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エビータ


昨年、浅利慶太氏がお亡くなりになった。7/13のことだ。私は友人に誘われ、浅利慶太氏のお別れ会にも参列した。そこで配られた冊子には、浅利慶太氏の経歴と、劇団の旗揚げに際して浅利氏が筆をとった演劇論が載っていた。既存の演劇界に挑戦するかのような勢いのある演劇論とお別れ会で動画として流されていた浅利慶太氏のインタビュー内容は、私に十分な感銘を与えた。

ちょうどその頃、私には悩みがあった。その悩みとは宝塚歌劇団に関係しており、私の人生に影響を及ぼそうとしていた。宝塚歌劇団といえば、劇団四季と並び称される本邦の誇る劇団だ。だが、ここ数年の私は宝塚歌劇団の運営のあり方に疑問を感じていた。公演を支える運営やファンクラブ運営の体質など。特に妻がファンクラブの代表を務めるようになって以来、劇団運営の裏側を知ってしまった今、私にとってそれは悩みを通り越し、痛みにすらなっていた。その疑問を解く鍵が浅利慶太氏の劇団四季の運営にある、と思った私は、浅利慶太氏のお別れ会を機会に、浅利慶太氏と劇団四季について書かれた本を読んだ。キャスティングの方法論からファンクラブの運営に至るまで、宝塚歌劇団と劇団四季には違いがある。その違いは、演じるのが女性か男性と女性か、という違いにとどまらない。その違いを理解するには演劇論や経営論にまで踏み込まねばならないだろう。

宝塚の舞台はもういい、と思うようになっていた私。だが、お別れ会の後も、劇団四季の舞台は見たいと思い続けていた。今回、妻のココデンタルクリニックの七周年記念として企画した観劇会は、なんと総勢三十人の方にご参加いただいた。妻が25人の方をお招きし、妻が呼びきれなかった5名は私がお声がけし、一人も欠けることなく、本作を鑑賞することができた。

浅利慶太氏がお亡くなりになってほぼ一年。この日の公演も浅利慶太氏追悼公演と銘打たれている。観客席の最後方にはブースが設けられ、浅利慶太氏のポートレートやお花が飾られている。おそらく生前の浅利氏はそこから舞台の様子や観客の反応をじっくりと鋭く観察していたのだろう。ロビーにも浅利慶太氏のポートレートや稽古風景の写真が飾られ、氏が手塩にかけた演出を劇団が今も忠実に守っている事をさりげなくアピールしている。とはいえ、カリスマ演出家にして創始者である浅利氏を喪った穴を埋めるのは容易ではないはず。果たして浅利慶太氏の亡きあと、劇団四季はどう変わったのか。

結論から言うと、その心配は杞憂だった。それどころか見事な踊りと歌に心の底から感動した。カーテンコールは8、9回を数え、スタンディングオベーションが起きたほどの出来栄え。私は今まで数十回は舞台を見ているが、カーテンコールが8、9回もおきた公演は初めて体験した気がする。

私はエビータを見るのは初めて。マドンナがエバ・ペロンを演じた映画版も見ていない。私がエバ・ペロンについて持つ知識もWikipediaの同項目には及ばない。だから、本作で描かれた内容が史実に即しているかどうかは分からない。本作のパンフレットで宇佐見耕一氏がアルゼンチンの社会政策の専門家の立場から解説を加えてくださっており、それほど荒唐無稽な内容にはなっていないはずだ。

本作で進行役と狂言回しの役割を担うのはチェ。格好からして明らかにチェ・ゲバラを指している。周知の通り、チェはアルゼンチンの出身でありながらキューバ革命の立役者。その肖像は今もなお革命のアイコンであり続けている。同郷のチェがエバ・ペロンことエビータを語る設定の妙。そこに本作の肝はある。そしてチェの視点から見たエビータは辛辣であり、容赦がない。そんなチェを演じる芝清道さんの演技は圧倒的で、その豊かな声量と歯切れの良いセリフは私の耳に物語の内容と情熱を明快に吹き込んでくれた。

