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アクアビット航海記 vol.5〜起業のメリットを考える その4


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。前回は、人生観の観点で起業の利点を取り上げました。今回は、正面から起業の利点を取り上げたいと思います。なお、以下の文は2017/9/7にアップした当時の文章そのままです。

起業の利点をさぐる

今までで三回にわたって起業の利点について述べました。逃避できるから起業、責任をより引き受けたくて起業、人生観に急き立てられて起業。それぞれが立派な理由だと思います。でも、これらの理由はどちらかといえば受け身の立場です。ラッシュが嫌だから、好きなときに好きな場所に行けないから、チャレンジをせずに人生が終わっていくのがいやだから。でも、それだけでしょうか。”起業”する理由は他にもあるはず。もっと前向きで建設的でアグレッシブな理由が。

やりたいことができるのが起業

それは、やりたいビジネス、やりたい社会貢献のための起業ではないでしょうか。現在、あなたがこのプランを社会に問いたい。このビジネスで社会に貢献したい。そんなアイデアを持っていたとします。このアイデアをどうカタチにするか。ここに起業が選択肢として挙がってきます。

あなたが例えば学生なら、いまはそのアイデアをカタチにするため最大限に勉強すべきでしょうし、もし会社に雇われていれば、会社を利用すべきです。社内起業制度があればそれを利用しない手はありません。最近は徐々にですが副業を認める会社も増えています。もし副業のレベルでなんとかなりそうであれば、会社にいながらアイデアをカタチにするのもありです。むしろ、会社の力を借りたほうが良い場合もあります。

でも、所属している企業にそういった制度がなく、思いついたアイデアが企業の活動内容と違っている場合、起業を選択肢の一つに挙げてもよいのではないでしょうか。もしくは、背水の陣を敷くために会社を辞めるという選択肢もあるでしょう。どちらが正しいかどうかは、人それぞれです。やりたい内容、資金、原資、準備期間によって起業のカタチもそれぞれ。どれが正しいかを一概に決めることはできないはず。

とはいえ、やりたい仕事が副業で片手間にやれるレベルではなく、属している会社の支援も見込めないとなれば、残りは起業しかないと思うのです。そこまで検討し、悩んだアイデアであれば、“起業”しても成算があるに違いありません。あなたが問わねば誰が世に問うのでしょうか、という話です。

繰り返すようですが、そのアイデアを元に起業に踏み切るのは、属する企業ではアイデアが実現できず、起業しか実現のすべがない場合です。本連載は起業を無責任に薦めるのが趣旨ではありません。しかし、あなたのアイデアの芽をつみ、他の人に先んじられるのをよしとするつもりもありません。企業に属していてはアイデアが世に出ないのであれば、起業はお勧めしたいと思っています。

やりたいことも成果があってこそ

“起業”すれば、あとはあなたの腕にアイデアの成否はかかっています。自分が食っていけるアイデア、誰も思いついていないアイデア、社会にとって良いと思えるアイデア。存分に腕をふるってもらえればと思います。あなたのアイデアに難癖をつける上司はいませんし、やっかむ同僚もいません。アイデアを盗もうとする後輩もいないでしょう。もちろん、ベンチャー・キャピタルや銀行、または善意の投資家におカネを出してもらう場合は、きちんと報告が必要なのは言うまでもありません。やりたいことができるのが起業とは書きましたが、お金を出してもらった以上は成果が求められるのは当たり前。でも、あなたのアイデアがカタチになり、それが世に受け入れられて行く経過を見守る幸せ。これをやりがいといわず、なんといいましょう。自分のアイデアを元に、世間に打って出ていく。そしてそれが受け入れられる快感。この快感こそが何にも増して“起業”する利点と言ってよいでしょう。

もちろん、アイデアと意欲だけでは起業はうまくいきません。理想は現実の前に色を失っていきます。それがたいていの人。理想やアイデアを世の中に問うていくためにも、ビジネススキルは必要です。泥臭く、はいずるようなスタートになることでしょう。苦みをかみしめ、世知辛さを味わうこともあるでしょう。起業なんかしなければ、と後悔することだってあるでしょう。そんな起業につきものの欠点は本連載でもいずれ取り上げる予定です。アイデアだけでビジネスが成り立つほど甘くはないのですから。でも、そんな厳しさを知ったうえでも、このアイデアで世に貢献したいのであれば、ぜひ試すべきだと思います。

そして、アイデアは慎重に検討し、楽観的な憶測や他の人の善意に頼らないことです。地道で地味な日々があります。スタートアップで脚光を浴びるのはほんの一部。それをベースに考えておくべきなのかもしれません。でも継続は力。いずれは実を結ぶはずです。実際、私は画期的なビジネスモデルも脚光を浴びるプレゼン能力ももっていませんが、地道に経営を続けられているのですから。

次回、起業のメリットとは言い切れないが、一般的には利点とみなされていることを探っていきたいと思います。


アクアビット航海記 vol.4〜起業のメリットを考える その3


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。今回から数回にわたって“起業”の利点を書いてみようと思います。なお、以下の文は2017/8/31にアップした当時の文章そのままです。

起業とは、人生観にも関わってきます。

第三回で、“起業”すると自分自身に対する責任が持てる、ということを書きました。そこでいう責任とは、あくまで仕事に対する責任です。でも「生きる」とは、仕事だけを指す営みではありません。プライベートや家族、老後のことまで含めて「生きる」のが人生。仕事に生きて、家族と生きて、自分を生きるのです。ここに男女や国籍は関係ないと思います。

これは私の個人的な感想ですが、日本人はこの使い分けが不得手なように思います。公私の境目をあいまいにし、プライベートな時間にも仕事を持ち込む。それは、一昔前は日本人の勤勉さの美徳でした。私は何もこの美徳を否定しようとは思いません。ですが、人は仕事のみに生くるにあらず、であることも確かです。人は家族や自分自身や社会によっても生かされているのです。ここが後回しになっていたのが、高度経済成長期の日本でした。その時期はどんな仕事に就いていても社会自体が成長したからよかったのです。三種の神器、いざなぎ景気、ジャパン・アズ・ナンバーワン。右肩上がりで成長する日本に自分の働きが貢献できている、と実感できた時代。でも、もうそういう時代は終わってしまいました。

生涯を仕事に打ち込むために

もちろん、社会がどうあろうと仕事の鬼として生涯を仕事に捧げるのも一つの生き方です。ですが、それが成り立つのは生涯のすべてを仕事に捧げられた場合です。普通の勤め人には、どうしても定年や引退が付いて回ります。いざ引退してみると、現役時代に仕事一徹だったためにプライベートな付き合いがなく、家族も顧みなかったため家にも居場所がない、という話が、よくドラマや映画でも描かれました。勤め人は会社や組織の一員である以上、新陳代謝の対象となっていつかは去らねばなりません。去った時点で築き上げたキャリアは終わります。生涯を仕事に捧げられるのは、強大な創業者にのみ許される特権なのかもしれません。

一方で、個人事業主や創業者には引退や定年が事実上ないと言ってよいでしょう。引退は自分の意思次第です。起業のメリットを手っ取り早く述べるなら、定年がないことを力説してもよいぐらい。好きなだけ仕事をしていられる。それは仕事が好きな人にはたまらないメリットです。

ただ、起業のメリットをそれだけに求めるのはもったいないと思います。起業の利点とは、そんな安易なものではありません。起業には人の生き方や人生観にまで関わる長所があるのです。

