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戦いすんで 日が暮れて


『血脈』を読んで以来、今さらながらに著者に注目している。『血脈』に描かれた佐藤一族の放蕩に満ちた逸話はとても面白い。一気に読んでしまった。もともとは甲子園にある私の実家と著者が幼少期を過ごした家がすぐ近く。そんな縁から『血脈』を読み始めたのだが、期待を遥かに超える面白さを発見したのは読書人として幸せなことだと思っている。

『血脈』には印象的な人物が多く登場する。著者の二度目の結婚相手である田畑麦彦氏もその一人。田畑氏は、著者が文藝首都という文学の同人誌で知り合った人物だ。『血脈』に登場する田畑氏は誠二という仮名で登場する(文庫版の下巻、348p、349p、399pでは意図的か、うっかりか分からないが「田畑」と「麦彦」の表記が見られるが)。そこでの彼はペダンティックな態度で世間を高みから見下ろし、超越した境地から言説を述べる人物として描かれている。それでいながら生活力のなさと人の良さで会社をつぶし、著者に多大な迷惑をかけた人物としても。著者がその時の体験をもとに小説にし、直木賞を受賞したのが本書だ。

『血脈』は佐藤一族の奔放な血を描き切った大河小説だ。そのため、著者と田畑氏のいざこざの他にも筆を割くべき事は多い。『血脈』では田畑氏との別れや田畑氏の死まで描いている。だが、それらは膨大な大河の中の一部でしかない。そのため著者は、田畑氏との因縁はまだ書き切れていないと思ったのだろう。『血脈』の後、著者は最後の長編と銘打って『晩鐘』を上梓する。『晩鐘』は著者と田畑氏の出来事だけに焦点を当てた小説で、二人は仮名で登場する。そこで著者は「田畑氏とは何だったのか」をつかみ取ろうと苦闘する。その結果、著者がたどりついた結論。それは「田畑氏はわかりようもない」ということだ。『晩鐘』のあとがきにおいて、著者はこう書いている。
「畑中辰彦というこの非現実的な不可解な男は、書いても書いても、いや、書けば書くほどわからない男なのでした。刀折れ矢尽きた思いの中で、漸く「わからなくてもいい」「不可能だ」という思いに到達しました。」(475p)
レビュー(http://www.akvabit.jp/%E6%99%A9%E9%90%98/)。

それほどまでに著者の人生に影響を与えた田畑氏との一件。なので、田畑氏との日々が生々しい時期に書かれた本書は一度読みたいと思っていた。『血脈』や『晩鐘』は田畑氏との結婚生活から30年ほどたって描かれた。『晩鐘』に至っては田畑氏がなくなった後に書かれた。しかし本書が書かれたのは、田畑氏の倒産や夫妻の離婚からほんの1、2年後のことだ。面白いに決まっている。そんな期待を持って読み始めたが思った通りだった。

「戦いすんで日が暮れて」は表題作。倒産の知らせを受け、その現実に対して獅子吼する著者の面目が弾けている。少女向けユーモア小説を書き、座談会に出演し、人を笑わせ、愛娘を笑わせる。その一方ではふがいない夫に吠え、無情な借金取りに激高し、同業の作家に激情もあらわな捨てぜりふをはく。そんな著者の八面六臂の活躍にも関わらず、夫は観念の高みから論をぶつ。著者に「あなたは人間じゃないわね。観念の紙魚だわ。」(55P)という言葉を吐かせるほどの。ところが著者は悪態をつきつつも夫のそうしたところに密かな安堵を覚えるのだ。本編はそうした静と動、俗と超俗、喜怒哀楽がメリハリを持って、しかも読者には傍観者の笑いを与えるように書かれている。

同業作家の川田俊吉とは作家の川上宗薫氏のことらしいし、著者の名はアキ子だし、娘は響子ではなく桃子で登場し、夫の名は麦彦ではなく作三と書かれる。それにしても、関係者の間に生々しい記憶が残る中、よくここまで書けるな、と感心する。文庫版のあとがきによると、本編が発表される半年前に田畑氏の会社は倒産したらしい。『血脈』であれほど赤裸々に書いたのも、本編を読めばなるほどと思える。

