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ポール・マッカートニー ビートルズ神話の光と影


私にとってビートルズはベストワンのミュージシャンではない。しかし、ロックの歴史でオンリーワンを挙げろと言われれば、文句無しにビートルズを挙げる。彼らはまさに偉大な存在だ。私が生まれた時、すでにビートルズはこの世にはいなかった。にもかかわらず、彼らは私にも影響を与えている。彼ら以降に登場したミュージシャンの多くを通して。

私はビートルマニアではないし、彼らのファッションには特に感銘を受けていない。彼らの他にも好きなミュージシャンは多数いる。だが、彼らの生み出したアルバムは今も聴くし、好きな曲もたくさんある。

私は自分の好きな曲を“Google Music”でリストにしている。私の好みの順に並べて。そのリストの百位以内でビートルズの四人が作った曲をピックアップしてみた。3曲目「woman」、17曲目「(Just Like) Starting Over」、30曲目「Here,There And Everywhere」、36曲目「all those years ago」、43曲目「strawberry fields foerver」70曲目「come together」、76曲目「please please me」。ジョンの曲が多い。7曲のうち5曲を占めている。そして、ポールの作曲した曲は一曲しか含まれていない。そのことが意外だった。

しかも、ビートルズの解散後にポールが発表した曲が一曲も入っていない。ウィングスやソロ作、マイケル・ジャクソンやスティーヴィー・ワンダー、エルビス・コステロとのコラボ作もランク外だ。「Yesterday 」「Let It Be」「Hey Jude」など、ポールがビートルズ時代に生み出したメロディは不滅だ。メロディーだけ取り上げるなら、ポールは天才といってよい。ジョンよりも遥かに優れたメロディーを多く作ったのはポールのはず。なのに、ビートルズ解散後にポールが発表した曲が私の印象に残っていないのはどうしたわけだろう。

その鍵を解くにはジョンの存在が欠かせない。ジョン・レノンとの複雑なライバル心と友情をはらんだ関係。そのライバル心や友情がポールの才能を引き出したことはまぎれもない事実だろう。本書には、ポールの視点に沿ったジョンとの出会い、友情…緊張、そして反目の日々が描かれている。

ポールの側に立っているため、本書はジョンには辛い。オノ・ヨーコにも辛辣だ。ビートルズの前身バンド、クォリーメンにポールが加入した時点で、ジョンに「リーダーは俺だ」という感情があったことを本書は指摘する。確かにポールとジョンには固い友情がむすばれた。だがしょせん、二人の生まれ育った環境は違っていた。そのことを著者は幾度となく読者に伝える。

アッパーミドル階級の両親のもと、小ブルジョアの価値観の元で育ったポール。それに比べ、労働者階級に生まれたジョンはシニカルで世の中に対する反抗をあからさまにしていた。ポールの母が若くして亡くなったことでポールがロックに自らの感情のはけ口を求め、同じく父を亡くしていたジョンとの距離は縮まった。とはいえ、それは違いすぎていた二人のバックボーンの差を埋めるまでにはいかなかった。著者はその事実を踏まえた上で、それほど生まれが違った二人だったからこそ互いを補い合え、音楽という一点で最強のタッグになりえたのだと主張する。

ところが、二人の素朴な思いを遙かに超え、ビートルズは規格外の成功を収めてしまう。ブライアン・エプスタインがマネジャーとして関わるまではまだ良かった。ジョージ・マーティンが非凡にプロデュースを行い、その判断でピート・ペストを首にするまでも。だがビートルマニアが世界を席巻した途端、ビートルズは彼ら自身にとっても手に負えない、地球上でもっとも富を生むアイコンと化してしまう。

本書はそのあたりの出来事を描き、名声が彼らを縛ってゆく様子をたどってゆく。リバプールの若者が好きな音楽で身を立てようとした思い。その思いから遙かに巨大になったビートルズはビジネスの対象になってしまった。ビートルズの利権を巡ってさまざまな有象無象が集ってくる。そしてビジネスの事など何も知らないビートルズのメンバーとマネージャのブライアン・エプスタインから金を巻き上げてゆく。ポールはその状況に我慢がならず、ビジネスのスキルを磨こうとする。さらには、ビートルズの音楽にも新たな地平をもたらそうとする。

その努力が「リボルバー」や「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」となって結実する。ジョンは成功とドラッグに溺れ、ビートルズの主導権はジョンからポールに移る。リーダーの座を奪われたことに我慢ならないジョンとポールの間には隙間風が吹き始め、さらには反目へと至ってしまう。

アラン・クラインはエプスタインが亡くなった後、ビートルズの財政を一手に握った人物だ。この人物の悪評はいろいろと伝えられている。ポールが徹底してアラン・クラインに非協力を貫き、ポールがビートルズのビジネス面の手綱を取り戻すため、婚約者リンダの父リー・イーストマンにマネージメントを任せたことなど、あらゆるポールの動きはジョンの心を逆なでする。ミュージシャンからビジネスマンの視点を備えようとしたポールと、自分の思い描くミュージシャンの理想にあくまで忠実であろうとしたジョンの反目。

ビジネスの利権が彼らの才能とその果実をかたっぱしからついばみ、さらにはヨーコやリンダといった周囲の女性が事態をややこしくした。ポールがビートルズをどれだけ継続させようと心を砕いても、全ては空回りし裏目に出る。ビートルズはポールが解散宣言を出したことが解散への引き金を引いたと一般には言われている。だが、実は内々ではジョンが最初に脱退の意志を示したという。そのことは本書を読んで初めてしった。

