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ヒトラーのための虐殺会議


恐ろしいホラー映画を観終わった後の気分だ。

本作からは悲鳴や金切り声が一切聞こえない。もちろん、流血や死体すらまったく登場しない。
それなのに、なぜこれほどまでに恐ろしさを感じるのだろうか。

その理由は、この映画で描かれる情景があまりにも普通だからだ。日常で経験する仕事の光景で見慣れた営み。
それは、自分がこの映画の登場人物であるかもしれない可能性を思わせる。またはこの映画が私の日常をモデルにしているのかもしれない可能性に。

私も普段、お客様と会議を行う。弊社内でも会議を行う。
ある議題に対して、参加者から次々と意見が出され、それに対する対案や意見が取り交わされる。
決めるべきことを決める。そのために資料が提示される。会議の内容は議事録にまとめられ、会議で決まった内容が記録される。

私が出席するお客様との会議も本作で描かれた会議の進行とそう違わない。
かつて、とある案件で私はPMOを務めていた。約四年半、休まずに毎週の定例会議で議事録を記していた。私がこうした会議に出席した経験は数百回に達するはずだ。
だから、本作で描かれる会議の雰囲気は私にとってまったく違和感を覚えなかった。

もちろん、本作で描かれる会議と私が日常でこなしている会議との違いは何点も挙げられる。
湖畔の瀟洒な建物。洗練された内装に、ゆったりとした調度品が室内に整然と並ぶ様子。
休憩の時間にはコニャックが振る舞われ、コーヒーなども自由に飲める。ビュッフェ形式の料理が用意され、給仕が配膳を取り仕切ってくれる。

最近の私が出席する会議はオンラインが主になっている。が、オフラインが主だったときも本作で描かれる上の情景とは違う。殺風景な会議室が主な舞台だ。ビュッフェもコーヒーもコニャックもない。
が、そういう違いはどうでもいい。
根本から異質なのは、本作で再現される会議の題材そのものだ。一見すると、ビジネスの議題と変わらないようなその議題。それこそが、私たちの感覚と根本的に違う。

ヴァンゼー会議。悪名高いホロコースト政策において、ユダヤ人問題の最終解決を推進した会議としてあまりにも有名だ。

その会議の議事録が今に残されており、その議事録をもとに再構成したものが本作である。

私たちが行う会議は、会議ごとに議題は違う。だが、ある共通の認識に基づいて開かれている。
「文明社会において合法的なビジネスの営みにのっとった手続きを遂行する」
これは、あまりにも当たり前の前提だ。そのため、会議の始まりにあたり、いちいち確認することはない。

本作で行われる会議も同じだ。参加者の全員が同じ認識を持っている。
が、共有する認識が私たちの持つ常識とはあまりにかけ離れている。
「文明社会において優れた民族が劣った民族を効率的に抹殺する必要に迫られている」
これが、参加者全員が持つ共通認識である。出席者によって違うのは、ユダヤ民族を労働力として使うのか。その最終解決の方法を人員と予算を確保し、いかに効率的に行うのか。または抹殺する方法が良心の呵責を感じないかどうか。

私たちの感覚からすれば、そもそもその前提が狂っている。
だが、そもそもユダヤ民族を排除することが前提である出席者にとっては、その前提は揺るがない。
議論されるのは遂行するための手段や予算配分であり、お互いの組織の権限をどのように侵さないかについてだ。

淡々と議事は進行していく。誰も声を荒らげず、怒号も飛び交わない。やり取りによっては不穏な空気が場を覆うが、皆があくまでも理性的に振る舞っている。
その理性的な振る舞いと良識が抜け落ちた扱っている共通認識の落差に声を喪う。

前提がおかしいと、ここまで恐ろしいことが事務的に処理されてしまう。

では、本作で描かれたような世界を私たちは違う時代の違う国で起きた事ととして片付けられるのだろうか。
否、だ。
今もロシアはウクライナに侵攻し続けている。謎の飛行物体は北米大陸に流れ、情報収集に努めている。
今も国際社会ではうそとプロパガンダがまん延している。

わが国の内側に限定してもそう。
組織のトップが決めた方針を、簡単に覆せる中間管理職がどれだけいるのだろうか。ましてや実務担当者が。
企業犯罪が報道される度、その実態が捜査される。そして何人かが逮捕される。
だが、悪に手を染めるその過程において、実務者がどれだけ組織の悪に抗えたというのだろう。集団が同じ認識に染まった中、一人だけ違う意見を出すことがどれだけ勇気がいるか。その困難に思いをいたすことは難しい。会議の場の雰囲気は、その場限りのもの。どれだけ捜査や裁判で再現されたかは疑問だ。