「ひとりぼっちの女史」もおなじ時期を描いた一編。女史とはもちろん著者自身がモデルだ。カリカリイライラしている日々の中、孤立感を深めつつ、激情をほとばしらせることに余念のない女史。しかし夫に背負わされた借金の債権者は家に来る。そして夫はいない。そんな女史のお金をめぐる戦いは孤独だ。それなのに、頭を下げて泣かれる債権者を前にすると女史の心はもろい。他に影響があると知りつつ、投げつけるように金を返す。もろいだけかと思えば、あやしげな張型のセールス電話など、女史を怒らせる出来事にも出くわす。電話越しのセールスマンと女史のやりとりは笑えること間違いなし。セールスマンから慰められてふと涙する女史の姿に、著者の正直な気持ちの揺れが描かれていて、笑える中にも心が動く一編だ。

「敗残の春」も同じ時期を題材にしている。著者をモデルとした宮本勝世は男性評論家の肩書で紹介される人物だ。目前の金のためなら仕事を選ばず、会社をつぶした夫の宮本達三から身を守るため、日々憤怒する人だ。お人よしで他人から金を巻き上げられるためにいるような夫。自分はそうではないとわが身を語りつつ、不動明王のような炎を噴き上げ日々奔走する。債権者の対応をしながらやけになって叫ぶ。別の男性から好意を寄せられ戸惑う。そんな45歳の女。複雑な日々と感情の揺れを描いているのが本書だ。

「佐倉夫人の憂鬱」もまた、頼りない夫をもった夫人の憂いの物語だ。著者の体験を再現していないようにも読めるが、著者に言い寄る童貞男子の存在に、まんざらでもない期待を寄せてしまう夫人。だが、全ては幻と消え去る。そんな女としての無常を感じさせる一編だ。

「結婚夜曲」はかなり色合いの異なる一編だ。証券会社に勤める夫を持つ主人公。だが、夫の営業成績は振るわず、家庭でも顔色が冴えない。そんな中、主人公は旧友に再会する。その旧友はかつてのくすんだ印象とは一変して裕福な暮らしに身を置いている。その旧友を夫に紹介したところ、夫は営業をかけ、それが基で信頼される。証券を売りまくり、お互いが成功に浮かれ、夫は輝く。ところが、ある日それがはじけ、全ては無にもどる。旧友から金を返して欲しいとの懇願と夫の情けない姿に、どうにか夫を奮起させようとする主人公。だが、夫は再び死んだように無気力となる。そこに息子の結婚だけは考えたほうがよいなぁとのつぶやきが重なる。その言葉が、著者の心のうちを反映するような一編。

「マメ勝ち信吉」は、著者の無頼の兄貴たちの生態を参考にしたと思える一編。『血脈』でも著者の四人の兄貴がそろいもそろって不良揃いであることが書かれている。詩人として成功したサトーハチローの他は皆、非業の死を遂げる。そんな兄貴たちを間近で見てきた著者の観察が本編に表れている。風采は悪くとも、女を口説くことは得意の信吉。映画のプロデューサーの地位を利用し、新進女優とも浮名を流す。が、ある日彼が心から惹かれる女性が現れる。その女をモノにしようと信吉は奮闘するが、軽くいなされてしまう。その一方で、信吉は華のない女とくっつき、結婚することになってしまう。まじめに生きれば外れくじを引く。無頼に生きれば身をもち崩す。そんな矛盾した著者の人生観が垣間見える一編だ。

「ああ 男!」は脚本家の剛平の付き人でもあり監視役でもある忠治が主人公だ。無頼な剛平にくっついて方々に顔を出すうち、忠治も場数を踏んだ男だと勘違いされる。だが実はウブで童貞。そんな忠治が剛平に忠義を尽くし、慕ってついていく様子が描かれる。そんな無頼な日々は、狙っていた女優にあっけらかんとした裏表を見せられ、意気消沈する。本編もまた、著者の兄貴たちの生態が下敷きになっていることだろう。

「田所女史の悲恋」は著者自身を描いている。男勝りのファッションデザイナーで、周囲からはやり手と思われている独身。45歳でありながら恋には見向きもせず仕事に猛進する強い女性。だが、そんな彼女はある会社の若い男に恋をする。しかし素直になれない。それがゆえ、打った手は全て裏目に出る。勇気をふり絞って生涯唯一の告白を敢行するも、相手に伝わらず空回り。それをドタバタ調に書かず、世間では強き女とみられる女性の内面の弱さとして描く。著者がまさにそうであるかのように。

本書の最後には文庫版あとがきと新装版のあとがきが付されている。後者では93歳になった著者が自分の旧作を振り返っている。そこでは五十年近く前に書かれた旧作など今さら見たくもない、と言うかのような複雑な思いが表れている。二つのあとがきに共通するのは、表題作に対してしっかりした長編に仕上げたかったという事だ。それが生活の都合で中編になってしまった無念とともに。著者のその願いは『血脈』と『晩鐘』によって果たして叶えられたのだろうか。気になる。