ジョンとポールの間に生じた微妙な心のすれ違いを本書は描いていく。私はビートルズが解散に至るあらましはある程度は理解していた。けれど、本書を読むとビートルズの解散が避けようもなかったことが納得できる。行き過ぎた成功は、成功した当人をもむしばむ。そして当人たちにも害を与えるものへと変質する。ポールはそれに気づいたのだろう。本書から学べるのは、成功とは入念にイメージされた状態でなされるのが理想ということだ。

ビートルズが解散する前後、ポールがどれほど精神面で落ち込んだか。ポールが二作のソロ作品を世に問い、そこからウィングス結成に至った理由とは。その理由やいきさつも本書は描いている。

リンダ・マッカートニーがウィングスのメンバーだったことは私も知っていた。だが、それはリンダの意志ではなく、ポールの強い意志によるものだったこと。実はリンダ本人はウィングスのメンバーであり続けることに苦痛を感じていたことなどは、本書で初めて知った。

そしてジョンの死去。私が本書を読んだ理由は、ジョンの死に対するポールの感情を知りたかったからだ。ポールが泣いたことや、レポーターから感想を聞かれて「It’s a Drag」と言ってしまったことなどが本書には紹介されている。そしてとうとう、ジョンとポールが仲良く語り合うことがなかったことも。

ところが、Wikipediaのジョンの項を読むと、違うことが書かれている。ここに書かれたエピソードが本当であれば、ぜひその事実は本書にも紹介して欲しかった。ジョンにつらく当たっている本書だからこそ。

もう一つ本書に紹介されていることがある。それはジョンが死ぬ年の一月のこと。ポールが成田空港で麻薬取締法違反で逮捕されている。その時のいきさつは本書には詳しい。そして私は詳しいことを本書で初めて知った。

本書はポールの50歳を機に書かれた。80年代に著名なミュージシャンとコラボレーションに挑んだことや、リヴァプール・オラトリオの新たな試みなど。それにもかかわらず、著者はポールの才能にかつての鋭さがなくなったことを指摘している。残念ながら私も同じ意見だ。著者が本書でジョンを辛く書けば書くほど、ポールにとってジョンが欠かせない親友だったことが伝わって来る。マイケル・ジャクソンもスティーヴィー・ワンダーもエルヴィス・コステロもジョンのかわりとはなり得なかった。ポールにとって。

ポールが誰よりも優れたメロディー・メーカーなのは言うまでもない。そしてそれらの曲の多くは、ジョンとの複雑な関係がなければ生まれなかったかもしれない。親友とはなれ合いの関係ではない。二人の関係のように時には協力しあい、時には反発しあい、素晴らしい成果を生み出すものではないか。

ポールは七十才を過ぎてもなお、アルバムを発表し続けている。評価も高い。そして、私も本書を読んだことをきっかけに、ポールのビートルズ以降の全作品を聞き直している。その中で光る曲を見つけられれば言うことはない。それだけでなく、今だからこそ永久に残る曲をもう一曲生み出して欲しいと願うのは私だけだろうか。ポールとジョンは音楽だけにとどまらず、人類史の上でも不世出のコンビ。だからこそ、ジョンがポールの中で息づいていることを知らしめてほしい。

’2018/05/01-2018/05/03


資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ


誰だって若い頃は理想主義者だ。理想に救いをもとめる。己の力不足を社会のせいにする時。自分を受け入れない苦い現実ではなく己の望む理想を望む誘惑に負けた時。なぜか。楽だから。

若いがゆえに知識も経験も人脈もない。だから社会に受け入れられない。そのことに気づかないまま、現実ではなく理想の社会に自分を投影する。そのまま停滞し、己の生き方が社会のそれとずれてゆく。気づいた時、社会の速さと向きが自分の生き方とずれていることに気づく。そして気が付くと社会に取り残されてしまう。かつての私の姿だ。

私の場合、理想の社会を望んではいたが、現実の社会に適応できるように自分を変えてきた。そして今に至っている。だから当初は、資本主義社会を否定した時期もあった。目先の利益に追われる生き方を蔑み、利他に生きる人生をよしとした時期が。利他に生きるとは、人々が平等である社会。つまり、綿密な計画をもとに需要と供給のバランスをとり、人々に平等に結果を配分する共産主義だ。

ところが、共産主義は私の中学三年の時に崩壊した。その後、長じた私は上京を果たした。そして社会の中でもがいた。その年月で私が学んだ事実。それは、共産主義の理想が人類にはとても実現が見込めないことだ。すべての人の欲求を否定することなどとてもできないし、あらゆる局面で無限のパターンを持つ経済活動を制御し切れるわけがない。しょせん不可能なのだ。

人の努力にかかわらず結果が平等になるのであれば、人はやる気をなくすし向上心も失われる。私にとって受け入れられなかったのは、向上心を否定されることだ。機会の平等を否定するつもりはないが、結果の平等が前提であれば話は別。きっと努力を辞めてしまうだろう。そう、努力が失われた人生に喜びはない。生きがいもない。それが喪われることが私には耐えがたかった。

また、私は自分の中の欲求にも勝てなかった。私を打ち負かしたのは温水洗浄便座の快適さだ。それが私の克己心を打ちのめした。人は欲求にはとても抗えない、という真理。この真理に抗えなかったことで、私は資本主義とひととおりの和解を果たしたのだ。軍門に下ったと言われても構わない。

