか思い浮かぶ古本屋がある。おそらくそうしたお店のほとんどは閉店してしまっただろうけど。最近も町田で高原書店という本好きには知られたお店が閉じてしまった。

古本屋には特有の雰囲気がある。お店に入ったとたん身を包むのは、世間とは明らかに切り離された滞った時間。その独特の時間に身を委ねつつ、本を選ぶ幸せ。
ここ20年、日本各地に出店したブックオフのような新古書店のこうこうと照らされた店内では味わえない雰囲気が古本屋にはある。並べられた本の色が時間の進み方に影響されてくすんでいる店内。
最近では街場のこぢんまりとした古本屋におもむきたければ、神保町まで足を伸ばす手間を惜しまないと。

本書に登場する中野商店は、そのような時代から切り離されたような古本屋とは違う魅力がある。
まず、時間の流れに起伏がある。少なくとも小説を構成する程度には。誰も来ない時間帯の中野商店には持て余す時間もあるだろう。ただ、持ち込まれる商品が本に比べて多種多様なので買取査定の時間は慌ただしくなる。常連客や一見客が出入りし、値段交渉や質問が飛ぶ。
ひょっとしたら、古本屋にも私の知らない時間の起伏があるのかもしれないが。

なによりも違うのが、本書で描かれる中野商店には店主のほかに二人のスタッフがいることだ。
奥座敷にちんまり店主だか店番だかが座っている古本屋のたたずまいと違うのはその点だ。
スタッフがいるとお店にも動きが出てくる。会話も生まれる。そして店主の中野さんの飾らない人柄に引き寄せられ、出入りする関係者がお店の日常にアクセントを加える。

本書は「わたし」の視点から描かれる。
スタッフのわたしから見た中野商店には店主の中野さんの他に、同じスタッフのタケオがいる。そして中野さんの姉のマサヨさんも出入りする。さらに、中野さんの交際女性であるサキ子さんも。
そうした人々がさらにつながりを呼び、人々が中野商店をハブとして集散する。モノを通して人々が思いを通わせてゆく。

古道具屋とは、ひとびとの思いのこもった品が集まる場だ。
古本にも同じことは言えるが、より生活に密着している点では、古道具の方が人の思いが通いやすいのかもしれない。
だから、「わたし」もタケオも、コミュニケーションの能力が足りなくてもモノを通して人々と交われる。働く経験を積み重ね、人間として成長できる。

そんな「わたし」はタケオに思いを寄せる。だがタケオの反応がつかめないでいる。
店番の仕事が多い私と、買い付けに出かけることの多いタケオ。二人の時間が交わることはないけれど、たまに出歩き、セックスし、かといえばささいなことでケンカする。
不器用で人付き合いの苦手な二人が中野商店での日々を通して、人との付き合い方や、世の中で生きて行く道をつかんで行く。本書はそんな話だ。

頼りなくだらしないようでいながら、店を切り盛りする中野さん。たまにしか店に来ないけど、しっかり者で「わたし」を見守り、時には導いてくれるマサヨさん。美人でやり手の同業者なのに、なぜか中野さんと付き合い、そして別れを繰り返すサキ子さん。「わたし」はこうした大人たちとの交わりを通して、少しずつコミュニケーションのコツをつかんでゆく。
こうした大人の存在って大切だと思う。なぜなら私もそうだったから。

昨今、新卒で採用された若者の離職する率が高いという。
ただあくまでもわたしの感覚だが、いきなり企業のビジネスの現場に放り込まれて、如才なくやっていける人の方が少数派ではないだろうか。
だからこそ上意下達の精神が養われた体育会系の人材の内定も決まりやすいのだろうし。

如才なくいきるための訓練を与えられずビジネスの現場に放り込まれた人は、不器用さを嘆きながらも世の中に揉まれてゆくしかない。
本書はそうした人のための一つのケースとしてオススメできる。また、読んだ人によっては勇気付けられる作品だと思う。
本書の結末は、コミュニケーション能力の欠如に苦しむ人にとって一つの回答とすらいえる。

中野商店は、ネットに特化するため、という名目で店を閉じる。
だが「わたし」は派遣社員としてあちこちを渡り歩きながらも社会に参加している。
そして数年後、ひょんな偶然で再会したタケオはウェブデザイナーとして自活の道を歩んでいる。その姿はまさに、私自身が世に出てゆく過程を見ているよう。

中野商店が「わたし」とタケオに与えてくれたものとは月々の給与ではない。スマホやタブレットなしでも人はコミュニケーションを交わしていける実感だ。そして、たどたどしくとも一生懸命に素直に生きていれば、大人になるにつれコミュニケーションに長けてゆける基礎を作ってくれたことだ。
立て板に水を流すようにトークの達人にならなくてもいい。弁舌もさわやかに商談で相手を論破しなくてもいい。社会の片隅で気の合うもの同士で顔を突き合わせて暮らす幸せはあるはず。

本書は、世の中の複雑さと恋愛の煩わしさに尻込みしているコミュ障の若者に読んでほしい一冊だと思う。
私も自分のかつてを思い出し、自分の原点でもあるそういう古本屋に訪れたくなった。

‘2018/11/08-2018/11/08


イカの心を探る 知の世界に生きる海の霊長類


ここ四、五年ほど、イカに魅了されている。イカの泳ぐ姿や水中でホバリングする姿。なんと美しいのだろうか。体の両脇にあるヒレはどこまでも優雅。波打つように動かし、自由自在に海中を動く。その優美な姿や白く輝く体には惚れ惚れするばかりだ。水族館に行くと、イカの水槽の前だけで3、4時間はゆうに過ごすことができる自信がある。

イカの美しさは私にとって魚類どころか生物の最高峰でもある。もちろん、寿司ネタで食べるイカも魅力的だ。だが、それも全て泳ぐ姿の美しさがあってこそ。もちろん、イカの他にも泳ぐ姿が美しい水中生物はたくさんいる。エイやサメやその他の中堅どころの魚も悪くはない。だが、どこか泳ぎに優雅な感じがしない。無理しながら、ゆとりがないように感じるのは私だけだろうか。それは多分、私が水族館の水槽でしか魚を見ていないからだろう。

水族館の大水槽でよく見るのはイワシの大群。だが、そもそも集団行動を好まない私にとって、イワシの群れはあまり魅力的に映らない。その点、イカは優雅だ。優美であり孤高である。私が水族館の生き物でもっとも魅了されたのは、1匹でも生きていくと言う決意がみなぎるそのシルエットだ。イカの気高くもあり、美しさをも備えた姿は、私の心を惹きつけて止まない。

だからこそ、本書のようにイカを愛する研究者がイカを研究する姿にはうらやましさを感じる。そして、つい本を手に取ってしまうのだ。本書は水族館でイカに魅了された後に購入した一冊だ。

著者によると、イカとは実に頭の良い生き物だそうだ。イカと並んで並び称される水中生物にタコがいる。タコの頭の良さはよく取り上げられる。著者によるとイカはタコと同じ位、もしくはそれ以上に頭の良い生物なのだという。

著者は生物学者として琉球大学でイカを研究している方だ。そしてその研究テーマは、イカの知能を明らかにすること。はたしてイカに知能はあるのか。それはどれほど高いのか。その知能は人間の知能と比較できるのか。本書で明かされるイカの知能の世界は、私たちの想像の上をいっている。そもそも私たちはイカをあまりにも過小評価しすぎている。水中でただ泳ぐだけのフォルムのかわいらしい生き物。イカ釣り漁船のあかりにおびき出され、簡単に釣人の手にかかってしまう生き物。そんな風に思っていないだろうか。

