Articles tagged with: エイズ

ボヘミアン・ラプソディ


涙こそこぼさなかったけど、泣いてしまった。ここまで再現してくるとは。映像と音楽でクイーンとフレディ・マーキュリーが私の中で蘇った今、彼らの曲の歌詞が私の中で真の意味を持って膨らんでいる。ライブ・エイドに遅れて育った私自身の後悔とともに。

ロック少年としては、私はかなり遅咲きの部類だ。中学三年生の時。1989年の春頃だったと思う。友人に貸してもらった映画のサントラ(オーバー・ザ・トップ、ロッキーⅣ、トップ・ガン)から入った私は、一気に洋楽にはまった。高校の入学祝いにケンウッドのミニコンポを買ってもらってからは、バイト代や小遣いのほとんどをCDに費やしていた。それでもなお、私は時代に遅れたロック少年だと思っている。なぜなら私はライブ・エイドをリアルタイムで経験していない。私が音楽にはまった時、FM雑誌に新譜として特集されていたのはクイーンの「The Miracle」。クイーンの歴史の中では晩年に発売されたアルバムだ。フレディ・マーキュリーが存命の間でいうと最後から二つ目にあたる。だから私は、リアルタイムでクイーンを聞いていた、とはとても言えない。

しかし、私が今までの人生で訃報を聞いて一番衝撃を受けたのはフレディ・マーキュリーのそれだ。エイズ感染というニュースにも驚いたが、翌日、畳み掛ける様に死のニュースが届いた時は言葉を失った。洋楽にどっぷりはまり、当時すでに「A Night At The Opera」がお気に入りだった高校二年生にフレディ・マーキュリーの死は十分な衝撃を与えた。さらに数年後、フレディ・マーキュリーの遺作として出された「Made In Heaven」は、ラストの隠しトラックにトリハダが出るほどの衝撃を受けた。「Made In Heaven」を始めて聴いた時の衝撃を超えるアルバムには、昔も今もまだ出会っていない。それ以来、クイーンは私のお気に入りグループの一つであり続けている。

本作が公開されることを知った時、私は半年以上前から絶対見に行くと決めていた。クイーンというバンドの成り立ちから栄光の日々が描かれる本作。だが、より深みを持って描かれるのが、フレディ・マーキュリーの出自や性的嗜好だ。パールシーの両親のもとに生まれ、インドで教育を受けてイギリスに移り住んだ出自。バイ・セクシャルとしての複雑な性欲の発散の日々。それらは、クイーンの大成功の裏側に、複雑で重層的な深みを与えていたはずだ。その点はロック・バンドの成功という表面だけではなく、もっと深く取り上げられるべきだと思う。クイーンはそうした意味でもいまだに特異なグループであり続けている。本作はまさにクイーンの特異さを描いている。本作は、私の様なアルバムとWikipediaと書籍でしかクイーンをしらない者に、より多面的なクイーンの魅力と闇を伴い、心にせまり来る。

正直、私は本作を見るまで、フレディ・マーキュリーが自身の歯の多さを気にし、常に口元を隠す様な癖を持っていたことや、デビューの頃の彼女だったメアリー・オースティンが本作に描かれる様に公私でフレディ・マーキュリーを支えたほどの存在だったことも知らなかった。また、本作でフレディ・マーキュリーを操ろうとする悪役として描かれるポール・プレンターの存在も知らずにいた。こうした情報は私の様な遅れて来たファンにとって貴重だ。

本作はブライアン・メイとロジャー・テイラーが音楽を監修しているという。だから本作に描かれた内容もおおかた事実に即しているはずだ。内容にも明らかな偏りは感じられなかった。ブライアン・メイとロジャー・テイラーがお互いの歌詞をけなし合ってケンカするシーンなども描かれていたし。ジョン・ディーコンが「Another One Bites The Dust」のベースラインを弾いて三人のケンカを仲裁するシーンとかも描かれていた。フレディ・マーキュリーを表に出しつつも、四人の個性の違いがきちんと書き分けられていたのではないか。もっとも、本作はオープニングとエンディングをライブ・エイドで締める構成にするため、事実とは違う時間軸で描いたシーンが多々あるようだ。フレディ・マーキュリーがエイズ感染をメンバーに伝えたのはライブ・エイドの前だったかのように本作では描かれているが、ライブ・エイドの後だったらしい。フレディ・マーキュリーがポール・プレンターに絶縁を言い渡す時期もライブ・エイドの後だったとか。

