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イカの心を探る 知の世界に生きる海の霊長類


ここ四、五年ほど、イカに魅了されている。イカの泳ぐ姿や水中でホバリングする姿。なんと美しいのだろうか。体の両脇にあるヒレはどこまでも優雅。波打つように動かし、自由自在に海中を動く。その優美な姿や白く輝く体には惚れ惚れするばかりだ。水族館に行くと、イカの水槽の前だけで3、4時間はゆうに過ごすことができる自信がある。

イカの美しさは私にとって魚類どころか生物の最高峰でもある。もちろん、寿司ネタで食べるイカも魅力的だ。だが、それも全て泳ぐ姿の美しさがあってこそ。もちろん、イカの他にも泳ぐ姿が美しい水中生物はたくさんいる。エイやサメやその他の中堅どころの魚も悪くはない。だが、どこか泳ぎに優雅な感じがしない。無理しながら、ゆとりがないように感じるのは私だけだろうか。それは多分、私が水族館の水槽でしか魚を見ていないからだろう。

水族館の大水槽でよく見るのはイワシの大群。だが、そもそも集団行動を好まない私にとって、イワシの群れはあまり魅力的に映らない。その点、イカは優雅だ。優美であり孤高である。私が水族館の生き物でもっとも魅了されたのは、1匹でも生きていくと言う決意がみなぎるそのシルエットだ。イカの気高くもあり、美しさをも備えた姿は、私の心を惹きつけて止まない。

だからこそ、本書のようにイカを愛する研究者がイカを研究する姿にはうらやましさを感じる。そして、つい本を手に取ってしまうのだ。本書は水族館でイカに魅了された後に購入した一冊だ。

著者によると、イカとは実に頭の良い生き物だそうだ。イカと並んで並び称される水中生物にタコがいる。タコの頭の良さはよく取り上げられる。著者によるとイカはタコと同じ位、もしくはそれ以上に頭の良い生物なのだという。

著者は生物学者として琉球大学でイカを研究している方だ。そしてその研究テーマは、イカの知能を明らかにすること。はたしてイカに知能はあるのか。それはどれほど高いのか。その知能は人間の知能と比較できるのか。本書で明かされるイカの知能の世界は、私たちの想像の上をいっている。そもそも私たちはイカをあまりにも過小評価しすぎている。水中でただ泳ぐだけのフォルムのかわいらしい生き物。イカ釣り漁船のあかりにおびき出され、簡単に釣人の手にかかってしまう生き物。そんな風に思っていないだろうか。

私のイカについての貧しい認識を、著者はあらゆる実験で論破してみせる。そもそも、タコの知能を凌駕するイカは、タコに比べるとずっと社会的なのだという。水槽でしかイカを知らない私は、大海原に生きるイカが、群れをなしたり、助け合ったり、個体ごとに相互を認識して、ソーシャルな関係を維持していることを本書で教わるまで知らなかった。イカは種類によっては体色を自由に変えられることは知っていたが、それは敵に対する威嚇ではなく、ソーシャルな関係を結ぶ上でも役に立っていたのだ。それだけ高度なコミュニケーション手段が備わっているイカ。イカに足りないのはストレスへの耐性だけ。それだけはタコの方に分があるらしい。ストレスが募るとすぐに死ぬため、実験や観察がとみに難しいらしい。イカの研究とは大変な仕事なのだ。

イカに群があり、群れを維持するためのソーシャルなコミュニケーションをとっている事実は、イカに知能はどのぐらいあるのか、という次なる興味へと私たちをいざなう。そこで、いわゆる知能テストをイカに試みる著者の研究が始まる。その研究が示唆するのは、イカには確かに一定の知能があるという事実だ。学習し、奥行きを理解して、記憶できる能力。短期記憶だけでなく、長期記憶があること。そうした実験結果は、イカの知能の高さをまぎれもなく証明する。そして驚くべきことに、イカには世代間の教育がないという。つまり、親が子に何かを教えることもなければ、少し上の世代が下の世代に何かを伝える証拠も見つかっていないのだとか。それでいながら知能を発揮する事実に、感嘆の思いしか浮かばない。イカの可能性は無限。

続いて著者が考えるのは、イカのアイデンティティだ。はたしてイカは自我を備えているのか。イカは自分自身を認識できるのか。それが目下、著者の研究の最大のテーマだそうだ。イカが社会性を備えていることは先行する世界中の研究が解き明かしてくれた。あとは社会性がソーシャルな仕組みを作る本能によるのか、それとも自己と他者を認識する自我の高度な働きによるのか。

ところで、イカの自我はどうやって証明するのだろう。何の証拠をもってイカに自我があることが証明できるのか。実は本書で興味深いのは、そうした研究手法のあれこれを惜しげもなく示してくれることだ。イカの自我を証明するための試行錯誤のあれこれが本書には記されている。イカが自分自身を認識することを、どうやって客観的に確認するのか。その証明に至るまでのプロセス自体が、イカに限らず知性の本質に迫る営みでもある。本書はこうした学術的な実験に触れていない私のようなものにとって、実験とは何を確認し、どう仮説を立てるのかについての豊富な実例の山なのだ。

そうした工夫の数々は、私のようなロジックだけが頼りの情報の徒にとってみると、はるかに難易度が高い営みに思える。イカの研究者は、手探りで先達の研究を学び、試行錯誤して改良を重ね、研究してきたのだ。本書はそうした生物学の現場の実際を教えてくれる意味でも素晴らしい内容だ。

もちろん、イカの姿を見て飽きることを知らない私のようなイカモノずきにとって、イカに対する愛着をさらに揺るぎないものにしてくれることも。

‘2018/08/17-2018/08/20


火星に住むつもりかい?