それは、自分の人生をどう律するか。自分の人生をどうマネージメントしていくか、ということです。それこそ、仕事に生きるか、家族と生きるか、自分を生きるか、のバランスです。まずは、生涯を一人の仕事人としていきるための起業を語ってみたいと思います。

自分自身の人生を生きるために

第一回でも書きましたが、人は人、自分は自分であり、誰にも他人の人生を代わりに生きることはできません。死ぬときは、すべての人が等しく独りぼっち。枕元に大切な人がいようが、何人に囲まれていようが、独りで死ぬことに変わりはありません。その際に自分の人生をどう総括するか。それはそれぞれの人によって違います。組織の中で働き、老後は悠々と日々を過ごす余生。生涯現役を全うする人生。若い時に無頼な生き方を貫き、それがもとで老後は青息吐息の中に消えるような死に方。それぞれが一人ひとりの人生の幕引きです。それぞれの人生、それぞれでいいと思います。大切なのは、死ぬ間際に自分の人生を後悔しないことに尽きると思います。自分の人生を一番知っているのはあなた自身のはず。他人から見た自分の人生がどうだったか、はどうでもよいのです。そうではなく、自分自身で振り返った自分の生涯がどうだったか。それを満足できるかどうかが肝心なのだと思います。漫画「北斗の拳」に登場するラオウのように「わが生涯に一片の悔いなし!!」と天に拳を突き上げ叫べれば、その人の人生は成功なのです。

ところが、それはラオウだからこそ言える話。ケンシロウという良き強敵(とも)と全力で戦い、敗れたラオウ。拳の道、漢の道を突き詰めた人生を歩むことができたラオウにあって初めて悔いなし!と言えるのです。北斗神拳の後継者をケンシロウと互いに争い、その生涯と遺志を伝えるに足る漢に人生を託せた思い。ラオウの言葉にはそういった思いが込められています。ですが、私のように普通の人はそこまでの出会いや強敵(とも)に会えるとは限りません。拳の道どころか、人生も学習も突き詰められずに終わっていく人も多いでしょう。それまでとってきた選択の中には後悔もあるでしょうし、反省もあるはず。私にも失敗や後悔はたくさんあります。

各分野で名を遺した人の伝記を読むと、二十歳前後で何らかの転機に出会っていることが多いようです。伝記になるほどの人は、その転機を経て努力の末に功成り名遂げた方です。一方、現在のわが国で男性の生涯をモデル(理想)化するとすれば、大学を卒業して新卒で採用され、そのまま定年まで勤め上げることのようです。女性の場合は、新卒で採用され、結婚を機に退職すること。そのモデル(理想)の中には、上に挙げたような転機は見い出せません。転機とは例えば、十代のうちにスポーツや芸術で自分の才能を見出され、その世界で強敵(とも)を見つけるようなことです。

そういう転機に若くして出会えた人はよいのです。でも、そんな方はそう多くはありません。私のように二十歳を過ぎてから自分の中に目覚めた独立心をもてあます人もいるはずです。その気持ちを押し殺し、社会や家族のために捧げる人生もまた尊い。でも、私はそのメンタリティに一度目覚めた以上、自分の生涯に悔いが残ると思いました。私と同じように、人生観につき上げられ、何かに飛び込みたいと思った場合、”起業”は一つの手段となりえます。これは”起業”したから偉いとか、定年まで会社で勤め上げた人を貶めるというような狭い意味ではありません。何度も言うように、生き方とはその人自身が引き受け、味わうものなのですから。ただ、私のように起業を選択した人は、人生の目的の一つに仕事を選んだわけです。私もいまだに成長途上ではありますが、定年にさえぎられず仕事に打ち込める起業が一つの選択肢であると思っています。

次回、さらにほかにも起業のメリットがないか探っていきたいと思います。


アクアビット航海記 vol.3〜起業のメリットを考える その2


あらためまして、合同会社アクアビットの長井です。前回にも書きましたが、弊社の起業物語をこちらに転載させて頂くことになりました。今回から数回にわたって“起業”の利点を書いてみようと思います。なお、以下の文は2017/8/24にアップした当時の文章そのままです。

起業の利点を活かすために

私自身、社会人であっても勉強を続けることは当然と思っています。むしろ学生時代よりも勉強が必要になるほどに。もちろん、会社より給金をもらっている身では、仕事中に堂々と勉強することは許されません。でも日々の業務の中や職場の雑談、プライベートの時間から得られるものはいくらでもあるはずです。それをどん欲に取り込むかどうかでそのあとの人生が違ってくるでしょう。これは“起業”していようと会社勤めだろうと変わらないと思います。

でも、会社の中で仕事をしているだけでは得られない勉強があるのも確かです。それは展示会やセミナー、異業種交流会など、会社の外でしか得られない体験です。交流会は夜に開催されることも多いので、勤務時間の後に出席できるかもしれません。でも、展示会やセミナーは日中に開催されることがほとんどです。担当する仕事にもよるのでしょうが、仕事の都合で行けない方は多いでしょう。でも、仕事に没頭している間にも、外の世界では豊富な情報が展示され、話され、交流されています。そして、そういった情報は、会社の外に出向かなければ逃してしまうのです。高度経済成長期の我が国では、組織の中で役割を全うさえしていれば、必ずしも外部での勉強は必要ありませんでした。でも、現在はそんなことを言って過ごせる状況にないのはみなさまもご存じだと思います。

時間の融通が効きます。


連載の第一回でも書きましたが、私は勤め人であっても引退後の人生も含め、自分の人生を360°で考えておくべきだと思っています。自分と仕事と家族の両立。いまこそ、これらの両立を考えねばならない時代になっているのではないでしょうか。自分の生涯を見据え、どのように自分の生涯のすべてをプロデュースしていくか。仕事時間を成果の出力だけでなく、学びの入力の時間へいかに変えていくか。

それには余暇の時間も確保すべきでしょう。私は旅が好きです。博物館、寺社仏閣、名所、滝、川、蒸留所、醸造所。旅先では時間を惜しんであらゆるところに行きます。人によって余暇はさまざまです。Shadowverseに夢中になる人、グラブることに集中する人、草野球に汗を流す人、庭で土と戯れる人、馬が走る姿に見とれる人、一心不乱に走りまわる人、子供たちと触れあう人。それぞれの自由です。そういった時間も含めて、生涯に与えられた自分の時間をいかに有効に使うか。

“起業”すると、あなたの時間配分はあなた自身が決められます。もちろん、独立しても請負契約など契約の種類によっては、毎日定められた場所に行かねばなりません。その場合も、拘束契約でなければ、セミナーに行こうと思えば行けるはずです。“起業”とはあなた自身があなた自身の監督者であり、上司であり、部下になることでもあります。いつ作業に集中するか、どれだけ移動に費やすか、何時間を打ち合わせに充てるか、そしてどの時間を勉強に使うか。すべてがあなたの判断と責任において行えます。また、“起業”とは絶え間ない工夫と発展の連続です。つまり勉強の時間を確保することが重要なのです。これだけ日進月歩で技術が発展している昨今では、業種や職種に関係なく知識の習得が欠かせません。それを怠ることは、仕事の機会を失うことにもつながります。となると、勉強の時間を確保することが最優先となるのです。 これは、私にとっては確保したい大切な部分でした。

