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本格小説 上


本書のタイトルは簡潔なようでいて奥が深い。
小説とは何か。そうした定義に思いが至ってしまう。むしろ、何も考えない人はどういう心づもりで本書を読むのかを聞いてみたい位だ。
そんな偉そうなことをいう私も、そのようなことを普段は一切考えないが。

小説だけでも多様なジャンルがある。私小説や、童話、SF小説、ミステリー、純文学。
そのジャンルの垣根を飛び越えた普遍的なものが本格なのだろうか。

それともジャンルに関わらず、プロットや構成こそが本格を名乗るのにふさわしい条件なのだろうか。
または、『戦争と平和』や、『レ・ミゼラブル』のような長い歴史をつづった大河小説こそが本格の名に値するのだろうか。

書き手と読み手の二手にテーマを設定するとさらに解釈は広がる。
「本格」とはその語感から連想される枠の窮屈さではないように思う。むしろ逆だ。受け取り手の解釈によってあらゆる意味を許される。つまり「本格」とは曖昧な言葉ではないだろうか。

読者は本書を手に取る前に、まずタイトルに興味を持つはずだ。
そして、上に書いたような小説とは何か、という疑問をかすかに脳内で浮かべることだろう。それとともに、本書の内容に深い興味を持つはずだ。
いったい、本格小説と自らを名付ける本書はどのような小説なのか。この中にはどのような内容が書かれているのか、と。

本来、小説とは読者にある種の覚悟を求める娯楽なのかもしれない。今のように無数の本が出版され、ありとあらゆる小説がすぐに手に入る現代にあって、その覚悟を求められることがまれであることは事実だが。
時間の流れのまま、好きなだけ視覚と思考に没入できるぜいたくな営み。それが読書だ。読者は時間を費やすだけの見返りを書物に期待し、胸を躍らせながらページをめくる。
例えばエミリー・ブロンテによる『嵐が丘』が世界中の読者の感情をかき乱したように。
本書のタイトルは、そうした名作小説の持つ喜びを読者に期待させる。まさに挑戦的なタイトルだと言えるだろう。

ところが、本書は読者の期待をはぐらかす。
著者による「序」があり、続いて「本格小説の始まる前の長い長い話」が続く。
前者は5ページほど、本書の成り立ちに関わる挿話が描かれている。そして後者は230ページ以上にわたって続く。そこで描かれるのは著者を一人称にした本編のプロローグだ。
読者はこの時点でなに?と思うことだろう。私もそう思った。

本書の主人公は東太郎だ。アメリカに単身で流れ着き、そこから努力によって成り上がった男。

著者は長い長い話の中で東太郎と自らの関係を述べていく。
親の仕事の関係で12歳の頃からアメリカで住む著者。そこにやってきたのがアメリカ人実業家の家に住み込んでお抱え運転手をすることになった東太郎。
そこから著者と東太郎の縁が始まる。
やがてアメリカで成功をつかみ、富を重ねていく東太郎。ところがその成功のさなかに、東太郎はアメリカから忽然とその姿を消してしまう。
成功から一転、その不可解な消え方についてのうわさが著者の耳にも届く。

ところがその後、著者の元に東太郎の消息が伝えられる。
伝えたのは祐介という一読者。東太郎に偶然会った祐介は会話を交わす。そこで祐介は東太郎から著者の名前を聞く。かつてアメリカで知り合いだったことを教わる。
そのご縁を著者に伝えるため、祐介は著者のもとにやってきたのだ。

著者は東太郎とのアメリカでの日々から祐介に出会うまでの一連の流れを「本格小説の始まる前の長い長い話」に記す。
そしてこの長い前書きの最後に、著者が考える「本格小説」とは何かについてを記す。

「「本格小説」といえば何はともあれ作り話を指すものなのに、私の書こうとしている小説は、まさに「ほんとうにあった話」だからである」(228ページ)

「日本語で「私小説」的なものから遠く距たったものを書こうとしていることによって、日本語で「本格小説」を書く困難に直面することになったのであった」(229ページ)

「なぜ、日本語では、そのような意味での「私小説」的なものがより確実に「真実の力」をもちうるのであろうか。逆にいえば、なぜ「私小説」的なものから距だれば距たるほど、小説がもちうる「真実の力」がかくも困難になるのであろうか」(231ページ)

「日本語の小説では、小説家の「私」を賭けた真実はあっても、「書く人間」としての「主体」を賭けた真実があるとはみなされにくかったのではないか。」(232ページ)

続いて始まる本編(235ページから始まる)は、祐介の目線から語られる。
軽井沢で迷ってしまい、道を尋ねた民家。そこで出会ったのがアズマという動物のように精悍な顔をした男。冨美子という老女とともに住むその男のただならぬ様子に興味を持った祐介。
後日、軽井沢の街中で冨美子と出会ったことをきっかけに、祐介は老いた三姉妹に別の別荘に招待される。そこで冨美子や老いた三姉妹と会話するうちに、彼女たちにタローとよばれるアズマの事が徐々に明かされていく。

本編に入ると、ところどころに崩れかけた家や小海線、軽井沢の景色が写真として掲げられる。
それらの写真は、本編が現実にあったことという印象を読者に与え、読者を下巻へといざなう。

2020/11/1-2020/11/5


文明が衰亡するとき


著者の本を読むのは初めてだ。

以前から著者の名前は高名な国際政治学者として知っていた。

今、世界は不透明な状態になりつつある。
40も半ばを過ぎた私がこれから生きていくにあたり、何を指針とすべきか。

40歳半ばとは本来、より広い視野と知見を持っているべき年齢だ。
技術者として生計を立てている私と言えども、技術と言う枠だけにとらわれず文明にまで視野を広げて物事を捉えていかねばなるまい。

文明。その言葉だけを考えてみると、その実態はとてもあいまいだ。
その言葉を聞いて真っ先に考えるのは、長らく続いている印象だ。
ところが私たちの世代が世界史で習ったエジプト・バビロニア・インダス・中国の四大文明は、遺跡にその姿を残すのみ。その繁栄の様子は歴史の彼方に埋もれてしまった。
一方で文明を人類全体の枠組みで捉えなおすと、昔から脈々と受け継がれてきた文明は今の現代の世界として続いている錯覚を受ける。
文明とは、あらゆる意味を包括した言葉であるため、逆に実態を掴もうとするとどこかに遠ざかってしまうのだ。

となると、個々の文明を詳しく見ないことには、文明の本質は把握すらおぼつかない。
著者は本書で、代表的な時期と場所の文明を取り上げる。
四大文明がそうだったように、文明は繁栄と衰亡の時期を行き来する。景気の波のように興廃の振幅を幾度もへて、そしてついには衰えていく。それがほとんどの文明の宿命だ。

わが国にしても、戦後の焼け跡から立ち上がり、世界史上でも有数の繁栄を誇った。だが、バブル崩壊を境に一転、長きにわたる停滞が続いた。停滞の今から振り返ると、もうあれほどの繁栄には二度と恵まれないのでは。そんな憶測が多数を占めている。
そうした悲観的な観測が世間を覆う中、私は日本の将来について何をなすべきなのだろう。
再びわが国が繁栄するため、社会を引っ張っていくべき年齢。それが40代から50代の熟年世代なのだろう。もう、新たな活力は若い世代に負けるし、斬新な発想も難しいかもしれない。だが、脂ののった年代でもある。そのような世代が次の世界に何を引き継ぎ、何を残すのか。
そのためにも、果たして日本の今後はどうなるのかは考えねばなるまい。もちろん、その予測は人によって多様なはず。

日本は皇室が二千年近く続いている国であり、そう簡単には衰亡しないと言う意見もある。
一方で、経済的な面から考えれば、資源のない日本にはこれ以上の発展は望めないという声もある。
私の意見では、経済的な発展はもう見込めないだろうと思っている。少子化はすでに挽回の不可能な地点を越えてしまったからだ。
ただ、日本が培ってきた文化的な素養がこれからの世界に貢献できる可能性は高いと見ている。

そうした文明の未来を占うにあたり、これまでの世界の諸文明がどのように衰亡したのかを知識として持っておくことは必要だと思う。

本書が書かれたのは1980年代の初頭だ。つまり日本が上り調子になっていた時期にあたる。
オイルショックを乗り越え、ジャパン・アズ・ナンバーワンのスローガンが一世を風靡し、バブルが崩壊する未来は予兆すらなかった頃である。

著者はまずローマ帝国の歴史を見る。
なぜあれほどの規模と繁栄を誇ったローマ帝国が滅びたのか。その歴史を追いながら衰退の原因を検証していく。

私たちが思っている以上に当時のローマの文明は進んでいた。今に比べると技術力は足りないが、当時の技術の粋があらゆる知恵と工夫となって集められていた。都市に施された設備の洗練は進み、文化は栄え、繁栄は何世紀も続いた。

しかし、領土の拡張はある規模に至った時点で止まる。そして、ローマ帝国の版図はそれ以上広がらなかった。年月が徐々に、ローマの活力を奪って行った。
それだけではなく、領土が広がることで帝国の広大な地域から人が集まった。それは軍隊に顕著だった。軍隊が領土の維持に不可欠である以上、やむを得ない。
人が交わるのは、生物的には健全なことだ。だが、ローマ建国から繁栄に至るまでを支えてきた気質に他民族の文化や考え方が混ざったことで、国民から一体感が失われていった。国民意識とでも言おうか。
建国した頃のローマ人が抱いていた文化と活力は徐々に変質していき、そこに経済の衰退が重なることでさらに帝国はほころびていった。

著者は、経済的な衰退こそがローマ帝国崩壊の原因であるとの立場をとっている。
ゴート族をはじめとしたゲルマン諸族の侵入はローマ帝国にとってとどめの一撃でしかなかった。それまでにローマ帝国は衰退への道を確実に歩んでおり、滅びるべくして滅びたと考えるべきだと。
経済的な衰退がはじまった中、広大な国土を維持するために官僚の肥大を止められなかった。それによって意思の決定が硬直し、国の統制が国の隅々に行き渡らなくなった。それがローマの衰退の要点だと著者は説く。

続けて著者は、ヴェネツィアの繁栄と衰退の歴史を見ていく。
ヴェネツィアは、イタリア半島の付け根に築かれた干潟の上の都市からはじまった。そして地中海を交易と海軍で制圧し、中世の地中海世界を席巻した。その歴史は都市国家としてあまりに著名である。
その威力は当時の十字軍の目的を変質させ、各国の王をヴェネツィアの意思に従わせるほどであったと言う。

ヴェネツィアの存在がルネサンスの原動力となったこともよく知られている。地中海の一都市から生まれたルネサンスが、暗黒の中世と言われた長きにわたる西洋の停滞を終わらせた。今の西洋が主体となっている国際社会の礎を築いたのはヴェネツィアとすらいえるかもしれない。

だが、「新しい事業に乗り出す冒険的精神や活力の衰頽と守旧的性格の増大、自由で開放的な体制から規制と保護の体制への変化、すなわち柔軟性の喪失と硬直化」(164ページ)
という言葉の通り、ヴェネツィアにも衰退が見られた。ヴェネツィアを成長させた質実剛健な文化が失われ、快楽に流されるようになったあとは覇権を失った。

最後に著者はアメリカを語る。
アメリカと言えば現在も世界をリードするGNPでも第一の国家であり続けている。だから、アメリカに衰退を当てはめることには違和感がある。

だが、本書が書かれた当時のアメリカは、ベトナム戦争による敗北や、貿易赤字の増大によって衰退の傾向が色濃く出ていた。
合わせて当時は、日本が世界でも有数の経済力を発揮し出した時期。やがてアメリカを凌駕するのも時間の問題と考えられていた。

著者は、アメリカに象徴される西洋主導の工業文明そのものが衰えているのではないかとの視点を提示する。産業革命によってイギリスが世界の七つの海を制覇するまでに巨大化した。それ以降、イギリスの文化を受け継いだアメリカが世界をリードしてきた。

だが、各地で発生する公害はどうだろう。原油やその他の資源を消費することで成り立つ経済のあり方に発展の持続は見込めない。
著者はアメリカも政府が大きくなったことで国家が硬直していると指摘する。
ただ、このままアメリカは衰退するとは断定しない。しかし徐々に衰退していくのではないかと言う予想を示す。

最後に日本だ。
著者は、日本の今後を占う上で、ヴェネツィアやオランダなど小さな島国が発展したモデルに日本の今後のヒントがあるのではと提案する。
そうした国は通商で国家の繁栄を支えていた。日本も通商で世界に出ていけるのではないかと示唆する。

だが、本書が生み出されてから40年近くが経過した今、日本の衰退は明らかだ。
それは国としての柔軟性が欠けていることにあらわれている。
製品の製造にこだわるあまり、ソフトウエアの重要性に気付かなかった日本。今や世界のITの主導権は西洋やアジアの各国に握られている。
それはすなわち、アメリカが代表する西洋が再び文明の主導権を奪回したことでもある。

わが国の意思決定や組織文化は残念ながら時代の流れについていけなかった。
確かに日本は一度、世界のトップに上り詰めかけた。だが、今は衰退した状態である。
本書では文明の衰退のパターンが描かれてきた。そこに共通するのは、官僚組織の硬直だ。それが国の衰退につながる。今までの文明が衰退してきたパターンでもそれは明らか。
本書が上梓された際にはわが国が衰退することなど誰にも予想できなかったはずだが、やはりパターンにはまったといえようか。

私は組織から抜け出し、一人で活動してきた。そして今度は人を雇用して組織を作ろうとしている。果たして私の組織は衰退していくのだろうか。それは私の努力次第だ。
実際、私以外にも自らが組織を作り出そうとしている人は多くいるはずだ。そうした組織を連携させ、一つのうねりを作り出す。遠い将来の衰退が確実だとしても、それが私たちの世代のやるべきことではないだろうか。

‘2020/01/18-2020/01/25


メデューサの嵐 下


下巻では、着陸する空港を求めてあちこちを飛び回るスコットの苦闘が描かれる。
メデューサが野放しになっている事実は、アメリカ中が知ることとなった。ペンタゴンやCIAも、とんでもない兵器が空にある事態を把握する。一方で、アメリカを危機に陥れた犯罪者がすでに亡くなったロジャーズではなくヴィヴィアンによってなされたと考え、捜査するFBIも。
さまざまな思惑を持つ人々がそれぞれの立場で事態を掌握しようとするため、なかなかうまくいかない。

もっともやっかいなのは、メデューサを無傷で確保したいとの軍の一部の思惑だ。
まだどの国も開発に成功していないメデューサウェーブが今、合衆国の上空にある。それは軍にとって願ってもないチャンスだ。この兵器を可能な限り無傷で入手し、内部を解析することによって、アメリカによる世界の覇権はより一層強固なものとなる。
アメリカに無限の力がもたらされるメデューサは、軍が確保しなければならない。
そう確信した一部の軍人は、兵器を遺棄したいと願うスコットを欺き、スコットの飛行機を軍の飛行場に着陸させようと画策する。

ところがスコットのそばには、兵器の実際の開発者であるロジャーズの妻ヴィヴィアンがいる。かつてロジャーズと一緒に研究職に就いていたヴィヴィアンにとって、ロジャーズの能力はよく知っている。この兵器を完成させてもおかしくないことも。
ロジャーズがやると決めたら必ず実行する。軍がいかに知恵をめぐらそうとも、安全に解体することなど不可能。メデューサは軍が生半可に扱えるような代物ではない。そして、処置を誤ったが最後、アメリカ中の電子機器は使い物にならなくなり、アメリカは二度と立ち上がれないほどのダメージを被る。

ヴィヴィアンからそのような事を聞いたスコットは、アメリカを救わねばという使命につき動かされる。そして、策をめぐらせながら機を飛ばし続ける。スコットエアも自分自身もそしてクルーも最後まであきらめることなく、どうやればメデューサを安全に処分するかを考えながら。

そのスコットからみて、軍のおかしな動きは怪しむに十分だった。軍が自らを欺きメデューサを手中に収めようとしているのではないか、と。その疑いが確信に高まり、いったんは着陸した空港から、軍の制止を振り切って再び離陸への道を選ぶ。
物語を盛り上げるため、このような余計な画策をする役割の人物は必要だ。軍人としての動機がもっともなだけに、スコットを再び空へと送り出す展開も無理やりな感じは受けない。

軍の用意した飛行場が頼りにならないとなれば、もうスコットにとれる道はすくない。時間は少ない。そこで彼がどういう決断を下すのか。

超巨大台風とメデューサ。熱核爆弾としての側面も持つメデューサが爆発すれば、電磁波だけでなく、自身も一瞬にして塵と化す。
そのような極限状況にあって、ある人はパニックに陥り、ある人は判断力を失う。だが、ヒーローでなくとも、集中力を高められる人もいる。本書のスコットのように。
もともと航空機のパイロットは高度な知識と集中力を擁する仕事だという。
本書のような事態に巻き込まれたとしても、スコットが毅然と対処できることはある意味理にかなっている。空軍のもと戦闘機載りの経歴ならなおさら。

おそらく著者も自身や仲間のパイロットの姿をみていたはず。その素養は承知していたため、本書のような設定も著者には荒唐無稽とは考えていなかったのだろう。

飛行機とはただでさえ、一瞬の操作ミスが命の危機に直結する。
だから、もともとサスペンスの題材としては適している。
そして著者にパイロットとしての知識があったならば、飛行機を題材とした本書のようなサスペンスは面白いはずだ。

実際、本書を読む間は手に汗を握るような展開が連続する。本書のように極上の緊張感を楽しめるのは、読者としての喜びだ。

ただ、本書には物足りない点もあった。
正直にいうと、本書の登場人物にはもう少し深みがあっても良かったと思う。
たとえばスコットがなぜ一人で貨物便を扱うスコットエアを創業したのか。上巻の冒頭でそのあたりのいきさつには多少は触れられる。だが、あまりスコットが貨物会社を創業した動機には挫折があまり感じられなかった。
さらに、重要な役回りを演じるドクやジェリーの人物ももう少し深く掘り下げてもよかったのではないだろうか。

そしてリンダにも同じ物足りなさがつきまとう。なぜ南極からの観測データを焦って積み込まねばならないのか。そこに環境学者としての彼女が抱いていた地球温暖化の危機感を書き込めば、より彼女の強引な行為の理由が理解できたはず。

結局、本書で一番無茶な企てを仕掛けたロジャーズと、その企みにまんまとはめられたヴィヴィアンの元夫婦が、人物の中でもっとも深みがあったように思うのは私だけだろうか。
彼らの闇の暗さと、たくらみや巻き込まれた事件はもっとも現実に考えにくい役回りだったにもかかわらず。

だが、そうした欠点など取るに足りないと思えるぐらい、本書は航空機とそれを舞台にしたサスペンスの書き方に長けていたと思う。
あえて人物の書き方に注文を付けたのも、それだけ本書のサスペンスとしての構成がしっかりしていたからだ。

このあたりのバランスをどうすればよかったのかは、結果論に過ぎない。
一つだけいえるのは、本書が極上のサスペンスだったこと。それを読めて楽しめたことぐらいだ。

本書は余韻の描き方もとてもよかった。この終わり方によって、沸騰していた物語に締めくくりが付けられたように思える。

‘2019/6/19-2019/6/19


メデューサの嵐 上


本書は、だいぶ長い間、私の部屋で積ん読になっていた一冊だ。
ちょうど読む本が手元になくなったので手に取ってみた。

本書は、今まで積ん読にしていたのが申し訳ないほど面白かった。
何が面白かったかと言うと、飛行機の運転操縦に関する知識が深く、臨場感に満ちていたことだ。それもそのはずで、著者はもともと貨物便のパイロットをしていたそうだ。

本書の主人公であるスコットもまた零細貨物航空会社スコットエアの経営者であり、パイロットだ。そのスコットエアを運営しながら、綱渡りの経営を続け、営業で案件をとってきては収入を運営につぎ込む。その姿は、私と弊社そのもの。だから感情移入ができた。

しかも、本書の主人公の場合、実際の貨物便を所持している。
という事は、維持費がかかる事を意味する。また、それを運行するためのスタッフも雇わねばならない。
スタッフとはスコットエアの場合、副操縦士のジョン・ドク・ハザードと機関士のジェリー・クリスチャンだ。
スコットエアにはスタッフも大きな機器もある。だから、弊社のようにパソコンだけを持っていれば済むはずがない。
スコットの経営は、私よりもさらに過酷であり、綱渡りの連続であるはずだ。

さて、本書のタイトルにもなっているメデューサとは、メデューサウェーブを発する兵器の事だ。もちろん実在しない。著者の造語だ。
メデューサウェーブとは、強力な電磁波。その強力な電磁波によって、電子と磁気の情報で成り立っている情報機器を一撃で無効にできる。つまりデータを破壊できるのだ。
世界中のハードディスクに保存されているあらゆる情報や、ネットワーク上を行き来する電気信号。そうした情報は電子データであり、電子データが安全に保持されることが社会のあらゆる活動の前提となっている。
だが、メデューサウェーブによってそれらが一気に無効になるとすれば、その恐ろしさは計り知れない。実際、複数の国の兵器関係者は今も研究しているはずだ。

もしそのような恐ろしい兵器が、在野の一科学者によって作り上げられたとしたら。そして、その科学者が狂った動機をもとにその兵器を実際に稼働させようとしたら。もしその兵器がスコットの操縦する貨物機に積まれていたとしたら。
本書はそうした物語だ。全編がサスペンスに溢れている。

その科学者ロジャーズ・ヘンリーは、離婚した妻ヴィヴィアンに対して復讐しようとしていた。そして彼の復讐の刃は自分の才能を認めようとしなかった合衆国政府にも向けられていた。
そんなロジャーズの狂った執念を一石二鳥で実現したのがこのメデューサウェーブ。
ガンで自らの余命がいくばくもない事を知ったロジャーズは、ヴィヴィアンに連絡を取る。
その時、ヴィヴィアンは離婚したことによって収入のあてがたたれ、困窮状態にあった。
死の床で寝込んでいたロジャーズからの頼みを断れずに引き受けてしまったことが、本書の発端となる。