私のイカについての貧しい認識を、著者はあらゆる実験で論破してみせる。そもそも、タコの知能を凌駕するイカは、タコに比べるとずっと社会的なのだという。水槽でしかイカを知らない私は、大海原に生きるイカが、群れをなしたり、助け合ったり、個体ごとに相互を認識して、ソーシャルな関係を維持していることを本書で教わるまで知らなかった。イカは種類によっては体色を自由に変えられることは知っていたが、それは敵に対する威嚇ではなく、ソーシャルな関係を結ぶ上でも役に立っていたのだ。それだけ高度なコミュニケーション手段が備わっているイカ。イカに足りないのはストレスへの耐性だけ。それだけはタコの方に分があるらしい。ストレスが募るとすぐに死ぬため、実験や観察がとみに難しいらしい。イカの研究とは大変な仕事なのだ。

イカに群があり、群れを維持するためのソーシャルなコミュニケーションをとっている事実は、イカに知能はどのぐらいあるのか、という次なる興味へと私たちをいざなう。そこで、いわゆる知能テストをイカに試みる著者の研究が始まる。その研究が示唆するのは、イカには確かに一定の知能があるという事実だ。学習し、奥行きを理解して、記憶できる能力。短期記憶だけでなく、長期記憶があること。そうした実験結果は、イカの知能の高さをまぎれもなく証明する。そして驚くべきことに、イカには世代間の教育がないという。つまり、親が子に何かを教えることもなければ、少し上の世代が下の世代に何かを伝える証拠も見つかっていないのだとか。それでいながら知能を発揮する事実に、感嘆の思いしか浮かばない。イカの可能性は無限。

続いて著者が考えるのは、イカのアイデンティティだ。はたしてイカは自我を備えているのか。イカは自分自身を認識できるのか。それが目下、著者の研究の最大のテーマだそうだ。イカが社会性を備えていることは先行する世界中の研究が解き明かしてくれた。あとは社会性がソーシャルな仕組みを作る本能によるのか、それとも自己と他者を認識する自我の高度な働きによるのか。

ところで、イカの自我はどうやって証明するのだろう。何の証拠をもってイカに自我があることが証明できるのか。実は本書で興味深いのは、そうした研究手法のあれこれを惜しげもなく示してくれることだ。イカの自我を証明するための試行錯誤のあれこれが本書には記されている。イカが自分自身を認識することを、どうやって客観的に確認するのか。その証明に至るまでのプロセス自体が、イカに限らず知性の本質に迫る営みでもある。本書はこうした学術的な実験に触れていない私のようなものにとって、実験とは何を確認し、どう仮説を立てるのかについての豊富な実例の山なのだ。

そうした工夫の数々は、私のようなロジックだけが頼りの情報の徒にとってみると、はるかに難易度が高い営みに思える。イカの研究者は、手探りで先達の研究を学び、試行錯誤して改良を重ね、研究してきたのだ。本書はそうした生物学の現場の実際を教えてくれる意味でも素晴らしい内容だ。

もちろん、イカの姿を見て飽きることを知らない私のようなイカモノずきにとって、イカに対する愛着をさらに揺るぎないものにしてくれることも。

‘2018/08/17-2018/08/20


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


相手に「伝わる」話し方


私が年末と年初に行うことがある。それは一年の反省と抱負だ。数年前から実施を心がけている。2017年の年末は一年を振り返り、2018年の年初には抱負を立てた。

2017年、私が反省すべき最も大きな点は、人前で話す機会がほとんどなかったことだ。2016年はあちこちで話す機会があったのに、2017年はしゃべる機会が作れなかった。これは私にとって大いに反省すべき点だ。なので2018年の抱負には、人前で話す回数を2016年並みに増やす、という目標を加えた。本書はその抱負を踏まえ、話すスキルの参考とするために読んだ。

私は自分の話すスキルに劣等感を持っている。その劣等感の大部分は、活舌の悪さとしゃべっている時にたまに唾が飛ぶことからなっている。その原因も分かっている。矯正歯科医の妻から「オペ症例」と言われる私の受け口だ。それが私にとっての劣等感となり、人前で積極的にしゃべろうとする気持ちにブレーキをかけていた。

しかし、それではだめだ。独立した以上、露出を増やさねばならない。そして誰もが自分の意見をテキストで簡単に世に問える今、文章だけに頼るのでは露出効果が見込めない。本音をいうと、私はあまり自らを露出するのは好きではない。だが露出は独立と自由を得るための代償だと肚を決めている。書きつつしゃべり、人前に己をさらけ出す。そのスキルを磨かないことには私の今後はない。

だが、私には滑舌の悪さという欠点がある。その欠点をカバーできるだけのしゃべる技術。それは何だろう。そう考えた時、思い浮かんだのはアナウンサーの姿だ。彼らはしゃべることで糧を得ている。芸能人もそう。彼らもしゃべることで飯を食っている。だが、テレビで活躍する芸能人のような頭の回転の速さは私にはない。なので、アナウンサーのように話す技術で私の欠点を挽回したい。そう思ったのが本書を手に取った理由だ。

著者はアナウンサー出身でありながら、バラエティ番組でも立ち位置を確立した方だ。バラエティの手法も取り入れ、視聴者の興味を惹きつつ、報道の芯を保った番組作りをしている。その姿にはかねがね良い印象を持っていた。選挙特番のみならず、核実験や仮想通貨など、テレビが今、本当に放送すべき番組を企画し、自ら視聴者の前に立つ。そのような著者のことを今後も応援したいと思っている。

著者は1973年にNHKに入局した。そして、さまざまの部署や職務で仕事に取り組んできた。その経験は話し手として、報道者としての著者を鍛えてきたことだろう。著者は自らの職歴をさかのぼり、仕事の中で著者が学んできた話す技術を惜しみなく披露する。本書は私にとって参考となる気づきがたくさんあった。

参考になったのは、話し方の技術だけではない。職歴の語り方も同じく参考となった。私は2017年の夏から翌春にかけ、ウェブ上の連載で自らの職歴について語った。本音採用で連載しているアクアビット航海記「ある起業物語」がそれだ。本書を読み始めた時、連載はちょうど私が東京に出て仕事を始めたあたりに差し掛かっていた。連載はすでに進んでいたが、その後も私が職に就き、社会で経験を積んでいく様子を書いてゆかねばならない。転職を繰り返していく中で、それぞれの職から何を学んだのか。それを読者にどうやってうまく伝えるか。そのやり方は本書が参考となった。もちろん、それまでの連載でも職歴を伝える事は意識していた。だが、本書を読んだことで、まだ私のやり方に改善の余地はある、と思わされた。

著者がそれぞれの職場で学んだことは私にも参考となった。たとえば著者が研修を終えて最初に配属されたのは松江放送局。そこで著者は警察を担当する記者に任ぜられる。先輩から簡単な引継ぎを受けた後は、一人で取材して回らねばならない。先輩に「後任です」と紹介されたときは型どおりのあいさつを返されるが、先輩がいなくなった後、新米の記者に投げられる視線は冷たい。値踏みされ、信頼できる人間と見定められるまでは話しかけてもらえない。著者はその壁を乗り越えるのに苦労する。著者はその試練を乗り越えるにあたり、セールスマンのような動きをしなければ、と開眼する。商品を売り込む前に自分を売り込め、というわけだ。それは私が普段から励行する、FacebookなどのSNSに投稿する行いに通じている。Facebookへの投稿は、私という人間を知ってもらうためだと思っている。