平和警察なる、戦前の特高のような部署。その部署が幅を利かせる近々未来の日本。その部署は定期的に各地に出没し、その地の住民を徹底的に監視する。そして、公衆の面前でギロチン処刑を行い、人々を恐怖で縛り付ける。拷問という名のもとに行われる取り調べ。それは、本書内でも言及されるように、小林多喜二が虐殺された特高のそれを思わせる。平和の名が徹底的におとしめられるかのような完全なる悪。それが本書に描かれる平和警察だ。

今までの著者の作品は、悪がきっぱりとした悪として書かれていなかった。憎めない悪役が登場し、悪の側にもどこかでわずかな理を織り交ぜていた。物事を単純に書かず、気の利いたセリフにちょっとしたウンチクを混ぜることで、善と悪の二元論に陥ることを避ける。悪の側の言い分を描き、悪と善の境目を曖昧にする事で、物事を重層的にみる。そうした書き方によってモノの価値とは相対的であるに過ぎない、と主張して来たのが著者の作風だと思っている。

ところが本書は平和警察という絶対的な悪を描いている。それは私が読んできた著者の過去の作品にない新鮮な試みだ。

ただし、著者はここでもバランスを取ろうとする。平和警察の内部に本庁からの変わり者の専門捜査官を配することによって。その人物とは、特別捜査室に属する真壁捜査官だ。真壁は変わり者。平気で身内であるはずの平和警察の取り調べを拷問と言い放つ。平和警察のトップである薬師寺警視長にも平気で楯突く。警視長の神経を逆なでする。真壁を配することで平和警察の体現する悪が複雑な模様を帯びる。著者が描く悪は、やはり本書でもステレオタイプな悪ではなかった。画一で単純な悪を書かないことで、本書はより魅力的に彩られる。

それに対して立ち向かうのは黒いツナギを着た男。彼の行いは結果だけだと正義の味方のように映る。だが、実態は大きく違う。彼が成り行きで手に入れた武器。それを闇雲に取り扱ったらたまたまうまくいっただけ。絶対的な悪に対抗する正義のヒーローは、正義の味方でも何でもなくただの一般人に過ぎない。ここでも著者は徹底して善悪の二元の単純化を避けようとする。

こうなってくると、上に書いた絶対的な悪という見方も怪しくなってくる。むしろ、そう見せかけておいて、今までの著者の作品に見られたような、物事の本質を複雑な視点からみた一冊になっているのではないだろうか。

本書は三部構成になっている。そして、それぞれの部ごとに物語の視点が変わる。その切り替えも本書の視点に多彩さを与えている。真壁捜査官の口から折に触れて飛び出す蘊蓄。これもまたいい。彼は唐突に昆虫の生態を角度を変えて語る。そうすることで、昆虫の多様性を描き出そうとする。絶対的な悪の中にあって、異端児の真壁。組織に属しながら、異端児であっても仲間のいるはずの真壁が多様性をもちだす。それこそが本書の胆ではないだろうか。もはや悪も善も絶対的な価値観ではない、という考え。それが平和警察の形を借りて暗喩となっているのが本書だと思う。

しかも、三部のそれぞれで入れ替わる視点のどれでも絶対的な悪の化身として描かれる薬師寺警視長。そして真壁捜査官も本書の中ではあえて存在感を消して描かれる。真壁捜査官にいたっては、途中で退場してしまう。特定のヒーローもなければ、絶対的な悪役もいない。それこそが著者の狙いであり、人生観なのだろう。

だから、本書の帯に書かれていた文句
「この状況で
生き抜くか、
もしくは、
火星にでも行け。
希望のない、
二択だ。」

このセリフは、善悪の二元を謳う言葉どころか全くの逆なのだ。このセリフは苛烈な平和警察の圧政を批評するとある登場人物のセリフだ。多分編集部が意図して本編から抜き出し、帯に記したに違いない。読者のミスディレクションを狙っての。

そもそも、本書のタイトル「LIFE ON MARS」からして、デヴィッド・ボウイの名曲を意識していることは確か。その歌詞は、荒唐無稽でアヴァンギャルドな内容に満ちている。一切のよって立つ価値観を否定し、貶めている歌詞。そうである以上、その思想を意識した本書が、善悪の二元といった単純な書き方で終わるはずはない。

火星といえば、荒涼とした惑星。地表には複雑さを示すものがなにもない。単純すぎるがゆえに、そこに住まないか?と問いかけ自体がナンセンス。それは単純な地ー火星を単純な見方になぞらえたアンチテーゼ。この価値観こそ、本書の根本にあるのではないだろうか。

むしろ、平和警察という絶対的な悪のような組織を出すことで、読者に絶対的なものへ注目を集めようとしているかにみえる。そして、それを話の中で巧妙に否定しているからこそ、著者の狙いに気づけないだろうか。それはつまり、上にひねり出したような感想のことだ。絶対的なものなど何もないという事実。全ては相対化され、見る視点によっていかようにでも評価できる。

そうした意味で、本書は著者の作品の中でも面白いアプローチを見せている。また一つ著者の引き出しを見せられたようだ。

‘2018/07/09-2018/07/09


ゲームの名は誘拐


2017年の読書遍歴は、実家にあった本書を読んで締めとした。

私は誘拐物が好きだ。以前に読んだ誘拐のレビューにも書いたが、この分野には秀作が多いからだ。本作もまた、誘拐物として素晴らしく仕上がっている。本作の特色は、犯人側の視点に限定していることだ。

誘拐とは、誘拐した犯人、誘拐された被害者、身代金を要求された家族、そして、捜査する警察の思惑がせめぎ合う一つのイベントだ。それをどう料理し、小説に仕立て上げるか。それが作家にとって腕の見せ所だ。なにしろ組み合わせは幾通りも選べる。例えば本書のように犯人と被害者が一緒になって狂言誘拐を演ずることだってある。本書は誘拐犯である佐久間駿介の視点で一貫して描いているため、捜査側の視点や動きが一切描かれない。犯人側の視点しか描かないことで物語の進め方に無理が出ないか、という懸念もある。それももっともだが、それを逆手にとってうまくどんでん返しにつなげるのが著者の素晴らしいところだ。