メデューサに巧妙な仕掛けを組んでいたそのロジャーズは、自ら命を断つ。
そしてヴィヴィアンは、生計がいよいよ立ち行かなくなり、ロジャーズの頼みを実行する。
ロジャーズの頼みとはヴィヴィアンも同伴したまま、貨物便にその箱に似た兵器を積み込む事。
しかし、積み込まれるべきだったメデューサは、手違いで積み込まれるべき貨物便とは違う便に積み込まれた。その飛行機こそ、スコットの操縦する飛行機だった。そしてスコットがそのまま飛行機を離陸させたことで、メデューサは空に解き放たれてしまう。
巧妙にも、ヴィヴィアンのペースメーカーと兵器を同期させるようにしていたロジャーズは、ワシントンの上空で兵器を作動させる。
兵器の電子コンソールには、ヴィヴィアンが離れると兵器をすぐに稼働させるという脅迫の文字が。

飛行機は着陸もできなければ、兵器を処分することもできない。つまり、燃料の切れるまで飛び続ける羽目に陥る。
しかも間の悪いことにアメリカに最大級の台風が襲来している。つまり、スコットは巨大な台風の中を、いつ爆発するとも知れない兵器とともに飛び続けなければならない。

貨物の積み込みや、空港での手続き。そして実際の操縦や航空機の形に関する知識。
そうした知識がないまま、本書のような物語を書くと、非現実的な設定に上滑りしてしまう。
だが、冒頭に書いた通り著者はもともと飛行機会社を経営していたという。そうしたキャリアから裏付けられた説得力が本書に読みごたえを与えている。

同時に著者は、兵器の情報がどのようにしてマスコミに漏れ、それがどのように世間を騒がせるかについてもきちんとリサーチを行っているようだ。
危険極まりない兵器が空を飛び回っていることを知った世間はパニックに陥る。
そのいきさつもきちんと手順を踏んでおり、無理やりな感じはしない。だから、本書からは説得力が保たれている。

今の社会は電子データに従って動いている。どこにでもありふれているが、ひとたび混乱すれば、世界の仕組みは破滅し、アメリカの覇権は雲散霧消する。
メデューサウェーブのような兵器の着想は、おそらく他の作家にも生まれていることだろう。だが、私にとっては本書で初めて出会った。それだけに、新鮮だった。

スコットの操縦する飛行機には、ドクとジェリー、ヴィヴィアンの他にもまだ乗客がいる。
南極での調査を終え、政府研究機関に至急渡したいからと荷物を運んでほしいと強引に乗り込んできた女性科学者のリンダ・マッコイ。
この5名の間にコミニケーションが取られながら、5人でどのようにして協力し合い、危機を脱するのか、という興味が読者をつかんで離さない。

実際のところ、本書の核心度や描き方、物事の進め方やタイミングなど、あらゆる面で第一級のサスペンスで、まさにプロの描いた小説そのものである。
才能の持ち主が知識を備えていれば、本書のような優れたサスペンスになるのだ。

いったいスコットたちはどのように危機を乗り切るのだろうか。下巻も見逃せない。

‘2019/6/14-2019/6/19


声の狩人 開高健ルポルタージュ選集


著者を称して「行動する作家」と呼ぶ。

二、三年前、茅ヶ崎にある開高健記念館に訪れた際、行動する作家の片鱗に触れ、著者に興味を持った。

著者は釣りやグルメの印象が強い。それはおそらく、作家として円熟期に入ったのちの著者がメディアに出る際、そうした側面が前面に出されたからだろう。
だが、行動する作家、とは旅する作家と同義ではない。

作家として活動し始めた頃、著者はより硬派な行動を実践していた。
戦場で敵に囲まれあわや全滅の憂き目をみたり、東西陣営の前線で世界の矛盾を体感したり。あるいはアイヒマン裁判を傍聴してで戦争の本質に懊悩したり。

著者は、身の危険をいとわずに、世界の現実に向き合う。
書物から得た観念をこねくり回すことはしない。
自らは安全な場所にいながら、悠々と批判する事をよしとしない。
著者の行動する作家の称号は、行動するがゆえに付けられたものなのだ。

そうした著者の姿勢に、今さらながら新鮮なものを感じた。
そして惹かれた。
安全な場所から身を守られつつ、ブログをかける身分である自分を自覚しつつ。
いくら惹かれようとも、著者と同じように戦場の前線に赴くことになり得ない事を予感しつつ。

没後30年を迎え、著者の文学的な業績は過去に遠ざかりつつある。
ましてや、著者の行動する作家としての側面はさらに忘れられつつある。
だが、冷戦後の世界が再び動き出そうとする今だからこそ、冷戦の終結を見届けるかのように逝った行動する作家としての姿勢は見直されるべきと思うのだ。

冷戦が終わったといっても、世界の矛盾はそのままに残されている。
ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が崩され、東西ドイツや南北ベトナムが統一された以外は何も変わっていない。
朝鮮は南北に分断されたままであり、強大な国にのし上がった中国を統治するのは今もなお共産党だ。
ロシア連邦も再び強大な国家に復帰する機会を虎視眈々と狙っている。
そもそも、イスラム世界とキリスト世界の間が相互で理解し合うのがいつの日だろう。パレスチナ国家をアラブの国々が心から承認する日はくるのだろう。ドイツで息を吹き返しつつあるネオナチはナチス・ドイツの振る舞いを拒絶するのだろうか。
誰にも分からない。

それどころか、アメリカは世界の警察であることに及び腰となっている。日韓の間では関係が悪化している。EUですらイギリスの離脱騒ぎや、各国の財政悪化などで手一杯だ。
世界がまた混迷に向かっている。

冷戦後、いっときは平穏に見えたかのような世界は実は休みの時期に過ぎなかったのではないか。実は何も解決しておらず、世界の矛盾は内で力を蓄えていたのではないか。
その暗い予感は、わが国の活力が失われ、硬直している今だからこそ、切実に迫ってくる。
次に世界が混乱した時、日本は果たして立ち向かえるのだろうか、という恐れが脳裏から去らない。

本書は著者が旅先でたひりつくような東西の矛盾がぶつかり合う現場や、アイヒマン裁判を傍聴して感じたこと、などを密に描いたルポルタージュ集だ。

「一族再会」では、死海の過酷な自然から、この土地の絶望的な矛盾に思いをはせる。
古来、流浪の運命を余儀なくされたユダヤ民族は、苛烈な迫害も乗り越え、二千数百年の時をへて建国する。
生き残ることが至上命令と結束した民族は強い。
自殺者がすくないのも、そもそも自殺よりも差し迫った悩みが国民を覆っているから。
著者の筆はそうした本質に迫ってゆく。

「裁きは終わりぬ」では、アイヒマン裁判を傍聴した著者が、600万人の殺人について、官僚主義の仮面をかぶって逃避し続けるアイヒマンに、著者は深刻に悩み抜く。政治や道徳の敗北。哲学や倫理の不在。
アイヒマンを皮切りに、ナチスの戦犯のうち何人かはニュルンベルクで判決を受けた。だが、ヒトラーをはじめとした首脳は裁きの場にすら現れなかった。
一体、何が裁かれ、何が見過ごされたのか。
著者はアイヒマンを絞首刑にせず生かしておくべきだったと訴える。
顔に鉤十字の焼き印を押した生かしておけば、裁きの本質にせまれた、とでもいうかのように。

「誇りと偏見」は、ソ連へ旅の中で著者が感じ取ろうとした、核による終末の予感だ。
東西がいつでも相手を滅ぼしうる核兵器を蓄えてる現実。
その現実の火蓋を切るのは閉鎖されたソ連なのか。そんな兆しを著者は街の空気から嗅ぎ取ろうとする。
ステレオタイプな社会主義の印象に目をくらまされないためにも、著者は街を歩き、自分の目で体感する。
今になって思うと、ソ連からは核兵器の代わりの放射能が降ってきたわけだが、そうした滅びの終末観が著者のルポからは感じられる。

「ソヴェトその日その日」は、終末のソ連ではなく、より文化的な側面を見極めようとした著者の作家としての好奇心がのぞく。
共産主義の教条のくびきが解けようとしているのではないか。暗く陰惨なスターリンの時代はフルシチョフの時代をへて過去となり、新たなスラヴの文化の華が開くのではないか。
著者の願いは、アメリカが主導する文化にNOを突きつけたいこと、というのはわかる。
だが、数十年後の今、スラヴ文化が世界を席巻する兆しはまだ見えていない。

「ベルリン、東から西へ」でも、著者の文化を比較する視点は鋭さを増す。
東から西へと通過する旅路は、まさに東西文化に比較にうってつけ。今にも東側を侵そうとする西の文化。
その衝突点があからさまに国の境目の証となってあらわれる。
それでいながらドイツの文化と民族は同じであること。著者はここで国境とはなんだろうか、と問いかける。
文化を愛する著者ゆえに、不幸な断絶が目につくのだろうか。

「声の狩人」は、ソ連を横断してパリに着いた著者が、花の都とは程遠いパリに寒々しさを覚える。
アルジェリア問題は激しさを増し、米州機構反対デモが殺伐とした雰囲気をパリに与えていた。
実は自由を謳歌するはずのパリこそが、最も矛盾の渦巻く場所だったという、著者の醒めた観察が余韻を与える。
結局著者は、あらゆる幻想を拒んでいた人だったのだろう。

「核兵器 人間 文学」は、大江健三郎氏、そして著者とともに東欧を訪問した田中 良氏による文だ。
三人でフランスのジャン・ポール・サルトルに質問を投げかける様が描かれる。
ジャン・ポール・サルトルは、のちにノーベル文学賞を受賞するも、辞退した硬骨の人物として知られる。
ただ、当代一の碩学であり、時代の矛盾を人一番察していたサルトルに二人に作家が投げかける質問とその答えは、どこか食い違っている感が拭えない。
この点にこそ、東西の矛盾が最も表れているのかもしれない。

「サルトルとの四十分」は、そのサルトルとの会談を振り返った著者にる感想だ。
パリに来るまでソ連を訪れ、その中で左翼陣営の夢見た世界とは程遠い現実を見た著者と、西洋文化を体現するフランスの文化のシンボルでもあるサルトルとの会談は、著者に埋めようもない断絶を感じさせたらしい。
日本から見た共産主義と、フランスから見た共産主義の何が違うのか。
それが西洋人の文化から生まれたかどうかの差なのだろうか。
著者の戸惑いは今の私たちにもわずかに理解できる。

「あとがき」でも著者の戸惑いは続く。
本書に記された著者の見た現実が、時代の流れの速さに着いていけず、過去の出来事になってしまったこと。
その事実に著者は卒直に戸惑いを隠さない。

そうした著者の人物を、解説の重里徹也氏は描く。
「開高がしきりにのめりこんでいくのは、こういう、現実と理想の狭間に生まれる襞のようなものに対してである」(239ページ)

ルポルタージュとは、そうした営みに違いない。

‘2018/11/1-2018/11/2


ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える


若い時には理想主義にふけっていた私。利潤の追求は間違っている、とかたくなに信じていた。人々が利潤を独占せず、広く人々に共有できれば、世の名はもっと良くなる。半ば本気でそんなことを考えていた。

経営者になった今、さすがに利潤を無視するわけにはいかない。それは利潤が利潤を呼び、いつまでも成長することが経済のあり方だから、と無邪気に信じているからではない。有限の資源しかない地球でそんなことは不可能だ。利潤を追い求める営みを認めるのは、私の中に飢えへの恐怖があるからでもない。

今、私は経営者として順調に売り上げを上げ続けている。だが、それは私が健康だからできること。何かの理由で仕事ができなくなったとたん、収入は途絶える。そうなったら飢えの恐怖が私の心身をむしばむに違いない。その恐れは常に心のどこかに居座っている。私の心身に異常が生じた時、どこからともなく助けが得られる。などと虫のいいことは考えていない。よしんば助けが得られたとしても、それは最低限の生活を送るための資金がせいぜいだろう。だから私は、利潤を追い求めるだけが人生ではない、という理想は捨てていないが、経済の論理は無視できないと思っている。

そこで、ベーシック・インカムだ。生きていくのに必要な金額が国から支給される。しかも無条件に。助成金や補助金のような複雑な申請はいらない。ただ、もらえる。魅力でしかない制度だ。

だが、経営者になった今、私はこの制度に無条件に賛成できないでいる。それは、私が経営者になった事で、勤しんだ努力だけ見返りがあるやりがいを知ってしまったからだ。勤め人だった頃のように失敗や逆境を周囲のせいにする必要はない。失敗は全て己のせい。逆に努力や頑張りが見返りとして帰ってくる。全ての因果が明確なのだ。見返りがあるということは人を前向きにする。それは人間に備わった本能からの欲求だ。楽になりたいとか、利潤が欲しいという理由ではなく、自分の生き方を自分で管理できる喜び。

だから、私はベーシック・インカムの思想にある「無条件に」という言葉には引っかかりを感じる。「無条件に」という言葉には、努力や責任が一切無視されている。もちろん、弱い立場の方に対してベーシック・インカムが適用されることは否定しない。私がもし、体を壊して仕事ができなくなった時、ベーシック・インカムから無条件に給付を受けられればどれだけ助かるか。それを考えた時、弱い方へのセーフティとしてのベーシック・インカムは必要だと思う。だが、それでは今の福祉制度と変わらなくなってしまう。

私が抱えるベーシック・インカムへの矛盾した思い。その疑問を解決するには勉強しなければ。本書はそうした動機で手に取った。

本書は全6章からなっている。ベーシック・インカムの理念や仕組みだけでなく、古くから検討されてきたベーシック・インカムの歴史が紹介されている。民主主義の勃興に時期を合わせるようにベーシック・インカムは提唱されてきた。その歴史は意外と古い。今までの人類の歴史で、幾人もの哲学者や経済学者、また、マーティン・ルーサー・キングの様な著名な運動家がベーシック・インカムの考えを提唱してきた。ベーシック・インカムはにわかに現れた概念ではないのだ。私は本書を読むまでベーシック・インカムの長い歴史を全く知らなかった。

第1章 働かざる者、食うべからずー福祉国家の理念と現実

この章ではベーシック・インカムの要諦が語られる。著者はその定義をアイルランド政府がベーシック・インカム白書の中で示した定義から引用する。
・個人に対して、どのような状況におかれているかに関わりなく無条件に給付される。
・ベーシック・インカム給付は課税されず、それ以外の所得は全て課税される。
・給付水準は、尊厳をもって生きること、生活上の真の選択を行使することを保障するものであることが望ましい。その水準は貧困線と同じかそれ以上として表すことができるかもしれないし、「適切な」生活保護基準と同等、あるいは平均賃金の何割、といった表現となるかもしれない。

より詳しい特徴として、本書はさらに同白書の内容から引用する。
(1)現物(サービスやクーポン)ではなく金銭で給付される。それゆえ、いつどのように使うかに制約はない。
(2)人生のある時点で一括で給付されるのではなく、毎月ないし毎週といった定期的な支払いの形をとる。
(3)公的に管理される資源のなかから、国家または他の政治的共同体(地方自治体など)によって支払われる。
(4)世帯や世帯主にではなく、個々人に支払われる。
(5)資力調査なしに支払われる。それゆえ一連の行政管理やそれに掛かる費用、現存する労働へのインセンティブを阻害する要因がなくなる。
(6)稼働能力調査なしに支払われる。それゆえ雇用の柔軟性や個人の選択を最大化し、また社会的に有益でありながら低賃金の仕事に人々がつくインセンティブを高める。

この章では他にもベーシック・インカムのメリットが紹介される。その中で、社会保険や公的扶助の現状もおおまかに紹介される。そうした制度が対象とする貧困層に対し、国家はどう認識し、どう対処してきたのか。それは国が行うべき機能の一つと挙げられている。だが、かつて貧困層とは国から完全に見捨てられた層だった。

貧困層とは、雇用されず、生計が成り立たない人々をさす。国としてみれば完全雇用が達成されれば社会保障は不要。だが、現実にはそうはいかない。しかも日本の場合、生活保護対象世帯のうち、実際に保護を受けているのは二割程度だという。これは捕捉率というそうだが、先進国の中でも日本の捕捉率は際立って低いそうだ。

そもそも生活保護とは、貧困者を選別する制度につながる。他にも公的な社会システムはある。そのうち、生活保護制度だけが対象を選別するそうだ。選別という行為は、為政者にとって避けたい。ならば、誰に対しても等しく適用されるベーシック・インカムの制度のほうが政策にも取り入れやすい。そうした観点を著者は説く。

日本ではそのため、完全雇用に近づけるようなワーク・フェアの施策がとられていると著者は指摘する。完全雇用が達成できれば、民間に福祉を完全に委ねられる。そのような発想だろう。だが、諸外国のワーク・フェアと比べ、日本のワーク・フェアには公の補助が欠けているという。

第2章 家事労働に賃金を!ー女たちのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイタリア、イギリスで繰り広げられたここ数十年のベーシック・インカムの運動をおさらいする。女性がベーシック・インカムを主張する場合、通常の値上げ運動とは性格が異なる。というのも、通常の値上げ運動は失業時や低所得者の救済を主な目的とする。だが、そうした運動には女性の家事労働に視点が向いていない。そもそも女性が家事労働に従事する場合、それ自体に報酬が支払われることはない。一般的な家庭では、夫たる男性が外で稼ぎ、収入を持ち帰る。妻たる女性は、それを受け取り、家庭のために使う。つまり、夫から受け取る金額の中に、家事労働の報酬も暗黙のうちに含まれている。そのような解釈だ。

だが、報酬を暗黙でなく、家事労働それ自体に報酬を与えよ、というのが彼女たちの主張だ。だが、家事労働の労力など測れるはずもない。なので、女性に対するベーシック・インカムを要求するのが、本章で取り上げる運動の趣旨だ。

アメリカでの運動にはマーティン・ルーサー・キング牧師が関わっていた。そこには公民権運動の一環としての性格もあったのだろう。当時、黒人の女性は弱い立場にあった。それを救済するための手段の一つとして検討されたのがベーシック・インカムだった。イタリアではその運動がもう少し趣を変え、家事労働自体が他の賃金労働と等しく労働だ、という主張がなされた。ただ、ここで誤解してはならないのが、主婦業への賃金を求める運動ではなかったということだ。

イギリスでは要求者組合という形をとり、弱者への福祉も含めた運動に広がってゆく。その中で、受給資格をめぐる議論もより深まっていったという。例えばベーシック・インカムを受ける資格がある女性は、一人暮らしなのか、男性と同居しているか、結婚しているか、など。要は生計を男性に援助してもらっているかどうかによって、ベーシック・インカムの受給資格は変動する。

第3章 生きていることは労働だー現代思想のなかのベーシック・インカム

本章では、アメリカやイギリスでは女性によるベーシック・インカムの運動が衰退したが、イタリアでは発展して長く続いた理由を考察する。そこには賃労働の拒否、そして家事労働の拒否、という二重の拒否があった。ベーシック・インカムはその主張の解決策でもあった。それは、労働の価値化をどう捉えるか、という次の考察につながってゆく。労働とは通常、何か基となるものから付加価値を生み出す営みを指す。生み出された付加価値のうち、労賃が労働者に支払われるというのが古典的な経済の考えだ。そして、今までは家事労働には付加価値が発生しないと考えられていた。発生したとしてもそれは家庭内で消費されてしまうと。もし家事労働に付加価値が発生するとすれば、それは夫である労働者が外で付加価値を生み出すための労働であり、子供という次代の労働力を社会に生み出すための労働であり、それ自体に価値を見いだす考えがなかった。

本章では、行きていること自体が労働という観念が紹介される。生きているだけで労働と認められるなら、その労働には賃金が支払わねばならない。それこそがベーシック・インカムという論法だ。その考えは斬新にも思えるし、突飛にも思える。もちろん、その考えが認められれば、ベーシック・インカムの論理はこれ以上なく確かなものだろう。なにしろ、仕事内容や性別、資産に応じた額の増減を考えずに済むからだ。

日本でも青い芝の会という障害者の権利向上を求める集まりがあるそうだ。青い芝の会では、障害者は生きている、すなわち労働だとの考えに基づいているという。著者はそれもベーシック・インカムに近いと考えているようだ。

後に触れるように原資をどうするか、という問題を脇に置くとすれば、私もこうした考えをベーシック・インカムの一つとみなすことに賛成したい。

間奏 「全ての人に本当の自由を」ー哲学者たちのベーシック・インカム

ここでは哲学者たちがベーシック・インカムをどう考えてきたかについて触れられる。ベーシック・インカムは社会主義や無政府主義に比べ、人類にとって適正な制度であるというバートランド・ラッセルの説や、真の自由を人類が得るためには、必要だとするフィリップ・ヴァン=パレイスの考えが紹介される。苦痛からの逃れる意味での自由ではなく、より真の意味での自由。ベーシック・インカムが給付された場合、生存のために働く必要はなくなる。だが、それでも働きたい人が働く自由も保証されるべき。そうした選択の幅が拡充されるのがベーシック・インカムの根本思想だという。

第4章 土地や過去の遺産は誰のものか?ー歴史のなかのベーシック・インカム

ベーシック・インカムの考え方は、社会制度が封建主義から次の民主主義に移ってしばらくしてから生まれた。それは同時に経済制度が資本主義に変わったとみなしても良い。要するに近代の社会制度が生まれ、ベーシック・インカムの考え方も芽生えた。本書はそれらの紹介を順に進めてゆく。現代の資本主義国家では、土地の私有が認められている。だが、資本主義が勃興した当初、土地は共有という考えがまだ支配的だった。つまり誰にでも土地の権利があり、その土地から収入を得られる権利があったということだ。その考えを敷延すると、まさにベーシック・インカムの考え方そのものとなる。無条件で収入を得る権利というベーシック・インカムの考え方が、土地の扱いという観点で資本主義の発生時からあったことを著者は指摘する。

