Articles tagged with: 資本主義

BLOCKCHAIN REVOLUTION


本書は仲良くしている技術者にお薦めされて購入した。その技術者さんは仮想通貨(暗号通貨)の案件に携わっていて、技術者の観点から本書を推奨してくれたようだ。投資目的ではなく。

ブロックチェーン技術が失敗したこと。それは最初に投機の側面で脚光を浴びすぎたことだろう。ブロックチェーン技術は、データそれ自体に過去の取引の歴史と今の持ち主の情報を暗号化して格納したことが肝だ。さらに、取引の度にランダムに選ばれた周囲の複数のブロックチェーンアカウントが相互に認証するため、取引の承認が特定の個人や組織に依存しないことも画期的だ。それによって堅牢かつトレーサビリティなデータの流れを実現させたことが革命的だ。何が革命的か。それはこの考えを通貨に適用した時、今までの通貨の概念を変えることにある。

例えば私が近所の駄菓子屋で紙幣を出し、アメちゃんを買ったとする。私が支払った紙幣は駄菓子屋のおばちゃんの貯金箱にしまわれる。そのやりとりの記録は私とおばちゃんの記憶以外には残らない。取引の記録が紙幣に記されることもない。当たり前だ。取引の都度、紙幣に双方の情報を記していたら紙幣が真っ黒けになってしまう。そもそも、現金授受の都度、紙幣に取引の情報を書く暇などあるはずがない。仮に書いたとしても筆跡は乱雑になり、後で読み取るのに難儀することだろう。例え無理やり紙幣に履歴を書き込めたとしても、硬貨に書き込むのはさすがに無理だ。

だから今の貨幣をベースとした資本主義は、貨幣の持ち主を管理する考えを排除したまま発展してきた。最初から概念になかったと言い換えてもいい。そして、今までの取引の歴史では持ち主が都度管理されなくても特段の不自由はなかった。それゆえ、その貨幣が今までのどういう持ち主の元を転々としてきたかは誰にもわからず、金の出どころが追求できないことが暗黙の了解となっていた。

ところが、ブロックチェーン技術を使った暗号通貨の場合、持ち主の履歴が全て保存される。それでいて、データ改ざんができない。そんな仕組みになっているため、本体と履歴が確かなデータとして利用できるのだ。そのような仕様を持つブロックチェーン技術は、まさに通貨にふさわしい。

一方で上に書いた通り、ブロックチェーン技術は投機の対象になりやすい。なぜか。ブロック単位の核となるデータに取引ごとの情報を格納するデータをチェーンのように追加するのがブロックチェーン技術の肝。では、取引データが付与される前のまっさらのデータの所有権は、ブロック単位の核となるユニークなデータの組み合わせを最初に生成したものに与えられる。つまり、先行者利益が認められる仕組みなのだ。さらに、既存の貨幣との交換レートを設定したことにより、為替差益のような変動利益を許してしまった。

その堅さと手軽さが受け、幅広く使われるようになって来たブロックチェーン。だが、生成者に所有権が与えられる仕様は、先行者に富が集まる状況を作ってしまった。さらに変動するレートはブロックチェーンに投機の付け入る余地を与えてしまった。また、生成データは上限が決まっているだけで生成される通貨単位を制御する主体がない。各国政府の中央銀行に対応する統制者がいない中、便利さと先行者利益を求める人が押しかける様は、ブロックチェーン=仮想通貨=暗号通貨=投機のイメージを世間に広めた。そして、ブロックチェーン技術それ自体への疑いを世に与えてしまった。それはMt.Goxの破綻や、続出したビットコイン盗難など、ブロックチェーンのデータを管理する側のセキュリティの甘さが露呈したことにより、その風潮に拍車がかかった。私が先に失敗したと書いたのはそういうことだ。

だが、それを差し引いてもブロックチェーン技術には可能性があると思う。投機の暗黒面を排し、先行者利益の不公平さに目をつぶり、ブロックチェーン技術の本質を見据える。すると、そこに表れるのは新しい概念だ。データそれ自体が価値であり、履歴を兼ねるという。

ただし、本書が扱う主なテーマは暗号通貨ではない。むしろ暗号通貨の先だ。ブロックチェーン技術の特性であるデータと履歴の保持。そして相互認証による分散技術。その技術が活用できる可能性はなにも通貨だけにとどまらない。さまざまな取引データに活用できるのだ。私はむしろ、その可能性が知りたい。それは技術者にとって、既存のデータの管理手法を一変させるからだ。その可能性が知りたくて本書を読んだ。

果たしてブロックチェーン技術は、今後の技術者が身につけねばならない素養の一つなのか。それともアーリーアダプターになる必要はないのか。今のインターネットを支えるIPプロトコルのように、技術者が意識しなくてもよい技術になりうるのなら、ブロックチェーンを技術の側面から考えなくてもよいかもしれない。だが、ブロックチェーン技術はデータや端末のあり方を根本的に変える可能性もある。技術者としてはどちらに移ってもよいように概念だけでも押さえておきたい。