誘拐犯の佐久間駿介は、サイバープランの敏腕社員だ。ところが心血を注いだ日星自動車の展示会に関する企画が日星自動車副社長の葛城勝俊によって覆されてしまう。己の立てた企画に絶対の自信をもつ佐久間は、屈辱のあまり葛城家に足を向ける。俺の立てた企画を覆す葛城の住む家を見ておきたいという衝動。ところがそこで佐久間が見たのは塀を乗り越えて逃げ出す娘。声をかけて話を聞くと、葛城勝俊の娘樹理だという。樹理は、父勝俊から見れば愛人の子であり、いろいろと家に居づらいことがあったので家を出たいという。その偶然を好機と見た佐久間から樹理に狂言誘拐を持ちかける、というのが本書のあらすじだ。

本書は上に書いたとおり、一貫して佐久間の視点で進む。犯人の立場で語るということは、全ての手口は読者に向けて開示されなければならない。その制約に沿って、読者に対しては佐久間の行動は全て筒抜けに明かされる。それでいながら本書はどんでん返しを用意しているのだから見事だ。

本書は2002年に刊行された。そして本書の狂言誘拐にあたってはメールや掲示板といった当時は旬だったインターネットの技術が惜しげもなく投入される。だが、さすがに2017年の今からみると手口に古さを感じる。例えばFAXが告知ツールとして使われているとか。Hotmailと思しき無料メールアドレスが登場するとか。飛ばし電話をイラン人から買う描写であるとか。でも、佐久間が日星自動車の展示会用に考えたプランや、佐久間が手掛けた「青春のマスク」というゲームなどは、今でも通用する斬新なコンセプトではないかと思う。

「青春のマスク」とは、人生ゲームのタイトルだ。私たちが知る人生ゲームとは、各コマごとの選択の結果、いくつものイベントが発生するゲームだ。ところが、この「青春のマスク」はその選択の結果によってプレーヤーの顔が変わっていく。スタートからの行いがゲームの終わりまで影響を与え続け、プレーヤーに挽回の機会が与えられなければ興が削がれ。その替わりに救いが与えられている。それがマスクだ。マスクをかぶることで顔を変え、その後の展開が有利になるような設定されている。しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在。そんな佐久間の人生観が垣間見えるゲームシステムが採用されている。

「青春のマスク」のゲームの哲学を反映するかのように、佐久間と樹理の周囲の誰もが何かのマスクをかぶっている。それもだれがどういうマスクをかぶっているのかが分からない。犯人の佐久間の視点で描かれた本書が、犯人の手口を読者に明かしながら、なおも面白い理由こそが、犯人以外の登場人物もマスクをかぶっているという設定にある。だれが犯人役なのか、だれが被害者なのか。だれが探偵役でだれが警察役なのか。読者は惑わされ、作者の術中にはまる。 それが最後まで本書を読む読者の手を休ませない。そのせめぎあいがとても面白かった。

しょせん人はマスクをかぶって生きてゆく存在という、佐久間の哲学。私たちの生きている世間の中ではあながち的外れな考えではないと思う。何も正体を隠さなくてもよい。正々堂々とあからさまに生きようとしても、大人になれば考えや立場や属する領域が幾重にもその人の本質を覆い隠してしまうのが普通だ。この人は何クラスタに属し、どういう会社に属し、という分かりやすい属性だけで生きている人などそういないのではないだろうか。少なくとも私自身を客観的に外から見るとまさにそう。そもそもどうやって稼いでいるのかわかりづらいと言われたことも何度もあるし。そう考えると私の人生もゲームのようなものなのだろう。

本書はそうした人生観を思い知らせてくれる意味でも、印象に残る一冊である。

‘2017/12/30-2017/12/31


孤児


本書にはヒトの営みが描かれている。「ヒト」と書いたのは、もちろん動物としてのヒトのこと。

原初の人類を色濃く残す16世紀の南米インディオたち。南米全域がポルトガルとスペインによって征服され、キリスト教による「教化」が及ぶ前の頃。本書はその頃を舞台としている。

孤児として生まれた主人公は、燃える希望を胸に船乗りとなる。そして新大陸インドへと向かう船団の一員となる。船団長は寡黙な人物で、何を考えているのかわからない。何日も何週間も空と太陽のみの景色が続いた後、船団はどこかの陸地に着く。

そこで船団長は感に耐えない様子で、「大地とはこの・・・」と言葉を漏らした直後、矢を射られて絶命する。現地のインディオたちに襲われ、殺される上陸部隊。主人公だけはなぜか殺されない。そして生け捕りにされインディオの集落に連れて行かれる。「デフ・ギー! デフ・ギー! デフ・ギー!」と謎の言葉でインディオたちに呼び掛けられながら。

はインディオの集落に連れて行かれ、インディオたちの大騒ぎを見聞きする。それはいわば祭りの根源にも似た場 。殺した船乗りたちを解体し、うまそうに食べる。そして興奮のまま老若男女を問わず乱交する。自分たちで醸した酒を飲み、ベロベロになるまで酔っ払う。そこで狂乱の中、命を落とす者もいれば前後不覚になって転がる者もいる。あらゆる人間らしさは省みられず、ケモノとしての本能を解き放つ。ただ本能の赴くままに。そこにあるのは全ての文明から最もかけ離れた祭りだ。

