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会津の旅 2018/10/9


さわやかな朝。私にとっては民泊で迎える初めての朝です。昨夜、日が替わるまで語り合った疲れはどこへやら。旅を満喫している今を祝福して目覚めました。

早速、荷作りとあいさつを。昨夜の語らいで仲良くなったオーナーのSさん、島根から来たOさんも私たちと顔なじみになりました。Oさんに至っては気ままな一人旅ということもあって、H.Jさんの田んぼの手伝いに来てくれることになりました。仕事に出るSさんとはここでお別れ。昨日語り合ったことは、決して忘れないでしょう。良いご縁に感謝です。今後も会津の観光やITでご縁があるに違いありません。

昨夜、車を置かせてもらった「酒家 盃爛処」まで歩く途中、会津の風情を存分に堪能しました。かつての城下町を彷彿とさせる風景も、昨晩のお話を伺った後では私には違う風景として映ります。戊辰戦争の前後ではどう変わったのか。十字路のない街角の様子はかつてはどうだったのか。理髪店の数も心なしか他の都市に比べて多いように思えます。こうした知識は、ガイドマップに頼っていると知らずに終わったはず。得た知識を即座に確認できることが、旅先で語らうことの醍醐味と言えましょう。

この日の私たちは、さらに会津を知識を得るべく、昨日に続いてH.Jさんのお宅へ。この日、私たちに任されたのはお米を袋に詰める作業です。昨日、収穫したお米は巨大な乾燥機の中で乾燥され、摩擦によってもみ殻を脱がされます。風で吹き飛ばされたもみ殻は、大きな山となって刻々と成長しています。

乾燥機から選別機へと移動したお米は、品質を二種類に選別されます。良い方は「会津米」の新品の紙袋に、悪い方は東北の各県の名がうたれた再利用の紙袋に。紙袋をセットし、一定の量になるまでお米をため、適量になったら袋を縛るまでの一連の作業は人力です。私たちが担ったのはこの作業。これがなかなか難しい。茶色の紙袋は初めは当然、ぺたんこ。で、そこにお米がたまるにつれ、紙袋はじょじょにかっぷくの良い姿へと変身します。変身した紙袋を最後にうまく縛る。その縛るコツががなかなかつかめない。結んだひもの位置がずれると、それは収穫の寿ぎではなくなるのです。縦横が正しくあるべき姿に結ばれてはじめて、収穫のお祝いに相応しく袋となり、晴れて出荷されるのです。米の紙袋の結び目にもきちんと意味があることは初めて知りました。結び目が重要なのはなにも水引だけではなかったのです。

きちんと結んだ後は、出荷準備完了を占めるシールを貼り、パレットの上にきちんと並べて積み上げていきます。私たちはまさに、収穫から出荷直前までのすべてのプロセスに携わらせていただけたわけです。

今回、H.Jさんは袋詰めの工程に助っ人を呼んでくださっていました。地元の方でよくこしたお手伝いをされているとか。慣れた手つきでひもを縛り、積んでゆく。私たちの縛りが甘ければ、再度縛りなおしてくださいます。多分、たどたどしい私たちに「しょうがねえなあ」と思っていたことでしょうが、もくもくと働く姿に、私はただ従うのみ。慣れない私たちには難しいこれらの作業も、慣れると立て板に水のごとく、こなせるようになるのでしょうか。あれから十カ月たった今でも、動作を再現できるかも、と錯覚に陥りそうになるくらい、何度も結びました。こうした作業の全てが私にとっては新鮮で、そのどれもが農業の奥深さを伝えてくれます。農業に携わる人々は皆さんがたくましく、生活力をそなえているように見えるのは気のせいでしょうか。

作業の合間に水分の補給は欠かさず、H.Jさん宅からもあれこれと差し入れをいただきつつ、すでにお昼。お昼には食事に連れて行ってくださいました。向かったのは会津若松駅近くの中心部。ただ、はじめH.Jさんが考えていたお店が閉まっていたらしく、かわりに向かったのは「空山neo」というラーメン屋さん。こちらは繁盛しており、味もとてもおいしかったです。そこは、会津若松の目抜き通りで、朝まで泊まっていた「隠れ家」さんは、同じ通りをさらに進むとあります。どこも軒並み、風情のある店構え。酒蔵があり、お店が並ぶ。それでいてあまり観光地ずれしていない様子に好感がもてます。私たちがラーメンの後に寄った「太郎焼総本舗」も、落ち着いたたたずまいで私たちを迎えてくれました。味がおいしかったことはもちろんです。

Oさんは午前、昨日私たちが体験したコンバインの運転などをさせてもらったりして別行動でしたが、午後もそれぞれが別々に作業にあたりました。私たちは選別機によって下に選別された米を紙袋に袋詰めする作業に従事していましたが、しばらくたってからH.Jさんに野菜の畑へと連れて行ってもらうことになりました。