責任感が体中にみなぎります


前回、ちらっと触れましたが、起業とは、つまるところは自分で責任を負うことです。

もともと、社会人である以上は何らかの責任を担わされます。これは避けられません。責任といっても立場によってまちまちです。職に就いていれば職務に付いてくる責任。家族を築いている以上は家族を率いる責任。地域社会で共生する以上は地域社会を豊かにする責任。それらの責任は放っておいても背負わされる責任です。甘んじて受けねばならない責任とでもいいましょうか。周りからやってきて、自分にまとわりつく責任。そこにはどうしても義務感がついて回ります。

ですが、起業とは自分で責任を作り出すことです。周りから押し付けられた責任ではなく、自分が作り出した責任です。当然、その責任は自分で担わなければなりません。仕事を受けた以上は、その責任は全うしなければならないのです。下請け業者に任せたり、社員に任せることもあるでしょう。ですが、最終的な責任は全て”起業”した当人が負わねばなりません。

自分で作った責任は、自分で決着をつける。そこには義務感も発生します。デメリットのところでも触れますが、ストレスにもさらされます。でも、それは自分で作った責任なのです。あなたの中では義務感よりも責任感が大きな割合を占めることになるでしょう。自分自身で種をまき、芽生え育てた責任感。これは”起業”すると間違いなく手に入ります。会社の中で大きな仕事を任された時に生じる責任感にも似ているようですが、会社の中で背負う責任感は、会社を背負った責任感です。それはそれでとても大切な責任感です。ですが、組織の立場としては作業を属人的にするリスクもあるため、責任は分散せざるを得ません。一方、”起業”して得られる責任感とは、自分自身が一身に帯びるしかありません。唯一無二の責任感なのです。

次回も引き続き、起業のメリットを探っていきたいと思います。


鈴木ごっこ


本書は、お客様が入居するオフィスビルの共用スペースに置いてあった。ちょうどその時、帰りに読む本を持ち合わせていなかったのでお借りした。そんなわけで、本書についても著者についても全く知識がなかった。なんとなくタイトルに惹かれたのと、読むのにちょうどよい分量に思えたから選んだだけのこと。ノーマークだし期待もしていなかった。ところが本書がとても面白かったのだ。まさに読書人冥利に尽きるとはこのこと。

膨大な借金を抱えた見知らぬ四人が一軒家に集められ、鈴木なにがしを名乗って暮らすよう強制される。一年間、同居生活をやりとげ、偽装家族であることがばれなければ借金はチャラにする。それが謎の黒幕からの指令だった。

それぞれの事情を抱えた四人は、借金を完済する同居生活に突入する。タケシ、ダン、小梅、カツオ。四人のうち、小梅とカツオが偽夫婦、ダンが偽息子、タケシは偽爺さんという設定だ。彼らの日々は平穏に済むはずがない。たとえば隣人に住む一家の美人の奥さんに恋をして、なおかつ落とせ、などという無謀な指令がカツオにくだされる。そんな指令に従いながらも、四人は何とか生活を送る。小梅は小梅でかつて磨いたレストラン経営の腕をいかし、自炊して四人を食わせる。

本書は四章に分かれている。それぞれの章は一年間の四季があてられている。ちょうど彼らの同居生活に合わせて。それぞれの章は、四人のそれぞれの視点で語られる。四人の生活は指令を乗り越えつつ、無事に季節は過ぎてゆく。そして、物語はハッピーエンドへ向かうように感じられる。なにしろ一年間の同居生活は毎日が規則正しい。そして小梅のつくる料理は栄養価もよいので、四人は健康体になってゆく。ところが最後にどんでん返しが待っているのだ。

本書のような設定は、不動産競売のための先住要件を満たすための手段としてよく知られている。宮部みゆきさんの『理由』でも似たような状況設定が描かれていた。いわゆるヤクザによって集められた者たちが仮面家族を演じる設定だ。ところが、そう思って読んでいると思わぬ落とし穴にはまる。本書の裏側を流れるカラクリに一回目ですべて気づくことのできる読者はいるのだろうか。私はほんの一部しか気づかなかった。本書の分量はさほど長くなく、むしろ短い。それなのにきちんと布石が打たれ、きれいにオチがつけられていることに驚く。しかも見事などんでん返しまで用意して。実は著者ってすごい人やないの。

後に著者のことを調べてみた。それによると著者は劇団を主催しているそうだ。そういわれてみると、本書には地の文による状況説明が少ない。物語のほとんどはセリフと登場人物の行動だけで進んでゆく。それは舞台芸術の流れそのものだ。また、ちょっと見ただけではそれぞれのセリフには大した意味は含まれていないように思える。実際、本書を読み終えてみてもそれらのセリフに深い意味はなかったことに気づかされる。これも聞いてすぐに観客の記憶から流れていってしまう舞台のセリフの感覚そのものだ。本書を構築しているのはシンプルな骨格とどんでん返しのためのわずかなギミック。

そして著者はあまりセリフに意味を与えず、短いストーリーの中で見事にどんでん返しをやってのける。これぞ舞台で鍛えられた腕なのだろう。または舞台のだいご味といってよいかもしれない。それは研ぎ澄まされたライブ感覚が求められる舞台上で鍛えられてきたのだろう。本書からは小説のすごさだけでなく、舞台芸術の持つ実力すらも教えられたように思う。

与えられた時間軸の中で効果的な印象を与える。それは舞台やテレビ関係者が書く小説で時折感じることだ。百田尚樹さんの短編集からも同じ感覚を感じた。おそらく、これは映像的な感覚をもっている作家に特有のスキルなのだろう。二つの芸術に共通するのは時間軸だ。時間の進み、そして時間の区切り。彼らはその制約をものともせず、舞台やテレビの仕事をやってのけている。時間をわがものとし、それを小説の中にうまく取り入れている。この気づきは私にとって新鮮だった。

本書の帯にはこういう文句が書かれている。
「ラスト7行の恐怖に、あなたは耐えられるか?」
この文句は少々大げさだ。恐怖は感じない。だが、ラスト7行のうち、初めの3行については、3回ほど読み直すことをお勧めしたい。別の意味の恐怖を感じるはずだ。それまでそのようなからくりに全く気付かずに読んでいたことに。そして、著者の筆力が自らの読解力を上回っていた事実に。私は最初、3行の意味を深くとらえておらず、恐怖は感じなかった。だが、本稿を書くにあたってもう一度本書を読んでみた。そして、ラスト7行のうち、最初の3行が抱く真の意味に気づきおののいた。

本書を読み、著者の他の作品を読んでみなければ、と思わされた。まったく、こういう出会いがあるから読書はやめられないのだ。

‘2017/06/21-2017/06/21


クォンタム・ファミリーズ


最近、SFに関心がある。二、三年前までは技術の爆発的な進化に追いつけず、SFというジャンルは終わったようにすら思っていた。だが、どうもそうではないらしい。あまりにも技術が私たちの生活に入り込んできているため、一昔前だとSFとして位置づけられる作品が純文学作品として認められるのだ。本書などまさにそう。三島由紀夫賞を受賞している。三島由紀夫賞は純文学以外の作品も選考対象にしているとはいえ、本書のようにSF的な小説が受賞することは驚きだ。本書が受賞できたことは、SFと純文学に境目がなくなっていることの証ではないだろうか。