インディオたちによる、西洋世界の道徳とはかけ離れた振る舞い。それをただ主人公は傍観している。事態を把握できぬまま、目の前で繰り広げられる狂宴を前にする。そして、記憶に刻む。主人公の観察は、料理人たちがらんちき騒ぎに一切参加せず、粛々と人体をさばき、煮込み、器に盛り、酒を注ぐ姿を見ている。西洋の価値観から対極にあり、あらゆる倫理に反し、あらゆる悪徳の限りを尽くすインディオ達。そしてその騒ぎを冷静に執り行う料理人たち。

捕まってから宴が終わるまで、主人公はずっとインディオたちの好奇心の対象となる。そしてインディオたちはなぜか主人公に声を掛け、存在を覚えてもらおうとする。デフ・ギー! デフ・ギー! デフ・ギー!何の意味かわからないインディオの言葉で呼びかけながら。なぜインディオ達は主人公に向けて自分のことをアピールするのか。

しかも、宴が終わり、落ち着いたインディオたちはこれ以上なく慎みに満ちた人々に一変する。タブーな言葉やしぐさ、話題を徹底して避け、集団の倫理を重んずる人々に。そして冬が過ぎ、日が高くなる季節になるとそわそわし出し、また異国からやってきた船団を狩りに出かけるのだ。

主人公はその繰り返しを十年間見聞きする。自分が何のために囚われているのかわからぬままに。主人公が囚われの身になっている間、一人だけ囚われてきたイベリア半島の出身者がいる。彼はある日、大量の贈り物とともに船に乗せられ海へ送り出されていく。インディオたちの意図はさっぱりわからない。

そしてある日、主人公はインディオ達から解放される。十年間をインディオたちの元で過ごしたのちに。イベリア半島の出身者と同じく、贈り物のどっさり乗った船とともに送り出され、海へと川を下る。そして主人公は同胞の船に拾われ、故国へと帰還する。十年の囚われの日々は、主人公から故国の言葉を奪った。なので、言葉を忘れた生還者として人々の好奇の目にさらされる。故国では親切な神父の元で教会で長年過ごし、読み書きを習う。神父の死をきっかけに街へ出た主人公は、演劇一座に加わる。そこで主人公の経験を脚色した劇で大当たりを引く。そんな主人公は老い、今は悠々自適の身だ。本書は終始、老いた主人公が自らの生涯を振り返る体裁で書かれている。

そしてなお、主人公は自らに問うている。インディオたちの存在とは何だったのか。彼らはどういう生活律のもとで生きていたのか。彼らにとって世界とは何だったのか。西洋の文化を基準にインディオをみると、全てがあまりにもかけ離れている。

しかし、主人公は長年の思索をへて、彼らの世界観がどのような原理から成り立っているかに思い至る。その原理とは
、不確かな世界の輪郭を定めるために、全てのインディオに役割が与えられているということだ。人肉を解体し調理する料理人が終始冷静だったように。そして冷静だった彼らも、翌年は料理人の役割を免ぜられると、狂態を見せる側に回る。主人公もそう。デフ・ギーとは多様な意味を持つ言葉だが、主人公に向けられた役割とは彼らの世界の記録者ではないか。彼らの世界を外界に向けて発信する。それによってインディオ達の世界の輪郭は定まる。なぜなら世界観とは外側からの客観的な視点が必要だからだ。外界からの記憶こそが主人公に課せられた役目であり、さらには本書自体の存在意義なのだ。

インディオたちは毎年決まった周期を生きる。人肉を食べ、乱交を重ね、酒乱になり、慎み深くなる。それも全ては世界を維持するため。世界は同胞たちで成り立つ。だからこそ人肉は食わねばならない。そして性欲は共有し発散されなければならないのだ。それら営みの全ては、外部に向け、表現され発信されてはじめて意味を持つ。それが成されてはじめて、彼らの営みはヒトではなく、人、インディオとして扱われるからだ。もちろんそれは、なぜサルが社会と意識を身につけ、ヒトになれたのかという人類進化の秘密にほかならない。

訳者あとがきによれば、実際に主人公のように10年以上インディオに囚われた人物がいたらしい。だが、その題材をもとに、世界観がどうやって発生するか、というテーマにまで高めた本書は文学として完成している。見事な作品展開だと思った。

‘2017/07/19-2017/07/24


神の子 下


上巻を通して少しずつまわりに心を開きはじめた町田。下巻では町田が社会に関わるに連れ、町田をめぐる人々の思惑がより活発になってゆく。

町田に執着するのはムロイの率いる犯罪組織だけではない。それ以外にも謎の組織が暗躍する。町田の過去に何があったのか。それを探るのは少年院の看守内藤。そして、ムロイの密命を帯び、少年院から町田につきまとう雨宮。二人の動きは、町田の周囲にうごめく組織を明るみに出して行く。

町田の周囲に暗躍する人々の思惑は混戦してゆく。そんな中、町田たちが興した企業STNがヒット商品を生み出し一躍時の企業となる。ところが謎の不審火が前原製作所を全焼させ、しかもSTNにも風評被害の魔の手が及ぶのだ。そんな状況に、町田は自らの過去と、それにまつわる犯罪組織が仲間に迷惑をかけることを恐れ、身を隠す。

ここで“仲間”という言葉が出てきた。本書下巻はこの“仲間”がキーワードとなる。

町田は相変わらず孤高の雰囲気をまとわせている。だが、上巻ではヤサグレていた姿の多かった町田に変化の兆しが表れる。本書は上下巻のどちらも会話文がとても多い。中でも町田が登場するシーンに会話が目立つ。町田はしゃべらないのに、周りがにぎやかに会話が交わされるため、町田の周りに仲間がいるかのように思えてくるのだ。下巻で町田から孤独な雰囲気が薄れたのにはもう一つわけがある。それは前原楓の存在が大きい。同居する町田を最初は疎んじたが、表向きの狷介さの裏に潜む優しさに気づいた楓はミステリアスな町田に惹かれて行く。町田がたとえ孤高のマントを身にまとっていても、気に掛けてくれる楓がいる限り、孤独ではない。

