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楽園のカンヴァス


本書は実に素晴らしい。あらゆる意味で端正にまとまっている。
小説としての結構がしっかりしている印象を受けた。

本書の主人公、織絵は、美術館の監視員というどちらかといえば裏方の役割を引き受けている。母と娘と共に暮らし、配偶者は登場しない。

ところがある日、織絵にオファーが届く。
そのオファーとは、アンリ・ルソーの作品を日本に貸し出すにあたり、日本側の交渉担当として織絵を指定していた。
オファーを出してきたのは、ニューヨーク近代美術館のチーフ・キュレーターであるティム・ブラウン。
キュレーターとして花形の地位にあり、地味に描かれている織絵の境遇とは似つかわしくない。

娘の真絵との関係を修復できぬまま、生活に思い悩むように描かれる織絵。
そんな彼女の過去に何があるのだろうか。冒頭から読者の興味を惹いてやまない。
そして、舞台は十六年前へ。

ここから、本書の視点は十六年前のティム・ブラウンに変わる。
ティム・ブラウンは、ニューヨーク近代美術館のアシスタント・キュレーターとして、上司のトム・ブラウンのもとで働いていた。
上司のトム・ブラウンだけでなく、ティムのもとへも何通ものダイレクトメールが届く。
その中に混ざっていた一通こそ、スイス・バーゼルからの招待状だった。招待の主はコンラート・バイラー。伝説の絵画コレクターであり、有名でありながら、誰も顔を見たことのない謎に満ちた人物。
てっきり上司に届くべき招待状の宛名が誤って自分に届いたことをチャンスとみたティムは、誤っていたことを明かさずに招待を受ける。

バーゼルに飛んだティムは、そこでバイラーの膨大なコレクションのうちの一つ、アンリ・ルソーが描いた絵画の真贋の鑑定を依頼される。
アンリ・ルソーの代表作『夢』に瓜二つの『夢をみた』。果たしてこれが真作なのか偽作なのか。
その依頼を受けたのはティムだけではない。もう一人の鑑定人も呼ばれていた。
バイラ―の依頼は、二人の鑑定人がそれぞれ『夢をみた』を鑑定し、より説得力のある鑑定を行った方に『夢をみた』の権利を譲るというもの。
ティムともう一人の鑑定人は早川織絵。新進気鋭のルソー研究家として注目されていた彼女こそ、ティムが競うべき相手だった。

二人は、七日の間、毎日一章ずつ提示される文章を読まされる。
そこにはルソーの慎ましく貧しい日々が活写されていた。
その文章には何が隠されているのか。果たして『夢をみた』は真筆なのか。
さらに、織江とティムの背後に暗躍する人物たちも現れる。その正体は何者なのか。
七日間、緊迫した日々が描かれる。

本書を読むまで、私は恥ずかしいことにアンリ・ルソーという画家を全く知らなかった。
本書の表紙にも代表作『夢』が掲げられている。
そのタッチは平面的でありながら、現代のよくできたイラストレーターの作品を思わせる魅力がある。
色使いや造形がくっきりしていて、写実的ではないけれど、リアルな質感を持って迫ってくる。

ルソーは正規の画家教育を受けず、40歳を過ぎるまで公務員として働いていたという。
独学で趣味の延長として始めた画業だったためか、平面的で遠近感もない画風は、当時の画壇でも少し嘲笑されて受け取られていたらしい。
だが、パブロ・ピカソだけはルソーの真価を見抜いていた。そればかりか、後年のピカソの画風に大きく影響を与えたのがルソーだという。

私は本書を読んだ後、アンリ・ルソーの作品をウェブで観覧した。どれもがとても魅力的だ。
決して私にとって好きなタッチではない。だが、色使いや構図は、私の夢の内容をそのまま見せられているよう。
夢というよりも、自分の無意識をとても生々しく見せられているように思えるのだ。
本書のある登場人物が『夢』について言うセリフがある。「なんか・・生きてる、って感じ」(290p)。まさにその通りだ。

ティムと織江も、正統派の画壇からは軽んじられているルソーを正しく評価し、その魅力を正しく世に伝えようとする人物だ。
だからこそ、バイラーも二人をここに呼んだ。

そんな二人に毎日提示される文章。
そこには、当時の大きく変わろうとする美術界の様子が描かれていた。
素朴で野心もない中、ひたむきに芸術に打ち込むルソー。
美術には全く門外漢だったのに、ルソーの作品に惹かれ、日がな一日、憑かれたように絵を眺め、それが生きがいとなってゆく登場人物たち。