ただ、本作は映画であり、そうした脚色は当然あっても仕方ないことだと思う。脚色がありながらも、芯の部分を変えずにいてくれたことが本作をリアルにしていたと思う。何よりも、俳優陣の容姿が実物の四人にそっくりだったこと。それが一番、本作に説得力を与えていたと思う。フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは、以前友人から勧められて観ていた「Mr.Robot」の主人公としておなじみだった。また、娘たちが好きな「ナイト・ミュージアム」にも登場していた。確かに顔はフレディ・マーキュリーに似ているとは思ったが、本物より目が少し大きいな、とか。でも演技があまりにも迫真なので、次第に本物とそっくりに思えてくるから不思議だ。また、私の感想だが、ブライアン・メイにふんしたグウィリム・リーがあまりにもそっくり。彼がギターを弾くシーンだけで、事実との些細な違いなどどうでもよくなったぐらいに。「Bohemian Rhapsody」の有名な四人の顔の映像や、「 I Want to Break Free 」の女装プロモーションビデオも本作では四人が再現している。そうしたクイーンのアイコンともいえる映像を俳優たちがそっくりに演じているため、時間がたつにつれ、俳優の容姿が本物に近づいていくような錯覚を覚える。エンド・クレジットに本物の「Don’t Stop Me Now」の映像が使われることで、観客は映画が終わり、今までのドラマを演じていたのが俳優だったことにハッと気づかされる。

そして本作の音楽は、映像と違い、あえてフレディ・マーキュリー本人の声を多くのシーンで使っているそうだ。劇中でフレディ・マーキュリーが歌う、音源として残されていない歌声は、私もYouTubeで映像を観たことがあるカナダ人のマーク・マーテルが担当したそうだ。むしろ、それで良かったのではないかと思う。なぜならフレディ・マーキュリーの声はあまりにも唯一無二だから。マーク・マーテルのような手練れのそっくりさんが吹き替えるぐらいでなければ、いくら実際の俳優がうまく再現したとしても、観客の興を削いでしまう可能性が高い。

それよりも本作は、フレディ・マーキュリーという人物の志と成功、そして死に至るまでの濃縮された生の躍動に注目すべきだ。彼の生はまさに濃縮という言葉がふさわしい。たとえ45年しか生きられなかったとしても。おそらく普通の人の数倍も濃い密度をはらんだ人生だったのではないだろうか。本作にも「退屈などまっぴら」という意味のセリフが三度ほど出てくる。「俺が何者かは俺が決める」というセリフも登場する。一度やったことの繰り返しはしない、カテゴリーにくくられることを拒むクイーンの姿勢が本作の全編に行き渡っている。何気なく流され、生かされているのではなく、自分で選択した人生を自分で生きる。そしてその目標に向かい、時には弱音も吐きながら、理想は捨てぬまま、高らかに生の高みを歌い上げる。本作にはそのスピリットが貫かれていた。彼らの曲の歌詞の意味が真に理解できた、と冒頭にも書いたが、それは本作に一貫するテーマ、生の謳歌に通じる。本作が発するメッセージとは生きる事への賛歌だ。

私が訪れた回が満席で、次の回に回してもすぐに席がいっぱいになり、私が座ったのは前から二列目。とても見にくかったが、その分、迫力ある波動が伝わってきた。曲中で流れる実際の唄声の多くは私が好きな曲。私がクイーンで好きな「The Prophet’s Song」 、「39」や 「Innuendo」が流れなかったのは残念だが、最後に流れた「The Show Must Go On」が私の涙腺を緩めてしまった。人生という面白くも厳しく、愉快で苦しいショー。自分のショーは自分の力で演じてゆかねばならない。生きていく限り。表現者としてこれ以上のメッセージが発せられるだろうか。

‘2018/11/17 TOHOシネマズ六本木ヒルズ


ひとりの体で 下


上巻のレビューの最期で、本書にまつわるほとんど布石が撒かれ尽したと書いた。下巻では冒頭からミス・フロストが実は男であったことが著者に明かされる。実は上巻で主人公とミス・フロストが結ばれるシーンでは、ミス・フロストは主人公に注意深く挿入させず、裸も晒さなかった。そのため、そうとしらずに思いを遂げたと信じた主人公に衝撃が走る。さらに主人公はミス・フロストが自らの学校の卒業生であることを知る。そして、学校に残されたイヤーブックからミス・フロストの素性を探る中、自分の前から姿を消した実父の姿もイヤーブックから探り当てる。

