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ワールドカップ


サッカーのロシア・ワールドカップが終わった。総じてよい大会だったと思う。その事は好意的な世評からも裏付けられているのではないか。私自身、ロシア・ワールドカップは今までのワールドカップで最も多くの試合を観戦した大会だ。全部で十数試合は見たと思う。

私がサッカーのワールドカップを見始めたのは、1990年に開催されたイタリア大会からだ。それ以来、三十年近く、八回のワールドカップを見てきた。その経験からも、ロシア・ワールドカップは見た試合の数、質、そしてわれらが日本代表の成長も含め、一番だと思っている。

総括の意味を込め、大会が終わった今、あらためて本書を読んでみた。本書が上梓されたのは、1998年のフランス大会が始まる直前のことだ。フランス大会といえば、日本が初出場した大会。そして若き日の私が本気で現地に見に行こうと企てた大会でもある。

最近でこそ、ワールドカップに日本が出場するのは当たり前になっている。だが、かつての日本にとって、ワールドカップへの出場は見果てぬ夢だった。1998年のフランス大会で初出場を果たしたとはいえ、当時の日本人の大多数はワールドカップ自体になじみがなかった。2002年には日韓共催のワールドカップも控えていたというのに。本書は当時の日本にワールドカップを紹介するのに大きな役割を果たしたと思う。

本書を発表した時期が時期だけに、本書はブームに乗った薄い内容ではないかと思った方。本書はとても充実している。薄いどころか、サッカーとワールドカップの歴史が濃密に詰まった一冊だ。1930年の第一回ウルグアイ大会から1994年のアメリカ大会までの歴史をたどりながら、それぞれの大会がどのような開催形式で行われたのか、各試合の様子はどうだったのか、各大会を彩ったスター・プレーヤーの活躍はどうだったのかが描かれる。ワールドカップは今も昔もその時代のサッカーの集大成だ。つまり、ワールドカップを取り上げた本書を読むことで、サッカースタイルの変遷も理解できるのだ。本書は、ワールドカップの視点から捉え直したサッカー史の本だといってもよい。

ワールドカップの歴史には、オリンピックと同じような紆余曲折があった。例えば開催権を得るための争いもそう。南米とヨーロッパの間で開催権が揺れるのは今も変わらない。だが、当初は今よりも争いの傾向が強かった。そもそも第一回がウルグアイで開かれ、そして開催国のウルグアイが優勝した事実。その事は開催当時のいびつな状況を表している。当時、参加する各国の選手の滞在費や渡航費用を負担できるのが、好況に沸いていたウルグアイであったこと。費用が掛からないにもかかわらず、船旅を嫌ったヨーロッパの強国は参加しなかったこと。それが元で第二回のイタリア大会は南米の諸国が出なかったこと。特に当時、今よりもはるかに強かったとされるアルゼンチンが、自国開催を何度も企てながら、当初は隣国の大会に参加すらボイコットしていたこと。

他にもまだある。サッカーの母国と言えばイギリス。だが、イギリス連邦の四協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)は母国のプライドからワールドカップへの参加の必要を認めていなかった。実際、開催からしばらくの間、ワールドカップに発祥国イングランドの諸国は参加していない。上記の四協会は、今もフットボールのルール改正に大きな権限を持っている。ところが、当時はそもそもFIFAにすら加入していなかった。それ以後もなんどもFIFAへの脱退と再加入を繰り返し、サッカーの母国としてのプライドを振りかざし続けた。そんな歴史も本書には描かれている。

つまり、ワールドカップの歴史の始まりには、さまざまなプライドや利権が付いて回っていたのだ。世界の主要なサッカー強国が初めてそろったのが1958年のスウェーデン大会まで待たねばならなかった事実は、サッカーの歴史の上で見逃してはならない。

本書の読みどころは他にもある。サッカースタイルの象徴である選手の移り変わり。なぜ、ブラジルのペレが偉大だといわれるのか。それは彼が1958年大会で鮮烈なデビューを飾ったからだ。当時、サッカー界を席巻していたのは1950年初頭に無敵を誇り「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー代表だ。その中心選手であるフェレンツ・プスカシュ。彼は当時の名選手として君臨していた。しかし、プスカシュはサッカーの王様とは呼ばれない。また、レアル・マドリードの五連覇に貢献したディ・ステファノも当時の名選手だ。ペレやマラドーナ、その他の世界的スターからサッカーのヒーローとして今も名前が挙げられ続けるディ・ステファノ。しかしディ・ステファノもサッカーの王様とは呼ばれない。それだけ、1958年のペレの出現は、当時のサッカー界に衝撃を与えたのだ。ワールドカップが初めて世界的な大会となった1958年の大会。真の世界大会で彗星のように現れたペレが与えた衝撃を超える選手が現れるまで、サッカーの王様の称号はペレに与えられ続けるのだろう。

1958年大会以降、サッカーは世界でますます人気となった。そして、その大会で優勝したブラジルこそがサッカー大国としての不動の地位を築く。しかし、1966年のイングランド大会では地元イングランドが地元の有利を活かして優勝する。1978年のアルゼンチン大会でも開催国アルゼンチンが優勝した。著者はそうした歴史を描きながら、開催国だからと言って、あからさまなひいきや不正があったわけでないこともきちんと記す。

その一方で、著者はつまらない試合や、談合に思えるほどひどい試合があったこときっちりと指摘する。この度のロシア大会でも、ポーランド戦の日本が消極的な戦いに徹し、激しい論議を呼んだのは記憶に新しい。そのままのスコアを維持すると決勝トーナメントに進むことのできる日本が、ラスト8分間で採ったボール回しのことだ。だが、かつての大会では、それよりもひどい戦いが横行していた。予選のリーグ戦ではキックオフに時間差があり、他の会場の試合結果に応じた戦い方が横行していた。特に1982年大会。1982年のスペイン大会といえば、幾多もの名勝負が行われたことでも知られる。だが、その中で西ドイツVSオーストリアの試合は「ヒホンの恥」と呼ばれ、いまだにワールドカップ史上、最低の試合と呼ばれている。

そして1986年のメキシコ大会だ。神の手ゴールや“五人抜き “ ゴールなど、マラドーナの個人技が光った大会だ。当時の私にとっても、クラスメイトの会話から、生まれて初めてサッカーのワールドカップの存在を意識した大会だ。私が実際にワールドカップをリアルタイムで見るようになったのは冒頭にも書いた1990年のイタリア大会だ。だが、本書でも書かれているとおり、守備的なゲームが多かったこの大会は、私の印象にはあまり残っていない。

守備的な試合が多かったことは、1994年のアメリカ大会でも変わらなかった。だが、私にとってはJリーグが開幕した翌年であり、今までの生涯でも、サッカーに最もはまっていたころだ。夜中まで試合を見ていたことを思い出す。

そして1998年だ。この大会は冒頭に書いたとおり、私が現地で観戦しようと企てた大会だ。初出場の日本は悔しいことに一勝もできず敗れ去った。そして、その結果は本書には載っていない。

だが、本書の真価とは、初出場する日本にとって、ワールドカップが何かを詳しく記したことにある。それまでのワールドカップの歴史を詳しく載せてくれた本書によって、いったい何人の日本人サッカーファンが助かったことか。本書はまさに、語り継がれるべき名著だと思う。

本書がよいのは、ワールドカップをゲーム内容だけでなく、運営の仕組みまで含めて詳しく書いていることだ。ワールドカップが今の形に落ち着くまで、どのように公平で中立な大会運営を目指して試行錯誤してきたのか。その過程がわかるのがよい。それは著者が政治学博士号を持っていることに関係していると思う。組織論の視点から大会運営の変遷に触れており、それが本書を通常のサッカー・ジャーナリズムとは一線を画したものにしている。

本書には続編がある。そちらのタイトルは「ワールドカップ 1930-2002」。私はその本を2006年に読んでいる。2002年の日韓ワールドカップの直前に、1998年大会の結果を加えて出されたもののようだ。私はその内容をよく覚えていない。それもあって、2002年の日韓共催大会の結果や、その後に行われたドイツ、南アフリカ、ブラジル、ロシア大会の結果も含めた総括が必要ではないかと思うのだ。参加国が拡大し、サッカーがよりワールドワイドなものになり、日本が出場するのが当たり前のようになった今、本書の改定版が出されてもよいと思うのは私だけだろうか。

‘2018/07/18-2018/07/20


火星に住むつもりかい?


平和警察なる、戦前の特高のような部署。その部署が幅を利かせる近々未来の日本。その部署は定期的に各地に出没し、その地の住民を徹底的に監視する。そして、公衆の面前でギロチン処刑を行い、人々を恐怖で縛り付ける。拷問という名のもとに行われる取り調べ。それは、本書内でも言及されるように、小林多喜二が虐殺された特高のそれを思わせる。平和の名が徹底的におとしめられるかのような完全なる悪。それが本書に描かれる平和警察だ。

今までの著者の作品は、悪がきっぱりとした悪として書かれていなかった。憎めない悪役が登場し、悪の側にもどこかでわずかな理を織り交ぜていた。物事を単純に書かず、気の利いたセリフにちょっとしたウンチクを混ぜることで、善と悪の二元論に陥ることを避ける。悪の側の言い分を描き、悪と善の境目を曖昧にする事で、物事を重層的にみる。そうした書き方によってモノの価値とは相対的であるに過ぎない、と主張して来たのが著者の作風だと思っている。

ところが本書は平和警察という絶対的な悪を描いている。それは私が読んできた著者の過去の作品にない新鮮な試みだ。

ただし、著者はここでもバランスを取ろうとする。平和警察の内部に本庁からの変わり者の専門捜査官を配することによって。その人物とは、特別捜査室に属する真壁捜査官だ。真壁は変わり者。平気で身内であるはずの平和警察の取り調べを拷問と言い放つ。平和警察のトップである薬師寺警視長にも平気で楯突く。警視長の神経を逆なでする。真壁を配することで平和警察の体現する悪が複雑な模様を帯びる。著者が描く悪は、やはり本書でもステレオタイプな悪ではなかった。画一で単純な悪を書かないことで、本書はより魅力的に彩られる。

それに対して立ち向かうのは黒いツナギを着た男。彼の行いは結果だけだと正義の味方のように映る。だが、実態は大きく違う。彼が成り行きで手に入れた武器。それを闇雲に取り扱ったらたまたまうまくいっただけ。絶対的な悪に対抗する正義のヒーローは、正義の味方でも何でもなくただの一般人に過ぎない。ここでも著者は徹底して善悪の二元の単純化を避けようとする。

こうなってくると、上に書いた絶対的な悪という見方も怪しくなってくる。むしろ、そう見せかけておいて、今までの著者の作品に見られたような、物事の本質を複雑な視点からみた一冊になっているのではないだろうか。

本書は三部構成になっている。そして、それぞれの部ごとに物語の視点が変わる。その切り替えも本書の視点に多彩さを与えている。真壁捜査官の口から折に触れて飛び出す蘊蓄。これもまたいい。彼は唐突に昆虫の生態を角度を変えて語る。そうすることで、昆虫の多様性を描き出そうとする。絶対的な悪の中にあって、異端児の真壁。組織に属しながら、異端児であっても仲間のいるはずの真壁が多様性をもちだす。それこそが本書の胆ではないだろうか。もはや悪も善も絶対的な価値観ではない、という考え。それが平和警察の形を借りて暗喩となっているのが本書だと思う。

しかも、三部のそれぞれで入れ替わる視点のどれでも絶対的な悪の化身として描かれる薬師寺警視長。そして真壁捜査官も本書の中ではあえて存在感を消して描かれる。真壁捜査官にいたっては、途中で退場してしまう。特定のヒーローもなければ、絶対的な悪役もいない。それこそが著者の狙いであり、人生観なのだろう。

だから、本書の帯に書かれていた文句
「この状況で
生き抜くか、
もしくは、
火星にでも行け。
希望のない、
二択だ。」

このセリフは、善悪の二元を謳う言葉どころか全くの逆なのだ。このセリフは苛烈な平和警察の圧政を批評するとある登場人物のセリフだ。多分編集部が意図して本編から抜き出し、帯に記したに違いない。読者のミスディレクションを狙っての。

そもそも、本書のタイトル「LIFE ON MARS」からして、デヴィッド・ボウイの名曲を意識していることは確か。その歌詞は、荒唐無稽でアヴァンギャルドな内容に満ちている。一切のよって立つ価値観を否定し、貶めている歌詞。そうである以上、その思想を意識した本書が、善悪の二元といった単純な書き方で終わるはずはない。

火星といえば、荒涼とした惑星。地表には複雑さを示すものがなにもない。単純すぎるがゆえに、そこに住まないか?と問いかけ自体がナンセンス。それは単純な地ー火星を単純な見方になぞらえたアンチテーゼ。この価値観こそ、本書の根本にあるのではないだろうか。

むしろ、平和警察という絶対的な悪のような組織を出すことで、読者に絶対的なものへ注目を集めようとしているかにみえる。そして、それを話の中で巧妙に否定しているからこそ、著者の狙いに気づけないだろうか。それはつまり、上にひねり出したような感想のことだ。絶対的なものなど何もないという事実。全ては相対化され、見る視点によっていかようにでも評価できる。

そうした意味で、本書は著者の作品の中でも面白いアプローチを見せている。また一つ著者の引き出しを見せられたようだ。

‘2018/07/09-2018/07/09


アクアビット航海記 vol.6〜起業のメリットを考える その5


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前回は起業を前向きにポジティブにとらえた視点での利点を述べました。今回は、私からみれば利点とは必ずしもいえないのですが、一般的には起業の利点として語られることについて語りたいと思います。なお、以下の文は2017/9/14にアップした当時の文章そのままです。