本書には、権威主義にまみれ、利権の匂いが濃厚な美術界も描かれる。
もう一方では、芸術の生まれる現場の純粋な熱量と情熱が描かれる。

本来、芸術とは内なる衝動から生まれるべきもののはず。
そして、芸術を真に愛する人とは、名画の前でひたすら絵を鑑賞し続けられる人の事をいう。本来はそうした人だけが芸術に触れ、芸術を味わうべき人なのだろう。
ところがその間に画商が割って入る。美術館と美術展を主催するメディアが幅を利かせる。ブローカーが暗躍し、芸術とは関係のない場所で札束が積まれて行く。

本書にはそうした芸術を巡る聖と俗の両方が描かれる。
俗な心は人間に欲がある限り、なくならないだろう。
むしろ、純粋な芸術だからこそ、俗な人々の心を打つのかもしれない。

百歩譲って、名画をより多くの目に触れさせるべきという考えもある。美術館は、その名分を基に建てられているはずだ。
そのような美術館の監視員は、コレクターよりもさらに名画に触れられる仕事だ、という本書で言われるセリフがある。まさに真実だと思う。
著者の経歴通り、本書は美術の世界を知った著者による完全なる物語だ。

小説もまた芸術の一つ。
だとしたら、本書はまさに芸術と呼ぶべき完成度に達していると思う。

‘2019/4/21-2019/4/22


生首に聞いてみろ


著者の推理小説にはゆとりがある。そのゆとりが何から来るかというと、著者の作風にあると思う。著者の作風から感じられるのは、どことなく浮世離れした古き良き時代の推理小説を思わせるおおらかさだ。たとえば著者の小説のほとんどに登場する探偵法月綸太郎。著者の名前と同じ探偵を登場させるあたり、エラリー・クイーンの影響が伺える。法月探偵の行う捜査は移動についても経由した場所が逐一書き込まれる。そこまで書き込みながら、警察による人海捜査の様子は大胆に省かれている。それ以外にも著者の作品からゆとりを感じる理由がある。それは、ペダンティックな題材の取り扱い方だ。ペダンティックとは、衒学の雰囲気、高踏なイメージなこと。要は浮き世離れしているのだ。

本書は彫像作家とその作品が重要なモチーフとなっている。その作家川島伊作の作風は、女人の肌に石膏を沁ませた布を貼りつけ型取りし、精巧な女人裸像を石膏で再現することにある。死期を間近にした川島が畢生の作品として実の娘江知佳をモデルに作りあげた彫像。その作品の存在は限られた関係者にしか知らされず、一般的には秘匿されている。それが川島の死後、何者かによって頭部だけ切り取られた状態で発見される。娘をモチーフにした作品であれば頭部を抜きに作ることはありえない。なぜならば顔の型をとり、精巧に容貌を再現することこそが川島の作品の真骨頂だからだ。なのになぜ頭部だけが持ち去られたのか。動機とその後の展開が読めぬまま物語は進む。

彫像が芸術であることは間違いない。前衛の、抽象にかたどられた作品でもない限り、素人にも理解できる余地はある。だが、逆を言えば、何事も解釈次第、ものは言いようの世界でもある。本作には川島の作品に心酔する美術評論家の宇佐見彰甚が登場する。彼が開陳する美学に満ちた解釈は、間違いなく本書に浮き世離れした視点を与えている。川島の作品は、生身に布を貼ってかたどる制作過程が欠かせない。そのため、目が開いたままの彫像はあり得ない。目を閉じた川島の彫像作品を意味論の視点から解説する宇佐見の解釈は、難解というよりもはやスノビズムに近いものがある。解釈をもてあそぶ、とでも言えば良いような。それがまた本書に一段と浮き世離れした風合いを与えている。

ただ、本書は衒学と韜晦だけの作品ではない。「このミステリかすごい」で一位に輝いたのはだてではないのだ。本書には高尚な描写が混じっているものの、その煙の巻き方は読者の読む気を失わせるほどではない。たしかに彫像の解釈を巡って高尚な議論が戦わされる。しかし、法月探偵が謎に迫りゆく過程は、細かく迂回しているかのように見せかけつつ、地に足がついたものだ。