男が女に姿を変えることは可能。今でこそ、そのようなことは誰でも知っている。が、60年代が始まったばかりのアメリカでは、それは容易なことではなかったはず。ましてやそれが、主人公の親の高校時代1930年代となれば。

高校を去るにあたり、主人公はミス・フロストと別れの儀式としてレスリングの技を伝授される。かつて男だった時、レスリングのチャンピオンとして有望だったというミス・フロストは、将来同性愛者として迫害を受ける恐れがある主人公に、護身術を贈ったのだ。そしてまた、キトリッジもまた高校時代はレスリングで鳴らしていたことが述べられる。キトリッジがミス・フロストへ向ける視線はまた、キトリッジの性癖がヘテロセクシャルのそれでないことを連想させる。本章から連想させられるのが、肉体を密着させるレスリングという競技と同性愛の関係である。著者もそのあたりの危険は考えていたとは思うが、この描写はかなりレスリング界からの論議を呼んだのではないだろうか。私自身、レスリングについての偏見は持っていないつもりだが、本書を読んで以来、意識しないと云えばうそになる。上巻のレビューでも書いたが、著者の作風は著者自身の人生を誤解させかねない危険がある。それは、著者のレスリングへの思いも誤解させかねないことにも繋がる。少し微妙なシーンである。

高校を卒業した主人公は、ヨーロッパへと旅立つ。誘ったのは、予てから主人公に熱烈な崇拝を捧げていたトム。トムからの誘いを機会とし、主人公は青年期に生活を送ったフェイヴォリット・リヴァーから去る。それはミス・フロストやエレインやキトリッジへの思い出を置きざりにすることとなる。もちろん、下巻でも折に触れ、三人の名前は登場するのだが。ヨーロッパでは主人公とトムとの仲は上手くいかなくなり、ウィーンに落ち着いた主人公は、バイセクシャルである自らをカミングアウトする。しかしカミングアウトの発端は、キトリッジへの思いではなく、トムからの同性愛としての崇拝だった。上巻と下巻を含めた全体に言えることだが、主人公の性的嗜好の原因の多くは外的なものである。主人公が進んで身を投じる能動的な描写よりは、主人公が受け身に回るシーンが多いように思える。それでいて、同性とのセックスにおいて、主人公はトップとして自覚する。ヘテロな私にはそのあたりの心理的な部分が理解できないが、面白いところである。

下巻は、祖父をはじめ、主人公の周りの人々が次々に死んでゆく。ハイスクール時代の仲間達はベトナム戦争やその他の人生の障害によって死んでゆき、一緒にヨーロッパにいったトムは堅い職業につき、自らの性的嗜好を隠したまま女性と結婚して一家をなす。キトリッジは実の母とのセックスに耽っていたことが発覚し、以来、主人公の前から姿を消す。それらは人生につきものの別れであり、それらの別れを経て主人公は作家としての熟成を高めてゆく。そんな中、父がスペインにいることが明かされる。ここで、本書は終わってもおかしくなかった。事実、次の章は「エピローグの世界」と名付けられている。

しかし「エピローグの世界」と次の「自然的原因ではなく」は、本書を語る上で避けては通れない章である。なぜなら、ゲイやバイセクシャルについて回るAIDSの章だからだ。両章では80年代を席巻したAIDS禍による様々な悲劇が書かれている。私も数冊、AIDSに関する本は読んだことがある。しかしこの両章で書かれたAIDSの実態は、それらに勝るとも劣らない。作家的な技巧が悲劇を彫琢し、患者の悲惨な末路を色濃く印象づける。トムもまた、その中で病に蝕まれてゆく。主人公と床を共にしたパートナーたちもまた、次々とAIDSの毒牙に掛けられてゆく。しかし主人公はなぜかAIDSには犯されない。そのあたりの不条理なことも描きつつ、社会的なマイノリティを狙い撃ちするかのようなAIDS禍の実態を、著者はえぐるように書き続ける。