東京で働くにつれ、自分のスキルが上がってきた。そして理想の世界に頼らず、現実の世界に生きるすべを身につけた。ところが、私が求めてやまない生き方とは、日常の中に見つからなかった。スキルや世過ぎの方法、要領は身についたが、それらは生き方とは言わない。私は生き方を日々の中にどうしても見つけたかった。それが私のメンタリティの問題なのだということは頭では理解していても、実際に社会の仕組みに組み込まれることへの抵抗感が拭い去れない。それは日々の通勤ラッシュという形で私に牙をむいて襲い掛かってきた。

果たしてこの抵抗感は私の未熟さからくる甘えなのか。それともマズローの五段階欲求でいう自己実現の欲求に達した自分の成長なのか。それを見極めるには資本主義をより深く知らねばならない、と思うようになってきた。資本主義とは果たして人類がたどり着いた究極なのだろうか、という問いが私の頭からどうしても去らない。社会と折り合いをつけつつ糧を得るために、個人事業主となり、法人化して経営者になった今、ようやく社会の中に自分の生き方を溶け込ませる方法が見えてきた。自分と社会が少しだけ融けあえたような感覚。少なくともここまで達成できれば、逃げや甘えと非難されることもないのでは、と思えるようになってきた。

それでもまだ欲しい。資本主義の極意が何で、どう付き合っていけばよいかという処方箋が。私にとって資本主義とは自らと家族の糧を稼ぐ手段に過ぎない。今までは対症療法的なその場しのぎの対応で生きてきたが、これからどう生きれば自らの人生と社会の制度とがもっともっと和解できるのか。その疑問の答えを本書に求めた。

著者の履歴はとてもユニーク。高校時代は共産主義国の東欧・ソ連に留学し、大学の神学部では神について研究し、外務省ではソ連のエキスパートとして活躍した。そのスケールの大きさや意識の高さは私など及びもつかない。しかし一つだけ私に共通していると思えることが、理想を目指した点だ。神や共産主義といったテーマからは、資本主義に飽き足らない著者の姿勢が見える。さらに外交の現場で揉まれた著者は徹底的なリアリストの視点を身に着けたはず。理想の甘美も知りつつ、現実を冷徹に見る。そんな著者が語る資本主義とはどのようなものなのか。ぜひ知りたいと思った。

本書は資本主義を語る。資本主義の中で著者が焦点を当てるのは、日本で独自に根付いた資本主義だ。「私のマルクス」というタイトルの本を世に問うた著者がなぜ資本主義なのか。それは著者の現実的な目には資本主義がこれからも続くであろうことが映っているからだ。私たちを縛る資本主義とは将来も付き合わねばならないらしい。資本主義と付き合わねばならない以上、資本主義を知らねばならない。それも日本に住む以上、日本に適応した資本主義を。もっとも私自身は、資本主義が今後も続くのかという予想については、少し疑問をもっている。そのことは下で触れたい。

著者はマルクスについても造詣が深い。著者は、マルクスが著した「資本論」から発展したマルクス経済学の他に、資本主義に内在する論理を的確に表した学問はないと断言する。私たちは上に書いた通り、共産主義国家が実践した経済を壮大な失敗だと認識している。それらの国が採用した経済体制とは「マルクス主義経済学」を指し、それは資本主義を打倒して共産主義革命を起こすことに焦点を与えていると指摘する。言い添えれば統治のための経済学とも言えるだろう。一方の「マルクス経済学」は資本主義に潜む論理を究明することだけが目的だという。つまりイデオロギーの紛れ込む余地が薄い。著者は中でも宇野弘蔵の起した宇野経済学の立場に立って論を進める。宇野弘蔵は日本に独自に資本主義が発達した事を必然だと捉える。西洋のような形と違っていてもいい。それは教条的ではなく、柔軟に学問を捉える姿勢の表れだ。著者はそこに惹かれたのだろう。

この二点を軸に、著者は日本にどうやって今の資本主義が根付いていったのかを明治までさかのぼって掘り起こす。

資本主義が興ったイギリスでは、地方の農地が毛織物産業のための牧場として囲い込まれてしまった。そのため、追い出された農民は都市に向かい労働者となった。いわゆるエンクロージャーだ。ただし、日本の場合は江戸幕府から明治への維新を通った後も、地方の農民はそのまま農業を続けていた。なぜかというと国家が主導して殖産興業化を進めたからだ。つまり民間主導でなかったこと。ここが日本の特色だと著者は指摘する。

たまに日本の規制の多さを指して、日本は成功した社会主義国だと皮肉交じりに言われる。そういわれるスタートは、明治にあったのだ。明治政府が地租を改正し、貨幣を発行した流れは、江戸時代からの年貢という米を基盤とした経済があった。古い経済体制の上に政府主導で貨幣経済が導入されたこと。それが農家を維持したまま、政府主導の経済を実現できた明治の日本につながった。それは日本の特異な形なのだと著者はいう。もちろん、政府主導で短期間に近代化を果たしたことが日本を世界の列強に押し上げた理由の一つであることは容易に想像がつく。

西洋とは違った形で根付いた資本主義であっても、資本主義である以上、景気の波に左右される。その最も悪い形こそが恐慌だ。第二章では日本を襲った恐慌のいきさつと、それに政府と民間がどう対処したかを紹介しつつ、日本に特有の資本主義の流れについて分析する。

