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The Greatest Showman


私が、同じ作品を映画館で複数回みることは珍しい。というよりも数十年ぶりのことだ。私が子供の頃は上映が終わった後もしばらく客席にいれば次の回を観ることができた。今のように座席指定ではなかったからだ。だが、いまやそんな事はできない。そして私自身、同じ映画を二度も映画館で観る時間のゆとりも持てなくなってきた。

だが、本作は妻がまた観たいというので一緒に観た。妻子は三度目、私は二度目。

一度目に観た時。それは素晴らしい観劇の体験だった。だが、すべてが初めてだったので私の中で吸収しきれなかった。レビューにもしたため、サウンドトラックもヘビーローテーションで聞きまくった。それだけ本作にどっぷりはまったからこそ、二度目の今回は作品に対し十分な余裕をもって臨むことができた。

二回目であっても本作は十分私を楽しませてくれた。むしろ、フィリップとバーナムがバーのカウンターで丁々発止とやりあう場面、アンとフィリップがロープを操りながら飛びまわるシーンは、前回よりも感動したといってよい。この両シーンは数ある映画の中でも私の記憶に刻まれた。

今回、私は主演のヒュー・ジャックマンの表情に注目した。いったいこの映画のどこに惹かれるのか。それは私にとってはヒュー・ジャックマンが扮したP・T・バーナムの生き方に他ならない。リスクをとってチャレンジする生き方。バーナムの人生観は、上にも触れたフィリップをスカウトしようとバーでグラスアクションを交えながらのシーンで存分に味わえる。ただ、私はバーナムについてよく知らない。私が知るバーナムとはあくまでも本作でヒュー・ジャックマンが演じた主人公の姿だ。つまり、私がバーナムに対して魅力を感じたとすれば、それはヒュー・ジャックマンが表現した人物にすぎない。

ということは、私はこの映画でヒュー・ジャックマンの演技と表情に惹かれたのだ。一回目の鑑賞ではそこまで目を遣る余裕がなかった。が、今回はヒュー・ジャックマンの表情に注視した。

するとどうだろう。ヒュー・ジャックマンの表情が本作に力を漲らせていることに気づく。彼の演技がバーナムに魅力を備えさせているのだ。それこそが俳優というものだ。真の俳優にセリフはいらない。真の俳優とはセリフがなくとも表情だけで雄弁に語るのだ。本作のヒュー・ジャックマンのように。

本作で描かれるP・T・バーナムは、飽くなき挑戦心を持つ人物だ。その背景には自らの生まれに対する反骨心がある。それは彼に上流階級に登り詰めようとする覇気をもたらす。

その心のありようが大きく出るのが、バーナムとバーナムの義父が対峙するシーンだ。本作では都度四回、バーナムと義父が相まみえるシーンがある。最初は子供の頃。屋敷を訪れたバーナムが淑女教育を受けているチャリティを笑わせる。父から叱責されるチャリティを見かねたバーナム少年は、笑わせたのは自分だと罪を被り、義父から張り手をくらわされる。このシーンが後々の伏線になっていることは言うまでもないが、このシーンを演じるのはヒュー・ジャックマンではなく子役だ。

次は、大人になったバーナムがチャリティ家を訪れるシーンだ。この時のバーナムは意気揚々。自信満々にチャリティをもらい受けに訪れる。ヒュー・ジャックマンの表情のどこを探しても臆する気持ちや不安はない。顔全体に希望が輝いている。そんな表情を振りまきながら堂々と正面から義父に対し、その場でチャリティを連れて帰る。

三度目は、パーティーの席上だ。ここでのバーナムはサーカスで名を売っただけに飽き足らず、ジェニー・リンドのアメリカ公演の興行主として大成功を収めたパーティーの席上だ。上流階級の人々に自分を認めさせようとしたバーナムは、当然認めてもらえるものと思いチャリティの両親も招く。バーナムは義父母をリンドに紹介しようとする。ところが義父母の言動がまだ自分を見下していることを悟るや否や、一言「出ていけ」と追い出す。この時のヒュー・ジャックマンの表情が見ものだ。バーナムはおもてでは愛嬌を振りまいているが、裏には複雑な劣等感が潜んでいる。そんな複雑な内面をヒュー・ジャックマンの表情はとてもよく表していた。そしてチャリティの両親をパーティーから追い出した直後、乾杯の発声を頼まれたバーナムは、堅い表情を崩せずにいる。さすがにむりやり微笑んで乾杯の発声を務めるが、その自らの中にある屈託を押し殺そうとするヒュー・ジャックマンの表情がとてもよかった。

