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憂鬱でなければ、仕事じゃない


本好きにとって幻冬舎は気になる出版社だ。後発でありながら、右肩下がりの出版業界で唯一気を吐いている印象がある。その幻冬舎を設立し、今も率いる社長の見城氏は気になる人物の一人だ。また、サイバーエージェントといえば、ITバブルの弾ける前から確かな存在感を発揮していた会社。同じ業界の端くれで中途半端な立ち位置に居続けた私にとっては仰ぎ見る存在だった。しかも、本作を読んで気づいたのだが、サイバーエージェントを創立し、今も率いる藤田氏は私と同い年。今の私と藤田氏を比べると実績や名声、財産にはかなりの開きがある。もとより私がそういう類いの物に価値を見いださないのは承知の通り。だが、それをさておいても、私と藤田氏の経験の差は歴然としている。本書を読んだ私が思うことはたくさんある。

その二人によって編まれた本作は、とても刺激的だ。タイトルからしてただならぬ雰囲気を漂わせている。

だが本書を読む前の数日間、関西でリフレッシュした私にとっては、本書でどう厳しいことを言われようとも糧にできる。そんな私の期待に本書は応えてくれた。そして、本書は私の甘えにガツンと来る手応えがある。

本書をカテゴリーにくくるとすればビジネス書の類いだ。だが、ビジネス書として片付けるには本書はもったいない。本書は人生論でもあり、分かりやすい哲学書でもある。いかに生き、いかに死を迎えるか。それが二人の話者によって縦横に語られる。

二人の語りを収めるにあたり、本書には工夫が成されている。その工夫とは、あえて対談形式を捨て、二人のそれぞれがエッセイ形式で書き上げていることだ。本書が世に出るまでに、二人は何度も対談を重ねたのだろう。前書きで藤田氏が語っているように、2010年後半から2011/3/11まで二人で何度も会ったそうだ。何度も話し合ったあった結果、本書のような形に落ち着いたのだろう。それが肯ける。

ただ、対談形式にしただけではライブ感は出ても論点がぼやけやすい。そこで二人の対談の結果をいくつかの論点に分けたのだと思う。論点を分けた上でそれぞれの論点に合わせて二人がエッセイのような文章を書く。それを章ごとのフォーマットとして一貫させる。そのフォーマットとは以下の感じだ。まずは見城氏がラジカルな挑発で読者の感性やプライドをかき回す。それで読者の血圧を少し上げたところで、藤田氏の冷静な筆致がそれを補強する。

各章のタイトルは、見城氏の文章のフレーズが当てられている。そのフレーズはさすが編集者と言うべき。キャッチーなコピーが見城氏の文からは飛び出してくる。本書のタイトルもその一つ。だが他にも、魅力的なタイトルがずらりと並んでいる。

たとえば
・自己顕示と自己嫌悪は「双子の兄弟」
・努力は自分、評価は他人
・スムーズに進んだ仕事は疑え
・パーティには出るな
・「極端」こそわが命
・これほどの努力を、人は運という
・ふもとの太った豚になるな。頂上で凍え死ぬ豹になれ
・良薬になるな。劇薬になれ
・顰蹙は金を出してでも買え
などなど。

私の場合は、「自己顕示と自己嫌悪は「双子の兄弟」」がもっともピンと来た。私自身、おのれの能力の足りなさ加減に時々いらつくことがある。特に記憶力。識りたいことがたくさんあるのに一度では覚えられない記憶力の悪さ。しかもそれが近ごろ低下していることを自覚する。私の中にもある自己顕示は、私の中にある自己嫌悪を備えてようやく両立するのだと。

また、私が一番耳が痛かったのは「 スムーズに進んだ仕事は疑え 」だ。弊社のような原価がすなわち人件費となる業界は、工数が少なく済めばその分、利益率の増加につながる。しかし見城氏の文をよく読むと、「大事なのは、費やした時間ではない。仕事の質である。(49P)」が主旨であることがわかる。つまりこれは困難に立ち向かいつつ、ただ時間を掛ければ評価される風潮へのアンチテーゼなのだ。であるならば見城氏の言葉は、スムーズに進んだ仕事は質に見落としがないか疑い、問題なければ間髪入れずに次の仕事に取り掛かれ、と読み取れる。

