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ペテロの葬列


豊田商事。天下一家の会。ともに共通するのは、かつて世間を大いに騒がしたことだ。豊田商事に至っては、マスコミが自宅を囲む中で豊田会長が惨殺される強烈な事件が印象を残している。この二つに通ずるのは、ありもしない物を売りつける仕組みだ。会員は多額の金を騙し取られ、大きな社会問題となった。両方に共通するのは、売るべき財もないのに会員を増やす仕組みだ。

豊田商事の場合、顧客が購入した金の現物を渡さず、豊田商事が発行した価値のない契約証券を渡した。いわゆるペーパー商法だ。豊田商事の場合、そもそも証券自体に何も効力がなく、会員が換金を求めてもうまくごまかす。売るべき品物がないのに、証券は次々と発行する。破綻して当然の仕組みだ。

天下一家の会の仕組みは、会員には上位会員への上納金を求め、上位会員は勧誘した会員に応じた配当をもらえる。いわゆるネズミ講。ネズミ算式に会員ネットワークを増やすことからその名が付いた。だが、実際は下位になればなるほど、勧誘できる人はいなくなる。ちなみに一人の会員がそれぞれ二人の会員を獲得するとした場合、28世代のツリーが出来上がれば日本国民は全てカバーできるという。ネズミ講の場合、上納金によって上位会員の懐が潤う。だから有事が発生した際は、そのネットワークで集めた金を使うことが期待される。だが、実際はそのような使い方はされない。原資がないのに、会員には努力に見合った配当を保証し、言葉巧みに騙した。

ネズミ講については無限連鎖講の防止に関する法律という法的な規制が入った。だが、ネズミ講で確立された組織論はまだ残っている。つまり、ツリー状の組織を構成し、階層に応じた報酬を支払う仕組みだ。いわゆるマルチレベルマーケティング。マルチ商法ともいう。マルチレベルマーケティングがネズミ講と違うのは、売るべき商品をきちんと確保していることだ。つまり詐欺ではない。法的な解釈によっては営業形態によって白黒の判断が分かれるらしいが、きちんと払った額に対してサービスが提供されている限りは問題ないという。階層に応じた報酬体系は、年功序列型の組織では当たり前。配当を販売マージンととらえれば、世間にある代理店制度で普通に運用されている。だから、マルチレベルマーケティングだからといって即アウト、ということにはならないと思う。

では、なぜ世間にマルチレベルマーケティングがここまで浸透しないのか。それは、法的な問題以前に、より根本的な原因があるからだと思う。私が思うマルチレベルマーケティングの難点。それは、消費者側にも売り手側の振る舞いが求められることだ。

もちろん、マルチレベルマーケティングの運営元によって違いはある。マルチレベルマーケティングの運営方針によっては、サービスの購入者は消費者の立場にとどまることが認められている。その場合、サービスの買い手は商品だけ購入し、勧誘は一切しなくてもよい。そのような関わり方が認められているのはネズミ講と違う点だ。ネズミ講は会員である以上、下位会員を勧誘することが前提。なぜなら会員それ自体が商品だから。そこに金以外の目的はない。

ただ、マルチレベルマーケティングの運営元によっては、サービスについてのセールストークとともに、あなたも商品を取り扱ってビジネスをしませんか、という勧誘のおまけがついてくることがある。わが国ではここを嫌がる人が多い。なぜなら、前述の豊田商事や天下一家の会をはじめ、多数のペーパー商法やネズミ講の関係者が多大なる迷惑をかけて来たからだ。もはや日本人の大多数に拒否感が蔓延している。

私が思うに、わが国からマルチレベルマーケティングに対する偏見が消え去るまでには、あと一、二世代ほど待たねばならないと思う。通常の商取引に基づいたビジネスの現場でも同じく。マルチレベルマーケティングの用いるチャネル販売は、ビジネスプロセスの一つにすぎないと思う。それでありながら、上記の理由で一般的にはマルチレベルマーケティングだけが強く忌避されているのが現状だ。

そのため、弊社としてもビジネス上でマルチレベルマーケティングの方法論を採り入れるつもりはない。マルチレベルマーケティングにもそれなりの利点や理論があるのも理解するし、やり方によっては今後の有望さが見込める手法だと思う。だが、そのメリットがあるのは理解しつつ、今はまだデメリットのほうが強いとしかいえない。

拒否感が蔓延している人に対し、無理に強いて勧誘すればどうなるか。おそらくビジネス関係だけでなく、友人、肉親との関係にも悪影響が出る。それも長期にわたって。その影響、つまりネズミ講によって生まれた深い傷が本書のモチーフとなっている。豊田商事や天下一家の会、マルチレベルマーケティングについて長々と前口上を書き連ねたのはこのためだ。

「「悪」は伝染する」。本書の帯に書かれている文句だ。「悪」とは何か。「伝染する」とはどういうことか。人は性悪説と性善説のどちらで捉えればよいのか。本書の時間軸で起きる事件はバスジャックくらいだ。しかも犯人の意図が全く分からないバスジャック。だが、本書が語る事件はバスジャックだけではない。過去に起き、関係した人々に取り返しのつかない傷を与えた事件。それが本書の底を濁流となって流れている。

「悪」は伝染するだけではない。「悪」は伝染させることもできる。本書には他のキーワードも登場する。それはST(Sensitivity training=感受性訓練)という言葉だ。実は私はSTという言葉を本書で知った。だが、自己啓発セミナーや洗脳など、それに近い現場は知っている。私自身、かつてブラック企業にいたことがある。本書に描かれるSTの訓練光景のような心理を圧迫される訓練から苦痛も受けた。だから何となくSTの概念も理解できる。そして、STのトレーナーであれば、人を簡単に操縦できるということも理解できる。「悪」を伝染させることも。

本書を読んだのは、オウム真理教の教祖こと麻原彰晃に死刑が執行されたタイミングだ。もちろんこれは単なる偶然。だが、私の人生を一変させた1995年に社会を騒がせた教祖の死と、本書を読んだタイミングが同じだったということは、私に何らかの暗示を与えてはいないだろうか。

私はそれなりに心理学の本を読んできた。NLPなどの技法も学んだことがある。商談の場では無意識にそうしたテクニックを駆使しているはずだ。だが、私は人をだましたくない。うそもつきたくない。人と同じ通勤の苦痛を味わい、右に倣えの人生を歩みたいとは毛頭も思わないが、人を騙してまで楽な人生を歩もうとも思わない。だが、そうした哲学や倫理を持たない輩はいる。そうした輩どもが、ビジネスの名を騙って人を不幸にしてきた。その端的な例が、豊田商事であり天下一家の会であり、昨今のオレオレ詐欺の跳梁だ。

全ての人類が平等に幸せになる日。それが実現することは当分ないだろう。だが、私はせめて、自分の行いによって人を不幸に陥れることなく、死ぬときは正々堂々と胸を張って死にたい。

ここで本書のタイトルであるペテロの葬列の意味を考えねばなるまい。ペテロとはいかなる人物か。ペテロとはイエス・キリストの最初の弟子とされる人物だ。敬虔な弟子でありながら、キリストがローマ兵によって捕縛される前、キリストのことを知らないと三度否認するであろうと当のキリストから予言された人物。そして、キリストが復活した後は熱心な信者として先頭に立った人物。つまり、一度はキリストを知らないとうそをついたが、そのことを恥じ、改心した人物である。本書が示すペテロとはまさにその生きざまを指している。一度は人々をだまし、人々を誤った道へ導いた人物が、果たして人のために何を成しえるのか。それが本書の大きなテーマとなっている。

本書は人を導き、操る手口が描かれる。本来、そうした技は正しい目的のために使われなければならない。正しい目的を見定めることはできないにしても、人を不幸にしないため使わなければよい、といえようか。その原則は、当然ながらビジネスにも適用される。ビジネスとは何のためにあるのか。それは人を不幸にしないためだ。人をだますことはビジネスではない。私もまた、それを肝に銘じつつ、仕事をこなし、人生を生きていかねばならないと考えている。

‘2018/07/05-2018/07/06


犯罪


本書は、ヨーロッパの文学賞三つを受賞した。その三つとはクライスト賞、ベルリンの熊賞、今年の星賞だ。どれほどすごいのかと本書を読み終えたが少し拍子抜けした。つまらなくはない。逆だ。本書はとても面白かった。面白かったが、読後の余韻が弱いように思えた。余韻がそれほど私の中で尾を引かなかったのが意外に思えた。

おそらくそれは、本書が短編集であることに理由がありそうだ。一つ一つの短編はとても良くできている。それぞれに余韻もある。だが、一つ一つが優れていることは、読者をそれぞれの短編に没入させる。読者が短編の世界に入り込む時、前の短編が響かせた余韻は消えてしまう。それは短編の宿命だともいえる。

登場人物の背景をじっくり書き込み、彼らが犯罪を犯した理由をあらゆる著述テクニックを駆使して語る。本書に収められた各短編は実に素晴らしい。だが、短編であるため、それぞれの編ごとに読み手は気分を切り替えなければならない。そのため、一つ一つの印象が弱くなる。それぞれの短編の出来にばらつきがあればまだいい。だが、本書はそれぞれの短編が優れていたため、逆に互いの印象を弱めてしまった。

ただ、本書は全体の余韻が弱い点を除けば、著者の本業が弁護士であるとは思えないほどよくできている。本書の各編のモチーフは著者が見聞きした職業上の経験であることは間違いない。そうは思いながらも、本書の扉に掲げられている箴言が、読者の勘繰りをあらかじめ妨げる。

「私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない。」
ヴェルナー・K・ハイゼンベルク

本書で書かれた物語は現実そのものではない。だが、現実は小説よりも奇なり、ということだろう。実際に各編に描かれたような出来事は起き、関係者に傷を残した。それはほぼ間違いないと思う。それが本書に迫真性を与えている。本書に対して登場人物に血が通っているとの評も見かけたが、それもうなづける。

たとえば、巻頭を飾る「フェーナー氏 Fähner」は、長年の妻からの圧迫に耐え続けた夫が、老いてから妻を惨殺する話だ。なぜもっと早くに夫はその状況から逃げようとしなかったのか。なぜすべてが終わろうとする今になって妻を殺したのか。そこにはあるのは、犯罪ではない。人生という不可思議なものの深淵だ。

本書が扱うのは、犯人が誰か、動機は何か、手口はどうやって?という推理小説の文脈ではない。本書が扱う謎はもっと深い。各編は単なる謎解きではない。そもそも、各編には冒頭から犯罪をおかす人物が登場する。つまり本書はwhodunit(Who Done It?)ではなく、howdunit(How Done It?)でもない。ましてやwhydunit(Why Done It?)でもない。では何か。

本書が書こうとするのは、犯罪とは何か(What Is Crime?)なのだと思う。または、罪とは何か(What Is Sin?)と言い換えてもいい。その問いこそが本書に一貫して流れている。犯罪とはなにか? 冒頭のフェーナー氏の事案はまさにそれを思わせる。

続いての「タナタ氏の茶盌 Tanatas Teeschale」もスリリングだ。ちんけな犯罪者二人組が盗んだのが、日本の財閥グループの総帥がドイツに持つ別邸の茶盌だ。これが盗まれてからというもの、関係者が謎の失踪をとげ、死体となって見つかる。しかしタナタ氏の関与は全くうかがうことができない。もはやそれは科学の範疇に収まらぬ呪いに等しい。犯罪とはどこからをもって犯罪というのか。まさにWhat Is Crime?だ。タナタ氏の意思がどう呪いの実行者に伝わったのか。実行者はそれをどう遂行したのか。そもそも何らかの犯罪の指令は発せられたのか。すべては謎だ。