搾取を嫌い、労働者の視点に立った理想を追い求めたチェと、本作でも描かれる労働者への富の還元を実行したエビータ。いつ理想を追い求める点で似通った点があるはず。だが、チェはあくまでもエビータに厳しい。次々に男を取り替えては己の野心を満たそうとする姿。ついにファーストレディに登りつめ、人々に施しを行う姿。どのエビータにもチェは冷笑を投げかける。これはなぜだろうか。

チェが医者としての栄達を投げうちアルゼンチンを出奔したのは、史実では1953年のことだという。エビータがなくなった翌年のこと。ペロンは大統領の任期の途中にあった。チェの若き理想にとって、ペロンやエビータの行った弱者への政策はまだ手ぬるかったのだろうか。または、全ては権力や富を得た者による偽善に過ぎないと疑っていたのだろうか。それとも、権力の側からの施しでは社会は変えられないと思っていたのだろうか。おそらく、チェが残した著作の中にはエビータやペロンの政策に触れたものもあっただろう。だが、私はまだそれを読んだことがない。

本作は、エビータが国民の母として死を嘆かれる場面から始まる。人々の悲嘆の影からチェは現れ、華やかなエビータの名声の裏にある影をあばき立てる。そしてその皮肉に満ちた視点は本作の間、揺るぐことはなかった。本作は、エビータが亡くなったあとも国民からの資金では遺体を収める台座しか造られず、その後、政情が不安定になったことによって、エビータの遺骸が十七年の長きに渡って行方不明だったというチェのセリフで幕を閉じる。徹底した冷たさ。だが、チェの辛辣さの中には、どこかに温かみのようなものを感じたのは私だけだろうか。

本作の幕の引き方には、安易に観客の涙腺を崩壊させ、カタルシスに導かない節度がある。その方が観客は物語のさまざまな意図を考え、それがいつまでも本作の余韻となって残る。

敢えて余韻を残すチェのセリフで幕を下ろした脚本家の意図を探るなら、それはチェがエビータに対する愛惜をどこかで感じていたことの表れではないだろうか。現実の世界でのし上がる野心と、貧しい人々への施しの心。愛とは現実の世界でのし上がるための手段に過ぎないと歌い上げるエビータ。繰り返し愛を捨てたと主張するエビータの心の裏側には、愛を求める心があったのではないか。私生児として蔑まれ、売春婦と嗤われた反骨を現実の栄達に捧げたエビータ。その悲しみを、チェは革命の戦いの中で理解し、軽蔑ではなく同情としてエビータに報いたのではないだろうか。

そのように、本来ならば進行役であるはずのチェに、物語への深い関わりをうがって考えさせるほど、芝さんが演じたチェには圧倒的な存在感があった。本作のチェと同じような進行役と狂言回しを兼ねた役柄として、『エリザベート』のルキーニが思い出される。チェのセリフが不明瞭で物語の意図が観客に届かない場合、観客は物語に入り込めない。まさに本作の肝であり、要でもある。本作の成功はまさに芝さん抜きには語れない。

もちろん、主役であるエビータを演じた谷原志音さんも外すわけにはいかない。その美貌と美声。二つを兼ね備えた姿は主演にふさわしい。昇り調子に光り輝くエビータと、病に伏し、頰のこけたエビータを見事に演じわける演技は見事。歌声には全くの揺れがなく、終始安定していた。大統領選で不安にくれる夫のペロンを鼓舞するシーンでは、高音パートを絶唱する。その場面は、主題歌である「Don’t Cry For Me , Argentina」の美しいメロディよりも私の心に響いた。

そしてペロンを演ずる佐野正幸さんもエビータを支える役として欠かせないアクセントを本作に与えていた。史実のペロンは三度大統領選に勝ち、エバ亡き後も大統領であり続けた人物だ。だが、本作でのペロンは強さと弱さをあわせ持ち、それがかえってエビータの姿を引き立たせている。また、顔の動きが最も起伏に富んでいたことも、ペロンという複雑なキャラクター造形に寄与していたことは間違いない。見事なバイプレイヤーとしての演技だったと思う。