とはいえ、私のワークスタイルは、著者が例えたようなセールスマンの営業手法に比べると若干の違いがある。私の場合、どちらかというと案件ありきで話をすることが多い。何かを無から売り込むのではなく、まずお客様にニーズがあり、それを受けて私が提案することが多い。だから本書で描かれるような、何度も繰り返し自分を売り込むことで仕事を円滑に回せるようになった、というケースは当てはまらないことも多い。案件ありきで私が呼ばれ、その後、一度か二度の訪問をへて受注が決まることがほとんどだ。ただ、私は一度案件を受注すると、その後も継続して案件をいただくことが多い。それは、仕事そのものもそうだが、私という人間を見てもらえたからではないかと思っている。そのためにはお客様との雑談が重要になる。そのためのネタを事前にSNSに発信しておき、自分がこういう事に関心があるとさりげなく発信する。それが雑談につながり、雑談が信頼を生み、それが仕事につながる。そうした意味で、雑談を大切にするという著者の学び取った極意にはとても共感できるのだ。

あと、共通体験の重要さに著者は触れている。これはわかる。お互いの共通体験を増やすことで、話のタネが増える。これも私がFacebookにいろいろと書き込む理由の一つだ。いわば私から共通体験のネタを提供する。それが商談の場で会話を生み、共通の場を作る。もちろん、それがどこまで効果を上げているのかは分からない。だが、何かしらの効果はあると信じている。

あと、話し上手は聞き上手という言葉も出てくる。これもよくわかる。本書を読む4年前に私が読んだ『最高の仕事と人生を引き出す 「聞き方」の極意』(レビュ-)でも学んだことだ。

著者はその後、広島放送局でも経験を積む。警視庁の担当として夜回りで事件のネタを探す過酷な日々だったようだ。その次に著者が苦労したこと。それは記者レポートを担当したことだ。テレビのニュース画面に登場し、現場の状況をレポートする。この経験は著者を表現者として次のステージに進めた。著者が記者レポートの仕事を通して学んだことの大切さ。まず始めに朗読なのかリポートなのかを意識すること。つまり、書かれた文章を読むだけなら誰にでもできるが、それは単なる朗読に過ぎない。そこでリポートを極めるため、著者はいくつかのメモだけを手元におき、即興で文章を組み立ててしゃべる訓練をしたという。もう一つ著者が説くことがある。それは書き言葉と違い、しゃべり言葉は後から読み返すことができないという真理だ。つまり、話す順序をきちんと考えなければ聞き手には話す内容が伝わらないという気づき。これはとても重要なことだ。この章で著者が訴えることは、私も普段あまり意識できていなかったことだ。ここで学んだことは、私は多分、音読の訓練から行うべき、という反省だ。私には黙読の習慣が身につきすぎてしまっている。黙読ではなく朗読。この習慣が身につけば、書き言葉の文体にも良い影響を与えるに違いない。

ここでは著者の失敗したエピソードが一つ披露される。それは、活舌の悪い著者が、タクシーの運転手に警視庁までと言ったつもりが錦糸町に連れていかれた、というもの。活舌に劣等感を持つ私には勇気づけられるエピソードだ。

あと、つかみの言葉をしっかり考えることの重要性も述べられている。そのために著者は、普段から目の前に広がる光景を即時に描写し、頭の中でしゃべる練習に励んだそうだ。その中で著者が掴んだ極意の中には、「手あかのついた言葉は何も語っていないのと同じ」や、「専門用語を安易に使うな」というのもある。両方ともに私にとっては耳の痛い警句だ。

続いて著者はテレビスタジオでキャスターとして働くようになった経験を語る。ここで得た経験はどちらかといえばテレビ業界で使われるテクニックに偏っている。しかし、フリップ(NHKではパターンと呼ぶらしい)の効用について触れるなど、著者の経験をテレビ寄りだからといって見逃してはならない。例えば私たちがプレゼンテーションを行う際、画面にアニメーションを付けたり、ホワイトボードを併用したりすることがある。まさにその手段にも通じるのがテレビの手法だ。テレビに代表されるようなビジュアルと音声の併用は、プレゼンテーションの上でも役に立つはずだ。動画の利用がは今後のテーマとして重要なので、テレビのみに通じる手法だと捨てておくのはもったいない。

続いて著者が触れるのは、週刊こどもニュースを担当した時の苦労だ。子どもに対しては、大人に対する手法は通用しない。まず、わかってもらうための言葉を吟味しなければならない。著者が本書で一番語りたいと力を入れたのはこの点だ。著者を単なる記者出身のキャスターから、一皮むけさせたのは、週刊こどもニュースでの体験が大きいと著者は言う。子どもに向けた分かりやすい表現を心掛けたことで、著者は表現者として他の人とは違う存在感を身に着けたのだろう。

分かりやすく。難しい内容だからこそ、余計に分かりやすく。このことは私が以前から改めなければ、と自分を戒めつつ、いまだにうまくできていない課題だ。簡単な言葉を使いながら、内容に深みをだす。これこそ私が以前から試行錯誤している部分なのだから。

本書は以下のような構成からなっている。
第1章 はじめはカメラの前で気が遠くなった
第2章 サツ回りで途方に暮れた
第3章 現場に出て考えた
第4章 テレビスタジオでも考えた
第5章 「わかりやすい説明」を考えた
第6章 「自分の言葉」を探した
第7章 「言葉にする」ことから始めよう

1章から5章までは著者の職歴と経験が語られ、6章と7章はまとめに相当する。どこを読んでも本書からは得るものが多い。私も本書を読んだことで、少しずつしゃべる技術に向上がみられた。だが、まだ著者のレベルには程遠い。引き続き精進したいと思う。

‘2018/01/10-2018/01/17


神様のパズル


人生で最後のモラトリアム。扶養される立場を享受する日々。もはや取り戻せない貴重な時間。懐かしく愛おしい。本書を読んでそんな自分の大学四回生の日々を思い出した。

私の四回生の日々は、今思うと躁状態すれすれな日々だった。一月の阪神・淡路大震災の影響も甚大な上に、オウム真理教によるサリン事件の衝撃もある中で始まった就活の日々。デタラメな就活をとっとと切り上げ旅行三昧の夏をへて、内定なしのまま卒論を出して卒業。将来のことなど何も考えていなかった。とても懐かしい。

本書は四回生が所属するゼミが決まる三月末から幕を開ける。本書の主人公綿貫は大学の四回生。物理学部に在籍している。彼が入ることにした鳩村ゼミは素粒子物理研究室という名が付いている。鳩村ゼミを選んだのは、保積さんがそのゼミを選んだから。まったく脈がないのに思いだけを募らせている保積さんに告白する勇気も持てぬまま、ズルズルと四回生へ。ところが、物理学部に属しているわりに物理の素養がない綿貫は、何を見込まれたのか鳩村教授よりある頼み事をされる。それは早熟の天才美少女ともてはやされたのに最近学校に姿を見せない穂瑞をゼミに連れてくること。