その考えは、経済学の中でも代々受け継がれてきたという。弱者を救済するための社会制度という性格は同じだが、保険や保護を社会が担うのではなく、無条件に給付するベーシック・インカムのほうが、制度として有効だとの考えも一定数で唱えられていたそうだ。それは、社会主義が見事に失敗した今でも変わらない。

著者はここで、経済制度の分析にまで踏み込んでいない。だが、現行の資本主義の制度の中でも、土地が共有である考えは受け継がれていて、ベーシック・インカムの根拠となる考えは有効であるとの立場のようだ。それはもちろん、人は生きているだけで労働だからベーシック・インカムの権利がある、という考えにも照応する。

第5章 人は働かなくなるか?ー経済学のなかのベーシック・インカム

ここが今の私には関心の高い点だ。

今の社会福祉は、労働を前提としている。だが、社会からは明らかに人間が必要な労働量が減ってきている。それは、技術革新の恩恵にあずかるところが大きい。つまり、労働がないのに報酬を払わねばならない未来が近づいている。もしそうなったら、労働を基に付加価値をつける営利組織はたちまち立ちいかなくなる。だからこそ国や団体による報酬の支給が必要というわけだ。こうした課題を経済学者は今までさんざん議論してきた。

本書に紹介されるのは、どちらかというとベーシック・インカムに賛成の立場の論考だ。だから反対の意見はあまり登場しない。それを差し置いても、今の社会制度で福祉を継続するためには、保険や保護に頼るのは困難になりつつある。そのような意見が優勢になりつつあると著者は指摘する。

ただ、本書の全体を通し、説得力のあるベーシック・インカムの財源が登場しない。これは考えものだ。たぶん現実問題として、財源の不足こそがベーシック・インカムが普及しない最大の理由だと思うからだ。私としては、ベーシック・インカムの普及には技術の力が欠かせないと思っている。資本からではなく、技術の力で全く違う資源からベーシック・インカムとして支給する何かを生み出す。それが実現するまで、私はベーシック・インカムの実現は難しいと思う。

もう一つ、日本においてそれほどベーシック・インカムの議論が熱中しないのは、わが国には自治体による道路、水道、ガス、電気といったインフラが整備されているからだ。現時点で民営化されているとはいえ、こうしたインフラはもともと国家による国民へのサービスだった。だから現状で十分なサービスを享受できているわが国民にさらにベーシック・インカムの恩恵を施す必要はあるのか、という疑問が生じる。

インフラも整っておらず、実際に生活を送るには収入が欠かせない国の場合、ベーシック・インカムの必要性はある。ただ、生活必需品をそれほど労せずに享受できるわが国では、ベーシック・インカムの普及についての議論が深まらない。もちろん、より多様性のあるサービスを受けられる選択の幅があっても良いと思う。だからこそサービスではなく財で等しく受給できるベーシック・インカムは、国民がサービスを自由に選ぶために必要なのかもしれない。原資の安定供給を技術の進化に頼らねばならない現状は変わらないにせよ。

今、年金制度の崩壊が叫ばれている。年金は、その支給の資金を原資をもとに投資した利子でまかない、支給額を安定確保するために努力していると聞く。つまり、既存の旧来の拡大成長を前提とした経済論理に年金制度は完全に組み込まれている。有限の地球に無限の拡大成長は考えにくいとすれば、それをベースに考えられた福祉にどれほどの期待が持てるのだろう。

もちろん、福祉サービスとベーシック・インカムは別ということは理解している。ただ、本章でも提示されているように、何らかの社会的な貢献活動の代償は制度として設けられているべきだと思う。つまり、働いてこそ代償は受け取れる、という考えだ。

第6章 〈南〉・〈緑〉・プレカリティーベーシック・インカム運動の現在

だからこそ、本章で取り上げられる現在のベーシック・インカムを分析する視野が必要だと思う。章のタイトルにある<南>とは既存の資本主義の熟練国ではなく、新興の国々を指す。要はいまだ発展途上にある国々の事だ。<緑>というのは緑の党のような、持続が可能な社会を目指す人々を言う。

ここで著者はエーリッヒ・フロムを登場させる。フロムもまたベーシック・インカムの提唱者だったそうだ。彼は著書『自由からの逃走』で著名だ。その中で彼が唱えたのは自由を持て余した人々がナチスを生んだという理論だ。だが、それとは別に、ベーシック・インカムこそが人々をより自由にするとの考えも持っていたらしい。そして、彼は財ではなく生活必需品の提供でならばベーシック・インカムが成り立つのではないか、と考えていたそうだ。上にも書いたとおり、私はすでに物資が充実している日本では、生活必需品の提供というベーシック・インカムは成り立たないと思う。著者も同じ考えをもっているようだ。

プレカリティという言葉の意味は本章には出てこない。調べたところ、不安定とか予測できないという意味のようだ。第二章で登場した各国のベーシック・インカム運動のその後が本章では紹介される。どうすれば人々がひとしく恩恵を受けられるのか。それはかつての私がまさに目指そうとした社会でもある。そのような社会の実現が経営者としての立場では難しいことも理解している。まさに今の経済制度では現実は不安定で将来は予測できない。だが、これからも理想の実現に向けた努力は注視していきたいと思っている。

本書は各章ごとにまとめが設けられたり、巻末でもあらためてベーシック・インカムのQ&Aの場が設けられたり、各章のあとにはコラムが設けられたり、なるべく読者への理解を進めるような工夫がちりばめられている。何が人類にとって最適な福祉なのか、本書は一つの参考資料となるはずだ。私も自分の理想がどこにあるのか、さらなる勉強を重ねたいと思う。

‘2018/10/17-2018/10/23


カエルの楽園


40も半ばになって、いまだに理想主義な部分をひきずっている私。そんな私が、SEALD’sや反安倍首相の運動を繰り広げる左派の人々に共感できない理由。それは現実からあまりに遊離した彼らの主張にある。それは、私が大人になり、社会にもまれる中で理想はただ掲げていても何の効力も発揮しないことを知ったからだろう。現実を懸命に生きようと努力している時、見えてくるのは理想の脆さ、そして現実の強靭な強さだ。現実を前にすると、人とは理想だけで動かないことをいやが応にも思い知る。契約をきちんと締結しておかないと、商売相手に裏切られ、損を見てしまう現実。

そもそも、人が生きていくには人間に備わっている欲望を認め、それを清濁併せのむように受け入れる必要がある。私はそうした現実の手強さをこれまでの40数年の人生で思い知らされてきた。

人は思いのほか弱い。一度、自分の思想を宣言してしまうとその過ちを認めづらくなる。右派も左派もそれはおなじ。だから、論壇で非難の応酬がされているのを見るにつけ、どっちもどっちだと思う。

そんな論壇で生き残るには、論者自身がキャラを確立させなければならない。そして自らが確立したキャラに自らが縛られる。そのことに無自覚な人もいれば、あえて自らが確立したキャラに引きずられることも厭わず自覚する人もいる。後者の方の場合、自らのキャラクターの属性として、主張を愚直に繰り返す。

私にとって右だ左だと極論を主張している論者からはそんな感じを受ける。だから私は引いてしまう。そして、簡単に引いてしまうので論壇で生き残れないだろう。柔軟すぎるのは論壇において弱点なのだと思う。そんなシビアな論壇で生き残るには、硬直したキャラ設定のもとで愚直に振舞うか、右や左にとらわれない高い視野から全てを望み、それでいてミクロのレベルでも知識を備える知性が必要だ。私は、右派と左派の喧々諤々とした論争には、いつまでたっても終わりがこないだろう、と半ばあきらめていた。

ところが、本書が登場した。本書はひょっとすると右だ左だの論争に対する一つの答えとなるかもしれない。いや、左派の人々は、本書をそもそも読まないから、本書に込められた痛烈な皮肉を目にすることはないだろう。何しろ著者は右派の論客として名をあげている。そんな本を読むことはないのかもしれない。

私は著者の本を何度か当ブログでも取り上げた。著者の本を読む度に思うことがある。それは、著者はマスコミで発言するほどには、イデオロギーの色が濃くないのではないか、ということだ。少なくとも著作の上では。国粋思想に凝り固まった右向け右の書籍や、革命やブルジョアジーや反乱分子といった古臭い言葉が乱発される左巻き書籍と比べると、著者の作品は一線を画している。それは著者が放送作家として公共の電波に乗る番組を作ってきたことで培われた作家のスキルなのだろう。要するに読みやすい。右だ左だといったイデオロギーの色が薄いのだ。

本書の価値は、著者が作家としてのスキルを発揮し、童話の形でイデオロギーを書いたことにある。いわば、現代版の『動物農場』と言ったところか。本書に登場する個々のカエルや出来事のモデルとなった対象を見つけるのは簡単だ。本書のあちこちにヒントは提示されている。対象とは日本であり、中国であり、北朝鮮であり、韓国だ。在日朝鮮人もいれば、アメリカもいる。著者自身も登場するし、左翼文化人も登場する。自衛隊も出てくるし、尖閣や竹島と思われる場所も登場する。非核三原則や朝日新聞、日本国憲法九条すら本書には登場する。

カエルの暮らしをモデルとし、それを現実の国際政治を思わせるように仕立てる。それだけで著者は日本の置かれた状況や、日本の中で現実を見ずに理想を追い、自滅へ向かう人々を痛烈に皮肉ることに成功している。物事を単純化し、寓話として描くこと。それによって物事の本質をより一層クリアに、そして鮮明に浮かび上がらせる。著者の狙いは寓話化することによって、左派の人々の主張がどのように現実から離れ、それがなぜ危険なのかを雄弁に語っている。

これは、まさにユニークな書である。収拾のつきそうにない右と左の論争に対する、右からの効果的な一撃だ。戦後の日本を束縛してきた平和主義。戦争放棄を日本国憲法がうたったことにより、成し遂げられた平和。だが、それが通用したのは僅かな期間にすぎない。第二次大戦で戦場となり疲弊した中華人民共和国と韓国と北朝鮮。ところが高度経済成長を謳歌した日本のバブルがはじけ、長期間の不況に沈んでいる間に状況は変わった。

中国は社会主義の建前の裏で経済成長を果たした。そしていまや領土拡張の野心を隠そうともしない。韓国と北朝鮮も半島の統一の意志を捨てず、過去の戦争犯罪を持ち出しては日本を踏み台にしようともくろんでいる。世界の警察であり続けることに疲れたアメリカは、少しずつ、かつてのモンロー主義のような内向きの外交策にこもろうと機会をうかがっている。つまり、どう考えても今の国際関係は70年前のそれとは変わっている。

それを著者はアマガエルのソクラテスとロベルトの視点から見たカエルの国として描く。敵のカエルに襲われる日々から脱出するため、長い旅に出たカエルたち。ナパージュに着いた時、たくさんのカエルは、ソクラテスとロベルトの二匹だけになっていた。ナパージュはツチガエルたちの国。そして高い崖の上にあり、外敵がいない。だからツチガエルたちは外敵に襲われることなど絶対にないと信じている。なぜ信じているのか。それは発言者であるデイブレイクが集会でツチガエルたちにくどいほど説いているからだ。さらにデイブレイクは、三戒を説く。三戒があるからこそ私たちツチガエルは平和に暮らせているのだと。三戒がなければツチガエルたちは昔犯した過ちを繰り返してしまうだろうと。ツチガエルは本来は悪の存在であって、三戒があるから平和でいられるのだ。と。

カエルを信じろ
カエルと争うな
争うための力を持つな

三戒が繰り返し唱えられる。それを冷ややかに見る嫌われ者のハンドレッド。そしてかつて三戒を作り、ツチガエルたちに教えたという巨大なワシのスチームボート。ツチガエルによく似た姿かたちだが、ヌマガエルという別の種族のピエール。デイブレイクからは忌み嫌われているが、実は実力者のハンニバルとその弟ワグルラとゴヤスレイ。ナパージュを統治する元老院には三戒に縛られる議員もいれば、プロメテウスのように改革を叫ぶ議員もいる。一方で、子育てのような苦しいことがいやで楽しくいきたいと願うローラのようなメスガエルも。

そんなツチガエルの国ナパージュを、南の沼からウシガエルが伺う。ウシガエルの集団が少しずつナパージュの領土を侵そうとする。元老院は紛糾する。デイブレイクはウシガエルに侵略の意図はなく、反撃してはならないと叫ぶ。あげくにはウシガエルを撃退したワグルラを処刑し、ハンニバルたち兄弟を無力化する。スチームボートはいずこへか去ってしまい、ウシガエルたちに対抗する力はナパージュにはない。ウシガエルたちが侵略の範囲を広げつつある中、議論に明け暮れる元老院。全ツチガエルの投票を行い、投票で決をとるツチガエルたち。ナパージュはどうなってしまうのか。

上に書いた粗筋の中で誰が何を表わしているかおわかりだろうか。この名前の由来がどこから来ているのかにも興味が尽きない。ハンドレッド、などは明らかに著者を指していてわかりやすい。デイブレイクが朝日というのも一目瞭然だ。スチームボートはアメリカ文化の象徴、ミッキーマウスからきているのだろう。だが、ハンニバルとワグルラとゴヤスレイが自衛隊の何を表わしてそのような名前にしたのかがわからなかった。ほかにも私が分からなかった名前がいくつか。

そうしたわかりやすい比喩は、本書の寓話を損なわない。そして、本書の結末はここには書かない。ナパージュがどうなったのか。著者は本書で何を訴えようとしているのか。

私の中の理想主義が訴える。相手を信じなくては何も始まらないと。私の中の現実主義が危ぶむ。備えは必要だと。そして現実では、日韓の関係が壊れかけている。まだまだ東アジアには風雲が起こるだろう。理想主義者ははたして、どういう寓話で本書に応えるのか。

‘2018/08/21-2018/08/21


日本の難点


社会学とは、なかなか歯ごたえのある学問。「大人のための社会科」(レビュー)を読んでそう思った。社会学とは、実は他の学問とも密接につながるばかりか、それらを橋渡す学問でもある。

さらに言うと、社会学とは、これからの不透明な社会を解き明かせる学問ではないか。この複雑な社会は、もはや学問の枠を設けていては解き明かせない。そんな気にもなってくる。

そう思った私が次に手を出したのが本書。著者はずいぶん前から著名な論客だ。私がかつてSPAを毎週購読していた時も連載を拝見していた。本書は、著者にとって初の新書書き下ろしの一冊だという。日本の論点をもじって「日本の難点」。スパイスの効いたタイトルだが、中身も刺激的だった。

「どんな社会も「底が抜けて」いること」が本書のキーワードだ。「はじめに」で何度も強調されるこの言葉。底とはつまり、私たちの生きる社会を下支えする基盤のこと。例えば文化だったり、法制度だったり、宗教だったり。そうした私たちの判断の基準となる軸がないことに、学者ではない一般人が気づいてしまった時代が現代だと著者は言う。

私のような高度経済成長の終わりに生まれた者は、少年期から青年期に至るまで、底が何かを自覚せずに生きて来られた。ところが大人になってからは生活の必要に迫られる。そして、何かの制度に頼らずにはいられない。例えばビジネスに携わっていれば経済制度を底に見立て、頼る。訪日外国人から日本の良さを教えられれば、日本的な曖昧な文化を底とみなし、頼る。それに頼り、それを守らねばと決意する。行きすぎて突っ走ればネトウヨになるし、逆に振り切れて全てを否定すればアナーキストになる。

「第一章 人間関係はどうなるのか コミュニケーション論・メディア論」で著者は人の関係が平板となり、短絡になった事を指摘する。つまりは生きるのが楽になったということだ。経済の成長や技術の進化は、誰もが労せずに快楽も得られ、人との関係をやり過ごす手段を与えた。本章はまさに著者の主なフィールドであるはずが、あまり深く踏み込んでいない。多分、他の著作で論じ尽くしたからだろうか。

私としては諸外国の、しかも底の抜けていない社会では人と人との関係がどのようなものかに興味がある。もしそうした社会があるとすればだが。部族の掟が生活全般を支配するような社会であれば、底が抜けていない、と言えるのだろうか。

「第二章 教育をどうするのか 若者論・教育論」は、著者の教育論が垣間見えて興味深い。よく年齢を重ねると、教育を語るようになる、という。だが祖父が教育学者だった私にしてみれば、教育を語らずして国の未来はないと思う。著者も大学教授の立場から学生の質の低下を語る。それだけでなく、子を持つ親の立場で胎教も語る。どれも説得力がある。とても参考になる。

例えばいじめをなくすには、著者は方法論を否定する。そして、形のない「感染」こそが処方箋と指摘する。「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」させること。昔ながらの子供の世界が解体されたいま、子供の世界に感染させられる機会も方法も失われた。人が人に感染するためには、「本気」が必要だと著者は強調する。そして感染の機会は大人が「本気」で語り、それを子供が「本気」で聞く機会を作ってやらねばならぬ、と著者は説く。至極、まっとうな意見だと思う。

そして、「本気」で話し、「本気」で聞く関係が薄れてきた背景に社会の底が抜けた事と、それに皆が気づいてしまったことを挙げる。著者がとらえるインターネットの問題とは「オフラインとオンラインとにコミュニケーションが二重化することによる疑心暗鬼」ということだが、私も匿名文化については以前から問題だと思っている。そして、ずいぶん前から実名での発信に変えた。実名で発信しない限り、責任は伴わないし、本気と受け取られない。だから著者の言うことはよくわかる。そして著者は学校の問題にも切り込む。モンスター・ペアレントの問題もそう。先生が生徒を「感染」させる場でなければ、学校の抱える諸問題は解決されないという。そして邪魔されずに感染させられる環境が世の中から薄れていることが問題だと主張する。

もうひとつ、ゆとり教育の推進が失敗に終わった理由も著者は語る。また、胎教から子育てにいたる親の気構えも。子育てを終えようとしている今、その当時に著者の説に触れて起きたかったと思う。この章で著者の語ることに私はほぼ同意する。そして、著者の教育論が世にもっと広まれば良いのにと思う。そして、著者のいう事を鵜呑みにするのではなく、著者の意見をベースに、人々は考えなければならないと思う。私を含めて。

「第三章 「幸福」とは、どういうことなのか 幸福論」は、より深い内容が語られる。「「何が人にとっての幸せなのか」についての回答と、社会システムの存続とが、ちゃんと両立するように、人々の感情や感覚の幅を、社会システムが制御していかなければならない。」(111P)。その上で著者は社会設計は都度更新され続けなければならないと主張する。常に現実は設計を超えていくのだから。

著者はここで諸国のさまざまな例を引っ張る。普通の生活を送る私たちは、視野も行動範囲も狭い。だから経験も乏しい。そこをベースに幸福や人生を考えても、結論の広がりは限られる。著者は現代とは相対主義の限界が訪れた時代だともいう。つまり、相対化する対象が多すぎるため、普通の生活に埋没しているとまずついていけないということなのだろう。もはや、幸福の基準すら曖昧になってしまったのが、底の抜けた現代ということだろう。その基準が社会システムを設計すべき担当者にも見えなくなっているのが「日本の難点」ということなのだろう。

ただし、基準は見えにくくなっても手がかりはある。著者は日本の自殺率の高い地域が、かつてフィールドワークで調べた援助交際が横行する地域に共通していることに整合性を読み取る。それは工場の城下町。経済の停滞が地域の絆を弱めたというのだ。金の切れ目は縁の切れ目という残酷な結論。そして価値の多様化を認めない視野の狭い人が個人の価値観を社会に押し付けてしまう問題。この二つが著者の主張する手がかりだと受け止めた。

「第四章 アメリカはどうなっているのか 米国論」は、アメリカのオバマ大統領の誕生という事実の分析から、日本との政治制度の違いにまで筆を及ぼす。本章で取り上げられるのは、どちらかといえば政治論だ。ここで特に興味深かったのは、大統領選がアメリカにとって南北戦争の「分断」と「再統合」の模擬再演だという指摘だ。私はかつてニューズウィークを毎週必ず買っていて、大統領選の特集も読んでいた。だが、こうした視点は目にした覚えがない。私の当時の理解が浅かったからだろうが、本章で読んで、アメリカは政治家のイメージ戦略が重視される理由に得心した。大統領選とはつまり儀式。そしてそれを勝ち抜くためにも政治家の資質がアメリカでは重視されるということ。そこには日本とは比べものにならぬほど厳しい競争があることも著者は書く。アメリカが古い伝統から解き放たれた新大陸の国であること。だからこそ、選挙による信任手続きが求められる。著者のアメリカの分析は、とても参考になる。私には新鮮に映った。

さらに著者は、日本の対米関係が追従であるべきかと問う。著者の意見は「米国を敵に回す必要はもとよりないが『重武装×対米中立』を 目指せ」(179P)である。私が前々から思っていた考えにも合致する。『軽武装×対米依存』から『重武装×対米中立』への移行。そこに日本の外交の未来が開けているのだと。

著者はそこから日本の政治制度が陥ってしまった袋小路の原因を解き明かしに行く。それによると、アメリカは民意の反映が行政(大統領選)と立法(連邦議員選)の並行で行われる。日本の場合、首相(行政の長)の選挙は議員が行うため民意が間接的にしか反映されない。つまり直列。それでいて、日本の場合は官僚(行政)の意志が立法に反映されてしまうようになった。そのため、ますます民意が反映されづらい。この下りを読んでいて、そういえばアメリカ連邦議員の選挙についてはよく理解できていないことに気づいた。本書にはその部分が自明のように書かれていたので慌ててサイトで調べた次第だ。

アメリカといえば、良くも悪くも日本の資本主義の見本だ。実際は日本には導入される中で変質はしてしまったものの、昨今のアメリカで起きた金融システムに関わる不祥事が日本の将来の金融システムのあり方に影響を与えない、とは考えにくい。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎に罹るという事態をくりかえさないためにも。

