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思いつくものではない。考えるものである。言葉の技術


言葉を操る。今、誰もがこなせるスキルだ。そしてそれ故にもっとも軽んじられたスキルでもある。

多くのブログやツイートやウォールが溢れるネットの中。そこでは、編集者や読者がいようがいまいがお構いなしに、毎日大量の文章がアップされている。ページに表れては底へと沈んでいく文字の群れ。私の書く文章もその中に紛れ、底に向かって忘れられていく。そんな言葉で液晶画面は飽和している。だが、液晶画面の外でも脚光を浴びる文字はほんのわずかだ。電子世界ではいくら威勢がよくても、リアルな社会では本当にちっぽけな存在でしかない。それがあまたのブログやツイートの実情だろう。

リアルな社会では、いまなおテレビ番組が健在だ。ネット住民からみると完全なオワコンでしかないテレビ番組。だが、リアルな社会ではまだまだ影響力を持っている。テレビのCMが世相に浸透する力は依然として侮れない。一方通行である分、大量に流され、拡散力を持つ。一方、ネットはそれぞれの閲覧者にカスタマイズされた情報が届けられることが基本だ。なので、同時に拡散する力は弱い。ネットの中を飛び交う言葉は、リアルな社会での影響力はまだ鈍いといわざるをえない。ネットに流れる文章でリアルな社会にかろうじて顔を見せる文章といえば、ツイートぐらいだろうか。それすらも、フォロワーが何百万人、何千万人いるような選ばれたインフルエンサーのツイートに限られる。例えばトランプ大統領や著名人のアカウントのような。一般人のツイートで取り上げられるとすれば、テレビ番組の中ぐらいか。 リアルタイムでインタラクティブな視聴者の声として、テレビ局が最近意識して取り入れるような。

それ以外の言葉は、残念ながら、CMにしろ番組にしろ、ネット社会で飛び交う言葉がリアルに登場することはあまりない。ネット上で産まれた言葉がリアルを侵食することはない。そこまでは至っていないのが現状だ。

それがおそらく、一人ひとりにカスタマイズされるネットのコンテンツと、一斉配信を前提とするマスメディアの差なのだろう。だが、あえていうならば、読む人見る人の感性に訴えるだけの力がネット上の文章にはないとから、ともいえる。私も含めた発信者が、ネット上にアップする文章に、世論を動かすだけの力がないのだ。

では、どういう言葉がリアルな言葉でもてはやされるのか。それは、コピーライターによるコピー文句だ。

作家による小説やエッセイ、または新聞記事。確かにこれらはリアルな社会に似つかわしい文章だ。だが、それはリアルな社会の共通項ではない。それらは著者から読者へとストレートに届けられるものであり、社会に浸透することはあまりない。若干閉じた文章とすらいえる。これはネット上のニュース文章にもいえることだ。先にも書いたが拡散力の差、といえる。それに比べて、コピーライターの生み出す文章は、拡散力がある。それは文章を見た瞬間に、人の感性にするりと入り込む。そして記憶の奥底にがっちりと食い込む。これはが、ネットの世界に飛び交う文章にはない、職人的な経験値の力なのだろう。

本書は、リアルな世界で通用する文章の紡ぎ方のノウハウが記されている。著者は文章の専門家ではない。修辞学の教授でも文学部の講師でも、ましてや作家ですらない。著者は電通でコピーライターとして活躍している方だ。だが、上にも書いたとおり、リアルな社会で人々の目や耳に飛び込む文章とは、コピーライターから発信された言葉が多いのではないか。

本書で著者は、すぐれたコピーを生み出す秘訣を、端的にいう。それは、考えることであるという。コピーライターが生み出す言葉とは考えに考えぬいた結果でしかないのだ。決して才能や感性でパッと生まれでたものではない。本書で著者が語る秘訣とは、当たり前といえば当たり前なのだ。だが、すべての仕事に共通することだが、実のところ近道はない。どんな仕事であれ、練習や努力の積み重ねでしかない。本書の結論も同じ。優れたCMコピーの裏側には膨大な試作があり、廃案があり、考え抜いた努力の跡がある。その訓練が人に訴えるコピー文句を生み出すのだ。

商品・企業
ターゲット
競合
時代・社会
この4つのキーワードは、著者がコピーを考える上で四つの扉として挙げる切り口だ。

つまり、これらは徹底した消費者目線で、売り手の訴えたいココロを文章に乗せるための観点だ。

本書はとても腰が低い。本書のあちこちに著者が腰を低く、自らを卑下するようなスミマセンが登場する。これは、本書を読むとすぐに気づく特徴だ。腰が低いとは、読み手であるわれわれとの壁をなくすこと。つまり大上段に構えて落としこむように語っても本書の内容は伝わらないということなのだろう。そこで、上にあげた四つの扉の切り口から徹底的に消費者の視線と売り手の視線に降りて言葉を考える。ひたすらに考える。その愚直な作業の繰り返しから生まれるのがコピー文句なのだろう。