人間関係に煩わされません

「組織の悩み」と掛けて、「しあわせ」と解く。その心は「し(4)がらみ」。のっけから下手ななぞかけで失礼しました。仕切りなおして組織の煩わしさを問います。その答えは人間関係。それもそのはずで、たくさんの人が毎日一緒に集まって仕事するのが組織なのですから。当然、ソリやウマの合う合わないという問題が噴出します。組織の中で働く皆さまの悩みごとです。少しでも組織の中のしがらみを円滑にするため、いろいろな工夫が凝らされています。飲み会を開き、ゴルフに出かけ、ランチ会でおしゃべり、喫煙所でモクモク。涙ぐましい努力をしても、組織にいるのはものわかりの良い上司や趣味の一致する同僚、意を汲んで仕事をしてくれる部下だけとは限りません。理不尽な上司、敵意をむき出しにする同僚、無関心でシラケる部下に出会うこともあります。そうなっても組織の中の関係を円満にすることは何よりも優先されます。その労力たるや本業よりも大変。そこから脱出したいがために独立に踏み切る、というのも聞く話です。

確かに“起業”すれば、組織の人間関係からは逃れられることでしょう。その意味では起業の利点なのかもしれません。でも、“起業”しても仕事の上の関係は引き続きついてまわります。むしろ、組織の中のほうが潤いのある関係が維持できるかも。組織の中で人は、円滑に機能させようと無意識に配慮という潤滑油を分泌させます。それは日本人が長年培ってきた和のココロのなせる業。

しかし、そんなウェットな関係を嫌う人もいます。そんな方がウェットでなくドライな関係を求めるために“起業”したとします。ウェットな関係から逃れ、ドライでビジネスライクな最小限の付き合いで世渡りできる? そう思ったあなたは、アテが外れることでしょう。というのも“起業”した後にこそ、そういうウェットな配慮が一層必要となるからです。お互いが普段離れているということは、普段は乾いた関係なわけです。ならばこそ、いざ会ったときにたっぷりの潤滑油が必要になるのです。私の意見では、SNSがこれほどまでに支持された理由が、離れていてもお互いの話題で潤う関係が築けるからだと思っています。だからこそ、同じ組織にいる人同士では、SNSの関係が構築されないのです。

もちろん、人には相性があります。大量の潤滑油を分泌してもかみ合わない人もいるでしょう。SNSでも全く接点が発生しない人もいるでしょう。どれだけ顔を合わせてもこの人とはきしみ合うしかない、つまり相性が合わないという方は誰にでもいるはずです。起業とは、そんな人とたもとを分かつことのできる手っ取り早い手段であることは確かです。反りが合わなければ一緒に仕事をしなければいいのですから。それは起業の利点です。

ですが、仕事の成功とはタスクの達成よりも人間関係が円滑であり続けたか、という金言もあります。私が今考え付いた金言なのですが。この言葉は“起業”した後の方がより実感できます。“起業”したからといって人のつながりから逃れられると思ったら大間違いです。その点では起業のメリットは薄いと言わざるをえません。

お金に融通がきく

これは、起業の甘い側面しかみていない意見です。もちろん、組織に属していると給与テーブルの枠の中に納まった額しかもらえません。手当とボーナスの増減に一喜一憂するサラリーマンと違い、“起業”すればダイナミックなお金のやりとりができる。確かに頑張り次第、工夫次第でお金は稼げます。ですが逆を返せば、努力や創意が足りなければジリ貧にも陥るのです。お金に融通がきくとは、逆に言うと振れ幅も激しいことを意味します。潤沢にも登れば、貧窮にも陥るのです。

ただ、お金に融通が効くかどうかは、月給取りの皆さんも一緒です。自分の働きが組織の業績アップにつながった場合はボーナスで報われます。また、自分ではない方が起こした不祥事で業績ダウンをこうむり、ボーナスがなくなる不運を呪うのか。それに納得できるかできないかはあなた次第です。

お金に融通が効くか効かないかは、“起業”していようがいまいが変わりません。ただ、組織の場合は全く自分の部署に関係ないところが起こした不採算が、自分の部門にも影響を及ぼすこともあり得ます。それが組織なのですから。その点、自分の頑張りがお金に直結するのは起業の利点の一つとしてもよいでしょう。

お金については、起業の欠点としてあらためて取り上げたいと思います。

定年がない

定年がないとは、シビアに言い換えると死ぬまで働け、という意味です。勤め人には長年のねぎらいと老後の資金として退職金が支給されます。それが通例です。ですが、“起業”した場合は退職金はありません。なので、定年がないことを、利点に数えるのは早計だといえます。もっとも、退職金が出せるまでの組織を立ち上げられれば別です。または退職金がなくても、事業を清算した際に蓄えた資金を自分の老後資金に充てられれば。

もちろん、先に書いたとおり、働くことが大好きな方にとっては死ぬまで働けることは幸せでしかないはず。これを利点ととるか欠点ととるかはその人次第です。

次回から、起業の欠点について取り上げていこうと思います。


アクアビット航海記 vol.5〜起業のメリットを考える その4


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前回は、人生観の観点で起業の利点を取り上げました。今回は、正面から起業の利点を取り上げたいと思います。なお、以下の文は2017/9/7にアップした当時の文章そのままです。

起業の利点をさぐる

今までで三回にわたって起業の利点について述べました。逃避できるから起業、責任をより引き受けたくて起業、人生観に急き立てられて起業。それぞれが立派な理由だと思います。でも、これらの理由はどちらかといえば受け身の立場です。ラッシュが嫌だから、好きなときに好きな場所に行けないから、チャレンジをせずに人生が終わっていくのがいやだから。でも、それだけでしょうか。”起業”する理由は他にもあるはず。もっと前向きで建設的でアグレッシブな理由が。

やりたいことができるのが起業

それは、やりたいビジネス、やりたい社会貢献のための起業ではないでしょうか。現在、あなたがこのプランを社会に問いたい。このビジネスで社会に貢献したい。そんなアイデアを持っていたとします。このアイデアをどうカタチにするか。ここに起業が選択肢として挙がってきます。

あなたが例えば学生なら、いまはそのアイデアをカタチにするため最大限に勉強すべきでしょうし、もし会社に雇われていれば、会社を利用すべきです。社内起業制度があればそれを利用しない手はありません。最近は徐々にですが副業を認める会社も増えています。もし副業のレベルでなんとかなりそうであれば、会社にいながらアイデアをカタチにするのもありです。むしろ、会社の力を借りたほうが良い場合もあります。

でも、所属している企業にそういった制度がなく、思いついたアイデアが企業の活動内容と違っている場合、起業を選択肢の一つに挙げてもよいのではないでしょうか。もしくは、背水の陣を敷くために会社を辞めるという選択肢もあるでしょう。どちらが正しいかどうかは、人それぞれです。やりたい内容、資金、原資、準備期間によって起業のカタチもそれぞれ。どれが正しいかを一概に決めることはできないはず。

とはいえ、やりたい仕事が副業で片手間にやれるレベルではなく、属している会社の支援も見込めないとなれば、残りは起業しかないと思うのです。そこまで検討し、悩んだアイデアであれば、“起業”しても成算があるに違いありません。あなたが問わねば誰が世に問うのでしょうか、という話です。

繰り返すようですが、そのアイデアを元に起業に踏み切るのは、属する企業ではアイデアが実現できず、起業しか実現のすべがない場合です。本連載は起業を無責任に薦めるのが趣旨ではありません。しかし、あなたのアイデアの芽をつみ、他の人に先んじられるのをよしとするつもりもありません。企業に属していてはアイデアが世に出ないのであれば、起業はお勧めしたいと思っています。

やりたいことも成果があってこそ

“起業”すれば、あとはあなたの腕にアイデアの成否はかかっています。自分が食っていけるアイデア、誰も思いついていないアイデア、社会にとって良いと思えるアイデア。存分に腕をふるってもらえればと思います。あなたのアイデアに難癖をつける上司はいませんし、やっかむ同僚もいません。アイデアを盗もうとする後輩もいないでしょう。もちろん、ベンチャー・キャピタルや銀行、または善意の投資家におカネを出してもらう場合は、きちんと報告が必要なのは言うまでもありません。やりたいことができるのが起業とは書きましたが、お金を出してもらった以上は成果が求められるのは当たり前。でも、あなたのアイデアがカタチになり、それが世に受け入れられて行く経過を見守る幸せ。これをやりがいといわず、なんといいましょう。自分のアイデアを元に、世間に打って出ていく。そしてそれが受け入れられる快感。この快感こそが何にも増して“起業”する利点と言ってよいでしょう。

もちろん、アイデアと意欲だけでは起業はうまくいきません。理想は現実の前に色を失っていきます。それがたいていの人。理想やアイデアを世の中に問うていくためにも、ビジネススキルは必要です。泥臭く、はいずるようなスタートになることでしょう。苦みをかみしめ、世知辛さを味わうこともあるでしょう。起業なんかしなければ、と後悔することだってあるでしょう。そんな起業につきものの欠点は本連載でもいずれ取り上げる予定です。アイデアだけでビジネスが成り立つほど甘くはないのですから。でも、そんな厳しさを知ったうえでも、このアイデアで世に貢献したいのであれば、ぜひ試すべきだと思います。

そして、アイデアは慎重に検討し、楽観的な憶測や他の人の善意に頼らないことです。地道で地味な日々があります。スタートアップで脚光を浴びるのはほんの一部。それをベースに考えておくべきなのかもしれません。でも継続は力。いずれは実を結ぶはずです。実際、私は画期的なビジネスモデルも脚光を浴びるプレゼン能力ももっていませんが、地道に経営を続けられているのですから。

次回、起業のメリットとは言い切れないが、一般的には利点とみなされていることを探っていきたいと思います。


仕事が9割うまくいく雑談の技術-人見知りでも上手になれる会話のルール


本書には雑談のスキルアップのためのノウハウが記されている。雑談のスキルは私のように営業をこなすものには欠かせない。

私がサラリーマンだったのは2006年の1月まで。それから10年以上が過ぎた。その間、おおかたの期間は個人でシステムエンジニアリングを営む事業主として生計を立てていた。私には事業主としての特定の師匠はいない。個人で独立するきっかけを作ってくださった方や、その時々の現場でお世話になった方は何人もいる。そういった方々には今もなお感謝の念を忘れない。でも、個人で事業主として生きていくための具体的な世過ぎ身過ぎを教えてくれた人はいない。私のほぼ全ては独学だ。自己流ではあるが、何とかやってこれた。なぜなら情報系の個人事業者には開発現場の常駐をこなす道が開けているからだ。常駐先への参画は仲介となるエージェント会社を通すのが情報処理業界の慣習だ。そして、常駐先への営業はエージェント会社が行ってくれる。つまり、個人の事業主に求められるのは現場のシステム要件に合う設計・開発スキルと、最低限のコミュニケーション能力。そして営業スキルは不要なのだ。ということは、雑談スキルを意識する必要もない。

とは言いながら、私は事業主になって早い時期から営業をエージェントに頼り切ることのリスクを感じていた。なので個人的にお客様を探し、じか請で案件を取る努力をしていた。それに加えて私にリスクをより強く感じさせた出来事がある。それはリーマン・ショック。私には知り合いの年配技術者がいる。その方と知り合ったのは、エージェント経由で入った初めての常駐現場だ。その方が現場を抜けてしばらくしてからお会いした時、年齢を理由に次の現場が決まらず困っていたので営業代行を買って出たことがある。当時は、リーマン・ショックの影響で技術者需要が極端に冷え込んだ時期。スキルもコミュニケーション能力もある技術者が、年齢だけで書類選考ではねられてしまう現実。それは私に営業スキルを備えねばと危機感を抱かせるには充分だった。

それ以前にも雑談の重要性について全く知らなかったわけではない。私が事業主に成り立ての頃、某案件でお世話になった方から雑談のスキルを身につけるように、とアドバイスをいただいたことがある。その時は、具体的な雑談のノウハウを伺うことはなかった。少なくとも本書に記されているようには。

そしてその時点でも私は雑談スキルを意識して学ぼうとしていなかった。上にも書いたように、一つ目の常駐現場にいた頃からホームページ作成を何件か頼まれていた。なので個人としてお客様のもとに伺わせていただく機会は増えた。私なりにお話を伺い、そのあとにちょっとした会話を交わす。その中には雑談もあったことだろう。だが、雑談を体系立てたスキルとして意識することはなかったように思う。

そして今や経営者だ。個人事業主を9年勤め上げた後、法人化に踏み切った。法人化して経営者になったとはいえ、個人事業主とやっていることに変わりはない。経営をしながら、お金の出入りを管理し、開発をこなし、そして営業を兼ねる。だが、そろそろ私のリソースには限界が来始めている。後々を考えると技術者としての実装作業を減らし、営業へのシフトを考えねばなるまい。そう思い、本書を読む一年ほど前から後継となる技術者の育成も含めた道を模索している。

営業へのシフトに当たり、長らくうっちゃっておいた雑談スキルもあらためて意識せねば。それが本書を手に取った理由だ。

基本的には聞き役に徹すれば、雑談はうまくいく。それは私の経験から実感している。問題は相手も聞き役に徹している場合だ。その場合、どうやって話の接ぎ穂を作るか。話のタネをまき、話を盛り上げていかなければ話は尻すぼみになる。お互いにとって気詰まりな時間は、双方に良い印象を与えない。年上ばかりと付き合うことの多かった私のビジネスキャリアだが、そろそろ年下との付き合いを意識しなければならない。というより、いまや年下の方と話すことの方が多い。すでに平均寿命から逆算すると、私も半分を折り返したのだから。ましてや経営者としては、配下についてもらう人のためにも身につけなければならない。

まずは話し相手の心持ちを慮ること。それが雑談の肝要ということだ。雑談のスキルとはそれに尽きる。それが、本書から学んだことだ。それは雑談にとどまらず、世を渡るに必要なことだと思う。

相手の事を考える。それは相手にどう思われるかを意識する事ではない。それは相手の事を考えているようで、実は相手から見た自分のことしか考えていないのに等しい。そうではなく、相手にとって話しやすい話の空間を作ること。それが雑談で大切なことなのだ。逆に仕事の話は簡単だ。相手も当然、聞く姿勢で身構えるから。そこには冷静な打算も入るし、批判も入る。論点が明確なだけに、話の方向性も見えるし、話は滞りにくい。だが案外、ビジネスの成否とは、それ以外の部分も無視できないと思う。なぜなら、この人と組もうと思わせる要因とは、スキル以外に人間性の相性もあるからだ。