‘2018/04/18-2018/04/21



本書を読んでいて、私が台湾を扱った小説をほとんど読んだことがないことに気づいた。本書は私にとって台湾を扱った初めての小説かもしれない。本書を読んで台湾がとても懐かしくなった。

台湾は私にとって思い出の深い島だ。かつて、民国84年の夏に台湾を訪れたことがある。この夏、私は自転車で台湾を一周した。その経験は若い日の私に鮮烈な印象を与えた。あれから年以上たった今もなお、台湾には再訪したいと願っている。なお、民国84年とは台湾で使われている民国歴のことだ。西暦では1995年、和暦では平成七年を指す。

本書は台北に住む葉秋生が主人公だ。時代は民国64年。つまり1975年だ。この年、台湾の蒋介石総統が死去した。本書はその出来事で幕を開ける。その年、葉秋生は17才。まだ世間と自分との折り合いをつけられず、真面目に学業を送っていた秋生が描かれる。

本書はそこからいろいろな出来事が葉秋生に起こる。本書は成長した秋生が民国64年から民国70年代までの自らを振り返り、かつての自分を振り返る文体で描かれている。その中で秋生は人生の現実に振り回されつつ、成長を遂げていく。そのきっかけとなったのは、秋生をかわいがってくれた祖父が殺された現場を目撃したことだ。その経験が秋生の人生を大きく変えてゆく。秋生が成長しつつ、祖父の歴史を探りながら、自分の中にある中華と台湾の血を深めてゆくのが本書の趣向だ。

本書のタイトル「流」とは彼の人生の流れゆくさまを描いた言葉だ。それは国民党と共産党の争い、日本軍との争いに翻弄された人々の運命にも通じている。本書に登場する台湾と中国本土の人々は、大きな意味で中華民族に属している。だが、正確には近代の歴史の変転が中華民族を台湾海峡を隔てた溝を作ってしまった。本書の扉にもそれを思わせる言葉が描かれている。

  魚が言いました・・わたしは水のなかで暮らしているのだから
  あなたにはわたしの涙が見えません
             王璇「魚問」より

ここでいう水とは、中華民族を大きく包む文化を指すのだろう。涙とは同じ中華民族が国民党と共産党に分かれて争うことを余儀なくされた悲しみを指すのだろうか。それとは別の解釈として、海に囲まれた台湾に追いやられた悲しみは中国大陸には理解できないとも読める。また、この一節は別の読み方もできる。それは関係が近ければ近いほど、かえってお互いが抱える苦しみが見えなくなることへの比喩だ。本書は結ばれることのない恋愛も描いている。その恋愛のゆくえに上の一節が投影されているとも取れる。

本書が描こうとしているのは、共通した文化がありながら、台湾と中国本土の間に横たわる微妙な差異だ。だが、その前に台湾の人々の気性をしっかりと書く。台湾の中にも本省人や外省人といった違いはある。例えば本省人が日本人に対して持つ感情と、外省人が日本人に対して持つ感情は当然違う。それは私も訪問して感じたことだ。外省人は、国共内戦で敗れた国民党が台湾に本拠を求めた時期と前後して台湾に住んだ人々の事だ。一方の本省人は、それ以前から台湾に住んでいた人々だ。日清戦争で日本が台湾を領有した時期も知っている。本書の中でも岳さんが日本統治時代のすべてが悪いわけではなかったと述懐するシーンがあり、そこにも本省人と外省人の考え方の違いがにじみ出ている。

著者は台湾で生まれ、五歳までそこで過ごしたという。その経験は、著者にしか書き分けられない台湾と日本と中国の微妙な違いを本書に与えていることだろう。とはいえ、私には本書から台湾人の感性を読み取ることは難しかった。しょせん、二週間訪れただけでは分かるはずがないのだ。だが、本書には細かいエピソードや会話があちこちにちりばめられ、台湾の日常の感性がよく描かれている。また、全編を通して感じられるのは洗練とは遠い台湾の日常だ。それは粗野といってもよいくらいだ。 例えば秋生が軍隊でしごかれるシーンなどはそれに当たるのと思うだろうか。ドラム缶に入れられ、斜面に転がり落とされる軍隊流の仕打ちなどは、常に中国大陸からの侵攻におびえる台湾の現状を端的に表しているといえるのかもしれない。