町田のような知能指数の高い人間が、社会に適応していくためには何が必要なのだろう。本書では犯罪組織の頭目ムロイの過去も暴かれて行く。ムロイも町田と同じく高い知能指数の持ち主。だが、町田とムロイには違いがある。ムロイは全てを自分で決め、部下に指示する。独りでも何でもできてしまう人間であるが故に、トップに君臨し、手足のように部下を使いこなす。だがそこには上下関係しかない。部下とは相互の信頼よりも利害と主従で結びついている。一方の町田は信頼と平等で仲間と交わる。トップダウンではなく、仲間と同じ視点で物事にあたってゆくのだ。本書に登場する二人の天才。ムロイと町田が周囲にどう関わるのか。それは一つの組織論として興味深く読める。

内藤による捜査は、ムロイの過去と町田の過去を交錯させてゆく。その過程でムロイの犯罪組織の全貌が暴かれてゆく。それにつれ、ムロイがなぜそれほどまでに町田に執着するのかが解き明かされてゆく。同じ知能を持つ同士ゆえ、ムロイは町田を諦められない。にもかかわらず、組織を束ねる上で二人の考え方の溝は容易には狭まらない。

上巻では社会の仕組みが人をどう守るのかというテーマが提示された。下巻では組織をどう構築するかがテーマとなるのだ。一人ではやれることに限度がある。そのため組織は欠かせない。その組織をトップダウンのピラミッド型で作るのか、それともフラット型の組織を構築するのか。

本書で町田は仲間という結びつきに自分と世間をつなぎとめる絆を求める。それは一つの選択だ。そして、私が目指す方向でもある。本書にはストーリーの行く末に一喜一憂しても楽しめるが、組織論や社会システム論から読んでも楽しめる。

上巻のレビューで本書は期待以上だったと書いた。それは、本書が単なる娯楽小説の枠に収まらず、考えさせられる視点も含んでいるからなのだ。

‘2017/01/19-2017/01/20


神の子 上


著者の作品を読むのは、久しぶりだ。江戸川乱歩賞を獲った『天使のナイフ』以来となる。

久々に著者の作品を読んでみようと思ったことに特に理由はない。図書館で見かけてたまたま手に取った。だが、本書は期待以上に一気に読ませてくれた。

まず、設定がいい。本書の主人公町田博史には戸籍がない。問題のある母に育てられ、出生届も出されずに育ったのだ。当然義務教育は受けていない。それなのに知能指数が非常に高い。そのような生い立ちに置かれた主人公の小説は読んだことがない。新鮮だ。

やがて町田は母に見切りを付けて家を出る。教育を受けたことのない町田少年が生きて行くには犯罪に手を染めるしかない。モラルを学ぶきっかけも受けられず、母からの情操教育もないのだから当たり前だ。

やがて町田は犯罪組織に拾われる。そこで町田は持って生まれた知能によって新しい犯罪の手口を生み出し、犯罪組織に巨額の利益をもたらす。道徳観念を持たないのだから弱者からはむしれるだけむしる。そこに良心の呵責はない。犯罪組織を束ねるムロイにとってはそんな町田が得がたい。だから厚遇する。ところが、それが面白くない人間もいる。伊達がそうだ。組織で頭角を現す伊達にとっては町田が目障りで仕方がない。その軋轢は町田が伊達を刺し殺す結果で終わる。町田は少年院に入ることと引き換えに組織から離れる。ここまでが本書のプロローグといってよい。

本書を読んでいると考えさせられることがたくさんある。それは今の日本の社会の仕組みについてだ。今の社会が完璧ではないことは誰もが知っている。たとえば多様な生き方への支援が足りないとか、弱者への福祉が不足しているとか。さまざまな不備が指摘される今の日本の社会制度。だが本書を読んでいるとまだまだとはいえ日本の社会制度も悪くないのではと思う。

今の日本の社会制度に人々が不安を抱くのは何についてだろう。それは、われわれの情報を国が握ることだ。例えば住基カードについて語られた議論などがそう。確かにそれは嫌だ。だが、それがなければ何も手当てがもらえない。それだけではなく教育や医療すらろくに受けられないのだ。町田には戸籍がなく、教育も福祉も受けられない状態で己の才覚だけで生き抜いてきた。それができるのは知能指数が160以上ある彼だからこそ。普通の人間は親から見捨てられ、戸籍がもらえない時点で社会から落ちこぼれる宿命を背負う。

町田には知能指数があったからまだいい。持って生まれた能力だけで世をしのいで行けるから。では、能力のない者が町田と同じ状況に置かれたらどうなる事か。そんな想像がはたらく。町田が異能を発揮すればするほど、彼のような才能を持たない者にとって、社会制度はありがたく思えるのではないだろうか。本書を読んでいると、この社会とは戸籍さえ持っていれば機能するセーフティネットなのでは、とすら思える。

町田のような戸籍を持たない人間には、犯罪に手を染めるか、施設の厄介になるほかない。しかし戸籍さえ持ってさえいればかろうじて教育や福祉は受けられる。町田は少年院の看守の内藤に出会う。内藤は自分の息子を非行に追いやったあげく、息子を事故死で失った傷を持つ。町田から何かを感じ取った内藤は、町田を気にかけるようになる。そして、保護司を通じて町田の社会復帰に力を尽くす。町田のようなケアが施される戸籍不所持の人はどれぐらいいるのだろうか。

他人に対して心を開かず、少年院の作文でもただ三つの単語で自分を表した町田。
「集団生活で大切なこと-」
-『猜疑』
「わたしの長所と短所-」
-『頭脳』
「わたしの家族について-」
-『売女』
という言葉で武装していた町田。はたして彼はどう変わってゆくのか。