ビジネスに人間性の相性を生かすため、私が自分なりに工夫したことがある。それはFacebookに個人的な事を書くことだ。必ずしも読まれる必要はない。私という人間を知ろうと思ったお客様が、私のFacebookの書き込みを流し読んで私の人となりを理解していただければ、という意図で始めた。これを読んだお客様が私の人となりを理解する助けになれば本望だと思って。実際、商談の場でも私の書き込みが話題に上がった例は枚挙にいとまがない。これは、私から話題を提供するという意味では無駄ではなかったと思う。

とはいえ、そこには問題もある。先に書いたように「相手の事を考えるとは、相手にどう思われるかを意識することではない」に従えば、私の書き込みが「相手にどう思われるか」という意図だと誤解されている可能性がある。もしそう受け取られたとすれば、私のFacebook上の書き込みとは私の土俵に相手を誘っている過ぎない。そして、本書の説く雑談の流儀からは外れている。本書を読み終えてからしばらくてい、私はSNSの付き合い方を試行錯誤しはじめた。そこには私の中で、SNS上でなされる雑談が面を合わせての雑談に勝ることはあるのか、という問題意識がある。

もともと私のSNS上の付き合い方は、相手の土俵にあまり立ち入らないもの。そうしているうちに私の仕事が忙しくなってしまい、仕事や勉強の時間を確保する必要に迫られた。そのための苦肉の策として、SNS上で他の人の書き込みを読む時間を減らすしかない、と決断した。SNS上で雑談しないかわりに、顔を合わせる場で雑談や交流を充実させようと思ったのだ。今もなお、私の中で確保すべき時間をどこからねん出するべきか、オンライン上での雑談はどうあるべきなのか、についての結論は出ていない。もちろん、本書の中にもそこまでは指南されていない。

元来の私は、相手の土俵に飛び込み、相手の興味分野の中に入り込んで行う雑談が好きだ。本当にすごい人の話を聞くことは好きだから。それはもともと好奇心が強い私の性格にも合っている。

そういう意味でも、本書を読んで学んだ内容は私の方法論の補強になった。そして、どういう場合にでも相手の気持ちを考えること。それはオンラインでもオフラインでも関係ない。それは忘れないようにしなければ、と思った。ビジネスの場であればなおさら。

‘2017/02/16-2017/02/17


ドクトル・ジバゴ


「国が生まれ変わるというなら、新たな生き方を見つけるまでだ!」

本作は、私にとって初めて観るロシアを舞台とした作品だ。ロシア文学といえば、人類の文学史で高峰の一つとして挙げられる。ロシア文学から生み出された諸作品の高みは、今もなお名声を保ち続けている。トルストイやドストエフスキー、チェーホフやゴーゴリなど巨匠の名前も幾人も数えられる。私も若い頃、それらの作家の有名どころの作品はほぼ読んだ。ところが、ロシア文学の名作として挙げられる作品のほとんどはロシア革命の前に生み出されている。ロシア革命やその後のソ連の統治を扱った作品となると邦訳される作品はぐっと減ってしまう。少なくとも文庫に収められている作品となると。私が読んだことのあるロシア革命後のロシアを扱った作品もぐっと減る。せいぜい、ソルジェニーツィンの『イワン・デニソーヴィチの一日』と本作の原作である『ドクトル・ジバゴ』ぐらいだ。

本作の原作を読んだとはいえ、それは十数年前のこと。正直なところ、あまり内容を覚えていない。だが、本作を観たことで、私の中では原作の価値をようやく見直すことができた。その価値は、社会主義という制度の中だからこそ浮き彫りになるということ。そして私があらためて感じたこととは、社会主義とは人類を救いうる制度ではない、ということだ。

『ドクトル・ジバゴ』がノーベル文学賞を受賞した際、ソ連共産党は作者ソルジェニーツィンに授賞式に出ないよう圧力をかけたという。なぜなら、 『ドクトル・ジバゴ』 は社会主義を否定する作品だから。

知られているとおり、社会主義とは建前では階級の上下を否定する。そして平等を旨とする。そんな思想だ。社会主義の目標は平等を達成することにおかれるはず。だが、その目的は組織の統制を維持することに汲々となりやすい。つまり、理想が目的であるはずが、手段が目的になるのだ。それが社会主義の致命的な弱点だ。また、その過程では、組織の意思は個人の意思に優先される。個人の生きざま、希望、愛、はないがしろにされ、組織への忠誠が個人を圧殺する。

そこにドラマが産まれる。なぜ 『ドクトル・ジバゴ』 が名作とされているのか。それは、組織に押しつぶされようとする個人の意思と尊厳を描いたからだろう。その題材にロシア革命が選ばれたのも、人類初の社会主義革命だったからにほかならない。組織が個人をどこまでも統制する。ロシア革命とは壮大かつ未曽有の社会実験だったのだ。実験でありながら、建前に労働者や農奴の解放が置かれていたため、人々はその理想に狂奔したのだ。彼らの掲げた理想にとって敵とはロシア帝国の支配者階級。本作の主人公ユーリ・ジバゴも属していた貴族階級は、ロシア革命が打倒すべき対象である。

ところが、ジバゴは貴族の生まれでありながら、個人の意思を持った人間だ。幼い頃に両親と死に別れ、叔父の養子となった。その生まれの苦労ゆえか貴族の立場に安住しない。そして自分の信念に基づいた生き方を追求する。そんなジバゴに襲い来る革命の嵐。その嵐は彼の運命を大きく揺さぶる。そして、革命の前に出会ったラーラとジバゴは不思議な縁で何度も巡り合う。ジバゴの発表のパーティーの場で。そして、第一次大戦の戦場の野戦病院で。

ラーラもまた、運命に翻弄された女性。そして革命によっても翻弄される。労働者階級だった彼女は、特権階級の弁護士コマロフスキーから辱めをうける。そして、それがもとで恋人のパーシャを失ってしまう。パーシャは、革命を目指すナロードニキ。高潔な理想家の彼にとって、ラーラの裏切りはたとえ彼女自身に責任がなくても耐えがたいものだった。彼は軍に身を投じ、ラーラの元を去ってしまう。

やがて第一次大戦はロシア革命の勃発もあって終戦へと至る。ここまでが第一幕だ。ここまでですでに見応えは十分。

本作の見応え。それは演出の妙にあること、役者の演技にあることはいうまでもない。ただ、本作の舞台装置はシンプルにまとめられていた。これが宝塚大劇場だと奈落から競りあがる仕掛けや、銀橋のような変形された舞台装置が使える。ところが本作は赤坂ACTシアターで演じられる。舞台の制限なのかどうかはわからないが、本作ではいたってシンプルでオーソドックスな舞台装置を使っていた。演出といっても音響や照明を除けばそれほど凝った作りになっていない。舞台の吊り書き割りを入れ替えたり、薄幕で舞台を左右に分割し、それぞれの時間と空間に隔たりがあることを観客に伝えるような演出が施される程度。その分、本作は俳優陣の演技に多くを頼っているということだ。

ラーラはコマロフスキーに強引に接吻され、その後犯される。また、ある場面ではジバゴとベッドで朝を迎える。本作におけるラーラとは悲劇のヒロインではあるが、情欲の強い女性としても描かれている。そしてそれはジバゴも同じ。つまり本作は男女の情欲が濃く描かれている。艶やかなシーンの割合が本作には多いように思えた。そんな男女の艶やかさを女性ばかりの宝塚歌劇が果たして演じきれるのか。そんな私の先入観を本作の俳優陣は見事に覆してくれた。とくに、主演の轟悠さんはさすがというべきか。

ジバゴは原作の設定では20-30代の男性だと思われる。一方、ジバゴにふんする轟さんの年齢は、失礼かもしれないがジバゴよりもさらに年齢を重ねている。ところが風邪を引いたのか、本作の轟さんの声は少々ハスキーに聞こえた。しかしその声がかえって主人公の若さを際立たせていたように思う。女性である轟さんが長年にわたる訓練から発する男性の声。そこにハスキーな風味が加わっていたため、本作で聞えたジバゴの声は年齢を感じさせない若々しさをみなぎらせていた。鍛え抜かれた男役の声。そこには女性らしさがほとんど感じられない。それでいてもともとの声の高さがあるため、若さを失っていないのだ。それはまさに芸の到達点。理事の矜持をまじまじと見せつけられた思いだ。お見事。他の宝塚の舞台を見ていると、男役から発せられる声に女性の響きが混じっていることに気づいてしまうだけに、轟さんの声の鍛え方に感銘を受けた。

また、コマロフスキーを演ずる天寿光希さんも素晴らしい。彼女が発する声。これまた地の底をはうように抑えられていた。その抑えつけたような声が、コマロフスキーの狡猾さや一筋縄では行かないしたたかさを見事に表現していた。コマロフスキーは革命前は鬼畜のような男として登場するが、革命後、本作の第二幕ではラーラとジバゴを救い出そうともする。単なる悪役にとどまらぬ二面性を持つ男。そんなコマロフスキーを豊かに演じていた天寿さんの所作もまた見事だった。さすがに時折押し殺した声音から女性の声らしさが垣間見えてしまっていたけれど。それでも、この二人の男役からは女性が演じている印象がほとんど感じられなかった。それゆえに彼らの、男としてラーラに寄せる情欲の生々しさがにじみ出ていた。それでこそ、人間の本能と組織の規律の対立がテーマとなる本作にふさわしい。

ジバゴには貴族でありながら理想に燃える若々しさが求められる。同時に、革命の中で個人の尊厳を捨てまいとする強靭さも欠かせない。それらを見事に演じていた轟さんの演技こそが本作の肝だといえる。本稿冒頭に掲げたセリフは、第一幕から二幕のつなぎとなるセリフだ。このセリフには国がどうあろうとも、個人として人生を全うせん、という意思が表れている。

それはもちろん、宝塚という劇団の中で、個人として演技を極めようとする轟さんの意思の表れでもある。実に見ごたえのある舞台だったと思う。二幕物が好きな私にとってはなおさら。

第二幕は、すでに革命政府が樹立されたロシアが舞台だ。そこでは個人の意思はさらに圧殺される。その象徴こそが、モスクワから都落ちしウラルへ向かうジバゴ一家の乗る列車だ。第二幕は列車を輪切りにしたセットから始まる。過ぎ行く街々がプロジェクションマッピングで背景に映し出される。車内に閉じ込められているのに、回りの景色は次々と移り変わってゆく。それはまさに車両という組織に閉じ込められた個人の生の象徴だろう。

第二幕ではパーシャあらため赤軍の冷酷な将軍ストレリニコフがジバゴの対称として配される。彼はラーラに裏切られた思いが高じて人間の愛や意思すらも信じられなくなった人物だ。もはやナロードニキではなく、革命の思想に狂信する人物にまで堕ちてしまう。歯向かうものは家族や肉親のことを省みず殺戮する。まさに革命の負の側面を一身に体現したような人物だ。ストレリニコフは革命がなった後、用済みとして革命政府から更迭され、挙句の果てには銃殺される。その哀れな死にざまは、革命の冷酷な側面をそのままに表している。そして、個人の信念に殉じたいとするジバゴにも、同様の事態は迫る。妻子はパリに亡命するのに、たまたま往診先でラーラを見かけたジバゴは、そこにとどまってしまうのだ。さらにはパルチザンの医療要員として徴兵され、シベリアにまで連れていかれる。

彼は、命からがらラーラの下へ戻るが、ストレリニコフの妻であるラーラもまた、革命政府から目を付けられ、逮捕される日が近い。コマロフスキーはそんな二人を助けようとするのだが、ジバゴはラーラを落ち延びさせるために自らは犠牲となる道を選ぶ。そうして、彼もまた野垂れ死んでゆくのだ。組織の論理に殉じたストレリニコフも、個人の信念に殉じたジバゴも、ともに死んでゆく。そこに進みゆく時代に巻き込まれた人のはかなさが表現されている。

組織も個人もしょせんは時代のそれぞれで一瞬だけ咲き乱れ、散ってゆく存在にすぎない。その間に時代は前へと進み、人々が生きた歴史は忘れ去られてゆく。それはおそらく舞台の演者たちも観客も同じ。それでも人は舞台という刹那の芸術をつかの間堪能するのだろう。それでいい。それこそが人生というものの本質なのだから。

‘2018/02/22 赤坂ACTシアター 開演 15:00~

http://kageki.hankyu.co.jp/revue/2018/doctorzhivago/index.html


ペドロ・パラモ


本書の存在は、昨年読んだ『魔術的リアリズム』によって教えられた。『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾隆吉氏は本書の紹介にかなりのページを割き、ラテンアメリカ文学の歴史においてなぜ本書が重要かを力説していた。それだけ本書がラテンアメリカ文学を語る上で外せない作品なのだろう。それまで私は本書の存在すら知らなかった。なので、本書の和訳があればぜひ読みたいと思っていた。そこまで激賞される本書とはいかなる本なのか。そんな私の願いはすぐに叶うことになる。多摩センターの丸善で本書を見つけたのだ。しかも岩波文庫の棚だから値段も控えめ。その場で購入したことは言うまでもない。

そして本書は、2017年の冒頭を飾る一冊として私の読書履歴に加わることになった。ここ数年、新年の最初に読む本は世界文学全集が続いていた。ゆっくりと読書の時間がとれるのは新年しかないので。ところが2017年は年頭から忙しくなりそうな感じ。そのため比較的ページ数が少ない本書を選んだ。

本書は、ラテンアメリカ文学史に残る傑作とされている。だが、一度読んで理解できる小説ではない。二度、三度と読まねば理解はおぼつかないはずだ。すくなくとも私には一度目の読破では理解できなかった。

なぜなら、本書は場所と時代が頻繁に入れ替わるからだ。本書はたくさんの断章の積み重ねでできあがっている。訳者によるあとがきの解説によると七十の断章からなっているとか。そして各章のそれぞれで時代と場所を変えている。さらには話者も変わるのだ。各章が続けて同じ時代、同じ場所を語ることもあれば、ばらばらになることもある。それらは、章の冒頭で断られる事なく切り替わる。そもそも章番号すら振られていない。つまり、それぞれの章の内容や登場人物を丹念に把握しないとその断章がどの時代と場所を語っているのか迷ってしまうのだ。そのため本書を読み通すだけでも少し苦労が求められる。