「第五章 日本をどうするのか 日本論」は、本書のまとめだ。今の日本には課題が積みあがっている。後期高齢者医療制度の問題、裁判員制度、環境問題、日本企業の地位喪失、若者の大量殺傷沙汰。それらに著者はメスを入れていく。どれもが、社会の底が抜け、どこに正統性を求めればよいかわからず右往左往しているというのが著者の診断だ。それらに共通するのはポピュリズムの問題だ。情報があまりにも多く、相対化できる価値観の基準が定められない。だから絶対多数の意見のように勘違いしやすい声の大きな意見に流されてゆく。おそらく私も多かれ少なかれ流されているはず。それはもはや民主主義とはなにか、という疑いが頭をもたげる段階にあるのだという。

著者はここであらためて社会学とは何か、を語る。「「みんなという想像」と「価値コミットメント」についての学問。それが社会学だと」(254P)。そしてここで意外なことに柳田国男が登場する。著者がいうには 「みんなという想像」と「価値コミットメント」 は柳田国男がすでに先行して提唱していたのだと。いまでも私は柳田国男の著作をたまに読むし、数年前は神奈川県立文学館で催されていた柳田国男展を観、その後柳田国男の故郷福崎にも訪れた。だからこそ意外でもあったし、ここまでの本書で著者が論じてきた説が、私にとってとても納得できた理由がわかった気がする。それは地に足がついていることだ。言い換えると日本の国土そのものに根ざした論ということ。著者はこう書く。「我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再帰的な再構築だけなのです」(260P)。

ここにきて、それまで著者の作品を読んだことがなく、なんとなくラディカルな左寄りの言論人だと思っていた私の考えは覆された。実は著者こそ日本の伝統を守らんとしている人ではないか、と。先に本書の教育論についても触れたが、著者の教育に関する主張はどれも真っ当でうなづけるものばかり。

そこが理解できると、続いて取り上げられる農協がダメにした日本の農業や、沖縄に関する問題も、主張の核を成すのが「反対することだけ」のようなあまり賛同のしにくい反対運動からも著者が一線も二線も下がった立場なのが理解できる。

それら全てを解消する道筋とは「本当にスゴイ奴に利己的な輩はいない」(280P)と断ずる著者の言葉しかない。それに引き換え私は利他を貫けているのだろうか。そう思うと赤面するしかない。あらゆる意味で精進しなければ。

‘2018/02/06-2018/02/13


夜になるまえに―ある亡命者の回想


私が本ブログでアップした『夜明け前のセレスティーノ』は、奇をてらった文章表現が頻出する小説だった。その表現は自由かつ奔放で、主人公とセレスティーノの間に漂う同性愛の気配も印象に残る一冊だった。(レビュー

本書は『夜明け前のセレスティーノ』の著者の自伝だ。本書の冒頭は「初めに/終わりに」が収められている。ともに著者自身による遺書のようなものだ。ニューヨークで本書を著した一九九〇年八月の時点の。著者はエイズに感染したことで自ら死を選んだ。自ら世を去るにあたり、著者が生涯を振り返ったのが本書だ。エイズが猖獗を極めるさなかでもあり、著者の心には諦観が漂う。エイズに罹ったことについても。著者の筆致は平らかだ。ただし、著者が生涯を通じて抱き続けた疎外感と怒りは消えない。「どんな体制であれその体制における権力者たちはエイズに大いに感謝しなくてはならない。なぜなら、生きるためにしか呼吸しない、だからこそ、あらゆる教条や政治的偽善に反対する疎外された住民の大部分はこの災いで姿を消すことになるのだから」(16-17P)

そして著者の自殺をもって本書は幕を閉じる。まだ著者がキューバから亡命する前から書き始められていたという本書は、著者の生きざまそのものであった。「初めに/終わりに」の筆をおいた時点で著者は速やかにに死へと向かう。「初めに/終わりに」で著者は自らの文学的業績についても振り返っている。五部作と位置付けた作品群が完結できぬまま、死ぬ自分を歎き、カストロ政権を民衆が倒してくれることを祈りつつ。

「仕事を仕上げるのにあと三年生きていないといけないんだ。ほぼ全人類に対するぼくの復讐となる作品を終えるのに」(17P)。五部作は完結に至らなかったが、本書が著者による人類への復讐であることは明らかだ。その刃はホモ・セクシャルを決して許容しなかった人類に対して向けられている。

本書はホモの営みを赤裸々に描いている。先に、『夜明け前のセレスティーノ』には同性愛の気配が漂うと書いた。本書は漂うどころではない。全編にモウモウと満ちている。著者がホモ・セクシャルへと目覚めた瞬間から、ホモのセックス事情に至るまで。その内容は本稿に引用するのもはばかられるほどだ。その発展家の様子はすさまじいの一言につきる。なにせ初体験が8歳だというのだから。そして「エロティシズム」と題された144p~169pまでの章。ここでは出会いと交渉、そして性行為に至るまで、ありとあらゆるホモの性愛のシチュエーションが描かれる。

著者が育ったのはカストロ政権下のキューバ。共産主義と言えば統制経済なので、国民に対して建前を強いる傾向にある。そして建前の国にあって同性愛などあってはならないことなのだ。だが、本書で書かれるキューバ革命前後までのホモの性愛事情はあけすけだ。それこそ何千人斬りという人数もウソではないと思えるほどに。「六〇年代ほどキューバでセックスが盛んだった時代はないと思う。」(157P)。と「エロティシズム」の章で振り返っている。そして返す刀で著者は何がキューバをそうさせたのかについても冷静に分析する。「何がキューバの性的抑圧を押し進めたのかといえば、まさしく性解放運動だったのじゃないだろうか。たぶん体制に対する抗議として、同性愛はしだいに大胆に広がっていったのだろう。一方、独裁は悪と考えられていたので、独裁が糾弾するものはどんなものであれば肯定的なものであると、体制に従わない人たちはみなしていた。六〇年代にはすでに大半の人がそんな姿勢だった。率直に言って、同性愛者用の強制収容所や、その気があるかのように装ってホモを見つけ逮捕する若い警官たちは、結果として、同性愛を活発化したにすぎないと思う」(159P)という辛辣な分析まで出てくる。

著者とて、キューバ革命が進行する時点では反カストロだったわけではない。キューバ革命の成功がすなわち、著者をはじめとしたホモ・セクシャルの迫害に直結ではないからだ。そもそも著者はキューバ革命においてカストロ軍の反乱軍と行動をともにしていた。むしろ、腐敗したバティスタ政権を倒そうとする意志においてカストロに協調していたともいえる。著者がキューバ政府ににらまれた原因は著者の作品、たとえば『夜明け前のセレスティーノ』が海外で出版されたことによる。それが評判になったことと、その内容が反政府だと曲解されたことで当局ににらまれる。だからもともとはホモ・セクシャルが原因ではなかったようだ。が、キューバが対外的に孤立を深め、統制を強め、建前を強化する中で、ホモ・セクシャルが迫害の対象になったというのが実情のようだ。そして、著者の周辺には迫害の気配がじわじわと濃厚になる。

カストロ政権はもともと共産主義を国是にしていていなかった。革命によって倒したバティスタ政権が親米だった流れで、反米から反資本主義、そして共産主義に変容していったと聞く。つまり後付けの共産主義だ。キューバが孤立を深めていくに従い、後付けされた建前が幅を利かせるようになったのだろう。

なので、本書の描写が剣呑な雰囲気を帯びるのは、1967年以降のこととなる。そこからはホモ・セクシャル同士の出会いは人目を忍んで行われるようになる。大っぴらで開放的なセックスは描かれなくなる。ところが、海外で出版した著者の作品が著者の首を絞める。小説が当局ににらまれたため、人目を忍んで原稿を書き、書いた原稿の隠し場所に苦労する。『ふたたび、海』の原稿は二度ほど紛失や処分の憂き目にあい、三度、書き直す羽目になったとか。投獄された屈辱の経験が描かれ、アメリカに亡命しようとグアンタナモ海軍基地に潜入しようとするあがきが描かれる。キューバから脱出しようとする著者の必死の努力は報われないまま10数年が過ぎてゆく。

本書の描写には正直言うと切迫感が感じられない。なので著者がグアンタナモ基地周辺で銃撃された恐怖感、原稿の隠し場所を探しまわる危機感、亡命への努力をする切迫感が、どこまでスリリングだったかは伝わってこないのだ。それは多分、私がキューバを知らないからだと思う。そのかわり、著者が独房で絶望に打ちひしがれる描写からは悲壮な気配がひしひしと伝わってくる。中でも著者がキューバ国家保安局のビジャ・マリスタで強いられた告白のくだりは悲惨だ。著者は「ビジャ・マリスタ」の章の末尾を以下のような文章で締めくくる。
「いまや、ひとり悲惨な状況にあった。誰もその独房にいるぼくの不幸を見ることができなかった。最悪なのは、自分自身を裏切り、ほとんどみんなから裏切られたあと、それでもなお生きつづけていることだった」(278P)

著者の悲惨さより一層、本書の底に流れているテーマ。それは、権力や体制に楯突くことの難しさだ。権力にすりよる文化人やスパイと化した友人たちのいかに多いことか。生涯で著者はいったい何人の友人に裏切られたことだろうか。何人の人々が権力側に取り込まれていったのか。著者の何人もの友人が密告者となり果てたことを、著者はあきらめにも似た絶望として何度もつづる。

本書で著者が攻撃するのは、裏切者だけではない。そこには文化人も含まれる。ラテンアメリカ文学史を語る上で欠かせないアレホ・カルペンティエールとカストロの友人として知られるガブリエル・ガルシア=マルケスに対する著者の舌鋒は鋭い。日本に住む私からみると、両名はラテンアメリカ文学の巨人として二人は崇めるべき存在だ。それだけに、キューバから亡命した著者の視点は新鮮だ。あのフリオ・コルタサルですら、著者の手にかかればカストロのダミー(359P)にまで堕とされているのだから。著者はラテンアメリカ文学の巨匠としてボルヘスを崇めている。そして、ボルヘスがとうとうノーベル文学賞の栄誉を得られなかったのに、ガルシア=マルケスが受賞したことを著者は嘆く。
「ボルヘスは今世紀の最も重要なラテンアメリカ作家の一人である。たぶんいちばん重要な作家である。だが、ノーベル賞はフォークナーの模倣、カストロの個人的な友人、生まれながらの日和見主義者であるガブリエル・ガルシア=マルケスに与えられた。その作品はいくつか美点がないわけではないが、安物の人民主義が浸透しており、忘却の内に死んだり軽視されたりしてきた偉大な作家たちの高みには達していない」(389-390P)

著者が亡命に成功したいきさつも、本書にはつぶさに描かれている。それによると、キューバ国民によるデモの高まりに危機感を覚えたカストロは、国から反分子を追放することで自体を収拾しようとする。著者は自らをホモと宣言することによって、堂々と反分子として出国した。そこにスリリングな密航はない。キューバからみれば著者は反分子であり、敗残者であり、追放者なのだ。著者は平穏な中に出国する。ただ、その代償として、著者は自らの意に反した告白文を書かされ、そればかりか、名誉ある出国すら許されなかったが。

そうした亡命を余儀なくされた著者の魂がニューヨークで落ち着けるはずがない。ニューヨークを著者は「何年かこの国で暮らしてみて、ここは魂のない国であることが分かった。すべてが金次第なのだから。」(401P)

著者が友人たちに残した手紙。その内容が公表されることを望んで著者は本当に筆をおく。「キューバは自由になる。ぼくはもう自由だ。」(413P)

「全人類に対するぼくの復讐」(17P)を望まねばならないほど絶望の淵に立つ著者が自由になるには、もはや死という選択しか残されていなかったのだろう。

ホモというマイノリティに生まれついてしまった著者。著者が現代のLGBTへの理解が進みつつある状況はどう思うのだろう。おそらく、まだ物足りない思いに駆られるのではないか。そもそも著者の間接的な死因であるエイズ自体への危機感がうせている昨今だ。私にとって、エイズとはクイーンのフレディ・マーキュリーの死にしか直結していない。フレディー・マーキュリーがエイズに感染している事を告白し、その翌日に亡くなったニュースは、当時の私に衝撃を与えた。フレディ・マーキュリーの死は著者側亡くなった11カ月後だ。

私が性欲を向ける対象は女性であり、著者のようなホモ・セクシャルの性愛は、正直言って頭でも理解できていない。それは認めねばならない。偏見は抱いていないつもりだが、ホモ・セクシャルの方への共感にすらたどり着けていないのだ。著者が本書で書きたかったことは、偏見からの自由のはずだ。だが、私にとってそこへつながる道は遥か彼方まで続いており、ゴールは見えない。

著者が自由になると願ったキューバは、著者がなくなって四半世紀が過ぎた今もまだ開かれた状況への中途にある。それはカストロの死去やオバマ米大統領による対キューバ敵視政策の見直しを含めてもなお。

そのためにも、本書は読み継がれなければ、と思わせる。そして、赤裸々なホモ・セクシュアルの性愛が描かれている本書は、LGBTの言葉が広まりつつある今だからこそ読まれるべきなのだろう。

‘2018/01/01-2018/01/09


消えた少年たち<下>


上巻のレビューで本書はSFではないと書いたた。では本書はどういう小説なのか。それは一言では言えない。それほどに本書にはさまざまな要素が複雑に積み重ねられている。しかもそれぞれが深い。あえて言うなら本書はノンジャンルの小説だ。

フレッチャー家の日々が事細かに書かれていることで、本書は1980年代のアメリカを描いた大河小説と読むこともできる。家族の絆が色濃く描かれているから、ハートウォーミングな人情小説と呼ぶこともできる。ゲーム業界やコンピューター業界で自らの信ずる道を進もうと努力するステップの姿に焦点を合わせればビジネス小説として楽しむことだってできる。そして、本書はサスペンス・ミステリー小説と読むこともできる。おそらくどれも正解だ。なぜなら本書はどの要素をも含んでいるから。

サスペンスの要素もそう。上巻の冒頭で犯罪者と思しき男の独白がプロローグとして登場する。その時点で、ほとんどの読者は本書をサスペンス、またはミステリー小説だと受け取ることだろう。その後に描かれるフレッチャー家の日常や家族の絆にどれほどほだされようとも、冒頭に登場する怪しげな男の独白は読者に強烈な印象を残すはず。

そして上巻ではあまり取り上げられなかった子供の連続失踪事件が下巻ではフレッチャー家の話題に上る。その不気味な兆しは、ステップがゲームデザイナーとしての再起の足掛かりをつかもうとする合間に、ディアンヌが隣人のジェニーと交流を結ぶのと並行して、スティーヴィーが学校での生活に苦痛を感じる隙間に、スティーヴィ―が他の人には見えない友人と遊ぶ頻度が高くなるのと時期を合わせ、徐々に見えない霧となって生活に侵食してゆく。

上巻でもそうだが、フレッチャー夫妻には好感が持てる。その奮闘ぶりには感動すら覚える。愛情も交わしつつ、いさかいもする。相手の気持ちを思いやることもあれば、互いが意固地になることもある。そして、家族のために努力をいとわずに仕事をしながら自らの目指す道を信じて進む。フレッチャー夫妻に感じられるのは物語の中の登場人物と思えないリアルさだ。夫妻の会話がとても練り上げられているからこそ、読者は本書に、そしてフレッチャー家に感情移入できる。本書が心温まるストーリーとして成功できている理由もここにあると思う。

私は本書ほど夫婦の会話を徹底的に書いた小説をあまり知らない。会話量が多いだけではない。夫婦のどちらの側の立場にも平等に立っている。フレッチャー夫妻はお互いが考えの基盤を持っている。ディアンヌは神を信じる立場から人はこう生きるべきという考え。ステップは神の教えも敬い、コミュニティにも意義を感じているが、何よりも自らが人生で達成すべき目標が自分自身の中にあることを信じている。そして夫妻に共通しているのは、その生き方を正しいと信じ、それを貫くためには家族が欠かせないとの考えに立っていることだ。

この二つの生き方と考え方はおおかたの日本人になじみの薄いものだ。組織よりも個人を前に据える生き方と、信仰に積極的に携わり神を常に意識しながらの生き方。それは集団の規律を重んじ、宗教を文化や哲学的に受け止めるくせの強い日本人にはピンとこないと思う。少なくとも私にはそうだった。今でこそ組織に属することを潔しとせず個人の生き方を追求しているが、20代の頃の私は組織の中で生きることが当たり前との意識が強かった。

本書の底に流れる人生観は、日本人には違和感を与えることだろう。だからこそ私は本書に対して傑作であることには同意しても、解釈することがなかなかできなかった。多分その思いは日本人の多くに共通すると思う。だからこそ本書は読む価値がある。これが学術的な比較文化論であれば、はなから違う国を取り上げた内容と一歩引いた目線で読み手は読んでいたはず。ところが本書は小説だ。しかも要のコミュニケーションの部分がしっかりと書かれている。ニュースに出るような有名人の演ずるアメリカではなく、一般的な人々が描かれている本書を読み、読者は違和感を感じながらも感情を移入できるのだ。本書から読者が得るものはとても多いはず。

下巻が中盤を過ぎても、本書が何のジャンルに属するのか、おそらく読者には判然としないはずだ。そして著者もおそらく本書のジャンルを特定されることは望んでいないはず。自らがSF作家として認知されているからといって本書をSFの中に区分けされる事は特に嫌がるのではないか。

本書がなぜSFのジャンルに収められているのか。それはSFが未知を読者に提供するジャンルだから。未知とは本書に描かれる文化や人生観が、実感の部分で未知だから。だから本書はSFのジャンルに登録された。私はそう思う。早川文庫はミステリとSFしかなく、著者がSF作家として名高いために、安直に本書をSF文庫に収めたとは思いたくない。

本書の結末は、読者を惑わせ、そして感動させる。著者の仕掛けは周到に周到を重ねている。お見事と言うほかはない。本書は間違いなく傑作だ。このカタルシスだけを取り上げるとするなら、本書をミステリーの分野においてもよいぐらいに。それぐらい、本書から得られるカタルシスは優れたミステリから得られるそれを感じさせた。

本書はSFというジャンルでくくられるには、あまりにもスケールが大きい。だから、もし本書をSFだからと言う理由で読まない方がいればそれは惜しい。ぜひ読んでもらいたいと思える一冊だ。

‘2017/05/19-2017/05/24


消えた少年たち〈上〉


本書は早川SF文庫に収められている。そして著者はSF作家として、特に「エンダーのゲーム」の著者として名が知られている。ここまで条件が整えば本書をSF小説と思いたくもなる。だが、そうではない。

そもそもSFとは何か。一言でいえば「未知」こそがSFの焦点だ。SFに登場するのは登場人物や読者にとって未知の世界、未知の技術、未知の生物。未知の世界に投げこまれた主人公たちがどう考え、どう行動するかがSFの面白さだといってもよい。ところが本書には未知の出来事は登場しない。未知の出来事どころか、フレッチャー家とその周りの人物しか出てこない。

だから著者はフレッチャー家のことをとても丁寧に描く。フレッチャー家は、五人家族だ。家長のステップ、妻のディアンヌ、長男のスティーヴィー、次男のロビー、長女で生まれたばかりのベッツィ。ステップはゲームデザイナーとして生計を立てていたが、手掛けたゲームの売り上げが落ち込む。そして家族を養うために枯葉コンピューターのマニュアル作成の仕事にありつく。そのため、家族総出でノースカロライナに引っ越す。その引っ越しは小学校二年生のスティーヴィーにストレスを与える。スティーヴィーは転校した学校になじめず、他の人には見えない友人を作って遊び始める。ステップも定時勤務になじめず、ゲームデザイナーとしての再起をかける。時代は1980年代初めのアメリカ。

著者はそんな不安定なフレッチャー家の日々を細やかに丁寧に描く。読者は1980年代のアメリカをフレッチャー家の日常からうかがい知ることになる。本書が描く1980年代のアメリカとは、単なる表向きの暮らしや文化で表現できるアメリカではない。本書はよりリアルに、より細やかに1980年代のアメリカを描く。それも平凡な一家を通して。著者はフレッチャー家を通して当時の幸せで強いアメリカを描き出そうと試み、見事それに成功している。私は今までにたくさんの小説を読んできた。本書はその中でも、ずば抜けて異国の生活や文化を活写している。

例えば近所づきあい。フレッチャー家が近隣の住民とどうやって関係を築いて行くのか。その様子を著者は隣人たちとの会話を詳しく、そして適切に切り取る。そして読者に提示する。そこには読者にはわからない設定の飛躍もない。そして、登場人物たちが読者に内緒で話を進めることもない。全ては読者にわかりやすく展開されて行く。なので読者にはその会話が生き生きと感じられる。フレッチャー家と隣人の日々が容易に想像できるのだ。

また学校生活もそう。スティーヴィーがなじめない学校生活と、親に付いて回る学校関連の雑事。それらを丁寧に描くことで、読者にアメリカの学校生活をうまく伝えることに成功し。ている。読者は本書を読み、アメリカの小学校生活とその親が担う雑事が日本のそれと大差ないことを知る。そこから知ることができるのは、人が生きていく上で直面する悩みだ。そこには国や文化の差は関係ない。本書に登場する悩みとは全て自分の身の上に起こり得ることなのだ。読者はそれを実感しながらフレッチャー家の日々に感情を委ね、フレッチャー家の人々の行動に心を揺さぶられる。

