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74回目の終戦記念日に思う


74回目の8/15である今日は、今上天皇になって初めての終戦記念日です。令和から見たあの夏はさらに遠ざかっていきつつあります。一世一元の制が定められた今、昭和との間に平成が挟まったことで、74年という数字以上に隔世の感が増したように思います。

ところが、それだけの年月を隔てた今、お隣の韓国との関係は戦後の数十年で最悪の状況に陥っています。あの時に受けた仕打ちは決して忘れまい、恨みの火を絶やすなかれ、と燃料をくべるように文大統領は反日の姿勢を明確にし続けています。とても残念であり、強いもどかしさを感じます。

私は外交の専門家でも国際法の専門家でもありません。ましてや歴史の専門家でもありません。今の日韓関係について、あまたのオピニオン誌や新聞やブログで専門家たちが語っている内容に比べると、素人である私が以下に書く内容は、吹けば飛ぶような塵にすぎません。

私の知識は足りない。それを認めた上でもなお、一市民に過ぎない私の想いと姿勢は世の中に書いておきたい。そう思ってこの文章をしたためます。

私が言いたいことは大きく分けて三つです。
1.フェイクニュースに振り回されないよう、歴史を学ぶ。
2.人間は過ちを犯す生き物だと達観する。
3.以徳報怨の精神を持つ。

歴史を学ぶ、とはどういうことか。とにかくたくさんの事実を知ることです。もちろん世の中にはプロパガンダを目的とした書がたくさん出回っています。フェイクニュースは言うまでもなく。ですから、なるべく論調の違う出版社や新聞を読むとよいのではないでしょうか。産経新聞、朝日新聞、岩波書店、NHKだけでなく、韓国、中国の各紙の日本版ニュースや、TimesやNewsweekといった諸国の雑誌まで。時にはWikipediaも参照しつつ。

完璧なバランスを保った知識というのはありえません。ですが、あるニュースを見たら、反対側の意見も参照してみる。それだけで、自分の心が盲信に陥る危険からある程度は逃れられるはずです。時代と場所と立場が違えば、考えも違う。加害者には決して被害者の心は分からないし、逆もまたしかり。論壇で生計を立てる方は自分の旗幟を鮮明にしないと飯が食えませんから、一度主張した意見はそうそう収められません。それを踏まえて識者の意見を読んでいけば、バランスの取れた意見が自分の中に保てると思います。

歴史を学んでいくと、人間の犯した過ちが見えてきます。南京大虐殺の犠牲者数の多寡はともかく、旧日本軍が南京で数万人を虐殺したことは否定しにくいでしょう。一方で陸海軍に限らず、異国の民衆を助けようとした日本の軍人がいたことも史実に残されています。国民党軍、共産党軍が、民衆が、ソビエト軍が日本の民衆を虐殺した史実も否定できません。ドレスデンの空襲ではドイツの民衆が何万人も死に、カティンの森では一方的にポーランドの人々が虐殺され、ホロコーストではさらに無数の死がユダヤの民を覆いました。ヒロシマ・ナガサキの原爆で被爆した方々、日本各地の空襲で犠牲になった方の無念はいうまでもありません。中国の方や朝鮮の方、アメリカやソ連の人々の中には人道的な行いをした方もいたし、日本軍の行いによって一生消えない傷を負った方もたくさんいたはず。

歴史を学ぶとは、人類の愚かさと殺戮の歴史を学ぶことです。近代史をひもとくまでもなく、古来からジェノサイドは絶えませんでした。宗教の名の下に人は殺し合いを重ね、無慈悲な君主のさじ加減一つで国や村はいとも簡単に消滅してきました。その都度、数万から数百万の命が不条理に絶たれてきたのです。全ては、人間の愚かさ。そして争いの中で起きた狂気の振る舞いの結果です。こう書いている私だっていざ戦争となり徴兵されれば、軍隊の規律の中で引き金を引くことでしょう。自分の死を逃れるためには、本能で相手を殺すことも躊躇しないかもしれません。私を含め、人間とはしょせん愚かな生き物にすぎないのですから。その刹那の立場に応じて誰がどのように振舞うかなど、制御のしようがありません。いわんや、過去のどの民族だけが良い悪いといったところで、何も解決しません。

それを踏まえると、蒋介石が戦後の日本に対して語ったとされる「以徳報怨 」の精神を顧みることの重みが見えてきます。

「怨みに報いるに徳を以てす」という老子の一節から取られたとされるこの言葉。先日も横浜の伊勢山皇大神宮で蒋介石の顕彰碑に刻まれているのを見ました。一説では、蒋介石が語ったとされるこの言葉も、台湾に追い込まれた国民党が日本を味方につけるために流布されたということです。実際、私が戦後50年目の節目に訪れた台湾では、日本軍の向井少尉と野田少尉が百人斬りを競った有名な新聞記事が掲げられていました。台湾を一周した先々で、人々が示す日本への親しみに触れていただけに、国の姿勢のどこかに戦時中の恨みが脈々と受け継がれていることに、寒々とした矛盾を感じたものです。先日訪れた台湾では、中正紀念堂で蒋介石を顕彰する展示を見学しましたが、そうした矛盾はきれいに拭い去られていました。

でも、出所がどうであれ、「以徳報怨」の言葉が示す精神は、有効だと思うのです。この言葉こそが、今の混沌とした日韓関係を正してくれるのではないでしょうか。人間である以上、お互いが過ちを犯す。日本もかつて韓国に対し、過ちを犯した。一方で韓国も今、ベトナム戦争時に起こしたとされるライダイハン問題が蒸し返され、矛盾を諸外国から指摘されています。結局、恨むだけでは何も解決しない。相手に対してどこまでも謝罪を求め続けても、何度謝られても、個人が被った恨みは永遠に消えないと思うのです。