穂瑞家に訪問するも、天才にありがちな穂瑞の剣もホロロな対応で追い返される綿貫。ところが、物理学部の名物聴講老人の橋詰から「宇宙が無から生まれたというのは本当か」という問いをぶつけられる。困った綿貫が橋詰老人を連れて穂瑞のもとに伺ったところ、老人の問いに何かを感じた穂瑞がゼミに訪れて、、、というのが序盤だ。

鳩村教授より卒論に加えて評価の材料にするから、と言われて付けた日記がそのまま本書になっている。この辺りの設定と展開の流れはとても自然だ。

素粒子物理研究室は、穂瑞の提案で宇宙は人間に作れるかというディベートを行う場となる。作れる側には綿貫と穂瑞。反対側には保積さん。ますます片思いが実る可能性は遠のいて行く。折しも鳩村教授は責任者である大型加速器「むげん」の稼働開始に向けて忙しい時。しかもむげんの稼働テストが思わしくなく、むげんの素のアイデアを提案した穂瑞の立場も危うい。

ループ状になっているむげんの中心部には棚田があり、そこには婆さんが独りでほそぼそと農家を営んでいる。むげんの設置でお世話になった事から、鳩村ゼミでは毎年農作業のボランティアをしている。綿貫は農作業にも駆り出される毎日を送っている。

本書は綿貫の日記の体を取っている。綿貫の日々の暮らしと心情がつづられていく日記には、ゼミのディベートの様子、保積さんに振り向いてもらえず話すことすらままならない切なさ、穂瑞がむげん問題でスケープゴートに祭りあげられてゆくさま、農作業の手伝いの大変さ、内定が決まらない焦り、そして卒論が書けない悩みが記される。

本書は主人公の日記の体をなっている。物理学部の学生でありながら物理を知らない綿貫の書く日記が本書にある効果を与えている。それは、穂瑞の考える難解な素粒子論を綿貫の脳内のフィルターを通し、グッとわかりやすく読者に伝えることだ。難解なテーマを扱いながらも、わかりやすく理論を読者に伝える。それはなかなか難しいことだ。物理学部の学生の日記の体を取ったのは絶妙な設定だと思う。

さらに本書は農作業をスパイスに配する事で、複数の対立軸を生み出している。深遠な宇宙と地道な農作業。天才美少女とぼくとつな農婆。就職活動と研究活動。それらは本書に天才たちが繰り広げる理論小説ではなく、生活と未来に悩む若者の青春小説の体を与えている。そこがいい。SFでありながら理論やロジックの世界ばかりを描いていたら、本書は全く別の色合いを帯びていただろう。しかし本書は青春の悩みという、論理とは対立するものを取り上げている。それが本書に単なるSFではない違う魅力を与えているのだ。

また、本書で見逃せないことはもう一つある。それは対人コミュニケーションによって小説の筋が進むことだ。技術者といえばコミュニケーション障害の人物の集まり。そんなステレオタイプの登場人物だったら私は本書を途中で放り投げていたかもしれない。もちろん本書にも研究に閉じこもる学生も登場する。実際の技術者にもコミュニケーションが不得手な方が多い。だが、そうでない人物もいる。技術者や物理屋にもコミュニケーションに長けた人は当然いる。本書は会話によって話が展開していくのだから。そして、本書がコミュニケーションを描いたとすれば、それはとにかくコミュニケーションに不足が取り沙汰される技術者にとって培うべきスキルのヒントとなる。なぜなら、研究も成果もコミュニケーションあってこそ世に出るものだから。

技術者の方には、庭いじりを趣味とする方もいるという。私もたまに行う。同じように宇宙論も物理学も全ては農作業から始まっている。私はそのつながりを本書から教えられた。そのつながりをわかりやすく小説に表現した本書は秀作だと思う。

‘2017/04/22-2017/04/23


道化師の蝶


本書で著者は芥川賞を受賞した。

私は、芥川・直木の両賞受賞作はなるべく読むようにしている。とくに芥川賞については、賞自体の権威もさることながら、その年の純文学の傾向が表れていて面白いから読む。さらにあまり文芸誌を読まない私にとっては、受賞作家はほとんど知らない方であり、その作家の作風や筆致、文体などを知る機会にもなる。だが本書は芥川賞受賞作だからではなく、著者の作品だから読んだ。そもそも著者の作品を読むのは本書で三冊目だ。中でも初めて読んだ「後藤さんについて」に強い印象を受けた。だから本書については芥川賞受賞作だからというよりも、著者のとんがって前衛の作品世界がどうやって芥川賞を獲らせたのか、それはどれだけ一般の読者を向いた作品なのかが気になった。

本書を一読して思ったのは、確かに芥川賞よりの作品と思った。だが、それは私が読んだ著者の三作品の中では芥川賞よりということ。作品世界が高踏であることに揺るぎはない。そして著者の癖のある文体「~する。」の多用は本書でも健在だ。この癖のある文体も含めて、芥川賞受賞作の中でも本書は異色だと思う。本稿を書くにあたり、本書を芥川賞選考委員の面々はどのように評価したのかふと気になった。そしてサイトに掲載されている選評を読んでみた。https://prizesworld.com/akutagawa/senpyo/senpyo146.htm 私の期待通り面白い選評になっている。ある年齢を境に本書の理解を諦めた選者のいかに多いことか。それなのによくぞ受賞できたものだ。正直に本書を理解できないと評する選者の潔さに好感を抱きつつ、それを乗り越えて受賞した事実にも感心した。

表題作は、富豪であるA.A.エイブラムスが追い求める謎の散文家「友幸友幸」を巡る話だ。「友幸友幸」は行く先々で大量の言葉を紙や本に書き残す。その言葉はその土地の言葉で書き記される。無活用ラテン語といった話者が皆無の言葉で記された紙束もある。大量の書簡を残しながら「友幸友幸」は誰にも行方を悟られない。

五つからなるそれぞれの章は「友幸友幸」の行く先を探るための章だ。本編を読むと、そもそも文章を書く行為が何のためかとの疑問に突き当たる。不特定読者に読んでもらう一方通行の文章。やり取りするための両方向の文書。または自分自身に読んでもらうだけの場所を動かないものもある。「友幸友幸」の書く文書はさしずめ最後の例にあたるだろう。

誰にも読まれない文書はいったん紙に書かれ印字されると著者の手を離れる。著者がどう思おうと、読者がどういうレスポンスを返そうと文書はそこにある。たとえだれにも読まれなくとも紙が朽ちるまで永遠にとどまり続ける。

「友幸友幸」が移動を繰り返し正体不明である事。それは著者不在を意味しているのではないか。著者不在でも文書の束はそこで生きている。そうなってくると文書に書かれた内容に意味など不要だ。面白い、面白くない。簡単、難しい。そんな評価も無意味だし、売上も無意味。著者の排泄物として生まれ、著者も書いたそばから忘れ去ってしまう文章。

著者は本編で世に氾濫する印刷物に対して喧嘩を売っている。作家という職業が排泄物を生み出す存在でしかないと挑発している。それが冒頭に挙げたような芥川賞選評の割れた評価にもつながったのではないか。自らが作家であることを疑わず肯定している人には本書の挑発は不快なはず。一方で自らの作家性とその存在意義に疑問を持つ選者の琴線には触れる。