続いての「チェロ Das Cello」も印象に残る一篇だ。富豪の家に生まれた姉弟の悲惨な生涯。姉弟が生まれてから育って行くまでの境遇。そのいきさつが簡潔に、そして冷徹に描かれる。犯罪とは何か。動機とは何か。裁かれるべきなのは誰なのか。全ては環境のせいなのか。この環境を姉弟に与えたものは犯人だと指弾できないのか。本編の姉弟を襲う運命の過酷さはあまりにもむごい。だが、実際にありえたと思わせる迫真性があるのは、本編がとっぴな出来事に頼っていないからだろう。

続いての「ハリネズミ Der Igel」は、本書の中でも少し異色の一編だ。犯罪者一家に生まれながら、自らを愚鈍に装い切った男。その男の成し遂げる完全犯罪の一部始終が描かれる。犯罪とは複数の要素がそろって初めて犯罪となる。その要素とは被害者であり被疑者だ。そして訴状の対象となる犯罪行為。本編がもし実際に起こった出来事をもとに描かれたのであれば、まさに事実は小説よりも奇なりだ。

続いての「幸運 Glück」も、犯罪が何から構成されるのかを問う一編だ。自然に亡くなった死を犯罪によるものと勘違いした主人公は、死体をばらばらにして隠ぺいする。その行いは確かに死体損壊罪に相当するはず。そこに犯罪が成立しているのはたしかだ。だが、その犯罪がなされた動機を考えた時、犯罪者をなんの罪に問うのか。それを追い求め、考えることは、犯罪の本質に迫る道に通じるのかもしれない。

続いての「サマータイム Summertime」は、本書の中でもっともミステリー仕立ての一編ともいえる。そもそも本編の肝となるのは何か。それは捜査の粗さだ。果たしてこれだけの事件程度では日本では検察が犯罪として立件しない気もする。ドイツは日本とは多少司法制度が違っているという。その違いが本編のような出来事が生んだのだろうか。興を削ぐため、詳しくは書かないが興味深い。

続いての「正当防衛 Notwehr」も、犯罪のあり方が何かを問う一編だ。正当防衛とは受けた攻撃に対して、相手への反撃をやむを得ないと判断された場合に成立する。だが、その正当防衛が凄腕の殺し屋によって行れた場合、どう判断すればよいのか。そのあたりがとても興味深い。今の正当防衛を認める法的な解釈には、どこかにとてつもない矛盾が潜んでいるのでは。その矛盾は方そのものへと波及しはしまいか。そんな気にさせられる一編だ。

続いての「緑 Grün」は、統合失調症を扱う。犯人が精神疾患を患っている場合、おうおうにしてその犯罪に対しては罰が課せられない。それは日本に限らず各国も同じようだ。本書もそう。犯罪の疑いがあっても犯罪の結果がない場合、果たしてその統合失調患者を罪に問えるのか、という問題を描いている。本編もまた、実際に起こってもおかしくない物語だ。それがゆえにとても興味深い。

続いての「棘 Der Dorn」もまた、犯罪とは何かを問う。ここで突きつけられる問いとは、組織の存在そのものが罪と言い換えてもよいほどだ。組織の動きがシステマチックであればあるほど、その行いを罪と糾弾しにくくなる。だが、わずかな組織の狂いは、その間に生きる人を犯罪へと導いてゆく。それも長い時間を掛けて。そのような組織の持つ恐ろしさが描かれるのが本編には描かれている。これも今の我が国でも起こり得る出来事だ。

続いての「愛情 Liebe」は、犯罪の予防という視点が持ち出される。その行いが愛情から出たと認められる場合、その者は罰せられない。ところが、そこには将来の犯罪の種が含まれていることも多い。司法に携わる方にとっては、この視点はとても大切ではないかと思う。

最後の「エチオピアの男 Der Äthiopier」は、最後に収められるのにふさわしい一編だ。一人の数奇な男の一生が描かれる。そこにはとても暖かい余韻がある。が、その分、他の10編の余韻が消えてしまうのだ。本編には、人の一生の中で犯罪が一時期の出来事でしかないこと示されている。

‘2018/04/21-2018/04/22


神の子 下


上巻を通して少しずつまわりに心を開きはじめた町田。下巻では町田が社会に関わるに連れ、町田をめぐる人々の思惑がより活発になってゆく。

町田に執着するのはムロイの率いる犯罪組織だけではない。それ以外にも謎の組織が暗躍する。町田の過去に何があったのか。それを探るのは少年院の看守内藤。そして、ムロイの密命を帯び、少年院から町田につきまとう雨宮。二人の動きは、町田の周囲にうごめく組織を明るみに出して行く。

町田の周囲に暗躍する人々の思惑は混戦してゆく。そんな中、町田たちが興した企業STNがヒット商品を生み出し一躍時の企業となる。ところが謎の不審火が前原製作所を全焼させ、しかもSTNにも風評被害の魔の手が及ぶのだ。そんな状況に、町田は自らの過去と、それにまつわる犯罪組織が仲間に迷惑をかけることを恐れ、身を隠す。

ここで“仲間”という言葉が出てきた。本書下巻はこの“仲間”がキーワードとなる。

町田は相変わらず孤高の雰囲気をまとわせている。だが、上巻ではヤサグレていた姿の多かった町田に変化の兆しが表れる。本書は上下巻のどちらも会話文がとても多い。中でも町田が登場するシーンに会話が目立つ。町田はしゃべらないのに、周りがにぎやかに会話が交わされるため、町田の周りに仲間がいるかのように思えてくるのだ。下巻で町田から孤独な雰囲気が薄れたのにはもう一つわけがある。それは前原楓の存在が大きい。同居する町田を最初は疎んじたが、表向きの狷介さの裏に潜む優しさに気づいた楓はミステリアスな町田に惹かれて行く。町田がたとえ孤高のマントを身にまとっていても、気に掛けてくれる楓がいる限り、孤独ではない。

町田のような知能指数の高い人間が、社会に適応していくためには何が必要なのだろう。本書では犯罪組織の頭目ムロイの過去も暴かれて行く。ムロイも町田と同じく高い知能指数の持ち主。だが、町田とムロイには違いがある。ムロイは全てを自分で決め、部下に指示する。独りでも何でもできてしまう人間であるが故に、トップに君臨し、手足のように部下を使いこなす。だがそこには上下関係しかない。部下とは相互の信頼よりも利害と主従で結びついている。一方の町田は信頼と平等で仲間と交わる。トップダウンではなく、仲間と同じ視点で物事にあたってゆくのだ。本書に登場する二人の天才。ムロイと町田が周囲にどう関わるのか。それは一つの組織論として興味深く読める。

内藤による捜査は、ムロイの過去と町田の過去を交錯させてゆく。その過程でムロイの犯罪組織の全貌が暴かれてゆく。それにつれ、ムロイがなぜそれほどまでに町田に執着するのかが解き明かされてゆく。同じ知能を持つ同士ゆえ、ムロイは町田を諦められない。にもかかわらず、組織を束ねる上で二人の考え方の溝は容易には狭まらない。

上巻では社会の仕組みが人をどう守るのかというテーマが提示された。下巻では組織をどう構築するかがテーマとなるのだ。一人ではやれることに限度がある。そのため組織は欠かせない。その組織をトップダウンのピラミッド型で作るのか、それともフラット型の組織を構築するのか。

本書で町田は仲間という結びつきに自分と世間をつなぎとめる絆を求める。それは一つの選択だ。そして、私が目指す方向でもある。本書にはストーリーの行く末に一喜一憂しても楽しめるが、組織論や社会システム論から読んでも楽しめる。

上巻のレビューで本書は期待以上だったと書いた。それは、本書が単なる娯楽小説の枠に収まらず、考えさせられる視点も含んでいるからなのだ。

‘2017/01/19-2017/01/20


神の子 上


著者の作品を読むのは、久しぶりだ。江戸川乱歩賞を獲った『天使のナイフ』以来となる。

久々に著者の作品を読んでみようと思ったことに特に理由はない。図書館で見かけてたまたま手に取った。だが、本書は期待以上に一気に読ませてくれた。

まず、設定がいい。本書の主人公町田博史には戸籍がない。問題のある母に育てられ、出生届も出されずに育ったのだ。当然義務教育は受けていない。それなのに知能指数が非常に高い。そのような生い立ちに置かれた主人公の小説は読んだことがない。新鮮だ。

やがて町田は母に見切りを付けて家を出る。教育を受けたことのない町田少年が生きて行くには犯罪に手を染めるしかない。モラルを学ぶきっかけも受けられず、母からの情操教育もないのだから当たり前だ。

やがて町田は犯罪組織に拾われる。そこで町田は持って生まれた知能によって新しい犯罪の手口を生み出し、犯罪組織に巨額の利益をもたらす。道徳観念を持たないのだから弱者からはむしれるだけむしる。そこに良心の呵責はない。犯罪組織を束ねるムロイにとってはそんな町田が得がたい。だから厚遇する。ところが、それが面白くない人間もいる。伊達がそうだ。組織で頭角を現す伊達にとっては町田が目障りで仕方がない。その軋轢は町田が伊達を刺し殺す結果で終わる。町田は少年院に入ることと引き換えに組織から離れる。ここまでが本書のプロローグといってよい。

本書を読んでいると考えさせられることがたくさんある。それは今の日本の社会の仕組みについてだ。今の社会が完璧ではないことは誰もが知っている。たとえば多様な生き方への支援が足りないとか、弱者への福祉が不足しているとか。さまざまな不備が指摘される今の日本の社会制度。だが本書を読んでいるとまだまだとはいえ日本の社会制度も悪くないのではと思う。

今の日本の社会制度に人々が不安を抱くのは何についてだろう。それは、われわれの情報を国が握ることだ。例えば住基カードについて語られた議論などがそう。確かにそれは嫌だ。だが、それがなければ何も手当てがもらえない。それだけではなく教育や医療すらろくに受けられないのだ。町田には戸籍がなく、教育も福祉も受けられない状態で己の才覚だけで生き抜いてきた。それができるのは知能指数が160以上ある彼だからこそ。普通の人間は親から見捨てられ、戸籍がもらえない時点で社会から落ちこぼれる宿命を背負う。

町田には知能指数があったからまだいい。持って生まれた能力だけで世をしのいで行けるから。では、能力のない者が町田と同じ状況に置かれたらどうなる事か。そんな想像がはたらく。町田が異能を発揮すればするほど、彼のような才能を持たない者にとって、社会制度はありがたく思えるのではないだろうか。本書を読んでいると、この社会とは戸籍さえ持っていれば機能するセーフティネットなのでは、とすら思える。

町田のような戸籍を持たない人間には、犯罪に手を染めるか、施設の厄介になるほかない。しかし戸籍さえ持ってさえいればかろうじて教育や福祉は受けられる。町田は少年院の看守の内藤に出会う。内藤は自分の息子を非行に追いやったあげく、息子を事故死で失った傷を持つ。町田から何かを感じ取った内藤は、町田を気にかけるようになる。そして、保護司を通じて町田の社会復帰に力を尽くす。町田のようなケアが施される戸籍不所持の人はどれぐらいいるのだろうか。

他人に対して心を開かず、少年院の作文でもただ三つの単語で自分を表した町田。
「集団生活で大切なこと-」
-『猜疑』
「わたしの長所と短所-」
-『頭脳』
「わたしの家族について-」
-『売女』
という言葉で武装していた町田。はたして彼はどう変わってゆくのか。

そんな町田の周りには町田を見出したムロイの束ねる犯罪組織の手のものが暗躍する。その手は町田が収容された少年院にも及ぶ。そして町田の身元引受人となった前原悦子の製作所にも。町田は前原家の庇護を得て、大学に通わせてもらう。しかしムロイの息のかかったものは、大学にも、そしてそこで知り合った仲間たちで作った会社STNにも及ぼうとする。