読者は本書の冒頭の文で本書のタイトル『ペドロ・パラモ』の意味を知る。それはフアン・プレシアドが会おうとする自らの父の名前である。ところがすぐに読者は「ペドロ・パラモはとっくの昔に死んでるのさ」というセリフがファン・プレシアドに投げかけられる(14P)ことで困惑する。タイトルになった人物が死んでいるとはどういうことだろう、と。さらには、冒頭の断章がフアン・プレシアドの視点になっているはずなのに、フアン・プレシアドと会話している相手が、たった数ページの間に二転三転するのだ。そもそもフアン・プレシアドは誰と話しているのか。フアン・プレシアドに話しかけているのは誰なのか。読者は見失うことになる。そしてファン・プレシアドはいくつかの断章でいなくなり、別の人物の視点に物語は切り替わる。さらに、主人公であるはずのペドロ・パラモは死んでいる。その時点で誰が本書の主人公なのかわからなくなる。多分、死んでいるペドロ・パラモは主人公ではなりえない。と思ったら終盤では過去の世界の住人としてペドロ・パラモが登場する。そして、それまでの断章でも語り手が次々と切り替わるのだ。どの時代、どの場所の人物の視点で物語が語られているのか、わからなくなる。もはや誰が主人公なのか、読者は著者の仕掛けた世界に惑わされてゆくばかりだ。

本書が読みにくい理由はその外にもある。それぞれの場所や時代ごとに目を引くような比喩や表現による書き分けがないのだ。印象に残るエピソードが現れないので、記憶に残りにくい。それぞれの場所と時間ごとのエピソードに関係が付けにくいのだ。そして、全体的なトーンは暗めだ。前向きな展開でもない。その上、登場人物たちの発するセリフは微妙に食い違う。それらは読者に釈然としない感じを抱かせる。誰が誰に語っているのかもはっきりしないセリフが次々と積み重なり、読者の脳に処理されずに溜まってゆく。明らかに過去からの亡霊と思われるセリフが違う書体で随所に挟まれる。セリフとセリフの間には、話者の間にコミュニケーションがなりたっている。が、それはある瞬間でブツリと途切れてしまうのだ。そして何事もなかったかのように次の断章に繋がってゆく。本書を読むだけでもとても難儀するはずだ。

だが、そういったもやもやは、本書を読み終えた時点でかなり解消されるだろう。なぜこれほどまでに曖昧な印象を受けるのか。その理由を読者が知るのは、本書を読み終え、本書の構造を理解してからとなる。その時、読者は知る。なぜ、本書の登場人物の話す言葉や視線がぼやけているのか。なぜ、頻繁に死を示すことばや比喩が登場するのかを。

本書が込み入っているのは時間と場所だけではない。生者と死者の関係も同じように込み入っているのだ。普通に話している相手が実は死者であり、さらには断章の主人公さえも死者である物語。死者と生者が混在する世界。死者ゆえに時間を超越する。死者故に空間を飛び越えて遍在できる。そのため、本書は複雑なのだ。何次元もの層が複雑に折り重なっている。そしてわかりにくい。

また、もう一つ。本書を分かりにくくしている要素がある。それは構造だ。本書が70の断章で成り立っていることは上に書いたが、全体の行動がループしているのだ。それも本書をわかりにくくしている。本書の終わりが本書のはじまりにつながるのだ。つまり、終わりまで読んでようやく本書の始まりの意味に気づく仕掛けになっている。上に書いたとおり本書を2度、3度読まねば理解したといえない理由はここにある。

『魔術的リアリズム』の中で著者の寺尾氏は本書の円環構造を、このように書いている。
「円環構造の真の意義は作品の基調となる非日常的視点を内部に自己生産するところにある」(92P)、と。

ここでいう自己生産とは登場人物による会話が、次の展開を呼ぶことを意味する。先にも書いたとおり、本書は断章のセリフが次の断章を呼び出している。だから本書の主人公は誰でもよいのだ。死者でもよいし、過去の住人でもよい。会話だけが主人公のいない本書に一貫して流れ続ける。そう考えると『ペドロ・パラモ』とは主人公をさすタイトルではない。どんな呼び方でも構わないと思える。ところが本書のあとがきの訳者の解説ではペドロ・パラモにも意味があることを教えられるのだ。ペドロが石、パラモは荒れ地。ということはペドロ・パラモを求める意図とは、「荒れ地の石」をもとめる旅にもつながる。だからこそ本書はつかみどころがない。登場する人々は死に、あらゆるものが読者にあいまいな世界。目的が荒れ地の石なのだから当然だ。その意味ではペドロ・パラモは主人公ではなく、本書の存在そのものかもしれない。

本書が荒れ地の石なのであれば、読者はそもそも何を求めて本書を読めばよいのだろう。それは読者もまた死ぬという絶対的な真実を突きつけるためなのか。もしそうだとすれば、個人にとって救いがない。だが、本書はもう一つ世のならいとは堂々めぐりにあることも示している。それは種族としての希望として考えられないだろうか。たとえ個人の営みはむなしく虚になることがわかっていても、種族は未来に向けて延々と円を描き続けていく。そこに読者は希望を見いだせないだろうか。本書を読む意味とは円環の仕組みにこそあるのかもしれない。

訳者はこう書いている。「断片と断片をつなぐ伏線の中に、うっかりして見落としてしまいそうなものもたくさんある。読み返して、ふと気づいたりするのだが、こんな目立たぬところにもこういう仕掛けがあったのかと驚くと同時に、作品の隅々にいたるまでの精緻な構築にあらためて感嘆の声をあげてしまいそうになる。」(217P)

原書と日本語訳を何度も読み返したはずの訳者にしてこのような感慨を持つぐらいだ。私など本書の仕掛けのほんの一部しか知らないに違いない。なにしろまだ一度しか読んでいないのだから。だからこそ必ずや本書は読み直し、理解できるように努めたいと思う。

‘2017/01/01-2017/01/09


ルーズヴェルト・ゲーム


アメリカのルーズベルト大統領は、 野球の試合で一番面白いスコアは8対7だ、という言葉を残したという。本書のタイトルの由来はそこから来ている。私は本書を読むまでこの挿話を知らなかった。

本書で著者が取り上げたのは社会人野球だ。青島製作所という中堅機械メーカーを舞台に、社会人野球に賭ける男たちを主人公としている。

社会人野球とは、面白い切り口だ。やっていることはプロ野球と同じ。それなのにアマチュアとして一段低く見られがち。選手たちはその企業の正社員または契約社員の身分として大会を戦う。正社員ならまだいい。その企業と終身雇用のプロ契約を結んでいるようなものだから。しかし、本書に登場する青島製作所野球部の選手たちはほとんどが契約社員だ。アマチュア扱いを受ける社会人野球のなかでも、より低いアマチュア扱いに甘んじているのが野球部の契約社員なのだ。契約社員は、雇用が保証された正社員とは違う。業務の繁閑に合わせて首にされても文句がいえない身分だ。ましてや、企業の福利厚生の延長である野球専業の契約社員であるなら、その立場はさらに弱い。私も本書を読むまでは勘違いしていたが、社会人野球を雇用が保証された身分で行う企業庇護の余技と見ると大きな誤りをおかす。

青島製作所野球部は創業者の青島が立ち上げた。その青島も年齢から会長にしりぞき、営業出身の細川に社長を譲る。その折り、日本を不況の波が洗う。青島製作所もその波をモロにかぶり、大手からの受注が減ってしまう。さらにはライバル社からは熾烈な価格攻勢を受ける。

業績が悪化すると銀行からの融資も渋り気味となる。その結果、コスト圧縮が全社的な掛け声としてまかり通る。そうなると真っ先に槍玉に挙げられるのは野球部のような福利厚生。個々の社員に直接恩恵のある福利厚生ならまだいい。しかし、野球部のような企業チームはどう評価すべきか。本書にも総務部長がチーム存続を社内に説得するための根拠として、野球部の経済効果を試算するシーンがある。だが、結果は芳しくない。企業の広告塔としての効果は、プロ野球ならまだしも社会人野球だと低く見積もらざるを得ないのだろう。

前監督はチームを去り、ライバルチームの監督に収まる。ついでに主力選手も引き抜いてゆく。そのライバルチームこそは、青島製作所にとっては本業の競業相手でもあるミツワ電機。営業力に定評のあるミツワ電機は、青島製作所の主力分野にも参入してしのぎを削る関係だ。ただでさえ不況で売上が減っているところ、どうやって青島製作所は生き残るのか。野球部は廃部への圧力をはね除けられるのか、という筋書きでグイグイと読者を読ませる。

正直なところを言えば、本書の筋書きは著者の代表作である『下町ロケット』に似ている。会社の危機にめげそうになった経営者が、社員の頑張りに勇気をもらい、災い転じて会社を飛躍させる粗筋は同じだ。

だから本レビューでは『下町ロケット』と筋書きが似かよっている事にはこれ以上触れないことにする。しかし、本書が 『下町ロケット』 よりもさらに深みを増した物語になっていることは言っておきたい。それは、会社にとって遊び場は必要か、という観点を掘り下げていることにある。半沢直樹にせよ、『鉄の骨』にせよ、著者の小説にはビジネスや資本の論理が太い芯として貫かれている。その論理の檻の中で、精一杯我欲を満たしたり意地を張る人々の姿を描くのが著者の得意とする作風だ。作中に登場するゴルフや呑みのレクリエーションは、すべてはビジネスの論理のため。今までの著者の作品には、そういう思想が透けて見えていたように思う。社業の隆盛に向け、社員一丸となって努力する姿は一見すると麗しい。でも、企業とはそんなに一面だけの切り口でとらえられるものなのだろうか。社員の全てが小賢しく立ち回る大人だけではないはず。平日は業務をきっちりとこなす。でもら、休みには童心に帰り、羽目を外して英気を養う。そういう社員がいてこそ、会社とは伸びてゆくのではないか。

悩める細川が、廃部の瀬戸際に揺れる野球部の試合を観戦に来て、応援に童心に帰る社員たちの業務とは違う一面に触れる。同じく観戦に来ていた青島から、8対7で終わる試合が一番面白いという言葉を聞き、目をひらかされるシーンもそう。窮地に落ちていても、4対7の劣勢から、逆転満塁ホームランで勝ち越せるのが野球の魅力の一つだ。言ってしまえば経営も野球もゲームにすぎない。ビジネスライクな論理だけでは人は動かないし、会社も続かない。それは、仕事も遊びも百パーセントでやることをよしとする私にとって、大きく頷ける考えだ。

本稿を書くにあたってあらためてそのエピソードの由来を調べてみたところ、このようなページがあった。この中でドラマ版のあらすじが記されているが、本書とは細かい部分で少々違っている。だが、ルーズベルト大統領の言葉が、このように裏付けられたのはとても意義深いことだ。

こういった努力が満塁ホームランで報われることもあれば、そうでないこともあるだろう。だが、たゆまぬ努力が全くの無駄には終わらない可能性だってある。読者としては、前向きに受け取りたいものだ。著者も努力を続けてきた結果、ベストセラー作家の仲間入りをした。企業論理を追求してきた著者の作風も、本書によって一段と深い風味をかもすことになるはず。今後とも楽しみに読ませてもらえればと思う。

‘2016/08/09-2016/08/09


喜嶋先生の静かな世界


著者の本は一時期よく読んでいた。よく、と言っても犀川シリーズだけだったけど。犀川シリーズとは、那古野大学の犀川助教授とゼミ生である西之園萌絵が主役のシリーズ。本稿を書くにあたり、著者のWikipediaを拝見したところ、犀川シリーズをS&Mシリーズと呼ぶことを知った。S&Mシリーズはとにかく読みやすい。読みやすさのあまり、内容をほとんど忘れてしまう事が逆に欠点となるほどに。私がS&Mシリーズを読むのを途中でやめてしまったのは、その読みやすさが災いしてのことに違いない。そのため、S&Mシリーズの結末は知らない。結局のところ、西之園萌絵は犀川先生を射止めたのかどうかも。

本稿を書くにあたり、私が最後に読んだS&Mシリーズ及び著者の作品を調べてみた。その作品とは「今はもうない」だ。S&Mシリーズの最後から数えて三つ目の作品だ。しかも私は「今はもうない」を二回読んでいる。1998年の11月と2001年の4月に。おそらくはこのときも一回目に読んだ内容を忘れてしまっていたのだろう。私は、これを最後に著者の作品から遠ざかることになる。

そういうわけで本書は、十数年ぶりに読む著者作品となる。

長音を避ける理系色の豊かな文体は相変わらず。ドクターはドクタ。スーパーはスーパ。エネルギーはエネルギィだ。久々に読んでもやはり個性的だ。懐かしさを感じた。

水のようにすっと心に染み入る読みやすさも健在。小説家として稀有な文章力の持ち主なのだろう。文章がうますぎるのだ。そういえば、本書に載っていた著者の略歴を見ると、元名古屋大学助教授となっている。私が著者の作品を読んでいた頃は、まだ現役の名古屋大助教授だった気がする。いつの間に研究職をやめて作家専業になったのだろうか。そう言えばその頃に比べて作品リストも大分層が厚くなったようだ。国立大助教授の職をなげうっても作家として専念できるだけの手ごたえを著者は感じたのだろうか。

だが、国立大助教授まで登り詰めるのもおいそれとできることではない。それができたのは、著者が学究生活に魅力を感じていたからに他ならないと思う。雑務に追われず、自らのピュアな探求心に身を委ねられる日々。充実と成果が相和して得られた研究生活。研究職を辞す決心をした著者には、小説家としての今後の希望と同じくらい、研究者としての日々に後ろ髪を引かれたのではないか。

本書を読むと、学究生活への愛着を感じる。主人公や主人公の師である喜嶋先生の描き方は、著者がかつて持っていたはずの志を体現した人物そのものだ。

本書にはここに書くほどの特別なあら筋はない。あるとすれば、主人公の幼時から大学入学、そして修士課程、博士課程への道筋がそうだ。取り立ててドラマチックな出来事は起こらないし、登場人物の間の関係も単純だ。著者の文体のように、スッと読める筋書きになっている。