さらには宗教をきっちり描いていることも本書の特徴だ。フレッチャー夫妻はモルモン教の敬虔な信者だ。引っ越す前に所属していた協会では役目を持ち、地域活動も行ってきた。ノースカロライナでも、モルモン教会での活動を通して地域に溶け込む。モルモン教の布教活動は日本でもよく見かける。私も自転車に乗った二人組に何度も話しかけられた。ところがモルモン教の信徒の生活となると全く想像がつかない。そもそもおおかたの日本人にとって、定例行事と宗教を結びつけることが難しい。もちろん日本でも宗教は日常に登場する。仏教や神道には慶弔のたびにお世話になる。だが、その程度だ。僧侶や神官でもない限り、毎週毎週、定例の宗教行事に携わる人は少数派だろう。私もそう。ところがフレッチャー夫妻の日常には毎週の教会での活動がきっちりと組み込まれている。そしてそれを本書はきっちりと描いている。先に本書には未知の出来事は出てこないと書いた。だが、この点は違う。日々の中に宗教がどう関わってくるか。それが日本人のわれわれにとっては未知の点だ。そして本書で一番とっつきにくい点でもある。

ところが、そこを理解しないとフレッチャー夫妻の濃密な会話の意味が理解できない。本書はフレッチャー家を通して1980年代のアメリカを描いている。そしてフレッチャー家を切り盛りするのはステップとディアンヌだ。夫妻の考え方と会話こそが本書を押し進める。そして肝として機能する。いうならば、彼らの会話の内容こそが1980年代のアメリカを体現していると言えるのだ。彼らが仲睦まじく、時にはいさかいながら家族を経営していく様子。そして、それが実にリアルに生き生きと描かれているからこそ、読者は本書にのめり込める。

また、本書から感じ取れる1980年代のアメリカとは、ステップのゲームデザイナーとしての望みや、コンピューターのマニュアル製作者としての業務の中からも感じられる。この当時のアメリカのゲームやコンピューター業界が活気にあふれていたことは良く知られている。今でもインターネットがあまねく行き渡り、情報処理に関する言語は英語が支配的だ。それは1980年代のアメリカに遡るとよく理解できる。任天堂やソニーがゲーム業界を席巻する前のアタリがアメリカのゲーム業界を支配していた時代。コモドール64やIBMの時代。IBMがDOS-V機でオープンなパソコンを世に広める時代。本書はその辺りの事情が描かれる。それらの描写が本書にかろうじてSFっぽい味付けをあたえている。

では、本書には娯楽的な要素はないのだろうか。読者の気を惹くような所はないのだろうか。大丈夫、それも用意されている。家族の日々の中に生じるわずかなほころびから。読者はそこに興を持ちつつ、下巻へと進んでいけることだろう。

‘2017/05/13-2017/05/18


クォンタム・ファミリーズ


最近、SFに関心がある。二、三年前までは技術の爆発的な進化に追いつけず、SFというジャンルは終わったようにすら思っていた。だが、どうもそうではないらしい。あまりにも技術が私たちの生活に入り込んできているため、一昔前だとSFとして位置づけられる作品が純文学作品として認められるのだ。本書などまさにそう。三島由紀夫賞を受賞している。三島由紀夫賞は純文学以外の作品も選考対象にしているとはいえ、本書のようにSF的な小説が受賞することは驚きだ。本書が受賞できたことは、SFと純文学に境目がなくなっていることの証ではないだろうか。

本書は相当難解だ。正直いって読み終えた今もまだ、構造を理解しきれていない。本書はいわゆるタイムトラベルものに分類してよいと思う。よくあるタイムトラベルものは、過去と現在、または現在と未来の二つの象限を理解していればストーリーを追うことは可能だ。だが、本書は四つの象限を追わなければ理解できない。これがとても難しい。

私たちが今扱っているコンピューターのデータ。それは0か1かの二者択一からなっている。ビットのon/offによってデータが成り立ち、それが集ってバイトやキロバイトやペタバイトのデータへと育ってゆく。巨大な容量のデータも元をたどればビットのon/offに還元できる。ところが、量子コンピューターの概念はそうではない。データは0と1の間に無限にある値のどれかを取りうる。

本書のアイデア自体は量子論の概念を理解していればなんとなくわかる気もする。物事が0か1かの二者択一ではなく、どのような値も取りうる世界。0の世界と1の世界と0.75の世界は別。0.31415の世界と0.333333……の世界も別。そこにSF的な想像力のつけいる余地がある。今の世界には並行する位相をわずかに変えた世界があり、違う私やあなたがいる。そんな本書の発想。それは、並行する時間軸をパラレルワールドとしていた従来の発想の上を行く。

0と1の間に数理の上で別の世界がありえるのなら、別世界を行き来するのに数列とプログラミングを使う本書の発想もまた斬新。その発想は、別世界への干渉を可能にする本書のコアなアイデアにもつながる。そして、本書の登場人物が別世界への干渉方法やアクセスの糸口をつかんだ時、別世界とのタイムラグが27年8カ月生じる設定。その設定が本書をタイムトラベルものとして成立させている。その設定は無理なくSF的であるが、本書を複雑にしていることは否めない。

本書には都合で四つの世界が存在する。それぞれが量子的揺らぎによるアクセスや干渉によって影響しあっている。ある世界にが存在する人物が別の世界には存在していなかったり。その逆もまたしかり。しかもそれぞれの世界は27年8カ月の差がある。その複雑な構成は一読するだけでは理解できない。二つの象限を理解すれば事足りていた従来のタイムトラベルものとはここが大きく一線を画している。

違うパラレルワールドの量子の位相の違いで、同じひと組の夫婦が全く違う夫婦関係を構築する。そしてその位相に応じて家族のあり方の違いがあぶり出されてゆく。その辺りを突っ込んで描くあたりは純文学といえるかもしれない。本社は家族のあり方についても深い考察が行われており考えさせられる。だからこそタイトルに「ファミリー」が含まれるのだ。

村上春樹氏の「世界のおわりとハードボイルドワンダーランド」が批判的に幾度も引用されたり、四国の某所にある文学者記念館が廃虚と化している様子が描写されたり、かといえばフィリップ・K・ディックの某作品(ネタばれになるので書かない)で書かれた世界観が仄見えたり。それら諸文学を引用することで、文学の終わりを予感しているあたり、文学者による悲観的な将来が示唆された例として興味深い。

特に主人公は同じ人物が別世界の同一人物と入れ替わったり、性的嗜好が歪んでいたり、テロリズムに染まったりとかなりエキセントリックに分裂している。それほどまでに複雑な人物を書き分けるには、本書のようなパラレルワールドの設定はうってつけだ。むしろそうでも分けないことには、四つの象限に遍在する登場人物を区別できないだろう。

理想と現実。虚構と妄想。電子データで物事が構成される世界の危うさ。本書で示されるネット世界のあり方は、恐ろしく、そして寂しげ。このような世界だからこそ、人はコミュニティに頼ってしまうのかもしれない。

今、世界はシンギュラリティ(技術的到達点)の話題で持ちきりだ。しかし本書は2045年に到来するというシンギュラリティよりも前に、熟しきって腐乱しつつある世界を予言している。

本書を終末論として読むのか、それとも未来への警鐘として受け止めるのか。または単なるSFとして読むのか。本書は難解ではあるが、読者に無限の可能性を拓く点で、SFの今後と純文学の今後を具現した小説だといえる。

‘2017/04/04-2017/04/08


HUNTING EVIL ナチ戦争犯罪人を追え


人類の歴史とは、野蛮と殺戮の歴史だ。

有史以来、あまたの善人によって数えきれないほどの善が行われてきた。だが、人類の歴史とはそれと同じくらい、いや、それ以上に悪辣な蛮行で血塗られてきた。中でもホロコーストは、その象徴として未来永劫伝えられるに違いない。

私は二十世紀の歴史を取り扱った写真集を何冊も所持している。その中には、ホロコーストに焦点を当てたものもあり、目を背けたくなる写真が無数に載っている。

ホロコーストとは、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量殺戮だ。一般的にはホロコーストで通用している。だが、ヘブライ語ではこの用例は相応しくないそうだ。ジェノサイド、またはポグロムと呼ぶのが正しいのだとか。それを断った上で、本書ではナチスによるユダヤ人の大量抹殺政策をホロコーストやユダヤ人殲滅作戦と記している。

ユダヤ人のホロコーストは、ナチス・ドイツの優生思想によって押し進められた。なお、ユダヤ人を蔑視することは歴史的にみればナチスだけの専売特許ではない。中世の西洋でもユダヤ民族は虐げられていたからだ。だが、組織としてホロコーストほど一気にユダヤ人を抹殺しようとしたのはナチスだけだ。将来、人類の未来に何が起ころうとも、ナチスが政策として遂行したようなレベルのシステマチックな民族の抹殺は起こりえない気がする。

本書は、ナチス・ドイツが壊滅した後、各地に逃れたナチス党員の逃亡とそれを追うナチ・ハンターの追跡を徹底的に描いている。

ナチス残党については、2010年代に入った今も捜索が続けられているようだ。2013年のニュースで98歳のナチス戦犯が死亡したニュースは記憶に新しい。たとえ70年が過ぎ去ろうとも、あれだけの組織的な犯罪を許すわけにはいかないのだろう。

日本人である私は、本書を読んでいて一つの疑問を抱いた。その疑問とは「なぜ我が国では戦犯を訴追するまでの経過がナチス残党ほど長引かなかったのか」だ。その問いはこのように言い直すこともできる。「なぜナチスの戦犯は壊滅後のドイツから逃げおおせたのか」と。

本書はこの問いに対する回答となっている。

ナチス・ドイツは公的には完全に壊滅した。だが、アドルフ・ヒトラーの自殺と前後して、あきれるほど大勢のナチス戦犯が逃亡を図っている。たとえば「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレ。ユダヤ人殲滅作戦の現場実行者アドルフ・アイヒマン。トレブリンカ収容所長フランツ・シュタングル。リガの絞首人ヘルベルツ・ツクルス。末期ナチスの実力者マルティン・ボルマン。

かれらは逃亡を図り、長らく姿をくらましつづけていた。これほどの大物達がなぜ長期間逃げおおせることができたのか。著者の綿密な調査は、これら戦犯たちの逃亡ルートを明らかにする。そして、彼らが逃亡にあたって頼った組織についても明らかにする。

その組織は、多岐にわたっている。たとえばローマ・カトリック教会の司祭。または枢軸国家でありながら大戦後も体制の維持に成功したスペイン。もしくはファン・ペロン大統領がナチス受入を公表していたアルゼンチン。さらに驚かされるのが英米の情報部門の介在だ。東西の冷戦が生んだ熾烈なスパイの駆け引きにナチス戦犯を利用したいとの要望があり、英米の情報部門に保護されたナチス戦犯もたくさんいたらしい。これらの事実を著者は徹底した調査で明らかにする。

上に挙げたような複数の組織の思惑が入り乱れた事情もあった。そして連合国側で戦犯リストが円滑に用意できなかった理由もあった。これらがナチス戦犯が長年逃れ得た原因の一つだったのだろう。そのあたりの事情も著者は詳らかにしてゆく。

ナチス戦犯たちにとって幸運なことに、第二次世界大戦の終戦はさらなる東西冷戦の始まりだった。しかもドイツは冷戦の東西の境界である。東西陣営にとっては最前線。一方で日本は冷戦の最前線にはならなかった。せいぜいが補給基地でしかない役どころ。そのため、終戦によって日本を統治したのはアメリカを主軸とする連合国。ソ連は統治には参加できず、連合国の西側による秩序が構築された。日本とドイツが違うのはそこだろう。

わが国の戦犯はBC級戦犯を中心として、アメリカ軍の捜査によって訴追された。約5700人が被告となりそのうち約1000人が死刑判決を受けた。その裁判が妥当だったかどうかはともかく、1964年12月29日に最後の一人が釈放されたことでわが国では捜査も裁判も拘置も完全に終結した。それは悪名高い戦陣訓の内容が「生きて虜囚の辱めを受ける勿れ」と書かれていたにもかかわらず、戦後の日本人が潔く戦争責任の裁きを受けたからともいえる。もっとも、人体実験の成果一式をアメリカに提供することで訴追を逃れた旧関東軍731部隊の関係者や、アジテーターとして戦前の日本を戦争に引き込み、戦後は訴追から逃れ抜いたままビルマに消えた辻正信氏といった人物もいたのだが。ただ、我が国の戦後処理は、ドイツとは違った道を歩んだということだけはいえる。

戦後、ユダヤ人が強制収容所で強いられた悲惨な実態とともにナチスの残虐な所業が明らかになった。それにもかかわらず、ナチスの支援者はいまも勢力を維持し続けている。彼らはホロコーストとは連合国軍のプロパガンダに過ぎないと主張している。そしてナチスの思想、いわゆるナチズムは、現代でもネオ・ナチとして不気味な存在であり続けている。

本書が描いているのはナチス戦犯の逃亡・追跡劇だ。だが、その背後にあるナチズムを容認する土壌が今もまだ欧州諸国に生き続けている事。それを明らかにすることこそ、本書の底を流れるテーマだと思う。

本書は、ナチ・ハンターの象徴である人物の虚像も徹底的に暴く。その人物とはジーモン・ヴィーゼンタール。ホロコーストの事実をのちの世に伝えるためのサイモン・ウィーゼンタール・センターの名前に名を残している。著者はヴィーゼンタールのナチス狩りにおける功績の多くがヴィーゼンタール本人による虚言であったことや、彼が自らをナチス狩りという世界的なショーのショーマンであった事を認めていた事など、新たな事実を次々と明らかにする。著者の調査が膨大な労力の上に築かれていたことを思わせる箇所だ。

本書を読むと、いかに多くのナチス戦犯が逃げ延びたのかがわかる。今や、ナチス狩りの象徴ヴィーゼンタールも世を去った。おそらく逃げ延び続けているナチ戦犯もここ10年でほぼ死にゆくことだろう。そうなった後、ナチスの戦争責任をだれがどういう方向で決着させるのか。グローバリズムからローカリズムに縮小しつつある国際社会にあって、ナチスによるホロコーストの事実はどう扱われて行くのか。とても興味深い。

ドイツや欧州諸国では、ホロコーストを否定すること自体に罰則規定があるという。その一方、我が国では上に書いた通り、戦犯の追及については半世紀以上前に決着が付いている。ところが、南京大虐殺の犠牲者の数や従軍慰安婦の問題など、戦中に日本軍によって引き起こされたとされる戦争犯罪についてはいまだに被害国から糾弾されている。

一方のドイツでは大統領自身が度々戦争責任への反省を語っている。一方のわが国では、隣国との間で論争が絶えない。それは、ドイツと日本が戦後の戦犯の訴追をどう処理し、どう決算をつけてきたかの状態とは逆転している。それはとても興味深い。

私としては罪を憎んで人を憎まん、の精神で行くしか戦争犯罪の問題は解決しないと思っている。あと30年もたてば戦争終結から一世紀を迎える。その年月は加害者と被害者のほとんどをこの世から退場させるに足る。過去の責任を個人単位で非難するよりは、人類の叡智で同じような行いが起きないよう防止できないものか。本書で展開される果てしない逃亡・追跡劇を読んでそんな感想を抱いた。

‘2017/02/07-2017/02/12


オン・ザ・ロード


「おい、おまえの道はなんだい? 聖人の道か、狂人の道か、虹の道か、グッピーの道か、どんな道でもあるぞ。どんなことをしていようがだれにでもどこへでも行ける道はある。さあ、どこでどうする?」(401P)

「こういうスナップ写真をぼくらの子どもたちはいつの日か不思議そうにながめて、親たちはなにごともなくきちんと、写真に収まるような人生を過ごし、朝起きると胸を張って人生の歩道を歩んでいったのだと考えるのだろう、とぼくは思った。ぼくらのじっさいの人生が、じっさいの夜が、その地獄が、意味のない悪夢の道がボロボロの狂気と騒乱でいっぱいだったとは夢にも考えないのだろう。」(406P)

若いときに読んでおかねばならない本があるとすれば、本書はその一冊にあげられるにちがいない。先日ノーベル賞を受賞したボブ・ディランは、本書を自分の人生を変えた本と言ったとか。

多分、中高生の私が本書を読んでいたならば、私にとっても人生を変えた本になっていたことだろう。私ももっと前に本書を読んでおきたかったと思う。

ただ、20代の私が本書を読んでも、どの程度まで影響を受けていたかはわからない。放浪癖に目覚めた頃だったので、同じ嗜好を持ち、同じ方向を向いている本書はかえってすっと受け入れてしまい、なじみすぎて印象に残らなかったかもしれない。親しんだ記憶は残っただろうけど。

今回、40の坂を越えてからはじめて本書を読んだ。そこから感じた読後感も悪くない。二十歳の頃には出逢えなかったが、40代の感性でしか感じられない新鮮さもある。もっとも、40代の今の視点で本書を読むと、自分自身の過ぎ去った日々を懐かしむ思いがどうしても混じってしまうのも事実。ただ、40代が感じた本書の感想も悪くないはず。その視点でつづりたいと思う。

本書は、あてなき放浪の物語だ。アメリカ大陸の東と西をさまよい、北から南へと越境してメキシコまで。時は1947年〜1949年。第二次世界大戦に勝利し、世界の超大国となったアメリカ。まだソ連が原爆を持つ前の、ベルリンが東西に分割される前の、中華人民共和国が建国される前の勝利の幸福に浸れていた頃のアメリカ。そんなアメリカを縦横に旅しまくるのが本書だ。主人公サル・パラダイスの名前のとおりに幸せなアメリカは、また、素朴なアメリカでもあった。

東西冷戦が始まるや、アメリカは西側の同盟国を引き締めにかかる。自国の文化を紐がわりにして。それは文化的な侵略といってよいだろう。だが、本書で描かれるアメリカは、自国の文化を世界中にまき散らす前のアメリカだ。大戦の勝利の余韻が尊大さの色を帯びる前のアメリカでもある。

主人公サルとアメリカ中を駆け巡るディーンは、狂人すれすれの奇行と社交性を持つ人物として描かれる。だが、そんな彼らにも、やがて落ち着きの日がやってくる。いくら乱痴奇騒ぎを繰り広げようが、彼らも叔母の前では汚い言葉を控えるようになる。彼らとつるんで騒いでいた友人たちも、やがて常識的な言動を身に付け始める。

それは、アメリカが建国以来持ち続けいた、素朴な開拓者スピリットを脱ぎ捨て、政治・文化のリーダーとして振る舞い始める様を思わせないか。サルとディーンが見せる躁鬱の繰り返しは、アメリカ自身が19世紀後半から見せて来た内戦と繁栄の焼き直しに思える。

本書で印象を受けたのは、冒頭に掲げたような言葉だ。これらのセリフは、彼らが旅を終えてから次の旅までの間、金を稼ぎ妻子を養ったりしている間にはかれる。旅中のハイテンションな日々を躁とすれば、旅の合間の準備期間は鬱ともいえる。

だが、本書がひときわ輝いているのは、実はその合間とも言える鬱の時期だ。狂騒の時期はひたすら騒がしい描写に終始しているが、静かな時期にこそ、人生の陰影が彫り込まれてる。その深みは、読者に印象を与える。

冒頭に掲げた二つの文はまさに旅の合間のセリフだ。このセリフには、旅というものの本質が見事に表されている。

私自身、旅への衝動に従って生きてきた。今もそれに身を委ねては、気の向くままに放浪したいと思っている。なので、彼らが旅の合間、稼いだり妻子を養っている間に感じる焦燥感や衝動はとても理解できるのだ。

旅にこそ、人生の実感はある。旅にこそ、人々との触れ合いがある。

だが、旅とはリスクの塊だ。離婚と結婚を繰り返すディーンの生きざまは、旅が結婚という定住生活の対極にあることがわかる。

旅と結婚。その二つは相反するものなのかもしれない。

二つの生き方に迷い、引き裂かれてわれわれは生きていく。本書のサルとディーンのように。

サルが著者ケルアックであり、ディーンがニール・キャサディてあることは訳者が後書きで触れている。著者はビート・ジェネレーションの名付け親であり、その代表的な存在としても知られている。キャサディもまた、破天荒な人生を送った事で知られている。結局、二人ともヒッピー文化が華やかなりし時期に相次いで亡くなっている。本書の終盤で、ディーンはサルと離ればなれになってしまう。サルもディーンも本書において、どういう末路をたどったのか本書には書かれていない。多分、定住を拒み続けただろうし、末路も平穏では済まなかっただろう。

でも、人の一生はそれぞれ。彼らは後悔しなかったに違いない。そもそも人生とは旅なのだから。たとえ結末が惨めなものだったとしても。決して後悔しない。安定を求めない。それが旅人というもの。

私もそういう姿勢で生きていこうと思う。

‘2016/11/01-2016/11/13


ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」


本書は私にとって16年ぶりとなる長崎への旅の途上で読んだ。羽田から長崎への機内と、博多から長崎への電車内で。本書はまさに旅のガイドとなった。その意味でも印象深い。そして、本書を読んだ翌日、本書に書かれた内容を自らの足でめぐることができた。その意味でも、本書は読書体験と視覚体験がシンクロした貴重な一冊となった。

私は今までにたくさんの本を読んできた。それらの本が私に与えてくれたのは得がたい知見だ。私が書物に書かれた内容を消化し、理解する時、その論旨はいったん受け入れる事が多い。なぜなら、書物を読むのは、知らない事実を一方的に書物から吸収したいから。 読む時点ではそもそも反対するための材料も知識もない。また、事前にその本が取り上げる分野について知っていても同じ。私が読んだ本の論旨に反対する事はあまりない。

だが、本書にはとても迷わされた。そして考えさせられた。本書で問い掛けられた事実はとても重い。本書でさらし出された歴史の事実。それを知ってもなお、私の中では判断がついていない。これはとても珍しい事だ。軽率に答えを出すことを拒ませるだけの重みが本書にはある。