著者の作品には連関構造やループのような構造が多い。それが読者を惑わせる。本編を読んでいるとエッシャーの「滝」を見ているような感覚に襲われる。ループする滝を描いたあれだ。そのようにに複雑な構造である本編で目を引くのは、冒頭に収められた着想という名の蝶を追うエイブラムス氏の話だ。「友幸友幸」が自分を追いかけてくるエイブラムス氏に向けて遺したとされるこの文書の中で、「友幸友幸」は作家を道化師になぞらえている。そして作家とは着想を追う者でしかないと揶揄する。たぶん本編を書きながら著者は自らの作家としてのあり方に疑問を持っていたのだと思わされる。作家が創作を行っているさ中の脳内では、このようなドラマが展開されているのかもしれない。

「松の枝の記」はコミュニケーションを追求した一編だ。「道化師の蝶」が作家の内面の思考を表わしたのだとすれば、「松の枝の記」は作家の思考が外に出たことによる波及を表している。

二人の作家が互いの作品を交互に翻訳する。翻訳とは本来一対一の関係であるべきだ。一方の言語が示す意味を、もう一方の言語で対応する言葉に忠実に置き換える。だが、そんなことは元から不可能なのだ。だから訳者はなるべく近い言葉を選び、原作者の意図を読者に届けようとする。そこに訳者の意思が入り込む。これを突き詰めると、原著とかけ離れた作品が翻訳作品として存在しうる。

本編で交わされる二人の作家による会話。それは壮大な小説作品を通してのみ成立する。「道化師の蝶」がコミュニケーションを拒否した作家の話であるならば、「松の枝の記」はコミュニケーションによる認識のズレが拡大する話だ。そもそもコミュニケーションとは本来、やり取りのキャッチボールによって刻々と内容の意味が変わっていくはず。であるならば原著と翻訳でもおなじ。原著と翻訳を一つの会話文とした壮大なやりとり。

AさんがBさんと会話した内容がBさんとCさんの会話にも影響を与えることだってもちろんある。そう考えると、小説というものは作家がそれまでになした全てのコミュニケーションの結果とも言えるのではないか。さらに言えば、小説とは作家の頭だけで創作されるのではなく、作家と関わった全ての人が創作したと言えなくもない。

それは種の記憶として代々受け継がれた思惟の成果でもある。いや、種にとらわれなくてもよい。たとえば人類の前、さらに前、前、前とさかのぼる。行き着いた先が本編に登場するエレモテリウムのような太古の哺乳類の記憶であってもよい。生物の記憶は受け継がれ、現代の作家をたまたま依り代として作品として表現される。

本編には自動書記の考えが登場する。ザゼツキー症例の考えだ。ザゼツキー症例とはかつて大怪我をして脳機能を損傷した男が過去の記憶をなかば自動的に記述する症例のことだ。これもまた、記憶と創作の結びつきを表す一つの例だ。過去のコミュニケーションと思惟の成果が表現される例でもある。

ここまで考えると著者が本編で解き明かそうとした事がおぼろげながら見えてくる。小説をはじめとしたあらゆる表現の始原は、集合的無意識にあるという考えに。それを明らかにするように本書にも集合的無意識の言葉が162ページに登場する。登場人物は即座に集合的無意識を否定するのだが、私には逆に本編でその存在が示唆されているように思えてならなかった。

本編もまた、著者が自らの存在を掘り下げた成果なのだ。評価したい。

‘2017/03/30-2017/03/31


仕事が9割うまくいく雑談の技術-人見知りでも上手になれる会話のルール


本書には雑談のスキルアップのためのノウハウが記されている。雑談のスキルは私のように営業をこなすものには欠かせない。

私がサラリーマンだったのは2006年の1月まで。それから10年以上が過ぎた。その間、おおかたの期間は個人でシステムエンジニアリングを営む事業主として生計を立てていた。私には事業主としての特定の師匠はいない。個人で独立するきっかけを作ってくださった方や、その時々の現場でお世話になった方は何人もいる。そういった方々には今もなお感謝の念を忘れない。でも、個人で事業主として生きていくための具体的な世過ぎ身過ぎを教えてくれた人はいない。私のほぼ全ては独学だ。自己流ではあるが、何とかやってこれた。なぜなら情報系の個人事業者には開発現場の常駐をこなす道が開けているからだ。常駐先への参画は仲介となるエージェント会社を通すのが情報処理業界の慣習だ。そして、常駐先への営業はエージェント会社が行ってくれる。つまり、個人の事業主に求められるのは現場のシステム要件に合う設計・開発スキルと、最低限のコミュニケーション能力。そして営業スキルは不要なのだ。ということは、雑談スキルを意識する必要もない。

とは言いながら、私は事業主になって早い時期から営業をエージェントに頼り切ることのリスクを感じていた。なので個人的にお客様を探し、じか請で案件を取る努力をしていた。それに加えて私にリスクをより強く感じさせた出来事がある。それはリーマン・ショック。私には知り合いの年配技術者がいる。その方と知り合ったのは、エージェント経由で入った初めての常駐現場だ。その方が現場を抜けてしばらくしてからお会いした時、年齢を理由に次の現場が決まらず困っていたので営業代行を買って出たことがある。当時は、リーマン・ショックの影響で技術者需要が極端に冷え込んだ時期。スキルもコミュニケーション能力もある技術者が、年齢だけで書類選考ではねられてしまう現実。それは私に営業スキルを備えねばと危機感を抱かせるには充分だった。

それ以前にも雑談の重要性について全く知らなかったわけではない。私が事業主に成り立ての頃、某案件でお世話になった方から雑談のスキルを身につけるように、とアドバイスをいただいたことがある。その時は、具体的な雑談のノウハウを伺うことはなかった。少なくとも本書に記されているようには。

そしてその時点でも私は雑談スキルを意識して学ぼうとしていなかった。上にも書いたように、一つ目の常駐現場にいた頃からホームページ作成を何件か頼まれていた。なので個人としてお客様のもとに伺わせていただく機会は増えた。私なりにお話を伺い、そのあとにちょっとした会話を交わす。その中には雑談もあったことだろう。だが、雑談を体系立てたスキルとして意識することはなかったように思う。

そして今や経営者だ。個人事業主を9年勤め上げた後、法人化に踏み切った。法人化して経営者になったとはいえ、個人事業主とやっていることに変わりはない。経営をしながら、お金の出入りを管理し、開発をこなし、そして営業を兼ねる。だが、そろそろ私のリソースには限界が来始めている。後々を考えると技術者としての実装作業を減らし、営業へのシフトを考えねばなるまい。そう思い、本書を読む一年ほど前から後継となる技術者の育成も含めた道を模索している。

営業へのシフトに当たり、長らくうっちゃっておいた雑談スキルもあらためて意識せねば。それが本書を手に取った理由だ。

基本的には聞き役に徹すれば、雑談はうまくいく。それは私の経験から実感している。問題は相手も聞き役に徹している場合だ。その場合、どうやって話の接ぎ穂を作るか。話のタネをまき、話を盛り上げていかなければ話は尻すぼみになる。お互いにとって気詰まりな時間は、双方に良い印象を与えない。年上ばかりと付き合うことの多かった私のビジネスキャリアだが、そろそろ年下との付き合いを意識しなければならない。というより、いまや年下の方と話すことの方が多い。すでに平均寿命から逆算すると、私も半分を折り返したのだから。ましてや経営者としては、配下についてもらう人のためにも身につけなければならない。

まずは話し相手の心持ちを慮ること。それが雑談の肝要ということだ。雑談のスキルとはそれに尽きる。それが、本書から学んだことだ。それは雑談にとどまらず、世を渡るに必要なことだと思う。