なぜ私はこれほどまでに彼の義父との対峙に肩入れするのか。それは、私自身にも覚えのある感情だからだ。自らの境遇に甘んじず、さらに上を目指す向上心。その気持ちは周りから見くだされ、軽んじられると発奮して燃え上がる。だが、燃え上がる内面は押し隠し、愛嬌のある自分を振る舞いつづける。この時のヒュー・ジャックマンの顔つきは、バーナムの内面の無念さと焦りと怒りをよく表していたと思う。そして結婚直前の私の心も。

四度目は、再びバーナムが実家に戻ったチャリティを迎えに行くシーンだ。火事で劇場を失い、ジェニー・リンドとのスキャンダル報道でチャリティも失ったバーナム。彼がFrom Now On、今からやり直そうとチャリティの屋敷に妻子を取り戻しに行くシーンだ。ここで彼は、義父に対して気負わず当たり前のように妻を取り戻しに来たと伝える。その表情は若きバーナムが最初にチャリティをもらい受けに乗り込んだ時のよう。ここで義父に対して媚びずに、そして勝ち誇った顔も見せない。これがよかった。そんな見せかけの虚勢ではなく、心から自らを信じる男が醸し出す不動の構え。

よく、悲しい時は無理やり笑えという。顔の表情筋の動きが脳に信号として伝えられ、悲しい気分であるはずの脳がうれしい気分だとだまされてしまう。その生活の知恵はスクリーンの上であっても同じはず。

本作でヒュー・ジャックマンの表情がもっとも起伏に満ちていたのが義父とのシーン。ということは、本作の肝心のところはそこにあるはずなのだ。反骨と情熱。

だが、一つだけ本作の中でヒュー・ジャックマンの表情に精彩が感じられなかったシーンがある。それはジェニー・リンドとのシーンだ。最初にジェニー・リンドと会う時のヒュー・ジャックマンの表情はよかった。ジェニー・リンドの歌声をはじめて舞台袖で聞き、公演の成功を確信したバーナムの顔が破顔し、安堵に満ちてゆく様子も抜群だ。だが、ジェニー・リンドから女の誘いを受けたバーナムが、逡巡した結果、話をはぐらかしてリンドから離れるシーン。ここの表情がいまいち腑に落ちなかった。もちろんバーナムは妻への操を立てるため、リンドからの誘惑を断ったのだろう。だが、それにしてはヒュー・ジャックマンの表情はあまりにも曖昧だ。ぼやけていたといってもよいほどに。もちろんこのシーンではバーナムは妻への操とリンドとの公演、リンド自身の魅力のはざまに揺れていたはずだ。だから表情はどっちつかずなのかもしれない。だが、彼が迷いを断ち切るまでの表情の移り変わりがはっきりと観客に伝わってこなかったと思う。

それはなぜかといえば、このシーン自体が曖昧だったからだと思う。リンドはせっかく秋波を投げたバーナムに振られる。そのことでプライドを傷つけられ公演から降りると啖呵を切る。そして金のために自分を利用したとバーナムを攻め、スキャンダルの火種となりかねない別れのキスを舞台でバーナムにする。ところが、公演を降りるのはいささか唐突のように思える。果たしてプライドを傷つけられただけですぐに公演を降りるのだろうか。おそらくそこには、もっと前からのいきさつが積み重なった結果ではないだろうか。それは、映画の上の演出に違いない。そもそも限られた時間で、リンドは誘惑し、バーナムがリンドから誘惑に初めて気づき、その場でさりげなく身をかわす。そんなことは起こるはずがない。それは映画としての演出上の都合であって、それだけの時間で演出をしようとするから無理が生じるのだ。Wikipediaのジェニー・リンドの項目を信じれば、リンドが公演を降りたのは、バーナムの強引な興業スケジュールに疲れたリンドからの申し出だとか。それがどこまで真実かはわからない。が、本作ではあえて劇的な方法で二人を別れさせ、リンドとバーナムのスキャンダルにつなげたいという脚本上の意図があったのだろう。だが、その意図が練られておらず、かえってヒュー・ジャックマンからも演技の方向性を隠してしまったのではないか。それがあのような曖昧な表情につながってしまったのではないかと思う。