実は著者の主張については、読み終えた直後には賛成だった。本書の問いはただ一つ。原爆によって廃虚となった浦上天主堂は後世に残すべきだったか、だ。ではなぜ残すべきだったのか。もちろん、原爆という人類の愚劣さと罪のシンボルとして。著者は残すべきだったと主張する。 その主張を補強するため、著者は浦上天主堂の撤去の背景を探る。著者の突き止めた事実は、撤去した当事者を糾弾するに充分だった。著者の厳しい視線は、米国の対外広報戦略に懐柔され浦上天主堂の再建に傾いた田川元市長や、再建に当たって教会側の意見を主導した山口元司教、そればかりか、長崎の鐘で知られる永井隆博士らの名士に向いている。

中でも著者が取り上げるのは、田川元市長と山口元司教だ。実質的に、この二人の主導で浦上天主堂の廃虚は撤去されたのだから。そして、田川市長については、もともと撤去推進者ではなく保護推進者であったことも著者は強調する。それがなぜ翻心したのか。

その経緯を著者は、米国セントポール市からもたらされた長崎市と姉妹都市提携したいという申し出の経緯から掘り起こす。日本にとって初となった姉妹都市提携。それは米国から持ち出された話だった。そしてその提携の交渉にあたって、米国は田川市長を招待する。米国内での歓待や要人との会談をこなして長崎に戻って来た田川市長。田川市長の浦上天主堂の廃虚についての意見は、渡米前の保護から一転、撤去・再建へとひるがえっていた。

なぜ米国は、浦上天主堂の廃虚を撤去させたかったのか。それは冷戦後の世界で米国が西側を率いるにあたり、西側文明の宗教的バックボーンであるキリスト教会を原爆で破壊した事実がマイナスになると判断したから。著者はそう指摘する。そういった米国の思惑を前提とした、田川市長への働きかけの様子。それが本書には細かく紹介される。

山口司祭は、カトリック長崎教区を統括する立場から天主堂の再建を望んでいた。しかも同じ場所で。というのも、浦上天主堂は浦上地区の信者にとって400年にわたる弾圧からの解放のシンボルだったから。山口司祭にとって廃虚をそのままにし、天主堂を別の場所で再建する案はとても受け入れられなかった。そんな山口司祭と田川市長の思惑が一致したのが浦上天主堂の再建だった。

天主堂は再建し、旧浦上刑務所の跡地は平和公園とする。そして、平和祈念像を被爆のシンボルとして設置する。さらに爆心地公園に、廃虚の一部を移設する。田川市長の施策でこれだけの事業がおこなわれ、今の平和公園周辺のたたずまいとなっている。そしてその施策の結果、ナガサキの街からヒロシマにおける原爆ドームのような、原爆の惨禍を思わせるシンボルはほぼ無くなってしまった。著者はその事実を指摘し、米国の対外戦略に乗った田川市長と山口司祭を指弾する。

この度の長崎探訪は、こちらのブログに書いた。そのなかで、私が今のナガサキの街並みを見てどう思ったかは触れている。当初は本書の意見に賛同していたのに、街を歩いた結果、意見を中立に変えたことも書いた。

平地に立つ原爆ドームと違い、浦上天主堂が高台に立っていること。それが街から見えてしまうこと。浦上天主堂の持つ歴史的な経緯。それらは私に、判断を迷わせ、撤去についての意見を保留にさせた。

だが、私の判断は保留であって、反対ではない。そして、その判断は私が本書に対する評価を損なうものではない。本書の価値はいささかも変わらない。そもそも私が著者の意見に反対しようがどうしようが、ナガサキから被爆のシンボルとなりえた遺構が失われてしまったのは事実なのだ。その経緯をここまで調べあげ、歴史の裏側を明かしたのは間違いなく著者の功績だ。本書もまた、後世に残されるべき労作だと思う。

‘2016/10/30-2016/10/30


人類5万年 文明の興亡 下


541年。著者はその年を東西の社会発展指数が逆転し、東洋が西洋を上回った年として特筆する。

それまでの秦漢帝国の時代で、西洋に遅れてではあるが発展を遂げた東洋。しかし「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスは東洋にも等しく起こる。三国志の時代から魏晋南北朝、そして五胡十六国の時代は東洋にとって停滞期だった。しかし、それにもかかわらず東洋は西洋に追いつき抜き去る。分裂と衰退の時期を乗り切った東洋に何が起こったのか。著者はここで東洋が西洋を上回った理由を入念に考察する。その理由を著者は東洋のコア地域が黄河流域から南の長江流域へと拡大し、稲作の穀倉地帯として拡大したことに帰する。東洋の拡大は、隋と唐の両帝国を生み出し、東洋は中国をコアとして繁栄への道をひた走る。一方、西洋はビザンティン帝国によるローマ帝国再興の試みがついえてしまう。そればかりか、西洋の停滞の間隙を縫ってムハンマドが創始したイスラム教が西洋世界を席巻する。

西洋は気候が温暖化したにもかかわらず、イスラム教によってコアが二分されてしまう。宗教的にも文化的にも。つまり西洋は集権化による発展の兆しが見いだせない状況に陥ったのだ。一方の東洋は、唐から宋に王朝が移ってもなお発展を続けていた。中でも著者は中国の石炭産業に注目する。豊かに産出する石炭を使った製鉄業。製鉄技術の進展がますます東洋を発展させる。東洋の発展は衰えを知らず、このまま歴史が進めば、上巻の冒頭で著者が描いた架空の歴史が示すように、清国の艦隊をヴィクトリア女王がロンドンで出迎える。そのような事実も起こりえたかもしれない。

だが、ここでも「社会発展は、それを妨げる力を生み出す」パラドックスが東洋の発展にブレーキをかける。ブレーキを掛けたのは異民族との抗争やモンゴルの勃興などだ。外部からの妨げる力は、洋の東西を問わず文明の発展に水をさす。この時、東洋は西洋を引き離すチャンスを逃してしまう。反対にいつ果てるとも知らぬ暗黒時代に沈んでいた西洋は、とどめとばかりに黒死病やモンゴルによる西征の悲劇に遭う。だがモンゴルによる侵略は、東洋の文化を西洋にもたらす。そして長きにわたったイスラムとの分断状態にも十字軍が派遣されるなど社会に流動性が生まれる。イスラムのオスマン・トルコが地中海の東部を手中に収めたことも西洋の自覚を促す。そういった歴史の積み重ねは、西洋を復活へと導いてゆく。

東洋の衰えと西洋の復活。著者はここで、東洋が西洋を引き離し切れなかった要因を考察する。その要因として、著者は明の鄭和による大航海が東洋の優位と衰退を象徴することに着目する。鄭和艦隊の航海術。それは東洋を西洋に先んじてアメリカ大陸に到達させる力を持っていた。あるいはアステカ文明は、ピサロよりも先に中華文明によって絶滅に追いやられていたかもしれないのだ。そんな歴史のIF。そのIFは、マダガスカルやシリアまでも遠征し、当時としては卓越した航海術を擁した鄭和艦隊にとって不可能ではなかった。著者は鄭和艦隊を東洋の優位性を示す何よりの証拠と見ていた。

しかし明の皇帝たちは引き続いての艦隊の派遣に消極的となる。一方の西洋はバスコ・ダ・ガマやコロンブスなど航海によって大きく飛躍するのに。この差がなぜ生じたのか。この点を明らかにするため、著者はかなりのページ数を割いている。なぜならこの差こそが、541年から1773年まで1000年以上続いた東洋の優位を奪ったのだから。

あらためて著者の指摘する理由を挙げてみる。
・中国のルネッサンスは11世紀に訪れ、外遊の機運が盛り上がっていた。が、その時期には造船技術が進歩していなかった。一方、西洋のルネッサンスは16世紀に訪れたが、その際は東洋の造船技術が流入しており、労せずして西洋は航海技術を得ることができた。
・中国にとって西には西洋の文物があることを知っていた。だが、後進地域の西洋へと向かう動機が薄かった。また、東の果て、つまりアメリカ大陸までの道のりは間に太平洋を挟んでいたため遠方であった。つまり、東洋には距離的にも技術的にも未知の国へ向かわせるだけの動機が弱かった。東洋に比べて文化や技術で劣る西洋は距離的に大陸まで近く、技術の弱さが補えた。

東洋がダイナミズムを喪いつつある時期、われらが日本も登場する。その主役は豊臣秀吉だ。著者は本書の135ページで秀吉による日本統一をなぜか1582年と記している(私の意見では1590年の小田原征伐をもって日本は統一された)。が、そんな誤差はどうでもよい。肝心なのは、当時の世界史の潮流が地球的なスケールで複雑にうねっていたことだ。本書から読み取るべきは世界史の規模とその中の日本の締める位置なのだ。極東の島国は、この時ようやく世界史に名前が現れた程度でしかない。日本が範とし続けてきた中国は官僚による支配が顕著になり、ますます硬直化に拍車がかかる。ではもし、秀吉が明を征服していれば東洋にも違う未来が用意されていたのか。それは誰にもわからない。著者にも。

西洋はといえば、オスマントルコの脅威があらゆる面で西洋としての自覚が呼び覚ましていく。それは、ハプスブルク家による集権体制の確立の呼び水となる。西洋の発展には新たに発見された富の存在が欠かせない。その源泉はアメリカ南北大陸。精錬技術の発達と新たな農場経営の広がりが、西洋に計り知れない富と発展をもたらすことになる。そしてそれは産業革命へと西洋を導いてゆく。王権による集権化の恩恵をうけずに人々の暮らしが楽になる。それはさらなる富を生み出し技術発展の速度は速まる。全てが前向きなスパイラルとなって西洋を発展させる。かくして再び西洋が東洋を凌駕する日がやってくる。著者はそれを1773年としている。

1773年。この前後は西洋にとって重大な歴史的な変化が起こった。アメリカ独立戦争やフランス革命。もはや封建制は過去の遺物と化しつつあり、技術こそが人々を導く時代。ところが西洋に比べ、東洋では技術革新の波は訪れない。著者はなぜ東洋で技術発展が起きなかったのか、という「ニーダム問題」に答えを出す。その答えとは、硬直した科挙制から輩出された官僚が科学技術に価値を置かなかったことだ。東洋は後退し、いよいよ西洋と科学の時代がやって来たことを著者は宣言する。

なぜ産業革命は東洋で起きなかったのか。著者は科挙制の弊害以外に労働者単価が低かったことを主な理由としている。そして19世紀になっても東洋で産業革命が起きていた確率はほぼなかっただろうと指摘する。

いずれにせよ、西洋主導で社会は動きはじめた。その後の歴史は周知の通り。1914年から1991年までの大きな戦争(と著者は第一、二次大戦と冷戦を一つの戦争の枠組みで捉えている)をはさんでも西洋主導の枠組みは動きそうにない。いまだにG8で非西洋の参加国は日本だけ。

だが、著者はその状態もそう長くないと見る。そして、ここからが著者が予測する未来こそが、本書の主眼となるのだ。上巻のレビューにも書いた通り、今まで延々と振り返った人類の歴史。われわれのたどってきた歴史こそが、人類の未来を占うための指標となる。著者はここであらためて世界史の流れをおさらいする。今度は始源から流れに乗るのではなく、2000年の西洋支配の現状から、少しずつ歴史をさかのぼり、どこで東洋と西洋の発展に差が生じたのかを抑えながら。その際に著者は、歴史にあえて仮定を加え、西洋と東洋の発展の歴史が違っていた可能性を検証する。

著者はその作業を通じて「二〇〇〇年までの西洋の支配は、長期的に固定されたものでも短期的な偶発的事件によるものでもないと結論づけることができる」(301P)と書く。つまり、長期的に妥当な必然が今の西洋支配につながっているのだ。

では、これからはどうなるのだろう。著者は2103年を「西洋の時代が終わると予測される一番遅い時点」(309P)と仮定する。

ここ250年、西洋は世界を支配してきた。その日々は東洋を西洋の一周縁地域へとおとしめた。では今後はどうなるのか。これからの人類を占う上で、人工知能の出現は避けては通れない。人工知能が人類の知恵を凌駕するタイミング。それを技術的特異点(シンギュラリティ)という。人工知能に関するコアワードとして、シンギュラリティは人口に膾炙しているといってよい。著者はシンギュラリティが引き起こす未来を詳細に予測するとともに、破滅的な人類の未来もあらゆる視点から予想する。そもそもシンギュラリティに到達した時点で西洋と東洋を分ける意味があるのか、という問い。それと同時に、破滅した世界で東洋と西洋とうんぬんする人間がいるのか、という問いも含めて。著者の問いは極めて重い。そもそも西洋と東洋を分けることの意味から問い直すのだから。

著者の予測する未来はどちらに転ぶともしれない不安定で騒々しいものだ。著者は人類の歴史を通じて西洋と東洋の発展の差を考察してきた。そして今までの考察で得た著者の結論とは、進化という長いスパンからみると東洋と西洋の差などたいした問題でないことだ。

地理学、生物学、社会学。著者はそれらの諸学問を駆使して壮大な人類史を捉えなおしてきた。そして著者は未来を救うための三つの勢力として考古学者、テレビ、歴史を提唱する。考古学者や歴史はまだしも、テレビ? つまり、著者に言わせると、テレビのような大量に流される情報の威力は、インターネットのような分散された細分化され拡散される情報に勝るということだ。

が予測する未来は破滅的な事態を防ぐことはできる、と前向きだ。その予測は私たちにとってとても勇気をもらえる。私が本書のレビューを書き上げようとする今、アメリカの今後を占う上で欠かせない人物が頻繁にツイートで世を騒がせている。トランプ大統領だ。現代の西洋とは、アメリカによって体現されている。繁栄も文化も。そんな西洋のメインファクターであるアメリカに、閉鎖的で懐古主義を標榜したリーダーが誕生したのだ。そして世界をつぶやきで日々おののかせている。トランプ大統領は西洋の衰退の象徴として後世に伝えられていくのか。それともトランプ大統領の発言などは世界の未来にとってごくわずかな揺り戻しにすぎず、トランプ大統領の存在がどうあれ、世界は人工知能が引き起こす予測のできない未来に突入してゆくのか、とても興味深いことだ。

未来に人類が成し得ることがあるとすれば、今までの歴史から学ぶことしかない。今までの教訓を今後にどう生かすか。そこに人類の、いや、地球の未来がかかっている。今こそ人類は歴史から学ぶべきなのだ。本書を読んで強くそう思った。

‘2016/10/21-2016/10/27


フランス人は10着しか服を持たない パリで学んだ“暮らしの質”を高める秘訣


本書もまた、曰く付きの一冊だ。妻から勧められ、次に読もうと鞄に入れていた。そしてすぐ、出来事は起きた。仕事をしていた私の机の横で雪崩が起きたのだ。机の脇に積み上げられ、立派なタワーとして成長を続ける観光パンフレットの倒壊。

それらは決して無価値なパンフではない。思い入れもある。しかし、目前に起きた惨事を前に、意を決して処分を始める。その後、妻と庭園美術館に出かけた私は、本書を携えていた。

大量のパンフを処分する決意に燃える私には、著者の言う意味がよく沁みた。タイミングと読書がぴったりはまった好例だ。

本書は、南カリフォルニアガールだった著者が半年のフランス留学で得た暮らしの極意が書かれている。極意とはフランス流のシンプルライフの勧め。本書の原題はLessons from Madame Chic。訳すとマダムシックから学んだこと、の意味か。

マダムシックとは、著者が半年間の留学でホストマザーとしてお世話になった方のことだ。実名は憚られるので、仮名でシックと呼んでいるのだろう。

シックとはフランス語だが、日本語に訳しにくい言葉だ。侘び寂びとでもいえばよいか。英語ではクレバーでクールといえばしっくりくるか。

要はつつましく、シンプルに、ということだ。それは、アメリカ式の大量生産、大量消費の思想とは対極にある。邦題となっている「服を10着しか持たない」とは本書のある章の題である。ある章のタイトルを本全体のタイトルとした訳である。充分インパクトのある邦題だと思う。お洒落なイメージの強いフランス人があまり服を持たない、という逆説は読者の目を惹く。だが、目を惹くだけではない。この邦題は、本書で著者が言いたいことの本質を言い表している。大量消費、大量購入とは反対に、服を持たないことを推奨するのだから。

南カリフォルニアといえば、明るく開放的な印象を受ける。何の疑いも持たずに消費文化を受け入れ、謳歌する。倹約や節約など一瞬たりとも考えないライフスタイル。著者は南カリフォルニア出身者であり、大量消費のライフスタイルにはまっていた一人。それゆえに、フランスでマダムシックのライフスタイルに触れて衝撃を受けたのだろう。

たとえば、リビングで食事をしない。それだけでなくそもそも食事時間以外に間食をしない。カウチポテトの文化とは正反対だ。服もみだりに持たず、少ない持ち服をパリエーションで着こなす。クローゼットにぶら下がる様子とは無縁の。テレビをめったにみない、という習慣も大量購入、大量消費に毒されないためにはかかせない。

実は私はこういった思想には全く抵抗がない。抵抗がないばかりか、20代前半には実践していたからだ。

ただ、私ができなかったのがものを持たないことだ。買い物には興味がなかったが、自分の興味分野については収集癖が昔から強いのだ。冒頭に書いたパンフレット雪崩はまさにその一例。わかっちゃいるのに止められない、と歌わずにはいられない程に。

本書でハリウッド大作主義を嫌い、フランス映画のもつ深みとゆとりを勧める。私もミニシアターにはまりたかった時期があるが、そもそもそのようなゆとりからは遠かったこの十数年だ。

パンフ雪崩と本書の読書をきっかけに、私もライフスタイルを見直してみようと思う。

‘2017/06/27-2016/06/28


屍者の帝国


本書は読書人の間で話題になっていた。

屍者が動く世界。
主役はホームズの相手役であるワトソン。
途中で著者の伊藤計劃氏が死去され、途中から盟友の円城塔氏が後を引き継ぎ完成。

本書のこの様な特徴は、話題に持ってこいだ。私も本書の評判は聞いていて一度読みたいと思っていた。

そもそも、伊藤計劃氏の著書はまだ読んだ事がなく本書が初めて。ただ、未読ではあったものの、伊藤計劃氏の作品が取り上げられた書評は目にしていた。それを読んで伊藤氏のことをSF作家と認識していた。実際、本書を読んでみて印象に残ったのもSFを思わせるような世界観だ。だが、本書の著者は上に書いたとおり途中で交替している。どこまでが伊藤氏の筆によって書かれ、どこからが円城氏の執筆部分なのか。私は本書を読みながらその事がずっと気になっていた。その答えは末尾のあとがきに書かれていた。それによると伊藤氏が担当したのはプロローグだけらしい。つまり、伊藤氏はプロローグによる世界観を構築したのみ。内容のほとんどは円城氏によって書かれたということだ。円城氏の作風も文学の極北を目指すような実験性に溢れているが、SF的なところも多分にある。だから円城氏も書き継げたのだろう。だが、それによって伊藤氏が本書に与えた貢献が薄れることはない。本書の特色は伊藤氏が作りあげた世界観にあるのだから。

なにしろ、死者が動く世界だ。しかもゾンビやグールのようなファンタジー世界の住人ではなく、科学技術にのっとって死者を動かすという設定が奇抜だ。そして時代設定を近未来でなく過去としているのもよい。

なぜかというと、今の私たちは死者を動かす技術を持っていないからだ。私たちを支配する倫理観は、死者を動かす行いを無意識に拒むように仕向けている。死者自体を忌避するような検閲が働いてしまうのだ。なので、本書の舞台を近未来に設定することは難しい。なぜなら、今の倫理観の延長上に死者を動かす技術を成立させることになるからだ。それは読者にとって抵抗を感じることだ。それを回避するため、伊藤氏は時代を過去に設定したのではないか。それによって、本書の世界観は私たちにとってなじみ深くなるが、実際は別の世界の物語として構成されるのだ。

読者は本書の物語が別世界に展開する物語と了解しつつ本書の世界観を受け入れる。倫理観の抵抗に遭うことなく。屍者を蘇らせ、心を持たないロボットの様に自在に使役する。読者はそんな世界観に馴染みつつ、倫理観の抵抗を感じることもない。伊藤氏が作りあげたのは、そのような世界観だ。

屍者が違和感なく街中を歩き、軍隊にあっては忠実な兵士として命を顧みず突っ込んでいく。ワトソン氏が住むのはそのような世界だ。ワトソン氏はその優秀さゆえ、ある機関に雇われることになる。ある機関は、医者の免許をワトソン氏のために用立て、世界各国へと任務で赴かせる。その任務とは、屍者を多数配下におき、自在に使役する謎の組織の調査。

ネクロウェアと呼ばれる屍者の操縦技術。本書の19世紀末では、この様な技術が発明されおおっぴらに使用されている。ネクロウェアがあっての屍者文化だ。だが、ネクロウェアは万人に広く公開されている技術ではない。しかし、実際に大量に屍者を扱っている組織がいる。そればかりかその組織は屍者に新たな能力を吹き込む技術を開発し、それで死者をより複雑に操っているふしがある。

SFの世界でよく知られているのは、アイザック・アシモフによるロボット三原則だ。本書にはその三原則に似た別の三原則が登場する。名づけてフランケンシュタイン三原則。提唱者はフローレンス・ナイチンゲール。
一、生者と区別のつかない屍者の製造はこれを禁じる。
二、生者の能力を超えた屍者の製造はこれを禁じる。
三、生者への霊素の書き込みはこれを禁じる。

そのような原則を踏まえてワトソン氏がまず訪れたのはボンベイ。大英帝国の植民地インドにあって有数の都会。ここでバーナビーという武闘派パートナーとタッグを組むことになる。

基礎調査を終えた二人が向かったのは中央アジア。今でいうアフガニスタンにあたる。ここで二人に相対するのは、アレクセイ・カラマーゾフ。いうまでもなく『カラマーゾフの兄弟』の三男である。学究肌の控えめな人物アリョーシャとして世界文学史上でも著名なキャラクターだが、本書においては「ザ・ワン」の遺志を継ぎ、屍者の秘密を探る人物として登場する。