本書は相当難解だ。正直いって読み終えた今もまだ、構造を理解しきれていない。本書はいわゆるタイムトラベルものに分類してよいと思う。よくあるタイムトラベルものは、過去と現在、または現在と未来の二つの象限を理解していればストーリーを追うことは可能だ。だが、本書は四つの象限を追わなければ理解できない。これがとても難しい。

私たちが今扱っているコンピューターのデータ。それは0か1かの二者択一からなっている。ビットのon/offによってデータが成り立ち、それが集ってバイトやキロバイトやペタバイトのデータへと育ってゆく。巨大な容量のデータも元をたどればビットのon/offに還元できる。ところが、量子コンピューターの概念はそうではない。データは0と1の間に無限にある値のどれかを取りうる。

本書のアイデア自体は量子論の概念を理解していればなんとなくわかる気もする。物事が0か1かの二者択一ではなく、どのような値も取りうる世界。0の世界と1の世界と0.75の世界は別。0.31415の世界と0.333333……の世界も別。そこにSF的な想像力のつけいる余地がある。今の世界には並行する位相をわずかに変えた世界があり、違う私やあなたがいる。そんな本書の発想。それは、並行する時間軸をパラレルワールドとしていた従来の発想の上を行く。

0と1の間に数理の上で別の世界がありえるのなら、別世界を行き来するのに数列とプログラミングを使う本書の発想もまた斬新。その発想は、別世界への干渉を可能にする本書のコアなアイデアにもつながる。そして、本書の登場人物が別世界への干渉方法やアクセスの糸口をつかんだ時、別世界とのタイムラグが27年8カ月生じる設定。その設定が本書をタイムトラベルものとして成立させている。その設定は無理なくSF的であるが、本書を複雑にしていることは否めない。

本書には都合で四つの世界が存在する。それぞれが量子的揺らぎによるアクセスや干渉によって影響しあっている。ある世界にが存在する人物が別の世界には存在していなかったり。その逆もまたしかり。しかもそれぞれの世界は27年8カ月の差がある。その複雑な構成は一読するだけでは理解できない。二つの象限を理解すれば事足りていた従来のタイムトラベルものとはここが大きく一線を画している。

違うパラレルワールドの量子の位相の違いで、同じひと組の夫婦が全く違う夫婦関係を構築する。そしてその位相に応じて家族のあり方の違いがあぶり出されてゆく。その辺りを突っ込んで描くあたりは純文学といえるかもしれない。本社は家族のあり方についても深い考察が行われており考えさせられる。だからこそタイトルに「ファミリー」が含まれるのだ。

村上春樹氏の「世界のおわりとハードボイルドワンダーランド」が批判的に幾度も引用されたり、四国の某所にある文学者記念館が廃虚と化している様子が描写されたり、かといえばフィリップ・K・ディックの某作品(ネタばれになるので書かない)で書かれた世界観が仄見えたり。それら諸文学を引用することで、文学の終わりを予感しているあたり、文学者による悲観的な将来が示唆された例として興味深い。

特に主人公は同じ人物が別世界の同一人物と入れ替わったり、性的嗜好が歪んでいたり、テロリズムに染まったりとかなりエキセントリックに分裂している。それほどまでに複雑な人物を書き分けるには、本書のようなパラレルワールドの設定はうってつけだ。むしろそうでも分けないことには、四つの象限に遍在する登場人物を区別できないだろう。

理想と現実。虚構と妄想。電子データで物事が構成される世界の危うさ。本書で示されるネット世界のあり方は、恐ろしく、そして寂しげ。このような世界だからこそ、人はコミュニティに頼ってしまうのかもしれない。

今、世界はシンギュラリティ(技術的到達点)の話題で持ちきりだ。しかし本書は2045年に到来するというシンギュラリティよりも前に、熟しきって腐乱しつつある世界を予言している。

本書を終末論として読むのか、それとも未来への警鐘として受け止めるのか。または単なるSFとして読むのか。本書は難解ではあるが、読者に無限の可能性を拓く点で、SFの今後と純文学の今後を具現した小説だといえる。

‘2017/04/04-2017/04/08


売文生活


興味を惹かれるタイトルだ。

本書を一言でいえば、著述活動で稼ぐ人々の実態紹介だ。明治以降、文士と呼ばれる業種が登場した。文士という職業は、時代を経るにつれ名を変えた。たとえば作家やエッセイスト、著述業などなど。

彼らが実際のところ、どうやって稼いでいるのか、これを読んでくださっている方は気にならないだろうか。私は気になる。私は勤め人ではないので、月々のサラリーはもらっていない。自分で営業してサービスを提供して生計を立てている。そういった意味では文士とそう変わらないかも。ただ、著述業には印税という誰もが憧れる収入源がある。IT業界でも保守という定期収入はある。だが、保守という名のもと、さまざまな作業が付いて回る。それに比べれば印税は下記の自分の労働対価よりもよりも上回る額を不労所得としてもらえる。私も細々とではあるが、ウェブ媒体で原稿料をいただいている。つまり著述業者でござい、といえる立場なのだ。ただ印税はまだもらったことがない。そうとなれば、著述業の実態を知り、私の身の丈にあった職業かどうか知りたくなるというもの。

といっても本書は、下世話なルポルタージュでもなければ、軽いノリで著述業の生態を暴く類いの本でもない。本書はいたって真面目だ。本書で著者は、著述業の人々が原稿料や印税について書き残した文章を丹念に拾い、文士の生計の立て方が時代に応じてどう移り変わってきたかを検証している。

著述を生業にしている人々は、収入の手段や額の移り変わりについて生々しい文章をたくさん残している。文士という職が世に登場してから、物価と原稿料、物価と印税の関係は切っても切れないらしい。

だが、かの夏目漱石にしても、『我輩は猫である』で名を高めたにも関わらず、専属作家にはなっていない。五高教師から帝大講師の職を得た漱石。のちに講師の立場で受けた教授への誘いと朝日新聞社の専属作家を天秤にかけている。そればかりか、朝日新聞社への入社に当たっては条件面を事細かに接触しているようだ。著者は漱石が朝日新聞社に出した文面を本書で逐一紹介する。そして漱石を日本初のフリーエージェント実施者と持ち上げている。ようするに、漱石ですら、筆一本ではやっていけなかった当時の文士事情が見てとれるのだ。

そんな状況が一変したのは、大正デモクラシーと円本の大ヒットだ。それが文士から作家への転換点となる。「作家」という言葉は、字の通り家を作ると書く。著者は「作家」の言葉が生まれた背景に、文士達が筆一本で家を建てられる身分になった時代の移り変わりを見てとる。

文士、転じて作家たちの急に豊かになった境遇が、はにかみや恥じらいや開き直りの文章の数々となって書かれているのを著者はいたるところから集め、紹介する。

そこには、夏目漱石が文士から文豪へ、日本初のフリーエージェントとして、文士の待遇改善を働きかけた努力の結果だと著者はいう。さらにその背景には漱石が英国留学で学んだ契約社会の実態があったことを喝破する。これはとても重要な指摘だと思う。

続いて著者が取り上げるのは、筒井康隆氏だ。氏は今までに何度も日記調のエッセイを出版している。そのあからさまな生活暴露や、摩擦も辞さない日記スタイルは、私にも大きく影響を与えている。筒井氏は、日記の中で原稿料についても何度も言及している。本書で著者が引用した箇所も私に見覚えがある文章だ。