また、そのほかのアンサンブルの方々にも賛辞を贈りたい。一部のスキもない踊りと演技。本作は音楽と演技のタイミングを取らねばならない箇所がいくつもある。そうしたタイミングに寸分の狂いがなく、それが本作にキレと迫力を与えていた。さすがに毎回のオーディションで選ばれた皆様だと感動した。

そうした魅力的な人物たちの活動する舞台の演出も見逃せない。本作のパンフレットにも書かれていたが、生前の浅利慶太氏は、最も完成されたミュージカルとして本作を挙げていたようだ。もとが完成されていたにもかかわらず、浅利氏はさらなる解釈を本作に加え、見事な芸術作品として本作を不朽にした。

自由劇場は名だたる大劇場と比べれば作りは狭い。だが、さまざまな設備を兼ね備えた専用劇場だ。その強みを存分に発揮し、本作の演出は深みを与えている。ゴテゴテと飾りをつけることんあい舞台。円形に区切られた舞台の背後には、自在に動く二つの壁が設けられている。らせん状になった壁には、ブエノスアイレスの街並みを思わせる凹凸のレリーフが刻まれている。

場面に合わせて壁が動くことで、観客は物語の進みをたやすく把握できる。そればかりか、円で周囲を区切ることで舞台の中央に目には見えない三百六十度の視野を与えることに成功している。舞台の中央に三百六十度の視座があることは、舞台上の表現に多様な可能性をもたらしている。例えば、エビータの男性遍歴の激しさを回転する扉から次々に現れる男性によって効果的に表現する場面。例えば、軍部の権力闘争の激しさを椅子取りゲームの要領で表現する場面。それらの場面では物語の進みと背景を俳優の動きだけで表すことができる。三百六十度の視野を観客に想像させることで、舞台の狭さを感じさせない工夫がなされている。

そうした一連の流れは、演出家の腕の見せ所だ。本作の幕あいに一緒に本作を観た長女とも語り合ったが、舞台を演出する仕事とは、観客に音と視覚を届けるだけでなく、時間の流れさえも計算し、観客の想像力を練り上げる作業だ。総合芸術とはよく言ったもので、持てる想像力の全てを駆使し、舞台という小空間に無限の可能性を表出させることができる。今の私にそのような能力はないが、七度生まれ変わったら演出家の仕事はやってみたいと思う。

冒頭にも書いたが、8、9回に至るカーテンコールは私にとって初めて。それは何より俳優陣やスタッフの皆様、そして一年前に逝去された浅利慶太氏にとって何よりの喜びだったことだろう。

理想論だけで演劇を語ることはできない。赤字のままでは興行は続けられない。浅利氏にしても、泥水をすするような思いもしたはずだ。政治家に近づき、政商との悪名を被ってまで劇団の存続に腐心した。宝塚歌劇団にしてもそう。理想だけで劇団運営ができないことは私もわかる。だからこそ、ファンの無償の奉仕によって成り立つ今の運営には危惧を覚えるのだ。生徒さんが外のファンサービスに追われ、舞台に100%の力が注げないとすれば、それこそ本末転倒ではないか。私は今の宝塚歌劇団の運営に不満があるとはいえ、私は宝塚も四季もともに日本の演劇界を率いていってほしいと思う。そのためにも、本作のような演出や俳優陣が完璧な、実力主義の、舞台の上だけが勝負の演劇集団であり続けて欲しい。演劇とは舞台の上だけで観客に十分な感動を与えてくれることを、このエビータは教えてくれた。

私も友人にお借りした浅利慶太氏の演劇論を収めた書をまだ読めていない。これを機会に読み通したいと思う。

最後になりましたが、妻のココデンタルクリニックの七周年記念に参加してくださった皆様、ありがとうございます。

‘2019/07/06 JR東日本アートセンター 自由劇場 開演 13:00~

https://www.shiki.jp/applause/evita/


SING シング


吹き替え版を映画館で観ることは滅多にないけれど、本作は家族の意向もあって吹き替え版で観た。それもあってか、劇場内は小さい子供達で沢山。予告編を観た感じでは子供向けの内容だろうなと思っていたけれど、私の予想以上に子供が多かった。