その畑は、昨日の田んぼとは違う場所にあり、丸ナスとキャベツが植えられています。もちろん、無農薬栽培。キャベツ畑なのにキャベツがほとんど見えず、草が奔放に生い茂っています。しかし地面には丸々としたキャベツがつつましやかに私たちの収穫をお待ちしているではありませんか。丸ナスも色合いとツヤがとてもおいしそう。バッタやカエルがわんさかと群がる畑の作物は、見るからにおいしそう。こうまで無農薬の畑に生き物が群がる様子を見ると、生き物もいない農薬まみれの畑への疑問がつい湧いてしまうのです。

畑への往復、私はH.Jさんの軽トラックの助手席に乗せてもらい、農業のIT化について意見を交換していました。人手の足りなさを解消するための開発も進んでいる、とはつねづね聞いていますが、H.Jさんもそうしたロボットによる農業の効率化には大賛成の様子。無農薬栽培は、H.Jさんが農業の本質を探る中、たどり着いた結論であることは間違いないでしょう。要するに農薬の使用は、作物の本質を損ねるもの。でも、農薬を使用しなければ、人手も手間もとてもかかります。そうした矛盾を解消する可能性をIoTを活用した仕掛けは秘めているのです。作物に優しく、手間を減らす。いい事ずくめです。

私も弊社も、IoTはまだ実務としてはほとんど手がけていません。特に農業関連は未経験。IoTに関するご相談はちょくちょく受けるようになっており、この二日で、IoTが農業で必要な理由を自分の体で感得しました。その可能性を見せてもらえた以上、何かに活かしていきたいと思うのは当然です。とてもためになった道中の会話でした。

さて、H.Jさんの家に戻った私たちは、ブルーベリーやブドウや梅干しをおいしくいただきました。ところが、時刻はそろそろ15時になろうとしています。東京へ帰る準備をしなければ。名残惜しいですが、キャベツや丸ナスやフルーツ類をいただき、H.Jさんのもとを辞去しました。たった二日なのに名残惜しさが心を締め付けます。

Oさんも加えた五人でK.Hさんの運転で鶴ヶ城へ。まずは会津若松のシンボルともいえるここを訪れなければ。ぐるりとお濠をめぐり、駐車場から城内を歩いて一回り。時間があれば城内にも入りたかったのですが、さすがに時間が足りません。大河ドラマ「八重の桜」は一度も見なかった私ですが、会津の街にがぜん興味が湧いてきましたし、また来たいと思います。城内で売っていた奥只見の産物を買い求めて。

もう一カ所「道の駅 ばんだい 徳一の里きらり」にもよりました。ここで最後のお土産物を購入し、会津を後にしました。また会津には来ることでしょう。私にお手伝いできることがある限り。

さて、Oさんは次の目的地に移動するため、郡山駅で降ろすことになり、郡山インターチェンジから市街へ。2年前に自転車や車やバスで動き回った郡山の街を、ひょんな縁でまた来られることになり、私の喜びもひとしお。大友パンや柏屋も健在の様子。駅前にはgreeeenのドアがあり、二年前の興奮が思い出されます。

Oさんはこの後まだまだいろいろな場所を旅するのだとか。うらやましい。またの再会を約して、Oさんとはここでお別れ。旅のご縁のすばらしさや、時間と場所を共有した思い出の余韻に浸りながら。

さて、私たちも旅の余韻に浸りたいところですが、そうも言ってられなくなりました。なぜなら東北道が通行止めという情報に接したからです。そこでK.Hさんが下した判断は、磐越自動車道でいわきまで出て、常磐道で都内に帰る、という遠回りのプラン。普通ならまず取らないこのプランも、東北道が通れないのでは仕方ありません。道中、高速道路の脇にある放射線量を示す電光掲示板が、この地域の特殊性を示します。

常磐道は何事もなく順調で、休憩した友部サービスエリアを経由して、私たちは表参道の駅前で降ろしてもらいました。K.Hさんはそこから柏のご自宅まで帰られるのだとか。二日間、運転をしてくださり、ありがとうございました。そういえば、帰りの車の中では「会津ファンクラブ」の存在を教えてもらい、その場で入会しました。

旅の終わりはいつもあっけないものですが、この二日間の旅もこうやって終わりました。あとは重いキャベツや丸ナス、そして数えきれない思い出を背負い、家に帰るだけです。折悪しくこの日、小田急は毎度おなじみの運転見合わせが起きており、会津の余韻も首都圏の日常がかき消しにかかってきていました。

四日後にはH.Jさんが東京の有楽町の交通会館に農産物を販売に来られると伺っていたので、妻を連れて伺いました。そして余蒔胡瓜や立川ごぼうといった会津野菜をたくさん購入しました。その二つとも妻や家族が美味しいと大変気に入ってくれまして、私が持って帰った丸ナスもキャベツもあっという間に品切れ。

会津野菜がわが家からなくなると時を同じくして、私は首都圏の日常に追われるようになってしまいました。そして気が付くと10ヶ月。今、ようやく会津の思い出をブログにまとめられました。でも、思い出してみると、二日間があっという間に鮮やかに思い出せました。それだけ素晴らしい旅だったという事でしょう。それにしても皆さま、本当にこの二日間、ありがとうございました。


会津の旅 2018/10/8


会津で農家さんの稲刈りのお手伝いに行きませんか?