宇野経済学では恐慌は資本主義にとって欠かせないプロセス。景気が良くなると生産増強のため、賃金が上がる。上がり過ぎればすなわち企業は儲からなくなる。設備はだぶつき、商品は売れず、企業は倒産する。それを防ぐには人件費をおさえるため、生産効率をあげる圧力が内側から出てくる。その繰り返しだという。

私が常々思うこと。それは、生産効率が上昇し続けるスパイラル、との資本主義の構造がはらんだ仕組みとは幻想に過ぎず、その幻想は人工知能が人類を凌駕するシンギュラリティによって終止符を打たれるのではないかということだ。言い換えれば人類という労働力が経済に要らなくなった時、人工知能によって導かれる経済を資本主義経済と呼べるのだろうか、との疑問だ。その問いが頭から去らない。生産力や賃金の考えが経済の運営にとって必須でなくなった時、景気の波は消える。そして資本すら廃れ、人工知能の判断が全てに優先される社会が到来した時、人類が排除されるかどうかは分からないが、既存の資本主義の概念はすっかり形を変えるはずだ。あるいは結果の平等、つまり共産主義社会の理想とはその時に実現されるのかもしれない。または著者や人類の俊英の誰もが思いついたことのない社会体制が人工知能によって実現されるかもしれないという怖れ。ただそれは本書の扱うべき内容ではない。著者もその可能性には触れていない。

国が主導して大銀行や大企業が設立された経緯と、日本が日清・日露を戦った事で、海外進出が遅れた事情を書く海外進出の遅れにより、日本の資本主義の成長に伴う海外への投資も活発にならなかった。その流れが変わったのが第一次大戦後だ。未曽有の好景気は、大正デモクラシーにつながった。だが、賃金の上昇にはつながらなかった。さらに関東大震災による被害が、日本の経済力では身に余ったこと。また、ロシア革命によって共産主義国家が生まれたこと。それらが集中し、日本の資本主義のあり方も見直さざるを得なくなった。我が国の場合、資本主義が成熟する前に、国際情勢がそれを許さなかった、と言える。

社会が左傾化する中、国は弾圧をくわえ、海外に目を向け始める。軍が発言力を強め、それが満州事変から始まる十五年の戦争につながってゆく。著者はこの時の戦時経済には触れない。戦時経済は日本の資本主義の本質を語る上では鬼っ子のようなものなのかもしれない。また、帝国主義を全面に立てた動きの中では、景気の循環も無くなる、と指摘する。そして恐慌から立ち直るには戦争しかないことも。

意外なことに、本書は敗戦後からの復興について全く筆を割かない。諸外国から奇跡と呼ばれた高度経済成長の時期は本書からスッポリと抜けている。ここまであからさまに高度経済成長期を省いた理由は本書では明らかにされない。宇野経済学が原理論と段階論からなっている以上、第二次大戦までの日本の動きを追うだけで我が国の資本主義の本質はつかめるはず、という意図だろうか。

本書の最終章は、バブルが弾けた後の日本を描く。現状分析というわけだ。日本の組織論や働き方は高度経済成長期に培われた。そう思う私にとって、著者がこの時期をバッサリと省いたことには驚く。今の日本人を縛り、苦しめているのは高度経済成長がもたらした成功神話だと思うからだ。だが、著者が到達した日本の資本主義の極意とは、組織論やミクロな経済活動の中ではなく、マクロな動きの中にしかすくい取れないのだろうか。

本書が意図するのは、私たちがこれからも資本主義の社会を生きる極意のはず。つまり組織論や生き方よりも、資本主義の本質を知ることが大切と言いたいのだろう。だから今までの日本の資本主義の発達、つまり本質を語る。そして高度成長期は大胆に省くのではないか。

グローバルな様相を強める経済の行く末を占うにあたり、アベノミクスやTPPといった問題がどう影響するのか。著者はそうした要素の全てが賃下げに向かっていると喝破する。上で私が触れた人工知能も賃下げへの主要なファクターとなるのだろう。著者はシェア・エコノミーの隆盛を取り上げ、人と人との関係を大切に生きることが資本主義にからめとられない生き方をするコツだと指南する。そしてカネは決して否定せず、資本主義の内なる論理を理解したうえで、急ぎつつ待ち望むというキリスト教の教義にも近いことを説く。

著者の結論は、今の私の生き方にほぼ沿っていると思える。それがわかっただけでも本書は満足だし、私がこれから重きを置くべき活動も見えてきた気がする。

‘2017/11/24-2017/12/01


民王


政治をエンターテインメントとして扱う手法はありだ。私はそう思う。

政治とは厳粛なまつりごと。今や政治にそんな幻想を抱く大人はいないはず。虚飾はひっぺがされつつある。政治とは普通のビジネスと同じような手続きに過ぎないこと。国民の多くはそのことに気づいてしまったのが、今の政治不信につながっている。かつてのように問題発生、立案、審議、議決、施行に至るまでの一連の手続きが国民に先んじている間はよかった。しかし今は技術革新が急速に進んでいる。政治の営みは瞬時に国民へ知らされ、国民の批判にさらされる。政治の時間が国民の時間に追いつかれたことが今の政治不信を招いている。リアルタイムに情報を伝えるスピードが意思決定のための速度を大幅にしのいでしまったのだ。今までは密室の中で決められば事足りた政策の決定にも透明さが求められる。かろうじて体裁が保てていた国会や各委員会での論議もしょせんは演技。そんな認識が国民にいき渡り、白けて見られているのが現状だ。

