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沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 〈上〉


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二年続けて沖縄に旅した時から早くも四年が過ぎ、コロナの中で逼塞する毎日。
振り返って旅がしたいと思い、本書を手に取った。

沖縄には今まで三回訪れた。

1995年9月は大学の部合宿で20名の同輩や後輩と。那覇港に船から上陸し、名護までタクシー。名護近くのホテルに泊まり、海辺で遊び。翌日はレンタカーで南部へ。おきなわワールドではハブとマングースの戦いを見、ひめゆりの塔の厳粛な雰囲気に衝撃を受けた。国際通りで散々飲み明かした翌日は首里城へ。
若さを謳歌した旅の中、ひめゆりの塔で受けた衝撃の落差がいまだに印象に残っている。

2017年6月のニ度目の訪問は一人旅で訪れた。初日はあいにくの大雨だったが、忠孝酒造で泡盛の製造工程を見学し、沖縄そばの味を求めて数店舗を訪れた。旧海軍司令部壕では太田中将の遺徳をしのび、沖縄県平和祈念資料館では沖縄戦だけでない、戦前の窮乏と戦後の米軍軍政下の沖縄についても学んだ。夜は国際通りの居酒屋で一人で飲んだ。翌日は晴れ渡った知念岬で太平洋の広さに沖縄が島であることを実感し、神域にふさわしい荘厳な斎場御嶽の姿に心から感動した。ひめゆりの塔では資料館をじっくりと鑑賞し、22年前に受けた衝撃を自分の中で消化した。

2018年3月には家族で。知念岬を見せたいと連れて行った後は、アブチラガマへ。完全な暗闇の中、亡くなられた方々の味わった絶望と不条理と無念を追体験した。さらにはひめゆりの塔へ。
翌日は美ら海水族館へ。途中に立ち寄った崎本部緑地公園のビーチの美しさに歓声を上げ、夜は北谷のアメリカンビレッジへ。栃木から沖縄移住した友人のご家族と食事を楽しみ、沖縄への移住についての話を伺った。
最終日は伊計島の大泊ビーチへ。その途中には浜比嘉島のシルミチューとアマミチューの遺跡を。大泊ビーチは素晴らしかった。帰りには伊計島灯台に寄り、さらにキングタコスの味を堪能し、勝連城跡の勇壮な様子に感動した。那覇に戻って国際通りで買い物をして、帰路に就いた。

なぜ本書にじかに関係のなさそうな私の旅を記したか。
それは私の沖縄の旅が、通り一遍の平和とリゾートだけの旅でないことを示したかったからだ。これらの度で私が巡ったコースは、平和とリゾートの二つだけでない、バラエティに富んだ沖縄を知りたいとの望みを表している。

だが、沖縄はまだまだ奥が深い。
沖縄はしればしるほどそこが知れなくなる。とても重層的な島だ。

平和やリゾートを軸にした通り一遍の見方では沖縄は語れないし、語ってはいけないと思う。だが、私ごときが違った沖縄を味わおうとしても、しょせんは旅人。よく知るべきことは多い。
例えば著者のようなプロの手にかかると。
本書は、ノンフィクションライターである著者が表向きのガイドマップ向けに語られる沖縄ではなく、より深く、予想外の切り口から沖縄のさまざまな実相を描いている。

上巻である本書が描くのは、基地の島の実相と、沖縄の経済、そして任侠の世界だ。

Ⅰ 天皇・米軍・おきなわ

これはタイトルからしてすでにタブーに踏み込むような雰囲気が漂っている。
とはいっても、そこまで過激な事は書かれていない。ただ、本章では昭和天皇がとうとう一度も沖縄を訪れなかったことや、沖縄県警が沖縄戦を経て戦後の米軍の軍政下でどのような立場だったか、そうした沖縄が置かれた地位の微妙な部分がなぜ生じたのかに触れている。
本書の冒頭としてはまず触れておくべき点だろう。

Ⅱ 沖縄アンダーグラウンド

これは、本書を読まねば全く知らなかった部分だ。どこの国にもどの地域にもこうしたアンダーグラウンドな部分はある。
沖縄にももちろんそうした勢力はあるのだろう。だが、旅行者としてただ訪れるだけではこうした沖縄の後ろ暗い部分は見えてこない。
こうした部分を取材し、きちんと書物に落とし込めるのが著者のノンフィクション作家としての本領だろう。