こんな魅力的なお誘いをいただいたのは、今回の旅に先立つ事、二週間。9/22の事でした。農家さんのお手伝いをし、現地で民泊し、うまい酒を飲む。仕事をしながら会津を知り、会津に貢献する。実に魅力的ではありませんか。

私は会津とその周辺には特別な思いを持っています。話は2016年に遡ります。その年、私は郡山に二度お呼ばれしました。二回の訪問の間にセミナーに登壇すること二度、ユーザー会で登壇すること一度。また、二回の訪問の合間には、郡山とその周辺を訪れました。そこで触れた郡山の皆さんの思い。それが私の心を震わせました。

当時、あの原発事故から五年がたっていました。私が見聞きした郡山には異常な様子はありませんでした。過密なスケジュールの中、自転車で乙字ケ滝へ行き、車で猪苗代湖や銚子ケ滝、達沢不動滝を訪れました。たわわに実っていた田んぼの稲穂は、放射能の痕跡など微塵も感じさせず、猪苗代湖畔から眺めた磐梯山の雄大な姿は、原発事故の前から変わらぬ福島の風景を私に誇っていました。空は青く、稲穂は首を垂れ、凪いだ湖面に空が映る。ただただ美しいコントラスト。美しい風景に心を癒やされた私を、郡山の人々は温かく迎えてくれました。

それにも関わらず、郡山の皆さんはいまだにやまぬ風評被害に憤っていました。ユーザー会の後の懇親会では郡山の方から風評被害への憤りを聞きましたし、その翌日には郡山の駅前で放射能の危機を煽る街頭演説に行き当たり、私は憤りを抑えられませんでした。もちろん、乙字ケ滝への道中では汚染土の廃棄場の看板も見かけました。美しい自然の影に潜む福島の現実も知らされました。自然の美しさと、現実に直面する皆さんの危機意識。それにも関わらず私を歓待してくれた温かみ。二度の福島への訪問は、私の心に福島を支援したい気持ちを育みました。

弊社は、福島を応援します。(9/30版)
弊社は、福島を応援します。(10/01版)
弊社は、福島を応援します。(10/02版)

以来、二年。今回の会津へのお誘いは、私にとって再び福島県へ伺える良い機会です。断る方が難しい。私の場合、こうしたお誘いにもスケジュールを柔軟に調整できる強みがあります。

朝7:15。新宿のスバルビルの上で待ち合わせでした。私とご一緒するのは三人の方。お誘いくださったK.Cさん、運転手を買って出てくださったK.Hさん。そしてY.Mさん。K.Cさん以外のお二人とは初対面です。

K.Hさんは、普段から運転をよくしているそうです。秋田の観光に深く関わっていらっしゃるというK.Hさんは、普段から何度も秋田と東京を往復されており、運転に慣れていらっしゃる様子。全く疲れた様子を見せず、二日間にわたり数百キロの運転をこなしていただきました。結局この二日間、私は1度もハンドルを握ることがなく、ただK.Hさんの安定した運転を助手席でナビゲートするのみ。疲れを知らぬK.Hさんにはただただ感謝です。

新宿から首都高に乗り東北自動車道へ。郡山ジャンクションからは磐越自動車道の猪苗代磐梯高原インターチェンジまで。久しぶりに見る福島の景色に私のテンションも上がります。車中では初対面であるからこそ楽しめる新鮮な会話で盛り上がりました。

インターチェンジを下り、早速、道の駅猪苗代で休憩を。まずは福島の空気に慣れたところで、最初の目的地「den*en cafe」へ。ここは、目の前に磐梯山がそびえる絶好のロケーションです。写真を何枚も撮っても飽きないほど秋晴れの磐梯山は雄大。私たちに山の偉大さを教えてくれました。「den*en cafe」さんの料理もおいしく、コーヒーも絶品。K.Cさんのチョイスはさすがです。自由に持って帰って良いと玄関の前に無造作に置かれる野菜たちがとても美味そうで、いくつか持ちかえり、車内で食べてしまいました。こうした何気ないおもてなしに会津の農業の可能性とゆとりをまざまざと感じます。

さて、一般道を会津若松まで走ります。すでに稲刈りを終えた田んぼには稲叢がならび、それが会津の秋の風情を見せてくれます。会津の稲叢は大きくせず小分けにしています。こういう風景を見るたび、旅情が心を満たします。

会津若松は、十数年以上前に友人と2人でやってきて以来。懐かしさを感じる間もなく、車はそのまま今回お世話になるH.Jさんのお宅へ。築100年以上はゆうにあるであろう昔ながらの農家。広間に上げていただき、H.Jさんにごあいさつを。私たちのためにH.Jさんのお母様が作っておいてくれた塩を振っただけの余蒔胡瓜(あいづよまききゅうり)がとてもおいしかった。