あと「パーティには出るな」の下りもそう。ここ半年ほど、交流会やSNSなど広く浅くの付き合いを見直そうとしている私を後押ししてくれる章だった。

「これほどの努力を、人は運という」の章もそう。努力のアピールが全く無駄なことはよく分かっている。経営者の立場では結果でしか評価されないことも。

あと「ふもとの太った豚になるな。頂上で凍え死ぬ豹になれ」の章もそう。独立にあたって私が自分に何度も言い聞かせたのが、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の言葉。史記に原典のあるこの言葉を何回私は念じたことか。見城氏がいう凍え死んだ豹とはヘミングウェイの短編に登場する一文のようだ。私もまさに凍え死んだ豹でありたいものだ。

本書には他にも刺激的な言葉が並ぶ。だが、見城氏ほどの実績を残した方の口が語ると説得力がある。そしてこれらの言葉からは、私もまだまだ人付き合いにおいて甘いな、と思える。本書は私が関西への旅から戻って読み始めた。関西の旅では何回も飲み会や面会を持ち、旧交を温めた。この旅は私がSNSに費やす時間を減らし、表面だけでなく深い関係を持ちたい。それも少人数の会合で、という意図で行った旅だった。その旅から帰ってきてすぐ、本書を読み始めた。そして、付き合いの質を変えようとする私の決断が本書によって後押しされたと同時に、まだまだ私の仕事の仕方や商談に臨む場の覚悟に足りない点があったと反省した。

そして、どんな小さなことでも頼まれごとは忘れないという見城氏の言葉にも、私もわが身を省みて汗顔の至りだ。この関西の旅で、私は一つの約束事をした。それは「アクアビット航海記」のブログを印刷し、郵送することだ。戻って一年近くたつが、まだできていない。早くやらねば。

なお、本稿のように本書を紹介することで、本書が根性論や精神論に満ちた一冊と思われるかもしれない。でも本書はモーレツ社員の養成書ではないのだ。きちんと余暇やスポーツの効用も謳っている。見城氏は週六日ジムに通うそうだ。それに刺激を受けた藤田氏もジムに通う日数を増やしたとか。私は本音ではジムで機械的に体を鍛えるより、山や地方を歩き回って体を鍛えたい。だが、仕事だけが人生でないことを本書が語っていることは言い添えておかないと。もちろん、本書に充ちている気づきのヒントは生かさねばならないのだが。

あと、それに対する藤田氏のコメントで、寝ないと能率が落ちるというのがあった。それは同い年代として安心した。結局、寝不足の自慢も結果が伴わなければなんの意味もないのだから。

本書を読んでいると、熱い見城氏のコメントに対する一見、冷静に思える藤田氏のコメントがじわじわ効いてくる。実は私は藤田氏が述べていることのほとんどに頷けた。それはもちろん、見城氏の刺激的な言葉を読み、私の心の風通しが良くなったからなのだが。

もう一つ、書いておかねばならない。それは本書が講談社から出されたことだ。見城氏は自社の幻冬舎で本書を企画してもよかったはず。なのに、ライバル社の企画にも全力で取り組んだ。そしてこうして素晴らしい本を作った。本書の冒頭の章のタイトルは「小さなことにくよくよしろよ」だが、おそらく出版社の垣根などということは、見城氏にとっては小さなことですらなく、本質的なことでもないのだろう。そこに見城氏のスケールを感じる。

本書によって私はお二人にとても興味を抱いた。もし私が今のまま頑張ったとして、遥か先を歩くお二人は遠い。早く追いつけるよう精進したい。

‘2018/03/08-2018/03/09


The Greatest Showman


私が、同じ作品を映画館で複数回みることは珍しい。というよりも数十年ぶりのことだ。私が子供の頃は上映が終わった後もしばらく客席にいれば次の回を観ることができた。今のように座席指定ではなかったからだ。だが、いまやそんな事はできない。そして私自身、同じ映画を二度も映画館で観る時間のゆとりも持てなくなってきた。