本書は上巻として日本の社会制度の状況を説明しつつ、小説の展開を広げている。

‘2017/01/18-2017/01/19


解錠師


本書はMWA(アメリカ探偵作家クラブ)のエドガー賞(最優秀長編賞)とCWA(英国推理作家協会)のイアン・フレミング・スティール・ダガー賞を受賞している。受賞作品という冠は、本書の場合、本物だ。だてに受賞したわけではない。登場人物の造形、事件、謎、スリリングな展開、それらが本書にはそろっている。傑作というしかない。

本書には設定からしてユニークな点が多い。まず、本書の主人公はしゃべれない。八歳の時に起こった事件がもとで言葉を失ってしまったのだ。だから主人公は言葉を発しないけれど、主人公の心の動きは理解ができる。それは、主人公の視点で描かれているからだ。口に出して意志は伝えられないが、独白の形で主人公の心が読者には伝えられる。ているの動き、感情、そして読者は口がきけないことが思考にどう影響を与えるかを想いながら本書を読むことになる。マイク、またの名を奇跡の少年、ミルフォードの声なし、金の卵、若きゴースト、小僧、金庫破り、解錠師と呼ばれた男の物語を。

本書は、刑務所にいるマイクの独白で展開する。そのため、複数の時代が交互に登場する。最初は分かりにくいかもしれないが、著者も訳者も細心の注意を払ってくれているので、まず戸惑うことはないはずだ。それぞれの章の頭にはその時代が年月で書かれているし。

しゃべれなくなったマイクは、叔父リートの店を手伝いながら、店の古い錠前で錠前破りに興味を持ちつつ、コミュニケーション障害を持つ子供たちの学校に通う。進学した健常者の高校では絵の才能が開花する。そして親友のグリフィンと会う。しかしその出会いから、マイクの運命は変転を加えていくことになる。

卒業記念に強盗という無法を働こうとしたグループにグリフィンと巻き込まれたマイクは、押し入ったマーシュ家で独り捕まる。そこからマイクの運命はさらに変転を重ねる。マーシュ家で保護観察期間のプログラムとしてプール作りの労働に励むことになったマイク。そこでマイクは錠前破りの弟子としての道を示され、さらにマーシュの娘アメリアに出会う。マイクは錠前破りのプロとして独り立ちし、たくさんの犯罪現場の場数を踏む。その後もマイクの独房での独白は進んでゆくのだが、それ以上は語らないでおきたい。

本書のユニークな点は、錠前破りの論理的な部分を図解なしで紹介することにある。金庫の錠前を破るにはロジックの理解と指先の微妙な感覚を検知する能力が求められる。シリンダーの細かい組み合わせと、そのわずかなひっかかりを基に正しい組み合わせを逆算出するのだから当然だ。もちろん、本書を読んだだけで誰でも錠前破りになれるわけではない。だが、図解なしにそういったセンシティブな部分を書き込むにはかなりの労力を要したことだろう。著者略歴によれば著者はIBM出身だそうだ。本書のロジカルな部分にIBMのセンスが現れている。

だが、本書で見逃せないユニークな点は、マイクとアメリアの間に交わされる絵によるコミュニケーションだ。最初はマイクからアメリアへのポートレイトのプレゼントから始まる。夜間にマーシュ家に忍び込み、寝ているアメリアの横にポートレイトを置いて帰るという向こう見ずな行い。それに気づいたアメリカからの返信の絵。寝室で合った二人は、声を交わす前からすでに恋人同士のコミュニケーションが成り立っている。

むしろ本書は、マイクとアメリアの若い恋人によるラブストーリーと読んでもよいかもしれない。声が出せなくても、マイクには絵という感情と、表情と身ぶりでを想いを伝える手段がある。声を出さないことでアメリアへの思いが発散し、薄れてしまわないように。マイクの内に秘めた熱い感情は声なしでアメリアに伝わってゆく。声というのはもっとも簡単な伝達手段だ。だが、たとえ声が出せなくても絶望することはないのだ。マイクからは口がきけないことを後ろ向きに感じさせない強さがある。

先に、著者がIBM出身であることを書いた。IBMは声を使わない情報伝達を本業としている。そんなIBM出身の著者だからこそ、口がきけないマイクとアメリアの交流を考え付いたのだろうか。多分、ヒントにはなったかもしれないが、それ以上に著者は考えたはずだ。口を使わない情報伝達の限界を。それは単にロジックを考えればよい問題ではない。心と感情について、著者は深く考えぬいたのだろう。心の描写をゆるがせにしなかったことが本書を優れた作品に持ち上げたのだと思う。

マイクから言葉を奪った事件も本書の終わりのほうで語られる。それは、八歳の少年から声を奪うに十分な出来事だ。そんな出来事があったにも関わらず、マイクは強い。芯から強い。アクの強い犯罪者たちの間に伍して冷静に錠前破りができるほどに強い。声を出せないことがマイクをそのように強くしたのか。それとも、そのような試練に打ち勝てるだけの素質がもともとあったのか。マイクの強さと心のまっすぐさは、犯罪を扱っている本書であるがゆえに、かえって強く印象付けられた。

おそらく本書の魅力とは、マイクのひたむきな前向きさにあると思う。

‘2016/08/29-2016/09/05


天上の青 下


上巻を通して宇野富士男の性格は充分すぎるほど読者に披露された。一見すると穏やかそうに見えて話も達者。だが、一度、自分に都合の悪いことが起こると気の短さが爆発し、見境のない行動に走る。そういう性格の持ち主は、権威にも激しい敵意を示す傾向にあると思う。

富士男の悪い面は、偶然の出会いで車に乗せた少年に対して顕著に現れる。11歳のひどく大人びた、生意気な口調で話す少年。気圧された富士男は不機嫌が募ってゆく。少年は父が検事であることを誇示し、悪いヤツは罰せられるべきだと持論を振るう。少年との会話は富士男の衝動に火をつける。そして、「僕を殺したりすると、国家的損失だよ」の言葉に富士男の理性は吹き飛ぶ。自分よりもかなり年下の少年との会話にむきになり、自制のできない富士男の幼さが出てしまう瞬間だ。少年の死と家への帰りに引き起こした交通事故が富士男の命取りとなる。

逮捕と勾留。富士男を取り調べるのは、財部警部補と檜垣巡査部長のコンビだ。取調室で取り調べと韜晦のせめぎ合いが始まる。富士男がのらりくらりと尋問をかわしても警察の組織力が次々と矛盾を暴いてゆく。富士男視点で尋問は進むので、いわゆる犯人からの視点で物語が進む倒叙型のミステリーとでもいおうか。読者は富士男がいかにして尋問を切り抜けるのか、または、彼の狡知を警察がいかに破ってゆくかに興味を惹かれるはずだ。会話の巧みさを自負していた富士男をあざ笑うかのように、証拠が次々と富士男を打ちのめしにかかる。富士男と警察の駆け引きがとてもスリリングでリアルだ。私は著者の作品をあまり読んでいないが、推理小説作家としては認知されていないように思う。だが、取り調べのシーンは間違いなくミステリを読んでいるようだった。著者の作家としての筆力を見せられたように思う。

でも、いくら著者が達者に尋問経過を書き込もうと、本書は事件の意外な真相を描くのではなく、罪と罰、そして救いを描く小説だ。そのため、土壇場で予期せぬ事実が判明することはないし、富士男の替わりに真犯人が現れることもなく、まだ見ぬ共犯者が現れることもない。著者は富士男の罪の意外な事実を暴くよりも、波多雪子の無垢な視点で富士男の罪を考えさせる。それによって読者は波多雪子に興味の視点を注ぐのだ。波多雪子の心がどのように揺れ動き、富士男の罪とどう折り合いをつけてゆくのか。

波多雪子は獄中の富士男に向って手紙を書く。手紙の中で波多雪子が書いた一文にこのようなくだりがある。「お互いに小細工はよしましょう。生きることは小細工では追いつかない、骨太なシナリオを持っているように私は思うのです」。さらに、富士男がレイプした女性の家族がたまたま波多雪子の知り合いだったことから、一つの家族が富士男の行いによって崩壊しつつあることを非難し突き放す。一方で、富士男がたまたま車に乗せ、殺さずに会話を交わして送り出した女性は富士男との会話によって自殺を思いとどまる。その女性も波多雪子の知り合いだった。波多雪子は、富士男が一人の少年や家族を壊しただけでなく、一人の女性を救ったことも思い返す。波多雪子は、投函せずに手元に置いておくつもりだった手紙にお礼と続きを加え、手伝えることがあれば手伝うと申し出る。

取調室で自分だけが被害者だと世をひがんで見せる富士男。そんな富士男に、檜垣巡査部長が自分は捨て子だと明かし、富士男の甘ったれた根性にぐさりと切り込む。檜垣巡査部長は、取り調べに当たった刑事の中でも富士男の心情を見抜き、富士男の心を融かす波長をもつ人物だ。ちょうど大久保清にとっての落合刑事のように。そんな檜垣巡査部長は、富士男の人物を理解するための糸口を求めて波多雪子のもとを訪ねる。そこで波多雪子が語る「どなたにせよ、この世で私のことを思い出して訪ねて来てくださる方がいらっしゃるなんて、私、光栄だと思っていますから」という言葉は檜垣巡査部長を圧倒する。檜垣巡査部長は、この言葉だけで富士男と波多雪子の関係にただれた部分がなかったことを確信させたことだろう。そして檜垣巡査部長は、富士男が弁護士を紹介してくれるよう頼んでいることを波多雪子に伝える。富士男は、義兄の三郎がよこした国選弁護士の話を蹴ったのだ。波多雪子の紹介してくれた弁護士なら、という富士男。それを聞いた波多雪子は、自分こそが富士男にとって唯一残された蜘蛛の糸であることを自覚する。蜘蛛の糸とは、仏が地獄に垂らした一本の糸をさしているのだろう。罪人たちが我先にと糸にとりついたために、切れてしまった仏教説話は有名だ。波多雪子は富士男のこころを罪からすくい上げられるのだろうか。

知り合いに弁護士のいない波多雪子は、偶然、風見渚という弁護士と知り合う。宇野富士男の弁護を引き受けられないか、とおずおずと切り出す波多雪子に、風見渚はこう答える。「私、結婚するとき、主人に言われたんです。弁護士をやるなら、一生、道楽でやれ、って。最低食うだけは僕が引き受けてやる。だからお金になるかならないか、ということじゃなくて、この事件の弁護に自分が関わることが、自分にも相手にも意味がある、と思うものだけやれ、って言われたんです」。宇野富士男から波多雪子、そして風見渚へと弁護の糸は流れるようにつながってゆく。ここまでの流れに著者のご都合主義は感じられない。

今となってはもはや、宇野富士夫と大久保清の事件を比べることに意味は薄れつつある。なぜなら、波多雪子の視点が中心となった本書は、大久保清をモデルとしただけの小説ではなくなってきているから。それでもあえて私は大久保清の事件をベースに本書を読んでみたいと思う。私は大久保清の弁護人に選任された方の名前を知らない。その方が弁護人としての本書の風見渚のように高邁な哲学を持っていたのかも知らない。もし、大久保清に波多雪子や風見渚のような精神的な支柱があれば、さぞ心強かっただろうと思う。

波多雪子から宇野富士男にあてた手紙には、風見渚に弁護を頼んだことと、「人間は自分のことを人に語らせてはいけません。それは、第一自分に対して失礼です。」というくだりがある。大久保清は「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」と題された手記を発表している。大久保清はそういう形で世間に対して自分を語ろうとした。この書を発行したのはアナーキストの肩書を持つ大島英三郎氏となっている。大島氏がどういう経歴の方かは知らないが、波多雪子が宇野富士男と書簡を交わしたように、大久保清も大島英三郎氏と書簡を交わしたのだろう。本書では以降、宇野富士男の心のうちが書簡の形で表現される。