相手の事を考える。それは相手にどう思われるかを意識する事ではない。それは相手の事を考えているようで、実は相手から見た自分のことしか考えていないのに等しい。そうではなく、相手にとって話しやすい話の空間を作ること。それが雑談で大切なことなのだ。逆に仕事の話は簡単だ。相手も当然、聞く姿勢で身構えるから。そこには冷静な打算も入るし、批判も入る。論点が明確なだけに、話の方向性も見えるし、話は滞りにくい。だが案外、ビジネスの成否とは、それ以外の部分も無視できないと思う。なぜなら、この人と組もうと思わせる要因とは、スキル以外に人間性の相性もあるからだ。

ビジネスに人間性の相性を生かすため、私が自分なりに工夫したことがある。それはFacebookに個人的な事を書くことだ。必ずしも読まれる必要はない。私という人間を知ろうと思ったお客様が、私のFacebookの書き込みを流し読んで私の人となりを理解していただければ、という意図で始めた。これを読んだお客様が私の人となりを理解する助けになれば本望だと思って。実際、商談の場でも私の書き込みが話題に上がった例は枚挙にいとまがない。これは、私から話題を提供するという意味では無駄ではなかったと思う。

とはいえ、そこには問題もある。先に書いたように「相手の事を考えるとは、相手にどう思われるかを意識することではない」に従えば、私の書き込みが「相手にどう思われるか」という意図だと誤解されている可能性がある。もしそう受け取られたとすれば、私のFacebook上の書き込みとは私の土俵に相手を誘っている過ぎない。そして、本書の説く雑談の流儀からは外れている。本書を読み終えてからしばらくてい、私はSNSの付き合い方を試行錯誤しはじめた。そこには私の中で、SNS上でなされる雑談が面を合わせての雑談に勝ることはあるのか、という問題意識がある。

もともと私のSNS上の付き合い方は、相手の土俵にあまり立ち入らないもの。そうしているうちに私の仕事が忙しくなってしまい、仕事や勉強の時間を確保する必要に迫られた。そのための苦肉の策として、SNS上で他の人の書き込みを読む時間を減らすしかない、と決断した。SNS上で雑談しないかわりに、顔を合わせる場で雑談や交流を充実させようと思ったのだ。今もなお、私の中で確保すべき時間をどこからねん出するべきか、オンライン上での雑談はどうあるべきなのか、についての結論は出ていない。もちろん、本書の中にもそこまでは指南されていない。

元来の私は、相手の土俵に飛び込み、相手の興味分野の中に入り込んで行う雑談が好きだ。本当にすごい人の話を聞くことは好きだから。それはもともと好奇心が強い私の性格にも合っている。

そういう意味でも、本書を読んで学んだ内容は私の方法論の補強になった。そして、どういう場合にでも相手の気持ちを考えること。それはオンラインでもオフラインでも関係ない。それは忘れないようにしなければ、と思った。ビジネスの場であればなおさら。

‘2017/02/16-2017/02/17


最後のウィネベーゴ


饒舌の中に現れる確かな意思。著者が物語をコントロールする腕は本物だ。

以前読んだ『犬は勘定に入れません』でも著者の筆達者な点に強い印象を受けた。本書を読んで思ったのは、著者が得意とするのは物語のコントロールに秀でたストーリーテラーだけではなかったということだ。

ストーリーテラーに技巧を凝らすだけではなく、著者自身の個人的な思想をその中に編み込む。本書で著者はそれに成功し、なおかつ物語として成立させている。本書に収められた4編は、いずれも饒舌に満ちた展開だ。饒舌なセリフのそれぞれが物語の中で役割を持ち、活きいきと物語に参加する。そればかりでなく積み重なっていくセリフ自身に物語の進路を決定させるのだ。その上ストーリーの中に著者の個人的な思想の断片すらも混ぜ込んでいるのだから大した文才だ。そもそも、口承芸でない小説で、地の文をあまり使わずセリフのほとんどで読ませる技術はかなりの難易度が要ると思う。それをやすやすと成し遂げる著者の文才が羨ましい。

女王様でも
これは、アムネロールという月経を止める薬が当たり前のように行き渡った未来の物語。アムネロールなる架空のSF的設定が中心ではあるが、内容は女性の抱える性のあり方についての問題提議だ。月経という女性性の象徴ともいうべき生理現象への著者なりの考えが述べられている。本書には生理原理主義者ともいうべき導師が登場する。導師である彼女は月経を止める試みを指弾する。それは男性を上に置く愚かな行いであるというのだ。彼女は生物としての本来の姿を全うするようパーディタを導こうとする。パーディタとは本編に登場する一家の末娘。アムネロールが当たり前となった周囲とは違う導師の教えに惹かれる年代だ。

一家の長はパレスチナ問題の解決に東奔西走する女性であり、本書には生理の煩わしさから解放された女性の輝きが感じられる。それは当然ながら著者の願望でもあるはずだ。

一家はパーディタを呼び出し、導師の主催する集まりからの脱退を忠告する。だが、そこに現れたのは導師。導師は話を脱線させがちな一家の女性たちの饒舌に苛立ち席を立つ。男性支配に陥った哀れな人々、と捨て台詞を残して。だが、導師の苛立ちは女性に特有の饒舌への苛立ちであり、導師の中に男性支配の原理を読み取ったのは私だけだろうか。

月経のつらさは当然私には分からない。だが、本章の最後で月経の実態を聞かされたパーディタが発する『出血!? なにそれ、聞いてないよ!』のセリフに著者の思いが込められている。かくも面倒なものなのだろう。女性にとって生理というやつは。

著者は本編で、女性性と男性性は表裏一体に過ぎないという。そんな七面倒な理屈より、女性にとって月経がとにかく厄介で面倒なのだ、という切実な苛立ちを見事にドタバタコントに収め切ったことがすごいのだ。

タイムアウト
時間発振器という機械の実験に伴うドタバタを描いた一編だ。時間は量子的な存在だけでなく、現在子としてばらばらに分割できるというドクターヤングの仮説から、登場人物たちの過去と未来がごちゃ混ぜに現在に混入する様を描く。著者のストーリーテリングが冴えわたり、読み応えがある。

本章では、家庭の些事に忙殺されるうちに、輝ける少女時代を失ってしまう事についての著者の思いが投影されている。本編に登場するキャロリンの日常は子育てと家庭の些事がてんこもり。ロマンスを思い出す暇すらもない日々が臨場感を持って描かれている。著者自身の経験もふんだんに盛り込んでいるのだろう。

過ぎ去りし日々が時間発振器によって揺さぶられるとき、人々のあらゆる可能性が飛び出す。本編はとても愉快な一編といえるだろう。

スパイス・ポグロム
これまたSF的な雰囲気に彩られた一編だ。異星人とのカルチャーギャップを描いた本編では、全編がドタバタに満ち溢れている。舞台は近未来の日本。日本にやって来た英米人を書くだけでもカルチャーギャップの違いでドタバタが書けるところ、異星人を持ってくるところがユニーク。異性人の言動によってめちゃめちゃになるコミュニケーションがとにかくおかしい。著者が紡ぎだす饒舌がこれでもかというばかりに味わえる。