筒井氏は、長らくベストセラーとは無縁の作家だった。けれども、才能と着想の技術で優れた作品を産み出してきた。筒井氏のブログ「偽文士日録」は私が読んでいる数少ないブログの一つだが、その中でも昨今の出版長期不況で部数が低下していることは何度も登場する。

著者は、フィクション作家として筒井康隆氏を取り上げるが、ノンフィクション作家もまな板にのせる。立花隆氏だ。多くのベストセラーを持つ立花氏だが、経営感覚はお粗末だったらしい。その辺りの事情も著者の遠慮ない筆は暴いていく。立花氏と言えば書斎を丸ごとビルとした通称「猫ビル」が有名だ。私も本書を読むまで知らなかったのだが、あのビルは経営が立ちいかなくなり売却したそうだ。私にとって憧れのビルだったのに。

著者はこの辺りから、現代の原稿料事情をつらつらと述べていく。エピソードが細かく分けられていて、ともすれば著者の論点を見失いそうになる。だが、著者はこういったエピソードの積み重ねから、「文学や文士の変遷そのものではなく、それらを踏まえた「ビジネスモデルとしての売文生活」(229p)」を考察しようとしているのだ。

サラリーマンをやめて、自由な立場から筆で身をたてる。独立した今、私は思う。それはとても厳しい道だと。

著者はいう。「明治から昭和に至るまで、文士が生きてゆくためには、給与生活者を兼ねるのがむしろ主流でした。しかし、家計のやりくりにエネルギーを削がれず、文士が思うまま執筆に専念できるための処方としては、スポンサーを見つけるか、恒常的に印税収入が原稿料を上回るようになるかしかありませんでした。(233p)」。著者の考えはまっとう至極に思える。本書の全体に通じるのは、幻想を振りまくことを自重するトーンだ。「それだけの原稿料を払ってでも載せたい、という原稿を書いていくほかないのではないでしょうか。あるいは、採用される質を前提として量をこなすか、単行本にして印税を上乗せし実質的単価を上昇させてゆく(237p)」。著者の結論はここでもただ努力あるのみ。

本書は作家への道ノウハウ本でもなければ、印税生活マンセー本でもなく、ビジネスモデルとしての売文生活を考える本だ。となれば、著者がそう結論を出すのは当然だと思う。

お金か自由か。本書が前提とする問いかけだ。そして、著者はその前提に立って本音をいう。お金も自由も。両方が欲しいのは全ての人々に共通する本音のはず。無論私にとっても。

だからこそ、努力する他はないのだ。お金も自由も楽して得られはしない。それが本書の結論だ。当たり前のことだ。そしてその実現に当たって著者が余計な煽りも幻想も与えないことに誠実さを感じた。

あと一つ、著者は意識していないと思うが、とてもためになる箇所がある。それは著者が自分がなぜ何十年も著述業を続けられているのか、についてさらっと書いている箇所だ。私はそこから大切な示唆を得た。そこで著者は、自身が初めて原稿料をもらった文章を紹介している。そして、自ら添削し批評を加えている。「今の時点で読み返してみると、紋切り型の筆運びに赤面するほかありません」(14p)と手厳しい。その教訓を自ら実践するかのように、本書の筆致には硬と軟が入り交じっている。その箇所を読んで思った。私も紋切り型の文章になっていないだろうか、と。見直さないと。堅っくるしい言葉ばっか並べとるばかりやあらへん。

私もさらに努力を重ねんとな。そう思った。

‘2016/12/15-2016/12/16


自殺について


なにしろ題名が「自殺について」だ。うかつに読めば火傷すること確実。

悩み多き青年には本書のタイトルは刺激的だ。タイトルだけで自殺へと追い込まれかねないほどに。23歳の私は、本書を読まなかった。人生の意味を掴みかね、生きる意味を失いかけていた当時の私は、絶望の中にあって、本書を無意識に遠ざけていた。ありとあらゆる本を乱読した当時にあっても。

だが、今になって思う。本書は当時読んでおくべきだった、と。

もし当時の私が本書を読んでいたとしたら、どう受け取っただろう。悲観を強めて死を選んだか。それとも生き永らえたか。きっと絶望の沼に陥らず、本書から意味を掴みとってくれていたに違いないと思う。本書は人を自殺に追いやる本ではない。むしろ本書は人生の有限性を説く。有限の生の中に人生の可能性を見出すための本なのだ。

自殺は、苦患に充ちたこの世の中を、真に解脱することではなく、或る単に外観的な-形の上からだけの解脱で紛らわすことであるから、それでは、自殺は、最高の道徳的な目標に到達することを逃避することになる(199ページ)。

このように著者ははっきり主張する。つまり、自殺した者には解脱の機会が与えられないということだ。なんとなく著者に厭世家のイメージを持っていた私は、著書を初めて読む中で著者への認識を改めた。

確かに本書を一読すると厭世観が読み取れる。だが、それはあくまで「一読すると」だ。本書の内容をよく読むと、厭世観といっても逃げの思想に絡め取られていないことがわかる。むしろ限りある苦難の生を生きるにあたり、攻めの姿勢で臨むことを推奨しているようにすら思える。

そのことは時間に対する著者の考えで伺える。43ページで著者は、時間は、ひとつの無限なる無なのだから、と定義している。また、32ページでは、それに反して意思は、有限の時間と空間とを占める生物の身体として、と定義している。つまり著者によると、自己を意識する自我が主体だとすれば、時間とはそれ以外の部分、つまり客体に適用される。しかし、主体である我々に時間は適用されない。適用されないにもかかわらず、時間の有限の制約を受けることを余儀なくされた存在だ。そして限られた時間に縛られながら、精一杯の欲望を満たそうとする儚い存在でもある。そこに生きる悩みの根源はあると著者はいう。

もう一つ。自我にとって認識できる時間は今だけだ。過去はひとたび過ぎ去ってしまうと記憶に定着するだけで実感はできない。過去が実感できないとは、過去に満たされたはずの欲求も実感できないことと等しい。一度は満たしたかに思えた欲求は一度現在から過ぎ去ると何も心に実感を残さない。つまり、欲求とは満たしたくても常に満たせないものなのだ。そんな状態に我々の心は耐えられず、不満が鬱積して行く。何も手を打たなければ、行く手にあるのはただ欠乏そして欲望のみ。生を意欲すればするほど、それが無に帰してしまう事実に絶望は増して行くばかり。著者は説く。意欲する事の全ては無意味に終わると。尽きぬ欲求を解消する手段は自殺しかない。そんな結論に至る。私が悩める時期に幾度も陥りかけたような。

好色や多淫は、著者にとっては人間の弱さだ。けれども、その弱さが種の保存という結果に昇華されるのであれば、それで弱さは相殺されると著者は考える。

著者の論が卓抜なのは、生を種族のレベルで捉えていることだ。個体としての生が無意味であっても、それが種の存続にとっては意味があるということ。つまり生殖だ。著者は淫楽をことさらに取り上げる。人は性欲に囚われる。それも人が囚われる欲の一つだ。しかし、性欲の意義を著者は種の存続においてとらえる。そして親が味わった淫楽の代償は次の世代である子が生の苦しみとして払う。

生殖の後に、生がつづき、生の後には、死が必ずついてくる。(81ページ)