そんな状況を本書は笑い飛ばす。エンターテインメントとして政治を扱うことによって。例えば本書のように現職首相とその息子の人格が入れ替わってしまうという荒唐無稽な設定。これなどエンターテインメント以外の何物でもない。

本書に登場する政治家からは威厳すら剥奪されている。総理の武藤泰山だけでなく狩屋官房長官からも、野党党首の蔵本からも。彼らからは気の毒なほどカリスマ性が失われている。本書で描かれる政治家とはコミカルな上にコミカルだ。普通の社会人よりも下に下に描かれる。政治家だって普通の人。普通のビジネスマンにおかしみがあるように、政治家にもおかしみがある。

総理の息子である翔が、総理の姿で見る政治の世界。それは今までの学生の日々とも変わらない。自己主張を都合とコネで押し通すことがまかり通る世界。就職試験を控えているのにテキトーに遊んでいた翔の眼には、政治の世界が理想をうしなった大人の醜い縄張り争いに映る。そんな理想に燃える若者、翔が言い放つ論は政治の世界の約束事をぶち破る。若気の至りが政治の世界に新風を吹き入れる。それが現職総理の口からほとばしるのだからなおさら。原稿の漢字が読めないと軽んじられようと、翔の正論は政治のご都合主義を撃つ。

一方で、息子の姿で就職面接に望む泰山にも姿が入れ替わったことはいい機会となる。それは普段と違う視点で世間を見る機会が得られたこと。今まで総理の立場では見えていなかった、一般企業の利益を追うだけの姿勢。それは泰山に為政者としての自覚を強烈に促す。政治家の日々が、いかに党利党略に絡みとられ、政治家としての理想を喪いつつあったのか。それは自らのあり方への猛省を泰山の心に産む。

そして、大人の目から見た就職活動の違和感も本書はちくりと風刺する。面接官とて同じ大人なのに、なぜこうもずれてしまうのか。それは学生を完全に下にみているからだ。面接とは試験の場。試験する側とされる側にはおのずと格差が生まれる。それが就職学生に卑屈な態度をとらせ、圧迫面接のような尊大さを採る側に与える。本書で泰山は翔になりきって面接に臨み、就職活動のそうした矛盾に直面する。そして理想主義などすでに持っていないはずの泰山に違和感を与える。就職活動とは、大人の目からみてもどこか歪な営みなのだ。

本書に登場する政治家のセリフはしゃっちょこばっていない。その正反対だ。いささか年を食っているだけで、言葉はおやじの臭いにまみれているが、セリフのノリは軽い。だが、もはや虚飾をはがされた政治家にしかつめらしいセリフ回しは不要。むしろ本書のように等身大の政治家像を見せてくれることは政治の間口を広げるのではないか。政治家を志望する人が減る中、本書はその数を広げる試みとして悪くないと思う。

象牙の塔、ということばがある。研究に没頭する学者を揶揄する言葉だ。だが、議員も彼らにしかわからないギルドを形成していないだろうか。その閉鎖性は、外からの新鮮な視線でみて初めて気づく。本書のようにSFの設定を持ち込まないと。そこがやっかいな点でもある。

それらについて、著者が言いたかったことは本書にも登場する。それを以下に引用する。前者は泰山が自分を省みて発するセリフ。後者は泰山が訪れたホスピスの方から説かれたセリフ。

例えば306ページ。「政界の論理にからめとられ、政治のための政治に終始する職業政治家に成り下がっちまった。いまの俺は、総理大臣かも知れないが、本当の意味で、民の長といえるだろうか。いま俺に必要なのは、サミットで世界の首脳とまみえることではなく、ひとりの政治家としての立ち位置を見つめ直すことではないか。それに気づいたとたん、いままで自分が信じてきたものが単なる金メッキに過ぎないと悟ったんだ。いまの俺にとって、政治家としての地位も名誉も、はっきりいって無価値だ。」

322ページ。「自分の死を見つめる人が信じられるのは、真実だけなんです。余命幾ばくもない人にとって、嘘をついて自分をよく見せたり、取り繕ったりすることはなんの意味もありません。人生を虚しくするだけです」

政治とは扱いようによって人を愚人にも賢人にもする。政治学研究部の部長をやっていた私も、そう思う。

‘2017/04/10-2017/04/11


ひかりふる路~革命家、マクシミリアン・ロベスピエール/SUPER VOYAGER!


事前に本作を観ていた妻子から言われていたこと。それは「ロベピッピはパパも気に入ると思うよ」だった。なぜ本作をロベピッピと呼ぶのかはさておき、パパ向きの作品と太鼓判を押されていた本作。確かにおっしゃる通り見応えある作品だった。

本作の何がよかったか。それは、フランス革命にそれほど明るくない私に革命の流れを思い出させてくれたことだ。実のところ、本作を観るまで私がフランス革命について知っていた知識とは高校の世界史でならう程度。歴史は得意だったので、大まかな流れは覚えていたとはいえ、寄る年波がだんだん私の記憶を薄れさせていた。だが、年のせいにしていつまでも若いころの知識を更新しないのはさすがにまずい。なんといっても宝塚歌劇団とフランス革命は切っても切れない関係なのだから。ヅカファンの妻子とこれから仲良くやっていく以上、私もフランス革命の知識くらい持っておかないと。それぐらいは夫として父としての責務ではないか?