H.Jさんはこの余蒔胡瓜のような会津伝統野菜を復活させた立役者です。それと同時に、無農薬による米の栽培に挑まれています。無農薬である以上、人の手がどうしても必要。今回、私たちが呼ばれたのも、米の収穫に際し、除草やその他の作業をお手伝いするためでした。

早速、田んぼへと向かいました。見渡す限りの田んぼ。会津は盆地です。ところが盆地であることを忘れさせるぐらい、田んぼが広がっています。この広がりに会津の豊かさを感じます。

お借りした長靴を履き、田んぼの中へ。稲穂が実る田んぼは、人の手による収穫を待っています。ところがH.Jさんの田んぼは無農薬で栽培されているので、雑草もあちこちから顔を出しています。その中に、米と似た種をつけるクサネムが混じっていて、これを手で除去することが私たちのミッションです。なぜなら、米袋の中にクサネムの種が混じると、価値が著しく落ちてしまうから。しかもクサネムの種の除去は機械ではどうしてもできないそうです。今まではクサネムの除去はH.Jさんやボランティアで手伝いにきている会津大の学生さんたちや、近くの農家の方がされていたそうです。私たちも作業を教わりながらこなしていきます。

とはいえ、都会っ子には簡単ではありません。田んぼに入ると、稲を踏むのはご法度。稲を避ける足元は、ぬかるんだ土に深く沈みます。それを乗り越え、一歩一歩進まねばなりません。これが案外と大変でした。クサネムの株は成長が早く、何度となく皆さんの手によって除去されてきたはずが、すぐにまた生えてきます。その繰り返しです。私の前にも、今までに見逃されたクサネムが稲の間から自己を主張しようと、子孫を残そうと背丈を伸ばしはじめていました。それらを刈り取り、畝に積みあげておきます。

それにしても、無農薬で育った田んぼだけあって、稲の合間に住み着く虫や蛙の多いこと多いこと。アゲハの幼虫や、バッタ、カエル。彼らは私たち侵入者の歩みにつれ、ぴょこぴょこあたりを逃げ回ります。静かに収穫を待つ田んぼどころか、大騒ぎ。でも、これが田んぼのあるべき姿なのでしょう。そして、本来の農業のあるべき姿でもあるはずです。ところが、それが頭ではわかっていても、こうやって実際に作業に当たってみると、農家の方にとって無農薬栽培が簡単ではない事はすぐにわかります。作業とは、やってみることが大切。実際に田んぼに入って鎌を振り回すこの体験は、私にそのことを痛感させてくれました。

大勢でクサネムを探し回ったかいがあり、いよいよコンバインで稲刈りです。今まで無農薬で楽園のようだったバッタや蛙の住みかが、あっという間にコンバインで刈り取られ面積を減らしていきます。これもまた、農業の現実。理想はあくまでも刈り取ってこそ完成なのです。H.Jさんがコンバインを操り、みるみるうちに周囲から刈り取られる姿を見るにつけ、文明の力の偉大さと、農業の本質を垣間見た思いです。

そんな風に物思いにふけっていたところ、H.Jさんのご厚意で、私たちにもコンバインを運転させてもらえることになりました。私もせっかくなので操縦をさせてもらいました。前後左右に加え上下なども加わり、なかなか難しい。でもとても楽しい。収穫している実感がわきます。

実は田んぼに入る前の私には、腰の不安がありました。腰痛持ちの私にとって、かがんで作業することは禁忌。稲刈りの作業にどこまで耐えられるのか。そんな不安がありました。ところがコンバインだとかがむ間もなく、効率的に稲穂はコンバインの胃袋に収まってゆくのです。こうした効率化によって、お米がさほど手間をかけずに刈り取られ、私たちの食卓に並ぶようになったのです。胃に収まったお米をトラックに移し替える作業もオーガと呼ばれる可動式のパイプを通し、人の手は不要。文明の力の偉大さを感じます。無農薬栽培とは言え、こうした作業はどんどん文明の力を借りていくべきでしょう。使うべきところには文明を使い、農作物の本質を追求するべきところには農薬は使わない。すべてはメリハリ。抑揚の妙です。
稲を刈る 我らに天の はしごかな

トラックに米が移される中、畝に集められたクサネムの株はガソリンをかけられ、煙と化していきます。地方で高速を走っていると、よく田んぼで野焼きしている光景に出会いますが、こうした作業だったことに得心しました。あらゆる一瞬が知識となり、身についていくようです。
刈の終 ねむ焼く匂い 語りけり

H.Jさんはそうした作業をこなしながら、近くのアイス屋さんのブルーベリーアイスを差し入れる手配までしてくださいました。私たちの手伝いなど、H.Jさんが普段されている作業の大変さとは比べ物にならないはず。それでもこうしたねぎらいを怠らないところはさすがです。実際、無農薬栽培を実践されているH.Jさんの苦労は、並大抵のものではないはずです。年齢は私とそう変わらないはずですが尊敬できます。見習わなければ、と思いつつ、アイスのおいしさに顔がほころぶ私。