宇野富士男が、現場検証で連れていかれた海を見て、感慨にふけるシーンがある。少し長いが引用してみる。
「富士男は静かに海の香りを鼻の穴に通した。そして眼をつぶった。その頬は微笑していた。その瞬間、彼は自分がどこに、どんな人生を背負って生きているかを忘れることができた。富士男は自分が小さな気泡になって海へ溶け込む実感を味わった。それは自分が無限に小さくなり、何者かに抱かれる感覚であった。小さくなると、自分の中に内包されていた悪も小さくなるのか。そうは行かない、と人々は言うであろう。しかし偉大になることに血道を上げる奴もいるとすれば、自分が小さくなることに安らぎを見出す人間もいる。それは、常に大きなものになろうと背伸びし、大きなものがいいものだと信じ、大きなものにしか存在の価値はないと思い込んできた常識に対する不遜な反抗の開館であった。」
「富士男は一瞬海に向かって頭を垂れた。富士男は海を見ることはこれが最後だろう、と予感した。だから富士男は海に訣別の挨拶を送り、もう一度しみじみとその無垢な喜びの色を見つめたのだった。」
このシーンは、多分、大久保清が生前出版した「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」を意識しているのだろう。私はその手記は読んだことがない。だが、この手記には詩も載っており、その中で大久保清はこのようなことを書いている。
「父母よ!私の骨と灰は
 あなたがたにお願いしました
 その梓川の清き流れに
 私の全部を託して、長い旅に出ます
 そして何日かかるかわからねど
 きっとナホトカの港までゆくでしょう」

私はここにきて、著者が本書の舞台を三浦半島にした理由をおぼろげながら理解した。天上の青はアサガオの花弁の青。そして湘南の海の青、空の青。そして、自らの罪を清める清浄さの象徴としての青。罪は川となって流れ、海へと至る。そこに人の貴賤はない。人の裁きではなく、自然の、神の摂理によって罪は海へと流れゆく。その海の色はどこまでも青い。

富士男への書簡で、波多雪子はクリスチャンとしてキリスト教の話題を持ち出しては、富士男の心を少しでも改悛に導こうとする。だが、富士男は神だけは受け入れられないと拒絶する。波多雪子はそんな富士男のかたくなさに、少しも逆らわず、諭すように言葉をつむいでゆく。もともと自然の摂理に従い、自分に大いなる意志や役割を求めない姿勢で生きている波多雪子。人間の社会では全ては法廷という人による裁きの場で決着がつけられる。だが、波多雪子にとってはそうではない。キリスト教の教えでは、道徳については「裁くなかれ」と神がおっしゃったので人が人を裁くべきではないという。

そんな富士男に極刑の判決が下る。それにたいし、富士男は短く、
「たった一言、答えを聞かせてほしい。
 愛していてくれるなら、控訴はしない」
と。

波多雪子はそれに対し、
「同じ時に生まれ合わせて、偶然あなたを知り、私はあなたの存在を悲しみつつ、深く愛しました。
 この一言を書くのに、この二日を、苦しみ抜きました」
と返す。

波多雪子はこの一言が宇野富士男の刑を確定させ、死に追いやったと深く思い悩む。富士男は欲望の赴くままに残虐に人を殺したが、自分もまた、同じ殺人の罪を犯したのではないか、と。

しかし、著者はそれとは逆のことを言いたかったのではないか。愛するという言葉は、富士男に控訴という自我を捨てさせた。富士男はとうとう改悛の情を示さなかったかもしれないが、彼は法廷で自らの自白をひるがえさず罪を認めた。それは罪を自覚したからの態度ではなかったか。そして、波多雪子からの愛しました、との言葉を受けて控訴せず罪に服した。これは一つの罪を悔いた態度とみてよいのではないか。著者は暗にこう問うているのではないか。波多雪子の愛は、ついに一人の殺人犯に自らの犯した罪を心の底から自覚させたと。

大久保清がここまでの境地に至ったのか、それは知らない。だが宇野富士夫は、波多雪子によって一つの境地に至ったのだと思う。シリアルキラーだったかもしれないが、一人の罪人として死ぬことができたに違いない。

‘2016/08/17-2016/08/19


天上の青 上


映画『羊たちの沈黙』で一躍有名になったのが、プロファイリングという言葉だ。犯罪現場を詳細に分析することで犯行の手口や犯人像を類推し、捜査にいかす手法。シャーロック・ホームズの捜査手法を現代風に置き換えたと言えば乱暴か。残虐な連続殺人犯をシリアルキラーと呼ぶことを知ったのもこの頃だ。

海外では、アンドレイ・チカチーロやテッド・バンディといった人物がシリアルキラーとして知られている。では、我が国ではそれに相当する人物はいるのだろうか。私の知る限り、和製シリアルキラーとして著名なのが大久保清だ。大久保清とは、若い女性八人の連続強姦殺人犯である。昭和40年代半ばの群馬県を舞台とした一連の事件で名を轟かせた。

本書は、その大久保清をモデルにした小説だ。大久保清の犯罪で注目を浴びたのは犯行にいたるまでの手口だ。その手口とは、女性に声をかける誘い方の洗練さに特徴があった。ベレー帽にルパシカを着た知的な自由人、つまり画家として振る舞った大久保清は、自家用車に乗って女性に声をかけていたという。そのような出で立ちの人物は当時の群馬では珍しかったのかもしれない。モデルにならないか、という彼の言葉は信ぴょう性を帯び、被害者はやすやすと誘いに乗ってしまったのだろう。

大久保清について書かれた文章の多くは、表面に現れた事実を詳しく述べている。だが、大久保清の内面を掘り下げ、何が彼を犯行に至らせたのか、について納得のいく文章には巡り合ったことがない。おそらくは私が知らないだけなのだと思う。刑務所で大久保清を担当した教誨師や取り調べにあたった刑事が、大久保清を語った文章はどこかにあるのかもしれない。ただ、それらの文章もどこまで大久保清の内面に迫れたのかは、誰にも分らない。他人の心のうちを知ることなど、しょせん今の科学では不可能なのかもしれない。

著者は小説という手段で大久保清の心にアプローチを試みる。大久保清の心に迫れないにしろ、小説家の創作力によって架空の人物を作り上げられる。著者が本書を執筆しようとしたきっかけはよく知らない。だが、本書では大久保清をモデルとした宇野富士男の造形に成功している。本書の主人公、宇野富士男がどこまで大久保清の忠実な模倣かどうか、それはもはや誰にも分からない。大切なのは、宇野富士男が犯した罪や彼の内面を描くことで、犯罪に深く迫ることだ。

大久保清の事件は群馬を舞台とした連続殺人だった。群馬といえば赤城、榛名、草津といった山国のイメージが思い浮かぶ。平野もあるが、海とは無縁。一方、本書は三浦半島を舞台としている。三浦半島といえば海のイメージが強い。そのため、どことなく作品全体にすがすがしさが感じられる。タイトルの天上の青とは、波多雪子が育てている朝顔の品種名を指している。青、とは花弁の青を差すが、湘南の海の青、空の青も含めているはずだ。その青は波多雪子の心のありようを映しだしている。波多雪子は、本書では宇野富士男と同じくらい重要だ登場人物だ。波多雪子こそが、本書に大久保清事件と違う色合いを与えている。そのことが青の色合いで引き立っているかのようだ。

群馬の緑や土色の中では、大久保清の外観がより洗練さを目立たせた。一方の本書では、青色が外見の洗練さを目立たなくさせ、逆に心のいびつさを浮き彫りにしている。

私は大久保清事件の全経過を詳しく知らない。私の情報ソースとは、いくつかのウェブ記事ぐらいが関の山。なので、波多雪子に相当する人物が実在したのかは定かではない。私の予感では、波多雪子のモデルはいなかったのではないか。なぜならば、波多雪子とは著者の宗教観を投影した人物だから。

著者はクリスチャンとして知られている。私はあまり著者の作品は読んでいないが、カトリックの洗礼を受けた立場からの著作を出している。キリスト教の神とは父性が強調されがちだ。牧師や司祭など聖職者にも男性が多い。だが、キリスト教は父性だけではない。聖母マリアに代表されるように母なる者も教義に取り入れられている。宇野富士男の罪に対しておかれたのが、母性の象徴である波多雪子なのだと思う。

宇野富士男の犯罪に、波多雪子の存在はどう影響を与えるのか。冒頭で富士男は、朝顔の色に惹かれて立ち寄ったといって波多雪子に声をかける。そして後日、種を取りに再びやってくる。その時点では富士男とは、波多雪子にはなにげなく気になる人物として映るだけだ。そんな波多雪子の視点は、富士男に渡したはずの朝顔の種が捨てられているのに気づいた時点でにわかに曇る。

つづいて物語は富士男の視点に替わる。富士男の視点からみた世界とは、不満の対象でしかない日常を指す。富士男は離婚して実家が営む青果店の上にある住居のさらに屋上に住まっている。両親と同居しているとはいえ、富士男にとっての両親は存在感が薄い。姉の夫、富士男にとっては義兄にあたる三郎が青果店を実質切り盛りしていて、遊び暮らす富士男とは犬猿の仲だ。両親は富士男をかばうが、さりとて三郎に気兼ねしている。そんな状況に富士男のストレスは募るばかりだ。鬱憤のはけ口を街での女漁りに見いだすしかない。あてもなく車を走らせては行きずりの女に近づき、ホテルに誘い込む毎日。話術が達者なので会話には事欠かない。そんな富士男の気楽な日々は、女を誘うためについたうそがばれてしまい、行きずりのよう子に危険を感じさせてしまう。車から逃げようとしたよう子を、動転した富士男は殺めてしまう。

ここで重要なのが、波多雪子の視点で富士男からかけられる言葉と、富士男の視点で女たちに発する言葉に差がないことだ。波多雪子も富士男にドライブに度々誘われるが、雪子は他の女たちと違って一線を越えさせることがない。ここで波多雪子が対応を誤れば、他の女たちと同じレベルの女になってしまう。富士男にとって波多雪子とは、他の女たちと同じではない。波多雪子がまとう節度、そして他の存在の意志に自分の存在を預けているかのような波多雪子のふるまいは、富士男に単なる女とは違う何かを感じさせる。明らかに著者は、波多雪子を富士男の聖母として描いている。

富士男は波多雪子の家に入り浸り、それでいて清い関係を続ける。その一方で女漁りに精を出し、文字通り精を出しては、逃げられたり、殺めたり、強姦したり、気まぐれに裸で逃がしたり、何もせず放り出したり、ちょっかいを出さずに送り出したり、と次第に節操を失ってゆく。

大久保清の犯行と本書で描かれる富士男の犯行は違う。だが、本質的には同じなのだろう。大久保清も母親に溺愛され、両親に繰り返し庇ってもらい育ったという。確かに、本書で三郎に相当する人物は大久保清の場合次兄だった。そして、大久保清は最初の殺人に手を染める前に二度も逮捕収監を繰り返している。そんな経歴も富士男にはない。あくまでも本書は大久保清をモデルとした小説でしかないのだから。

だからこそ、著者は自由に富士男を創造する。考え方が幼く短絡的な富士男を。口は達者で、聞きかじった知識だけは豊かな富士男を。自分にとって物事がうまくいくときは、いたって紳士的に振る舞える富士男を。ひとたび気にくわないことや反抗的な態度をとられると、途端に衝動に任せて凶暴な男に豹変する富士男を。

著者はそんな富士男の対極として波多雪子を創造した。慎ましく、控えめで、それでいて芯を持つ女性として。上巻の最後には腕枕をしあう仲となる二人だが、それでも一線は越えない。そんな清い関係を続けながらも、他方で富士男は五人を死に至らしめ、幾人をもレイプする。富士男という一人の人格の中で極端な行為が両立すること。そこに、大久保清の事件ではない著者が創作したエッセンスがあると思う。だが、下巻ではさらに著者が本書で訴えたい点が描かれていく。