本書は筋のない分、主人公の心の軌跡が明るみになっている。読み書きの苦手な少年が宇宙を志す。文系科目は避け、理系科目にのみ興味を寄せる。大学もやすやすと理系学部に入学する。大学の享楽的な雰囲気に失望するも、大学院の求道的な姿勢を目にし、そこに自らの居場所を定める。己の信ずるままに学問に邁進する主人公の人生は、雑味がなく読んでいてとても小気味良い。

院での生活と、そこでの喜嶋先生との出会いが本書の肝となる部分だ。筋といった筋もない本書だが、著者は先生や先輩の院生の異動をうまくからめながら、話が停滞しないように読者を引っ張ってゆく。うまいなあ、と思う。著者の筆達者な筋運びには一分の乱れもない。

一分の乱れもないのは、主人公が師と仰ぐ喜嶋先生も同じ。雑務を排し、学究のみに向かいたいがために講師以上の職を望まない喜嶋先生。その学究者として筋の通った姿に主人公は感銘を受ける。

本書には俗世の安易な快楽は登場しない。学生ノリの飲み会すらほぼ登場しない。本書はむさ苦しい男だけの小説と思いきや、女性も数人出てくる。しかし、本書では恋愛さえ、浮世離れした高尚な営みとして描かれる。院生となった主人公に、大学入学当初から主人公に想いを寄せていた清水スピカが告白する。そんな主人公の人生にとってエポックな出来事さえ、著者は繊細に取り扱う。キスしか描写されないまま、研究者となった主人公はスピカと結婚するのだ。果たして婚前交渉かあったのかどうか、本書からは全く伺うことはできない。プラトニックとでも言いたくなるような、清らかな男女関係だ。

喜嶋先生と計算センタのマドンナ沢村さんの関係も高尚かつ純そのもの。しかし本書には主人公や喜嶋先生を笑う無粋な輩は登場しない。学究の高みを目指して研究にうちこむ本書のテーマにとって、二人の間のロマンスをどうこういう余地はない。本書の純粋さは、登場人物だけでなく読者からの下世話な突っ込みすらも跳ね返す。本書からは世のあらゆるもの、人の営みそのものすら、徹底して水や空気のように透明で通り過ぎていくものとして扱おうとする著者の意思が感じられる。本書は、水のようにしみこむ文体と、水のように薄い俗世の味わいと、水のように純粋な学問への思いから成っている。森の奥に静かにたたえられた湖のように。

主人公が助手から他大学の助教授へと招聘されるにつれ、つまり研究以外のものが生活に混じるに従い、喜嶋先生の口調に丁寧さが混じってゆき、自然と疎遠になってゆく。人は成長するにつれ、世の中と折り合ってゆくために、世俗のものと妥協し、それらを身につけてゆく。それゆえ、世俗に染まった者にとっては、喜嶋先生の孤高を貫こうとする姿が淡々としているように見えるほど、逆に痛々しさを感じる。そしてある種の悔しさすらも感じる。さらには哀しみの感情も抱く。俗なものに流されるとは、長いものに巻かれることは、これほどにも楽なことなのか。そして、自己を貫いて生きるとは、これほどまでに苦しいものなのか。そんなことまで思わせる哀切さにみちた結末だ。

本書の帯には、こう書かれている。
学問の深遠さ、研究の純粋さ、大学の意義を語る自伝的小説

私はこう付け加えたい。
学問の深遠さ、研究の純粋さ、孤高の困難さ、大学の意義を語る自伝的小説、と。

‘2016/07/15-2016/07/16


日本の未来は暗いという新成人へ


日本の未来は暗い。

成人の日を前に、マクロミル社が新成人にアンケートをとったそうです。その結果、「あなたは、「日本の未来」について、どのようにお考えですか。」という問いにたいし、67.2%の人が「暗いと思う」「どちらかといえば、暗いと思う」と答えたとか。つまり冒頭に挙げたような感想を持った人がそれだけいたということですね。http://www.macromill.com/honote/20170104/report.html

うーん、そうか。と納得の思いも。いや、それはあかんやろ、ていう歯がゆさも。

この設問にある「日本」が日本の社会制度のことを指すのだったら、まだ分からなくもないのですよ。だけど、「日本」が新成人が頼りとする共同体日本を指すのであれば、ちょっと待てと言いたい。

今の日本の社会制度は、個人が寄りかかるには疲れすぎています。残念ですけどね。これからの日本は、文化的なアイデンティティの拠り所になっていくか、最低限の社会保障基盤でしかなくなる。そんな気がしてなりません。今の日本の社会制度を信じて国や会社に寄りかかっていると、共倒れしかねません。個人の食い扶持すらおぼつかなくなるでしょう。

トランプ大統領、少子高齢化、人工知能。今年の日本を占うキーワードです。どうでしょう。どれも日本に影響を与えかねないキーワードですよね。

でも、どういう未来が日本に訪れようとも、個々人が国や会社におんぶやだっこを決め込むのではなく、人生を切り開く気概を養いさえすれば乗り切れると思うのです。戦後の高度経済成長もそう。戦前の価値観に頼っていた個々人の反動が、原動力になったともいえるのですから。

これからの日本の未来は暗いかもしれませんが、それは疲弊した社会制度の話。組織や国に寄りかかるのではなく、個人で未来を切り開く気概があれば、未来は明るいですよ、と言いたいです。

それは、何も個人主義にはしり、日本の良さを否定するのではありません。むしろ「和を以て貴しとなす」でいいのです。要は、組織にあって個人が埋没さえしなければ。だから、組織を離れるとなにをすればよいかわからない、ではマズいです。週末の時間をもて余してしまう、なんてのはもってのほか。

学問を究めようが、政治に興味を持とうが、サブカルに没頭しようがなんでもいいのです。常に客観的に自分自身を見つめ、個人としてのあり方や成長を意識する。それが大事だと思います。その意識こそが新成人に求められるスキルだといってもよいです。

だから、アンケートの設問で「あなたはどのような方法で、世の中のニュースや話題を得ていますか?[情報を得ているもの]」でテレビが89.6%とほぼ9割であることに若干不安を覚えます。なぜならテレビとは受け身の媒体だから。特定の番組を選び、意識して見に行くのならまだしも、何となくテレビの前でチャンネルザッピングして飛び込んでくる情報を眺めているだけなら、個人の自立は遠い先の話です。やがて日本の社会制度の疲弊に巻き込まれ、尾羽打ち枯らすのが関の山です。

でも、アンケートの結果からは救いも見えます。それは、皆さん日本の未来については悲観的ですが、ご自分の未来については楽観的なことです。アンケートの中に「あなたは、「自分の未来」について、どのようにお考えですか。」という設問があり、65.8%が楽観的な答えだったのです。これはとても良いこと。未来は暗いと言っている場合ではないのですから。同じく「あなたは、自分たちの世代が日本の将来を変えてゆきたいと思いますか。」の問いに61.4%の方が肯定的な回答をしていたことにも希望が持てます。

日本に誇りをもちつつ、日本に頼らない。日本の文化に属しつつ個人としての感性を磨き、充実の社会人生活を送ってほしいものです。

ま、私もこんな偉そうなことを言える新成人ではなかったのですが。私も人のことを言ってる場合やない。私という個人をもっと磨かねば。そして子供たちにも個人の意識を打ち立てるように教え諭さないと!


銀行総務特命


タイトルだけみると、駅のキオスクに売られている廉価な文庫本が想像できてしまう。お色気満載の。しかし、タイトルだけ見て判断するのは早計だ。著者が量産型作家に堕したと考えることもあわせて慎みたい。

本書は短編集である。どれも主人公は指宿。彼の肩書きは帝都銀行総務部特命担当。タイトル通り、特命部署に任じられた指宿の活躍を描いている。

金を扱う銀行はその裏に隠す顔がなんであれ、公正で清潔な印象を保たねばならない。一方で銀行は、おおぜいの行員の働く組織だ。多様な考えを持つさまざまな立場の人々が集って仕事をするわけだから過ちも悪行も起きる。しかし、銀行にとって信用こそが全て。過ちを人間のやることだからと看過するのはご法度。過ちは二度と起きないように原因から断つ。悪行は早めに芽をつむ。そのままにしておけば、やがては組織をむしばみ取り返しのつかない事態につながる。指宿の役目とは、そのような銀行内のスキャンダルを未然に防ぐことにある。

スキャンダルにもいろいろある。顧客情報の漏洩。裏金の処理。行員のAV出演。行員家族の誘拐・脅迫。行員によるストーキング行為。行内の権力争い。パワハラ。他行の不正指摘。これらスキャンダルはなにも銀行だけの問題ではない。どの組織にも起こりうる話だ。しかしそれらはどれも組織に深刻なダメージを与えかねないもの。ましてやそれが銀行であればなおさら。

本書は8章からなっている。そして各章は、それぞれがテーマに沿って書かれている。上に挙げたスキャンダルのあれこれが、各章のテーマとして取り上げられている。

本書の強みは、著者が銀行出身者であることだ。そのため、短編でありながら、各編で書かれる内容は深い知識の裏打ちに基づいている。行内の組織、情報伝達経路、用語など、本書に登場する専門用語は少なくない。おそらくは著者が銀行在職中に日常的に使っていた用語なのだろう。それらを自由に使いこなし、本書にさりげなく組み込めるのは著者ならではといえる。私にとってはむしろ、著者がここまで書いても許されるということが興味深い。機密保持契約には通常、在職中に知った情報は退職後も開示できないとの条項があり、銀行退職後も有効であるはずだから。

実在する特定顧客を連想させなければよいのだろうか。また、本書で書かれた行内の情報もこの程度であれば公知の情報と見なされるのだろうか。

例えば指宿の役職は調査役と設定されている。私は以前、某銀行本店で働いていたことがある。その際、調査役という役職名はよく耳にしていた。なお、私がいた銀行は著者の出身行ではないのだが、調査役という役職名が登場したことにちょっとした驚きをもった。つまり調査役とは銀行業界に共通する役職ということなのだろうか。私は他業界で調査役という役職があることは聞いたことがない。特命という役職もそう。これは私も聞いたことがない。だがいかにもありそうな名前にも思える。こういった役職名は公知情報という認識でよいのだろうか。とても興味がある。

著者の作品は今までにも何冊か読んできた。それで思ったのが、著者は銀行という組織に対して問題意識を持ち続けていたのだろうな、ということ。多分変えられるものなら変えたかったのかもしれない。著者は本書で総務という視点から銀行を見つめ直したいと試みたのだろう。

そこから見えたものとは、銀行もまた組織のひとつにすぎないこと。銀行だからといって組織的に他の企業と違うことはない。ただ、銀行は業務上、多額の金を扱う。つまり欲望が増幅されやすい現場なのかもしれない。そういった現場に身を置きながら、信用が全てという建前を貫かねばならないのが銀行だ。行員によっては表に見せる顔の裏側で欲望を沈殿させ、蓄えてゆく。そして奇妙にねじれた形で噴出させてしまう。

噴出した欲望の形を、読みやすい短編の形で提示したのが本書なのだろう。短編形態であるためそれぞれの話はさらっと終わる。しかし、銀行のような多忙な職場を舞台にすると、むしろこれぐらいで終わるのが実情に合っていると思う。著者の銀行観や組織観が伺える本書は、銀行を知る上で一つの参考になると思われる。

‘2015/12/09-2015/12/11


ポジティブ・リーダーシップ: Profit from the Positive


本書は新刊本として購入した。

なぜ本書を購入したか。それは私自身に大きな仕事のお話が舞い込んで来たからだ。そのお話が成就した場合、私の仕事や生活環境は大きな変化に見舞われることになる。

しかし、その仕事をやり抜くためにはスキルが必要となる。そのスキルとは、リーダーシップだ。そしてリーダーシップとは、私が10年間自己研鑽を怠っていたスキルでもある。その10年間、私は個人事業主として活動していた。個人事業主とは、個人で請ける仕事については完全に自己責任の世界。もっとも私の場合、開発現場に常駐してチームの一員で働くことが多かった。その場合でも、私の立場は末端のSEであることが多かった。つまり、仕事上では部下を持つことがない。仕事においてはいかなる意味でもリーダーシップを発揮せぬままの10年だった。

私がリーダーシップを発揮する機会があるとすれば、私から仕事を外注する場合だ。仕事を発注する場合、発注元としてリーダーシップを発揮しなければ仕事は動かない。外注先に対し、要件伝達や作業指示を通してリーダーシップを発揮しなければならない。当然の責任だ。だが、そもそもシステム開発とは、少なくともコーディングの瞬間は独力なのが原則だ。また、外注に出した場合もお互いが独立した事業主として作業を遂行する。そのため、協業相手と机を並べて一日の多くを共に過ごすようなスタイルは通常は採らない。つまりここでもリーダーシップの発動の場は極めて少なかったといってもよい。

とはいえ、私にリーダーシップ発揮の機会が全く無かった訳ではない。サラリーマン時代は役員をやっていたこともあったし、現場マネージャーとして部下を何人か持っていた時期もあった。初めて東京に出て就いた仕事は何十人ものオペレーターを統括するスーパーバイザーだ。学生時代には文化部の部長もやっていた。また数年前には自治会の総務部長として総務部員に指示する立場にもあった。つまり、未熟なりにリーダーシップを模索しつつ実践していた訳だ。しかし、個人事業主になってからというもの、ボランティアの
部分を除けば部下を持たぬ仕事環境に慣れてしまっていた。

冒頭に書いた仕事の話を頂いた時、私の脳裏に浮かんだのは、自らのリーダーシップセンスを再構築すること、という準備タスク。しかも優先度を高めにして。なぜなら頂いた仕事の話が成就した場合、かなりの数の部下を持つことが予想されたから。私をそうやって買ってくれたお申し出に、やる気が出ない訳がない。が、その一方で私は、10年間の個人事業主としての慣れを払拭せねば、新しい仕事はおぼつかないというあせりも芽生えていた。そんなわけで、マネジメント関係の書籍を探しに本屋を訪れ、購入したのが本書である。