そもそも私は宝塚歌劇団の歴史を語る上で欠かせない『ベルサイユのバラ』を観劇していない。原作も読んだことがない。『ベルサイユのバラ』はフランス革命を真っ正面から扱っていたはず。なのにそれを見ていない。これはまずいかも。『ベルサイユのバラ』だけではない。私には舞台、小説、映画のどれかでフランス革命を真っ正面から扱った作品に触れた経験がないのだ。たとえば、私がおととし観た『スカーレット・ピンパーネル』やかつて読んだディケンズの『二都物語』。これらも側面からしかフランス革命を描いていない。また、かつてテレビで放映されていた『ラ・セーヌの星』も内容をろくに覚えていない始末。つまり私はフランス革命の最も熱い時期を扱った作品を知らない。目まぐるしく変わる情勢に人々が翻弄された時期こそフランス革命の肝だというのに。そう、本作こそは、私にとって「はじめてのフランス革命」となったのだ。

もう一つ、本作が私を引きつけた要素がある。それは、革命家の挫折をテーマとしていることだ。本作の主人公は、タイトルにもあるとおり、マクシミリアン・ロベスピエール。私の高校生と同じレベルの知識でもフランス革命の立役者として記憶に刻まれている人物だ。本作のパンフレットで作・演出の生田大和氏が語っている。「彼の人生を想う時、ごくシンプルな疑問として「理想に燃える青年」がなぜ「恐怖政治の独裁者」に堕していったのか」。このテーマは、理想主義にはまりかけた青年期を経験した私にとって身に覚えのあるものだ。

私のような凡人を例に出すまでもなく、歴史とは革命家の挫折の積み重ねだ。旧体制を打倒することに全精力を使い果たし、そのあとの国の仕組み構築に失敗する人物のいかに多かったことか。古くは項羽。彼は秦を倒したのち、ライバルの劉邦を戦いでこそ圧倒したが、人望に秀で内政に長けた劉邦に敗れた。ロシア革命は確かにロマノフ王朝を打倒した。が、レーニン亡き後、スターリンによる大粛清の時代が待ち受けている。中国共産党もそう。国共内戦の結果、国民党を台湾に追いやったはよいが、大躍進政策の失敗で幾千万人もの餓死者をだし、文化大革命では国内の文化を破壊せずにはいられなかった。キューバ革命も、革命のアイコンであるチェ・ゲバラが革命後どういう生涯を送ったか。彼は革命当初はカストロの右腕として内政を担当した。それはまさに孤軍奮闘が相応しい活躍だった。革命の理想に現実を近づける事業に疲弊した彼は、キューバを出奔してしまう。内政を諦めたゲバラはコンゴやボリビアでの革命闘争に自らの天命を捧げることになる。我が国でも同様の例はある。日本赤軍があさま山荘事件で破滅するまでの間、凄惨なリンチと自己批判の末に内部崩壊したことは記憶に新しい。革命後に国を運営することに成功したまれな例である我が国の明治維新ですら、維新後十年もたたずに内乱と暗殺によって維新の三傑のうち二人を失っているのだ。

乱世の梟雄でありながら、治世の能臣たり得ること。それが困難なことは上に挙げたように今までの歴史でも明らかだ。ロベスピエールもその困難を克服できなかった。彼は体制のクラッシャーとしては名をはせた。しかし、体制のクリエイターとしては失格の烙印を押されている。

そもそも、革命を軌道に乗せるためには、革命を支持した者への利害の調整が求められる。ただ旧体制の打倒とスローガンを掲げておけばよかった革命期とちがうのはそこだ。革命そのものよりも、革命後の治世こそ格段に難しい。そして、革命に掲げた自らの理想が高ければ高いほど、革命後の利害の調整にがんじがらめになってしまう。その結果、ロベスピエールが採ったような極端な恐怖政治の路線に舵を切ってしまうのだ。追い込まれれば追い込まれるほど、自分の理想こそが唯一無二であると殻をまとってしまう。そして視野は絶望的に狭くなる。本作はそのような状態に陥ってゆく人物の典型が描かれる。徐々に追い詰められ、自らの理想で首が絞まってゆくロベスピエールを通じて。

彼の抱く理想は、決して荒唐無稽なものではなかった。例えば、
 ロベスピエール「人にはそれぞれの心がある。そして心で憎み合い、争い、奪いあう。その連鎖を止める手立てを探している。その理を見つける事ができるなら、私は私の命を差し出しても惜しくない」
 マリー=アンヌ「それがあなたの理想なの?」
  ロベスピエール「いや、願いだ。願いは未来だ。理想は思い出と共にある」
第7場のこのやりとりで、ロベスピエールは自らの理想が過去にあることを図らずも吐露している。過去にあったことは、実現できた経験に等しい。「未来へ~」と合唱するマリー=アンヌとロベスピエールの願いは美しく響く。それはロベスピエールの理想が過去に実現されたもの、すなわち未来にかなうはずの願いだからこそ美しいのだ。

しかし、彼の理想は現実の前に色あせてゆく。第10場で盟友だったはずのダントンから投げられる言葉がそれを象徴している。
 ダントン「これだけは覚えておけ、俺たちは理想のために革命を始めた。だが、政治ってやつは俺たちが思っている以上に現実なんだ。現実の前では理想なんて無力なもんだ」
 ロベスピエール「無力だと」
このセリフなどは、先にも紹介した歴史上の革命家がたどった挫折そのままだ。