‘2016/08/12-2016/08/17


二流小説家


宝島社の「このミステリがすごい」は私が毎年必ず買い求めるガイド本だ。本書は「このミステリがすごい」2012年版の海外部門で一位になっている。

主人公は売れない作家。そのため、ポルノやミステリ、SFなどジャンルごとに筆名を使い分けている。糊口をしのぐためSM雑誌で相談者に扮して読者からの相談を受けていた時期もある。

そんな彼のもとに著名なシリアルキラー、ダリアン・クレイから手紙が届く。

クレイは12年前に死刑判決を受け服役中の身だ。彼の犯罪は殺人だけにとどまらない。人体を愚弄しきった、残虐かつ凄惨な処置を四人の被害者の死体に加えたのだ。その全貌は明るみになっておらず、遺体の頭部はいまだに見つかっていない。

手紙の中で、クレイは相談者ハリーの回答文に注目していたと述べる。さらに全ての事実を告白するからその告白本の著者にならないか、と申し出る。

黙殺するにはあまりにも魅力的な話。興味を惹かれ、ハリーは刑務所に面会に行く。面会の結果はハリーよりも、むしろクレアの興味を激しく沸き立たせる。クレアはハリーがアルバイトでやっている家庭教師の教え子で女子高生。今では教え子の立場を超えてハリーの作家業のエージェントまで買って出てくれている。ハリーの名が一気に有名になる千載一遇のチャンスにクレアが舞い上がってしまう。

しかし、ハリーが面会の場でクレイから出された執筆条件はとても奇妙なものだった。クレイのようなシリアルキラーに憧れ、歪んだ妄想に浸る人物は多い。クレイのもとにはそういう情欲をもつ女性から、常軌を逸したレターが届く。

ハリーがクレイから頼まれたのは、それらの女性に逢うこと。そして、彼女達とクレイの濡れ場を描いたポルノ小説を執筆すること。その執筆と引き換えに少しずつ告白をしようというのがクレイの出した条件だ。

気が進まないながらもしぶしぶ女性たちに会うハリー。ひと通り話を聞き終わったハリーは、再び最初に話を聞いた女性のもとを訪れる。そこでハリーが目にしたのは、クレイによる犯罪を思わせるグロテスクな死体。危険を感じたハリーは同様に逢って話を聞いた残りの二人の家に駆けつける。だが、すでにその場は殺戮と凄惨な処置を加えられた慘死体で彩られていた。これが本書の序盤の筋書きだ。

エロとグロにまみれた本書の語り手はハリー本人。ハリーは自らを二流の作家として自嘲している。家庭教師のバイトをこなさねばならない低収入。クレイの誘いに乗ってしまうほど名声に飢えている現状。

それでいながら、本書はハリーの語りに読み応えがある。読者に語りかけるようなハリーの語り口は当事者でありながら他人事のようだ。その客観的な語りと視点は、エロとグロにまみれ低俗な読み物となってしまいがちな本書を引き締める。エロとグロをここまで描きながら客観的な視点を保ち続けられるのは、著者が実際にポルノ業界に身をおいていたからかもしれない。本書には相当に踏み込んだ描写も出てくるが、品を失わない著者の筆さばきは見事というほかない。

それには訳者の功も大きいだろう。本書には女性にとっては口にするのも憚られるような描写が幾度も出てくる。しかし訳者は女性でありながら、怯むことなく訳しきっている。訳者のプロ意識に対して失礼を承知で、評価させて頂きたい。

実際、本書は筋書きや謎解きも一級品だ。それだけでも優れたミステリとして読める。だがそれ以上にハリーの語り口が本書の優れた点だ。ハリーの語りはともすればミステリに慣れた読者の先手を行く。読者に語りかけながら読者を導く筆致。それは、絶妙に読者を幻惑させる。

エロとグロに加え、登場人物達も脇役に至るまできっちり書かれている。となれば、本書にけちをつける余地はないだろう。

強いていえば一つだけ引っかかる点がある。それは犯人の素性について。果たして日本では、この犯人でここまでの犯罪は可能なのだろうか。きっと成り立たないはずだ。もしくはアメリカの制度だから許されるのだろうか。そこが私には分からなかった。この点は本書の謎に直結する部分なのでこれ以上書かない。だが、私の中で少しの引っ掛かりとして残った。

もちろん、本書の完成度にとっては些細なことでしかないのは勿論だが。

‘2016/04/21-2016/04/26


ソロモンの偽証 第Ⅲ部 法廷


第三部は、初公判から閉廷に至るまでの裁判の過程が描かれる。ど素人の中学三年生による裁判が果たしてうまくいくのか。著者はその部分をどのように書き切るのか。本書の筋や真相だけでなく、著者の手腕に興味は尽きない。

中学生が中学生だけで裁判をやりきる。著者は判事役の井上康夫や検事役の藤野涼子、そして弁護人の神原和彦をどのような役回りで演じさせるのか。裁判をつつがなく進めさせるため、著者は彼ら三人にいくらなんでも弁が立ち過ぎじゃないの、と思わせるほどに弁論させる。語らせる。第一部のレビューで彼らに感情移入できないと書いたのは、その弁論のあまりの達者さについてだ。

だが、それだけ喋らせただけのことはあり、本書の展開は法曹ミステリ―のそれを地で行っている。実に見事なものだ。第一部で謎は提示され、起こるべくしてさまざまな出来事も起きた。第二部では中学生たちが大人への反旗を翻しながら、日々をフル活用して調査を進める。そして本書第三部では謎解きが中心となる。

法廷ミステリ―に付き物の展開としてよくあるのは、意外な証人が出てきて爆弾発言をすることだ。証人が口にする想定外の発言によって新たな展開が産まれ、謎が増幅され波紋を呼ぶ。本書もまた法廷ミステリーの骨法に則り、予想外の証人が次々と登場する。そこで第一部、第二部と細やかに丁寧に書き綴ってきた著者の努力が実を結ぶ。今までの出来事を疎かに書いていたら、本書で登場する証人たちが唐突で、とって付けた感じが出てしまう。

裁判に召喚される証人たちの多くは大人たちだ。中学生の扮する検事や弁護人が大人を証人喚問し、その証言に揚げ足を取り、被告または原告に都合の良い方向に法廷の空気を誘導する。本書で描かれる丁々発止のやりとりは、正直なところ中学生には荷が重すぎると思える。だが、それは置いておこう。彼らはあまりにも優秀すぎる中学生なのだから。

本書第三部で肝となる人物は三宅樹里だ。柏木卓也の事件が学校の枠をはみ出て社会的な事件になってしまったのは、彼女の作った告発状がマスコミに漏れたからだ。三宅樹里と一緒に告発の手紙を投函した友人の浅井松子は、良心の呵責から真相を暴露しようとしたところ、三宅樹里の目の前でトラックに轢かれてしまう。浅井松子の死の真相はいったいどこにあるのか。ひどいニキビでいじめられ、性格がねじくれてしまった彼女こそが、著者にとって本書の中で一番書きづらい人物だったことは想像できる。

思春期の女の子が容姿を気にするのはとても自然だ。ねたみやそねみなどを胸のうちに隠しながら、他人とどうやって折り合いを付けていくのか。女の子の悩みは深い。私も娘を持つ身としてなんとなく分かる。でも、彼女たちがどのような想いを抱いているかについては、全く想像が及ばないのも事実だ。一見すると穏当な父娘関係を築き上げているかに(私自身は)思っている私と娘ですら、私が思っているよりもはるかに闇に塗れているのかもしれない。

第一部から三宅樹里が放つどす黒い闇の念。それは、彼女が浅井松子の死によって口が利けなくなってからも衰えるどころかますます暗さを増す。いかにして彼女を証人として呼び出すか。検事側と弁護側の駆け引きが盛んにおこなわれる。

三宅樹里と大出俊次。同じ嫌われ者同士。二人の間にあるいじめと報復の関係が、柏木卓也の墜落死をさらなる混乱に導いたともいえる。かれらの苦しみが法廷の場でどこまで暴かれ、どのように浄化されるのか。いじめやねたみはなぜ起きてしまうのか。けがれなき思春期という幻想は嘘であり、実はすでに大人の世界に半分足を踏み入れてしまっている城東第三中の彼らは、その燃え盛る激情を鎮めるすべも知らずに暴走してしまう。

中学生の抱える爆発寸前の悩みは、大人になりたくもあり、なりたくもない微妙な年頃に特有だ。自分の思いが世の中に受け入れられない悩み。また、受け入れてもらうための方法が分からない苦しみ。ただ、肥大した自我だけが膨張する年齢。第一部のレビューに書いた厨二病とは、中学生の自我が必ず通過する成長の痛みであり、人生にとって欠かせない宿痾なのかもしれない。

本書の発端となった柏木卓也墜死事件もそう。自分には止めようもない自我の暴走によって引き起こされた不幸な出来事。その自我に目を配り、暴走を止める責任までを全て教育現場に求めるのは酷といえないだろうか。

最終論告が終わった後、評決を前にして茂木記者と津崎校長が対峙する場面がある。その中で茂木はこのようにいう。
「学校という制度は、この社会の必要悪です。僕はその悪と戦っている」
それに対して津崎校長は「よくわかります。だが、悪といえども“必要”ならば、私はそのなかで最善を尽くしたいと願い、努めてきました」。
このようなやり取りは、作り事でない教育現場を巡る本音の会話なのだろう。本書が傑作である理由とは、教育現場を悪と見なして終わり、と紋切型に描かないことだ。暴発寸前の自我を抱えた何百人の中学生を、その何十分の一の人数の教師たちで運営する。それはどれだけ至難の業か。そのことに中学を卒業して何十年もたって、ようやく気づいた。しかも本書と違って今の中学生にはLINEもメールもinstgramもある。娘たちの学校の出来事もある程度聞いているけど、リアルだけでなくネットの中の世界にも気配りが必要な先生って大変だなぁ、と。

そんな思いを感じたからこそ、本書で明かされる真実はやるせない。そしてとても切ない。

本書は三部作の中でも法曹ミステリーの要素が強いと冒頭に書いた。でも、本書は単なる推理ゲームには堕さない。それどころか、裁判という場を借りて中学生の抱える闇と戸惑いと不安を描き尽した人生小説である。

本書のエピローグは2010年に飛ぶ。城東第三中学に教師として赴任したある人物のモノローグで進められる。もちろんその人物とは学校内裁判に登場した主要人物である。

第一部のレビューで、本書の時代と世代が私とほぼ同じことにシンパシーを感じると書いた。私もあの時代をとも過ごしたのだから。エピローグに登場する彼の言葉こそ、同じ裁判を体験した仲間にしかいえない実感がこもっている。殻をかぶっていた私も、自分の中学生活を振り返って、思うことが沢山あった。なんだかんだといろんなことがあった中学時代だったなぁと。よくぞあの時期を乗り越えてきたなぁと。本書のエピローグが2010年だったことで、私にも自分自身の中学時代を振り返るきっかけとなった。

エピローグに登場するのは、その人物だけだ。他に裁判を共にした人々のその後の消息は出てこない。でも、彼の言葉が泣かせるのだ。「あの裁判が終わってから、僕ら」・・・・「友達になりました」。彼が教師であるだけになおさら、20年経ってから振り返る中学生の時期に実感が沸くのだろう。生きていればどれほど壮絶なことがあっても幸せに振り返ることができるのだ。