そうした台湾の日常は、秋生が中国大陸を訪ねるシーンで台湾と大陸の感性の違いとしてクローズアップされる。プロローグで秋生が山東省の沙河庄の碑を訪れるシーンから、その微妙な違いが随所に表現される。その地は秋生の祖父が日中戦争中に馬賊として犯した殺戮の事実を記す碑が建っている。その地を訪れた秋生が野ざらしでトイレを探す秋生に、タクシーの運転手がぽつんと荒野に立つ壁を指さすシーンなどにその広さやゆとりが感じられる。本書の表紙の写真がまさにその地のイメージをよく伝えているが、そこに見える茫洋とした地平は台湾では見られない光景のはず。本書の終盤にも秋生は中国大陸を訪れるが、そのシーンでは大陸と台湾の違いはより色濃く描かれている。

そのような違いにもかかわらず、同じ中華民族として共通する部分もある。例えば秋生が大陸で言葉を交わすシーンなどは、同じ言語を持つ民族の利点だろう。共通する文化があるのに、微妙な細かいところで違う。その文化の距離感が本書は絶妙なのだ。長じた秋生は日本で仕事を得ることになるが、日本という異郷を通すことで中国と台湾の違いを客観的に眺める。そうした設定も本書の文化的な描写の違いを際立たせている。

秋生が結婚することになる夏美玲が秋生にいうセリフ。「わたしたちはみんな、いつでもだれかのかわりなんだもん」。このセリフこそ、悠久の中華の歴史を一言で語っているのではないか。そこにあるのは台湾と中国の間にある共通の文化が培ってきた長い年月の重みだ。その悠長な歴史観は、台湾と中国の溝すらもいつかは埋まると楽観的に構えているに違いない。そうではないか。

私もまた近々、台湾に戻ろうと思う。台湾の今を知るために。悠久の歴史を知るために。私たちに親切にしてくれた人々の思い出に浸るために。これからも親日であり続けてほしいと願うために。そして大陸との統一の可能性を知るために。私にとっての20年の空白など、中国の長い歴史に比べるとちっぽけに過ぎないという卑小さを噛みしめるために。


佐藤家の人びと―「血脈」と私


本書は本来なら血脈各巻の解説として巻末に附されるべきものだ。

しかし、上中下巻あわせて原稿用紙3400枚ともいう大作「血脈」。その解説には、語り尽くすべき内容が多すぎる。多彩な登場人物、無数のエピソード、何箇所もの舞台。一族の大河を描いた3400枚の中にはあまりにも多くの情報が込められている。

特に、血脈の登場人物には著者自身も含め、個性的な人物が多い。著者の筆があまりにも活き活きと登場人物を描くものだから、読者はついその人の顔をみたくなる。放蕩の限りを尽くすこの節という人物はどんな面構えなんだろう。狂恋に翻弄されシナを振り回す洽六の馬面とは、そして洽六をそうまでさせる女優シナの容姿とは。さらに、作者の子供時代のあどけなくも意志を感じさせる顔とは。本書には読者にとって興味の対象である登場人物達の写真が豊富に載せられている。

私は「血脈」上中下巻を読み通す間、いったい何度本書を繙いたか。十回や二十回どころではない。それこそ数えきれないくらいだ。弥六から洽六。シナの女学生時代や女優時代。洽六の一人目の妻ハツと、八郎、節、久の兄弟。夭折した長女喜美子。さらには早苗と愛子姉妹。八郎の息子たちに、八郎や愛子とは腹違いの真田与四男。八郎の師匠である福士幸次郎。個性的な人物の肖像がすぐに確認できる座右にあることで、血脈本編をめくる手にも一層熱がこもるというものだ。

また、本書には血脈登場人物の家系図も掲載されている。それによって読者は複雑な佐藤家の血脈関係を確認しながら本編を読み進めることができる。

また、本書にはいわゆる著者による謎解き的な解説文も豊富に掲載されている。私はそれらの文については、本編を読む間は一顧だにせず、本編読了後にまとめて読んだ。しかし、本書に収められた解説を読んでから再度本編を読み直すと、一層本編の理解も深まることは間違いない。著者自身による「血脈」や佐藤家の一族を語る冒頭から、著者と豊田氏、著者と長部氏、著者と大村氏による対談、さらには血脈の本編を補強するエピソードの数々。これほどの内容が載っているからこそ、本来は解説として下巻の巻末に附されるべき本書が独立した書籍として刊行されたのだろう。まさしく著者畢生の大作に相応しい扱いだともいえる。