著者は本編でコミュニケーションの重要性よりも、コミュニケーションが成り立つことへの驚きを言いたいのではないか。一般にコミュニケーションが不得手と言われる日本を舞台にしたことは、日本人のコミュニケーション下手を揶揄するよりも、コミュニケーションの奥深さを指している気がする。ただ、いくら技術が進歩しようとも、あくまでコミュニケーションの主役は人類にあるはず。とするならば、コミュニケーションの不可思議さを知ることなしに未来はないとの著者の意見だと思われる。

最後のウィネベーゴ
表題作である本編で描かれるのは、滅びゆくものへの愛惜だ。情感を加えて描かれる本編は何か物悲しい。イヌが絶滅しつつある近未来の世界。イヌだけでなく動物全般がかつてのようにありふれた存在ではなくなっている。そればジャッカルも同じ。その保護されるべきジャッカルが、ハイウェイで死体となって発見された事で本編は始まる。ジャッカルはなぜ死んだのか、という謎解きを軸に本編は進む。

犬のいない世界が舞台となる本編のあちこちに犬への愛惜が織り込まれる。人類にとってこの惑星で最良の友とも言える犬。犬が居ない世界は愛犬家にとっては悪夢のような世界だろう。おそらくは著者もその一人ではないか。犬がいない世界の殺伐とした様子を、著者はじっくりと描きだす。

たとえ殺伐とした未来であっても、当然そこを生活の場とする人々がいる。そんな人々の中に、キャンピングカーで寝起きする老夫婦がいる。彼らの住まいはかつてアメリカでよく見られた大型キャンピングカーのウィネベーゴ。老夫婦はウィネベーゴを後生大事に使用し、観光客への見世物として生計を立てる。老夫婦は、本編においては喪われるものを慈しむ存在として核となる。イヌのいない世界にあって、彼らにとってのウィネベーゴは守らねばならないものの象徴でもあるのだ。

本編からは、現代の人類に対する問題提起も当然含まれる。われわれが当たり前のように享受しているモノ。これらが喪われてしまうかもしれない事を。

巻末には編訳者の大森望氏による解説もつけられている。こちらの内容はとても的確で参考になる。

‘2016/5/30-2016/6/3


今さらメールがすごいと言われても


先日、フォーブスジャパンのオンライン版でこんな記事を見つけました(SNS時代でも、メールがやっぱりすごい理由)。メールを礼賛するようなタイトルに、この期に及んでメール?と逆に興味をもって読んだのですが、正直いってあまりにも現状にさからった記事内容にがっかりしました。

メールって、コミュニケーションツールだったはずですよね?普通、コミュニケーションといえば、双方向のやり取りを指すはず。ところがこの記事を読むと、双方向の視点が見事に欠けています。双方向ではなく一方通行のツール。それも配信業者にとって都合の良い配信手段として。この記事の中で礼賛されるメールとはコミュニケーションツールではなく配信手段でしかありません。送り手側に都合のよいだけの一方通行のコミュニケーション手段の可能性を力説されても、シラケてしまいます。

私の感覚では、メールはもはや主流のコミュニケーションツールではありません。もちろん、私もコミュニケーション手段としてメールは残しています。一部のお客様とはいまだにメールでやり取りしているので。

おそらくオンライン上で行う双方向のやりとりの手段として、メールはもうしばらく生き残るでしょう。ですが私が技術者同士のやり取りでメールを使うことはほぼありません。chatworkやLINE、Facebook メッセンジャーやSlackで仕事のやりとりはほぼ事足ります。メールに頼らずともお手軽なコミュニケーション手段は十分用意されているのです。

なぜメールが使われなくなったのか。その理由を知りたければ最適な情報があります。それはサイボウズ社が以前展開していたNo email キャンペーンです。この中に理由が書かれています。(キャンペーンサイトは無くなってしまったようですが、スライドシェア上にアップされています)。
・整理されない
・引き継げない
・取り消せない
・添付できない
・集計できない
・経緯を追いづらい
・見落とす

サイボウズ社の主力製品の一つはグループウエアやんか、アンチemailの主張は差し引いて受け取らなあかん、という声もあるでしょう。でもここに列挙したアンチemailの理由は今もなお有効です。少なくともフォーブスジャパンの記事にはここに挙げたemailの欠点を補う記述は見当たりませんでした。

それどころかフォーブスジャパンの記事にはこう書かれています。「ウェブサイトのデザインに使われるHTML5やCSS3などの技術が進化し、メールは一方通行の「読み物」から、ウェブサイトばりにインタラクティブなツールになった」。ところが、こういったインタラクティブなHTMLメールは、メーラーによっては完全に読めません(こちらに英文ですがメーラーのCSS対応状況が掲載されています)。メールでやりとりする上で不可欠なメーラーが、インタラクティブなHTMLメールに対応し切れておらず、しかもそれが改善される気配がない。これは、メール市場の拡大を謳うこの記事の説得力を完全に損なっています。もう一つフォーブスジャパンの記事に抜けていると思ったのが暗号化への対応です。実はほとんどのメーラーでは暗号化設定が実装されています。ですが、メールサーバーの設定によって利用者がメーラーの設定を変えねばなりません。それなのに、フォーブスジャパンの記事にはそのことに触れていません。そもそも双方向性が考慮されていないため、暗号化の問題に触れる必要がないのでしょう。でも、この点はメールの将来性にとって不可欠な視点のはず。

なぜメーラー開発各社がHTMLメール対応に本腰を入れないのか。それは私見ですが、ひとたびその機能を許せば通信データ量を食うHTMLメールによる一方的な配信が増大し、通信料も莫大になるからではないでしょうか。No emailキャンペーンでは触れられていませんが、そもそもメールとは送信者が受信先のアドレスさえ知っていれば、自由な内容、自由な容量のメールが送り放題です(メールサーバーを持っていれば流量制限も無尽蔵です)。それに比べて、LINEやchatworkやSlackでメッセージを送るには、受信者側の許可が必要です。

そういう許可制が敷かれたプラットホームでは、メール配信会社は大量配信が出来なくなります。この点を抜きにしたフォーブスジャパンのこの記事には、配信会社の思惑を感じずにはいられません。

とはいえ、フォーブスジャパンの記事にはメールの優位性として情報量を盛り込める点が指摘されています。これはchatworkやLINEにない利点であることは認めざるをえません。また、記事内に登場するハイムス社の紹介では、効果的なメール配信を行う仕組みを備えているそうです。だとしたら一目置くべきかもしれません。ですから、一概にメールを否定するのもまた賢い対応ではないのです。どうにか双方の良い点を兼ね備えたコミュニケーション手段ができればいいのに、と常々思います。

もし、フォーブスジャパンの記事にあるような配信業者が、本気でメールプラットホームに未来を賭けたいのであれば、まずは下手な鉄砲も数撃ちゃ式手法より、本当に記事が読まれるべき内容にすべきだし、対象も絞るべきではないでしょうか。一方通行ではなく、読み手からも適切なフィードバックが戻るようなツールであるべきだと思います。そのためにはメーラーにも改善の余地があります。上に書いたようにメーラーのCSS対応もまだまだです。本来ならばウェブサイトと同じレベルでCSSによるデザインが施されたページが読まれるべきでしょう。ですが今の対応状況は発展途上もいいところです。それ以外にもメーラーでできることがあるはずです。例えばメルマガの末尾には配信停止のリンクが記載されています。これをもう少し改善し、メーラー側に配信停止機能を持たせるというのはどうでしょうか。その都度メール末端のURLをクリックして配信停止を行わせるのではなく、メール一覧から右クリックで配信停止を実現する機能。この機能をメーラーが実装するだけで、余分な一方通行メールが減るのではないかと思います。

コミュニケーションツールにはまだまだ改善の余地がありそうです。これを読んだIT技術者の方。よかったら改善に取り組んでみられてはいかがでしょうか? え? おまえがやれって? うむむ、興味はありますが、多分私一人には荷が重いですね。もし興味がある方、一緒にやりませんか?