或る個人(父)が享受した・生殖の淫楽は彼自身によって贖われずに、かえって、或る異なった個人(子)により、その生涯と死とを通して贖われる。ここに、人類というものの一体性と、それの罪障とが、ひとつの特殊な姿で顕現するのだ。(81-82ページ)

上にあげた本書からの二つの引用は、生きる意味を考える上で確かな道しるべになると思う。つまるところ、個人の夢も会社の成長も、あらゆる目標は種の存続に集約される。そういうことだ。逆にそう考えない事には、死ねば全てが無になってしまう事実に私は耐えられない。おそらく人々の多くにとっても同じだと思う。

ここで誤解してはならないことが一つある。それは子を持つことが人類の必須目的という誤解だ。子を持つことは人の必要条件ですらないと思う。人生の目的を個体の目的でなく、種の目的に置き換える。そうする事で、子を持つことが義務ではなくなる。例えば子がいなくとも、種の存続に貢献する方法はいくらでもある。上司として、隣人として、同僚として。ウェブやメディアで人に影響を与えうる有益な情報を発信する事も方法の一つだ。要は子を持たなくても種のために個人が貢献できる手段はいくらでもあるという事。それが重要なのだ。その意識が生きる目的へと繋がる。著者は生涯結婚しなかったことで知られるが、その境遇が本書の考察に結実したのであればむしろ歓迎すべきだと思う。

本書で著者が展開する哲学の総論とは、個体の限界を認識し、種としての存続に昇華させることにある。それは個体の生まれ替わりや輪廻転生を意味するのだろうか。そうではない。著者が本書で展開する論旨とはそのようなスピリチュアルなほうめんではない。だが、種の一つとして遍在する個体が、種全体を生かすための存在になりうるとの考えには輪廻転生の影響もありそうだ。著者の考えには明らかに仏教の影響が見いだせる。

著者の考えを見ていくと、しっかりと仏教的な思想が含有されている。実際、本書には仏教やペルシャ教を認め、ユダヤ教を認めない著者の宗教観がしっかりと表明されている。なにせ、ユダヤ教が、文化的な諸国民の有する各種の信仰宗教のなかで、最も下劣な地位を占めている(181ページ)とまで述べるのだから。

著者がユダヤ教、その後裔としてのキリスト教に相容れようとしないのは、自殺という著者の考えの根幹を成す行為が、これら宗教では何の論拠もなしに宗教的に禁じられているからではないか。著者は自殺を礼賛しているのではない。むしろ禁じている。だが、ユダヤ・キリスト教が自殺を禁じる論拠になんら思想的な錬磨もなく、盲目的に自殺を禁ずることを著者は糾弾する。

ここまで読むとわかるとおり、著者にとっての自殺とは、種の存続には何ら益をもたらさない行為だ。そもそも個人がいくら個人の欲求を満たそうにもそれは無駄なこと。生とはそもそも辛く苦しい営み。だからこそ、種としての貢献や存続に意義を見出すべきなのだ。つまり、個人としての欲望に負け自殺を選ぶのは、著者によれば個人としての解脱にも至らぬばかりか、種としての発展すら放棄した行為となる。

だが私は思った。著者の生きた時代と違い、今は人が溢れすぎている。生きることがすなわち種の存続にはならない。むしろ、生きることそのものが地球環境に悪影響を与えかねない。そんな時代だ。いったい、この時代に自殺せず、なおかつ種の存続に貢献しうる生き方はありうるのだろうか。多分その答えは、著者が説く、人を自殺に至らしめる元凶、つまり際限なき欲求にある。欲求の肥大を抑える事は、自殺欲望を抑制することになる。また、欲求の肥大が収まることで、地球環境の維持は可能となる。それはもちろん、種の存続にもつながる。つまり、自殺と人間の存続は表裏一体の関係なのだ。自殺の欲求から醒めた今の私は、本書からそのようなメッセージを受け取った。

もちろん、そんな単純には個々人の人生や考えは戒められないだろう。国にしてもそう。東洋の哲学を継承するはずの中国からして、猛烈な消費型生活に邁進し、自殺者も出しているのだから。少し前までの我が国も同じく。だが、それでもあえて思う。自殺を超越しての解脱を薦め、個体の限りある 生よりも種としての存続に人生の意義を説く本書は、東洋人の、仏教の世界観に親しんだ我々にこそ相応しい、と。

‘2016/06/08-2016/06/15


最後のウィネベーゴ


饒舌の中に現れる確かな意思。著者が物語をコントロールする腕は本物だ。

以前読んだ『犬は勘定に入れません』でも著者の筆達者な点に強い印象を受けた。本書を読んで思ったのは、著者が得意とするのは物語のコントロールに秀でたストーリーテラーだけではなかったということだ。

ストーリーテラーに技巧を凝らすだけではなく、著者自身の個人的な思想をその中に編み込む。本書で著者はそれに成功し、なおかつ物語として成立させている。本書に収められた4編は、いずれも饒舌に満ちた展開だ。饒舌なセリフのそれぞれが物語の中で役割を持ち、活きいきと物語に参加する。そればかりでなく積み重なっていくセリフ自身に物語の進路を決定させるのだ。その上ストーリーの中に著者の個人的な思想の断片すらも混ぜ込んでいるのだから大した文才だ。そもそも、口承芸でない小説で、地の文をあまり使わずセリフのほとんどで読ませる技術はかなりの難易度が要ると思う。それをやすやすと成し遂げる著者の文才が羨ましい。

女王様でも
これは、アムネロールという月経を止める薬が当たり前のように行き渡った未来の物語。アムネロールなる架空のSF的設定が中心ではあるが、内容は女性の抱える性のあり方についての問題提議だ。月経という女性性の象徴ともいうべき生理現象への著者なりの考えが述べられている。本書には生理原理主義者ともいうべき導師が登場する。導師である彼女は月経を止める試みを指弾する。それは男性を上に置く愚かな行いであるというのだ。彼女は生物としての本来の姿を全うするようパーディタを導こうとする。パーディタとは本編に登場する一家の末娘。アムネロールが当たり前となった周囲とは違う導師の教えに惹かれる年代だ。

一家の長はパレスチナ問題の解決に東奔西走する女性であり、本書には生理の煩わしさから解放された女性の輝きが感じられる。それは当然ながら著者の願望でもあるはずだ。

一家はパーディタを呼び出し、導師の主催する集まりからの脱退を忠告する。だが、そこに現れたのは導師。導師は話を脱線させがちな一家の女性たちの饒舌に苛立ち席を立つ。男性支配に陥った哀れな人々、と捨て台詞を残して。だが、導師の苛立ちは女性に特有の饒舌への苛立ちであり、導師の中に男性支配の原理を読み取ったのは私だけだろうか。

月経のつらさは当然私には分からない。だが、本章の最後で月経の実態を聞かされたパーディタが発する『出血!? なにそれ、聞いてないよ!』のセリフに著者の思いが込められている。かくも面倒なものなのだろう。女性にとって生理というやつは。

著者は本編で、女性性と男性性は表裏一体に過ぎないという。そんな七面倒な理屈より、女性にとって月経がとにかく厄介で面倒なのだ、という切実な苛立ちを見事にドタバタコントに収め切ったことがすごいのだ。

タイムアウト
時間発振器という機械の実験に伴うドタバタを描いた一編だ。時間は量子的な存在だけでなく、現在子としてばらばらに分割できるというドクターヤングの仮説から、登場人物たちの過去と未来がごちゃ混ぜに現在に混入する様を描く。著者のストーリーテリングが冴えわたり、読み応えがある。