組織の中において、敢然と声を上げ、誤った前提に異を唱えることができる勇気。
仮に私がヴァンゼー会議の場にいたとして、前提から狂っていると反旗を翻す勇気があるとは自分は思わない。

私も小さいながら会社を経営する身として、本作で描かれる共通認識の束縛力の強さに恐ろしさを感じた。
ほんの少し、立場が違えば、弊社も非人道的なたくらみに加担してしまうのではないか。
経営者として最も戒めるべきは、示唆だけ部下にして、手を汚さない態度だ。
経営者であれば、そうした力の行使ができてしまう。
その結果、部下は上司の思いを忖度し、または曲解する。そして事態は独り歩きしていく。さらに、それに対して、経営者は責任をかぶる必要がない。部下が勝手にやった事なので、と。

本作で描かれた会議には、ヒトラーもヒムラーもゲーリングも登場しない。すべては実務に有能な部下たちが「よきにはからって」しまった結果なのかもしれない。
会議の冒頭にゲーリング国家元帥の言葉として述べられた
「組織面、実務面、物資面で必要な準備をすべて行い、欧州のユダヤ人問題を総合的に解決せよ。関係中央機関を参加させ、協力して立案し検討するように」「ユダヤ人問題の最終解決を実施せよ」のもとに。

私が最も恐ろしさを感じたのは、私がそのような巨大な過ちを起こす可能性の渦中にあることだ。

‘2023/2/12 新宿武蔵野館


HUNTING EVIL ナチ戦争犯罪人を追え


人類の歴史とは、野蛮と殺戮の歴史だ。

有史以来、あまたの善人によって数えきれないほどの善が行われてきた。だが、人類の歴史とはそれと同じくらい、いや、それ以上に悪辣な蛮行で血塗られてきた。中でもホロコーストは、その象徴として未来永劫伝えられるに違いない。

私は二十世紀の歴史を取り扱った写真集を何冊も所持している。その中には、ホロコーストに焦点を当てたものもあり、目を背けたくなる写真が無数に載っている。

ホロコーストとは、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量殺戮だ。一般的にはホロコーストで通用している。だが、ヘブライ語ではこの用例は相応しくないそうだ。ジェノサイド、またはポグロムと呼ぶのが正しいのだとか。それを断った上で、本書ではナチスによるユダヤ人の大量抹殺政策をホロコーストやユダヤ人殲滅作戦と記している。

ユダヤ人のホロコーストは、ナチス・ドイツの優生思想によって押し進められた。なお、ユダヤ人を蔑視することは歴史的にみればナチスだけの専売特許ではない。中世の西洋でもユダヤ民族は虐げられていたからだ。だが、組織としてホロコーストほど一気にユダヤ人を抹殺しようとしたのはナチスだけだ。将来、人類の未来に何が起ころうとも、ナチスが政策として遂行したようなレベルのシステマチックな民族の抹殺は起こりえない気がする。

本書は、ナチス・ドイツが壊滅した後、各地に逃れたナチス党員の逃亡とそれを追うナチ・ハンターの追跡を徹底的に描いている。

ナチス残党については、2010年代に入った今も捜索が続けられているようだ。2013年のニュースで98歳のナチス戦犯が死亡したニュースは記憶に新しい。たとえ70年が過ぎ去ろうとも、あれだけの組織的な犯罪を許すわけにはいかないのだろう。

日本人である私は、本書を読んでいて一つの疑問を抱いた。その疑問とは「なぜ我が国では戦犯を訴追するまでの経過がナチス残党ほど長引かなかったのか」だ。その問いはこのように言い直すこともできる。「なぜナチスの戦犯は壊滅後のドイツから逃げおおせたのか」と。

本書はこの問いに対する回答となっている。

ナチス・ドイツは公的には完全に壊滅した。だが、アドルフ・ヒトラーの自殺と前後して、あきれるほど大勢のナチス戦犯が逃亡を図っている。たとえば「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレ。ユダヤ人殲滅作戦の現場実行者アドルフ・アイヒマン。トレブリンカ収容所長フランツ・シュタングル。リガの絞首人ヘルベルツ・ツクルス。末期ナチスの実力者マルティン・ボルマン。

かれらは逃亡を図り、長らく姿をくらましつづけていた。これほどの大物達がなぜ長期間逃げおおせることができたのか。著者の綿密な調査は、これら戦犯たちの逃亡ルートを明らかにする。そして、彼らが逃亡にあたって頼った組織についても明らかにする。

その組織は、多岐にわたっている。たとえばローマ・カトリック教会の司祭。または枢軸国家でありながら大戦後も体制の維持に成功したスペイン。もしくはファン・ペロン大統領がナチス受入を公表していたアルゼンチン。さらに驚かされるのが英米の情報部門の介在だ。東西の冷戦が生んだ熾烈なスパイの駆け引きにナチス戦犯を利用したいとの要望があり、英米の情報部門に保護されたナチス戦犯もたくさんいたらしい。これらの事実を著者は徹底した調査で明らかにする。