むしろ、米軍の軍政下にあったからこそ、そうした光と闇をつなぐ勢力が隙間で棲息することができたのではないだろうか。
戦前から戦後にかけ、沖縄はさまざまな政治と勢力が移り変わった。権力が空白になり、権力が超法規的な状態の中で生き延びるやり方を学び、鍛え上げていった勢力。そこで狡猾な知恵も発達しただろう。これは旅行者やガイドブックにはない本書の肝となる部分だと思う。

沖縄の人々は被害者の地位に決して汲々としていたのではなく、その中でも研げる牙は研いできたのだろう。

Ⅲ 沖縄の怪人・猛女・パワーエリート(その1)

その1とあるのは、下巻でもこのテーマが続くからだ。
沖縄四天王という言葉があるが、戦後の米軍の軍政下でも力を発揮し、成長した経済人が何人もいる。

日本本土にいるとこうした情報は入ってこない。沖縄のアンテナショップに行けば、沖縄の産物は入ってくる。本章にも登場するオリオンビールのように。
だが、その他にも何人もの傑物が戦後の沖縄で力をつけ、日本へ復帰した後もその辣腕をふるった。
立志伝の持ち主は沖縄に何人もいるのだ。

‘2020/08/19-2020/08/23


DINER


小説や漫画など、原作がある作品を映像化する時、よく“映像化不可能“という表現が使われる。原作の世界観が特異であればあるほど、映像化が難しくなる。さしずめ本作などそういうキャッチコピーがついていそうだと思い、予告編サイトをみたら案の定そのような表現が使われていた。

原作を読むと“映像化不可能“と思わせる特異な世界観を持っている。映像化されることを全身でこばんでいるかのような世界観。私にとっても、原作を映像で観たいと願うと自体が発想になかった。(原作のレビュー

レビューにも書いたが、原作にはかなりのインパクトを受けた。人体の尊厳などどこ吹く風。イカレた描写にあふれた世界観は、脳内に巣くう常識をことごとくかき乱してくれる。小説である以上、本来は字面だけの世界である。ところが、あまりにもキテレツな世界観と強烈な描写が、勝手に私の中で作品世界のイメージを形作ってくれる。原作を読んだ後の私の脳裏には、店の内装や登場人物たちのイメージがおぼろげながら湧いていた。イメージに起こすのが苦手な私ですらそうなのだから、他の読者にはより多彩なイメージが花開いたはずだ。

原作が読者のイメージを喚起するものだから、逆に映像化が難しい。原作を読んだあらゆる読者が脳内に育てた世界観を裏切ることもいとわず、一つの映像イメージとして提示するほかないからだ。

監督は最近よくメディアでもお見掛けする蜷川実花氏。カメラマンが持つ独特の感性が光っている印象を受けている。本作は、監督なりのイメージの提示には成功したのではないだろうか。原色を基調とした毒々しい色合いの店内に、おいしそうな料理の数々。原色を多用しながらも、色の配置には工夫しているように見受けられた。けばけばしいけれども、店のオーナーであるBOMBEROの美意識に統一された店内。無秩序と秩序がぎりぎりのところで調和をとっている美術。そんな印象を受けた。少なくとも、店内や料理のビジュアルは、私の思っていた以上に違和感なく受け入れられた。そこに大沢伸一さんが手掛ける音楽がいい感じで鳴り響き、耳でも本作の雰囲気を高めてくれる。

一方、原作に登場する強烈なキャラクターたち。あそこまでの強烈さを映像化することはとてもできないのでは、と思っていた。実際、キャラクターのビジュアル面は、私の期待をいい意味で裏切ることはなかった。もともと期待していなかったので、納得といえようか。たとえばSKINのビジュアルは原作だともっとグロテスクで、より人体の禍々しさを外にさらけ出したような描写だったはず。ところが、本作で窪田さんが演じたSKINのビジュアルは、何本もの傷跡が皮膚の上を走るだけ。これは私にとってはいささか残念だった。もっと破滅的で冒涜的なビジュアルであって欲しかった。もっとも、スキンのスフレを完食した事により狂気へ走るSKINを演じる窪田正孝さんはさすがだったが。