だが、本作は妻がまた観たいというので一緒に観た。妻子は三度目、私は二度目。

一度目に観た時。それは素晴らしい観劇の体験だった。だが、すべてが初めてだったので私の中で吸収しきれなかった。レビューにもしたため、サウンドトラックもヘビーローテーションで聞きまくった。それだけ本作にどっぷりはまったからこそ、二度目の今回は作品に対し十分な余裕をもって臨むことができた。

二回目であっても本作は十分私を楽しませてくれた。むしろ、フィリップとバーナムがバーのカウンターで丁々発止とやりあう場面、アンとフィリップがロープを操りながら飛びまわるシーンは、前回よりも感動したといってよい。この両シーンは数ある映画の中でも私の記憶に刻まれた。

今回、私は主演のヒュー・ジャックマンの表情に注目した。いったいこの映画のどこに惹かれるのか。それは私にとってはヒュー・ジャックマンが扮したP・T・バーナムの生き方に他ならない。リスクをとってチャレンジする生き方。バーナムの人生観は、上にも触れたフィリップをスカウトしようとバーでグラスアクションを交えながらのシーンで存分に味わえる。ただ、私はバーナムについてよく知らない。私が知るバーナムとはあくまでも本作でヒュー・ジャックマンが演じた主人公の姿だ。つまり、私がバーナムに対して魅力を感じたとすれば、それはヒュー・ジャックマンが表現した人物にすぎない。

ということは、私はこの映画でヒュー・ジャックマンの演技と表情に惹かれたのだ。一回目の鑑賞ではそこまで目を遣る余裕がなかった。が、今回はヒュー・ジャックマンの表情に注視した。

するとどうだろう。ヒュー・ジャックマンの表情が本作に力を漲らせていることに気づく。彼の演技がバーナムに魅力を備えさせているのだ。それこそが俳優というものだ。真の俳優にセリフはいらない。真の俳優とはセリフがなくとも表情だけで雄弁に語るのだ。本作のヒュー・ジャックマンのように。

本作で描かれるP・T・バーナムは、飽くなき挑戦心を持つ人物だ。その背景には自らの生まれに対する反骨心がある。それは彼に上流階級に登り詰めようとする覇気をもたらす。

その心のありようが大きく出るのが、バーナムとバーナムの義父が対峙するシーンだ。本作では都度四回、バーナムと義父が相まみえるシーンがある。最初は子供の頃。屋敷を訪れたバーナムが淑女教育を受けているチャリティを笑わせる。父から叱責されるチャリティを見かねたバーナム少年は、笑わせたのは自分だと罪を被り、義父から張り手をくらわされる。このシーンが後々の伏線になっていることは言うまでもないが、このシーンを演じるのはヒュー・ジャックマンではなく子役だ。

次は、大人になったバーナムがチャリティ家を訪れるシーンだ。この時のバーナムは意気揚々。自信満々にチャリティをもらい受けに訪れる。ヒュー・ジャックマンの表情のどこを探しても臆する気持ちや不安はない。顔全体に希望が輝いている。そんな表情を振りまきながら堂々と正面から義父に対し、その場でチャリティを連れて帰る。

三度目は、パーティーの席上だ。ここでのバーナムはサーカスで名を売っただけに飽き足らず、ジェニー・リンドのアメリカ公演の興行主として大成功を収めたパーティーの席上だ。上流階級の人々に自分を認めさせようとしたバーナムは、当然認めてもらえるものと思いチャリティの両親も招く。バーナムは義父母をリンドに紹介しようとする。ところが義父母の言動がまだ自分を見下していることを悟るや否や、一言「出ていけ」と追い出す。この時のヒュー・ジャックマンの表情が見ものだ。バーナムはおもてでは愛嬌を振りまいているが、裏には複雑な劣等感が潜んでいる。そんな複雑な内面をヒュー・ジャックマンの表情はとてもよく表していた。そしてチャリティの両親をパーティーから追い出した直後、乾杯の発声を頼まれたバーナムは、堅い表情を崩せずにいる。さすがにむりやり微笑んで乾杯の発声を務めるが、その自らの中にある屈託を押し殺そうとするヒュー・ジャックマンの表情がとてもよかった。