本書を読んで、改めて「血脈」についてまとまった感想を述べてみたいと思う。

それは、特定の人物を小説のモデルにする、ということの是非についてだ。おそらくは「血脈」に出てくる内容のほとんどは限りなく事実に近いと思う。それは佐藤家の登場人物にとっては自分の悪行が暴かれ、読者にさらされることを意味する。しかも死後に。よくある評伝や伝記は、モデルの死後、生前のモデルを知らぬ人物によって書かれることが多い。よくある暴露本の類はモデルに近い人物によって書かれることが多いが、それは亡くなってすぐに書かれるため、生々しい内容になりがちだ。

「血脈」に登場する人物のほとんどは、なくなった後随分経ってからモデル化されている。存命だが、著者に色々と書かれた人物といえば、サトウハチロー記念館館長を務めているハチローの息子四郎ぐらいだろうか。あと、ハチローの孫にあたる佐藤家の嫡男恵も忘れてはならない。「血脈」は恵が著者に会いに来る場面で終わる。八百屋の引き売りになるという、佐藤家の血脈を引くに相応しい世俗的な栄華とは無縁の生き様を見せる一方で、荒ぶる血が鎮まったかのように細く落ち着く様子が本書の幕切れとして鮮やかな効果を与えている。つまり、恵は著者によって貶されるどころか佐藤家の血を鎮める役割として好意的に描かれている。

しかし、血脈を体現する主要人物はそうでもない。ワルとされる人物達は著者の人生にあまりにも深く関わっている。著者にとって愛憎半ばというより憎さも一入だったかもしれない。それは「血脈」や本書を読めば容易に感じられる。彼らは自らを憎む著者によってモデル化され、私生活が暴かれていく。自らの悪行を近しい娘であり妹であり姪である著者から書かれるということは、モデルとなった人物にとって何を意味するのか。私は結局のところ、それはどうでもよいことだと思う。彼らにとってみても、自分の人生がどう書かれようとどうでもよかったに違いない。やりたいようにやり切った人生は自分だけの物。死後に誰に何を書かれようとどうでもいい。そう思っていたのではないだろうか。少なくとも自分の行動が死後どのように書かれるか計算しながら生きた人物の人生など、他人から取り上げられることなどそうないだろう。彼らはそんな心配など一瞬たりとも考えずに人生を送ったに違いない。死後に何を書かれようとも気にしない。それは多分、評伝を書かれるような人物全てが思うことだと思う。墓に入ってしまえば何も反論できない。逆に生者たちが何を噂しようとも、死者には何の影響も与えまい。

でも、亡くなった方がつとに願うのは、自らの人生が嘘や捻じ曲げによる情報で汚されないことではないだろうか。どう思われようとも自分がやっていないことが事実としてまかり通ることは嫌だろうな、と思う。その人物を非難できるのはその人物と同じ時代を生きた人にだけ許されること。その人物の成した行為によって直接の影響を与えられた人物にしか非難する資格は与えられない。それは常々私がこうありたいと思う歴史への向き合い方だ。違う時代の人物によって書かれる評伝が学問として認められるのは、そこに取り上げられる対象の人物を非難するからではなく、歴史の正確性を期すためだからだ。一方で、同時代の著者によって書かれる暴露本が軽く見られるのは、生々しく利害がぶつかる内容であり、出来事から発生する波紋がまだ収まっておらず、確定していない事実を描くからだ。

では、「血脈」はどうなのだろうか。モデルとなった人物と同じ時代を過ごした著者によって書かれた「血脈」は、それが許される作品として考えてよいと思う。彼らの生きた人生をモデル化するのも非難するのも、彼らに近しい著者だから出来たこと。洽六もハチローも節も忠も五郎も、さらにはシナやカズ子やるり子や蘭子や早苗も、他人はともあれ愛子には書かれる資格があったのではないだろうか。そして、ここで言っておかねばならないのは、著者は決して彼らを憎しみだけで見ていたわけではなかったことだ。本書の36Pで書かれているが、著者が自伝「愛子」を上梓した際、室生犀星氏から手紙をもらったことが紹介されている。そこには「小説を書くことは、親を討ち、兄弟姉妹を討ち、友を討ち、己を討つことです」とあったという。この言葉がずぅーっと著者の中にあったとか。でも、著者は「血脈」を書く中で、彼らをただ討つだけではない高みに登っていったと思う。ユーモアもある愛すべき点もある人物として。それはたとえば、「佐藤家の人間はしょうがない連中だけど、ユーモラスなんですよ。で、それがあるから助かってる。それがなかったら悲惨な、読むに耐えない小説になったと思います」(P61-62)や、「佐藤家は悪口と怒りが渦巻く一家だった。だが背中合せに濃密な愛があった。「血脈」を描いてそれがわかったことが、私はうれしい」(P168)といった記述にそれが現れている。