空の中


本書、そして「塩の街」「海の底」を称して自衛隊三部作というらしい。著者にとっての出世作が図書館戦争シリーズであるとするならば、この3部作は助走に値する作品たちといえようか。いずれも自衛隊が登場し、人類を脅かす未知の現象に対峙する話である。もっとも「塩の街」は未だに読んでいないのだが・・・

本書の構成は実に分かりやすい。航空立国日本の復活の望みを託した最新鋭機が空中で突如爆発する事故が立て続けに2件起こる。突然のアクシデントに色を失う関係者たち。いったい何がこの空域に存在するのか。

実はその空域には、太古から意識ある生物が人との交流を避け、生き続けていた。人類の発する電波を解析し得る知能を持つそれは、爆発事故をきっかけに人類と交流を持つようになる。人類によって【白鯨】と呼ばれたそれは、共存を望み、人類と対話を重ねようとする。が、その存在を脅威に思った愚かな為政者によってミサイルを浴びた【白鯨】は・・・バラバラに引き裂かれ、分裂した意思を持ち人類を敵として襲い掛かる。

本書は異生命とのコミュニケーションがテーマだ。事故によって人生に影響を蒙った人々が、それぞれのやり方で【白鯨】と向き合っていく姿が描かれている。少年「瞬」はパイロットの父を衝突事故によって失うも、事故時に衝撃で剥落した【白鯨】の一部をフェイクと名付け手なづける。かたや、少女「白川真帆」は父を衝突事故で奪われ、その憎しみを【白鯨】を対決することで晴らそうとする。そして航空自衛隊内に設けられた対策本部では、事故機の開発会社員「春名高巳」と事故時に辛くも生き延びたパイロット「武田光稀」が中心となって【白鯨】と意思疎通を図り共存への道を探ってゆく。

はたして【白鯨】と人類の間には、異なる生命体としての壁を越えて交流が成立するのか。ばらばらにされた【白鯨】は単一の個体として永劫の時を過ごしてきたため、ばらばらになった各個体を各個体として認識できず、人類側からの提案で解離性同一性障害(多重人格)の治療法と同様の方法で再統一を図る。このあたりのアプローチはSF的であり、とても興味深い。私が知る限り、精神分析の手法で異生命体との接触を試みた筋書きは他に知らない。人類と異なるアイデンティティとの接触は、作家としては話の作り甲斐があるのではないだろうか。もちろん、SFの世界でも異生命とのコンタクトを題材とした思索は多数試みられてきた。そして、こういった未知との遭遇については、SETIの成果がいつになれば達成されるかはさておき、我々にとっても他人事ではないところだ。

ただ本書は、【白鯨】を挟んで共存か敵対か、の二元的な構成に陥ってしまい、少し単調になってしまったのが惜しまれる。が、宮田喜三郎という「瞬」の保護者であり、高知県仁淀川で漁師として生を営む老人がいい役割を担っている。喜三郎老人は、瞬の幼馴染である佳江とともに対策本部に合流する。そして二元論に陥りそうになる本書をきりっと締める。

悠久の時を生きた生物と、悠久の進化を遂げてきた人類。彼らを軸とした物語を老人の叡智がさらりと収めるのが、なんともいえず痛快である。

‘2015/7/8-2015/7/10


ひとり日和


本書はどこにでもいそうな平凡な女の子、知寿の日常を描いている。本書を読んでいても、筋に大きな流れや起伏は出てこない。筋だけを追うと、本書からは平板な物語という感想しか出てこないかも。

でも、なんだかほっとする物語だ。

人と上手く関係を持てない女の子が、東京に出てきて、親族のおばちゃん家に居候する話。といえばそれだけ。人との関係がうまく作れない分、人のちょっとしたものをくすねてしまう性癖がある。うまく自分の感情を出せないくせに、落ち込むととことん落ち込んでしまう。感情の動きが激しいのに、それを表に出すのが苦手というのは今の女の子にありがちな性格なのだろうか。

知寿が居候するのは、母方の祖母の弟の奥さんという設定の吟子さん家。ご厄介になるうちに、笹塚駅のキオスクのバイトで知り合った藤田君と恋仲になり、藤田君を連れて吟子さん宅でごろごろしたりとドラマティックな展開とは無縁の冴えなくも気負わない日常が淡々と書かれる。起こる出来事としたらたまにデートで高尾山に行くくらい。行った帰りに人身事故に遭遇して2,3駅歩いて帰るぐらい。

でも、話には起伏がない分、知寿の心の動きは山あり谷あり。著者はそのあたりの心の動きを実に丁寧に書いている。そもそも日常に劇的なイベントが立て続けに起こるのが異常なのかもしれない。たいていの女の子の日常とは知寿のようなものなのかもしれない。そこがとてもリアル。リアルでほっとする。それが本書。

本書は京王線沿線が舞台となっている。吟子さんの家は某駅ホームの端から見える位置にあるという。本書を読み進めていくと、京王線沿線を知る人にはどこが舞台になっているか絞れるのではないだろうか。私がみたところ、吟子さんの家の最寄駅とは仙川か八幡山ではないかと思ったのだけれど。そうやって推測できるぐらい、本書には京王線近隣の駅が良く出てくる。

藤田君に振られ、吟子さんの年までワープしたいという主人公。吟子さんのボーイフレンドホースケさんとの交流もあって、知寿の日常はますます年寄染みたものになる。いわゆる欝状態。

でも、そこから知寿は回復してゆく。ふっとしたきっかけを手がかりに。そこの描写が実によい。女性にしか書けないかもしれない心の移ろい。中途半端に満たされた日々の中、ぬるま湯にいてふと気づく、冷えた水がまとわり付く感覚。

今は昔のように女性に決まりきった役割が求められていない。その分、不安定な年頃の幅が広まっているのだろう。甘えようと思えば甘えられてしまう、幸せと胸を張って言えない中途半端な立ち位置。

しかし知寿はそこから再生への道を歩む。藤田君への未練もすっぱりとなくし、吟子さんへの依存もなくすために別の家、別の仕事へ。そうして、知寿は、今までくすねてきた無価値な品々をもすっぱりと捨てる。

つまり、本書は現状から抜け出すための応援小説でもあるのだ。外部のイベントに頼らなくても、復活するきっかけは自分自身の中にあるはずという。

人との関係が希薄になったとよく言われる。ネットでのやりとりがその元凶であるとも言われる。しかし、知寿は不器用であっても吟子さんや藤田君とのコミュニケーションを試みる。吟子さんと知寿のやりとりの微妙な距離感は、本書を楽しむ上で外せないのだが、あえて71歳の吟子さんをパートナーに持ってきたことで、リアルの会話でしかコミュニケーションを取らないように知寿を追い込んでいる。吟子さんと恋人であるホースケさんとの関係もまた、緊張とは程遠いほのぼのとしたものだ。でもそこには血の通った交流がある。

知寿や吟子さん、ホースケさん、そして藤田君を通し、コミュニケーションのあり方を探っているのも本書の隠されたテーマなのだろう。

‘2015/5/14-2015/5/17