探偵法月の捜査が端緒についてすぐ、川島の娘江知佳が行方不明になる。そして宇佐見が川島の回顧展の打ち合わせに名古屋の美術館に赴いたところ、そこに宇佐見宛に宅配便が届く。そこに収まっていたのは江知佳の生首。自体は急展開を迎える。いったい誰が何の目的で、と読者は引き込まれてゆくはずだ。

本書が私にとって印象深い理由がもう一つある。それは私にとってなじみの町田が舞台となっているからだ。例えば川島の葬儀は町田の小山にある葬祭場で営まれる。川島のアトリエは町田の高が坂にある。川島の内縁の妻が住むのは成瀬で、川島家のお手伝いの女性が住んでいるのは鶴川団地。さらに生首入りの宅配便が発送されたのは町田の金井にある宅配便の営業所で、私も何度か利用したヤマト運輸の営業所に違いない。

さらに川島の過去に迫ろうとする法月探偵は、府中の分倍河原を訪れる。ここで法月探偵の捜査は産婦人科医の施術にも踏み込む。読者は彫像の議論に加え、会陰切開などの産婦人科用語にも出くわすのだ。いったいどこまで迷ってゆくのか。本書は著者の魔術に完全に魅入られる。

そして、謎が明らかになった時、読者は悟る。彫像の解釈や産婦人科の施術など、本筋にとって余分な蘊蓄でしかなかったはずの描写が全て本書には欠かせないことを。それらが著者によって編みあげられた謎を構成する上で欠かせない要素であることを。ここまでゆとりをひけらかしておきながら、実はその中に本質を潜ませておく手腕。それこそが、本書の真骨頂なのだ。

‘2017/01/12-2017/01/15


キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる


情報の溢れかえる現代。現代とは、情報から価値が急速に失われつつある時代でもある。つまり、情報は無料で手に入るが、情報量に反比例して情報自体の相対価値は減り続けているのだ。現代とは、情報に対して取捨選択するためのスキルが必要な時代でもある。

取捨選択するためのスキルとは、審美眼や知識の蓄積である。ある程度の知識を持っていないと、画一化された情報の下で同じような価値観を植え付けられることになる。最近のネットニュースの氾濫はまさにそうだ。油断していると釣り記事に引っかかり、シェアしてしまった後で決まりの悪い思いをすることになる。ここにきて、ネットに溢れる情報の真贋の見極めがいよいよ重要になりつつあるように思える。

それは逆に、情報発信者にとっては自らの発信する情報が人々に行き渡らなくなることを意味する。かつて情報を発信するためにはマスコミというフィルターを通す必要があった。今は情報が溢れかえるあまり、人々は情報を疑いの目で見る。釣り記事に釣られまいと滅多なことでは情報に食いつかなくなっている。

本書はそういった情報の相対価値が落ちた現代にあって、情報が伝達される形態を考察する。いかにして情報は伝わり、情報を発信した人と受け取った人の間に価値観の共有が行われるのか。もはや従来のマスコミュニケーションによる画一化された情報伝達が通用しない今、我々は何を受けとり、何を発信するべきか。本書から得られる示唆は多い。

私自身、二十歳過ぎの頃の自分を振り返ると、流行に乗るまいと抵抗していた気がする。トレンディ・ドラマには背を向け、オリコンでTOP10に入るような音楽からは耳を塞いでいた。替わりに興味を持っていたのは、ラテンアメリカの文学であり、ラテンアメリカの音楽であり、プログレッシブ・ロックの世界だった。すでに70年代に先鋭的な若者にとってさんざん持て囃されたそれらのジャンルを、遅れてきた青年として背伸びし、吸収しようとしていたのが私だった。

しかし本書では、流行に乗るまいと抵抗するまでもなく、そういったメインストリームの価値観が解体しつつあることを指摘する。人々は自分の信ずる価値観に集い、そこで価値観を同じくする仲間と過ごすことが主流となりつつある。インターネットの出現は、そういった行為をより簡単に成しえるようになった。

本書では、そういった情報の集いをビオトープと表現する。ビオトープとは本書に出ている定義によると「有機的に結びついた、いくつかの種の生物で構成された生物群の生息空間」となる。水槽に海草を生やして魚たちの生態圏を作るようなものだ。つまり本書で著者が言うビオトープとは、情報の海に浮かぶ、価値観の似通った人々によって構成される情報の交換空間とでもいおうか。