他のシーンで踊り歌うヒュー・ジャックマンの表情に非難をさしはさむ余地はない。だからこそ、上のシーンのほころびが惜しかった。

‘2018/04/02 イオンシネマ多摩センター


流れ星と遊んだ頃


著者の自在に変幻する叙述の技は、大勢いる推理作家のなかでも最高峰といってもよい存在だと思う。

くだけた口調の独り語りでスタートする本書。だが、その語りこそが曲者だ。それぞれの章ごとに鮮やかに視点が入れ替わってゆく。誰の視点で語られているのか常に追っておかねばならない。油断するとすぐ著者の仕掛けた罠に嵌ることになる。その技はお見事としか言いようがない。あまりにも切れ味の鋭いどんでん返しが次々と繰り出される。鮮やかにひっくり返されたあまり、そこで小説が終わったと勘違いしてしまうほどだ。特に前半のうちは、本書の全体ボリュームを知らずに読んでいたため、本書を中編小説だと勘違いしたほどだ。つまり小説が終わり、次の短編が続くのだ思わされたくらいに。そんな私の期待を裏切り、次のページからは何事もなかったかのように次の視点で本書の続きが紡がれてゆく。他の小説を読んでいてそう思わされた経験はあまりないが、本書では何回そうやって見事にしてやられたことか。著者の力量をあらためて思い知らされた思いだ。

本書では二人の中年男が主人公だ。芸能人とその付き人。彼らを中心として物語は進む。彼らの思いはスターにさせたいなりたいというスター志望と付き人志望のもの。彼らの思惑が入り乱れる。生き馬の目を抜くといわれる慌ただしい芸能界。よほど気の利いた売り込みを図らねばあっという間に埋もれて行ってしまう。そんな世界を頼りなく進んでいく中年男達はどこに進んでいくのか。本書の語りは世界観を再現するかのようにあくまでも軽快だ。芸能界の掟に生きる二人の男とその間にいる一人の女。三人の関係を語るには軽すぎるリズムで本書は進む。著者の語りは読者を惑わせ、結末を予測させない。したがってページを繰る手も止まらない。

芸名の名字がもう片方の本名の名字というややこしい関係。そのややこしい関係は言うまでもなく著者の仕掛けたトリックの一つだが、読者はよほど注意していないと誰の話しなのか分からなくなる。片方の男の話として読んでいたはずが、実は視点が反転していていつの間にもう片方についての話が進んでいた、ということもあるかもしれない。

誰が誰のために演技をし、誰が誰のためにマネージメントをするか。本書にあっては芸の肥やしとは演技の肥やしであり、演ずることと生きることの境界がぼやけ曖昧になってゆく。柔軟で枠にはまらぬ生き方が芸能界には求められるのかもしれないが、本書のそれはあまりにもトリッキーだ。

芸能界とはパフォーマーが脚光を浴びる場所。それゆえにスターの変幻自在な生き方を支える付き人にもトリッキーさが求められる。スターをいかにきらめかせ続けるか。細切れに時間が過ぎてゆく芸能界の中で、スターとは照らされる光をあまさず集め、観客へその光を反射させ続けなければならない。付き人に求められる能力とは、照らされる光の発信源を即座に捉え、その方向にスターを向かせること。つまり感度が人一倍高いことが求められる。大衆が求めるもの、つまり光の発信源を探す能力は一朝一夕には身につかない。それはもはや才能と呼んでよいかもしれない。せわしない芸能界にあってその能力を発揮し続けることは重責であり才能だ。あるいはその能力が付き人本人を芸能界で光り輝かせるほどに発揮されることだってあるはずだ。