トラックに米が全て移ったところで、田んぼでの作業は終わり。夕日があたりを照らす中、私たちは田んぼを後にしました。H.Jさんの家へ寄った後、会津若松駅のそばにある「富士の湯」に寄っていただきました。汗まみれの体に温泉が実に心地よかった。ついで私たちが向かったのは今日の宿。今回の旅で泊まるのは、古民家をリノベーションし、民泊の形式で提供している「隠れ家ゲストハウス」さん。私たちが通されたのは、和室の一部屋。二段ベッドが二つ設えられ、学生の頃にとまった木賃宿を思い出しました。そもそも民泊は初めてなので、とても楽しみです。

荷物を解いたところで食事へ。夜の懇親会に予約を取っていただいたのは「酒家 盃爛処」というお店。会津でも有名なお店らしく、なかなか予約が取れないそう。しかも、隠れ家さんには駐車場がないことから、こちらの駐車場にご厚意で車を一晩おかせてもらえることになりました。そうしたお心遣いの一つ一つが身に沁みます。

会津の街並みを今に伝えるかのような「酒家 盃爛処」の店内は、おいしい料理の数々と、会津地区を中心とした酒蔵の銘酒でにぎわっていました。H.Jさんや田んぼでご一緒だった会津大学のボランティアの学生さんたちも交え、とても楽しい時間を過ごしました。会津の食事(こづゆ、ニシンの山椒漬けなど)や酒(春泥、風が吹くなど)のうまさはただ事ではありません。おもてなしと食事と酒に酔いしれながら過ごす一夜。旅の喜びはまさにここにあり。会津の皆さまの旅人をもてなそうという心意気に打たれました。郡山で感じた福島への愛着が、午後から夜までの会津での体験でさらに深まる思いです。

「隠れ家ゲストハウス」さんに戻ります。すると、五、六名の宿泊者やオーナーの皆さんが、集まってお酒を飲んでいるではありませんか。一緒にきた三人さんは、お部屋に戻って就寝したのですが、私は、せっかくなのでその場に一人だけ混じりました。

この語らいの時間もまた、今回の会津の二日間の良き思い出となりました。旅先でその場の縁を結ぶ。旅の醍醐味とは、まさにこうした一期一会の瞬間にある。私はそう思っています。オーナーのSさんもまさに、その喜びを味わいたくてこの隠れ家をオープンしたとの事。皆さんとの語らいは、とても刺激的でした。会津の歴史や風土についていろいろなお話をことができました。戊辰戦争での、長州藩との凄絶な戦いや白虎隊の悲劇。会津の街並みの秘密や、今に至る街並みの変遷。とてもここには書ききれません。一部を以下に抜粋してみます。

・会津若松の遊郭は現存する一軒しかない。そして理容室が多い。それは、赤線が引かれる前はチョンの間だったという噂。
・街中にズレた十字路が多いのは、猪苗代湖からの水を街中に行き渡らせるための工夫。
・街中には戊辰戦争以前からの古い建物がほとんどない。今に残る古い建物は、当時、長州藩の兵士が占領した家ばかり。なので、会津の人にとっては古い建物を見ると複雑な気分になる。
・戊辰戦争時、会津藩側の多数の死者を埋葬する事を禁じられた。それが会津の人々の長州への恨みを深くした原因。当時の戦いでなくなった、浮かばれなかった死者の霊があたりを漂っており、飯盛山はスピリチュアルな方には鬼門。
・会津の幼稚園のお遊戯では白虎隊の悲劇を題材にしたものが多く、その内容には切腹して死ぬ結末のシーンまで含まれている。

オーナーのSさんは各地のゲストハウスも訪ね歩かれたそうで、会津を振興することへも並々ならぬ思いを持っておられました。会津がITに力を入れている事は、2年前の郡山への訪問の際に感じていました。Sさんは会津大のご縁の中で、IT関係への支援も活動の一つに含めているとか。また、一緒に語っていたOさんは、島根からの旅行者で、各地のゲストハウスを巡っているとか。こうしたご縁がその場の空気と料理と酒をおいしくします。

Sさんから伺ったお話で、印象に残った事を書き留めておきました。以下に抜粋してみます。
・みそ汁理論。熱いうちは対流して均一に汁の色が行き渡るが、冷えると一カ所にかたまる。箱物行政はお金があれば無理やり流れを作れるが、お金が尽きれば流れも止まる。誰かが対流を起こし続けなければならない。

実に濃い内容のトークを交え、かなり遅くまで私は皆さんと語らいを楽しみました。

たった一日なのに、もう何日も会津にいたような気がする。そう思わせるほど濃密な一日。お誘いいただいたK.Cさん、運転してくださったK.Hさん、一緒に鎌を振り回したY.Mさん。H.Jさんのおもてなしの数々、ボランティアの学生の皆さん、「酒家 盃爛処」の皆さん、隠れ家のオーナーSさん、旅のご縁で結ばれたOさん、その場で会話を楽しんだ皆さん。感謝の言葉は尽きません。