上に挙げたような複数の組織の思惑が入り乱れた事情もあった。そして連合国側で戦犯リストが円滑に用意できなかった理由もあった。これらがナチス戦犯が長年逃れ得た原因の一つだったのだろう。そのあたりの事情も著者は詳らかにしてゆく。

ナチス戦犯たちにとって幸運なことに、第二次世界大戦の終戦はさらなる東西冷戦の始まりだった。しかもドイツは冷戦の東西の境界である。東西陣営にとっては最前線。一方で日本は冷戦の最前線にはならなかった。せいぜいが補給基地でしかない役どころ。そのため、終戦によって日本を統治したのはアメリカを主軸とする連合国。ソ連は統治には参加できず、連合国の西側による秩序が構築された。日本とドイツが違うのはそこだろう。

わが国の戦犯はBC級戦犯を中心として、アメリカ軍の捜査によって訴追された。約5700人が被告となりそのうち約1000人が死刑判決を受けた。その裁判が妥当だったかどうかはともかく、1964年12月29日に最後の一人が釈放されたことでわが国では捜査も裁判も拘置も完全に終結した。それは悪名高い戦陣訓の内容が「生きて虜囚の辱めを受ける勿れ」と書かれていたにもかかわらず、戦後の日本人が潔く戦争責任の裁きを受けたからともいえる。もっとも、人体実験の成果一式をアメリカに提供することで訴追を逃れた旧関東軍731部隊の関係者や、アジテーターとして戦前の日本を戦争に引き込み、戦後は訴追から逃れ抜いたままビルマに消えた辻正信氏といった人物もいたのだが。ただ、我が国の戦後処理は、ドイツとは違った道を歩んだということだけはいえる。

戦後、ユダヤ人が強制収容所で強いられた悲惨な実態とともにナチスの残虐な所業が明らかになった。それにもかかわらず、ナチスの支援者はいまも勢力を維持し続けている。彼らはホロコーストとは連合国軍のプロパガンダに過ぎないと主張している。そしてナチスの思想、いわゆるナチズムは、現代でもネオ・ナチとして不気味な存在であり続けている。

本書が描いているのはナチス戦犯の逃亡・追跡劇だ。だが、その背後にあるナチズムを容認する土壌が今もまだ欧州諸国に生き続けている事。それを明らかにすることこそ、本書の底を流れるテーマだと思う。

本書は、ナチ・ハンターの象徴である人物の虚像も徹底的に暴く。その人物とはジーモン・ヴィーゼンタール。ホロコーストの事実をのちの世に伝えるためのサイモン・ウィーゼンタール・センターの名前に名を残している。著者はヴィーゼンタールのナチス狩りにおける功績の多くがヴィーゼンタール本人による虚言であったことや、彼が自らをナチス狩りという世界的なショーのショーマンであった事を認めていた事など、新たな事実を次々と明らかにする。著者の調査が膨大な労力の上に築かれていたことを思わせる箇所だ。

本書を読むと、いかに多くのナチス戦犯が逃げ延びたのかがわかる。今や、ナチス狩りの象徴ヴィーゼンタールも世を去った。おそらく逃げ延び続けているナチ戦犯もここ10年でほぼ死にゆくことだろう。そうなった後、ナチスの戦争責任をだれがどういう方向で決着させるのか。グローバリズムからローカリズムに縮小しつつある国際社会にあって、ナチスによるホロコーストの事実はどう扱われて行くのか。とても興味深い。

ドイツや欧州諸国では、ホロコーストを否定すること自体に罰則規定があるという。その一方、我が国では上に書いた通り、戦犯の追及については半世紀以上前に決着が付いている。ところが、南京大虐殺の犠牲者の数や従軍慰安婦の問題など、戦中に日本軍によって引き起こされたとされる戦争犯罪についてはいまだに被害国から糾弾されている。

一方のドイツでは大統領自身が度々戦争責任への反省を語っている。一方のわが国では、隣国との間で論争が絶えない。それは、ドイツと日本が戦後の戦犯の訴追をどう処理し、どう決算をつけてきたかの状態とは逆転している。それはとても興味深い。

私としては罪を憎んで人を憎まん、の精神で行くしか戦争犯罪の問題は解決しないと思っている。あと30年もたてば戦争終結から一世紀を迎える。その年月は加害者と被害者のほとんどをこの世から退場させるに足る。過去の責任を個人単位で非難するよりは、人類の叡智で同じような行いが起きないよう防止できないものか。本書で展開される果てしない逃亡・追跡劇を読んでそんな感想を抱いた。

‘2017/02/07-2017/02/12