だが、万が一失敗すると、もはや光を照らしてくれる相手はいない。光が照らされなくなったスターはもはや輝くことはない。それはスターと一心同体の付き人も同じ。光を喪ったスターと付き人は一市民として生きて行くしかない。そんな芸能界の移ろいやすさと次々に切り替わる人々の求めるスター像。本書では光と影が交錯する芸能界の現実も描かれる。

「お客さん、今の東京の夜空じゃもう一等星だって光らないですよ」

結末に近くなってタクシー運転手が発する台詞が象徴的だ。

‘2016/03/18-2016/03/22


海賊とよばれた男


原作を読んだ時には泣かなかったのに、スクリーンの本作に泣かされた。

観る前の私の耳にちらほら漏れ聞こえてきた本作の評は、原作に比べてだいぶ端折られている、とか。果たして原作の良さがどこまで再現されているのか、不安を感じながら本作を観た。

そして、冒頭に書いたとおり泣かされた。

たしかに本作では原作から様々な場面がカットされ編集されている。その中にはよくもまあこのシーンをカットしたな、というところがなくもない。だが、私はよくぞここまで編集して素晴らしい作品に仕上げた、と好意的に思っている。

本作のパンフレットはかなり気合の入った作りで、是非読んでほしいと思うのだが、その中で原作者が2ページにわたってインタビューに答えている。もちろん原作や本作についても語っている。それによると、原作者からの評価も上々のようだ。つまり原作者からも本作の演出はありというお墨付きをもらったのだろう。

原作の「海賊とよばれた男」は、数ヶ月前に読み終えた。レビューについてもまだアップしていないだけで、すでに書き終えている。そちらに原作の筋書きや、國岡鐵造の人となりや思想については書いている。なのでこのレビューでは本作の筋書きそのものについては触れない。このレビューでは、本作と原作の違いについて綴ってみようと思う。

まず一つ目。

原作は上下二巻に分かれている。上巻では、最初の半分で戦後の混乱期を書き、残りで創業から戦前までの國岡商店の基盤づくりの時期を描く。下巻では戦後のGHQや石統との闘いを経て日章丸のイラン行き、そしてさまざまな國岡商店の移り変わりと鐵造の老境に至るまでの経緯が書かれている。つまり、過去の流れを挟んでいるが、全体としては時間の流れに沿ったものだ。

一方の本作は、戦後の國岡鐵造の時間軸で動く。その中で鐵造の追想が合間に挟まれ、そこで過去を振り返る構成になっている。この構成を小説で表現しようとすると、著者はとても神経を使い、読者もまた時間軸の変化をとらえながら読まねばならない。しかし文章と違って映像では國岡鐵造の容姿の違いを一目で観客に伝えることが可能だ。スクリーン上の時代が追想なのかそうでないか、観客はすぐ判断できる。つまり本作の構成は映像ならではの利点を生かしている。それによって、観客には本作の流れがとても理解しやすくなるのだ。

続いて二つ目。

本作では大胆なまでに様々なシーンを原作から削っている。例えば國岡鐵造が國岡商店を創業するまでの過程。ここもバッサリ削られている。國岡商店の創業にあたっては、大学の恩師(史実では内池廉吉博士)から示唆された商売人としての道(生産者より消費者への配給理念)が重要になるはずだ。しかしこのあらましは本作では省かれている。また、鐵造が石油に興味を持った経緯も全てカットされている。そういった思想的な背景は、本作のあるシーンでクローズアップされる「士魂商才」の語が書かれた額と、全編を通して岡田准一さんが演ずる國岡鐵造その人の言動から受け止めなくてはならない。この選択は、監督にとって演出上、勇気がいったと思う。

さらに大幅に削られているのが、日章丸事件の前段となるアバダン危機についての情報だ。本作では日承丸という船名になっているが、なぜ日承丸がイランまで行かねばならなかったか。この前提となる情報は本作ではほんのわずかなセリフとアバダンの人々の歓迎シーンだけで表されている。つまり、本作を鑑賞するにあたってセリフを聞き逃すと、背景が理解できない。これも監督の決断でカットされたのだろう。