本書は分厚い。だが、ブロックチェーン技術の詳細には踏み込んでいない。社会にどうブロックチェーン技術が活用できるかについての考察。それが本書の主な内容だ。

だが、技術の紹介にそれほど紙数を割いていないにもかかわらず、本書のボリュームは厚い。これは何を意味するのか。私は、その理由をアナログな運用が依然としてビジネスの現場を支配しているためだと考えている。アナログな運用とは、パソコンがビジネスの現場を席巻する前の時代の運用を指す。信じられないことに、インターネットがこれほどまでに世界を狭くした今でも、旧態依然とした運用はビジネスの現場にはびこっている。技術の進展が世の中のアナログな運用を変えない原因の一つ。それは、インターネットの技術革新のスピードが、人間の運用整備の速度をはるかに上回ったためだと思う。運用や制度の整備が技術の速度に追いついていないのだ。また、技術の進展はいまだに人間の五感や指先の運動を置き換えるには至っていない。少なくとも人間の脳が認識する動きを瞬時に代替するまでには。

本書が推奨するブロックチェーン技術は、人間の感覚や手足を利用する技術ではない。それどころか、日常の物と同じ感覚で扱える。なぜならば、ブロックチェーン技術はデータで成り立っている。データである以上、記録できる磁気の容量だけ確保すればいい。簡単に扱えるのだ。そして、そこには人間の感覚に関係なくデータが追記されてゆく。取引の履歴も持ち主の情報も。例えば上に挙げた硬貨にブロックチェーン技術を組み込む。つまり授受の際に持ち主がIrDAやBluetoothなどの無線で記録する仕組みを使うのだ。そうすると記録は容易だ。

そうした技術革新が何をもたらすのか、既存のビジネスにどう影響を与えるのか。そこに本書はフォーカスする。同時に、発展したインターネットに何が欠けていたのか。本書は記す。

本書によると、インターネットに欠けていたのは「信頼」の考えだという。信頼がないため、個人のアイデンティティを託す基盤に成り得ていない。それが、これまでのインターネットだった。データを管理するのは企業や政府といった中央集権型の組織が担っていた。そこに統制や支配はあれど、双方向の信頼は醸成されない。ブロックチェーン技術は分散型の技術であり、任意の複数の端末が双方向でランダムに互いの取引トランザクションを承認しあう仕組みだ。だから特定の組織の意向に縛られもしないし、データを握られることもない。それでいて、データ自体には信頼性が担保されている。

分散型の技術であればデータを誰かに握られることなく、自分のデータとして扱える。それは政府を過去の遺物とする考えにもつながる。つまり、世の中の仕組みがガラッと切り替わる可能性を秘めているのだ。
その可能性は、個人と政府の関係を変えるだけにとどまらないはず。既存のビジネスの仕組みを変える可能性がある。まず金融だ。金融業界の仕組みは、紙幣や硬貨といった物理的な貨幣を前提として作り上げられている。それはATMやネットバンキングや電子送金が当たり前になった今も変わらない。そもそも、会計や簿記の考えが物理貨幣をベースに作られている以上、それをベースに発達した金融業界もその影響からは逃れられない。

企業もそう。財務や経理といった企業活動の根幹は物理貨幣をベースに構築されている。契約もそう。信頼のベースを署名や印鑑に置いている限り、データを基礎にしたブロックチェーンの考え方とは相いれない。契約の同一性、信頼性、改定履歴が完全に記録され、改ざんは不可能に。あらゆる経営コストは下がり、マネジメントすら不要となるだろう。人事データも給与支払いデータも全てはデータとして記録される。研修履歴や教育履歴も企業の境目を超えて保存され、活用される。それは雇用のあり方を根本的に変えるに違いない。そして、あらゆる企業活動の変革は、企業自身の境界すら曖昧にする。企業とは何かという概念すら初めから構築が求められる。本書はそのような時期が程なくやってくることを確信をもって予言する。

当然、今とは違う概念のビジネスモデルが世の中の大勢を占めることだろう。シェアリング・エコノミーがようやく世の中に広まりつつある今。だが、さらに多様な経済観念が世に広まっていくはずだ。インターネットは時間と空間の制約を取っ払った。だが、ブロックチェーンは契約にまつわる履歴の確認、人物の確認に費やす手間を取っ払う。

今やIoTは市民権を得た。本書ではBoT(Blockchain of Things)の概念を提示する。モノ自体に通信を持たせるのがIoT(Internet of Things)。その上に価値や履歴を内包する考えがBoTだ。それは暗号通貨にも通ずる考えだ。服や本や貴金属にデータを持たせても良い。本書では剰余電力や水道やガスといったインフラの基盤にまでBoTの可能性を説く。本書が提案する発想の広がりに限界はない。

そうなると、資本主義それ自体のあり方にも新たなパラダイムが投げかけられる。読者は驚いていてはならない。富の偏在や、不公平さといった資本主義の限界をブロックチェーン技術で突破する。その可能性すら絵空事ではなく思えてくる。かつて、共産主義は資本主義の限界を凌駕しようとした。そして壮大に失敗した。ところが資本主義に変わる新たな経済政策をブロックチェーンが実現するかもしれないのだ。

また、行政や司法、市民へのサービスなど行政が担う国の運営のあり方すらも、ブロックチェーン技術は一新する。非効率な事務は一掃され、公務員は激減してゆくはずだ。公務員が減れば税金も減らせる。市民は生活する上での雑事から逃れ、余暇に時間を費やせる。人類から労働は軽減され、可能性はさらに広がる。

