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ベルリン、わが愛/Bouquet de TAKARAZUKA


本作は、私にとって初めて独りだけで観た舞台だ。独りだけで観劇することになった事情はここでは書かない。ただ、私の妻子は事前に本作をみていた。そして妻子の評価によると本作は芳しくないようだ。むしろ下向きの評価だったと言ってよいくらいの。そんな訳で、私の期待度は薄めだった。正直、事前に妻子が持っていたパンフレットにも目を通さず、あらすじさえ知らずに客席に座ったくらいだ。

そんな消極的な観劇だったにも関わらず、本作は私に強い印象を残した。私の目には本作が、宝塚歌劇団自らが舞台芸術とは何かを振り返り、今後の舞台芸術のあり方を確かめなおそうとする意欲作に映った。

なぜそう思ったか。それは、本作が映画を取り上げているためだ。映画芸術。それは宝塚歌劇そのものである舞台芸術とは近く、それでいて遠い。本作は舞台の側から映画を描いていることが特徴として挙げられる。なにせ冒頭から舞台上に映画館がしつらえられるシーンで始まるのだから。別のシーンでは撮影現場まで登場する。今まで私は舞台の裏側を描く映画を何作も知っている。が、舞台上でここまで映画の内幕を描いているのは本作が初めてだ。

舞台の側からこれほどまでに映画を取り上げる理由。それは、本作の背景を知ることで理解できる。本作の舞台は第二次大戦前のベルリンだ。第一次世界大戦でドイツが課せられた膨大な賠償金。それはドイツ国民を苦しめナチスが台頭する余地を生む。後の1933年に選挙で第一党を獲得するナチスは、アーリア人を至上の人種としユダヤ人やジプシー、ロマを迫害する思想を持っていた。その過程でナチスによるユダヤ人の芸術家や学者を迫害し、大量の亡命者を生んだことも周知の通り。そんな暗い世相にあって、映画はナチスによってさらにゆがめられようとしていた。映画をプロパガンダやイデオロギーや政治の渦に巻き込んではならない。そんな思いをもって娯楽としての映画を追求しようとした男。それが本作の主人公だ。脚本は原田諒氏が担当した宝塚によるオリジナル脚本である。

冒頭、舞台前面に張られたスクリーンにメトロポリスのタイトルがいっぱいに写し出される。私はメトロポリスはまだ見ていない。だが、メトロポリスをモチーフにしたQUEENの「RADIO GA GA」のプロモーションビデオは何度も見ている。なので、メトロポリスの映像がどのような感じかはわかるし、それが当時の人々にとってどう受けいれられたかについても想像がつく。

あらすじを以下に記す。METROPOLISのタイトルが記されたスクリーンの幕が上がると、プレミアに招待された人々が階段状の席に座っている。期待に反して近未来の描写や希望の見えない内容を観客は受け入れられない。人々は前衛過ぎるメトロポリスをけなし、途中退席して行く。メトロポリスを監督したのはフリッツ・ラング監督。この不評はドイツ最大の映画会社UFAの経営を揺るがしかねない問題となる。

そこで、次期作品の監督に名乗りを上げるのが、本作の主人公テオ・ヴェーグマンだ。彼はハリウッド映画に遅れまじと、トーキー映画を作りたいとUFAプロデューサーに訴え、監督の座を勝ち得る。

テオは友人の絵本作家エーリッヒに脚本を依頼する。さらに、当時ショービジネス界の花形であるジョセフィン・ベーカーに出演を依頼するため、楽屋口へと向かう。ベーカーは自らが黒人であることを理由に出演を辞退するが、そのかわりテオはそこで二人の女優と出会う。レニ・リーフェンシュタインとジル・クラインに。テオは、果たして映画を完成させられるのか。