ビオトープという情報の集約点が出来るようになったことで、情報発信者はビオトープ目がけて情報を発信するほうが早いことに気付きつつある。その例として、著者は音楽プロモーターの田村直子さんの事例を取り上げる。田村直子さんが発信しようとするのは、ブラジルのエグベルト・ジスモンチの来日公演の告知。ブラジル音楽好きとしては、エグベルト・ジスモンチの名は避けては通れない。私もCDこそ持っていないものの大物として存在は知っている。そして、日本においてはジスモンチの知名度はさほど高くなく、集客に苦労するであろうことも理解している。限られた時間と予算の中、効果的にジスモンチに興味を持ちそうな愛好家たち―ビオトープにどうやって告知を打つのか。そのやり方を、ネット時代の情報発信の手本として著者は紹介する。ジスモンチのビオトープの一つとして、私の好きなマリーザ・モンチのコミュニティも登場している。私にとってなじみのあるブラジリアン・コミュニティの数々が本章には登場し、私にとって親近感のある導入部となった。

第二章は背伸び記号消費の終焉と題されている。従来は大衆向けの一方通行の情報発信が主流だった。情報発信する手段が大衆には与えられていなかったためだ。しかしネットの発展は今や大衆に発信する力を与えている。しかし容易に情報を発信できるということは、すなわち承認欲求の生じる機会を増やすことにもなる。また、情報の流れに参加できないことは、孤立感や焦燥感などを産み出すことにもつながる。本章ではマスコミによる一方通行の情報発信の限界が語られる。そして、それとともに人と人とのつながりや承認欲求の高まりがかつてなく高まっていることが指摘される。ネット時代にあっては、大量消費大量生産大量発信の時代が終わりを告げ、個人の力による情報発信が重く見られつつあることを意味する。

第三章は、視座にチェックインするという新たな行動パターンを解説する。本章ではFourSquareのサービス紹介を中心に話が進められる。実は私は本書を読む前からすでにFourSquareを愛用している。私の場合は他人の視座からその地の風物を楽しむといった活用ではなく、単に私自身のライフログとしての活用なのだが。

FourSquareは、プライバシーの侵害に気を揉むことなく、ネットライフを満喫する手段としてはありだろう。そもそも私自身からしてSNSはそのように使うことが多い。つまり、他の方のアップするイベントの写真と文章からその方の視座から見た人生のヒトコマを楽しむ。私自身がアップするイベントの写真と文章によって、他の方に私の視座を提供する。私が妻と子供とどこに行ってどうしたという体験。この体験に共感し、私という人間の視座を面白がってくれる方には、投稿はよい効果を上げる。それが単なる飯テロやリア充自慢と受け取られてしまったとすれば、それは視座の提供以前の話で、拒絶されてしまっていることを示す。

そもそも、SNSやブログを例に出すまでもない。新聞や雑誌や書籍での文筆家によるエッセイの数々が、すなわち書き手の視座の提供に他ならなかったのではないだろうか。こう考えると、著者の主張する内容も分かる。また、ブログやSNSが流行る意味も理解できる。理解できるばかりか、私自身がSNSで発信を続ける意味についても得心がいった。

第一章で紹介されたビオトープ。私自身の価値観や視座を世の中に提供し、共に人生を豊かにするための場-ビオトープを作る。これこそがSNSやブログの存在意義と云えるのかもしれない。

FourSquareは本書を読んだ時点では、チェックインのみに特化したSwarmというアプリが分離され、しかも本書で紹介されているメイヤーやバッヂの機能が一旦廃止されるなど迷走に入ったかに見えた。現在はそれらの機能は復活したというものの、FourSquareもかつての勢いはないように見える。また、本稿を書いている2016年2月初旬ではSNSの状況も暗い。Google+は完全に頓挫し、Twitterも行く末に迷いが見える。Facebookですら、個人用途とビジネス用途の使い分けを模索しているようだ。SNSの活用方法については、単なる視座の提供や体験だけでは説明がつかない状況にあるといえる。これらの点をどう解釈し、どうプラットホームとして提供できるかが、今後のITを使ったコミュニケーション、つまりICTを語る際には欠かせない視点なのだろう。その答えはまだ出ておらず、SNSの各社ともに模索している状態だ。もちろん、その答えを5年前-2011/2に上梓された本書に求めるのは酷な話だ。