本章では、家庭の些事に忙殺されるうちに、輝ける少女時代を失ってしまう事についての著者の思いが投影されている。本編に登場するキャロリンの日常は子育てと家庭の些事がてんこもり。ロマンスを思い出す暇すらもない日々が臨場感を持って描かれている。著者自身の経験もふんだんに盛り込んでいるのだろう。

過ぎ去りし日々が時間発振器によって揺さぶられるとき、人々のあらゆる可能性が飛び出す。本編はとても愉快な一編といえるだろう。

スパイス・ポグロム
これまたSF的な雰囲気に彩られた一編だ。異星人とのカルチャーギャップを描いた本編では、全編がドタバタに満ち溢れている。舞台は近未来の日本。日本にやって来た英米人を書くだけでもカルチャーギャップの違いでドタバタが書けるところ、異星人を持ってくるところがユニーク。異性人の言動によってめちゃめちゃになるコミュニケーションがとにかくおかしい。著者が紡ぎだす饒舌がこれでもかというばかりに味わえる。

著者は本編でコミュニケーションの重要性よりも、コミュニケーションが成り立つことへの驚きを言いたいのではないか。一般にコミュニケーションが不得手と言われる日本を舞台にしたことは、日本人のコミュニケーション下手を揶揄するよりも、コミュニケーションの奥深さを指している気がする。ただ、いくら技術が進歩しようとも、あくまでコミュニケーションの主役は人類にあるはず。とするならば、コミュニケーションの不可思議さを知ることなしに未来はないとの著者の意見だと思われる。

最後のウィネベーゴ
表題作である本編で描かれるのは、滅びゆくものへの愛惜だ。情感を加えて描かれる本編は何か物悲しい。イヌが絶滅しつつある近未来の世界。イヌだけでなく動物全般がかつてのようにありふれた存在ではなくなっている。そればジャッカルも同じ。その保護されるべきジャッカルが、ハイウェイで死体となって発見された事で本編は始まる。ジャッカルはなぜ死んだのか、という謎解きを軸に本編は進む。

犬のいない世界が舞台となる本編のあちこちに犬への愛惜が織り込まれる。人類にとってこの惑星で最良の友とも言える犬。犬が居ない世界は愛犬家にとっては悪夢のような世界だろう。おそらくは著者もその一人ではないか。犬がいない世界の殺伐とした様子を、著者はじっくりと描きだす。

たとえ殺伐とした未来であっても、当然そこを生活の場とする人々がいる。そんな人々の中に、キャンピングカーで寝起きする老夫婦がいる。彼らの住まいはかつてアメリカでよく見られた大型キャンピングカーのウィネベーゴ。老夫婦はウィネベーゴを後生大事に使用し、観光客への見世物として生計を立てる。老夫婦は、本編においては喪われるものを慈しむ存在として核となる。イヌのいない世界にあって、彼らにとってのウィネベーゴは守らねばならないものの象徴でもあるのだ。

本編からは、現代の人類に対する問題提起も当然含まれる。われわれが当たり前のように享受しているモノ。これらが喪われてしまうかもしれない事を。

巻末には編訳者の大森望氏による解説もつけられている。こちらの内容はとても的確で参考になる。

‘2016/5/30-2016/6/3


後藤さんのこと


実験的といおうか、前衛的といおうか。
著者の作品は唯一無二の立場を確立している。

あまたの小説群が山々を成す中、孤峰として独立しているのが著者とその作品群だ。

冒頭の表題作からして、すでに独自世界が惜しげもなく披露される。森羅万象、古今東西に宿る後藤さん一般を、縦横無尽に論じ尽くすこちら。赤字、青字、緑字。黒地、赤地、緑地。そして白地に白字。カラフルな後藤さんが主語となり目的語となり述語となって本編を彩る。本編は壮大かつミニマムな後藤さんの存在論でもある。そして主語とは何かについて果敢に挑んだ記号論の極北でもある。

形而上であり、形而下。ペダンチックであり、ドメスチック。本編で著者は大上段に振りかぶり、大真面目な顔であらゆる角度から後藤さんを斬りまくる。かつて小中学生の頃われわれを悩ませた算数の証明問題。本編は、後藤さん一般を証明するために著者が仕掛けた壮大な問答の成果と言い換えてもよい。

本編から読者は何を得るのか。
その生真面目なユーモアを堪能することも楽しみ方の一つだ。それだけでも本書はじゅうぶんに楽しめる。

だが私は、本編は著者による実験だと思いたい。事物について、物事について語る事を突き詰めたらどうなるか。それが本編なのだ。一つの物事を極めるためには多面的かつ多層的にあらゆる角度からその事物を分析せねばなるまい。そして語れば語るほど、物事を表す語句は重なり合い、ハレーションを起こす。物事を表す語句はゲシュタルト崩壊を起こし、脳内で溶解してゆく。結果、語句は記号でしかなくなる。紙に印刷された後藤さん一般は、フォントの色と地の色によって眼に映るクオリアとしてしか認識できなくなる。本編で著者が仕掛けるのは、記号の本質論であり存在論に違いない。

続いて収められた一編は「さかしま」。「さかしま」とは「道理に反する」といった意味がある。

慇懃な文体でつづられた本編は、お役所が発行する文章のようだ。それが延々と続く。遠い未来の人類にまだお役所というものが残っているとすれば、その機関はこういう文書を発行するのだろう。その未来のお役所は、読者こと帰還者に向けてこの文章をつづり続ける。帰還者は、テラが人類の発祥の地であり、テラはすなわち凍結された領域ウルと等しいとする伝説を信じて帰還してきた人物だ。

宇宙は複数の泡宇宙が並行している。最新の宇宙論にはよく登場する議論だ。本書ではウルが存在する空間とは、時間次元が存在する特異な空間のこと記されている。つまり語り手のお役所と読者こと帰還者の時間の概念は食い違っているのだ。食い違っているというよりは、語り手のお役所には時間自体の認識がないと思われる。論理のみで構成された次元宇宙に存在する語り手のお役所は、時間という異質な次元に絡め取られた存在である帰還者とは本来相容れるはずがない。

では、そのような帰還者でない帰還者に向けて、語り手のお役所は何をそんなに事務的に解説するのだろうか。論理空間の執行者たるお役所が、帰還者に向けては論理にならない論理を堂々と語る。そのこと自体が「さかしま」ではないか、ということになる。つまり、本編はお役所という存在に向けての強烈なアンチテーゼの文章なのだ。固定された論理、つまりは法や条例で時間に生きる住人である帰還者を縛ることそのものが「さかしま」なのだ。著者が告発する「さかしま」とはその根源的な矛盾に他ならない。

続いての一編は「考速」。文章という存在の不可思議な多義性を追求した一編だ。文章が単語の切り方によって幾通りもの意味を持ちうることはよく知られている。いわゆる「ぎなた」読みだ。

弁慶がな、ぎなたを持つ
弁慶がなぎなたを持つ

この二つの文は、音読みすると「べんけいがなぎなたをもつ」となる。同じ読みであっても、句読点の置き方や単語の切り方によって文の意味がまったく違ってくる。本編ではそういった文章の構造論が追求される。追求されるのは「ぎなた」読みの可能性だけではない。文章を一つの図形の展開図としてみなし、それを再び立体に再構成し直す可能性の追求。そこまで著者の手は及ぶ。