本作は幕開けからテンポよく展開する。そして無理なく出演者を登場させながら、時代背景を描くことも怠らない。ここで見逃してはならないのが、人種差別の問題にきちんと向きあっていることだ。ジョセフィン・ベーカーはアメリカ南部出身の黒人。当時フランスを中心に大人気を博したことで知られる。本作に彼女を登場させ、肌の色を理由に自ら出演を断らせることで、当時、人種差別がまかり通っていた現実を観客に知らしめているのだ。先にも書いたとおり、ナチスの台頭に従って人種差別政策が敷かれる面積は広がって行く。それは、人種差別と芸術迫害への抵抗という本作のテーマを浮き彫りにさせてゆく。

本作が舞台の側から映画を扱ったことは先に書いた。特筆すべきなのは、本作が映画を意識した演出手法を採っていることだ。それはスクリーンの使い方にある。テオが撮った映画でジルが花売り娘として出演するシーンを、スクリーンに一杯に映し出す演出。これはテオの映画の出来栄えと、ジル・クラインの美しさを際立たせる効果がある。だが、この演出は一つ間違えれば、舞台の存在意義を危うくしかねない演出だ。舞台人とは、舞台の上で観客に肉眼で存在を魅せることが使命だ。だが、本作はあえて大写しのスクリーンで二人の姿を見てもらう。この演出は大胆不敵だといえる。そして私はこの演出をとても野心的で意欲的だと評価したい。しいて言うならば私の感覚では、モノクロの映像があまりにも鮮明過ぎたことだ。当時の人々が映画館で楽しんだ映像もフィルムのゴミや傷によって多少荒れていたと思うのだが。わざと傷をつけるのは「すみれコード」的によろしくないのだろうか。

美しい花を売る演技によって、端役に過ぎなかったジル・クラインはヒロインのはずのレニ・リーフェンシュタインを差し置いて一躍スターダムな評価を受ける。さらには、そのシーンに心奪われたゲッベルスに執心されるきっかけにもなる。

プライドを傷付けられたレニは、ジル・クラインがユダヤ人の母を持つこと、つまりユダヤの血が流れていることをゲッベルスに密告する。そしてナチスという権力にすり寄っていく。そんなレニのふるまいをゲッベルスは一蹴する。彼女がユダヤ人であるかどうかを決めるのはナチスであると豪語して。ジル・クラインに執心するあまりに。史実ではゲッベルスはドイツ国外の映画を好んでいたと伝えられている。本作でもハリウッドの名画をコレクションする姿など、新たなゲッベルス像を描いていて印象に残る。

あと、本作で惜しいと感じたことがある。それはレニの描かれ方だ。史実ではレニ・リーフェンシュタインは、ナチスのプロパガンダ映画の監督として脚光を浴びる。ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」の監督としても名をはせた彼女。戦後は逆にナチス協力者としての汚名に永く苦しんだことも知られている。ところが、本作ではレニがナチスに近いた後の彼女には一切触れていない。例えば、レニが女優から監督業にを目指し、ナチスにすり寄っていく姿。それを描きつつ、そのきっかけがジルに女優として負けたことにある本作の解釈を延ばしていくとかはどうだろうか。そうすれば面白くなったと思うのだが。もちろん、ジル・クラインは架空の人物だろう。でも、レニの登場シーンを増やし、ジルとレニの関係を深く追っていけば、レニの役柄と本作に、さらに味が出たと思うのだが。彼女の出番を密告者で終わらせてしまったのはもったいない気がする。

もったいないのは、そもそもの本作の尺の短さにも言える。本作がレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」と並演だったことも理由なのだろうけど、少し短い。もう少し長く観ていたかったと思わせる。本作の幕切れは、パリへ向けて亡命するテオとジルの姿だ。客車のセットを舞台奥に動かし、降りてきたスクリーン上に寄り添う二人を大写しにすることで幕を閉じる。この流れが、唐突というか少々尻切れトンボのような印象を与えたのではないか。私も少しそう思ったし、多分、冒頭にも書いた妻子が低評価を与えたこともそう思ったからではないか。二人のこれからを観客に想像させるだけで幕を下ろしてしまっているのだ。ところが本作はそれで終わらせるのは惜しい題材だ。上に書いた通りレニとジルのその後を描き、テオに苦難の人を演じさせるストーリーであれば、二幕物として耐えうる内容になったかもしれない。