ポジティブ・リーダーシップ。前向きなリーダーについての本である。ポジティブ。とても大切な言葉だ。人生を生きていくにあたって唯一といってもよい真理かもしれない。私も42年生きてきて、少なくとも自分自身をポジティブにする術は身に着けられているのではないかと思う。ポジティブでなければ乗り越えられなかったような様々な試練も乗り切ってきた。なので、自分自身をポジティブ・シンキングに持ち上げる目的については本書の出番は無いのかもしれない。

しかし、ポジティブさを部下に求めることはまた別の話だ。しかも継続してポジティブで居てもらわねばならない。これは難しい。たとえ自分自身の内面をポジティブにしたところで、部下の心中を管理し切ることはいかんともし難い部分だ。しかしリーダーがどれだけポジティブであっても部下が後ろ向きで消極的であれば、組織の成長は望めない。本書で著者が指南するのは部下をポジティブにさせるためにリーダーとしてあるべき姿、保つべきスタイルについてだ。

結論としては、本書は私自身にとって大変参考となった。それは、前向き思考を保ち続けるために私自身が今まで培ってきたノウハウとは矛盾しない。矛盾しない上に、足りない部分を本書が補完してくれる。これは大きい。もちろん本書を読んだだけで実践できるわけがない。読んだ上での試行錯誤は欠かせない。本書を繰り返し読むことで実践を確かなものにしなければならない。

初めの4章はリーダーについてだ。
1章 生産性の高いリーダーとは?-時間管理より重要なこと
2章 逆境に負けないリーダーとは?-自分のケツをひっぱたく
3章 感染力の強いリーダーとは?-部下ではなく、自分の感情をコントロールする
4章 強みを活かすリーダーとは?-うまくいっているものを最大活用する

1章の冒頭から、著者は生産性が上がらない理由について問題提起する。それは「働きすぎ」「マルチタスク」「仕事の先延ばし」の3つである。3点のうち、私にとって勉強になったのは「マルチタスク」の弊害だ。私もマルチタスクを錦の御旗としていくつもの仕事を並行して行うことが多い。ただ、マルチタスクをやっているつもりでも、実は脳内では瞬時瞬時の作業の切り替えが発生しており、厳密にはマルチタスクにはなっていない。そしてそのために却って能率が落ちているというのだ。本書によると切り替えによる損失は専念した時の4割にも達するという調査結果があるらしい。生産性を上げるどころか却って損失させているのがマルチタスクということだ。本書を読む前にもマルチタスクの弊害については知識として持っていた。しかし、これほどまでとは思わなかった。しかし私自身、未だに「ながら族」「マルチタスク万歳」の癖は抜けない。これは今後も意識して気をつけねばなるまい。

著者はその前提を読者に突き付ける。そしてその上で、生産性上昇についていくつかのテクニックを読者に伝授する。それは「ツァイガルニク効果」と「ティナのハイ終わり!リスト」の2つだ。一つ目の「ツァイガルニク効果」とは、課題がいくつもあるうち、終わらせた課題と終わらせられなかった課題を比べると、人は後者の課題を記憶しているという効果をいう。それを利用し、前日の終業前にすべてを終わらせず、敢えてほぼ終わらせた状態で留める。そうすると、翌朝はそれをすぐに片づけてから仕事にかかることが出来るというのだ。なるほど、これはあまり聞いたことがないテクニックだ。また「ティナのハイ終わり!リスト」は命名こそ適当だが、要するにToDoリストに線を引いて可視的に終わらせたかどうかを意識させるテクニックだ。このテクニックは使っている人を良く見かける。ToDoアプリで知られるRemember The Milkもこの手法を使っている。

また、「まずやってみる」ではなく「まず計画を立ててみる」に意識をシフトすることも説く。これも私に足りない部分だ。システム開発ではまず要件定義から設計書を起こし、その後にコーディングを行う。それが定石だ。だが、それは私の性に合わない。私はコーディングを始めながら、設計を具体化させるやり方を採る。私のよくやる開発手法だが、システム開発の世界では掟破りもいいところ。そしてこのやり方は著者に言わせると間違いらしい。まあそうなのだろう。私の開発手法とは個人事業主の発想ものだからだ。チームワーうが求められる開発では当然無理が出てくるはずだ。ただ、サイボウズ社のkintoneに代表されるクラウドの思想は設計書を不要にする方向で進んでいる。私も自分のやり方を改善する方向で考えたいが、一方でなにがなんでも設計書ありき、という硬直した方法を採らずに済む方法を考えたいと思っている。

また、著者は一気にやるのではなく少しずつやっていくことの重要性も説く。まずは自分をだます意味で、つまりまとめて作業するには心の準備が必要となるが、少しでも持続することで同じだけの仕事の成果が得られると著者はいう。これもまた、私の苦手なやりかただ。少しずつではなくまとめて一気にけりを付けるやり方が好きだ。途中で仕事が終わったままの状態が許せない質なのである。私は。

上記二つの方法は、私のやり方と違っている。本書を買ったはよいが、果たして私に合うのだろうnかと少し不安に思った。しかし、本書の目的は自分自身を変革することにはない。本書は部下を、そして組織をポジティブにする本なのである。つまり私自身のやり方と本書の勧める方法に違いがあって当然だ。そして私のリーダーシップは全く未完成。自分のやり方が正しいという予断は慎まねばならない。私のやり方と違っても、本書で勧める方法が部下や組織には効くかもしれないのである。謙虚に向き合いたいものだ。

計画を立てること、そして他人には少しずつ継続的な仕事が有効という本書の勧めは覚えておく必要があるだろう。

著者はさらに、目標を立てるだけでなく習慣にすることの重要性も述べる。これは私もよく行っていることだ。つまり習慣化してしまえば苦にならず楽に作業がこなせるということだ。さらに著者は、働き過ぎることを戒める。適度に休むことで逆に能率がアップすることを著者は重要な点として推奨している。これは言われるまでもなく分かる。

なお、本書の各章では、まとめとそれに対する自分への質問として読者に自身で考えさせるためのページが設けられている。私もそれらのページで振り返りをしながら本書を読み進めた。また、本稿を書く上でも改めて振り返りと章の内容を読み返している。本書の良い点の一つといえるだろう。

2章では、部下が逆境に負けないための処方箋が示される。まずは問題解決をあきらめる前に、自らが専門家であることをやめること。これを有効な処方として著者は薦める。以前に読んだ「WORKSHIFT」では、ジェネラリストであるよりもエキスパートたれということを学んだ。しかし本書では一読すると逆のことを教えられているように思える。しかし、著者が云う専門家とは、それ以上学ぶことがない人を指す。専門家としてそれ以上学ぶことを諦めるのではなく、学ぶという目標にトライするよう勧めることを著者は勧める。学ぶという目標を与えられることによって人は困難に立ち向かうだけの勇気が備わると本書は説く。ここは誤解のないようにしておきたい。また、探検家であれ、と説く。探検家とはこれまた意味が分かりにくい。が、本書を読むとそれが全ての物事を前向きに捉える意味であることが分かる。つまり物事を様々な視点から観、前向きに捉えられる視点を自分の中で大きく取り上げる。これである。さらには、自分との議論に勝つとことも提唱する。つまり自分の弱気の虫に打ち勝つために、過去に乗り越えた体験を持ちだす手法だ。

この章については私が自分自身で実践している部分が多い。だが、そのノウハウを部下に教えていくことは難しい。それらのノウハウを部下に説明するための題材として本章は有効だ。

3章では、上司としての言動が部下にいかに影響を及ぼすかを示す章だ。この章で述べられていることは、私自身にも思い当たる節が多い。反省せねばならない。私は気分にムラがあることがあり、仕事においても好不調の波が激しい。そして不調な時の私はおそらく顔にモロに現れていることだろう。そういった上司の不調、または不機嫌具合がどれだけの影響を部下に与えているか。多分私が個人事業主としてここ数年一番鍛えていなかったのはこの点だろう。部下がいない分、そういった気遣いは完全に後回しになっていた。仕事の成果だけではなく仕事中の態度も含め、常に上司然としていられるか。これは改めて気を付けねばならないと自覚した。また、ここでは部下への管理過多に対する弊害も述べられている。上司からの管理干渉については私も好きでない。自分がされたくないことは人にもしない。このモットーを持つ私としては、すんなりと受け止められる部分である。実際、私が部下を持っていた際は放任主義だったといって過言ではない。しかし放任であってもいざという時に手綱を締められる手際。ここが大事だと思う。

4章では強みを活かすリーダーとしての心構えを説く。人は得てして望ましい方向には意欲を持って取り組む。しかし、望ましくない方向には慎重に振る舞いがちだ。つまり物事や課題を望ましい方向へと向けることは、組織を前に向けることにも繋がる。一方で、物事を望ましい方向に向けたくない場合、防衛本能が前に立つ。その場合、問題解決にも否定的な感情を持って取り組むことになる。これを会議の話題に例えるとどうなるか。前向きな話題の多い会議では会議の出席者に明るい雰囲気が満ち、否定的な話題が占める会議では、会議の出席者に暗く重苦しい空気が垂れ込める。会議の出席者を前向きにさせようと思えば、どちらの会議の話題が良いか。答えは明白だ。しかし日本の会議ではうまくいっていることは議題に挙げず、発生している問題を解決しようと討議する傾向にある。だが、それが本当に仕事の能率を上げるためによい選択だろうかと著者は問う。ここは、まさしくその通りと云いたい。そして私の出る会議の多くも問題解決型の重い会議が多い。私がリーダーとなった暁にはここは気をつけねばならない。

分析手法としてよくSWOT(Strength=強み、Weakness=弱み、Opportunity=機会、Threat=脅威)分析が用いられる。しかし著者はSOAR分析を提唱する。SOAR分析とは、Strength=強み、Opportunity=機会、Aspiration=抱負、Result=結果で構成される。この違いは、後ろ向きの単語がないこと。ここでも著者の言うところは明白だ。後ろ向きの議論をしない。これに尽きる。

後の5章は組織運営についてだ。
5章 人材採用-最高の人を探そうとするか、最適な人を見抜くか?
6章 従業員エンゲージメント-最高のものを引き出すか、最大のものを得るか?
7章 業績評価-相手を変えるか、ダメにするか?
8章 会議革命-エネルギーを消耗する場になるか、喚起する場になるか?

5章は、チームを作るための人材採用についての章となる。ここは採用面接の要諦が述べられている。それは「こうなったときどうしますか?」という仮定を質問にしないことだ。逆に過去の経験を問う。「その時どうしたか?」を質問とするとよいと著者はいう。これはついつい質問してしまいがちだ。肝に銘じたい。

6章は、本書の核となる章かもしれない。エンゲージメントについて述べられているからだ。エンゲージメントとは、組織と人材の結びつき。つまりは人材をいかにして組織につなぎとめ、効果を上げさせるか。ただ、ここで書かれているのは今までの章のまとめだ。一言で言うとすればとにかく前向きに。それが全てだ。具体的には、業績の悪い部下を解雇するのではなく、奮い立たせること。いいときもあれば悪いときもある。悪い時を全ての評価基準にするのではない。その評価基準を決めるための話し合いを交わすことがよいという。さらに話し合いの中で、良いときの状態に持っていくためにはとにかく褒める事がよいと著者はいう。頻繁に称え、頻繁に励ます。そしてそのための手法として、正面から褒めるのではなく、背後から褒めるという手法を紹介する。人は予期せぬときに褒められることで、モチベーションをアップさせる。その知見に基づくものだろう。実際、これは私が部下の立場でそうされた時に思い当たる節がある。そして、案外褒めているようで、なかなか褒めていないのが実際なのかもしれない。これはリーダーシップという観点からも腑に落ちる提言だ。

7章は、業績評価の手法だ。業績評価もまた、部下のモチベーションに直結する。そして、多くの企業では未だに評価項目のランキングという手法に固執していると著者は指摘する。ランキングという評価手法がいかに多くの人材のやる気を削いできたか。項目によってはどうしてもマイナス評価を下さざるをえないものもあるだろう。そのために、弱みを無視せずに強みをより増幅させる話し合いが重要ということだ。容易に達成できたり曖昧な目標設定でなく、過去を云々するよりも将来に向けたビジョン創り。これらは定型的な業績評価では難しい。一方で、そういった業績評価を行うためには、普段から部下とのコミュニケーションが必要だ。私の学びもまさにこの点に尽きる。自分の作業に没頭しがちな私は、この点こそを考えねばならない。

8章では、会議の手法に触れる。ここもリーダーシップの発揮にとって重要な過程だ。ここでも著者は三つの手法を示す。まず、会議の最初にポジティブな話題を振る。そして会議の中でネガティブな話題が続くようだと、ポジティブな話題となるように軌道修正する。次に、ピーク・エンドの法則を活用し、ポジティブな話題で会議を締めくくるように意識する。最後に会議の出席者全員に会議に参加してもらうよう働きかける。これもまた、実効性のある提案だと思う。

9章では、より実践的な提案が示される。特に、専門用語を使わないという項目は重要だ。私のようなIT業だとなおさら気をつけねばならない。これは普段からも気をつけるようにしているのだが、気を抜くと言葉に横文字や略語が混ざることがある。これは仕事に限らず全ての日常生活でも気をつけたいものだ。

ここまで読んでくると、リーダーシップの発揮とは特に難しくないようにも思える。が、それでは本書を読んだ意味がない。ただ読んだだけだ。読んだ内容を実践することこそが難しいのだ。そして、私には実践のための機会が迫っていた。だからこそ、本書を手に取った。本書の内容は、単にリーダーシップの実践だけではなかった。仕事全般にとっても本書は実りある内容だったと思う。

ここで、冒頭に書いたお仕事の話について触れたい。結論からいうと、この話は残念ながらお流れになってしまった。もうよい頃合いだから書く。その話とは、某IT企業の関西進出にあたり、私に関西事業所長としての新規開拓とその後の統括を行って欲しいという申し出だった。これ以上具体的なことを言うのは差し控えるが、当初は請負業務としての所長就任だった。しかし、交渉の土壇場になって社員としての所長就任に話が変わってしまった。この条件変更を法人設立したばかりの私が呑む事ができず、話はお流れになってしまったというのが経緯だ。