「ザ・ワン」とは、屍者を操作する技術を発見した人物である。というよりも屍者を創り上げる技術を発見した人物といえば分かりやすい。「ザ・ワン」が創造した屍者こそ、あのフランケンシュタインなのだから。上に挙げた三原則でも名前が登場するフランケンシュタインだ。

本書は虚構の世界が舞台である。著者はそれを最大限に利用し、虚構の世界の他の住人たちを自在に登場させ、本書の世界を華やかな物にしている。後の世の私たちのよく知る人物が数多く登場するのも本書の面白さといえる。

本書はワトソン氏をさらに異境へといざなう。それは日本。文明開化真っ只中の、いまだに西洋人を指して異人やメリケンさんと呼ぶ時代の日本である。そこにさらに屍者まで乱入させてしまうのだから、著者もまったくいい度胸をしている。幕末ならいざ知らず、和洋がぎこちない形で混じわっていた明治初期は、小説でもあまり読んだことがない。だが、著者は本書は外遊中に日本を訪れていたグラント米国元大統領と明治天皇の会見の場を、あろうことか屍者からなる軍勢に襲わせている。ワトソン氏の波乱万丈な旅行もそうだが、著者のプロットも相当冒険だ。ただでさえ描くのが難しい時代と場所なのに米国元大統領と天皇の会見の場を屍者に蹂躙させるのだから。でもここまでぶっ飛んだ設定だとかえってすがすがしく思えてしまう。

円城氏の著作を読むのはは「これはペンです」に続いて久々だが、どちらかといえば理論に裏打ちされた冷徹な文体が記憶に残っている。本書で目立つのは断定調の「〜る」を多く用いた文体だ。その筆致は、屍者という冷えたクリーチャーが登場する本書にあって疾走感を与える効果を発揮している。そもそも本書の文体は冷徹を通り越し、全体が冷えている。それは、冷えた死者が動き回る本書の世界観にふさわしい。冒険小説を思わせる波乱万丈な筋書きで血沸き肉踊る戦闘シーンもふんだんに用意されているのに、これほどまでに熱量が感じられない小説はなかなかない。それは読む人にとっては違和感を感じるかもしれない。だが、それが逆に本書に印象的な読後感を与えている。むしろ、死者がうごめく本書にあって、冷えていないほうがおかしいと思えるほどに。

だが熱量の点を抜きにしても、本書は生と死の境目がどこか、という深遠なテーマを追求しておりとても興味深い。意思を持たず操られていればそれは屍者なのか。果たして意思とはどこにあるのか。どこまでが自由意志なのか。自由意志があったとしてそれをどこまで発揮できているのか。

フランケンシュタイン三原則にある、生者への霊素の書き込み。これこそは、ネクロウェアを使って生者を屍者として扱う技術。ある組織とワトソン氏が追い求める本書の核心でもある。ここに至り、生者と屍者の区別は融けて無くなる。

生と死を区別する無意識の判断。著者はこの点を執拗に揺さぶる。読者は本書を読み進めるうちに、自らの価値観が揺さぶられることに気づくはずだ。果たして自分たちが生きていると断言できる根拠はどこにあるのか、と。

SFというジャンルが近未来の世界を借りて、人間の常識や概念を揺さぶることにあるとすれば、本書は過去の時間軸を借りて哲学的なまでに死生の境目を追い求めた作品といえる。円城氏恐るべしである。そして、この世界観を構想した伊藤氏もまた同じ。夭折が惜しまれる。私も伊藤氏の作品を読んでみなくては。そう思った。

‘2016/01/31-2016/02/10


アメリカの鳥


通勤車内が私の主な読書の場である。そのため、読む本はどうしても文庫か新書が多い。全集に至ってはどうしても積ん読状態となる。かさばるし重いし。そんな訳で、全集を読む機会がなかなかない。池澤夏樹氏によって編まれたこの全集も、ご多分に漏れず読めていない。この全集は、英米に偏らず世界の名作が遍く収められており、私も何冊か持っている。が、実際に読むのは本書が初めてだろう。

法人化を控えた2015年元旦。2015年の巻頭に読むべきは、会社設立の心構えについての本が相応しい。それは分かっていたが、全集を読める機会は年始しかないのもまた事実。普段読めない文芸大作が読みたい、という動機で本書にチャレンジした。

とにかく時間がかかった。本作や著者について事前の知識がないままに読み始めたものだから尚更。本書ではピーターという一人の青年の成長が丁寧に描かれている。彼の成長やいささか難解な学びの遍歴をじっくり読むあまり、なかなかページが進まなかったというのが理由だ。

思えば、ジャン・クリストフや次郎物語といった人間の成長をつぶさに書き綴る物語から遠ざかって久しい。この忙しい時代、そういった物語を読み耽ることの出来る時間を捻出することは困難だ。時代に巻き込まれている私もまた、本書のような本を読む時間はあまり与えられていない。

しかし、逆を言えば忙しない時間の合間に本書のような成長の過程を描く物語に触れることで、忙しない日々の中で我々が忘れ去ろうとしているものを取り戻せるのではないか。

そのことは、本書を読むと殊更に思う。何せ本書のテーマのひとつが文明の利器への抵抗なのだから。主人公ピーターの母ロザモンドは、その信条を愚直に貫こうとする人物である。加工食品を頑なに拒み、素材をいかした料理をよしとする。ミキサーやフードプロセッサーには見向きもせず、昔ながらの料理法こそが正しいと信ずる。充分に聡明でありながら、ロザモンドの信念は堅い。

本書は1960年代中盤を舞台とする。遺伝子組み換え食品の問題など影も形もなく、公害すらもようやく問題化され始めた時期である。文明の行く末に過剰な消費文化が待っていることや、IT化の申し子ロボットによって職が奪われる可能性も知らない時代。誰もが文明の利器の便利さに飛び付いていた頃。主人公ピーターは、そのような母ロザモンドと二人きりの家庭で育つ。古きよきピルグリム・ファーザーズのような価値観の中で。

母の薫陶の下、真面目に人生の価値を求める主人公。カント倫理学を奉じ、誰であれ人を手段として利用してはならないと自分に誓う主人公。まだアメリカが1950年代の素朴さを辛うじて残していた時代を体現するのがピーターだ。時は1964年で、ピーターは19歳。自立を追及する余り、放蕩に走るヒッピー文化前夜の話である。母から自立する人生を敢えて選ぼうとするピーターは、かろうじて素朴なアメリカを保つ主人公として読者の前に現れる。本書はそのような危うい時期の危うい主人公ピーターの成長の物語である。

冒頭、ピーターは四年前に母と訪れた地ロッキー・ポートを再訪する。前に訪れた際に巣を拵えていたアメリカワシミミズクに再会するために。しかし、アメリカワシミミズクは、姿を消していた。アメリカワシミミズク。アメリカの鳥だ。本書は冒頭からアメリカの鳥が失われる。そしてその喪失感が読者の脳裏に刻まれる。読者に本書が失われたアメリカの鳥を求める物語であることが示される。アメリカの鳥が失われるのが、アメリカが泥沼のベトナム戦争に踏み込む最中であることは決して偶然ではない。我を失ったアメリカの現状と、それに背を向けるように姿を消したアメリカワシミミズクは、本書の全体のトーンを決める。その時期はまた、既成の権威に背を向けるヒッピー文化花開く前であることも見逃せない。ピーターの性格設定がヒッピーと対極にあることと併せて作者の意図するところだろう。

つまり、本書は失われつつあるアメリカの伝統を、主人公に託して探し求める物語なのだ。

失われたアメリカを求め、母ロザモンドはロッキー・ポートに留まり古き良きアメリカに拘り続ける。一方でピーターは自らのルーツを求め、ヨーロッパへと旅立つ。

新大陸から旧大陸へ。それはアメリカのルーツ探しでもある。リーヴァイというユダヤ人の姓を持つピーター。とはいえ、敬虔なユダヤ教徒でもないピーター。彼がヨーロッパに求めたのは、ユダヤ教ではない。ユダヤ教よりも、自ら信ずる哲学の源泉、連綿と続く芯の通った文化を求めにいったのだ。

だが、その冒険心は、自分が後にしてきたアメリカと同じ性格を持つことにピーターは気付かない。それはアメリカを狂騒の渦に巻き込み、古き良きアメリカを失わせようとする。ピーターがアメリカ人としての自らに気付くのは、ヨーロッパに着いてからの事。ヨーロッパについて早々、手違いでバイクを手放すはめになる。替わりに乗った列車のボックスシートでは、いかにもアメリカ的な賑やかな中年婦人に囲まれ閉口する。この二つの出来事を通じ、ヨーロッパではアメリカ人もまた異邦人に過ぎないことを悟ることとなる。旧大陸はアメリカとは違うのである。その事を改めて実感して。

浮ついたお上りさんとしてのアイデンティティにうろたえ、必死に冷静さを保とうとするが、ますます空回りするばかり。ピーターの姿は第二次大戦の勝利者の地位を得てはじめて国際秩序の守護者としての体裁を整えようとするアメリカそのものだ。

そういった異邦人としての疎外感と母なる文化の産まれた地に住む喜び。そして、狂騒度を増す一方のアメリカ人とは自分は違うという自意識のまま、ピーターはパリやローマで成長を遂げてゆく。友人との交流。家族ぐるみの一家との付き合い。そのパーティーに参加していた女性への片思い。住宅改善デモへの参加。文化的知識と俗っぽい部分を同居させる変わり者のスモール教授との交流。そんな風に徐々にヨーロッパに馴染むピーター。

異国にアメリカを、アメリカの鳥を探しに来たのに、当の母国はベトナム戦争やヒッピー文化に騒がしく、ますますピーターからは遠ざかり、ヨーロッパに愛着は増す。しかしそれでもアメリカの鳥を求め、ピーターは遠い母と文通を重ねる。しかし、母の奮闘もむなしく、アメリカはますます文明の利器に溺れる一方。

しかし、パリで親しくなった一家の晩餐に招かれたピーターは、アメリカのジョンソン政権が北ベトナム爆撃の敢行が間近であることを聞かされ、動揺する。ヨーロッパ人として馴染みつつあった仮面が剥がれた瞬間である。自らがアメリカ人であることに辟易し続けたピーターは、報道を通して自らがアメリカ人であることに狼狽し、図らずもさらけ出してしまったということだろう。

ローマへ旅立ったピーターは、システィーナ大聖堂にスモール教授と赴く。そこでツーリズムについて思いをぶちまける。その思いとは自らがツーリズムの本場であるアメリカ市民であることや、そのツーリズムが俗にまみれ、ヨーロッパの文化の深淵を観ることなく、あまりに表面をなぞることしかしないことへの苛立ちである。そこには現代においては先進国となっているアメリカ人として、豊饒な文化的空間にいることの座りの悪さの裏返しなのだろう。また、この中でピーターは、もはやこの地球には真の旅行に値する処女地は残されていないことも指摘している。それは、母ロザモンドの拘る古き良きアメリカの文化、そして食文化がもはや残されていないことへの諦めとも取れるのかもしれない。

パリへ戻ると、浮浪者の女性を義侠心から部屋に泊める。そこには性的な欲望も何もなく、ただ単に厚意からの行動である。それは若者の正義感でもあり、おそらくはベトナム戦争の反動といった意味が込められているのだろう。本書を通してピーターは童貞を通すが、それもフリーセックス全盛のアメリカ文化への対比軸であることは言うまでもない。

しかし、アメリカの北爆は敢行され、友人と動物園に行ったピーターはそこで鳥に噛まれる。アメリカの鳥を求めてヨーロッパに来たピーターは、黒い鳥に噛まれて感染症にかかる。これ以上ない皮肉である。意識を取り戻したピーターは枕元にいる母ロザモンドを認める。夢から覚めてみれば結局アメリカからの使者が待っていたという結末だ。朦朧としたピーターは夢の中である人に出会う。その人が発した「もう見当はついているかもしれないね。自然は死んだのだよ、マイン・キント(我が子よ)」で本書は締められる。

アメリカが苦しみ、変化を遂げた1960年代にあって、本書のような物語が語られたことは、必然であったのかもしれない。アメリカのうろたえ振りは、当時の著者にとって本書を書かせるまでに深刻に映っていたのだろう。その堕ちていくアメリカと、失われていく自然を描いた本書は、大河小説としても一級であるし、我々が現代で失われていたものを気付かせる点でももっと読まれてもよいのではないか。

結果として、帰省中に読了することができず、痛勤車内で読むはめになってしまった。本書がどこかの文庫も再録されればよいのに。

‘2015/01/02-2015/01/15


アメリカひじき・火垂るの墓


実は著者の本を読むのは初めて。本書のタイトルにもなっている「火垂るの墓」も初めてである。しかし、粗筋はもちろん知っている。スタジオジブリによるアニメを一、二度見ているためだ。「火垂るの墓」は、アニメ以外の文脈からも反戦という括りで語られることが多い。そのため私もすっかり知ったつもりになっており、肝心の原作を読めていなかった。今回が初めて原典を読むことになる。きっかけは「火垂るの墓」が私のふるさと西宮を主な舞台としているからだ。故郷についてはまだまだ知らないことが多く、ふるさとを舞台にした芸術作品にもまだ見ていないものが多い。折を見て本書を読むいい機会だったので今回手に取った。

一篇目「火垂るの墓」の文体は実に独特だ。独特な節回しがそこかしこに見られる。しかしくどくない。過度に感情に訴える愚を避けている。淡々と戦争に翻弄される兄妹の境遇が語られる。

戦争が悲惨なことは云うまでもない。多くの体験談、写真から、映画や小説、舞台に至るまで多数語られている。普段、慎ましく生活する市民が国の名の下に召集され、凄惨な銃撃戦に、白兵戦に否応なしに巻き込まれる。銃後の市民もまた、機銃掃射や空襲で直接の被害を受ける。もう一つ、間接的な被害についても忘れてはならない。それは子供である。養育する大人を亡くし、空襲の最中に放り出された子供にとって、戦争はつらい。戦時を生きる子どもは、被害者としての時間を生きている。

「火垂るの墓」が書かれた時代からも、60年の時を経た。今はモノが余りすぎる時代だ。私も含めてそのような時代に育った子供が、「火垂るの墓」で描かれた境遇を実感するのはますます難しくなっている。西宮を知っている私でも戦時中の西宮を連想することはできない。「火垂るの墓」は今まで著者自身によっても様々に語られ、事実でない著者の創作部分が多いことも知られている。それでも、「火垂るの墓」は戦争が間接的に子供を苦しめることを描いている。その意義は不朽といえる。

我が家では妻が必ず見ると泣くから、という理由により滅多にみない。水曜ロードショーであっても土曜洋画劇場であっても。しかし、そろそろ娘達には見せておかねばならないと思う。見せた上で、西宮のニテコ池や満地谷、西宮浜を案内できれば、と思う。これらの場所が戦時中、アニメに描かれたような貧しさと空腹の中にあったことを如何にして教えるか。私の課題とも言える。もっとも訪れたところで今の子供たちに実感することは至難の業に違いないだろうが。

本書には「火垂るの墓」以外にさらに五篇が収められている。まずは二篇目「アメリカひじき」。こちらは敗戦後の日本の世相が描かれている。そこでは復興成ったはずの日本に未だに残る負け犬根性を描いている。未だ拭い去れない劣等感とでもいおうか。TV業界に勤務する俊夫の妻京子が、ハワイで知り合ったヒギンズ夫妻を客人として迎え、好き放題されるというのが筋だ。俊夫は終戦時には神戸にいて、戦時中のひもじさや、進駐軍の闊歩する街を見てきている。父は戦死したが、空腹には勝てず、ギブミーチョコレート、ギブミーチューインガムと父の敵である進駐軍にねだる。終戦の日にアメリカが神戸の捕虜収容所に落とした物資の豊かさと、その中に混ざっていた紅茶をアメリカひじきと思って食べた無知の哀しみ。

ヒギンズ夫妻は、すでに引退したが、かつて進駐軍として日本にいたことがある。俊夫と京子のおもてなしは全て袖にされ、全く感謝もされない。我が道をゆくかのごとく自我を通すヒギンズは、もてなされることを当然とする。その上で俊夫と京子の親切心は全てが空回りとなる。食事も性欲も、すべてにおいて俊夫の想像を凌駕してしまっているヒギンズには、勝者としての驕りが満ちている。その体格や態度の差は、太平洋戦争で日米の戦力や国力の差にも通ずる。

挙句の果てに接待に疲れ果てて、諍いあう俊夫と京子。俊夫と京子が豪勢な食事を準備したにもかかわらず、その思いを歯牙にもかけず、別の場所に呼ばれて行ってしまったヒギンズ夫妻。俊夫はその大量の食材をせっせと胃の中に収めるのであった。その味は高級食材であっても、もはやアメリカひじきのように味気ないものでしかない。

今でこそ「お・も・て・な・し」が脚光を浴びる我が国。野茂、イチロー、錦織、ソフトボール、ラグビー、バブル期の米資産の買い占めなど、表面上はアメリカに何ら引け目を感じさせない今の我が国。しかし、世界に誇る高度成長を遂げる前はまだまだ負け犬根性がこびりついていたのかもしれない。「アメリカひじき」には、その当時のアメリカへの複雑な感情が盛り込まれており、興味深い。

今でこそ、対米従属からの脱却を叫ぶ世論。あの当時に決められた一連の政策を、それこそ憲法制定から間違っていたと決め付ける今の世論。だが、当時は当時の人にしか分からぬ事情や思惑があり、今の人には断罪する資格などない。「アメリカひじき」を読む中、そのような感想が頭に浮かんだ。

三篇目の「焼土層」は、復興成った日本のビジネスマンが、敗戦の日本を振り返る話。芸能プロダクションに努める善衛には、かつて神戸で12年間育ててくれた養母が居た。それがきぬ。終戦直後の混乱の中、善衛を東京の親族に送り届けるため、寿司詰め電車でともに上京したきぬ。以来二十年、善衛はサラリーマンとして生活し身を立てる。そして身寄りのないきぬは神戸でつつましく生き続け、とうとう亡くなった。きぬを葬る為に神戸へ向かう善衛。

20年の間に、善衛は変わり、日本も変わった。しかしきぬは、何も変わらず終戦後を生きていた。養母へのせめてものお礼にと毎月1万円をきぬに送金していた善衛。が、遺品を整理した善衛は、きぬが善衛からの仕送りだけを頼りに生きていたことを知る。そのことに善衛は自分の仕打ちの非道さを思い知る。そして、忘れようと思った敗戦後の月日が自分の知らぬところできぬの中に生き続けていたことに思いを致す。

云うまでもなく、本篇は戦後の日本の歩みそのものを寓意化しているといえる。日本が何を忘れたのか、何を忘れ去ろうとしているのか、を現代の読者に突き付けるのが本篇と言える。

四篇目「死児を育てる」。これもまた日本の辛く苦しい時期を描いた一篇だ。日本の辛く苦しい時期といえば、真っ先に戦時中の空襲の日々が挙げられる。

主人公の久子は、幼いわが子伸子を殺した容疑で取り調べ室にいる。

子煩悩の夫貞三は伸子をことのほか可愛がっていた。しかし、得体のしれない違和感を伸子に抱き続ける久子。ノイローゼなのか、育児疲れなのか、久子の殺害動機を問い質す刑事たち。取調室の中から、久子の意識は空襲下の防空壕へと飛ぶ。空襲下、まだ幼い妹の文子を喪った記憶に。東京の空襲で母を亡くし、幼い文子を連れて新潟へと疎開する久子。しかし、姉妹に気を配ってくれるものなどいない。防空壕で夜泣きする文子に久子の心身は蝕まれる。文子の分の配給食を横取りし、殴りつけては夜泣きを止めさせる久子。しかも新潟は第三の原爆投下予定地として市民は気もそぞろとなり、久子は文子を土蔵に置き去りにしたことも気付かぬまま飛び出す。戻ってきた時、文子は置き去りにされたまま死に、身体はネズミにかじられていた。

伸子を産んでからの久子が抱える違和感と文子との思い出がよぎり、交差する。我々読者には、久子が伸子を殺した理由を容易に察することが出来る。育児放棄でもノイローゼでもなく、文子への罪悪感といえば分かりやすいか。

本篇における久子と文子の関係は、「火垂るの墓」における清太と節子のそれを想起させる。とはいえ、物語の構成としては「火垂るの墓」よりも文体も含めて洗練されているのが本篇であるように思える。中でも最終頁は実に印象深い。すぐれた短編の持つ鮮やかなひらめきに溢れている。本書の六篇の中でも、本篇は短編として最も優れていると思えるのではないか。また、本篇が反戦文学としての骨格も失わず、短編としてしまった体つきをしていることも印象深かった。

五篇目「ラ・クンバルシ-タ」と六篇目「プアボーイ」は、ともに戦後の混乱の中、身寄りなく生きる少年の無頼な生き様を描いている。この二篇からは戦争の悲惨さよりは、次世代へと向かう逞しさが描かれている。戦争で経験させられた痛みと、その後の復興の最中を生き延びた必死な自分への再確認を、著者はこの二篇に託したとすら思えるのである。そこには、戦後マルチな才能を発揮し、世の中を生き延びた著者自身の後ろめたさも含まれているように思え、興味深い。後ろめたさとは、罪もなく戦争で死んでいった人々に対し、生き延びたことへの無意識の感情だ。

だからといって、著者の生き方は戦死者も含めて誰にも非難できはしまい。私自身も含め。そもそも、私は自粛という態度は好まない。昭和天皇の崩御でも、阪神・淡路大震災でも東日本大震災でも世に自粛の空気が流れたことがあった。しかし、私自身阪神・淡路大震災の被災者として思ったのは、被害者から平穏無事に生きる人々に対して云うべき言葉などないということだ。太平洋戦争で無念にも亡くなられた方々が泉下から戦後の日本について思う感情もまた同じではなかろうか。