惜しいと思った点は、他にもある。本作にはドイツ語のセリフがしきりに登場する。「ウィルコメン、ベルリン」「イッヒ! リーベ ディッヒ」「プロスト!」とか。それらのセリフがどことなく観客に届いていない気がしたのだ。もちろん宝塚の客層がどれぐらいドイツ語を理解するのかは知らない。そして、これらのセリフは本筋には関係ない合いの手だといえるかもしれない。そもそも他のドイツを舞台にした日本の舞台でドイツ語は登場するのだろうか。エリザベートは同じドイツ語圏のウィーンが舞台だが、あまりドイツ語のセリフは登場しなかった気がするのだが。

なぜここまで私が本作を推すのか。それは権力に抑圧された映画人の矜持を描いているからだ。 ナチスという権力に抗する映画人。この視点はすなわち、大政翼賛の圧力に苦しんだ宝塚歌劇団自身の歴史を思い起こさせる。戦時中に演じられた軍事色の強い舞台の数々。それらは、宝塚自身の歴史にも苦みをもって刻印されているはず。であれば、そろそろ宝塚歌劇団自身が戦時中の自らの苦難を舞台化してもよいはずだ。なんといっても100年以上の歴史を経た日本屈指の歴史を持つ劇団なのだから。 本作で脚本を担当した原田氏は、いずれその頃の宝塚歌劇の苦難を舞台化することを考えているのではないか。少なくとも本作のシナリオを描くにあたって、戦時中の宝塚を考えていたと思う。私も将来、戦時中の宝塚が舞台化されることを楽しみにしたいと思う。

それにしても舞台全体のシナリオについて多くを語ってしまったが、主演の紅ゆづるさんはよかったと思う。彼女のコミカルな路線は宝塚の歴史に新たな色を加えるのではないか、と以前にみたスカーレット・ピンパーネルのレビューで書いた。ところが、本作はそういったコミカルさをなるべく抑え、シリアスな演技に徹していたように思う。歌も踊りも。本作には俳優さん全体にセリフの噛みもなかったし。あと、サイレントのベテラン俳優で、当初テオには冷たいが、のちに助言を与えるヴィクトール・ライマンの名脇役ぶりにも強い印象を受けた。

先に舞台上に演出された映画的なセットや演出について書いた。ところが、本作には舞台としての演出にも光るシーンがあったのだ。そこは触れておかないと。テオがジルにこんな映画を撮り続けたいと胸の内を述べるシーン。テオの回想を視覚化するように映写機を手入れする若き日のテオが薄暗い舞台奥に登場する。銀橋で語る二人をピンスポットが照らし、舞台にあるのは背後の映写機と二人だけ。このシーンはとてもよかった。私が座った席の位置が良かったのだろうけど、私から見る二人の背後に映写機が重なり一直線に並んだのだ。私が今まで見た舞台の数多いシーンでも印象的な瞬間として挙げてもよいと思う。

あと、宝塚といえば、男役と娘役による疑似キスシーンが定番だ。ところが本作にそういうシーンはほとんど出てこない。上に書いたシーンでもテオはジルに愛を語らない。それどころか本作を通して二人が恋仲であることを思わせるシーンもほとんど出てこない。唯一出てくるとすれば、パリ行きの客車に乗り込もうとするジルの肩をテオの手が包むシーンくらい。でも、それがいいのだ。