そんな町田の周りには町田を見出したムロイの束ねる犯罪組織の手のものが暗躍する。その手は町田が収容された少年院にも及ぶ。そして町田の身元引受人となった前原悦子の製作所にも。町田は前原家の庇護を得て、大学に通わせてもらう。しかしムロイの息のかかったものは、大学にも、そしてそこで知り合った仲間たちで作った会社STNにも及ぼうとする。

本書は上巻として日本の社会制度の状況を説明しつつ、小説の展開を広げている。

‘2017/01/18-2017/01/19


思いつくものではない。考えるものである。言葉の技術


言葉を操る。今、誰もがこなせるスキルだ。そしてそれ故にもっとも軽んじられたスキルでもある。

多くのブログやツイートやウォールが溢れるネットの中。そこでは、編集者や読者がいようがいまいがお構いなしに、毎日大量の文章がアップされている。ページに表れては底へと沈んでいく文字の群れ。私の書く文章もその中に紛れ、底に向かって忘れられていく。そんな言葉で液晶画面は飽和している。だが、液晶画面の外でも脚光を浴びる文字はほんのわずかだ。電子世界ではいくら威勢がよくても、リアルな社会では本当にちっぽけな存在でしかない。それがあまたのブログやツイートの実情だろう。

リアルな社会では、いまなおテレビ番組が健在だ。ネット住民からみると完全なオワコンでしかないテレビ番組。だが、リアルな社会ではまだまだ影響力を持っている。テレビのCMが世相に浸透する力は依然として侮れない。一方通行である分、大量に流され、拡散力を持つ。一方、ネットはそれぞれの閲覧者にカスタマイズされた情報が届けられることが基本だ。なので、同時に拡散する力は弱い。ネットの中を飛び交う言葉は、リアルな社会での影響力はまだ鈍いといわざるをえない。ネットに流れる文章でリアルな社会にかろうじて顔を見せる文章といえば、ツイートぐらいだろうか。それすらも、フォロワーが何百万人、何千万人いるような選ばれたインフルエンサーのツイートに限られる。例えばトランプ大統領や著名人のアカウントのような。一般人のツイートで取り上げられるとすれば、テレビ番組の中ぐらいか。 リアルタイムでインタラクティブな視聴者の声として、テレビ局が最近意識して取り入れるような。

それ以外の言葉は、残念ながら、CMにしろ番組にしろ、ネット社会で飛び交う言葉がリアルに登場することはあまりない。ネット上で産まれた言葉がリアルを侵食することはない。そこまでは至っていないのが現状だ。

それがおそらく、一人ひとりにカスタマイズされるネットのコンテンツと、一斉配信を前提とするマスメディアの差なのだろう。だが、あえていうならば、読む人見る人の感性に訴えるだけの力がネット上の文章にはないとから、ともいえる。私も含めた発信者が、ネット上にアップする文章に、世論を動かすだけの力がないのだ。

では、どういう言葉がリアルな言葉でもてはやされるのか。それは、コピーライターによるコピー文句だ。

作家による小説やエッセイ、または新聞記事。確かにこれらはリアルな社会に似つかわしい文章だ。だが、それはリアルな社会の共通項ではない。それらは著者から読者へとストレートに届けられるものであり、社会に浸透することはあまりない。若干閉じた文章とすらいえる。これはネット上のニュース文章にもいえることだ。先にも書いたが拡散力の差、といえる。それに比べて、コピーライターの生み出す文章は、拡散力がある。それは文章を見た瞬間に、人の感性にするりと入り込む。そして記憶の奥底にがっちりと食い込む。これはが、ネットの世界に飛び交う文章にはない、職人的な経験値の力なのだろう。

本書は、リアルな世界で通用する文章の紡ぎ方のノウハウが記されている。著者は文章の専門家ではない。修辞学の教授でも文学部の講師でも、ましてや作家ですらない。著者は電通でコピーライターとして活躍している方だ。だが、上にも書いたとおり、リアルな社会で人々の目や耳に飛び込む文章とは、コピーライターから発信された言葉が多いのではないか。

本書で著者は、すぐれたコピーを生み出す秘訣を、端的にいう。それは、考えることであるという。コピーライターが生み出す言葉とは考えに考えぬいた結果でしかないのだ。決して才能や感性でパッと生まれでたものではない。本書で著者が語る秘訣とは、当たり前といえば当たり前なのだ。だが、すべての仕事に共通することだが、実のところ近道はない。どんな仕事であれ、練習や努力の積み重ねでしかない。本書の結論も同じ。優れたCMコピーの裏側には膨大な試作があり、廃案があり、考え抜いた努力の跡がある。その訓練が人に訴えるコピー文句を生み出すのだ。

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競合
時代・社会
この4つのキーワードは、著者がコピーを考える上で四つの扉として挙げる切り口だ。

つまり、これらは徹底した消費者目線で、売り手の訴えたいココロを文章に乗せるための観点だ。

本書はとても腰が低い。本書のあちこちに著者が腰を低く、自らを卑下するようなスミマセンが登場する。これは、本書を読むとすぐに気づく特徴だ。腰が低いとは、読み手であるわれわれとの壁をなくすこと。つまり大上段に構えて落としこむように語っても本書の内容は伝わらないということなのだろう。そこで、上にあげた四つの扉の切り口から徹底的に消費者の視線と売り手の視線に降りて言葉を考える。ひたすらに考える。その愚直な作業の繰り返しから生まれるのがコピー文句なのだろう。