そんな心に沁みるメッセージで本書は幕を閉じる。間違いなく本書は傑作といえる。

‘2016/01/23-2016/01/25


ソロモンの偽証 第II部 決意


第一部の最後は、藤野涼子による決意の言葉で締められた。第二部は、その決意の提案から始まる。城東第三中学校では、恒例行事として三年生が卒業制作を行うことになっている。その卒業制作を学校内裁判を開くことに充てたい、というのが藤野涼子の提案だ。

優等生である藤野涼子が決意を表明した時、学年主任の高木先生は優等生の予期せぬ反抗に目をむき、逆上のあまり平手で頬を打ってしまう。そして藤野涼子はしたたかにも平手打ちの件を訴えないかわりに学校内裁判を開く権利を勝ち取る。大人の言うがままに操られ、真相から遠ざけられたままで中学生活を終わりたくない。そんな藤野涼子の叫びはクラスに波乱を巻き起こす。裁判の期間は夏休みの2週間。高校受験を控えた中三生にそんな暇があるのか、と拒絶やためらいが乱れ飛ぶ。しかし、有志の生徒たちが少しずつ手を挙げ、検事・弁護人・陪審員・判事が決まってゆく。

だが、肝心の被告である大出俊次の意思はまったく顧みられていない。被告が白黒つけたいと意思を示さない限り、原告のいないこの裁判はそもそも成り立たない。そこで生徒たちを応援する北尾教諭は勝木恵子を仲間に入れる。彼女は大出俊次の元カノ(90年当時にこの言葉は一般的じゃなかったと思う)であり、捨てられた格好となった今も大出俊次のため尽くしたいとの意思を持っている。彼女が仲立ちとなり、大出俊次に被告人の立場で裁判に出廷してもらうためお願いに行く裁判関係者たち。

その中には弁護人の任についた神原和彦が加わっている。彼は他校生だが柏木卓也とは親しい。それもあって彼の死の謎を解くため協力を申し出たのだ。学校内裁判の弁護人に新たな一員が加わった今、大出俊次をどう口説き、どうやって裁判の場に引っ張り出すのか。

大出俊次は自他共に認める札付きの不良だ。とはいえ、周りの皆から殺人犯と見なされて平然としていられるほど図太くはない。図体も態度もふてぶてしいようでいて、そこはまだ中学生なのだ。そんな不安定で危うい彼の心理を著者は細やかに描き出す。大出俊次だけではない。勝木恵子、藤野涼子、野田健一、そして神原和彦。彼ら中学生の壊れそうに揺れ動く心のひだを著者はとても丁寧に、細やかに描く。第一巻のレビューで、私は本書に登場する中学生たちに感情移入できなかったと書いたが、それは彼らの行動そのものへの感想であって、中学生の心を描き出す著者の切り込み方には共感できる。きっと私も中学生の頃はこういう心の振れ方をしていたんだろうなぁ、と。

裁判を開こうとする藤野涼子の意図は、上辺だけで考えると無理な流れに思える。しかしこの裁判に法的拘束力はない。真似事であってもいいと先生方が黙認する中、裁判の実現に向けて彼女は懸命に努力する。この流れに少しでも作者のご都合主義が混じると読者は白けてしまう。なので、著者の筆は丁寧に丁寧に裁判開催までの経緯を紡ぎ続ける。中学生が無理なく裁判を実現するための能力と心の有り様に気を配りながら。中学生とはこうであったか、とかつて中学生だった私にも納得できるくらい丁寧に。本書の紙数がこれだけ増えてしまったのも無理もない。

中学生が裁判を開く。それは、中学生が大人の世界に足を踏み出すには格好のイベントだ。イベントとはいえ遊び半分ではない。きちんと裁判の前提や手続きに則っている。それが法的に無効なだけであって、彼らは真剣に裁判を行い事実を明らかにしたいと願っているのだ。

藤野涼子は叫ぶ。「あたしたちは、いろんなことを聞かれて、書かれて、憶測されて、想像されるんだ。何にも確かなことを教えてもらえないまんまで。あなたたちは知らなくていいことですって」

私は、第一部のレビューに書いた通り、のほほんとした無個性のノンポリ中学生だった。なので、藤野涼子が抱いたような深い不信を大人たちに抱いてなかった。でも、私の中学時代は無風平穏な日々ではなかった。校長室にも呼び出されたし、警察にも呼び出されたし、個人面談では担任より攻撃された。友人に大金を盗まれたことだってある。二度にわたって足の手術を受け、合計で1ヶ月はベッドの上にいた。多分、私は自分が思っている以上に親を嘆かせた中学生だったと思う。しかも、どれも私が自ら動いたのではなく、周りに引きずられて。今、こうやって中学時代の自分を思い返しても、反抗期でもなかったのに反省することばかりだ。私個人の反抗期は中学時代ではなくずっとのちにやってきた。大学を出た後、真っ当に新卒就職の道を歩まないことが反抗と信じて。

そんなわけだから、私は本書に登場する中学生達に感情移入出来なかったのだと思う。でも、今の私には同じ年頃の娘がいる。いつの間にか大人になってしまった私は、子どもたちに対して高木先生と同じような態度を取っていないだろうか。まだ子どもなんだから。まだ中学生なんだから。でも、実はそれって中学生からすればもの凄く嫌な気分にさせられる態度なんだろうな。私自身が中学生であった頃、同じような訳知り顔の態度を大人たちから示されて嫌な気分にならなかっただろうか。のほほん中学生だった私も、思い出せないだけできっと同じような気分を味わわされていたはずだ。

大人たちの都合でいいようにされてたまるか。中学生たちが自己を目覚めさせ、成長していく過程。大人の入り口に立った子供が、大人の真似事にどこまで迫れるのか。本書に書かれる中学生たちの悩みは、当人にとっては真剣な思春期の悩みだ。そんな中学生の悩みに迫る本書は推理小説でも犯罪小説でもない。ましてや、ヤングアダルト小説やライトノベルでもない。本書は子供から大人への成長を丹念に描いた人生小説だ。だから本書を読み進めるうち、読者にとって大出俊次が柏木卓也を突き落としたのか、柏木卓也はなぜ死んだのかといった謎は二の次三の次になる。謎解きのスリルよりももっと深い部分で考えさせられる。そして、必ずや読者は自分自身の中学時代について想いを馳せるはずだ。私のように。

本書に登場する親たちの描写も丁寧だ。柏木卓也の親。藤野涼子の親。野田健一の親。それぞれがそれぞれの思惑で子に接している。子どもとともに生きようと愛情を注ぐ親もいれば、心が子から離れてしまっている親もいる。私も娘たちにはなるべく誠実に接しようと心がけているつもりだが、親として残念な自分に思い当たる節も多々ある。

第一部のレビューで書いた通り、私にとって本書は同世代を生きた経験からも思い入れを感じる一冊だ。本書を読んだことで私自身の中学生活を省みるきっかけにもなった。しかし、私にとっての本書は、中学生の娘を持つ親の立場でも思い入れを感じる一冊でもある。いや、思い入れを感じるという表現は正確ではない。親となってしまった今、自分がいつの間にか中学生の頃の気持ちを忘れ、大人の目で子どもに接していたことへのうろたえを含んだ「きづき」と言えばよいか。大人の約束事や大人の事情。どれも世を渡って生きていく上で欠かせないスキル。しかし、そんなスキルに溺れすぎて、子供の頃の自分を忘れていないか。そんな自分への苦い問いが本書を読むと湧き上がってくる。しかもその問いに理想論や青臭さは含まれておらず、それが余計に心に沁みる。

三部作の中間にあたる本書は、ミステリの要素が一番薄い。だからその分、最も考えさせられるのかもしれない。

‘2016/01/22-2016/01/23


ソロモンの偽証 第Ⅰ部 事件


厨二病という言葉がある。生真面目に直訳すれば、中学二年生病となろうか。その年代に特有の情動が不安定な様子を指す言葉だ。いわゆるネットスラング。野暮を承知で由来を書くと、中学生を馬鹿にして中坊と呼び、それを一括で漢字変換すると厨房。「厨」房の「二」年生と言った意味だ。

大人向けの知識を聞きかじり始めた、大人と子供の間に挟まった時期。今はネットの発展により大人向け情報がたやすく入手できるので、厨二病患者にとっては過ごしやすい時代かもしれない。

私が中学二~三年だったのは、1987年から1988年にかけてだった。バブルが弾ける前の浮かれた日本の中で多感な時期を過ごした世代。それが私の世代である。私自身が中二の頃は何をして何を考えていただろう。その頃はまだネットが無かった。時代がちがうため現代っ子とは比較できない、と言いたいところだが、多分今の中学二年生と似たり寄ったりだったのだろうな。

本書に登場するのはまさに同じ世代、同じ年代の中学生たちだ。本書の発端となる事件が起こったのは1990年のクリスマスの早朝。私が14歳のクリスマスを過ごした三年後のことだ。

三年とは世代の差として大きく、同じ年代の枠に含めるのは無理があるのかもしれない。それでもなお、本書内の彼らと私は同時代を生きたといえる。何故なら、バブルが弾ける前の時代に多感な時期を過ごし、インターネットを知らずに中学生活を送った世代だから。「バブルが弾ける前」と「インターネットを知らない」。この二つのキーワードは、同じ時代を生きた証として今も有効だと思う。私が本書に思い入れを持ったのは、同じ時代に同じ年代として生きた親近感にあるといってよいだろう。

とはいえ、本書を読む間、登場人物に感情移入できたかというとそうでもない。なぜかというと、当時の私は本書に登場する中学生達の様には個性が確立していなかったから。正直いって私の中学時代は無個性だったといえる。私の中学時代を知る妻の友人は、私と付き合っていると聞くと、あんなショボいやつといったそうだ。そして私と結婚したら全く連絡を断ってしまった。中学時代の私とは、それくらいパッとしないやつだったのだろう。本書には名前が付いている主要なキャラ以外にも、名前も出てこないその他大勢がいる。多分、当時の私が本書の登場人物であったとしても、名も無きクラスメートの一員に甘んじていたことだろう。

そこが、私が本書の登場人物達に感情移入できない理由の一つだ。柏木卓也の墜死体の犯人を探すために学校内で模擬裁判を行い、検事や弁護士、判事や陪審員に扮し、弁論をこなす。そんな派手な活躍など当時の私にはとてもとても。

本書の主要キャラの中で当時の私に近い存在といえるのは、野田健一だろうか。病弱な母と仕事に不満をもらす父のもとで育った彼は、目立つことを極力避け、自己を隠すことに腐心している。しかし、野田健一のその目論みは、柏木卓也の墜死体の第一発見者となったことで破綻を来す。

中学二、三年といえば、いじめや校内暴力がつきものの年代だ。墜死体が発見されてすぐに犯罪を疑われた大出俊次は学校の番長。番長というより札付きの不良と言った方がよいか。本書を通して大出俊次は柏木卓也を殺したという疑いの目で見られ続け、そのことに人知れず傷つく。その疑いをさらに煽ったのは、三宅樹理。ひどいニキビのため皆に嫌われている彼女は、大出俊次にも手酷くいじめられていた。彼女はこの機会を利用し復讐のために友人浅井松子とともに、大出俊次と腰巾着二人による殺人の現場をみたとのチクリ手紙を学校と担任、さらには学級委員の藤野涼子宅に発送する。

藤野涼子の父藤野剛は警視庁捜査一課の刑事であり、娘宛に届いた封書の宛名書きの書体が尋常でなかったことから、娘に黙って手紙を開封する。その内容を見て学校を訪問した藤野剛は、津崎校長に捜査は捜査として、学校対応は対応として対応を委ねる。