そして余暇や文化のあり方もブロックチェーン技術は変えてゆくことだろう。その一つは本書が提案する音楽流通のあり方だ。もはや、既存の音楽ビジネスは旧弊になっている。レコードやCDなどのメディア流通が大きな割合を占めていた音楽業界は、今やデータによるダウンロードやストリーミングに取って代わられている。そこにレコード会社やCDショップ、著作権管理団体の付け入る隙はない。出版業界でも出版社や取次、書店が存続の危機を迎えていることは周知の通り。今やクリエイターと消費者は直結する時代なのだ。文化の創造者は権利で保護され、透明で公正なデータによって生活が保証される。その流れはブロックチェーンがさらに拍車をかけるはず。

続いて著者は、ブロックチェーン技術の短所も述べる。ブロックチェーンは必ずしも良いことずくめではない。まだまだ理想の未来の前途には、高い壁がふさいでいる。著者は10の課題を挙げ、詳細に論じている。
課題1、未成熟な技術
課題2、エネルギーの過剰な消費
課題3、政府による規制や妨害
課題4、既存の業界からの圧力
課題5、持続的なインセンティブの必要性
課題6、ブロックチェーンが人間の雇用を奪う
課題7、自由な分散型プロトコルをどう制御するか
課題8、自律エージェントが人類を征服する
課題9、監視社会の可能性
課題10、犯罪や反社会的行為への利用
ここで提示された懸念は全くその通り。これから技術者や識者、人類が解決して行かねばならない。そして、ここで挙げられた課題の多くはインターネットの黎明期にも挙がったものだ。今も人工知能をめぐる議論の中で提示されている。私は人工知能の脅威について恐れを抱いている。いくらブロックチェーンが人類の制度を劇的に変えようとも、それを運用する主体が人間から人工知能に成り代わられたら意味がない。

著者はそうならないために、適切なガバナンスの必要を訴える。ガバナンスを利かせる主体をある企業や政府や機関が担うのではなく、適切に分散された組織が連合で担うのがふさわしい、と著者は言う。ブロックチェーンが自由なプロトコルであり、可能性を秘めた技術であるといっても、無法状態に放置するのがふさわしいとは思わない。だが、その合意の形成にはかなりかかるはず。人類の英知が旧来のような組織でお茶を濁してしまうのか、それとも全く斬新で機能的な組織体を生み出せるのか。人類が地球の支配者でなくなっている未来もあり得るのだから。

いずれも私が生きている間に目にできるかどうかはわからない。だが、一つだけ言えるのは、ブロックチェーンも人工知能と同じく人類の叡智が生み出したことだ。その可能性にふたをしてはならない。もう、引き返すことはできないほど文明は進歩してしまったのだから。もう、今の現状に安穏としている場合ではない。うかうかしているといつの間にか経済のあり方は一新されていることもありうる。その時、旧い考えに凝り固まったまま、老残の身をさらすことだけは避けたい。そのためにもブロックチェーン技術を投機という括りで片付け、目をそらす愚に陥ってはならない。それだけは確かだと思う。

著者によるあとがきには、かなりの数の取材協力者のリスト、そして膨大な参考文献が並んでいる。WIRED日本版の若林編集長による自作自演の解説とあわせると、すでに世の趨勢はブロックチェーンを決して軽んじてはならない時点にあるがわかる。必読だ。

‘2018/03/09-2018/03/25


無駄学


著者の『渋滞学』は名著だと思う。渋滞にいらつかない人はいないはず。渋滞こそが私たちの日常を不条理にし、イラつかせる元凶なのだ。その渋滞が生じる原因を明快に示したのが『渋滞学』だった。原因だけでなく、科学的な観点から渋滞をなくすための対処法を示していたのが新鮮だった。単なる渋滞だけにとどまらず、人生をよりよく過ごすヒントの詰まった一冊だったと思う。

本書はその著者が”無駄”に焦点を当てた一冊だ。「「なぜ」から「どうすれば」への飛躍」(16ページ)が科学者に求められる課題とする。その流れで「「なぜ」が理学で「どうすれば」が工学」(16ページ)へとつなげる指摘が鮮やかに決まる。ここでいう飛躍こそが、人類の発展に欠かせなかったことを著者はいう。そして、飛躍のために著者は「無駄」に着目し、「個人の価値観や感情が入ったこの言葉こそが本当に人を動かすものではないだろうか」(18ページ)と喝破する。無駄に着目したのは、渋滞を研究してきた著者ならではだろう。

本書を読むのは二回目だ。前回も本書を読んだ事で自分の生活の無駄な部分をあぶり出した。その時はスマホゲームを完全に断ち切った。そして、それからも私自身が費やしている無駄についていろいろと考えてきた。

今もなお、私自身の生活に無駄はたくさん残っているはずだ。その無駄は私自身がエキスパートではなくジェネラリスト志向が強いため産み出されている。それは自覚している。わたしの書斎に積み上がる大量の本やパンフレットがその証だ。多分私の本業と関わりのない本ブログも無駄なのかもしれない。

けれども本書で著者は、エキスパートだけを推奨するのではない。エキスパートとジェネラリストの両方を兼ね備えたものだけが世界を俯瞰し、直感から無駄を見つけ出すことができると主張する。なので、私はジェネラリストの自らを捨て去らないためにも本ブログの執筆や、読書習慣を捨てるつもりはない。