では、われわれ読者も、ありがたく頂くのではなく、その姿勢を学ばねばならない。学んで、同じように低い姿勢で読み手に文書を届けなければならない。

本書は最後に、二つの文章で、文章を著す者の姿勢が載っている。

感情的な言葉より、正確な言葉
人に訴える言葉より、自分を律する言葉

これはブログを書く上でも、仕事上でやり取りをする上でも、とても重要な言葉だと思う。ことに最近、そういう感情的な文章に触れる機会があった。それを反面教師として、自分でも自分でも律していきたいと思う。私は、いろいろなブログを書いている。その中で、読読ブログと映画・観劇ブログは、あえて文体を変えている。デスマス調ではなく、デアル調の文体。それがどういう効果を与えているのか、今一度深く考えてみなければならないのだろう。

‘2016/06/30-2016/06/30


日本の未来は暗いという新成人へ


日本の未来は暗い。

成人の日を前に、マクロミル社が新成人にアンケートをとったそうです。その結果、「あなたは、「日本の未来」について、どのようにお考えですか。」という問いにたいし、67.2%の人が「暗いと思う」「どちらかといえば、暗いと思う」と答えたとか。つまり冒頭に挙げたような感想を持った人がそれだけいたということですね。http://www.macromill.com/honote/20170104/report.html

うーん、そうか。と納得の思いも。いや、それはあかんやろ、ていう歯がゆさも。

この設問にある「日本」が日本の社会制度のことを指すのだったら、まだ分からなくもないのですよ。だけど、「日本」が新成人が頼りとする共同体日本を指すのであれば、ちょっと待てと言いたい。

今の日本の社会制度は、個人が寄りかかるには疲れすぎています。残念ですけどね。これからの日本は、文化的なアイデンティティの拠り所になっていくか、最低限の社会保障基盤でしかなくなる。そんな気がしてなりません。今の日本の社会制度を信じて国や会社に寄りかかっていると、共倒れしかねません。個人の食い扶持すらおぼつかなくなるでしょう。

トランプ大統領、少子高齢化、人工知能。今年の日本を占うキーワードです。どうでしょう。どれも日本に影響を与えかねないキーワードですよね。

でも、どういう未来が日本に訪れようとも、個々人が国や会社におんぶやだっこを決め込むのではなく、人生を切り開く気概を養いさえすれば乗り切れると思うのです。戦後の高度経済成長もそう。戦前の価値観に頼っていた個々人の反動が、原動力になったともいえるのですから。

これからの日本の未来は暗いかもしれませんが、それは疲弊した社会制度の話。組織や国に寄りかかるのではなく、個人で未来を切り開く気概があれば、未来は明るいですよ、と言いたいです。

それは、何も個人主義にはしり、日本の良さを否定するのではありません。むしろ「和を以て貴しとなす」でいいのです。要は、組織にあって個人が埋没さえしなければ。だから、組織を離れるとなにをすればよいかわからない、ではマズいです。週末の時間をもて余してしまう、なんてのはもってのほか。

学問を究めようが、政治に興味を持とうが、サブカルに没頭しようがなんでもいいのです。常に客観的に自分自身を見つめ、個人としてのあり方や成長を意識する。それが大事だと思います。その意識こそが新成人に求められるスキルだといってもよいです。

だから、アンケートの設問で「あなたはどのような方法で、世の中のニュースや話題を得ていますか?[情報を得ているもの]」でテレビが89.6%とほぼ9割であることに若干不安を覚えます。なぜならテレビとは受け身の媒体だから。特定の番組を選び、意識して見に行くのならまだしも、何となくテレビの前でチャンネルザッピングして飛び込んでくる情報を眺めているだけなら、個人の自立は遠い先の話です。やがて日本の社会制度の疲弊に巻き込まれ、尾羽打ち枯らすのが関の山です。

でも、アンケートの結果からは救いも見えます。それは、皆さん日本の未来については悲観的ですが、ご自分の未来については楽観的なことです。アンケートの中に「あなたは、「自分の未来」について、どのようにお考えですか。」という設問があり、65.8%が楽観的な答えだったのです。これはとても良いこと。未来は暗いと言っている場合ではないのですから。同じく「あなたは、自分たちの世代が日本の将来を変えてゆきたいと思いますか。」の問いに61.4%の方が肯定的な回答をしていたことにも希望が持てます。

日本に誇りをもちつつ、日本に頼らない。日本の文化に属しつつ個人としての感性を磨き、充実の社会人生活を送ってほしいものです。

ま、私もこんな偉そうなことを言える新成人ではなかったのですが。私も人のことを言ってる場合やない。私という個人をもっと磨かねば。そして子供たちにも個人の意識を打ち立てるように教え諭さないと!


受験生に向けて-偏差値に負けるな


そこら中で梅の花が咲き誇っています。紅白が美しい季節です。

この季節はまた、受験の季節でもあります。受験が終わった方、まだこれからの方。喜びや悲しみが、それぞれの方に届けられていることでしょう。

我が家も長女が初受験に臨みました。幸いにして第一志望の学校に受かることが出来ましたが、不合格も経験しています。初めての試験がどうだったか。本人にはまだきちんと聞けていません。成長にあたっての通過点として記憶に残してくれればよいのですが。少なくとも偏差値の高低よりも、自分の行きたい道を選んでくれたことは評価したいと思います。

私自身、かつては高校受験生でした。受験した高校は、通っていた小学校の隣に立っていました。私にとって通い慣れた場所です。何もなければ全く印象に残らぬまま、人生の単なる通過点として過ぎてしまったことでしょう。でも、この通過点は結構覚えています。なぜなら生まれてこの方、緊張のあまり胃が痛くなったのは高校受験の時だけだからです。受験前の2、3週間はとにかく胃が痛くて痛くて。

その後の私の人生を考えれば、高校受験で胃を痛めた経験は微笑ましくすら思えます。高校受験よりも胃の痛い試練や苦難など、それこそたくさん潜り抜けてきたので。でも、今の私が胃を痛くするとしたら、食べすぎか呑みすぎが関の山です。多分今後も、私がディナーバイキング以外で胃を痛めることはないでしょう。それはなぜかというと、私が個人事業主の時期を長く過ごし、今は法人の代表という立場に就いているからだと思います。