第Ⅰ部である本書は、教育現場の危機管理についてかなり突っ込んだ問題提起がされる。結果的に津崎校長による危機回避策は全て裏目に出てしまう。しかし津崎校長が打った策は決して愚策ではない。情報公開せず、いたずらに混乱を招かないための配慮はある意味理にかなっている。本書のような子供の視点から描く物語の場合、子供の立場に迎合するあまり、学校を悪者と書いてしまいがちだ。そして情報公開こそが正しいと短絡的に学校対応を非難する。しかし、そんな単純な構図で危機管理が語れないことは言うまでもない。その点を浅く書かず、徹底的に現実的な危機管理対応として書き切った事で、本書の以降の展開が絵空事ではなくなった。そこに本書が傑作となった所以があると思う。

では、なぜ津崎校長による隠蔽に軸足を置いた危機回避策は破綻したのか。それは、三宅樹理が投函した三通のうち、担任の森内恵美子宅に届いた一通が、森内恵美子を敵視する隣人に盗まれたからだ。そしてあろうことかその隣人の垣内美奈絵はその手紙をテレビ局へと届ける。垣内美奈絵が何故そこまでの行動に及んだのか、彼女が抱える事情とそこから生まれる憎悪や敵がい心も著者は丁寧に描写する。このあたりの描写を揺るがせにしないところが、著者を当代有数の作家にしたのだろう。この点を怠ると、作者のご都合主義として読者を白けさせてしまうから。

一つの墜落死が、次々に連鎖を産む。浅井松子は謎の死を遂げ、三宅樹理は口が利けなくなり、大出俊次宅は放火で全焼し、それら事件の数々は世間の好奇の目にさらされる。そこに暗躍するのは教育のあり方や現場の事大主義を問題視し、大衆に訴えるニュースアドベンチャーの記者茂木悦男だ。垣内美奈絵の手紙が茂木のもとに渡った時点で津崎校長の危機管理策は破綻する運命にあった。その結果、学校は大いに揺れる。それぞれの家庭、少年課の刑事、学校による事態収拾の動き。著者の筆運びはとても丁寧に大人たちの右往左往を暴く。

ここに来て、墜落死という事件とその後の出来事は大人たちの都合でいい様に扱われ処理されていく。生徒たちの心の動きにはお構い無しで。もちろん大人たちも精一杯やっている。だが、そこで子供からの視点を考えるゆとりは無い。そんな風にないがしろにされて生徒達が何も思わぬはずはない。著者は生徒たちの間にじっくりと薪をくべる。そして焚きつける。メールもLINEもinstgramもない時代であっても、いや、だからこそ口伝えで生徒たちの間に不満と圧力が高まってゆく。

本書第Ⅰ部の最後で、茂木記者に呼び出され様々なことを探られ藤野涼子は殻を破る。容姿と文武の能力に恵まれ、自他共に認める優等生としての藤野涼子の殻を。それは少女から大人への殻でもあり、中学時代の私がついに脱ぐことのなかった殻である。

藤野涼子の決意によって、本書の展開は大きく前に踏み出す。

現代でも厨二病と揶揄され、当時でも軽んじられバカにされる中学生。子供と大人の境目にある中学生が、大人への成長を遂げる過程が本書では描かれる。本書第Ⅰ部は、それに相応しい藤野涼子のセリフで締められる。

「あたし、わかった。やるべきことが何なのか、やっとわかった」

私も中学時代にこの様なセリフを吐いて見たかった。

‘2016/01/20-2016/01/22


冷血(下)


上巻の終わりで犯人は逮捕され、物件証拠も状況証拠もともに揃いつつある。ほとんどの推理小説は犯人逮捕で終わるか、もしくは法廷劇へと場面を移す。しかし、現実の警察の仕事は犯人逮捕で終わる訳ではない。警察の仕事は続くのである。また、法廷は検事が起訴して始まるのではない。警察の証拠固めがあってこそ法廷は成り立つのである。刑事事件を起こした被疑者は、裁判所で被告として立たされる。しかしその前に被告になるには、検察庁による公訴が必要となる。

公訴を行うには、被疑者の動機、犯行当時の詳細な行動などが詳細に明かされていなければならない。そうしないと裁判で無罪または刑の軽減が行われてしまうからである。本書上巻で執拗に書かれていた二人の犯罪者の奇妙奇天烈な行動の数々。彼らは果たして罪を問われるのか。そもそも彼らの支離滅裂な行動の中に心神耗弱や精神病といった精神面の問題はないのか。精神面の問題があれば、責任能力無しとして起訴が出来なくなる。そのようなことはないか。彼らの行動の中の躁鬱や統合失調症といった精神面の問題。下巻で著者が追求するのはこの点に尽きる。しかし、彼らに責任能力なしと認定されてしまえば、誰が四人の被害者を死に至らしめたのか。誰が仏前の彼らに報告するのか。二人の男が精神病院行きとなれば本書はまた別の物語になってしまう。つまり警察や検察は、二人の犯罪者の責任能力を証明した上で、なおかつ彼らの行動を丹念に辿り、犯行の動機や行動の詳細を追っていかなくてはならない。

下巻では、まさにその攻防が書かれていく。攻防と云っても犯罪者二人がとぼけたり、責任転嫁する訳ではない。それでいて、犯罪者は自分の行動に理由を示すことができないのである。行き当たりばったりで、殺意の自覚すら怪しい者に、自分の行動を説明させる徒労。脳内のパチスロ音や根深い歯痛も、彼らにとっては理由ですらない。その骨折りを承知で、検察も合田係長も捜査を続けて行かねばならない。

やがて裁判は始まる。法廷の被告席でも支離滅裂な態度を取る井上。一方の戸田は虫歯が致命的に悪化し、もはや半死半生で入院する事態となる。合田係長は、捜査陣というよりも個人的な興味をもって、二人の犯罪者に面会や文通でのつながりを持とうとする。

犯行から3年のちの死刑執行までを描く本書では、論告文もきちんと全て書き込まれる。また、被害者の親族や友人たちの言動を丁寧に描くことで、三年の間に枯れてしまった感情の移ろいやすさなどを描き、硬質なルポルタージュのようにして本書は幕を閉じる。加害者という生者、被害者という死者の対比が炙り出されるのが下巻だ。

何故二人は犯罪を犯したのか。何が二人を駆りたてたのか。というテーマが繰り返し繰り返し、下巻では追及される。実際のところ、下巻は合田刑事が二人の犯罪者の心中へ分け入ろうとする苦闘の物語である。云うまでもなくその苦闘は著者によるなぜ人は罪を犯すのかという人間存在の探求へと繋がる。よくも下巻を全て書き尽くしたと思う。心理学、中でも犯罪心理学や行動心理学などについてよほど深い識見を持っていないと本書は書けない。そう思う。そこには、著者が持つ人間存在への興味と敬意あったに違いない。

本書で究められた犯罪心理への追及は、読んでいる読者自身にも関わってくる。それを忘れてはならない。読者という安全圏、つまり高みの見物を決め込んでいる読者の中の誰が、自分が犯罪者になり得る可能性を真摯に考えているのか、ということだ。人の心の動きの微妙さは、ほんの一瞬のすきをねらって、善良な読者を犯罪者に変えようとする。成育環境や歯痛といった要因以外にも、何が起こるかわからないのが人の生なのだから。

私自身、犯罪者について心中ではどうあれ、表立っては非難しないようにしている。それはなぜかというと、自分もまた犯罪者予備軍の一人であることを理解しているからだ。つまり、私にはその人を断罪し、裁く権利はないということだ。裁くに値するだけの堅牢な精神の持ち主ではないということだ。もちろん私も自分の家族が被害に遇ったら犯人を憎む。復讐も企てるかもしれない。でもそれはもはや裁くという行為とは違う。自分がいつ裁かれる側に回るのか、その可能性に思いを致せないものは、容易に犯罪者を断罪できないはずだ。仮に復讐に走ったとして、自分に返ってくるのは復讐という行為の結果が犯罪であるという事実。だが、警察はそれでも人を裁く場に犯罪者を送り込まねばならない。その矛盾に気づきながらもなお、人を裁くための証拠固めをしなければならないのが警察であり合田係長だ。

著者の考えは、おそらくその矛盾の解決の先を行っていることだろう。その表れが本書の末尾に出ている。彼らの末路は断頭台でも電気椅子でも薬剤注射でもない。彼らの手紙の絶叫から読み取れるのは、人間というものの滑稽さに他ならない。断罪も理解もなく、裁く裁かれるもなく、人間はただ一人一人が人間であるということ。そこに著者の物語はたどり着く。

‘2015/8/16-2015/8/25


冷血(上)


著者の執拗かつ克明な描写には読むたびに感心させられる。行間から生活感が臭い立つとでも云えばよいか。実在の建物や店舗が登場し、ちょっとした細かい風景は現実をそのまま映したかのよう。街の描写がリアルなあまり、道行く人の動きが見え、車の通過音が聞こえ、路面店の食材の匂いが漂うのが著者の文章だ。

ましてや、その場所が読者にとって良く知る場所だったら猶更である。著者の出世作「黄金を抱いて翔べ」では、吹田や大阪のあちこちが登場した。「黄金を抱いて翔べ」を読んでから数年後、私は吹田に引っ越すことになる。「黄金を抱いて翔べ」の舞台を巡るような気持ちで自転車を漕いだのを覚えている。

本書では、町田や相模原が多数登場する。登場する交差点、パチンコ、通りなど、全てリアルに映像が思い浮かぶ場所ばかり。本書に登場する二人の男が衝動のままにATM破壊やコンビニ強盗や空き巣物色を行う場所が、私や家族の行動する範囲と重なる。それは、読んでいて背筋に戦慄を感じる経験だった。本書で犯人達が移動した軌跡は、おそらく我が家から20メートルも離れていない場所を通っている。つまりは私の妻子が短絡的で刹那的な男たちに遭遇する可能性があるということ。それが本書では現実のものとして感じられた。今まで様々な本を読んできた私だが、虚構の小説からリアルな慄きを感じたのは本書が初めてだ。

ただし、本書でメインの犯行現場となるのは東京都北区の西が丘だ。町田と相模原をさまよった男たちは、空き巣物色で意に沿う家が見つからず、その挙句、ふとした思いつきから赤羽へと向かう。犯行現場となった歯科医家族の住む家は、本書で番地はおろか号まで出される。伏字ではなく。実際にWebマップで調べたところ、番地こそ実在しないものだったが、そのひとつ前の番地までは実在している。つまり限りなくリアルに近い犯行現場。しかも、その近隣にはいくつか歯科医院が建っている。その歯科医は、ひょっとすると著者の中で犯行現場のモデルとして対象になったのかもしれない。現実にある当の歯科医さんにとっては心穏やかではない話だ。もし本書の犯行現場が町田の歯科医であれば、私は果たして本書を最後まで読み通せたか心許ない。きっと動揺なしには読めなかったことだろう。

場所描写の緻密さもさることながら、本書は犯人二人の心中の描写にもかなりの語彙を費やす。冷血というタイトルに相応しく、著者は犯罪者の内面を念入りに追い詰める。風景描写以上に執拗に。何故犯罪に手を染めるのか。何故衝動に駆られるのか。動機が復讐や金、名誉といった分かりやすいものならまだいい。しかし本書の二人の犯罪者は、金がない訳でもない。復讐する相手がいる訳でもない。ただ偶然にネットで連絡を取り、そのまま犯罪へと突き進む。その行動は支離滅裂で破天荒。目的もないままの行きあたりばったりの犯罪。だが、著者の筆さばきは冷静極まりない。パチスロの音や虫歯の痛みなど、犯罪者たちの脳内にうごめく意味不明な音また音が紙面に垂れ流される。著者はそういった意味不明な部分まで計算しきったかのように描く。その冷徹さには凄味を感じるほかない。冷血とは著者の紡ぎだす筆致を指すのではないかと思いたくなるほどだ。