潰れかけた劇場を歌で救う、という内容はそれだけだとありきたりに思える。でも、本作はステージで歌を唄う登場人物たちに細かくキャラ設定されている。それも子供を飽きさせないよう手早く。また、筋書きも登場人物たちの抱える事情をうまく演出に組み合わせ、奥行きのあるストーリー展開を展開している。その辺りの演出上の配慮には好印象を抱いた。

潰れかけた劇場のオーナー、コアラのバスター・ムーン。極度のあがり症だが音楽が歌うのも聞くのも大好きな、ゾウの少女ミーナ。彼氏と組んでパンクロックを演っている、ヤマアラシのアッシュ。父が頭目の盗賊団に行きたがらず音楽の道を目指す、ゴリラのジョニー。陽気な性格でステージデビューを遂げる、ブタのグンター。25人の子育てに奮闘しながら、自分の可能性を追いたい、ブタのロジータ。音大を出たプライドを持ちながらストリートミュージシャンで生計を立てる、ネズミのマイク。彼らは種族も境遇もそれぞれに違う。それぞれが自分の生活に苦労しながら、共通するのは音楽が好きなこと、そして音楽で自分を表現すること。

多分それは、本作で声優に起用された俳優や歌手にとっても同じに違いない。本家も吹き替え版も関係なく。今回は吹き替え版を鑑賞したわけだが、皆さんとてもお歌が上手い。音楽の好きで心の底から楽しんでいる感じがとてもよかった。特にミーナを演じたMISIAはさすがに上手かった。皆、音楽が好きで演じるのが好きで本作に起用されたことが良く分かる。

SINGというタイトル通り、本作には歌があふれている。英語圏の映画だけに、洋楽が好きな人にはおなじみの曲が何曲も登場する。1960年代のGimme Some Lovin’や My Way、そしてVenus。1980年代のWake Me Up Before You Go GoやUnder Pressure。90年代、00年代、10年代もレディー・ガガやテイラー・スイフトとか、曲名が出てこないけど知ってる曲ばかり。欧米の世代を超えて通じる曲の多さには嬉しく、そして羨ましくも感じる。

我が国には本作で取り上げられたような、世代を超えて歌われるような曲はどれぐらいあるのだろう。本作を観ていてそう思った。例え落ちぶれて身ぐるみ剥がされるまでになっても、喉が元気なうちは歌がある。そして、落ち込んだ時に唄える歌が口ずさめることは、どれだけ気が楽になるか。日ごろから忙しい生活を過ごしていると、分かっていてもなかなかそれに気づかないものだ。音楽の力とは言い古されているかもしれないが、確かにある。そしてカラオケボックスの中よりも、不特定多数の人々の前で歌い上げるという経験によると思う。人前で声を上げて自分を主張することは、人生を変える力を確かに持っている。本作は、そんな音楽の力に気づかせてくれる。

そんな余韻を味わいながら映画館を出て、家族で向かったのはパルテノン多摩。Brass Festa多摩 2017を鑑賞した。吹奏楽の祭典。ホールに音楽が響きわたる。演目の中には時代劇の有名テーマ曲があり、日本に伝わる唱歌の吹奏楽アレンジがあり。これがかなり胸に響いた。我が国にもこういった歌があるのだ。そのことにあらためて気づかされた。そしてアンコールでは観客も交えて「ふるさと」を唱和した。これがよかった。ただ聞くだけでなく、自ら歌うことの効能といったら!

本作の登場人物たちも、唄うことで、自分を表現することで自分の人生を変えようと努力している。多分それは、本作をみた観客にとっても言えることだと思う。人生はSINGすることで、良い方向に持っていけるはず!