尾瀬の旅 2018/6/2


40歳を過ぎた頃から山登りがしたくなりました。そんな私の思いに応えるかのように、お誘いしてもらったのが山登りのグループ。それ以降、年に一度の参加ですが、山登りをさせてもらっています。今回、そのグループで尾瀬の旅が企画されました。一回でいいから尾瀬に行ってみたいと思っていた私は、一緒に連れて行ってもらいました。

当日の朝、大宮へ向けて小田急で向かった私。実は一つ、前夜にし忘れたことがありました。それは旅費の調達。すっかりお金を下ろすのを忘れたまま、当日の朝を迎えてしまったのです。うかうかしていると無一文で山に向かう羽目になってしまいます。ところがそうなる確率はかなり高い。
 1.7時2分に大宮を発つたにがわ401号に乗らないと集合時間に間に合わない。
 2.キャッシュカードが使えるのは朝7時以降。
 3.使えるATMは限られている。
埼京線の車内で大宮駅の構内地図を血眼になってにらんだ私。新幹線の乗り換え口に近く、私のカードが使え、なおかつ朝7時に空いている機械。あった! ところが、朝7時ちょうどに操作したディスプレイには「時間外」という文字が。ああ無情。ワンモアトライしても状況は同じ。かくして私は金を手にすることもできず、階段を駆け上がってたにがわの車内へ。ギリギリセーフ。

上毛高原駅に降りたった時点で、私の所持金は3千円程度でした。もちろん、バスに乗る前に金を下ろすことはできません。なぜなら上毛高原駅構内や近辺に私が使えるATMはなかったからです。それぐらいは抜かりなく調べておきましたので。役に立たぬクレジットカードとキャッシュカードを懐に、私は途方に暮れて駅の改札を抜けました。ちなみに行きの切符だけは事前に購入しておいたのです。私が忘れていたのは当日の宿泊費のこと。間抜け。

上毛高原の駅前のバス停。そこが今回の集合場所でした。私が乗ったたにがわがぎりぎりだったため、今回、一緒に尾瀬を歩くパーティーのメンバーは全員揃いました。バスはすでに到着しており、乗客を乗せ始めています。もうなりふり構っていられません。すぐにリーダーに私の窮状を訴えました。リーダーは快く「いいよ貸すよ」と言ってくれました。若干あきれ顔で。そりゃそうだ。しかも私が「尾瀬の小屋でATMとかカード支払い、無理ですよね」なんて間抜けさに拍車をかける質問をするので、あきれ顔がさらにクッキリと。多分、私も自分にあきれ顔だったはず。ともかく最初のバス代はお借りできました。

バスに乗ってしまった以上、もうどうしようもありません。ここは成り行きに任せ、みんなの迷惑にならぬようにするのが肝心。肩身の狭い思いをしながらも私の肚は座りました。上毛高原駅を8:00に出たバスは、鳩待峠行きバス連絡所まで約1時間50分の道のりを走ります。道中、コンビニや銀行を見かけるたび、私の脈拍はリズムを刻みました。しかし運転手を脅してバスから降りるだけの度胸はとてもとても。そうしているうちにバスは終点へ。

鳩待峠行きバス連絡所は、マイカー入山が規制されている尾瀬への入り口です。そこから鳩待峠へのシャトルバス代も立て替えてもらいました。ここから先はATM不毛地帯。もはや、完全に覚悟を決めるしかありません。私はこの先、お金のことは一切気にしまい、楽しもうと決めました。30分強、シャトルバスに乗って着いたのは鳩待峠。10:50。尾瀬の入り口です。いよいよここからがスタート。リーダーの点呼のもと、私たちは尾瀬への第一歩を踏み入れました。

尾瀬への道。それは拍子抜けするほど楽でした。なぜなら人が多かったから。行列が途切れずに続き、私たちはその流れに乗って歩くだけでよかったのです。ただし、道中は単調ではなく、なだらかな道なりにも尾瀬らしい光景は見られます。その光景とは道端に咲く水芭蕉と黙々と進む歩荷の姿です。歩荷とは、尾瀬の山小屋に必要な物資を運ぶ人たちを指します。彼らは山小屋が求める物資を大量に背負子に背負って運びます。私たちのようなハイカーが歩むのと同じ道を黙々と往復して。過酷な仕事であることは一目でわかるし、尊敬の念を抱きます。この日、私たちは何度も歩荷の姿を見かけました。こういう人たちの仕事によって私たちのようなハイカーは尾瀬を訪れ、自然を満喫し、泊まれるのです。そのありがたみを尾瀬への道中で意識できたのは幸いでした。尾瀬の中心はまだ先だとは言え、道の左側には山々が見え隠れし、まぎれもない山岳地を進んでいることを意識しました。

さて、鳩待峠から延々と歩いた私たちは、ついに尾瀬の入り口、山の鼻にたどり着きました。そこはまさに尾瀬の入り口。山小屋が並び大勢のハイカーがめいめいに群を作ってたむろしています。私たちも陣を確保し、食事をとりました。山小屋にはトイレ待ちの人が列をなし、それぞれが旅の準備を進めています。その間に私は、広場を抜けた先の歩道まで足を進め、山を眺めました。私の視線の先には至仏山がそびえています。その麓に立ってみると、大いなる広がりが至仏山のてっぺんに向けて収斂しており、つい誘われそうに。まさに登山口。今からちょっと登って来る、と言いたくなる誘惑に駆られました。もちろん、勝手な行動は禁物です。私は至仏山をしっかりと目に焼き付け、皆さんの元へと戻りました。