本章は「エピローグの世界」と名付けられているが、内容は下巻の幹を成すものだ。公式には著者はゲイでもバイセクシャルでもないそうだ。しかし、実際に80年代にこうした悲劇を目撃したという。作家として人間として、後世に語っておかねば作家の魂が許さなかったのかもしれない。それはゲイやバイセクシャルとして生きることの苦しみに添ったものではなかった。また著者自身による蔑視がゲイやバイセクシャルへ注がれていた訳でもない。本書では様々なゲイを指すスラングが登場し、それらのスラングに蔑視の意味が含まれていることは承知の上で書かれている。しかし、著者自身がそういった性的嗜好についての侮蔑の念を抱いていたとは思えない。AIDSの悲惨な実態を知ってしまったものとして、自分の嗜好や性的マイノリティの人々への蔑視に関係なく、ゲイやバイセクシャルの間で蔓延してしまったAIDSという業病のことは、どうしても書かずにはいられなかったのであろう。上巻のレビューで、著者が作風柄受けがちな作中のエピソードと著者個人のエピソードが混同されるリスクを覚悟で、性を前面に出した本書を書いたことを指摘した。おそらくはそこにはAIDSの実態を書かねばならないという思いも含まれていたのではないだろうか。

最終章、作家として名を成した主人公は、60年代のフラワームーブメントを経て、AIDS禍の80年代を乗り越え、同性愛が一定の理解のある現代に住んでいる。フェイヴォリット・リヴァーで教壇に立つという機会も得、劇団で演劇指導も行っている。それは自分を育ててくれた祖父母や母、継父のように。昔のようにシェイクスピア劇ができる環境ではないが、作家としての老境を不満も抱かずに過ごしている。そしてなお、主人公の人生に影響を与えた人々の動向は風の便りに聞こえてきている。しかしそこにはもはや、かつてのような濃密な空気はない。性的嗜好のことなることがこれほどまでに人の人生にインパクトを与えていたのか、といわんばかりに。性的嗜好が自由になった今、人間関係までも軽やかになってしまったかのように思わされる。

上巻のレビューで著者がよく用いるモチーフを挙げた。その中に敢えて書かなかったが、著者の作品に必ずと言ってよいほど出てくるモチーフがある。それは再会である。終章で、70歳になろうとする主人公は自分の人生に影響を与えて行った人で、最も重要な人に再会する。その人は、本書、または本レビューを読んだ方にはお分かりだと思う。主人公の実父である。主人公が性的に翻弄された人生を送ってきた間、実父はスペインで同性のパートナーを伴侶とし、長く平穏な同性愛者としての人生を送ってきた。そこにはもはやなんの驚きもなかったが、本書の締めくくりとしては、一番納得のいく再会といえる。

丁度本作のレビューを書いている時、世界的にゲイ・バイセクシャルからの献血が解禁方向にあるとの記事を読んだ。80年代のAIDSに震撼した世界が、ようやく落ち着きを取り戻しつつある兆候なのかもしれない。ゲイ・バイセクシャルへの言及がそれほどエキセントリックでもなくなった今、実はまだそれらの世界は大手を振って表舞台に出ているとは思えない。ここまでレビューを書いてきた私も実は、ゲイの世界はよく分かっていない。ビデオの類も見たことがなく、明らかにゲイの世界を描いたと思しき小説も「禁色」か「フロント・ランナー」くらいしか読んだことがない。しかし、ゲイ・バイセクシャルを扱った文化が表に出ても良い気がしている。むしろ、音楽の世界ではかのY.M.C.Aがそうであるように、随分前からミュージシャンもカミングアウトし、歌詞にもゲイ文化を表現する文化が盛んだ。小説も続々と世に問われてもよいのかもしれない。

とはいえ、それは私が単に知らないだけに過ぎないともいえる。かつて三島由紀夫が「禁色」を世に問うたように、世界的な作家がゲイ・バイセクシャルを世に問うことは私のような無知なるものにとって良いのかもしれない。その意味でも、世界的に名の知られている著者がこういった題材を選んだことは、性的マイノリティにとっても或いは福音といえるのかもしれない。とすれば、本書はまさにエポックメイキングな一冊といえるのだろう。20世紀に性文化の多様性が一気に花開いたことを、本書が後世に証明することになるかもしれない。

‘2014/12/8-2014/12/11