’2017/03/20 イオンシネマ多摩センター


マダム・フローレンス! 夢見るふたり


この映画は、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれない。喜怒哀楽。観終わった観客はいろいろな想いを抱く事だろう。私もそうだった。私の場合は二つの相反する想いが入り混じっていた。

一つは、夫婦愛の崇高さへの感動。もう一つは、表現という行為の本質を理解しようとしない人々への怒りと悲しみ。

一緒に観に行った妻は感動して泣いていた。本作でヒュー・グラントが演じたのは、配偶者の夢を支えようとするシンクレア・ベイフィールド。その献身ぶりは観客の心を動かすだけのものはある。ヒュー・グラントのファンである妻はその姿に心を動かされたのだろう。

一方、メリル・ストリープ扮するマダム・フローレンスは純真そのもの。自分に歌手としての天分があり、自分の歌声が人々の癒しとなることを露ほども疑っていない。だが、彼女の無垢な想いは、NYポスト紙の劇評によって無残に汚されることになる。その劇評は、カーネギーホールで夢叶えた彼女のソロリサイタルについて書かれていた。彼女の無垢な夢は、叶った直後に汚されたことになる。そればかりか、その記事で彼女は現実を突きつけられることになる。人々が自分の歌声を嘲笑っており、自分は歌手に値しない存在という容赦ない現実を。夢を持ち明るく振舞うことで長年患っていた梅毒の進行をも止めていた彼女は、現実を突きつけられたことで気力を損ない、死の床に追いやられる。彼女が長い人生で掴んだものは不条理な虚しさでしかなかったのか。その問いは、観客によっては後味の悪さとして残るかもしれない。

籍は入れてなかったにせよ、最愛の伴侶のために25年もの長きにわたって献身的にサポートしてきたベイフィールドの努力は無に帰すことになる。ベイフィールドの献身的な姿が胸に迫れば迫るほど、救いなく死にゆく彼女の姿に観客の哀しみは掻き立てられるのだ。

だが、彼女の不条理な死は本当に救いのない死、なのだろうか。君の真実の声は美しい、と死に行く妻に語る夫の言葉は無駄になってしまったのだろうか。

ラストシーンがとても印象に残るため、ラストシーンの印象が全体の印象にも影響を与えてしまうかもしれない。だが、ラストシーンだけで本作の印象を決めてしまうのはもったいない。ラストシーンに至るまでの彼女は、ひたむきに前向きに明るく生きようとしている一人の女性だ。たとえ自らが音楽的な才能に恵まれていると勘違いしていようとも、才能をひけらかすことがない。ただ健気に自らをミューズとし、人々に感動を与えたいと願う純真な女性だ。

彼女の天真爛漫な振る舞いの影に何があったのか。時間が経つにつれ、彼女の人生を覆ってきた不運の数々が徐々に明らかになってゆく。そして、彼女を夢の世界にいさせようとする懸命な夫の努力の尊さが観客にも伝わってゆく。

明るく振る舞う彼女の人生をどう考えるか。それは、本作の、そして史実のマダム・フローレンスへの評価にもつながるだろう。彼女が勘違いしたまま世を去ることこそ彼女の人生への冒涜とする見方もある。彼女の脳内に色とりどりの花を咲かせたままにせず、きちんと一人の女性として現実を認めさせる。そして、そんな現実だったけれども自分には愛する夫が居て看取られながら旅立てるという救い。つまり、彼女を虚しいお飾りの中に住む女性ではなく、一人の人間として丁重に見送ったという見方だ。

私には、本作でのメリル・ストリープの演技がそこを目指しているように映った。一人の女性が虚飾と現実の合間に翻弄され、それでも最期に救いを与えられる姿を演じているかのように。

実際、本作におけるメリル・ストリープの演技は、純な彼女の様子を的確に表現していたように思う。リサイタル本番を前にした上ずった様子。ヤジと怒号に舞台上て立ちすくみ、うろたえる姿。幸せにアリアを絶唱する立ち姿。それでいて、その姿を能天気に曇りなく演ずるのではなく、自らを鼓舞するように前向きに生きようとする意志をにじませる。そういった複雑な内面を、メリル・ストリープは登場シーン全てで表現する。まさに大女優としての技巧と人生の重みが感じられる演技だ。本作では髪が命の女優にあるまじき姿も披露している。彼女の演ずる様は、それだけでも本作を観る価値があると言える。