第四章はキュレーションの時代という題名が付されている。本書のタイトルと同じであり、本書の中核を為す思想が詰まっている。プロローグでジョゼフ・ヨアキムという画家のことが紹介される。七十歳になって絵を描き始めるまでのヨアキムの人生は、数奇ではあったが、無名のまま埋もれてもおかしくないものであった。それがたまたま通りに見えるように窓にぶら下げておいた絵が見出され、一躍美術界の寵児となる。つまり、ヨアキムの絵の価値が分かる人間にキュレーションされたわけだ。本章ではヨアキム以外にもキュレーターによって見出された画家が二人登場する。ヘンリー・ダーガーとアロイーズ・コルバス。

彼ら二人の創作活動は、完全に自分のためであった。自分の内なる衝動に導かれ、書かずにはいられなかった絵画。受け狙いや商売気など微塵もなく創られた作品は、キュレーターによって見出されなければ、埋もれたまま廃棄されてしまってもおかしくない。しかしそれを見出し、精神病者や孤独者の視座にチェックインし、その視座のまま世に紹介したのはキュレーターの手柄だ。つまり、いくら優れたコンテンツといえども、キュレーターの存在なしにはコンテンツたりえない。第二章で取り上げた背伸び消費は、キュレーションするまでもなく、対象が個人の嗜好や性格を無視した遍く広い大衆に向けてだった。しかしキュレーション過程を省いたことによって、コンテンツがコンテンツ自身の山に埋もれる結果を招いていた。しかしこれからのコンテンツは背伸び消費の視座ではなく、大衆という括りから外れたアウトサイダーの視座から生まれる。その視座を世に紹介するのがキュレーターの仕事。キュレーターとは創作者の作品に新たな意味を付与し、価値を与えるのが仕事の本質なのだ。

第五章では、それらキュレーターやコンテンツが流通する上で、プラットホームの重要性が改めて説かれる。プラットホームというと画一された価値観のもと、アートすらも一緒くたにして俎上に上げられるという印象が強い。しかし著者は多様性を担保するためには、プラットホームは欠かせないという。ここでいうプラットホームとは画一された価値観のことではなく、コンテンツが流通する上での仕組みとでも言おうか。利便性と交換性に優れたシステム。といえば当然インターネットが連想される。ここで著者がいうプラットホームとは、インターネットを指すと云っても間違いはあるまい。

つまり、コンテンツは、インターネットというプラットホームのもとでキュレーターによって見出され、流通される。流通の中で愛好家によって無数のビオトープが形成される。また、その中には旧い価値観では精神病患者としか見られなかった人々の作品までも含まれる。しかしそういった作品さえもが、精神病者に特有の芸術性を愛好するビオトープというコミュニティでは受け入れられるのだ。

ただでさえ広大な世界でネットを猟渉し、ビオトープを見つけ出す。これは至難の業といってもよい。また、ビオトープがないのなら、自分で作ってしまえという考えもまたありだろう。ただしビオトープを作りだすには、本書に登場したダーガーやコルバスやヨアキムの高みが必要となる。それこそ難易度の極めて高い、アーチストの域だ。

本書の論旨から考えるに、これからの表現者とはコンテンツの創造者とイコールではない気がする。むしろ、コンテンツを探しだし、それを世の中にキュレーションすることが表現者に必須のスキルとなるのではないだろうか。無論、コンテンツを産み出すだけではなく、その価値を自身で世界に広められることに越したことはない。だが、ビオトープを探し出すための嗅覚や、広めるためのプレゼン能力を備えることも、情報の発信者としてこれからの時代に求められる。それが著者の言いたかったことだと思う。

私にそれが出来るか。出来ると思うし、やるしかないだろう。私自身、誇れる部分として、サイボウズ社のクラウドアプリkintoneのβテスト時から将来性を見込んだことがある。これは今に至るまでkintoneエバンジェリストとしての活動の原点だ。また、ブログにアップしているメジャーではない本のレビュー執筆は、このところすっかり私の作業としてお馴染みになっている。私には出来る、と信じて進むのみ。

今後も私自身が情報発信者でありたいとすれば、引き続き努力するだけの話。私が表現者として認知されるかどうかは分からないが、本書で得られたキュレーションという営みから示唆をもらいつつ、文章書きの作業を続けていきたいと思っている。

’15/04/06-15/04/07