どんな奇想天外な人生でも、どんなに人に迷惑をかけた人生でも、死ねば時がその苦さを薄めてゆく。故人をいつまでも非難するのではなく、きちんと向き合い、全力で理解しようと努める。本書は佐藤家の血脈を非難する本ではなく、肉親たちを鎮魂する本なのだ。

特定の人物を小説のモデルにするということは、ただ単に憎み貶すだけでは何物も産みださない。そうではなく本書のようにそこにある人間としての救いを描かないと駄目なのだ。それが本書の優れた点であり、構成に残すべきモデル小説として推薦する点だと思う。

‘2015/09/12-2015/09/15


血脈(下)


洽六亡き後、佐藤家の棟梁は八郎に移る。

サトウハチローとしての名声を確立した八郎だが、私生活は放恣そのもの。子供達も放ったらかしで、気ままな人生を歩む。裸で過ごす夏。寝そべったまま書いては発表する文章。 ヒロポンに頼る日々。洽六と節がいなくなったことで、権威と化した八郎を諌めるものは誰もいない。まさに裸の王様。今の我々にとってサトウ八チローとは「りんごの唄」や「ちいさい秋みつけた」や「うれしいひなまつり」の作詞家である。サトウハチロー記念館のWebサイトに掲げられているサトウハチローの紹介文には、放恣な私生活を思わせる記述はない。しかし本書では八郎の私生活が異母妹である著者によって容赦なく晒される。そこに棟梁としての威厳はない。それが小説的な演出なのかどうかは今となっては著者にしかわからないのだが。

一章「渦の行方」では、洽六亡き後、シナがかつての日々を追憶するところから始まる。 弥六から洽六へと受け継がれた津軽の血が、何を佐藤家の一族に伝えたか。その放埓な自己抑制のかけらもない自由な生き様。明日のことなど知ったこっちゃないといわんばかりの破滅的な生き方。そんな荒ぶる男たちの大半は中巻までの、太平洋戦争をはさんだ数年間で死ぬ。そんな中、八郎だけが天皇陛下に伺候できる立場になった。しかし、そこで物語が落ち着いてしまわないのが佐藤家の血の業である。

一章「渦の行方」を通して描かれるのは八郎一家の放埓な日々だ。八郎の実際の私生活はどうあれ、その不埒な性質は子供たちにも受け継がれていったようだ。長男忠はまっとうに働き、妻子まで設けたにもかかわらず、佐藤家の荒ぶる血が彼を徐々に生活無能力者へと変える。神童だった五郎は一転、中学を出たあたりから八郎の弟久を思わせる無気力な人間となる。佐藤家のお手伝いのような扱いを受けている典子は、八郎のお手つきを受けた身だが、ヒロポンにおぼれ、無気力な人間となった五郎の世話を焼くうちに駆け落ちを持ちかけられ、共に方々を転々とする身になる。典子の献身にも関わらず素行を改めない五郎は、典子のヒモ一歩手前の自堕落な性格を改めようとしない。五郎の兄四郎は、本稿を書いている2016年夏の時点ではサトウハチロー記念館の館長を勤めている。佐藤家の男としては珍しく自滅せずに生涯を全うしつつあるように思えるが、本書によると四郎もまた五郎に負けず劣らずの自由気ままな日々を送っていたようだ。父八郎への反抗と満たされぬ自らの性向を持て余す日々。

ここで書かれるのは八郎一家の規格外れの日常だけではない。サトウハチローという才能にも改めて著者は筆を入れる。 著者の今までの作品リストを見るに、父佐藤紅緑を扱った作品や母横田シナを取りあげたものはあるようだ。しかし、兄サトウハチローを扱った作品はどうやらなさそうだ。おそらく「血脈」で初めて兄を本格的に書いたのかもしれない。兄への複雑な感情の丈をぶつけるかのように、著者は本章においてハチローを徹底的に描いている。サトウハチローを描くにあたって著者は、八郎家の日常と木曜会という八郎を囲んだ童謡の勉強会に焦点を当てる。そこに集う詩人たちが八郎のペースに巻き込まれ、生活を犠牲にして佐藤家に尽くす様子が描かれる。先に書いた典子も元々は八郎の元へ童謡の勉強に来たはずが、いつの間にか手を付けられ、挙げ句の果てに使用人として扱われた人だ。様々な詩人志望者が木曜会に参加するが、八郎とは付き合いきれないと一人一人木曜会から離れてゆく。