では、われわれ読者も、ありがたく頂くのではなく、その姿勢を学ばねばならない。学んで、同じように低い姿勢で読み手に文書を届けなければならない。

本書は最後に、二つの文章で、文章を著す者の姿勢が載っている。

感情的な言葉より、正確な言葉
人に訴える言葉より、自分を律する言葉

これはブログを書く上でも、仕事上でやり取りをする上でも、とても重要な言葉だと思う。ことに最近、そういう感情的な文章に触れる機会があった。それを反面教師として、自分でも自分でも律していきたいと思う。私は、いろいろなブログを書いている。その中で、読読ブログと映画・観劇ブログは、あえて文体を変えている。デスマス調ではなく、デアル調の文体。それがどういう効果を与えているのか、今一度深く考えてみなければならないのだろう。

‘2016/06/30-2016/06/30


アジャストメント


フィリップ・K・ディックといえば、SF作家の巨匠として知られる。

映画化された作品は数多い。だが、著者はとうの昔に世を去っている。没年が1982年というから亡くなって30年以上経つ。それなのに2010年代になってもなお映像化された作品がスクリーンを賑わしている。こんなSF作家は著者だけかもしれない。

本書に収められた短編のうち最近のものは「凍った旅」だ。この作品は1980年に発表されている。1980年といえばインターネットどころか、マッキントッシュやウィンドウズが生まれたての頃だ。インターネットはまだ軍事用の連絡手段としてごくごく一部の人間にしか開放されていなかった時期。ネットライフなど、SF作家の脳内にも存在したか怪しい。著者が脂に乗っていた世代はさらに二世代ほど遡る。本書に収められた作品の多くはそのような時代に着想された。

そんな古き良き時代に産み出された著者の作品が、現代でもなお映像化されるのは何故だろう。

本書に収められた短編にはその疑問を解き明かす鍵が隠れている。

それは人の心を描いている、ということではないか。人の心の作用は、技術が発達した今もまだ闇の中だ。人工知能が当たり前となった現代にあっても、人の心の深淵は未知。精神医学も脳神経学も、脳波や言動といった表面に聴診器を当てて心の動きを推し量っているにすぎない。

つまり、著者の扱うSF的な主題は、今なおSFとして通用するのだ。たとえ道具立てが古びていようとも。そんなものは映像に表現する際に最新の意匠を当てはめれば済む。それだけの話だ。ここにこそ今なお著者の作品が映像化される理由が隠れていると思う。

その点を以下に示してみよう。

「アジャストメント」
2011年にマット・デイモン主演で映画化された。本編では、環境が人の心が作り出したものか、それとも環境があってその中に人の意識が作動するか、いわゆる唯物論と唯識論が取り上げられている。

「ルーグ」
犬と人間の交流の断絶を描いている。つまり、犬の心と人間の心は吠え声を通してしか繋がり得ないという事だ。犬が絶望的にいくら泣き喚こうが、人間にはただのうるさい無駄吠えとしか聞こえない事実。

「ウーブ身重く横たわる」
心のタブーの産まれる所に切り込んだ著者のデビュー作。何がタブーを作り出すのかがとても鮮やかに描かれる。

「にせもの」
ぼくがぼくだということを示す方法。記憶も自我もコピーされたとして、果たして自分が自分であることをどうやって証明すればよいか。自我のあり方について鋭くえぐった一編だ。

「くずれてしまえ」
本編は、心が陥る怠惰の罠を書いている。もしくは想像力の涸渇と言い換えてもよい。なんでもコピー自在な異種生物によって支えられた世界。それが崩壊して行く様。なにやら技術に依存しきった人類の未来を描いているようで不気味な一編。

「消耗員」
この一編は心とはあまり関係なさそうだ。いわゆる異種=虫とのファンタジー。

「おお! ブローベルとなりて」
本編は、同族以外のものを排除しようとする差別意識をテーマとしている。

「ぶざまなオルフェウス」
本編は、芸術家や歴史に名を残す人物に降り立つ霊感を扱っている。いわゆるひらめき。著者自身が登場するのも笑える。歴史改変ものでタイム・パラドックスに無頓着なのはご愛嬌だ。

「父祖の信仰」
信仰と忠誠の話だ。もしくは個人と組織の対立と言い換えてよいかもしれない。薬が登場するが、それは信仰や忠誠の媒介を象徴しているのだろう。そういった媒介物があって初めて、信仰や忠誠は成り立つのかもしれない。むしろ、成り立たないのだろう。

「電気蟻」
本編はロボットの自我の話だ。自我に気づいたロボットが自殺する話。これは、心の自律性を風刺していると思われる。

「凍った旅」
本編は、記憶や幼き日のトラウマの深刻さを描いている。長期睡眠者の意識だけが目覚めた中、宇宙船の統御コンピュータが、長期睡眠者の精神ケアのため、時間稼ぎに幼い日々の記憶を蘇らせる話だ。全てを暗く自虐的に受け取ってしまう長期睡眠者の心の闇が、ケアされていく様子が描かれている。

「さよなら、ヴィンセント」
これはリンダ人形のモデルのリンダについての物語だ。何かせずには自分のありようを確かめられない。そんな心の弱さが簡潔に記されている。

「人間とアンドロイドと機械」
これは著者のエッセイだ。内容や主旨がかなり回りくどく説明されており、全貌を把握することは難しい。私が受け取った著者のメッセージは、人間とアンドロイドと機械を厳密に区別する術はないということだ。自我よりも行動様式、もしくは存在論にまで話は及ぶ。その該博なエッセイの中で著者の結論を見出すのは難しい。結局は人間的な属性などどこにもない、という結論だと思ったが、どうだろうか。

‘2016/04/14-2016/04/20