その意味では、私にとってリーダーシップを発揮する機会は喪われてしまった。いや、そうではない。発揮する機会は喪われてしまった訳ではない。これからだ。そして私にとっては本書から得るものはやはり多かった。事業所長としてリーダーシップを発揮する機会はもはやないだろうが、私の当初の決意は翻すことなく敢行した。つまり、当時の常駐先の稼動を半分にするということだ。それによって私は遮二無二仕事を取りに行かねばならなくなった。また、実際に受注した仕事を完遂するためのノウハウでも、本書から得られた知見は多い。その一方で、半分に稼動を減らしたとはいえ、常駐先の業務自体は続いている。半分に減らした稼動時間の中で私の後任の方も含めて業務は回さねばならない。その点でも本書から得た知見は十分に活せていると思っている。

だが、それで終わりではなく、私自身の課題としてリーダーシップの確立には引き続き取り組まねばならない。そしてその機会はいくらでもあることだろう。その時に、本書から得られるものは多いに違いない。

‘2015/10/28-2015/11/08


シンプルに考える


先日レビューをアップした「WORK SHIFT」は第一回ハマドクで取り上げられた一冊だ。その内容は起業したての私に大いに示唆を与えてくれた。まさにビジネス本読書会のハマドクに相応しい本であった。

第一回ハマドクから一ヶ月を経て、第二回ハマドクが催された。そこで取り上げられたビジネス本が本書である。

著者は社長として、LINEのサービス開始から飛躍までを引っ張った人物として知られる。本書の内容もまた、LINEプロジェクトの中で著者が実践した経営・組織についての考えを軸に編まれている。

長時間の定例会議、大部な報告書作成。組織が肥大化するにつれ、増えてゆく作業だ。これらは云うならば組織運営のためだけに発生する作業である。組織を維持するためのイベントや作業が企業内で蔓延し、本業に関係ない作業が増え続けてしまった状態。それをいわゆる大企業病と呼ぶ。本来ビジネスに必要なのは、対顧客への直接的なサービスだけのはず。しかし、顧客へ提供するサービスの背後では、内部統制や組織運営の名の下に間接業務が増えていく。それらの多くは報告の為の報告、会議のための会議に陥りがちだ。対顧客サービスには直接関係しない間接作業は、企業の意思決定を鈍らせ、場合によっては歪ませすらする。複雑となった組織では、得てして経営者の想いが反映しづらくなるものだ。

著者が本書で言いたいことは全て題名に込められている。「シンプルに考える」。タイトルからしてシンプルそのものであり、著者の考え方そのものだ。

著者は本書で軽量で機動的な組織運営についての考えを語る。本書はマニュアル本でもノウハウ本でもない。具体的な方法が載っている訳でもない。しかし、本書の全体で著者の考えが充分に示されている。それらを実践した結果がLINEプロジェクトであり、LINEサービスなのだ。

今でこそ様々な機能が盛り込まれているが、LINEの本質とはテキストとスタンプによるメッセージツールといってもよいだろう。その背後にある哲学はシンプル極まりない。そして著者の唱える「シンプル」が成果となったのがLINEである。それに比べると大抵のWebサービスは機能を盛り込もうとしがち。その結果、複雑なインターフェースや機能が盛り込まれたサービスになってしまい、ユーザーからそっぽを向かれる。そうやってユーザーの支持を失っていったサービスは枚挙に暇がない。しかし、LINEの背後には「シンプル」という著者の哲学がある。顧客のニーズを追求した結果、シンプルな機能以外をそぎ落としたサービスとしてLINEは世に出た。それは複雑という名の袋小路に入り込んだSNSやメッセンジャーとは一線を画す。サービスをシンプルに、顧客ニーズに合わせたことがユーザーに支持され、世界進出するまでになった。LINEプロジェクトを率いた著者の哲学とLINEのサービスはまさに表裏一体。本書の読者は、行間の至るところでLINEのインターフェースを思い浮かべることだろう。

はじめに、で著者は問う。会社にとっていちばん大切なことは何か?と。そしてすぐに答えを示す。ヒット商品をつくり続けることであると。それにはどうすればよいか。ユーザーのニーズに応える情熱と能力をもつ社員だけを集める。そして、彼らが、何物にも縛られず、その能力を最大限に発揮できる環境をつくり出す。シンプルに考えるとは、このように問いと答えが一本の線で繋がっている様をいうのだろう。そこには大企業病の入り込む余地はない。

本書は以下、組織を運営する上で、著者が感得したシンプルな考えの数々が披露される。

実はそのほとんどは、はじめに、で列挙されている。それもシンプルな言葉で。

「戦わない」
「ビジョンはいらない」
「計画はいらない」
「情報共有はしない」
「偉い人はいらない」
「モチベーションは上げない」
「成功は捨て続ける」
「差別化は狙わない」
「イノベーションは目指さない」
「経営は管理ではない」

各章で著者が述べるのは、これらフレーズを分かりやすく砕いた説明に過ぎない。だが、その実践は簡単ではない。著者のいう内容は、実は今までは一般の経営者にとっては理想論でしかなかった。経営学の実務でもまともに取り上げられなかった類の空論といってもよい。例えば報告の廃止、研修・教育を前提としない、研究や開発部門の撤廃、経営理念・計画の除外といった施策の数々。企業を利益を生み出すプロフィット部門と利益を生み出さないコスト部門に分けるとすれば、これらの作業は全て組織のコスト部門に属する。コスト部門のスリム化は、大企業経営者なら誰もが思い付くことだ。しかし著者が実践したような大幅なカットは、組織運営の実務を考える上では異端の手法といってもよい。著者は普通なら理想論として一顧だにしないことを実践し、LINEを世界に通用するインフラアプリに育てた。

その秘密とは、はじめに、で著者が記している。上にも書いた「ユーザーのニーズに応える情熱と能力をもつ社員だけを集める」がそれだ。とくに「だけ」に傍点が振られていることに注目しなければならない。著者の論点の芯とは、目標設定とコミュニケーションに長けた社員「だけ」を揃えることなのだから。そういった社員にはそもそも教育が不要であり、日報による達成度の報告も不要。余分な内部統制がなくとも自律的に組織の意を汲み、能動的に動く。そういった「使える」社員で組織を揃えるということだ。なので社会人として未熟かつ能力未知数な新卒採用など論外。組織の意図を瞬時に汲み取り、プロダクツに反映させられる人物のみを中途採用で集めれば、間接業務は極限まで省け、なおかつ統制の取れたチームワークのもと、時代の求めるプロダクツが送り出せる。そのプロダクトこそがLINEではないかと思う。

念の為にいうと、LINEプロジェクトの就業実態はブラックでもなんでもないと思う。むしろ逆だろう。高い目標が設定されたとしても、それを越えるだけのスキルとハートを持った人の集まりなのだから。著者のLINEチームが結果を出せたのも、そもそもメンバーが優秀だから。という当たり前の結論に落ち着いてしまう。

こう書くと、私が本書に対しネガティブイメージを持っているように捉えられるかもしれない。しかし、それは違う。むしろ本書にはポジティブイメージしか持っていない。というのも採用業務の重要性をここまで雄弁に語ったビジネス本にはまだ出逢ったことがないからだ。

いくらITが発達しようとも、所詮ビジネスとは人の営み。人あってのビジネス。ビジネスを成功させるにはいかにして優秀な人物を集めるかに掛かっている。そんな根本のことが、本書には記されているように受け止めた。

ただし、私は本書をポジティブにとらえてはいるが、一つ重大な疑問をもっている。それは、著者がLINE社長を退任した理由だ。著者は2003から2015年までの12年を過ごしたLINE社を退任した。はじめに、でその事が書かれている。また、その理由として、著者にとっての役目が終わったから、という説明が付されている。

確かにそうなのかもしれない。LINEはいまやコミュニケーションに欠かせない手段となっている。インフラといってもいい。ここまでLINEを世に認知させたことで、著者の役割が終わったという理由には確かに一理ある。だが、退任の理由とは単にスタートアップを率いた著者の役目が終わったからなのだろうか。言い換えれば、著者が本書で述べた手法とは、サービスのスタートアップ時には有効だが、保守フェーズに入った企業には用いづらい手法だから著者はLINEプロジェクトを離れたのではないだろうか。

心なしか、著者が辞任してからというもの、LINEサービスの体系が複雑化している気がしてならない。サービスのラインナップは増えているが、それがLINEの良さであるシンプルさを失わせないか気になる。

著者はLINE辞任後にC Channel株式会社という新会社を起こしたという。 本稿を書いた時点では1年半しか経っておらず、まだまだこれから成長してゆく企業なのだろう。LINEサービスの今後とともに、著者の新会社の行方を見守っていきたいと考えている。その二つのサービスのこれからに、著者が本書で述べた経営哲学の成否が顕れてくるのではないかと期待しつつ。その結果、日本的経営という20世紀の神話のこれからが見えてくるのではないかと思う。

‘2015/9/23-2015/9/23


図書館戦争


著者の作品は十冊近く読んでいる。が、著者の出世作として知られる図書館戦争シリーズを読むのは今回が初めて。

結論からいうと、私は本書の世界観には入り込めなかった。残念なことに。

本好きの端くれとしては、検閲や焚書に抗する図書館という構図は分かる。応援もしたい。だが、入り込めなかった。それは、武力をもって本を守るという、本書の世界観に共感できなかったためなのだろうか。本書を読み終え、このレビューを書き始めてもなお、その理由を探っていた。

本書の世界観の基になっている、図書館の自由に関する宣言は実在している。

図書館の自由に関する宣言
一、図書館は資料収集の自由を有する。
二、図書館は資料提供の自由を有する。
三、図書館は利用者の秘密を守る。
四、図書館はすべての不当な検閲に反対する。

図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。

著者があとがきに書いているが、この宣言の好戦的な調子から、本書の構想がまとまったという。

確かにそう思える。実際、私も本書を読んでから図書館に掲示されている宣言を改めて読んてみた。静謐な図書館の空間にこのような宣言があると若干違和感を覚えるのは事実。ただ、その違和感は、図書館を舞台にして戦闘を行うことという違和感とも違う。それは私が本書の世界観にに入り込めなかった理由ではなさそうだ。

違和感の由来は何なのか、つらつら考えてみた。そして、一つの感触を得た。それは、図書館に軍隊があるチグハグさによるものではないか、ということだ。図書館は、上に挙げた宣言にあるとおり自由を尊ぶ場である。それに対し軍隊とは規律と統制の権化と言ってよいだろう。

本書で登場する図書隊員は、階級が設定されている。特等図書監を筆頭に一等~三等図書監、一等~三等図書正、図書士長、一等~三等図書士という具合だ。自衛隊や旧軍の呼称と違うようだし、気になって調べたところ、海上保安庁で今も使われている呼称を流用しているようだ。

つまり私の感じた違和感とは、私自身が元々階級や組織を好きでないのに、好きな図書館に階級や組織が取り入れられているという世界観に馴染めなかったことに由来するのではないか、と。

しかし、それは本書を貶す理由にはならない。本書で書かれているのはパラレルワールド。昭和の次が平成ではなく、正化という異世界の話。世界観が違うからといってその小説の価値が落ちる訳ではない。それを違和感の理由とするのはフェアではない。そこは本書のためにも言い添えておかねば。

依然として、私の違和感の原因は掴み切れていない。

本書の概略は次の通りである。

メディア良化法の成立によって、検閲が正当化された世界。しかし図書館も手をこまねいていたわけではなく、警備隊を持つに至る。それが図書隊。超法規的解釈がなされ、良化特務機関(メディア良化隊)と図書隊の戦闘による争いが合法化されるに至る。

本書の主人公は、図書隊に志願して入隊した郁。郁と、図書隊の皆との交流や友情、そして著者の得意とする恋愛模様が本書の筋を形作っていると云えようか。そして、こういった人間関係やそれぞれの心の動きを書かせると著者は実にうまい。すんなりと入れる。舞台が著者の書くものによく登場する自衛隊の世界にも似た図書館とあればなおさら。

訓練で上々の成績を上げた郁は図書特殊部隊の紅一点として配属される。そこではさらに色々な出来事が発生し、その都度己の未熟さを感じたり、周りの助けの有難さに触れたり。本書を通じて郁は成長を遂げてゆく。そのためのエピソードが本書には多々用意されている。情報歴史資料館からの資料撤収、拉致誘拐された稲嶺図書指令の救出。等々。

本書の前半で郁が図書隊を志願した理由が紹介される。その出来事とは、書店において、郁が探していた本を買おうとしたところ、折悪しくメディア良化隊の踏込を受ける。しかしそこに現れた図書隊員が機転を利かして郁とその本を助けたというものだ。本書の後半で、我々読者はその隊員の素性を知ることとなる。

そして、私はここに至って、ようやく本書から感じる違和感の正体が分かった気がする。それは、本書が意図して世界観を守るために、現況を意図して抜かしていることに発する。

本書の舞台は正化三十一年。正化を平成に置き換えたとして、平成三十一年、つまり2019年のことだ。そして、それは現代よりもさらに3年先の未来の話。当然今よりもIT技術は進歩しているに違いない。しかし、IT技術を前面にだすと、本書の世界観は根底から崩れる。

つまり、本書が依って立つ世界観は全て紙の本の存在を前提としている。図書館しかり、本屋しかり、情報歴史資料館しかり。しかし、現代は紙の本が凄まじい勢いで廃れつつある時代だ。本屋や取次、出版社倒産のニュースは珍しくない。その中で紙の本が不可欠な本書の世界観に、私は決定的な違和感を抱えたのだと思う。

いくらメディア良化隊が現実の図書館や本屋を襲撃して検閲を行おうとも、そもそも表や裏ネットで大量に流通される電子データの前には無力な存在でしかない。そして、そこに戦闘行為を発生させようという試みがそもそも違和感の基なのだ。著者はそれが分かっていたはず。なので敢えて、図書館にある情報端末ぐらいしか本書には登場させていないのかもしれない。

惜しむらくは本書の時代設定である。時代設定をもう少し前に、例えば正化7年ごろにしてもらえれば。そうすれば、本書から感じた違和感は大幅に払拭されたはずなのだが。

または私が本書を読むのが遅すぎたのかもしれない。

だが、あえてもう一ひねりして穿った見方をする。本書はこういった世界観を敢えて採用することで、紙の書籍文化華やかなりし頃の熱気を再現させたかったのかもしれない、と。

‘2015/04/30-2015/05/02


オレたちバブル入行組


倍返しだ!