なぜ私はこれほどまでに彼の義父との対峙に肩入れするのか。それは、私自身にも覚えのある感情だからだ。自らの境遇に甘んじず、さらに上を目指す向上心。その気持ちは周りから見くだされ、軽んじられると発奮して燃え上がる。だが、燃え上がる内面は押し隠し、愛嬌のある自分を振る舞いつづける。この時のヒュー・ジャックマンの顔つきは、バーナムの内面の無念さと焦りと怒りをよく表していたと思う。そして結婚直前の私の心も。

四度目は、再びバーナムが実家に戻ったチャリティを迎えに行くシーンだ。火事で劇場を失い、ジェニー・リンドとのスキャンダル報道でチャリティも失ったバーナム。彼がFrom Now On、今からやり直そうとチャリティの屋敷に妻子を取り戻しに行くシーンだ。ここで彼は、義父に対して気負わず当たり前のように妻を取り戻しに来たと伝える。その表情は若きバーナムが最初にチャリティをもらい受けに乗り込んだ時のよう。ここで義父に対して媚びずに、そして勝ち誇った顔も見せない。これがよかった。そんな見せかけの虚勢ではなく、心から自らを信じる男が醸し出す不動の構え。

よく、悲しい時は無理やり笑えという。顔の表情筋の動きが脳に信号として伝えられ、悲しい気分であるはずの脳がうれしい気分だとだまされてしまう。その生活の知恵はスクリーンの上であっても同じはず。

本作でヒュー・ジャックマンの表情がもっとも起伏に満ちていたのが義父とのシーン。ということは、本作の肝心のところはそこにあるはずなのだ。反骨と情熱。

だが、一つだけ本作の中でヒュー・ジャックマンの表情に精彩が感じられなかったシーンがある。それはジェニー・リンドとのシーンだ。最初にジェニー・リンドと会う時のヒュー・ジャックマンの表情はよかった。ジェニー・リンドの歌声をはじめて舞台袖で聞き、公演の成功を確信したバーナムの顔が破顔し、安堵に満ちてゆく様子も抜群だ。だが、ジェニー・リンドから女の誘いを受けたバーナムが、逡巡した結果、話をはぐらかしてリンドから離れるシーン。ここの表情がいまいち腑に落ちなかった。もちろんバーナムは妻への操を立てるため、リンドからの誘惑を断ったのだろう。だが、それにしてはヒュー・ジャックマンの表情はあまりにも曖昧だ。ぼやけていたといってもよいほどに。もちろんこのシーンではバーナムは妻への操とリンドとの公演、リンド自身の魅力のはざまに揺れていたはずだ。だから表情はどっちつかずなのかもしれない。だが、彼が迷いを断ち切るまでの表情の移り変わりがはっきりと観客に伝わってこなかったと思う。

それはなぜかといえば、このシーン自体が曖昧だったからだと思う。リンドはせっかく秋波を投げたバーナムに振られる。そのことでプライドを傷つけられ公演から降りると啖呵を切る。そして金のために自分を利用したとバーナムを攻め、スキャンダルの火種となりかねない別れのキスを舞台でバーナムにする。ところが、公演を降りるのはいささか唐突のように思える。果たしてプライドを傷つけられただけですぐに公演を降りるのだろうか。おそらくそこには、もっと前からのいきさつが積み重なった結果ではないだろうか。それは、映画の上の演出に違いない。そもそも限られた時間で、リンドは誘惑し、バーナムがリンドから誘惑に初めて気づき、その場でさりげなく身をかわす。そんなことは起こるはずがない。それは映画としての演出上の都合であって、それだけの時間で演出をしようとするから無理が生じるのだ。Wikipediaのジェニー・リンドの項目を信じれば、リンドが公演を降りたのは、バーナムの強引な興業スケジュールに疲れたリンドからの申し出だとか。それがどこまで真実かはわからない。が、本作ではあえて劇的な方法で二人を別れさせ、リンドとバーナムのスキャンダルにつなげたいという脚本上の意図があったのだろう。だが、その意図が練られておらず、かえってヒュー・ジャックマンからも演技の方向性を隠してしまったのではないか。それがあのような曖昧な表情につながってしまったのではないかと思う。

他のシーンで踊り歌うヒュー・ジャックマンの表情に非難をさしはさむ余地はない。だからこそ、上のシーンのほころびが惜しかった。

‘2018/04/02 イオンシネマ多摩センター