外交や国際法の観点から、韓国の大法院が下した徴用工判決が妥当なのかどうか、私にはわかりません。でも、日韓基本条約は、当時の朴正熙大統領が下した国と国の判断であったはず。蒋介石と同じく朴正熙も日本への留学経験があり、おそらく「以徳報怨」の精神も持っていたのではないでしょうか。それなのに、未来を向くべき韓国のトップが過去を振り返って全てをぶち壊そうとすることが残念でなりません。そこに北朝鮮の思惑があろうとなかろうと。

戦争で犠牲を強いられた方々の気持ちは尊重すべきですが、国と国の関係においては、もう徳を以て未来を向くべきではないかと思うのです。来年には75年目の終戦記念日を控えています。今年の春に発表された世界保健機関の記事によると女性の平均寿命は74.2年といいます。つまり75年とは、男性だけでなく女性の平均寿命を上回る年数なのです。もうそろそろ、怨みは忘れ、人は過ちを犯す生き物であることを踏まえて、未来へ向くべき時期ではないでしょうか。

一市民の切なる願いです。


70年目の終戦記念日を考える


日本的な年齢で呼び表すと、古稀。古くから稀にしか生きた人がいない。七十年とはそれだけの年数を意味します。

戦争が終わり、七十年。もう、そろそろいいじゃないか。終わりにしませんか。そう思います。七十年を区切りとして、第二次大戦を史実として歴史家に委ねてもよいのではないかと思います。歴史は歴史として尊重し、未来に目を向けるべきではないでしょうか。

勿論、当時を知り、まだ存命の方が多数いらっしゃることは承知の上です。南京、ドレスデン、ワルシャワ、沖縄、廣島、長崎、東京、その他第二次大戦で戦火に炙られた戦場の数々。それらの場所で、戦争の惨禍と人間の残酷な面をまざまざと目にした方々の体験を水に流すわけではありません。そんな失礼な仕打ちは論外です。私の父からして、明石空襲で命からがらの目に遭っています。第二次大戦の全ての被災者の方々とその体験への哀悼やねぎらい、苦しみや悲しみに対して十分に尊重することは当然です。

その事を前提として、国や民族の単位で、謝罪や誠意の多寡を言い争うのはもうやめにしませんか、と提案したい。未来に目を向け、これからのアジアについて建設的な関係を築きませんか、と意見を投げ掛けたい。

かつての大日本帝国は過ちをおかした。これは認めます。中国側の主張する南京の犠牲者数は白髪三千丈の一種として、認めるわけにはいきません。しかし、例え僅かであれ、日本軍による虐殺行為もあったでしょう。慰安婦にしても、ほとんどが朝鮮人の仲介業者による運営だったかも知れず、日本軍による組織だった関与は皆無だったかもしれません。しかし、軍として何らかの関与がなかったと強弁するのも難しいでしょう。一方で、アメリカによる東京大空襲や、廣島・長崎への原爆投下は間違いなく戦争犯罪です。ナチスによるホロコーストもまた同じ。日本はそれらを今さら告発することはしないし、東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ将軍には戦後勲一等旭日大綬章といった勲章まで授与しています。

一方で、杉原千畝氏や樋口中将のようなユダヤ民族に対して救いの手を伸ばした人の話もあれば、諸国民の中の正義の人に連なる人々のような、人類の良心が示された話もあります。戦中アメリカに対して果敢に戦った軍人が、戦後アメリカに招かれて勇気をたたえられた話もあります。

戦争とは国の名によって行われました。しかし、その行動は個人の意思です。たとえ時代の空気や巧妙な宣伝工作によって惑わされていたとしても。日本、朝鮮、中国、アメリカ、ドイツに至るまで、愚劣な人による愚かな行為があり、高潔な人による賞賛される行為がありました。そこには民族や国の優劣などないと思っています。全ては不幸な時代の不幸な諍いの結果であり、犠牲者の方々には申し訳ないのですが、今更そのことをあげつらったり、非難を応酬することはやめにしませんか、と重ねて言いたいのです。無論、それらの事実に蓋をするわけではありません。ただ、それらの事実は特定の国や民族を非難するための外交カードとして使うのではなく、人類の愚かさの教訓として後世に残すべきもの、そう思うのです。

なので、元首相が跪いて謝罪しようが、現役閣僚がかつての韓国統治を正当化しようが、もはやそれは個人の歴史観の問題として扱えないだろうか、と云いたいのです。昨日の安部首相による戦後70年の談話や鳩山元首相による韓国での謝罪など、それぞれがそれぞれの個人的な信念で行ったこと。それを尊重しようではありませんか。戦後70年の区切りとして、安部首相の談話には日本が示せる最大限の誠意が込められていたと思います。

昨日、日本のいちばん長い日を観劇してきました。観劇の感想は別にアップしたのでそれを読んで頂くとして、私は今の日本人が当時の人々を断罪する資格はないと思っています。当時の人々には当時の価値観や時局があり、それらに殉じて精いっぱいの日常を生きた。そう思っています。残虐な所業や卑怯な振る舞い、あるいは高潔な対応や勇気ある行動など、それぞれの国や民族でそれぞれの個人が行ったことについては人間の愚かさと気高さとして、あるがままに受け止めればよいと思います。

これからは過去の出来事に捉われず、前向きに生きて行きたい。そう提言したいと思います。古稀とは、中国の生んだ偉大な詩人杜甫の曲江の一節にある言葉です。日本は中国から多大な影響を受けてきました。中国にも愚かな歴史もありましたが、そろそろ中国も度量を示し、拡張ではなく融和の精神を示してほしいと思っています。