私自身の無駄よりも、他に根絶すべき無駄はあまた転がっていると思う。著者が『渋滞学』で採り上げた渋滞や通勤ラッシュなど、無駄のもっともたるものだろう。あらゆる無駄が我が国のあちこちにたまっているのだ。その無駄が我が国の勢いを削いでいることは、日本人の誰もが思っているはず。そして、高度成長期の日本は無駄を省くことで世界に覇を唱えた。その象徴こそがトヨタのカンバン方式だ。必要な時に必要な部品を供給することで、在庫の無駄を省き、作業滞留の無駄を省く。すべては無駄をとる事に通じる。つまり、ムダとりだ。本書に登場する山田日出男氏は、トヨタのカンバン方式を受け継いだ方で、コンサルタントとしてご活躍されている方だ。

本書には、山田氏によるコンサル現場での様子を紹介することで、同時にムダとりのエッセンスが理解できる。そこで指摘されたムダとりの内容はとても参考になる。

続けて本書には、家庭でのムダトリが採り上げられている。日常の雑事に紛れてなかなか手が掛けられないが、これも取り掛かるべきなのは明らかだ。わたしの場合は何はさておき、大量の本とパンフレットの処分が即効性のある処方箋なのはいうまでない。だが、頭ではわかっていてもなかなかできない。

今回、私が本書を読んでムダとりの対象に選んだこと。それはSNSに費やす時間だ。本書を読んで以来、私はSNSに費やす時間をかなり抑えている。その事によってつながりが希薄になるリスクは承知の上で。

私は時間を最優先に考えているので、SNSを対象にした。だが、他にも無駄は人によってたくさんあるはずだ。著者は一つ一つそれらを列挙する。たとえばお風呂や洗濯機、メール処理、冷暖房や机の上、過剰包装や過剰注意書き、過剰セキュリティなど。著者の気づいた無駄は多い。高度成長期の日本にはまだモッタイナイ精神が息づいていたが、日本が豊かになるに連れ、こういった無駄が見過ごされるようになってきたのだろう。私も今の無駄社会の申し子なので、著者の忠告は心して聞かねばならないと思っている。

本書で最後に触れられている無駄もとても興味深い。それは資本主義のシステム自体に内在される無駄だ。3R(reuse,recycle,reduce)の解説やゲーム理論の紹介などをしつつ、著者は資本主義の無駄を指摘する。それは、成長し続けることが前提の資本主義経済のあり方と持続可能な社会のあり方が両立しないことだ。

成長とはつまり生産の余剰があって成り立つ。そして余剰とはすなわち無駄の別名なのだ。今の資本主義経済それ自体に無駄が内包されてることは、誰もが前から気付きつつある。だが、誰もがわかってはいても、それは成長圧力を前にすると言いにくくなるものだ。資本主義経済に替わりうる効果的な経済システムがない以上、抜本的な改善案は出にくい。資本主義の無駄が改善されない理由だろう。最近は資本主義の無駄と限界を指摘する論説も増えてきたように思う。もちろん本書もそのうちの一冊だ。

富の偏在。これも資本主義の必要悪として無くせないものだ。そして著者は偏在自体も無駄であることを指摘する。そして利子までもが著者にいわせれば無駄となる。ただ、それはもはや資本主義社会の根幹に関わる部分だ。著者もその改善が難しいことは理解している。そしてそのかわりに著者が提示する処方箋が振動型経済だ。これはすでに40年以上前に複数の経済学者によって提唱された概念だそうだ。

振動型経済についての本書の説明を読んでいて思ったことがある。もともと、経済には短期中期長期の周期があったはず。キチン循環や、ジュグラー循環、クズネッツ循環、コンドラチェフ循環などだ。ところが、どうも最近の風潮として経済は右肩上がりであることが前提になっていないか。循環が経済システムにつきものであることを忘れて。バブル崩壊後の景気後退にもかかわらず。著者の提案を読んで私はあらためてそのことを思った。そもそも右肩上がりの経済自体が幻想だったのだ。イザナギ、神武、バブルときた日本は、裏ではバブルが弾けたりなべ底不況を経験したりと、振動しているのではないか。それが、戦後の荒廃からめると振動しつつも発展を続けてきたために、経済は右肩上がりになることが当たり前になっているのではないだろうか。そもそも長い目で見ると振動しつつ、長い目で見ると平らかで有り続けるのが定常なのではないか、と。

もう一つ私が思ったこと。それは人工知能の存在だ。本書には人工知能は出てこない。人が絡むと人情やしがらみが無駄の根絶を妨げる。しかし、全てをロジックと確率で処理する人工知能ならば無駄の根絶はできるのではないだろうか。おそらくは人工知能と人類が対立するとすれば、その原因とは人工知能が無駄を徹底的に排除することにあるのではないか。人間が温存したがる無駄を人工知能は論理ではねつける。そこに人類との軋轢が生じるのではないか。そう思った。となると、そのハードランディングの可能性、すなわち無駄を人類自身が事前に摘み取っておかねば、人類と人工知能の間には救い難い破滅がまっている。本書には、そのためのヒントも含まれているのだ。

本書で学んだ無駄トリは、ただ生活を改善するだけではない。無駄を取ることは、これから待ち受ける未来、人工知能が席巻する世の中を泳いでいくためにも必要なのだ。

‘2017/01/09-2017/01/12


里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く


今の社会はこのままでよい。そう思っている人はどれくらいいるのだろう。大方の人々は、今の社会や経済の在り方になんとなく危うさを感じているのではないか。本書は、そんな社会の在り方に疑問と危機感を抱いたテレビディレクターが、ドキュメンタリーとして放映した番組を書籍化したものである。