ただ、私にとって彼女の演技力の成否が判断できなかった点がある。それは、マダム・フローレンスが音痴だったことが再現できているのか、ということだ。

そもそも、マダム・フローレンスは音痴だったのだろうか。実在のマダム・フローレンスの音源は、今なおYouTubeで繰り返し再生され、かのコール・ポーターやデヴィッド・ボウイも愛聴盤としていたという。カーネギーホールのアーカイブ音源の中でもリクエスト歴代一位なのだとか。そういった事実から、彼女の歌唱が聞くに耐えないとみなすことには無理がある。

音源を聴く限りでは、確かに正統な声楽の技術から見れば型破りなのだろう。コメディやパロディどころではない嘲笑の対象となったこともわかる。でも、病的な音痴という程には音程は外していないように思える。むしろそれを個性として認めても良い気がするほどだ。コール・ポーターやデヴィッド・ボウイが愛聴していた理由は知らないが、パフォーマーとして何か光るモノを彼女の歌唱から感じ取ったに違いない。

そう考えると、メリル・ストリープの歌唱がどこまでオリジナルを真似ていたのか、彼女の歌唱が音痴だったかはどうでもよいことになる。むしろ、それをあげつらって云々する事は彼女の音楽を浅薄に聴いていること自ら白状していることに他ならない。つまりは野暮の極みということ。

だが、本作を理解するには彼女の歌唱の判断なしには不可能だ。歌唱への判断の迷いは、本作そのものについての判断の迷いにも繋がる。冒頭に、観る人のさまざまな感情を揺り動かす映画かもしれないと書いたのは、その戸惑いによるところが大きいと思う。

その戸惑いは、彼女を支える男性陣の演技にもどことなく影響を与えているかのように思える。配偶者のシンクレア・ベイフィールドに扮するヒュー・グラントの演技もそう。

シンクレア・ベイフィールドは、単に自己を犠牲にしてマダム・フローレンスに尽くすだけの堅物男ではない。俳優の夢を諦めつつ、舞台への関わりを断ち切れない優柔不断さ。彼女が梅毒患者であるため性交渉を持てないために、妻合意の上で愛人を他に持つという俗な部分。また、彼の行いが結果として、伴侶を夢の中に閉じ込めたままにし、彼女の人生を冒涜したと決め付けてしまう事だって可能だ。それこそ体のいい道化役だ。 単なる品行方正な朴念仁ではなく、適度に人生を充実させ、気を紛らわせては二重生活を続けるベイフィールドを演ずるには、ヒュー・グラントは適役だろう。

複雑な彼の内面を説明するには、マダム・フローレンスの歌唱を内縁の夫としてどう評価していたか、という考察が不可欠だ。本作でヒュー・グラントはそれらのシーンを何食わぬ顔で演じようとしていた。だが、彼のポーカーフェイスがベイフィールドの内面を伝え切れたかというといささか心もとない。とくに、彼女の歌唱の上手い下手が判断できなかった私にとってみると、ベイフィールドの反応から、彼がどう感じていたかの感情の機微がうまく受け止められなかった。裏読みすれば、ベイフィールドの何食わぬ顔で妻を褒める態度から25年の重みを慮ることが求められるのだろうか。

また、彼女のレッスンやリサイタルにおいて伴奏を務めるコズメ・マクムーンの役どころも本作においては重要だ。

初めてのレッスンで彼は部屋を出るなり笑いの発作に襲われる。だが、ベイフィールドからの頼みを断れず、恥をかくこと必至なリサイタルに出ることで、ピアニストとしての野心を諦める。カーネギーホールでの演奏経験を引き換えにして。そういった彼の悩みや決断をもう少し描いていればよかったかもしれない。