さて、いよいよ尾瀬の道を歩みます。そこはまさにうわさに聞いていた尾瀬そのもの。うわさどころか、映像や写真をはるかに凌ぐ広がり。私たちの前に広がるのは、ただただ雄大な尾瀬の光景。たぶん、この感覚は自分で体験しなければ決して味わえないでしょう。私たちの行く手には燧ケ岳の山体が待ち受け、逆を向くと至仏山が控えています。はるかに続く木道にはハイカーが連なり、それが遠く見えなくなるまで続いています。この景色こそ、人々が歌に詠み、メロディーに乗せ、語り継いできた尾瀬なのでしょう。木橋を歩いている間、私の脳内を「夏の思い出」が無限にループしていたことはいうまでもありません。

尾瀬の湿原を歩いていると、やたらにカエルの鳴き声が聞こえてきます。木橋の両脇には、流れる川や池、水たまりがあります。それらの水場をのぞくと、カエルが何匹も大口を開けて歌っているのでは。そう思えるほど、カエルの合唱が耳をうちます。なので私は木橋を歩いている間もずっとカエルを探していました。結局、一匹も出会えませんでしたが、サンショウウオらしき両生類の泳ぐ姿には癒やされました。

山々は美しく、空は青い。鳥がたまに飛び交い、さえずりが聞こえる。行く手と背後に雄大な山がそびえ、そこにケロケロとカエルの声がこだまする。ここは別天地。ぜいたくな時間と空間。都会ではまず夢の向こうのまぼろしでしょうし、どれだけVRの技術が進もうとも人の五感+αを完璧に満たすことはできないはず。

燧ヶ岳と至仏山は悠然とその姿をさらしている。それなのに私たちを取り巻く景色は刻一刻と姿を変えます。広大な湿原を飛びまわる鳥のさえずり、水のせせらぎの音。植生や花々の移り変わり。せせらぎは自在に流れて池をなし、川に水を集めて沼に注ぎ、燧ケ岳の姿を克明に映します。どこまで歩いても無限の自然。その可能性が私を飽きさせません。

木橋は山の鼻からほぼ一本道に東へと伸び、牛首分岐と呼ばれる分岐点に至ります。そこを境にほとんどの方は山の鼻の方へと戻ってゆきます。ところが牛首分岐の先にも湿原が果てなく広がっています。そして牛首分岐から先へ向かうハイカーの数はグッと減ります。その奥へ向かうのは私たちのような山小屋に泊まるハイカーだけなのでしょう。だから、その先に続く木橋の往来は、それまでと違って心に余裕を持てました。そして余裕の心でじっくりと自然に浸れます。場所によってはほぼ独占といってもよいほどに。

相談の結果、私たちは牛首分岐から北のヨッピ吊橋へと向かいました。そしてヨッピ吊橋を渡る体験を楽しんだ後は南へと下ります。ヨッピ吊橋から南に下る道は人通りも絶え、木橋を行くのは私たちのパーティーのみ。この一望がすべて独占できます。全てが満ちたり、完結しているこの湿原を。木橋の脇に咲く小さな植物を見かけるたび、腹ばいになって植物を接写しても誰にも迷惑をかけずに済む。この無限の広さの下、木橋から道を踏み外さない限り、自然は私たちのもの。

私たちが南に下った道は、竜宮と名付けられた場所で牛首分岐から伸びるもう一本の道と合流します。そこからは東に向かって山小屋へ向かいます。途中、福島と群馬の県を分かつ川を橋の上から見下ろします。県境といってもそれはあくまで人間の決めた境目にすぎず、自然はそんな思惑を超越して流れています。すぐ北には新潟の県境も接しています。さらに広大な尾瀬の中には栃木との県境も含んでいるはず。ここは地理の妙味が楽しめる場所。これはまさに山歩きの楽しみです。

さて、目の前には燧ケ岳が迫りつつあります。燧ヶ岳の麓に固まった建物群が見えており、あのどれかが今夜の宿のはず。もう間近です。ところが行けども行けども山小屋は近づいて来ません。まっすぐに伸びる一本の木道の果てに燧ケ岳も山小屋群が見えているにもかかわらず。こうした広大な平原の中では人の距離感がいかに当てにならないか。ビルや住居に慣れ親しんだ普段の生活は、私たちの距離感を退化させてしまったのでしょう。そして都会の生活を支えているのは電力。東京で暮らす私たちの場合、東京電力です。そして尾瀬の木橋をなす全ての木材には東電の印が銘打たれています。東京電力が尾瀬保全に果たした役割は賞賛を惜しみません。一方、都会と尾瀬の間に横たわる環境の差の激しさが私を複雑な思いに閉じ込めます。都会を支えているのが原子力発電であり、その支えが崩れた福島第一原発事故の影響を知る今ではさらに複雑な気持ちに陥らせます。