今の日本社会は資本主義に基づいている。右肩上がりに成長することが前提の社会。その成長の前提が、限りある資源をエネルギーとして消費することで成り立っていることは言うまでもない。

しかし、便利さに身を委ねているとその事に気付くことはない。私も含め、いつかはなくなる資源の上にあぐらをかき、依存する日常。

昔からこの事に気付き警鐘を鳴らしてきた人々は多数いた。しかし、大多数の文明のぬるま湯に浸かる人々の心には響かぬままだった。しかしここに来て、少しずつ未来を憂える意見が注目され始めている。このままでは人類に未来はない、との危機感が少しずつ実感を持って浸透している。

とはいえ、人々に染み付いた文明の快さは容易には拭い去れない。資源を消費し信用貨幣を流通させる今の経済の仕組みを転換することは難しい。それでもなお、違う未来を切り開くための努力は世界のそこかしこで続けられ、それを紹介する映像や文章は求められ続ける。本書は、その一角を占めるに相応しい一冊である。

本書は、NHK広島支局の取材班による特番放送を基にしている。当初は中国山地の山間にある庄原市に住む和田芳治さんの取り組みからこの企画が持ち上がったという。本書も和田さんの取り組みの紹介から始まる。その取り組みとは、エコストーブである。

エコストーブとは一言でいえばリサイクルである。先に、今の経済の仕組みは資源の消費を前提にしていると書いた。遠方のどこかで産出された原油やガス、またはウランから取り出されたエネルギー。これが津々浦々に張り巡らされた送電網を通じて送られる。今の日本の繁栄は、それなくしては成り立たない。和田さんはその仕組み自体は否定しない。否定はしないが、依存もしない。依存せずに済ませられる方法を前向きに探す。その行き着いた結論の一つとして、裏山にいくらでもある枯れ枝を燃やす。それだけで、ガスや電気の替わりとなる。

和田さんは、消費経済から発想を転換するため、言葉も自在に操る。「廃棄物」→「副産物」。「高齢者」→「光齢者」。「省エネ」→「笑エネ」。「市民」→「志民」。本書59ページには和田さんの哲学が凝縮された言葉も紹介されている。「なぜ楽しさばかり言うかというと、楽しくなければ定住してもらえないだろうと思っているからです。金を稼ぐという話になると、どうしても都会には勝てない。でも、金を使わなくても豊かな暮らしができるとなると、里山のほうが、地方のほうが面白いのではないかと私たちは思っています」

たかが言葉も前向きな言葉に変えるだけで印象が変わる。人の心はかように不安定なもの。今の社会を形作る貨幣経済への思い込みもまた同じ。そこからの脱却は、思い込みを外すだけで簡単に実現できる。和田さんの姿勢からはそのようなメッセージが滲み出ている。第一章では庄原市の和田さんの他に面白い取り組みが紹介されている。同じ中国山地にある真庭市の銘建工業の中島さん。製材の過程で出る木屑をペレット状に加工し冷暖房の燃料に利用する。これによって真庭市全体で自然エネルギーの利用率は11%と、日本の平均1%を大幅に上回っている。一般にバイオマスエネルギーには否定的な論調を目にすることが多い。例えばアメリカではとうもろこしをバイオマスエネルギーの原料として使うが、それによって本来食糧として作付けされるべきとうもろこしがバイオマス原料として作付けされ、供給量や市場価格に影響を与える云々。

しかし、製材の木屑や枯れ枝利用であれば、そういった批判は封じ込められるのではないか。原子力や火力発電に成り代わることはないだろうが、風力や地熱や潮汐力発電の替わりにはなり得る。なおかつ、日本の国際収支を悪化させる火力発電用の燃料輸入費用を少しでも減らせるとすれば、普及させる価値はある。

第二章では、国ぐるみで木屑をバイオマス燃料として推進利用しているオーストリアの事例を紹介する。

数年前のユーロ危機において影響を最小限に止め、その経済状態は良好であるオーストリア。その秘密が林業とそこから産み出されるエネルギーにあることが明かされる。国ぐるみで林業を育成し、林業で利益をあげ、林業でグローバル経済から一線を引いた独自の経済圏を築く。本書によると、オーストリアでは再生可能エネルギーが28.5%にも上るのだとか。

ゆくゆくは、原発由来の電力すら完全に排除することも視野に入れているとのこと。国民投票により脱原子力を決議したが、それを実践しているのがオーストリアである。

本書ではオーストリアの代表的な街として、ギュッシングが紹介されている。木材から出る木屑をペレットにし、それを街ぐるみで発電する。外部から購入するエネルギーはゼロ。逆に売電を行い、安定した余剰電力を求める企業の誘致にも成果をあげているという。

バダシュ市長による言葉が本書の100ページに出ている。「大事なのは、住民の決断と政治のリーダーシップだ」

さらに本書は、オーストリアで出ているCLTという木造高層建築も紹介する。鉄とコンクリートいらずで、同じような強度を持つのだとか。耐震性・耐火性も備えており、日本の耐震実験施設で七階建のCLTが震度七の揺れに耐えたのだという。