第13場Bの場面では、ダントンが最後にロベスピエールを説得しようとして、ロベスピエールの理想主義者としての致命的な弱点を暴く。
 ダントン「わかってないのはお前の方だ。理想だ、徳だと口では言うが、おまえが与えているのは血と生首と恐怖だ」
 ロベスピエール「今はそう見えるかもしれない。だが、革命が達成されればいずれ」
 ダントン「いいや、そんな日は来ない」
 ロベスピエール「なぜ、そう言いきれる」
 ダントン「おまえが喜びを知らないからだよ。どういうわけか、お前は喜びを遠ざける」
結局、人は理想よりも、目の前の美食や美酒、美女に目移りする生き物なのだ。清廉であろうとすればするほど、潔白であろうとすればするほど、それを人に強要した時に思い通りに動いてくれない他人と自分の思惑にずれが生じてゆく。上のダントンとの会話などまさにその事実を証明している。

なお、今回はこれらのセリフを本レビューで再現すべきだと思ったので、妻にお願いしてLe CINQという劇の詳しいパンフレットを買ってもらった。その中には全セリフが収められており、上記もそこから引用させてもらっている。

本作の何がよいかといえば、場面転換のメリハリだ。本作はセットとライトアップがうまく組み合わされており、場面が転換する瞬間と、前後の場面の主役が誰なのかを観客に明確に伝えることに成功している。今まで見た観劇よりも本作で場面転換の鮮やかさが印象に残った理由は何か。私が思うにそれは、本作のいたるところに描かれていたギロチンをかたどった斜めの線だと思う。開幕前に上がった緞帳の裏には、幕に銀色の筋が右上へと伸びていた。20度ほどの角度で右上に伸びる線がギロチンをかたどっていることはすぐにわかった。そしてこの線は建物のひさし、橋に映る影など、本作を通して舞台のあちこちで存在感を主張する。中でも印象に残るのは、上に紹介したロベスピエールとマリー=アンヌが語らうシーンだ。このシーンで二人が語らう橋に映る影として。それはロベスピエールの目指す革命がギロチンによって断ち切られることを予期しているのと同時に、二人の目指す未来が右肩上がりの線上にあることも示しているのだと思う。つまり、彼の目指す革命とは、この時点では実現が見込めており、二人の未来と表裏一体だったのだ。本作では場面ごとの主人公の心理が斜めによぎる線の色や輝きで表現されている。そのため、場面ごとに何に感情を移入すればよいのか、観客には絶妙なガイドになっているのだ。私はそう受け取った。私が本作の場面転換のメリハリが効いていたと思うのは、そういうところにある。

あと、本作で良かったのは声の通りだ。私が座ったのは1階22列。結構後ろのほうだ。それなのに出演者が発するセリフも、そして何十人もの合唱の言葉も比較的聞き取れた。実は私はあまり耳の聞こえが良くない。今までも観劇をしていて聞き取りにくいことなどしょっちゅうだった。が、本作のセリフはよく聞き取れた。これはとても珍しくそしてうれしい。上でLe Cinqからセリフを引用したのも、本作のセリフがよく聞き取れるがゆえにかえって覚えきれなかったことが理由だ。トップの二人の歌声も素晴らしく、それに加えてセリフもよく聞こえる本作は、私にとって気持ちのよい一作となった。

なお、トップ娘役の真彩希帆さんの演ずるマリー=アンヌは、作・演出の生田大和氏がパンフレットで語った言葉によると本作において唯一の架空の人物のようだ。何の不自由もない貴族の暮らしが革命の勃発によって婚約者ともども奪われ、その復讐のために革命の立役者として著名なロベスピエールを狙って近づくうちに恋に落ちるという設定だ。まさに絶妙な設定であり配役だと思う。上に挙げたシーンでは、ロベスピエールの望む理想の暮らしが、マリー=アンヌの失った日々にシンクロするという演出が施され、彼らの掲げる理想が実現する可能性が説得力をもって観客に迫ってきた。

本作は二幕物が好きな私にとって、一幕でも尺の短さが気にならないほど、起承転結がしっかりとまとまった作品として記憶に残ると思う。

さて、レビューである。私がこのところ宝塚を観劇する上で心がけていること。それはレビューの魅力に開眼することである。凄惨な処刑のシーンや悩み苦しむ主人公を見るだけでは観客のカタルシスが得られない。それは私もわかっているつもりだ。だからこそ一幕物の後にはレビューが配され、華麗なラインダンスや目まぐるしく切り替わるきらびやかなシーンで観客の目を奪わねばならない。それも理解しているつもりだ。

正直なところ、まだ舞台に物語性を求める私にとって「SUPER VOYAGER!」と名付けられた本作の魅力がつかみ取れたとは言えない。だが、私は本作を観る前から肝に銘じていたことがある。すなわちレビューに物語性を追うのが徒労だということだ。そういう物語性を排した視点から見ると、本作は二カ所が記憶に残った。一つ目はシーン17,18で披露された白燕尾の群舞のシーンだ。大階段を上り下りしながら、斜めに交差する動き。実に見事だったと思う。あと一つ印象に残ったこと。それはオーケストラボックスの演奏だ。本作で惹かれたのはここだ。リズム隊やギターなど、オーケストラボックスから流れる演奏にビートと切れがみなぎっていた。

私は演奏する姿を見るのが好きだ。ロックコンサートでもついついドラマーの一挙手一投足に目が行ってしまうくらいに。そんな私なので、キレっキレの本作の演奏が流れてくるオーケストラボックスの中をついのぞいてみたくなった。そしてオーケストラボックスの中の人々を表に出せないのだろうか、と妄想をたくましくしてしまった。もちろんオーケストラが表に出れば、舞台のジェンヌさんは隠れてしまう。それはほとんどの観客にとって不本意なことに違いない。多分、圧倒的多数の方に反対されるだろう。でも、オーケストラボックスを底上げするなどして、オーケストラの皆さんを表に出す演出もあってもいいではないか。一度くらい、舞台の華麗な群舞と歌、そして楽器を奏でる皆さんが一堂に集まる様を眺めてみたいと思うのだが。どうだろうか?