原作にはもっと危険で強烈なキャラクターが多数出ていた。だが、その多くは本作では割愛されていた。甘いものしか食わない大男のジェロ。傾城の美女でありながら毒使いの炎眉。そして妊婦を装い、腹に劇物を隠すミコト。特にミコトの奇想天外な人体の使い方は原作者の奇想の真骨頂。だからこそ、本作に登場しなかったのが残念でならない。

ただ、キャラクターが弱くなったことには同情すべき点もある。なにしろ本作には年齢制限が一切ついていない。子供でも見られる内容なのだ。それはプロデューサーの意向だという。だから本作では、かき切られた頸動脈の傷口から血が噴き出ない。人が解体される描写も、肉片と化す描写も省かれている。そうした描写を取り込んだ瞬間、本作にはR20のレッテルが貼られてしまうだろう。そう考えると、むしろ原作の異常な世界観を年齢制限をかけずにここまで映像化し脚本化したことをほめるべきではないか。脚本家を担当した後藤ひろひと氏にとっては、パンフレットで告白していたとおり、やりがいのあるチャレンジだったと思う。

ただ、キャラクターで私のイメージに唯一合致した人物がいる。それはKIDだ。私が原作のKIDに持っていたイメージを、本作のKIDはかなり再現してくれていた。KIDの無邪気さを装った裏に渦巻く救いようのない狂気を巧みに演じており、瞠目した。 本郷奏多さんは本作で初めて演技を見たが、久しぶりに注目すべき役者さんに出会えた気がする。

もう一つ、原作にはあまり重きが置かれなかったデルモニコなどのラスボス達。本作ではジェロや炎眉やミコトを省いたかわりにラスボスを描き、映像化できるレベルに話をまとめたように思う。それは、本作を表舞台に出すため、仕方がなかったと受け入れたい。

原作の持つまがまがしい世界観を忠実に再現するかわり、カナコの成長に重きを置く描写が、本作ではより強調されていたように思う。それは私が原作で感じた重要なテーマでもある。本作は、カナコの幼少期からの不幸や、今のカナコが抱える閉塞感を表現する演出に力を注いでいたように思う。その一つとして、カナコの内面を舞台の上の出来事として映像化した演出が印象に残る。ただ、原作ではBOMBEROとカナコの間に芽生える絆をもう少し細かいエピソードにして描いており、本作がカナコの成長に重きを置くのなら、そうしたエピソードをもう少し混ぜても良かったかもしれない。

それにしても、本作で初めて見た玉城ティナさんは眼の力に印象を受けた。おどおどした無気力な冒頭の演技から、話が進むにつれたくましさを身に付けていくカナコをよく演じていたと思う。

そして、主演の藤原竜也さんだ。そもそも本作を見たきっかけは、藤原竜也さんのファンである妻の希望による。妻の期待に違わず、藤原さんはBOMBEROをよく演じていたと思う。原作のBOMBEROは、狂気に満ちた登場人物たちを統べることができるまともなキャラクターとして描かれている。原作のBOMBEROにもエキセントリックさはあまり与えられていない。本作で藤原さんがBOMBEROに余計な狂気を与えず、むしろ抑えめに演じていたことが良かったのではないだろうか。

本作は、いくつかの原作にないシーンや設定が付け加えられている。その多くはカナコに関する部分だ。私はその多くに賛成する。ただし、本作の結末は良しとしない。原作を読んで感じた余韻。それを本作でも踏襲して欲しかった。

そうしたあれこれの不満もある。だが、それらを打ち消すほど、私が本作を評価する理由が一つある。それは、本作をとても気にいった娘が、本が嫌いであるにもかかわらず原作を読みたいと言ったことだ。実際、本作を観た翌日に原作を文庫本で購入した。完成されたイメージとして提示された映像作品も良いが、読者の想像力を無限に羽ばたかせることのできる小説の妙味をぜひ味わってほしいと思う。グロデスクな表現の好きな娘だからこそ、原作から無限の世界観を受け止め、イラストレーションに投影させてくれるはずだから。

‘2019/08/11 イオンシネマ新百合ヶ丘