先にあげた中島さんは、日本へのCLT導入へ意気込んでおられた。すでに日本CLT協会の設立も済ませ、法改正にむけた訴えもされているとか。その後CLTはどうなったであろうか。調べてみようと思う。

本書はここで、中間総括「里山資本主義」の極意と題し、著者に名を連ねる藻谷氏による中間総括を挟む。

中間総括は、一章と二章で取り上げられた内容のまとめだが、それだけには止まらない。かなりの分析が加えられ、中間総括だけで十分書籍として成り立つ内容になっている。特に138ページにある一文は重要である。「われわれの考える「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、お金に依存しないサブシステムも再構築しておこうというものだ」

また、マネー資本主義へのアンチテーゼとして三点が挙げられている。
1 「貨幣換算できない物々交換」の復権
2 規模の利益への抵抗
3 分業の原理への異議申し立て

一章、二章とこの中間報告は今の日本とこれからにとって良き指標となるかもしれない。そのくらいよくまとまり、なおかつ既存概念をうち壊すだけの破壊力も備えている。

三章は、瀬戸内海に浮かぶ周防大島でジャムを作る松嶋さんが主人公だ。新婚旅行で訪れたパリのジャム屋に触発され、大手電力会社の職を捨ててまでIターンした経緯や、そのあとの開業への取り組みなど、サラリーマンに疲弊している方には参考にも刺激にもなるに違いない。まずは都会の常識を取っ払う。さらには、田舎の常識をも取っ払う。ここに松嶋さんの成功の鍵があるように思える。都会の発想では仕入れは安く、製造工程は効率化するのがセオリーだ。田舎の発想では、なるべく店舗は繁華街に、人の集まる場所に構える。しかし、松嶋さんはそのどれも採らない。原料は高く買い、人手を掛けて作り、人家のあまりない海辺の一軒家に店をだす。

ここで、本書は重要な概念を提示する。ニューノーマル。震災以降の若者たちの新たな消費動向のこと。要は本書が目指すライフスタイルであり、グローバル経済、消費前提、マネー資本主義とは対極の消費動向のこと。成長が前提の経済とは対極の生き方を選ぶ若者が、今増えているという。

第四章は、”無縁社会”の克服と題し、里山での人々のつながりを豊かにする取り組みに焦点を当てる。持ちつ持たれつという日本的な近所付き合いへの回帰。これもまた、金銭換算しない里山資本主義の利点。

第五章は、「マッチョな二〇世紀から「しなやかな二一世紀」へ、と題した次世代社会システムの提言だ。とはいえ、その概念のパイオニアは本書ではない。すでにスマートシティという言葉が産まれている。スマートシティプロジェクトという公民学産の連合体が結成され、その中で議論がなされている。それも日本有数の企業メンバーによって。スマートシティとは本書によれば、巨大発電所の生み出す膨大な量の電気を一方的に分配するという20世紀型のエネルギーシステムを転換し、街中あるいはすぐ近くで作り出す小口の電力を地域の中で効率的に消費し、自立する二一世紀型の新システムのこと。

スマートシティの精神と里山資本主義には、さまざまな符合があることが本章で指摘される。今の疲れきった都会のインフラやそこで働く人々。それに対し、スマートシティまたは里山資本主義の考えが広く行き渡った暁には、日本は持続性のある社会として住みよい国となる。本書が一貫して訴えてきたのも、都会中心の生活からの脱却なのは自明だ。私が強く賛成したいのもこの点だ。

最終総括として、今の日本に対する楽観的な提言がなされる。曰く、日本はまだ可能性も潜在力も秘めており衰退などしないという。さまざまな経済指標が掲示され、さまざまな角度から日本の力が残っていることが示される。「日本経済ダメダメ論」の誤りとして三節に渡って日本経済悲観論者へのダメ出しを行うこの章もまた、本書において読むべき章だろう。特に日本の大問題とも言える少子化問題についてもそのプラス効果が謳われている。ただし、それにはマネー資本主義からの脱却が必要と著者は指摘する。そして2060年。人口の減った日本からは様々な問題が去っていることを予言している。

今の日本は灰色の悲観論が覆っている。私は悲観論には与したくない。だからといって、今の日本がこのままでいいとは全く思わない。要は行動あるのみ。今の経済社会のあり方は早晩崩壊するだろう。それは私の死んだ後のことかもしれない。しかし、今動けば崩壊を回避できるかもしれない。キリバスが海面下に没するのは遠い異国の話ではない。同じ目に日本が遭わないとは限らない。いや、津波という形で間違いなく被害に遭うだろう。しかし、本書を読む限り日本にはまだ望みがある。私に今すぐ出来ることは、本書で取り上げられた取り組みを少しでも広めること。そう思って本稿を書いた。

‘2015/04/01-2015/04/07


独立国家のつくりかた


今年前半の私の心をざわめかせた一冊として、記憶に残るであろう本書。本書の内容が私の行動や考え方に与えた影響は少なくない。

本書を購入したのは、新宿の紀伊国屋書店。思考の角度を変えたくて、社会学やコミュニティ学のコーナーに赴き、平積みになっている本書を見かけた。普段はタイトル買いや装丁買いはあまりしない私である。しかし、本書については、その題名と装丁に惹かれて購入した。本書や著者についての事前情報を持たないままに。