‘2018/02/01 東京宝塚劇場 開演 13:30~

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2017/hikarifurumichi/index.html


1Q84 BOOK 3


BOOK 1とBOOK 2で幻想は現実を蚕食し、過去と現在は和解されつつあった。BOOK 3である本書はそれらはどのように和解され続けるのだろうか。

お互いの存在を意識し、探し合うようになった青豆と天吾。二人がいかにして、どこでいつ出会うか。本書はそのすれ違いが摩擦を生み、それが摩擦熱となって過剰な現実を消し去っていく。

牛河は教団の依頼を受け、教祖暗殺犯である青豆を追う。潜伏する青豆は、性行為のないまま、受胎する。それはちょうど、天吾が父の療養所を訪ねた際、その療養所の看護婦と性行為を行ったタイミングに合致する。現実と幻想が融けあった瞬間である。

探し求める天吾の子であると固く信じ、潜伏先でお腹の子を慈しむ青豆。お互いの結晶であるそれは、いうまでもなく、現実と幻想の融和の象徴であり、その誕生と二人の再会は、物語の大団円を意味する。

BOOK 2でもすでにその饒舌を遺憾なく発揮していた牛河は、雑然とした現実の中でも、特に汚れた部分の体現者である。彼はその優れた実務能力を最大限に活用し、青豆の行動を追い続ける。その様は滑稽であり、戯画的である。現実と幻想の融和がテーマとなる本書の中で、牛河は何を表しているのだろう。それこそが過剰な現実というやつではないだろうか。

BOOK 1 のレビューで「茫洋としてつかみどころのない、見えないもの。現実の色に塗れず、むしろそこから遠ざかり零れ落ちる。そんな世界観を抱く氏の著作」と書いた。テーマを浮かび上がらせるため、1Q84の3作では現実に敢えて近づいた描写を見せた著者だが、雑多な日常には依然として関心が薄いように見える。著者の理想とする現実。それは幻想と融和しても違和感のない現実であろう。政治やITや喧噪といった現実は眼中にないのであろうし、大した価値も置いていないに違いない。牛河の偏執狂的な監視生活の描写を読むと、今の現代社会の余裕のなさを風刺したようにも読める。結果として牛河は、青豆の依頼を受けたタマルに苦しい死に様を強いられる。その死に様は見にくく、死後も教団によって事務的に死を取り扱われ、初めからいなかったかのように死体のまま台に放置される姿は哀れを誘う。

牛河の転落前の人生のヒトコマとして、中央林間の一戸建ての生活イメージが随所に挟まれる。著者が牛河を通じて提示した汚れた現実という価値観。平凡な人生の象徴である郊外のマイホームが、実は汚れた現実の発信源とでも言いたげな描写である。本書で示される幻想と融和する現実とは対極であり、私を含めたほとんどの読者にとって苦い現実である。著者はそういった汚れた現実を否定し、現実と幻想が融和する際に発する熱で消し去ろうとしている。

青豆と天吾の再会、つまりは現実と幻想の融和は、本書の最初から予測がついた結末であり、読者にとってカタルシスとは遠い結末なのかもしれない。しかし青豆と天吾が互いに描いていた、小学生からの純粋な愛が結ばれる様を読んでいると、現実と幻想の融和も不可能ではない、という気にさせられる。

汚れた現実ではなく、どの現実を幻想と融和させるのか。それこそが本書の一番のテーマであり、著者が現実をあえて書いてまで表したかったことなのかもしれない。

’14/06/04-‘14/06/07


悪貨


純文学作家としてのイメージが強い著者だが、本書では思い切ってエンタテインメントな作風に挑戦している。初期の作品でもサヨクという言葉を使用しているように、資本主義経済に対する懐疑の念を根底においた作家活動を行っているように思っていた。本書においては偽札というツールを使い、資本主義経済に対峙する経済体制の構築を試行している。

こう書くと本書が著者の理想論を開陳するためだけの物と思われる向きもあるかもしれない。しかし、私は逆と考える。理想論というよりはむしろ今までの理想主義的な考えの限界を感じ、小説家としてのスタンスすらも思い切って現実的な方向に舵を切ったのではないかと。

それは作中でも描かれるような経済体制の結末に象徴されているように思える。清貧な理想が悪貨の助けを一度受け入れた途端に世間に受け入れられる一方で、それなしには成り立たないという自己矛盾。

著者も純文学の超然とした世界から、大学教授へと転身し、小説家としての己を見つめ直したのではないかと思えるぐらい、本書のエンタテインメントへの接近ぶりは目立つ。

ただ、気負い過ぎたのか、展開や人物造形が少々急ぎ過ぎのように思えたのは私の気のせいだろうか。もっとじっくり描いていけば、ものすごい傑作だったのに、と思う。

ただそういった細かい疵を言いだせばきりはなく、むしろその理想的な社会の限界と悲しみを、自らのスタンスをも葬り去る勢いで書きあげた姿勢を評価したいと思う。

’12/1/22-’12/1/23