本書の中でこれまで何度か引用されていたハチローの詩。ここで著者は改めてサトウハチローという詩人の分析も行う。愛子が好きな詩は「象のシワ」という詩だ。本書48Pに詩の全文が引用されているが、「その詩ひとつで愛子は兄の欠点をすべて許す気になったものだ」と好意的に評している。その一方で著者は凡庸なハチローの詩については容赦なく攻撃する。とくにハチローが母を詠った詩については筆鋒鋭いものがある。それは著者が愛子として見聞きしたサトウハチローの実際の私生活や、ハチローの母ハルが洽六やハチローからどのようなひどい扱いを受けたかを知るからこそ言えることなのだろう。だが著者は、それだけ酷い扱いを母に対してしたハチローだからこそ、その悔恨をこめてお母さんの詩を沢山書いたのではないかと擁護も含めて推測している。

一方で、本章では愛子が小説家として習作に手を染めるまでの経緯も書く。シナに勧められ、父洽六にも励まされた愛子の文筆修行。それはやがて同人仲間に迎え入れられるまでになる。さらには同人仲間の一人である田畑麦彦との再婚にも踏み切る。そういった経緯が書かれるのも本章だ。

洽六から始まる放蕩の血は、実は芸術家としての類まれなる才能を与える血でもあった。洽六にハチローに愛子。だが、実は他にもいたのである。洽六の芸術の血を引く者が。その人の名は真田与四男。筆名大垣肇として演劇史に名を残す人物である。実はこの人物は上巻からすでに登場していた。洽六がまだシナと出会う前、ハルという正妻がいながら真田いねという愛人も囲っていた。与四男はそのいねと洽六の間に出来た子である。その与四男は洽六の津軽の放蕩の血をさほど引かず、劇作家として真面目にキャリアを積み重ねてきた。

このあたりから、物語には著者の視点が増え始める。著者が一番脂の乗った時期。小説家としても女性としても。ハチローもシナも老いた今、佐藤家を支えるのは愛子であるかのように。しかし愛子は放蕩に身を持ち崩さない替わりに、配偶者に恵まれない。著者が直木賞を受賞した「戦いすんで日が暮れて」は、田畑麦彦が商売に失敗し、その負債を背負わされた著者による奮闘を描いた作品だという。そのあたりの経緯についても本章で触れられている。配偶者のだらしなさに苦労させられるのは佐藤家の嫁に共通の業だが、愛子は佐藤家の血を引きながら逆の立場でその業にはまり込むのが面白い。そして、配偶者に恵まれないのは愛子の姉早苗も同じ。佐藤家の男達に振り回される女どもを見てきた早苗は、同じ轍は踏むまいと実直な村井雄介を選び、結婚前のお転婆ぶりが一転、貞淑な妻として過ごす。ところが当初からこの結婚に乗り気でなかったシナが危惧していたとおり、早苗にノイローゼの危機が。それをきっかけに徐々に二人の関係も壊れ始めてゆく。雄介は放恣どころか生真面目なのだが融通が利かず鈍感。

この雄介という人物は中巻から登場し、下巻の終盤ではかなりの頻度で登場する。が、ほとんどの主要人物の写真が載っている「佐藤家の人びと-「血脈」と私」に雄介の写真は載らない。それもあってか今一つ現実味に欠けるキライがあるのが雄介だ。佐藤家の血脈を描く上で欠かせない人物であるにもかかわらず。ほとんどの人物が実名で登場する本書の場合、モデル化され、赤裸々に書かれることを嫌がる人物もいるだろう。特に雄介と早苗夫婦の場合、子供たちも名前が出される。となると、村木という苗字が仮名であってもおかしくない。実際に本書の中で登場する人物で実名と違う名前で登場する人物はいる。それは、愛子の初婚の相手である。本書では守田悟という名で登場するが、実際の名前は森川弘といったらしい。また愛子は実子として守田との間に二人の子を設けているが、以降、ほとんど二人の子の消息には触れられない。同様に、他にも仮名で登場する人物が多数いるのだろう。特に木曜会関係ではそういう方が多そうだ。平成28年の今もまだ木曜会が続いている以上は。

やがて八郎も紫綬褒章を受章し、老いが進む。そんな中、シナも死にゆく。自分を持ち、人に媚びる事をよしとしなかった人生。著者はシナの一生を情感をこめて描く。世間を少し斜めに見、女優を諦めた自分の人生を失敗と思っている母シナの一生には、確かに意味があったのだと言い聞かせるように。シナは死に、その死を八郎に伝える電話で、愛子と八郎が兄妹であることを確認する。