そのような異常な世界とは対比させるように、著者は本書の冒頭から被害者となる歯医者一家の日常を淡々と詳細に描写する。犯罪者二人の狂気一歩手前の描写に比べ、よくある小金持ち一家の、幸せそうな日常。幸せそうでいて、内面は家族それぞれが別々の方向を向いているよくある一家の日常。その日常が、中学生の長女の視点から描かれる。おとなの判断力を身に付けつつある中学生女子の突き放しながらも家族あっての視点。それと脳内に意味不明な音を反響させる狂気一歩手前の男二人の視点。その正反対の描写が交互に描かれるのが本書前半である。読者は中学生女子を被害者として連想することは出来るものの、二人の男の行動があまりにも無軌道なため、筋書き次第では町田・相模原での惨劇も畏れつつ、ページをめくる。歯科医一家の住む地区が北区西が丘であることが分かっていながらも、交互に描かれる加害者と被害者の心理描写がじわじわと読者を不安に陥れる。私のような町田市民にとってはその効果は猶更である。北区の読者にとってもおそらく同じような緊張感をもたらすに違いない。

惨劇が起こった後は、被害者の視点はもちろんのこと、二人の犯罪者による視点も本書からは退く。替わって登場するのは合田雄一郎の視点だ。合田雄一郎といえば、著者の長編小説にとって欠かせない探偵役として知られる。探偵役といっても、合田雄一郎が快刀乱麻を断つがごとく解決する訳ではない。むしろ合田雄一郎は組織には逆らわない。人情味や酷薄さ、アウトローといった性格付けもされていない。癖がないキャラクターとして設定されているのが合田なのである。組織に忠実なのが却って個性と言えるぐらいに。

本作では、合田雄一郎が係長として捜査本部の仕切りを担当する。仕切りとは、どの刑事を何の操作に割り当て、といった仕事だ。通常の警察モノのドラマや小説では取り上げられることも少なく、脚光を浴びにくい仕事だが、実は捜査には欠かせないキーマンだったりする。捜査一課長が訓示を垂れる裏側では、合田係長のような体制づくりのプロが必ず捜査本部の仕切りを行っているのだ。

そして合田係長の仕切りは無難にこなされ、優秀な日本警察の捜査網によって犯人像は絞り込まれ、あえなく二人の男は逮捕となる。それが本書上巻の幕切れである。通常の警察小説だと、犯罪が起き、捜査の過程を描き、追う警察と追われる犯人の息詰まる攻防を描くのが定石だ。しかし本書ではどのように犯罪者たちを追うのかに焦点を当てると思いきや、呆気なく犯人逮捕に至らせてしまう。いったい著者の意図はどこにあるのか、と思われるかもしれない。私もそうだった。

しかしこの後、本書には下巻がある。物語はまだ半分しか進んでいないのだ。下巻に至り、著者の凄味はますます冴えわたることになる。冷血という題を付けた著者の意図も明らかになる。

‘2015/8/11-2015/8/15


現代短篇の名手たち1 コーパスへの道


映画化された長編で知られる著者だが、短編集である本書でもその才能は光っている。

本書は比較的長めの二幕物の戯曲一編と、短編が六編で成っている。

著者の作風はどちらかというとダーク調の語り口、世界観に基づいている。本書もまた、その作風に通ずるものがある。

巻頭を飾る「犬を撃つ」は、一番印象を受けた一編。アメリカのサウス・カロライナ州のイードンという町が舞台になっている。観光による町の活性化のため、町が徘徊する野良犬の始末をブルーという男に依頼する。ブルーはベトナム帰りの元兵士で、戦場で極限状況の中に居続けていた。

ブルーは居場所を得たかのように、野良犬を撃つ。そして、ブルーの人生の中で無縁だった女との関わりができる。小さなイードンの町で男達と女達がくっついては別れる。ブルーもその中で人並みの恋愛を求めるが、幸福はブルーには訪れることがない。そして犬撃ちという仕事の非倫理性が問題となり、行ブルーから犬撃ちの仕事が取り上げられてしまう。そのとき、ブルーの鬱屈が臨界点を越え、という話。

孤独な上に、さらに戦場で心を痛め付けられた男の内面を、外からの客観視点だけで描いている。状況の変化はブルーの内面にどう影響を与えるのか。無口なブルーのわずかな台詞と状況からブルーの内面を炙り出す様は鮮やか。設定や描写、結末ともにダークな苦味が残る一編だ。

続いて「ICU」。人生に破れ、何かに追われて病院に忍びこんだダニエルの物語。読者には最後まで何にダニエルが追われているのか明かされない。ダニエルを探す男達の存在が伝聞で聞こえてくるだけである。

病院のICUという、医療の真髄の場所でダニエルは一ヶ月を過ごし、追っ手をやり過ごそうとする。しかし、マイケルという名の患者との会話を通し、ダニエルが何から追われているのかがマイケルの言葉を借りて読者に仄めかされる。しかし、そのような分かりやすいスパイ小説的な展開は本編の表の顔でしかない。おそらくは、ダニエルや我々読者は得体のしれないモノ、つまり自分以外の世界に常に追われているのだ、という寓意を読み取った。

三つ目は「コーパスへの道」。本書のタイトルチューンである。

高校生活最後のアメフトでヘマをし、チームを敗北に導いたライル。ライルに仕返しを食らわそうと空き巣に入るチームメイトたちの乱暴狼藉を描いている。若さゆえの無謀さでライルの家のを破壊するも、偶然帰ってきたライルの妹ラーリーンにその場を目撃される。しかしラーリーンはその破壊に手を貸すばかりか、その勢いで別のもっと豪勢な家への空き巣を提案する。果たしてそこに行った破壊者達は・・・というのが筋。若さゆえの破壊衝動と、権威には弱い人の心の裡を上手く描いている。

4編目の「マッシュルーム」も、危うさにあこがれる若者の心と、行き過ぎる危険の手前で恐れをなす揺れ。その様子が短い掌編の行間に描き表されている。銃の威力が、無音で、ひそやかな動きによって表されているのが印象的な一編。

5,6番目に収められた二編は、お互いに関連している。5番目に収められた「グウェンに会うまで」と6番目の「コロナド」。前者は短編で、後者は戯曲。しかし時間の前後関係では逆である、つまり戯曲が短編の前に来る。短編は、ムショから出所した男を迎えにきた父と思しき男。しかし、父と思しき男は、主人公が収監前に起こした事件で得た成果物を狙っている。事件の過程で、その男は主人公の恋人をも死に至らしめる。戯曲は犯罪に手を染める前の主人公と恋人が事件に深入りしていく様を描いている。短編と戯曲の取り合わせは珍しく、興味深く読めた。ちなみに短編の男二人の交わすやりとりはスリリングで、会話の妙に満ちており、著者がその前段階を戯曲化したくなる気持ちもわかる。ただ、戯曲コロナドは、本書でも紙数を占めており、戯曲慣れしていないと少々辛い。私も辛かった。しかし短編との取り合わせはやはり魅力である。

最期をかざるのは「失われしものの名」。正直いってこのダウナーな世界観には今イチはまり込めなかった。妄想癖を持つ男の一瞬を切り取った一篇だが、本書の他の編にない異色の雰囲気をまとっている。

‘2015/1/29-2015/2/3


未成年の実名報道について


痛ましい川崎の事件。こういった事件が起きる度に俎上に載せられるのが、少年法です。

私が少年法について常々思っていたこと、抱いていた迷い。それらを長谷川さんが文章に著して下さいました。

長谷川さんのブログはよく拝見しています。ほとんどのブログについて、書かれている主旨の大枠に共感できます。ただ、細かい表現の切れ味や深さが私の思いと一致しない時がありました。

しかし、今回書かれていた内容は私の思いにぴたりとはまりました。少年法への期待と諦めに揺れる心境も的確に表現されておりさすがです。思うに、私の親としての視点が一致したのかもしれません。

とくに、ネットを介した発言がこれだけ溢れている今、少年法による保護は無意味との論旨は、我が意を得た思いです。同様の論旨は木走さんのブログでも取り上げられていて、この点について法曹界の方々はどう思うのか、気になります。さっそく日弁連が遺憾の意を表明したようですが、遺憾の意ではなく行動にでなければ世に溢れる情報はせき止められません。

私見ですが、少年法をあくまで遵法させるのであれば、少年法を改正する必要があるでしょう。今の少年法の第六十一条は以下のようになっています。

   第四章 雑則

(記事等の掲載の禁止)
第六十一条  家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。

 書かれているとおり、定義されている処罰対象はマスコミだけです。今の時代、マスコミだけでは不足なことは云うまでもありません。中でもアマチュアジャーナリスト。ツイッターやブログを駆使し、社会に対するゲリラ報道を繰り返すプロのマスコミでない人々。その膨大な書き込みを徹底的に監視するしかないでしょうね。もちろん刑事罰付きで。それが果たしてやりきれるかどうか。

あと、もう一つ思ったことがあります。それは、子を持つ親の覚悟が問われる、ということです。今回の川崎の事件、主犯とされる本人だけでなく、家や両親、祖父母の情報まで、ネット上に流され、晒されているとか。

子を持つ身として、我が子が仮に重大犯罪を犯したとすればどうなるか。今の少年法に謳われる情報保護の壁が取っ払われれば、親の生活も晒され、あげつらわれ、築いてきた人生も炎上すること間違いなしです。焼かれるのは火葬場で一度きりで充分。大多数の親はそう思っているのではないでしょうか。

私も含め、親である皆さんが子に対し普段どれだけ注意を払い、親として子に向き合えているか。これからはその成果が、今以上に問われます。

仕事にかまけて夜の子どもとの会話を怠ることなかれ。
給油と称して毎晩酩酊状態で帰宅することなかれ。
付き合いの名の下に、毎週末フェアウェイで芝刈ることなかれ。

子どもは親が思う以上に、親を見て育っていきます。親が自分を向いていないと感じたが最後、子どもの関心は外に向かいます。外では夜な夜な悪いスリルに身を任せる仲間達とつるむこともあるでしょう。そこからさらに取り返しの付かない末路へ進まないとも限りません。忙しさを理由に構えなかった子どもの不始末が、まっとうな社会生活や生業を親から奪う。今までにそんなニュースを何度見たことか。

少年法が改正された暁には、子どもを持つ親は上に挙げたようなリスクにさらされます。そんなことも、頭の片隅におくべきでしょう。

私自身、今の生活を鑑み、肝に銘じ襟を正して子どもたちと向き合いたいと思います。少年法改正に賛成する以上は。


悪貨


純文学作家としてのイメージが強い著者だが、本書では思い切ってエンタテインメントな作風に挑戦している。初期の作品でもサヨクという言葉を使用しているように、資本主義経済に対する懐疑の念を根底においた作家活動を行っているように思っていた。本書においては偽札というツールを使い、資本主義経済に対峙する経済体制の構築を試行している。

こう書くと本書が著者の理想論を開陳するためだけの物と思われる向きもあるかもしれない。しかし、私は逆と考える。理想論というよりはむしろ今までの理想主義的な考えの限界を感じ、小説家としてのスタンスすらも思い切って現実的な方向に舵を切ったのではないかと。

それは作中でも描かれるような経済体制の結末に象徴されているように思える。清貧な理想が悪貨の助けを一度受け入れた途端に世間に受け入れられる一方で、それなしには成り立たないという自己矛盾。

著者も純文学の超然とした世界から、大学教授へと転身し、小説家としての己を見つめ直したのではないかと思えるぐらい、本書のエンタテインメントへの接近ぶりは目立つ。

ただ、気負い過ぎたのか、展開や人物造形が少々急ぎ過ぎのように思えたのは私の気のせいだろうか。もっとじっくり描いていけば、ものすごい傑作だったのに、と思う。

ただそういった細かい疵を言いだせばきりはなく、むしろその理想的な社会の限界と悲しみを、自らのスタンスをも葬り去る勢いで書きあげた姿勢を評価したいと思う。

’12/1/22-’12/1/23