宝塚観劇の演目の一つに本作のような恋の気配の薄い硬派な作品があったっていい。ホレタハレタだけが演劇ではない。そんな作品だけでは宝塚歌劇にもいつかはマンネリがくる。また、本作には宝塚の特長であるスターシステムの色も薄い。トップのコンビだけをフィーチャーするのではなく、登場人物それぞれにスポットを当てている。私のように特定の俳優に興味のない観客にとってみると、このような宝塚の演目は逆に新鮮でよいと思う。そういう意味でも本作はこれからの宝塚歌劇の行く先を占う一作ではないだろうか。私は本作を二幕もので観てみたい、と思う。

ちなみに、この後のレビュー「Bouquet de TAKARAZUKA」は、あまり新鮮味が感じられず、眠気が。いや、このレビューというよりは、もともと私がレビューにあまり興味のないこともあるのだが。でも、それではいかんと、途中からはレビューの面白さとはなんなのかを懸命に考えながらみていた。それでもまだ、私にはレビューの魅力がわからないのだが。でも「ベルリン、わが愛」はよかったと思う。本当に。

‘2017/12/20 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/berlinwagaai/index.html


犯罪小説家


本書はタイトルの通り、小説家が主人公だ。

小説家、待居涼司は「凍て鶴」によって作家として日の目を浴びたばかり。「凍て鶴」は評価され、映画化の話も持ちこまれる。受賞作家のもとには、さまざまな人物があいさつに訪れるが、映画化で監督・脚本・主演に名乗りを挙げた小野川充もその一人。

小野川の軽さに自分と相いれない性格を感じた待居。さらに小野川の脚本案は、独自の解釈が施されている。その解釈は、原作者待居の思惑を超えている。小野川に反りの合わなさを感じる待居はその脚本案を素直に受け入れられない。原作では憎悪をこめた殺害で終わるラストを心中と読み替えた小野川の案は、小野川の個人的な思いに影響されすぎていやしないか。しかも、小野川は「凍て鶴」の舞台を勝手に待居の住む多摩沢だと決めつける。多摩沢公園に脚本のインスピレーションを求めるため、あろうことか多摩沢に住居まで移してしまう。

小野川のペースに翻弄されいらだつ待居。そんな待居の気持ちをさらに逆なでするように、小野川は脚本に現実に起こった事件をモチーフとして持ち込もうとする。その事件とは、木ノ瀬蓮美が主催する落花の会によって引き起こされた。落花の会とは、自殺サークルのことだ。周到に準備を重ね、会員の自殺を成就させるのが目的の会は、多摩沢公園で主催の木ノ瀬蓮美が水死体で浮かぶことで終息を迎える。

小野川は、「凍て鶴」脚本のラストを心中で終わらせるのが最善と確信する。そしてそのためには落花の会について詳しく調べなければならないと待居や編集担当の三宅に力説する。小野川の想いは口だけにとどまらず、ライターの今泉知里に落花の会を調べさせるまでに至る。

そして本書は、今泉知里の調査によって自殺ほう助サイトの実態に入り込む。落花の会は木ノ瀬蓮美の死によって活動を停止した。だが、当時を知る幹部が何人か詳しい事情を知っているはず。ネット上に残されたログを追いながら、今泉知里は少しずつ落花の会の暗部に迫ってゆく。

本書は、犯人側の視点で語りを進める倒叙型でもなく、捜査側から語りを進める叙述型でもない。それが本書全体にどことなく曖昧さを与えている。そのあいまいさは一読すると本書の抱える欠点と思ってしまう。だが、そうではない。実際、本書の犯人像は早い時点で読者には見当がついてしまうだろう。しかし、ある程度読み進めても最後まで著者はそのあいまいさを崩さない。そしてそのあいまいさとは、犯人側ではなく捜査側にも当てはまるのだ。終わり近くになって明かされる捜査側の意図の意外さにきっと驚くことだろう。

そしてそこに、芸術という表現形式がはらむ狂気が顔を見せるのだ。小説と映画。二つの表現形式のはざまにあるものの違いといってもよいかもしれない。多分、それは本書は一度読んだだけでは気付かないと思う。二度読まないと。

‘2016/08/25-2016/08/29