興味を惹かれるタイトルである。しかし、このタイトルに偽りあり、とはいかないまでも、このタイトルは本書の内容の1/10ぐらいしか伝えていない。講談社の編集者も、本書の題名の付け方には苦心したことだろう。苦心するのも当然といえるほど、本書の内容は多岐にわたっている。本書が単なる冒険心旺盛な独立譚でないことは言っておきたい。

著者の紹介文には、建築家・作家・絵描き・踊り手・歌い手、そして新政府初代内閣総理大臣とある。本書の前書きではさらに詳しい経歴が並べられる。写真家であり建てない建築家であり、噺家でもあるという。前書きにしてからすでに、この著者は何者なのだろうという不思議の種が読者の脳内にたくさん撒かれる。

前書きには、本書の内容を紐解く上で、重要な8つのキーワードが列挙される。
1 なぜ人間だけがお金がないと生きのびることができないのか。そして、それは本当なのか。
2 毎月家賃を払っているが、なぜ大地にではなく、大家さんに払うのか。
3 車のバッテリーでほとんどの電化製品が動くのに、なぜ原発をつくるまで大量な電気が必要なのか。
4 土地基本法には投機目的で土地を取引するなと書いてあるのに、なぜ不動産屋は摘発されないのか。
5 僕たちがお金と呼んでいるものは日本銀行が発行している債券なのに、なぜ人間は日本銀行券をもらうと涙を流してまで喜んでしまうのか。
6 庭にビワやミカンの木があるのに、なぜ人間はお金がないと死ぬと勝手に思い込んでいるのか。
7 日本国が生存権を守っているとしたら路上生活者がゼロのはずだが、なぜこんなにも野宿者が多く、さらに小さな小屋を建てる権利さえ剥奪されているのか。
8 二〇〇八年時点で日本の空家率は13.1%、野村総合研究所の予測では二〇四〇年にはそれが43%に達するというのに、なぜ今も家が次々と建てられているのか。

本書の内容はこれらの疑問を中心に据え、著者の抱く思想と、その実践を述べたものである。

上記8箇条は、今の社会に生きる大人にとって、盲点を突かれた内容ではないだろうか。少なくとも私にはそうであった。誰しも子供の頃には大人のやり口に疑問を抱いたことがあろう。中学高校の頃に尾崎豊の曲に聞き入り、こんな大人になりたくないと思った人もいよう。だが、いざ大人になり、社会人になってみると、仕事に追われ、時間に急かされる日々。特に家族を養っている人は、家計という見えない鎖に縛られる日常。自分とって仕事そのものが人生の目的と錯覚してしまう程に多忙な毎日。そしていつしか、多忙な仕事を片付けることにのみ充実感を覚えるようになる惰性。子供の頃になりたい自分は本当にこうだったのだろうか・・・

私は上記8箇条を何の疑問を抱かずに受け入れたことを告白しなければならない。8箇条に対する疑いを抱いたことも、答えを探したことすらなかった。しかし、この8箇条が真実かと改めて問われると、そうではないと答えるほかはない。上記8箇条に象徴される、曖昧な常識とやらを知らぬ間に受け入れ、社会に飼いならされつつある自分に、ただ愕然とするのみである。

資本経済に組み入れられないために何をすればよいか。若いころの私は、アーミッシュのような野山に分け入っての自給自足生活を想像していた。若い頃、実際に電化製品を使わぬ生活を心がけた時期もある。トイレのウォシュレットの便利さにその理想も潰えてしまったのだが。

しかし著者の実践は違う。単なる理想論、独り者の誇大妄想ではない。著者は妻を持ち、子を養いながら、年収1千万というまずまずの収入も得ている。理想論に逃げず、社会から孤高の高みに隠れず、堂々と世間と対峙しながら、自らの生き方と思想を実践している。私からしてみると、これらの実践はとてつもなく難しく、果てしなく羨ましい。目指す目標としては高い。高いが、本書を読んで実践し、その高みに到達したいと思った。

著者は説く。匿名化された社会システムレイヤーの中では、考えることを削除されていると。誰に削除されているのか。それはこの社会を作り上げているもの、つまりは政府であると。この社会システムレイヤー以外に、様々なレイヤーが重なり合い組み合わさって、人々は集まり、生活を営んでいる。それなのに、秩序という、統治にとって都合のよいシステムである単一レイヤーに縛られ、他のレイヤーの存在を見えないように導かれている。このレイヤーの裂け目から他のレイヤーの有り方を知り、考えながら生きていかなければならない、と著者はいう。

著者は別レイヤーに生きる人々として、ホームレスの人々を紹介する。かれらの行動に、生きるための日々の考えの実践に、多大な示唆を得たことを述べる。日々通勤に明け暮れる私から見ると、ホームレスの自由度には憧れるが、その不自由さは蒙りたくない。しかしその考え方がすでに単一の社会システムレイヤーに縛られたものなのであろう。

社会システムレイヤーの軛から脱し、多層レイヤーを自由に行き来する生き方。その実践のため、本書では様々な仕組みやモノが紹介される。例えば不動産。人間の所有欲というなんの根拠もない想像に基づいた産物。この不動産の概念から逃れるため、著者はモバイルハウスという自由に移動可能な住居を紹介する。建築学科を出た著者は、建築物の基礎が実際は不要(法隆寺にも基礎がないことは本書で改めて気づかされた)なのに、建築法では必須であることの矛盾について疑問を呈する。