また、原作下巻の半分を締める「第四章 玄冬」にあたる部分もほとんど削られている。日承丸が帰って来た後、画面にはその後の経緯がテロップとして表示される。テロップに続いてスクリーンに登場する鐵造は車椅子に乗った引退後の姿だ。日田重太郎との別れのシーンや油槽所建設、第一宗像丸遭難など、原作の山場と言えるシーンがかなり削られている。このあたりの監督の決断には目を瞠らされた。本作で木田として登場する日田重太郎との別れは、原作ではグッとくるシーンだ。しかし本作での木田は、戦後すぐの國岡商店の苦闘の中で、すでに写真の中の人物になってしまっている。木田との別れのシーンをカットすることで、上映時間の短縮の効果とあわせ、戦後復興にかける鐵造の想いと恩人木田への想いを掛け合わせる効果を狙っているのだろう。

さらに三つ目。

大胆にあちこちのシーンをカットする一方で、本作には監督の演出上の工夫が随所に施されている。アバダンを出港した日承丸が英国艦隊による拿捕を避けながらマラッカ海峡から太平洋に抜ける途中、英国軍艦と真正面に対峙するシーンがある。実は原作には本作に書かれたような船同士が対峙するシーンはない。原作で描かれていたのはむしろ国際法や政治関係上の闘争の方が主。アバダンからの帰路の描写はアレ?と拍子抜けするほどだった。しかし、それだと映像的に弱い。監督は映像的な弱さを補うため、本作のように船同士を対峙させ、すれすれですれ違わせるような演出にしたのだろう。それはそれで私にも理解できる。ただ、あんな至近距離ですれ違う操舵が実際に可能なのか、というツッコミは入れたいところだが。

もう一つ大きな変更点がある。それは東雲忠司という人物の描かれ方だ。本作で吉岡秀隆さんによって演じられた東雲は、かなり血肉の通った人物として描かれている。日承丸をイランに派遣するにあたって東雲が店主鐵造に大いに反抗し、番頭格の甲賀から頰を張られるシーンがある。このシーンは原作にはなく、監督独自の演出だ。でも、この演出によって戦時中の辛い思い出が思い起こされ、悲劇を乗り越えさらに國岡商店は進んで行かねばならない、という店主鐵造の想いの強さが観客に伝わる。この演出は原作者もパンフレットで認める通り、原作にない映画版の良さだと思う。

もう一つ、大きく違う点は弟正明の不在だ。正明は原作ではかなり主要な人物として登場する。戦時中は満鉄の部長であり、戦後は帰国して鐵造の片腕となった。だが、本作では全く登場しない。どういう演出上の意図があったのだろう。その理由を考えるに、そもそも本作では日承丸以降の出来事がほとんど描かれない。原作では日章丸事件以降も話はまだ終わらず、國岡商店を支える鐵造の後継者たちも交替していく様が書かれる。ところが本作からは後継者という要素が見事に抜け落ちている。國岡鐵造という人物を描くにあたり、監督は鐵造一人に焦点を合わせようとしたのではないか。そのため、後継者という要素を排除したのではないか。そして、後継者を排除した以上、正明を登場させるわけにはいかなかったのだと思う。

あと一つ、原作ではユキの大甥からの手紙が鐵造の元に届く。だが本作では、看護婦に連れられ車椅子に乗った鐵造が大姪の訪問を受ける設定に変わっている。ユキが残したスクラップブックを見、最後に挟まれていた二人で撮った写真を見て号泣する鐵造。観客の涙を誘うシーンだ。私が泣いたのもここ。手紙という伝達方法に比べると、直接映像で観客に届ける演出のほうが効果は高いに違いない。また、原作では子を産めないユキが、鐵造に相対してその旨をつげ、自ら身を引くという描写になっている。しかし、本作ではユキを引き合わせてくれた兄がユキからの手紙を鐵造に託ける設定となっており、ユキは姿を見せない。そしてユキからの手紙には、仕事でのすれ違いが原因で寂しさの余り身を引いたということが書かれている。原作の描写は時代背景を差し引いてもなお、女性にとって複雑な想いを抱かせかねない。監督はその辺りを配慮して、本作では子が産めないから自ら身を引くという描写ではなく、寂しいからという理由に和らげたのではないかと思う。