一時期、何回この台詞を聞いたことだろう。大人も子供も関係なく。確か流行語大賞の候補にも挙がったのでは無かったか。

ドラマ半沢直樹の中で発せられるこのセリフは、原作の本書の中では私が気付いた限り、290ページに一度きりしか出てこない。それも決め台詞ではなく、他の台詞の中に埋もれていた。しかも倍返しではなく十倍返しである。当初は決して決めセリフとして書かれたのではないような気がする。仮にそうだとすれば、これを決め台詞として見出した脚本家の手腕は高く評価されるべきだろう。

著者が銀行出身であることは知られている。著作の多くは、銀行融資の内実を知る者のみが書ける迫真性を帯びている。無論、出身行と交わしたはずの機密保持契約に抵触するような内容は避けていることだろう。しかし、ここまで書いてよいのか、モデルはないのか、読者であるこちらが心配になるほどだ。

主人公の半沢直樹は、東京中央銀行大阪西支店の融資課長。バブル華やかなりし頃に入行してから、比較的順調に昇進してきた。

しかし、支店長の浅野が功を急いで取ってきた西大阪スチールの融資案件焦げ付きの詰め腹を切らされそうになる。そのやり口に反発した半沢は、西大阪スチール社長の東田を追い詰め、浅野支店長の策略によって本店の人事部や業務統括部とも対立するが、強気に押し通し、十倍返しを実現する。本書をまとめるとすればこうなる。

今にも組織の論理に押し潰されそうになっているサラリーマン諸氏にとっては、胸のすくような内容である。著者が銀行業務を知悉しているからこそ使えるリアルな行内用語。それらが、本書の内容にリアリティーを与え、平素、組織内で似たような用語を使いこなしている読者にも感情移入を容易にする。会話の一つ一つが小説家のフィルターを経ず、ビジネスの現場で活きているやりとりそのままが活かされているのだから、尚更である。

もちろん、半沢直樹の言動は銀行の規格外だろう。このような態度を示して生き残っていけるほど、現実の組織はやわくない。でも、だからこそ半沢直樹に己を投影し、溜飲を下げる読者もいるはずだ。

一匹狼でもなく、特殊能力があるわけでもない。守るべき家庭もある。あるのは強烈な反骨心。理不尽な扱いに怯まず刃向かうだけの気持ち。こういった現実的な設定も受けたのだと思う。バブル後の世知辛い浮き世にあって、半沢直樹は現れるべくして現れたのだといえる。

私自身、銀行内部の世界を全く知らないわけでもない。なので、本書には童心に帰ったかのように心弾ませられ、一気に読み終えた。本書には続編があるそうなので、是非読みたいと思う。また、私は実はテレビドラマの半沢直樹は、音声も含めて全く観たことがない。こちらも機会があれば観たいものだ。

‘2015/02/04-2015/02/05


社畜のススメ


社畜のススメ。実に目を惹くタイトルである。著者と編集者の狙いが透けて見えるような。が、敢えてその挑発に乗り、本書を手に取った。

社畜。このように言われて鼻白む方は多いことだろう。私もその一人である。それどころか、社畜とは正反対の人生を歩まんと日々あがく者である。社畜的な生き方を嫌った挙句、30歳頭で個人事業主として独立し、以来8年半ほど生計を立てている。だからこそあえて、本書を手に取ったと言ってもよい。自分にとって対極にある思想ほど、自分の欠点を補ってくれるものはない。本書を読むことで、私の中で何が変わり、何が強化されるのか。そのような期待も込めて、本書を読み進めた。

会社の為に私を滅し、組織のために奉公する者。社畜という言葉には、そのような蔑みと憐みの意味が込められがちである。最近では自嘲的な意味でも、自己憐憫の揶揄言葉としても使われることが多い。いづれにせよ、社畜という語感から前向きな言葉を汲みとることは難しい。

だが、本書は敢えて「社畜のススメ」なる言葉をタイトルに選んだ。

新潮社からは、出版に当り、このような紹介文が附されている。

・・・多くの企業や職場を見てきた著者は、「社畜」でないサラリーマンこそ苦しんでいることに気づきます。若手のうちから個性や自由を求めたり、キャリアアップを夢見て転職難民になったり、安易な自己啓発書にすがったり……。

「ひとりよがりの狭い価値観を捨て、まっさらな頭で仕事と向き合う。自分を過剰評価せず、組織の一員としての自覚を持つ」
本書で提唱するのは、こうした姿勢をもつ「クレバーな社畜」です。
サラリーマンには「社畜経験」が不可欠である、本当に成長するための最も賢い”戦略”である――その理由を解説します。・・・

敢えてタイトルを逆説的にし、社畜ではない生き方をススメる。そのように穿った読み方をしたくなるほど、挑発的で無謀なタイトルである。

しかし本書で提唱される生き方は、社畜ではない生き方どころか、社畜そのものである。看板に偽りはない。ただし、社畜といっても、従順な羊のような、自我を失くした社畜をススメている訳ではない。本書でススメているのは、上の紹介文によると「クレバーな社畜」である。クレバーな社畜とは、一見すると組織に飼いならされているように見せかけ、その実、組織を利用する者、とでも言おうか。

ここに至り、早合点する方もいるかもしれない。ほら、やはりタイトルとは違い、本書は社畜ではない生き方を薦めているのではないかと。しかし残念なことにそうではない。本書で薦める生き方はあくまで社畜的なそれである。

だが、本書が俎上に上げる人種は、実は社畜ではない。料理されるのは、社畜と正反対の人種である。社畜的な生き方を拒み、自分探しに明け暮れ、組織に埋没しない自己を誇る者。つまり私のような者である。社畜という言葉に嫌悪を抱き、組織に背を向けて独立独歩の道を歩もうとする者。このような者たちを本書は糾弾し、蔑み、そして憐れむ。自分探しに拘った結果、結果としてキャリアを損ない、才能を空費させ、人生を虚しくする。社畜的でない者たちに対する本書の記述は実に手厳しい。逆に社畜的な生き方を選ぶものこそが自己を成長させ、人生を実りあるものにする、というのが、本書の主張といっても過言ではない。

上に挙げた新潮社による紹介文の冒頭にもそのような事が書かれている。社畜化する自分を恐れるあまり、会社という強大な力を持つ組織から学ぶ機会をみすみす逃し、じり貧の人生を歩む。そのような人々に対する批判とこれからの若者にそうならないため、クレバーな社畜の道をススメる。本書はそのような生き方を提唱し、分かりやすいタイトルとして社畜のススメをタイトルに掲げる。

冒頭にも挙げたように、私は8年半、個人事業主として生計を立てている。果たして私は、本書で批判される者たちなのだろうか。それとも隠れ社畜なのだろうか。または、批難圏外の人種なのだろうか。本書を読みながら、私は幾度も自問自答した。

そして結論を出した。社畜でこそないかもしれないが、社畜と同じ道を、同じだけの苦労を辿ってきたからこそ、今の自分があるのだと。

本書は、圧倒的なビジネスセンスの持ち主に対し、社畜的な生き方をススメない。むしろそういう人にはどんどんわが道を進めと背を押す。しかし大多数の人々はそのような類まれな才能を持っているわけではない。ではどうするべきなのか。それは、地道に下積みを重ねる他はない、と著者はいう。ビジネススキル、生き様、そして人生。組織と組織に生きる社畜仲間から歯を食いしばって学ぶ物は多い。理不尽さに耐え、組織の論理に揉まれる。それによってしか、あなたにとって成功の目はない。たとえそれが社畜と揶揄されようとも。それが著者の訴えたいことだと思う。

わが身を顧みるに、20代、30代、社畜的な生き方から身を背けてきたつもりだった。が、その分、随分と失敗を重ねている。そしてそのような失敗の中から、自分で学んだ事、その時々でご縁のあった同僚や先輩、後輩から教えられた事のいかに多かったか。本書ではサービス残業を推奨する箇所がある。世論と逆行した主張である。しかし我が身を振り返ると、個人事業主にとってはそもそも残業という観念がない。何があろうと納期に間に合わせるのが当然であり、場合によっては徹夜も辞さない。個人事業主だからといってなんのことはない。やはり下積みなのである。そして社畜的なのである。ただそれが組織に対する滅私奉公という形を取らず、お客様に対する想いと自分の矜持に掛かるかの違いである。俺流と独学を気取ってあがいた分、遠回りしてしまったのが私のキャリアだったのだということに、本書を読んで思い至らされた。

このことを認めるのは、実につらい。つらいし、情けない。でも、これが現実。生まれながらのビジネスセンスを持たざる者の、現状である。しかし、それが無駄だったかというと、そうではない。遠回りしたが、社畜として組織の中で頑張ってきた人に比べ、何ら引けを取ることはないと考えている。それは、組織の中で身を擦り減らす人々と同じくサービス残業をし、お客様の要望に応え、満員電車に揺られて常駐先に通いつめ、という努力をし続けてきたからと考えている。

私は本書を読みながら考えた。そして考えが上に挙げた結論に至るにつれ、自らの来し方を振り返った。その結果、本書で著者が言いたかったことが会得できたのではないかと思っている。

本書は、社畜のススメと書いてあるが、40、50代のビジネスマンに対し、社畜的なキャリアを歩めとは言わない。むしろ社畜として培ってきた経験を活かしてステップアップしろと述べている。それが管理職なのか、閑職なのか、それとも独立なのか。それは個人個人の選択の問題であろう。

ただ、最後に言っておかねばならないことがある。それは、本書はあくまで著者から読者へのメッセージであり、その受け取り方もまた、個人個人の選択の問題であるということ。本書が主張する論点の適用範囲は会社組織や地域社会、家庭にはない。本書が伝えたいメッセージは、読者の内面の充実を図るためのものであり、社会や組織に適用するものではない。著者の発するメッセージを咀嚼せず、外部に働きかけるとどうなるか。新聞の社会面に目を通すと、その悪例に事欠かない。経営者が社畜を是とし、社員を疎かにした経営を行うとどうなるか。社畜を肯んじて、家庭を顧みず仕事に溺れるとどうなるか。ブラック企業、過労死、熟年離婚、児童虐待、パワハラ。禍々しい言葉が次々湧き出す。要は本書を読んで会得したことは、自己内で完結させ、成長の糧とすればよいのである。それを怠り、鵜呑みにして吐き出すと、出てくるのは害毒だけである。

私は幸か不幸か、自分のワークライフスタイルに合わせ、個人事業主として曲がりなりにも生計をたて続けられている。本書で得たのは、これまでの自分の苦労が無駄ではなかったという肯定の思い。そして次代の人々の為に伝えるための材料である。今後は、本書の内容を踏み台にし、自分に期待しつつ独立への道を推し進めていきたい。また、機会があれば若い人々に生きるという事の妙味と重みを伝えられたらと願っている。

’14/06/16-‘14/06/17


4‐2‐3‐1―サッカーを戦術から理解する


昨年末から今年にかけ、サッカー観戦の集まりに参加する機会を何度も頂き、今年はサッカーじゃ!と燃えていた時期に読んだのが本書。

この本を読んでから7か月が経つが、予想以上の残業の日々で観戦の機会がせいぜい2,3度しか取れず、本書から得た知見を活かせる機会がないのは残念としかいいようがない。

だが、本書から得た知見は古びた訳ではなく、日本代表が4-2-3-1の布陣に変えたことで、本書の分析が的を射ている証左になったと思う。

サッカーの戦術面について多くを割いている本書だが、戦術、ひいては規律の重要性を強調し、そこからビジネスの話につなげるといったつまらない内容ではない。サッカーのダイナミズム、華麗な個人プレイと並び称されるべき布陣、戦術の魅力を、豊富な試合例から解説している。

サッカーの布陣というとなんとなく4-3-3とか5-3-2とか、数字だけが独り歩きしている印象が強いが、なぜそうでなければならないのかを正確に語れる人は少ない。少なくとも本書を読むまでの私はそうであった。

本書を読むと、なぜ一時代を築いたあのチームは強かったのか、また、あの大会あの試合でジャイアントキリングがなぜ起きたのか、について興味深い知見が得られるだろう。また、上に書いたことと矛盾するが、ビジネスや人生の上で組織を築く役割に就く際にも本書は参考となると思われる。実際に本書を読んで少し後に、総務部長として組織を作りあげる必要があったが本書から得た知見も参考になった。

最近は時間がなくYouTubeやスポーツ番組でダイジェストを見るだけの関わり合いに甘んじているが、布陣を理解するには一試合通した観戦が必要であり、自分の人生を豊かにするためにも、観戦の機会を作らねばとつくづく思う。

’12/03/27-12/03/28


震度0


警察内部というよりも組織の中で戦わねばならぬ閉じた世界のやるせなさ。仕事場だけでなく家庭にも裏表を持ち込む組織内の争いの陰惨さを描き出そうとした著者の意図がくみ取れる。

震度0というタイトルには様々な意味を込めてのものであろうが、それは、表だって力に訴えることなく、背後では後ろ暗い陰謀を張り巡らせる力の表現であり、物語の背景で同時進行している阪神・淡路大震災の震度7の惨状を尻目に身内で争う様を対比する指標としての震度0であったりする。もちろん、自然の力に対する人間の争いの小ささを表す尺度であったりもする。

実際の被災者である私にとっては、あの現場に立ち会っていない者どもの醜さとして、この対比の手法は効果を上げているように思えるのだが、本筋に関係ない、あくまで著者の意図をより鮮明に浮き彫りにするためだけの地震の取り上げ方については賛否両論があろうと思われる。

’12/3/2-12/3/3