具体的には、マダム・フローレンスがいきなりマクムーンの家を訪ねてきて、彼女の中の孤独さに気づくシーンだ。あのシーンは本作の中でも転換点となる重要な箇所だと思う。あのシーンで観客とマクムーンは、マダム・フローレンスの無邪気さの中に潜む寂しさと、彼女が歌い続けるモチベーションの本質に気づく。マクムーンがそれに気づいたことを、本作はさらっと描いていた。しかし、もう少しわかりやすいエピソードを含めて書いてもよかったのではないか。そこに、彼女の歌唱が今なお聴き続けられる理由があるように思うのに。

なぜ、マクムーンが彼女に協力する事を決めたのか。なぜ一聴すると聴くに耐えないはずの彼女の歌唱がなぜ今も聴き継がれているのか。なぜ、リサイタルの途中で席を立った記者は辛辣な批評で彼女の気持ちを傷つけ、その他の観客は席を立つ事なく最後まで聴き続けたのか。なぜ、最初のリサイタルでは笑い転げていたアグネス・スタークは、野次る観客に対し彼女の歌を聴け!と声を挙げるまでになったのか。

歌うことは、自己表現そのものだ。彼女の歌には下手なりに彼女の音楽への希望がこめられている。そして苦難続きだった前半生から解放されたいという意志がみなぎっている。その意志を感じた人々が、彼女の歌に愛着を感じたのではないだろうか。彼女の歌がなぜ、愛されているのか。その理由こそが、ここに書いた理由ではないだろうか。

‘2016/12/4 イオンシネマ新百合ヶ丘


アナと雪の女王


2日連続で劇場で映画鑑賞するのは久しぶりである。今日は本作を家族とともに鑑賞した。

昨日がディズニーの映画製作の裏側を描いた実写なら、今日は、ディズニー映画の王道である、アニメーションによるファンタジーである。

映画館での予告編を何度かみていて、圧倒的な氷と雪の映像、そして素晴らしい歌唱を見聞きしていただけに、期待できそうだ、という思いを持ってスクリーンに臨んだ。

果たして、映像と歌唱については、実にすばらしいものがあった。この2つを劇場で体験するだけで映画代の価値はあると思える。氷や雪の質感がCGだけであれほどまでにリアルに表現できる時代に生きていることを素直に喜びたい。IT技術の端くれで生計を立てているものとして、これ以上のCG技術の進化はありえるのだろうか、と思わせるほどであった。

歌唱についても、耳に残るだけでなく、過去のディズニー主題歌と比べてもオペラチックな盛り上がりは一頭群を抜くものがある。パンフレットに載っていたが、ミュージカル仕立ての本作にふさわしく、声優の多くがミュージカル経験者のようである。今回観たのは日本語吹き替え版だったが、松たか子さん、神田沙也加さんともにミュージカルでも活躍されていることもあり、日本語の歌も素晴らしかった。鑑賞前は、本家に比べて歌のパートが劣るのでは、と若干の不安があったがそんな失礼な心配は杞憂であり、伸び伸びとした歌いっぷりは見事なほどであった。

ただ、ストーリー面では、一連のディズニー大作に比べると、新鮮味が落ちることは否めない。アンデルセンの「雪の女王」を原案としているため、街と城、そして遠く離れた地に建てられた城とを登場人物たちが往復する、といった構成に既視感を覚えてしまうのである。ただし、それも含めて、大胆な脚色や翻案があちらこちらでくわえられており、鑑賞後の感想としては新たな物語の創出がなされた、と思える。特に結末については、見事な肩透かしを食わされた。と同時に膝を打って納得したい想いである。時代は今、家族や肉親のきずなを見直す方向に舵切っているのかもしれない。

なお、映画冒頭では「ミッキーのミニー救出大作戦」という短編アニメが上映される。ディズニーの原点であるスチームボートウィリーの世界観を活かしつつ、現代風に大幅にアレンジした本作、必見である。丁度昨日、ディズニーの基礎について学んだばかりであり、非常に嬉しい。本作だけでもDVDを購入したいぐらいである。

’14/3/22 イオンシネマ 新百合ヶ丘