ここまで観ると、原作に比べて人名や船名が変わっていることも理解できる。日章丸と日承丸。日田重太郎と木田章太郎。新田船長と盛田船長。どれもが監督の演出によって原作と違った言動になった人物だ。その変化を宣言するためにも、登場人物の名前は変わらなければならなかった。そういうことだと私は受け止めている。

原作と映像作品は別物、と考える私は、本作で監督が施した一切の演出上の変更を支持したい。よくぞここまでまとめきったと思う。

そして監督の演出をスクリーン上に表現した俳優陣の頑張りにも拍手を送りたい。実は私は岡田さんを映画のスクリーンで観るのは初めて。同じ原作者による「永遠の0」も岡田さん主演だが、そちらもまだ観ていないのだ。そんな訳で初めて観た岡田さんの、20代から90代までの鐵造を演じ切ったその演技力には唸らされた。もはやジャニーズと言って鼻で笑うような人は私を含めていないのではないだろうか。その演技は一流俳優のそれだ。年齢に合わせて声色が替わり、鐵造の出身地である福岡訛りも私にすんなりと届いた。そもそも、最近のハリウッド作品で嫌なところがある。舞台が英語圏でないのに、役者たちが平気で英語を喋っていることだ。だが、本作ではそのあたりの
配慮がきちんとされていた。鐵造の福岡訛りもそうだし、GHQの将校の英語もそう。これはとてもうれしい。

他の俳優陣のみなさんもいちいち名前はあげないが、若い時分の姿から老けたところまでの、半纏を羽織って海へ乗り出して行く姿と背広を着てビジネスマン然とする姿、オイルタンクに潜って石油を組み上げる姿の喜びようなど素晴らしい演技で本作を支えていた。あと、ユキを演じた綾瀬はるかさんの演技も見逃すわけにはいかないだろう。ユキは、原作と違ってが何も言わず鐵造の元を去る。つまり、それまでのシーンで陰のある表情でその伏線を敷いておかねばならない。そして綾瀬さんの表情には決意を秘める女性のそれが刻まれていたと思う。その印象が観客の印象に残っていたからこそ、車椅子に乗った鐵造が大姪から見せられたスクラップブックと二人で撮った写真を見て慟哭するシーンの説得力が増すのだ。

本作を観たことで、俄然俳優岡田准一に興味がわいた。時間ができたらタオルを用意して「永遠の0」を観ようと思う。

’2017/01/07 イオンシネマ新百合ヶ丘


マダム・フローレンス! 夢見るふたり


この映画は、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれない。喜怒哀楽。観終わった観客はいろいろな想いを抱く事だろう。私もそうだった。私の場合は二つの相反する想いが入り混じっていた。

一つは、夫婦愛の崇高さへの感動。もう一つは、表現という行為の本質を理解しようとしない人々への怒りと悲しみ。

一緒に観に行った妻は感動して泣いていた。本作でヒュー・グラントが演じたのは、配偶者の夢を支えようとするシンクレア・ベイフィールド。その献身ぶりは観客の心を動かすだけのものはある。ヒュー・グラントのファンである妻はその姿に心を動かされたのだろう。

一方、メリル・ストリープ扮するマダム・フローレンスは純真そのもの。自分に歌手としての天分があり、自分の歌声が人々の癒しとなることを露ほども疑っていない。だが、彼女の無垢な想いは、NYポスト紙の劇評によって無残に汚されることになる。その劇評は、カーネギーホールで夢叶えた彼女のソロリサイタルについて書かれていた。彼女の無垢な夢は、叶った直後に汚されたことになる。そればかりか、その記事で彼女は現実を突きつけられることになる。人々が自分の歌声を嘲笑っており、自分は歌手に値しない存在という容赦ない現実を。夢を持ち明るく振舞うことで長年患っていた梅毒の進行をも止めていた彼女は、現実を突きつけられたことで気力を損ない、死の床に追いやられる。彼女が長い人生で掴んだものは不条理な虚しさでしかなかったのか。その問いは、観客によっては後味の悪さとして残るかもしれない。