そうやって考えているうちにも、少しずつ山小屋の群れはその姿を大きく、明らかにしていきます。そしてわれわれはようやく山小屋に着きました。尾瀬小屋。今日、私たちが泊まる場所です。

ところで私、今まで山小屋に泊まった記憶がありません。おそらく今回が初めてのはず。なので山小屋にはちょっとおっかないイメージを持っていました。なぜならここは自給自足の場。先ほど見かけた歩荷が届ける貴重な物資が全て。その現実を踏まえると、都会にいるような感覚で泊まることは許されません。ゴミは持ち帰るのが鉄則。私のような山の素人にもそれぐらいの想像は及びます。その予想を裏付けるように、早速オーナーの方から、泊まるに際の注意ががありました。それは簡潔にして明瞭。誤解の立ち入る隙もないほど。こういうところも、山小屋の敷居の高さでしょうし、自己責任と自己管理を兼ね備えた人にしか許されない厳しさなのでしょう。

私たちが泊まる部屋は二階。20畳ほどの部屋です。ここで男女一緒に別パーティーの人たちも一緒に泊まるのです。私たちは旅の疲れを癒やしつつ、そこでめいめいが荷物を整理したり、次なる準備を進めたりします。山小屋といっても、何も全く原始的な生活を強いられる訳じゃありません。団欒用の部屋にはテレビも付いていれば、電源もあります。ただし、電源は貴重です。電子機器に充電だってできます。もちろん、それは各自の節度ある利用にかかっています。私もタブレットの充電に重宝しました。

中を探検しているうちに、気がつくとパーティーの皆さんがいないことに気づきました。あれ、と思って外に出ると、皆さん玄関の外の木のベンチに座りビールを飲み始めていました。私も遅れて参加しました。

今回のパーティー、私は三度目の参加でした。知った人もいますし、初めての人もいます。なので、そうした方々への自己紹介もしながら、ビールを飲みながらの歓談です。私は仕事柄、誰も知り合いのいない集まりに一人で参加することが苦になりません。というか、苦にしていては個人事業も法人も立ちいかないので自分をそう躾けた、という方が正しいかもしれませんが。でも、たとえそうした集まりが苦手な人であっても、山はおススメです。たとえ話題の引き出しが乏しくも、話術が下手でも気にする必要はありません。美しい自然の全てが話題のネタに使えますし、移りゆく自然の一瞬一瞬が雄弁にあなたのかわりに語ってくれるはず。しかも、このパーティー、私にとって仕事上で利害関係のある人は皆無です。なので私も気兼ねなく過ごせます。何よりも素晴らしい景色をともにする一体感。これこそが山の楽しみではないでしょうか。

心地よいビールと自然に酔っているうちに、夕日がその色合いを濃くしていきます。そして至仏山の方角に色を残しながら、夕闇があたりを染めていくのです。時が一刻ごとに尾瀬の景色を違った形で映し出し、それを屋外でビールを飲みながら見つめる。そんなぜいたくな時間の使い方、買ってでも欲しいはず。尾瀬にハマる人は何度も来る、と聞きますが、今日の経験だけでその意味が少しわかった気がします。

暗がりが濃くなる中、食堂に向かい、ご飯を食べます。すでに食堂にはたくさんの人たちが列をなしていました。パーティーごとにまとまって食事できないほどに。むしろここではそんなわがままは不要です。郷に入ればなんとやら、で流儀にしたがいました。私の前後左右で同じパーティーの方派一人。でも、隣の初対面の方と茶碗にご飯をよそいよそられ。こうした一期一会も山小屋の醍醐味だと納得しながら。しかも、山ガールと山男の食欲は限度を知りません。そんな期待を満たすかのようにご飯がおかわりできる喜び。もちろん、これらの食材は歩荷の皆さんの苦労のたまものであることを忘れてはなりません。なので、残すなど論外。なるべく残飯が出ないようにおかわりを際限なくしたいところですが、後ろにも食事を待っている人がいるので、その辺りのマナーへの配慮も必要です。こうした呼吸は何度も山小屋へ泊まるうちに身につくものなのでしょう。

尾瀬小屋には、団欒できる部屋もちゃんと用意されています。火鉢を囲みテーブルを囲み、歓談を。また、別の部屋にはギャラリーのような写真が飾られた部屋もあり、そこでもめいめいが好きなように時間を過ごせるのです。

そして、山小屋の夜は早い。これは、都会の生活に慣れていると全く味わえません。私のような宵っ張りにはなおさら。何しろ21時ごろにはもう消灯なのですから。そしてその分、朝は早い。

皆さんが静まった後、私は尾瀬に関する本をギャラリールームで読みながら、しばし時間を過ごしました。今日の感動を知識で補いたい。宵っ張りには夜は暮れたばかりなのですから。高ぶった心を鎮めるためにもこうした部屋があることはありがたい。

そんなわけで、尾瀬の旅の初日は終わりました。素晴らしかったです。皆様に感謝。