第三章の「彗芒」は、八郎の同士でもあった劇作家の菊田一夫の死去で始まる。そしてそのまま本章は、叙勲を受けた日の八郎急死でクライマックスを迎える。八郎がなくなり、「親父の血を一番濃く引いているのは愛子だな」(384P)という言葉を残した八郎もいなくなったことは、佐藤家のあらぶる血の行く末を見届けるのが愛子しかいなくなったことを表す。

さらに第四章の「宿命」も短い章である。本章はこのような文章で幕を開ける。「愛子はようやく気がついた。佐藤洽六の血を引く者はみな、滅びるべくして滅んでいく宿命を背負っているらしいことに」と。そして本章は短い。もはや登場人物たちの人生に語るべき滋養がなくなってきたと言うかのように。シナの死前後からギクシャクし始めた早苗と雄介の仲は、とうとう忍耐の尾が切れた早苗の佐藤家の男を思わせるようなはじけっぷりから、破滅へと向かう。

さらに忠は廃人と化し、ハチローの死去で受け取った巨額の遺産を使い切って無一文で野垂れ死にする。五郎の末路も似たようなもの。佐藤家の放蕩の血を引くものが一人また一人と舞台から退場していく。大垣肇こと真田与四男もまたそう。

第五章の「暮れて行く」は長きにわたった本書の最終章である。人々の生と滅びの姿を書きつくしてきたかに見える本書にも、まだ書けていない点がある。それは著者自身の老いである。しかし、まだ本章ではそのことは出てこない。本章は著者の姉早苗の死から始まる。とうとう和解も救いもないままに。その原因を掴めぬままに雄介も早苗の死から一年たたずに死ぬ。八郎の最後の妻蘭子も、波乱の人生の幕を閉じる。

節の妻のカズ子も死ぬ。阪急塚口にかつてあった「割烹旅館さとう」 は節の死後カズ子が切り盛りして繁盛していたとか。カズ子の死後、その場所は魚民となったそうだ。ちなみに大学一年の私は1992年ごろ、塚口のダイエー でバイトしていたのだが、この魚民では呑んだ事があるような気がする。もちろんカズ子や節のことなど何も知らない頃。甲子園の洽六邸といい、塚口の縁といい、ひょっとしたらまだ細かい縁で私と佐藤家は繋がっているのではないかという気すらする。

そして、本書は77歳になった著者の感慨で幕を閉じる。佐藤家を彩った人々は、皆物故者となった。著者愛子とハチローの息子四郎、さらにユリヤと鳩子が存命なだけで。ハチローの長男忠の長男恵も、この時点で44歳。ということは今は60歳近いということか。まったく、なんという一族なんだろうと思う。そしてその血を濃く受け継ぎながら、95歳にならんとする作者のたくましさといったら!! 私にとってもっとも身近な作家であったはずの著者のことを今まで知らずにいたことの悔しさよ。

‘2015/09/08-2015/09/12


鷺と雪


著者の本はそれほど読みこなしておらず、円紫さんシリーズを少し読んだ程度。だが、日常の些細な謎をミステリに仕立てあげる手腕にはかねてから敬服しており、直木賞受賞作である本書も数ある著者の本の一つという程度の認識で手に取った。

様々な日常の事件をベッキーさんが解いていく小編が集まったオムニバス形式の本書でも、小編のそれぞれを構成する謎は、さして大がかりなものでもなければ誰かの人生に重大な影響を与えるものでもないのだが、それを小編として構成しつつ、なにがしかの余韻を残させるあたりはさすがといったところ。

それぞれの小編で謎として提示されるエピソード、実は昭和史で類似のエピソードが実際にあり、事実と虚構の境界をあえてぼかすような書き方になっている。それらエピソード以外の、本筋とは外れたようにみえる部分に昭和初期の世相を感じさせる出来事を挟み込んでいくのだが、その挟み方が絶妙で、それら謎や出来事の集合として、小編を跨いだ本書全体として、昭和史の一大事件の勃発に向けた一触即発の雰囲気を作り上げていくところに読み応えを感じた。

太平楽な時代に生きる我々が、昭和初期の世間に漂う何かの予兆を感じ取ることは不可能に近いと思うけれど、この本では小説という形式故にその予兆の一片を拾い上げることに可能な限り努力したと思える。

’11/12/06-’11/12/07