籍は入れてなかったにせよ、最愛の伴侶のために25年もの長きにわたって献身的にサポートしてきたベイフィールドの努力は無に帰すことになる。ベイフィールドの献身的な姿が胸に迫れば迫るほど、救いなく死にゆく彼女の姿に観客の哀しみは掻き立てられるのだ。

だが、彼女の不条理な死は本当に救いのない死、なのだろうか。君の真実の声は美しい、と死に行く妻に語る夫の言葉は無駄になってしまったのだろうか。

ラストシーンがとても印象に残るため、ラストシーンの印象が全体の印象にも影響を与えてしまうかもしれない。だが、ラストシーンだけで本作の印象を決めてしまうのはもったいない。ラストシーンに至るまでの彼女は、ひたむきに前向きに明るく生きようとしている一人の女性だ。たとえ自らが音楽的な才能に恵まれていると勘違いしていようとも、才能をひけらかすことがない。ただ健気に自らをミューズとし、人々に感動を与えたいと願う純真な女性だ。

彼女の天真爛漫な振る舞いの影に何があったのか。時間が経つにつれ、彼女の人生を覆ってきた不運の数々が徐々に明らかになってゆく。そして、彼女を夢の世界にいさせようとする懸命な夫の努力の尊さが観客にも伝わってゆく。

明るく振る舞う彼女の人生をどう考えるか。それは、本作の、そして史実のマダム・フローレンスへの評価にもつながるだろう。彼女が勘違いしたまま世を去ることこそ彼女の人生への冒涜とする見方もある。彼女の脳内に色とりどりの花を咲かせたままにせず、きちんと一人の女性として現実を認めさせる。そして、そんな現実だったけれども自分には愛する夫が居て看取られながら旅立てるという救い。つまり、彼女を虚しいお飾りの中に住む女性ではなく、一人の人間として丁重に見送ったという見方だ。

私には、本作でのメリル・ストリープの演技がそこを目指しているように映った。一人の女性が虚飾と現実の合間に翻弄され、それでも最期に救いを与えられる姿を演じているかのように。

実際、本作におけるメリル・ストリープの演技は、純な彼女の様子を的確に表現していたように思う。リサイタル本番を前にした上ずった様子。ヤジと怒号に舞台上て立ちすくみ、うろたえる姿。幸せにアリアを絶唱する立ち姿。それでいて、その姿を能天気に曇りなく演ずるのではなく、自らを鼓舞するように前向きに生きようとする意志をにじませる。そういった複雑な内面を、メリル・ストリープは登場シーン全てで表現する。まさに大女優としての技巧と人生の重みが感じられる演技だ。本作では髪が命の女優にあるまじき姿も披露している。彼女の演ずる様は、それだけでも本作を観る価値があると言える。

ただ、私にとって彼女の演技力の成否が判断できなかった点がある。それは、マダム・フローレンスが音痴だったことが再現できているのか、ということだ。

そもそも、マダム・フローレンスは音痴だったのだろうか。実在のマダム・フローレンスの音源は、今なおYouTubeで繰り返し再生され、かのコール・ポーターやデヴィッド・ボウイも愛聴盤としていたという。カーネギーホールのアーカイブ音源の中でもリクエスト歴代一位なのだとか。そういった事実から、彼女の歌唱が聞くに耐えないとみなすことには無理がある。

音源を聴く限りでは、確かに正統な声楽の技術から見れば型破りなのだろう。コメディやパロディどころではない嘲笑の対象となったこともわかる。でも、病的な音痴という程には音程は外していないように思える。むしろそれを個性として認めても良い気がするほどだ。コール・ポーターやデヴィッド・ボウイが愛聴していた理由は知らないが、パフォーマーとして何か光るモノを彼女の歌唱から感じ取ったに違いない。