著者はおそらくは贖罪の心を小説という形に昇華することが出来た恵まれた方であるとも言える。その成果が、本書に収められた六篇である。そこに贖罪という無意識を感じたとしても、それは私の受け取り方次第に過ぎない。著者の人生をどうこう言えるのは、著者自身でしかないのは論をまたない。そういえば著者のホームページもすっかり更新がご無沙汰となっている。しかしあの往年の破天荒な生き様が失われたとは思いたくない。本書の諸篇にみなぎる、動乱を生き抜いた人生力を見せてもらいたいものだ。

‘2014/11/18-2014/11/22


12番目のカード〈下〉


下巻では、冒頭からチャールズが関わっていた秘密の一端が解かれる。それは合衆国連邦憲法の修正第十四条の成立にまで遡る。

修正第十四条とは、合衆国連邦憲法が、各州の定める州法を制限できなかった反省から産まれたという。南北戦争の際、南部諸州は、黒人の人権を制約する州法を成立させ、それに対して合衆国連邦憲法の最初の修正十箇条である権利章典は、なんの制限もかけられなかった。その反省を活かし、現在に至るまで修正第二十七条までが制定されている。悪名高い修正第十八条(禁酒法)以外は、今この瞬間も有効な条文だという。

私はこの条文の存在を、本書を読むまで知らなかった。アメリカの公民権運動にとって、これほどまでに重要な条文を。自分の無知さ加減は相当なものと思わざるを得ない。

本書55頁に、このような台詞がある。「もし修正第十四条が無効だとしたら、このチャールズ・シングルトンが知ってしまった何かのために無効なのだとしたら、私たちが謳歌しているこの自由に終焉が訪れるでしょう」この台詞が本書で扱われている過去の謎の中心となる。このため、チャールズの知る真実は闇に葬られなければならなかった。

本書は時空を超える、と上巻のレビューに書いた。すなわち、ライムの科学調査の網は、百数十年前へと遡る。歴史を辿り、当時の遺物から獲物をさがす。それが何かは読んでご確認頂きたいが、なるほどという形で百数十年前の事実は暴かれていく。本シリーズの面目躍如といえる。

暴かれるのは、それだけではない。ジェニーヴァの境遇に関する秘密や、ボイドとライムの頭脳戦の結果も同じく。そして、世界屈指の大都会である、ニューヨークの混沌とした黎明期の闇すらも。

ライムの判断は本書でも的確で、ジェニーヴァを狙う相手との頭脳戦にことごとく勝利する。本書で唯一難をつけるとすれば、勝ちすぎることだろうか。もちろん、それはリンカーン・ライム一人の手柄ではない。著者の別シリーズで主役を張る筆跡鑑定のプロ、パーカー・キンケイドも登場する。本シリーズお馴染みのロン・セリットーは、本書の中で臆病風に吹かれ、刑事としての自信を失いかけるが復活し、敵を追い詰める。リンカーン・ライムの恋人のアメリア・サックスのグリッド探索は本書でも健在で、その調査能力だけでなく勇敢な行動に味方は救われる。そういったシリーズキャラクター達の力によって、ジェニーヴァを狙う敵の攻撃はことごとく間一髪で防がれてしまう。その展開に、ほんの少し単調さを感じてしまったのは、どんでん返しの名手たる著者への期待が勝ちすぎたからか。

とはいえ、本書のテーマはライムの頭脳を称賛するところにはない。本書のテーマはアメリカの国史において常に虐げられてきた黒人を描くことにある。本書は最後まで黒人としての悲しみに筆を割くことを忘れない。黒人の若者が陥りがちな転落。巻末近くで、ジェニーヴァの親友ラキーシャは、この転落へと自ら陥ろうとする。不用意に黒人の置かれた境遇に同情はしないが、そのような転落が黒人社会で往々に見られることを、著者は隠さない。しかし、その中にも著者は救いを描き出す。ジェニーヴァは将来の進路を法律に定め、弱者への救済を図ろうとする。そして、その努力の最中も親友ラキーシャの救出を諦めない。黒人の陥りがちな落とし穴、それに対して闘うことの気高さが表れている場面といえる。

弱者への眼差しを常に忘れない本書は、弱者への救いの手を差し伸べることもしない。本シリーズを通じて幾度も描かれるのは、重度障害者としてのライムの苦しみ、そしてその絶望に落ち込まない強さである。本書は、黒人という弱者にあって、希望を持ち続ける気高さを称える。上巻の序盤でチャールズの手紙の一節に書かれた「五分の三の人間」という言葉がある。これは、一人という単位で数えられなかった黒人奴隷を言い表した言葉だが、裏を返せば不完全な人間のことと読める。それは自分では移動もままならないライムのことを暗に言い表している。だが、五分の三の人間であっても、努力次第で完全な人間として成り得るのだ。そのことは、つい数十年前まで公民権運動を勝ち取るため、苦しい戦いをしてきたアメリカの黒人の歴史に顕著に出ている。

最終ページで、著者はライムの独白の形を借りて、以下の文章を綴る。その文章こそが、本書のテーマであり、今の政財界、芸能・スポーツ界に活躍の場を広げる黒人達の努力の象徴ともいえる。

「人を五分の三の人間にするのは、政治家でも、ほかの市民でも、故障した体でもない。自分を完全な人間と見てそのように生きるか、不完全な人間と見てそのように生きるか、それを決めるのは、自分自身だ。」

‘2014/10/08-‘2014/10/10


12番目のカード〈上〉


今回のリンカーン・ライムシリーズは時空を超えて展開する。時空といっても荒唐無稽な話ではない。

ある殺人未遂事件の背後にある、アメリカの歴史にとって触れられてはならない暗部。これが本書のテーマとなる。サスペンスと推理が融合した当シリーズではあるが、リンカーン・ライムが扱うのは現代の事件だけではない。時には時代を遡って捜査することがある。そのような過去への趣向が散りばめられたのが本書である。とはいえ、知っている方はご存じの通り、リンカーン・ライムが道楽で過去の事件を掘り下げる訳がない。ではなぜか。それは、現代に起きた事件の背後を探る上でアメリカの過去を遡る必要に迫られためである。

アメリカの歴史を語る上で、黒人奴隷の虐げられた苦闘の跡は避けて通れない。今でこそオバマ大統領を始め、政財界、芸能、スポーツ界で活躍する黒人の方々は多い。しかし、つい半世紀前までは黒人に対する激しい差別がまかり通っていた。キング牧師の演説でも知られる公民権運動を巡り、アメリカ社会は大きく二つに割れていた。現代に生きる我々、しかも太平洋を挟んだ日本に住んでいると、アメリカにそのような暗い過去があったことを知らない向きも多い。黒人に対する激しい差別が繰り広げられていたことなど、今の若い日本人には知らない人もいるのではないか。アメリカ社会の第一線で活躍する黒人の方々には賛嘆の言葉がいくつあっても足らない。しかし、その陰には苦難の歴史を耐え抜いてきた黒人奴隷や公民権運動に参加した黒人の連帯の強さがある。今のアメリカは、尊い先人達の努力と礎の上に築かれている。

今を生きる我々は、そんな負の過去をも乗り越えようとしているアメリカの強さと、人種差別史の中でも特筆すべき転換期を目の当たりにしていると言えるだろう。

しかし、そうした日の当たる場所で活躍する黒人がいる一方、未だに人種差別に喘いでいる方々がいることも忘れてはならない。人種差別が悪という社会的な認識が広がった今、差別は裏側に潜み、陰険化し、一層始末に悪くなっているとも言える。

本書は、そうした黒人の解放の歴史にまつわる秘話を背景に置く。そして現代のニューヨークに残る差別の残滓を、ヒップホップに代表される黒人文化に絡めてあぶり出す。事前のリサーチの質量には定評ある著者。本書もかなり深いところまで黒人文化が描かれていると感じた。

過去の謎と現代の謎。それらが縦横に織られ、本書は進む。

本書の主要人物はジェニーヴァ。黒人の女子高生である。黒人であり女子高生。本書冒頭で何者かに襲われるが、咄嗟の機転で襲撃を交わす。一般に社会的弱者として括られがちな彼女は、その境遇にもくじけぬ聡明で優秀な人物として描かれる。本書を通して、彼女は保護されつつも、過去と現在の謎を解くため、積極的にライムとその仲間たちに関わって行く。

過去の謎とはジェニーヴァの四代ほど前の祖父チャールズ・シングルトンにまつわるものである。本書中程の188-189頁のライムのセリフで、彼のことが触れられている。「チャールズについて、わかっていることは何だ?教師で、南北戦争の兵士だった。州北部に農園を所有し、経営していた。窃盗の容疑で逮捕され、有罪とされた。世間に知られれば悲劇を招きかねない秘密を持っていた。ギャローズ・ハイツで開かれていた内密の集会に出席していた。黒人公民権運動に関わり、当時の有力政治家や公民権運動家と親しくしていた」

ジェニーヴァは祖父が取り上げられた雑誌を図書館で調べていたことで、命を狙われた。果たして祖父の抱いていた秘密とは何なのか。それを百何十年あとの今、調べることで、なぜ命を狙われなければならないのか。

本書に登場する犯人は、トムソン・ボイド。彼の視点で語られる犯行は几帳面であり、大胆。犯行準備に余念がなく、生い立ちから来る無感覚の人物として造形された。だが、本書上巻では彼の目的は語られない。そしてチャールズの秘密もまた。

上巻では、ジェニーヴァの通う高校の同級生達が登場する。または、グラフィティ・キングこと、ジャックスという謎の人物。ジャックスはけちな小犯罪者とは一線を画した顔を時折覗かせる。高校生やジャックスによって黒人社会の様子が多面的に、多層的に描かれる。その中で著者はさまざまな視点を提供する。我々が黒人社会に抱くステレオタイプな見方は、著者によって乱され、惑わされ、まだまだ黒人社会の一面しか知らなかったことを思い起こされる。同情もしなければ、罵倒もしない。本書で書かれる黒人たちへの視線は公平である。公平とは言っても突き放した視線ではなく、その視線は温かい。

白人である著者がこのような視点で紡げることに、アメリカにおける人種差別問題が解決に向けた第一歩を踏み出しつつあることを感じた。

‘2014/10/4-2014/10/8


ジェノサイド


冒険小説の黄金作再び!本作の登場を歓迎する!

80~90年代、我が国の冒険小説は実に豊潤であった。私も船戸与一氏や、逢坂剛氏、谷甲州氏、北方謙三氏、志水辰夫氏、佐々木譲氏などの作品群を良く読んだものである。

以来四半世紀が過ぎ、その時々で秀作に巡り会えてはいたものの、冒険小説界隈ではあの頃のような豊作に巡り会えない日々が続いた。

これは私感だが、ITや科学技術の急速な発展が、冒険小説の世界を縮小させてしまったのかもしれない。特にモバイル技術の普及は、冒険小説の前提を制限し、スリルを大きく殺いだに違いない。

しかし、待ち望んだ甲斐あって、本作はその黄金期を彷彿とさせる作品である。科学やITの発達も作品に盛り込んだ上、アフリカを舞台の中心に据えることで、野性味までをも充たしている。

本書の新味は冒険小説の骨格はそのままに、科学技術の発達をふんだんに盛り込んだことにあるとも言える。むしろ発達こそが本書を貫くキーワードといってもよい。

一言で発達と書いたが、それは子供から大人へ成長する発達を云うのではない。ここで云う発達とは、種としての発達である。

我々ホモ・サピエンスはネアンデルタール人と生息圏を争い、ついには絶滅へと追いやった。同じように、我々ホモ・サピエンスの能力を遥かに凌駕する新種の人類によって追いやられることがないと誰が断言できようか。地球上で我が物顔にのさばり、増長する我々人類など、ネアンデルタール人と同様の運命を辿ることも考えられるのではないか。

本書は、今の人類の傲慢さ、そして残忍さをこれでもかと描き出す。スーパーパワーを自負し、国際関係を牛耳る米国の増長。アフリカでは部族間のいさかいが止まるところを知らぬ殺戮にエスカレートし、野蛮な本能に抑えが効かない。身内の不幸には関心を示すが、遠くの虐殺には無関心な上辺の同情が先進国を覆う。隣国同士がいがみ合い、過去の歴史をいつまでも引きずり、批難し合う。

醜い人間の本能がさらけ出される前半部。愚かな旧人類は、地球の片隅に生誕した新人類(ヌ-ス)により、圧倒的な能力差を見せ付けられる。ホモ・サピエンスとしての矜持を失わない一握りの旧人類により庇護されるヌースと、支配者としての既得権益の喪失を恐れ、ヌース抹殺を図る米国の陰謀との闘いが後半部を占める。

本書の構想とスケールの大きさ、着想は見事の一言に尽きる。今の人類の抱える諸問題を、新人類の存在一つで矮小なものとしようとする力業。

残念ながら、力が余って、人物描写とその背景に深みを与えようとする意図が作品世界に違和感を漂わせることとなった。違和感の正体とは、日本を客観的に書かず、自虐的に書いてしまったことである。日本を客観的に書く時、とくに本書のような人類の愚かさを書く場合は、日本を美化することで、作品全体が嘘っぽく白けてしまう。その恐れは分かるし、著者もそれを避けたのではないか。本書では随所にアジアにおける日本についての自虐的な描写が目立つ。だが、私は本書の自虐的にも見える日本についての書き振りが、日本を貶めようとするためではないと信じたい。日本人科学者を助ける有能な韓国人という話の構成は悪くない。本来は日韓が歴史認識でいがみ合うのではなく、助け合うべきというのが著者の主張したかったことではないかと思う。

本書に登場する新人類は、ガンダムシリーズにおけるニュータイプよりも一層、そのかけ離れた能力故に絵空事に近い。とはいえ、今、この瞬間にも新しい人類は誕生しており、我が世の春を謳歌する我々に鉄槌を下すべく成長を始めている可能性も皆無ではない。人類が民族や宗教、文化の隔たりを越えて団結できるのは、人類の枠を超えた強大な敵が現れた時でしかないという寂しい予想もある。人類とは自らの内から変革できるだけの器ではなく、外からの攻撃によってしか変革できない種なのかもしれない。

反日や自虐。著者がそのような括りで批難されることを想定しなかったとは思えない。むしろそういわれることを覚悟しつつ、孤高の視点から人類という種を書きたいというのが著者の真意ではないか。本書の優れた冒険小説としての完成度が、そんなありきたりのアンチワードで壊されるのは耐え難い。そう思いたくなるほど、本書の描写には力がある。

‘2014/9/5-2014/9/6


1922


著者の真骨頂は長編にあり。そう思う向きも多いだろう。しかし、実は中短編にも優れた作品が多数ある。むしろ饒舌なまでに読者の恐怖を煽りたてる長編よりも、シンプルで勘所を得た中編こそ、著者のストーリーテリングの素晴らしさが味わえるといってよい。本書は著者が世に問うた中編の中でも出色の出来と言える。本書は、4つの中編を編んだ「Full Dark, No Stars」のうち、「1922」と「公正な取引」の2編を文庫化したものである。

原題からも分かるとおり、本書の元となった中編集はダークな内容に満ちている。巨匠がダークサイドに徹した時、どこまで暗くなれるか、本書を読めばその結果は自ずと導かれる。

前者、「1922」は、アメリカ中西部のネブラスカを舞台にした一品である。都会はローリング・トウェンティーズの好景気に沸く一方、まだその波が及ばぬ地方都市は、都会の価値観とフロンティアのそれがせめぎ合っていた時代である。本編では、ここで繰り広げられるある一家の転落を通じ、その時代のアメリカが孕んでいた矛盾を炙り出している。とはいえ、ホラーの妙手である著者がより暗きを目指して描いたのが本編である。そのような純文学的なトーンとは無縁といってもよい。本編では実に徹底的に一家の転落と破滅が紡がれる。超常現象は最小限に抑え、時代に即した小道具と舞台設定が散りばめられた本編は、読者を1920年代のアメリカの片田舎の情景を思い出させる。それでいて饒舌に陥らず、簡潔に中編に収めた上、ダークな色合いで塗りつぶした著者の技には文句のつけようがない。

後者、「公正な取引」は、悪魔との取引譚である。その悪魔が、著者の作品によく出てくるステレオタイプな描写になっているのは残念だが、悪魔はその取引のシーンにしか登場しない。本編の登場人物は主人公一家と、その親友一家。癌に犯され、人生も落ち目な主人公は、偶然出会った悪魔と取引を行う。その取引によって、境遇が暗転したのが、順風満帆な人生を歩んでいた主人公の親友とその一家である。その落魄振りと主人公の上向き度合いの落差は、もはやギャグといっても過言ではなく、著者もブラックユーモリストとしての本領を存分に楽しみながら書いたのではなかろうか、と思えるほどである。つまり、本編は暗いといってもブラックユーモアの暗さである。これまた楽しみながら読める一編である。

冒頭に「Full Dark, No Stars」のうち、2編を本書に収めたと書いた。「1922」の絶望的な闇と、「公正な取引」の戯画的なダークネスの双方を収めた本書は、つり合いもとれており、編者の選出の妙が光っているといえる。

’14/08/11-‘14/08/12


競売ナンバー49の叫び


氾濫するシンボルとエピソードの数々。喧噪と反映の中で急速に繁栄への道を駆け上がってきたアメリカの縮図のような本書は、とにかくにぎやかである。

謎が謎を呼び、何重にも入り組んだ物語迷宮の中で、下手をすれば筋を見失いそうになることもあるが、謎を追うという趣向のため、比較的すらすらと読めるのではないだろうか。

それでも巻末に付された解説がなければスルーしてしまう箇所が多く、何度も読めるし、何度も読まねば全貌を理解できたとはいえない小説の一つかもしれない。

私もこの場で解説や批評できるほど理解できたとは思えないけれども、急速に世界の主軸に登り詰めたアメリカという国家を理解するために、本書を読んでおくことは無駄ではないと思える。

’12/03/17-12/03/22


すべての美しい馬


少年と青年を隔てるものがなにか、という主題について近代文学では、幾多の作家が採り上げてきた。

大部分の人は少年から青年への移り変わりに気付かず、青年になって初めて自分が何を失い何を背負ったかを知る。そして、社会に囲われ時代に追われる自分を突き付けられる度に、こんなはずではなかったと精進を誓い、そこから逃れるために少年期の自分が何者だったかもう一度思い返そうと文章に表したり、読み返したりすることで、失われた過去を取り戻そうとする。

私などがそのいい見本である。

本書は少年から青年への通過儀礼を描く試みに成功しているばかりか、国境越えと恋愛、そして荒野と都会との対比など、重層的なテーマを詩的な文体の中に散りばめることで、見事な文学作品として体をなしている。

広がる荒野、夜空に瞬く星々、素朴な人々、そして生命力の象徴である馬。それら描写は少年のまっさらな人生のこれからの可能性を想像させて余りある。

逆に、少年の農場が工場になる将来、粗暴な人々、新たな出会い、そして別れは青年に降りかかる試練を暗示しているように思える。

本書では重要な分岐点として、主人公の燃えるような恋と、それがもたらす新たな苦難についても残酷なまでに筆を揮っている。人生にとって恋が分岐点となる展開は、通俗的ではあるが、外せない点ではないか。

読み終えた後、読者は主人公たちが少年から青年へと成長を遂げ、これから彼らがどんな人生を歩んでいくのだろうと思わずにはいられない。子供の時にあれほど憧れていた大人の世界を、大人になった今どう思っているか、読者の想像力に委ねられる部分であり、読書の醍醐味もここにあるのではないだろうか。

大方の人がこういった分かり易い通過儀礼を経ている訳ではないけれど、自分の過ぎ去った成長の跡を思い返すきっかけには相応しい作品である。

’12/02/24-’12/02/29


逆立ち日本論


物事をあるがままに見ようとしても、様々な錯視の実例を見る度に、自分の見ている物についての確信が揺らいでくる。それと同じく、自分の考えというものを確立しようと思う度に、考えの立脚点を強固な地に置いたつもりが、実はいびつだったと思い知らされることがいかに多いか。

養老氏の著作を読むたびにそういう思いに駆られる。今回、2011年の締めくくりとして自らの未熟さを思い知った上で、新年を迎えるにあたっての戒めとしようという思いから本書を手に取った。今回対談相手を務めている内田氏、実は著作はおろか、雑誌などでも論考を目にしたことがなく、期待感とともに読み進めた。

帯や背表紙などで、色んな論点に飛び回っての自由な対談であることは予想していたけれど、期待通りの内容。逆に期待と違ったのは、自らの論考の錯覚に気付かされた箇所が少なく、予てより考えていた自分の論点について、わが意を得たり、という意見が数か所あったのも、収穫であろうか。

たとえばユダヤ人については、私も教科書的な知識しかもっていなかったけれど、そもそもユダヤ人の定義自体が学術的にあいまいなことを通じて、二人でユダヤ人の定義に迫ろうと試みる部分、実はこの部分は日本人とは何かという考えに通ずる部分があり、意識がそもそも根源的な遅れを経て言葉として発せられる、つまりそこからあらゆるアイデアの元を追求することに英知への入り口があるというくだり、感銘を受けた。

個人情報保護法に関する部分もわが意を得たりと頷けた。情報産業に関わる私、直接的に情報保護については関与することも多いけれど、昔から情報保護というお題目にある種のもやもや感を抱いたままだった。本書を通じてそのもやもや感が大分整理された気がする。2012年に入ってmixi上にてSNSとの関わりを変えていく、という宣言をしたのだけれど、匿名か実名か、というSNSを使い分ける際の大きな問題について吹っ切れたこともあり、2012年からは実名アカウントであるFacebookへのかかわりを強めるきっかけとなったのが本書とも言える。

あまりにも対談のテーマが広く、それぞれの論点で私の意見を開陳すると冗長になるためこれ以上は書かないけれど、色々な論点について、その根源となるさらなる論点が潜んでいることに思いを致すことなく考えを述べている自分を戒めつつ、精進をしたいと思った。いい本で一年の読書体験を締めくくることが出来、満足である。

’11/12/27-’11/12/31