また、所有という概念が、思考の枠組みを囲ってしまっていることも指摘する。所有の概念の壁を取り払い、パブリックな空間を私の空間として拡張し認識すること。つまり、公の空間をわが物として飾り、人々に開かれた空間でありながら個人の発想を活かすといった庭造りの実例。単一レイヤーの縛りを脱することで、自由な発想が生まれ、広がることの効果を説く。

そうした著者の実践は、独立国家を作るということで一つの到達点を見る。法律や規則など、社会システムレイヤーの維持のために必要な道具にもほころびはある。ホームレスの方々はそのほころびの間隙を縫って生活している。その発想をさらに拡げ、自由になるためには自分が国を主宰すればよいというのが著者の実践である。国を名乗ってもそれを処罰する法律があるわけではない。要は日本国の国民として税を納め、各々の要件さえ満たしていれば、多層なレイヤーからなる国は作れると著者はいう。つまり、既存の匿名化した社会システムレイヤーに属しつつ、そこから逃げずに別のレイヤーの存在を認識することである。

独立国家の活動を紹介の後、実践の具体的な実施方法について、本書は続く。マインドマップに似た概念図の作成や、交渉術に関しての章など、参考に出来る部分が多々ある。が、私が共感を得たのは匿名で交易はできない、という下りである。

私がネットでの活動から匿名を排除したのは、数年前である。それ以来、仕事についてはもちろん、ある部分までのプライベートな活動も実名で発信することを旨としている。個人事業主として組織に頼らず生きていくためには匿名などありえない、というのが私の考えである。本書にはその私の考えを補強してくれるような記述がところどころに見かけられた。匿名化された社会システムレイヤーのみに縛られる生き方、その生き方を選ぶ場合は、匿名のネット活動でも事足りるだろう。しかし「第3章 態度を示せ、交易せよ」という章では、自分という存在を態度で示し、堂々と対応することが交易である。という主張が繰り広げられている。まさにわが意を得たり、といった部分である。

ただこのような指南本には、ほぼすべてに共通する欠点がある。それは、著者の能力に乗っかった前提で書かれていることである。著者の能力に読者が追い付かず、実践も覚束ないことが往々にしてある。著者もまえがきにあるような種々の肩書を持ち、年収1千万円を稼いでいるとか。社会システムレイヤーに一部でも属し、生計を立てるための能力。これが無い者には、他レイヤーへ視線を向けることは困難なのではないか。本書の内容がいかに素晴らしかろうが、読者が実践できなければ意味はないのではないか。著者は当然その点は認識しており、「第4章 創造の方法論、あるいは人間機械論」という章で社会との関わり方や創造論、自分を追い込むための環境づくりなど、色々な方法を述べている。ここで一貫しているのは、「自己実現をするのではなく、社会実現に向かっていく。」または、「自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。」という2文に表れている、社会との関わり方についての態度表明である。「才能とは、自分がこの社会に対して純粋に関わることのできる部分を指す」と本章で定義されている。つまり生まれついての能力や研鑽による技術よりも、読者それぞれの社会への態度が重要というわけである、読者に対して技術や才能の有無に逃げるな、というメッセージと受け取った。

最後にもう一つ。著者は躁鬱を病んでいることを率直に本書内で書いている。本書内でも躁状態で書かれたと思われる筆致が散見される。著者は躁鬱を自覚した上で、それら2通りの状態の付き合い方について、著者也の方法論を紹介している。

私も40年生きてきて、何度か躁鬱の波に苦しめられたことがある。躁鬱との付き合い方は人それぞれであり、鬱状態にある者には本の内容など届きにくいことも事実である。また、著者の方法論も万能ではないことは承知の上。それを理解した上で、躁鬱状態で何を成し遂げられるかについて、本書は有益な示唆を与えてくれる。

本書を読んで、3か月が過ぎた。その後、私の活動内容が具体的な形として変わったかというとそうでもない。しかし、私の心は本書を読んでかなり楽になった。属するプロジェクトのレイヤーの考え方に染めようとする圧力と、私個人の考えは軋轢を生み、その葛藤はかなり辛いものがあった。しかし、本書を読んでからというもの、今のプロジェクトが要求することに対し、力で押し返そうとしていた態度をあらため、受け入れ、そして体内を通過させるような接し方に変えた。以来、楽になった。

実践はこれからであるが、新たなレイヤーへの接続をはかるべく、成果も出来つつある。このままどこまでいけるかやってみたいと思う。

’14/05/01-’14/05/03


競売ナンバー49の叫び


氾濫するシンボルとエピソードの数々。喧噪と反映の中で急速に繁栄への道を駆け上がってきたアメリカの縮図のような本書は、とにかくにぎやかである。

謎が謎を呼び、何重にも入り組んだ物語迷宮の中で、下手をすれば筋を見失いそうになることもあるが、謎を追うという趣向のため、比較的すらすらと読めるのではないだろうか。

それでも巻末に付された解説がなければスルーしてしまう箇所が多く、何度も読めるし、何度も読まねば全貌を理解できたとはいえない小説の一つかもしれない。

私もこの場で解説や批評できるほど理解できたとは思えないけれども、急速に世界の主軸に登り詰めたアメリカという国家を理解するために、本書を読んでおくことは無駄ではないと思える。

’12/03/17-12/03/22