そう考えると、メリル・ストリープの歌唱がどこまでオリジナルを真似ていたのか、彼女の歌唱が音痴だったかはどうでもよいことになる。むしろ、それをあげつらって云々する事は彼女の音楽を浅薄に聴いていること自ら白状していることに他ならない。つまりは野暮の極みということ。

だが、本作を理解するには彼女の歌唱の判断なしには不可能だ。歌唱への判断の迷いは、本作そのものについての判断の迷いにも繋がる。冒頭に、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれないと書いたのは、その戸惑いによるところが大きいと思う。

その戸惑いは、彼女を支える男性陣の演技にもどことなく影響を与えているかのように思える。配偶者のシンクレア・ベイフィールドに扮するヒュー・グラントの演技もそう。

シンクレア・ベイフィールドは、単に自己を犠牲にしてマダム・フローレンスに尽くすだけの堅物男ではない。俳優の夢を諦めつつ、舞台への関わりを断ち切れない優柔不断さ。彼女が梅毒患者であるため性交渉を持てないために、妻合意の上で愛人を他に持つという俗な部分。また、彼の行いが結果として、伴侶を夢の中に閉じ込めたままにし、彼女の人生を冒涜したと決め付けてしまう事だって可能だ。それこそ体のいい道化役だ。 単なる品行方正な朴念仁ではなく、適度に人生を充実させ、気を紛らわせては二重生活を続けるベイフィールドを演ずるには、ヒュー・グラントは適役だろう。

複雑な彼の内面を説明するには、マダム・フローレンスの歌唱を内縁の夫としてどう評価していたか、という考察が不可欠だ。本作でヒュー・グラントはそれらのシーンを何食わぬ顔で演じようとしていた。だが、彼のポーカーフェイスがベイフィールドの内面を伝え切れたかというといささか心もとない。とくに、彼女の歌唱の上手い下手が判断できなかった私にとってみると、ベイフィールドの反応から、彼がどう感じていたかの感情の機微がうまく受け止められなかった。裏読みすれば、ベイフィールドの何食わぬ顔で妻を褒める態度から25年の重みを慮ることが求められるのだろうか。

また、彼女のレッスンやリサイタルにおいて伴奏を務めるコズメ・マクムーンの役どころも本作においては重要だ。

初めてのレッスンで彼は部屋を出るなり笑いの発作に襲われる。だが、ベイフィールドからの頼みを断れず、恥をかくこと必至なリサイタルに出ることで、ピアニストとしての野心を諦める。カーネギーホールでの演奏経験を引き換えにして。そういった彼の悩みや決断をもう少し描いていればよかったかもしれない。

具体的には、マダム・フローレンスがいきなりマクムーンの家を訪ねてきて、彼女の中の孤独さに気づくシーンだ。あのシーンは本作の中でも転換点となる重要な箇所だと思う。あのシーンで観客とマクムーンは、マダム・フローレンスの無邪気さの中に潜む寂しさと、彼女が歌い続けるモチベーションの本質に気づく。マクムーンがそれに気づいたことを、本作はさらっと描いていた。しかし、もう少しわかりやすいエピソードを含めて書いてもよかったのではないか。そこに、彼女の歌唱が今なお聴き続けられる理由があるように思うのに。

なぜ、マクムーンが彼女に協力する事を決めたのか。なぜ一聴すると聴くに耐えないはずの彼女の歌唱がなぜ今も聴き継がれているのか。なぜ、リサイタルの途中で席を立った記者は辛辣な批評で彼女の気持ちを傷つけ、その他の観客は席を立つ事なく最後まで聴き続けたのか。なぜ、最初のリサイタルでは笑い転げていたアグネス・スタークは、野次る観客に対し彼女の歌を聴け!と声を挙げるまでになったのか。

歌うことは、自己表現そのものだ。彼女の歌には下手なりに彼女の音楽への希望がこめられている。そして苦難続きだった前半生から解放されたいという意志がみなぎっている。その意志を感じた人々が、彼女の歌に愛着を感じたのではないだろうか。彼女の歌がなぜ、愛されているのか。その理由こそが、ここに書いた理由ではないだろうか。

‘2016/12/4 イオンシネマ新百合ヶ丘