個人事業や法人経営。それは常に成果が求められる世界です。成果を出せなかったら二度と発注を頂けないだけの話。落選通知すら来ません。これが就職活動であれば「厳正なる選考の結果、誠に残念ではございますが」のような文が届くのでしょう。しかしビジネスの世界ではそれすら来ないことがほとんどです。その度にいちいち胃を痛めていたら、太田胃酸やパンシロンがいくつあっても足りません。

「偏差値」というのは受験生にとってはとかく悪評の高い言葉です。でも、私のような立場からいうと恵まれた言葉です。相対であれ絶対であれ、目標値が明確に設定されているのですから。そして、もっと恵まれていると思うのは、一度「偏差値」の門を潜り抜けてさえしまえば、その評価は生涯変わることがないことです。

同じことは偏差値が設定されている高校や大学受験に限らず言えます。例えば国家資格。医者や教員、税理士や公認会計士、法曹資格のような資格がそうです。それらの国家資格は、更新試験が設けられていません、そのため一度取得すればほぼ不変です。自ら返上するか、不祥事による資格はく奪が無い限りは生涯持ち続けていられます。また、公私企業の正社員もそうです。終身雇用を錦の御旗として掲げてきた我が国としては、一度正社員になるとそうそうクビになることはありません。

立場が守られているという状況は、緊張感を喪わせやすい。これは皆さんも認めるところでしょう。それはまた、既得権益の死守という動機をも産みかねません。

もちろん、私が知っている方は皆さん努力されています。セミナーに出席したり勉強会を開いたり。私の妻は歯医者ですが、最近は歯や口の健康から体全体の健康寿命を取り入れるため勉強しているようです。そういった方々は、一度得た立場に安住することなく、努力を重ねられている方として尊敬したいと思います

でも、色んな事件やニュースを見ていると、どうも我が国の活力を失わせているのは、そういった努力家ではない、立場に安住してしまった方のような気がしてなりません。

最近の日本に活力がなくなっていることは色んな方が指摘しています。それぞれに説得力がある意見だと思います。私はここにもう一つ追加しておきたいと思います。それは、努力が不要な社会になってしまっているということです。一度入ってしまえば、一度得てしまえばさらなる成長努力をせずに既得利益が得られる社会。組織内での立場だけを気にしておけばよい社会。これでは活力も出て来ませんし、他のハングリーな国々に負ける一方です。仮に今後我が国が移民を増やしていくとして、今のような状況が続けばどんどん優秀な移民者に職を取って代わられかねません。

今後は、こういった意識は改められるべきではないかと思います。常にある程度の緊張を保つような社会。努力しなければ安易に地位を追われてしまうような社会。それは流動性のある社会といってもよいでしょう。また、あらゆる方にチャンスが広がる社会でもあります。働きたいのに働けない不定期労働者や結婚したいのに収入がない独身の方や子供が欲しいのに収入も保育園もないご夫婦にとってチャンスが巡る社会。

そして、絶えざる努力が求められる社会にあっては、受験の意味すら変わってくるでしょう。入学のハードルは低いが、卒業時に学問の成果が問われる学校。大学時代遊びまわっていた私がいうのもなんですが、卒業時に学位を容易に与えすぎだったのでしょうね。今までは。

今の受験生の方々には、一旦受かったからといってゆめゆめ努力を怠ることのないようにして頂きたいです。また、自分の思う志望校に行けなかった方も、決して今後の人生を諦めることのないようにして頂きたいです。偏差値が低い学校だっていいじゃないですか。偏差値が高い学校に入学して気を抜いた連中を追い抜く時間はまだ沢山あります。社会に出たら大学や高校がどこだったかなんて大手企業の学閥しか気にしませんよ。それよりも大切なのは、いかに仕事が出来るかです。社会に出てからも自らの評価を取り戻すチャンスは沢山転がっています。これは間違いありません。

私自身、関西では名の通った大学を卒業しましたが、上京して以来、その威光に頼ることは殆どありません。そもそも誰も知らなかったので頼りようもありませんでしたし。己のほんのちょっとの才覚と、それを補うかなりの努力でこれまで何とかやって来ました。また、これからも勉強を惜しまず世を渡っていこうと思っています。

そういった姿勢を今回合格した娘には教えて行きたいと思っています。そのためには、私自身も常に勉強の意欲を持ち続けねば。そう強く思います。


夫婦別姓についてのモヤモヤ


夫婦別姓の是非と、離婚後6ヶ月間の再婚禁止規定の是非について。本日、15時に最高裁でこの二つの民法の条文が違憲かどうかの判決が下されるそうです。

再婚禁止規定は、もはやDNA鑑定の信頼性が揺るぎそうもない今、無意味な規定といえるでしょう。

問題は夫婦別姓です。正直いって、この件については私自身揺れています。

理屈で考えれば夫婦別姓に反対する理由はありません。マイナンバー制度の運用が始まれば、夫婦が別姓であっても法的な婚姻関係の証明は容易になるでしょう。世の流れも夫婦別姓へと向かっています。その流れを止めることは、もはや誰にもできません。

しかし、夫婦別姓への流れについては、私の中で割りきれない思いがあります。果たしてこれで良いのだろうか、と。

ただでさえ希薄になっている父権にしがみついているだけなのでしょうか?無意識に家の名のもとに妻を所有しているつもりなのでしょうか?長男として家長として連綿と続いてきた家名を存続させねば、と思っているのでしょうか?

私自身にもわかりません。別に保守派を気取るわけでもないのに。

ただ思うのは、夫婦別姓は、世間が思う以上に大きな影響があることです。その影響は、第二次世界大戦の敗戦後、GHQによって進められた民法改変よりも大きいかもしれません。

15時の最高裁の判決を見守ろうと思います。