思考に思考が追いつくことは果たして可能か。0と1による思考の限界。思考の循環を定理や公理とよぶことで、論理破綻から逃れるという論法。回路図と背理法のコンピューターノイズ。文章の語彙のならびが冗長ゆえに短くあるべきという考えと、文章の長さ故にあるいは圧縮することのかなわぬ長さがあるべきという考えの対立。

本編は、言語の成り立ちを問う。人類が長年の文化的お約束に安住して、なあなあでやりとりする言語の意味を。そもそも見直されなければならないのは言語が生物にのみ許された通信信号-プロトコルであるとの前提ではないか。著者が問うのは曖昧なお約束、つまり言語そのものについてだ。そして著者の問いを突き詰めた先には、人工知能による人工言語が待ち受けているに違いない。

続いての一遍は「The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire」。題名からしてデヴィッド・ボウイのあの名曲を想像させる。

そして、本編の内容は本書の中でも一番とっつきやすいかもしれない。「銀河帝国」という語彙を、あらゆる種類の文章にはめ込むことで、銀河帝国という言葉の意味が変容する。銀河帝国の意味は短くもなり長くなる。矮小にも縮めば雄大にも化ける。ユーモラスに変化し、かつ神聖さを帯びる。その自在な柔軟さは、言語がそもそも記号の集まりでしかないという事実を読者に再確認させる。文章論や文体論といったところで、それらを構成する単語のそれぞれはしょせん記号でしかない。本編は、著者が作家として文章へ挑んだ結果ではないだろうか。

たとえば
01:銀河帝国の誇る人気メニューは揚げパンである。これを以って銀河帝国三年四組は銀河帝国一年二組を制圧した。
23:銀河帝国を二つ買うと、一つおまけについてくる。三つ揃えると更に一つがついてきて、以下同文。
41:包帯で変装とは古い手だぞ銀河帝国第二十代幼帝。いや、今は銀河帝国第四十代幼帝とお呼びした方がよいのかな。
48:この世に銀河帝国なんていうものはありはしないのだよ。銀河帝国君。
81:家の前に野良銀河帝国が集まってきて敵わないので、ペットボトルを並べてみる。

続いての一編は「ガベージコレクション」。IT技術者にはこの言葉はよく知られている。プログラム内部で確保したメモリ領域をプログラム終了時に自動的に集めて再使用できるよう解放する機能をガベージコレクションと呼ぶ。昔のプログラム言語にはこの機構が備わっていなかった。つまりプログラマーはきちんとメモリの解放処理を行わねばならない。そうしないと解放されないまま使えないメモリ領域が増大してしまう。その結果、メモリの使用可能域を圧迫し、コンピューターが重くなる原因となる。いわゆるメモリリークだ。

本編で語ろうとしているのは、すべての情報系を制御しようとする試みだ。往々にして情報とは一方向のみに伝わる。すでに発信された情報は、もはや逆方向に戻ることはない。情報を逆流させて制御する試みは、人類に残された最後の領域となる可能性がある。今まで人類が意識したことのない、情報の方向性という問題。それにもかかわらず指数的に増大する情報量は、ログという形でロールバックされることが求められている。それは今後の情報社会の基盤に求められること必至の要件だ。システム開発の現場でもデータベースを使う際はログによる更新の制御は必須だ。障害時に更新前の情報に戻すロールバックや、正常時に情報の更新を確定させるコミットメントは当然の機能として設けられる。これをあらゆる情報系に拡大する思考実験が本編だ。

最終的には超現実数を持ち出すことによって、著者はその解決を図ろうとする。だが、それはその時点でこの試みが頓挫するに違いないということを意味する。情報のエントロピーは増大し続け、それを回収することは誰にもできそうにない。だが、回収できなければ、それはすなわち情報が世にあふれ続けることになる。しかもそのほとんどは無価値な情報のゴミだ。つまりガベージ。いったい、それを誰が解決できるのか。そもそも数学に無限やゼロは許されるのか。本編からはそんな著者の問題提起が読み取れる。

最後の一編は「墓標天球」。

本編は一度読んだだけでは分からなかった。本稿の初稿では本編について書くのを断念したくらいだ。初稿を書いて約一年が経ち、本稿をアップする前に本編をもう一度読んでようやく少し内容がつかめた。

本編は比喩の極北に挑んでいる。本編にあふれるそれらが何に対する暗喩なのか、何を指すメタファーなのか。それを正確に指し示すことは困難だ。それでいて、本書には筋書きがある。いや、筋書きのようなもの、といったほうが良い。その筋書きらしき展開が螺旋状に、もしくは一回転する球のように、もしくは一回りできる立方体のように、どこに向かうでもなく循環する。その筋書きは、少女と少年の周りで時間を巡り、空間を巡る。それは本編に登場する立方体の展開図のようだ。

循環し、周回する天球は本編ではもっとも基本となるイメージだ。天使、または神が最初の天球を回したあと、その内側の天球を別の天使が回し、さらに別の天使が・・・と入れ子構造は無限に小さくなる。アリストテレスの神存在論を逆にゆくような議論だ。その中で天球の内側にいる人間とはただ営むための存在に過ぎない。

私は本編全体が指している比喩の対象とは、この天体の上で繰り広げられるあらゆる意思の営みではないだろうか、と推測する。この天体とは地球に限らない。他の生命体のいる天体でもいい。その上で営める生命の動きを単純化する。本編に出てくる少年とは人類の男。少女とは人類の女の投影だ。人類が過去から未来へと営むあらゆる意思を徹底的に単純化すれば、本編になるのではないか。

インペトゥム。本編で何度か登場する言葉だ。「創造のあと、単純な創造を繰り返す力」と少女がセリフで補足する。つまり、営みとは最初の創造のあとの単純な繰り返しに過ぎないのだ。そこに意味を無理やり付与しようと果てなき努力をする少年=男と、ただあるがままに営みを生きて行く少女=女。

少年は球体を一周させるかのように溝を掘る。丁度人類が伐採し、掘削し、開墾し、建築するように。何の目的かは誰にも分からない。強いていうなら経済のため。そして営みのため。

少年と少女は出会い続ける。そしてすれ違い続ける。出会ったら子供が生まれる。すれ違っても営みは続いてゆく。そうした営みの全ては記録され続ける。ただ記録するために記録され続ける。禁忌は何かのためだけに禁忌であり、豚は食べるためだけの豚に過ぎない。少年と少女の間にやり取りされる封筒の中身は開封するまでもない。常に一つの真実だけが書かれているのだから。

本編が指し示す比喩の対象とは、実は全ての営みには根源的な目的などない、という虚無的な事実なのかもしれない。少なくとも人類にとっては。全ては螺旋階段をだらだらと登り続ける営みに帰着するほかないのだと。それは政治、経済、科学、哲学、恋愛、スポーツ、など関係ない。全ての営みをいったん漂白し、単純に比喩して抽出したのが本編ではないだろうか。

本書には、もう一編が隠れている。それは帯に記されている。帯に記されているのは「目次」というタイトルの目次だけでなる短編だ。40マスある格子状の各ページを進んでいった結果、徹底的に読者は著者と本と読者の間をさまよい、混乱させられることだろう。目次という本そのものの構造すら著者の手にかかれば抽象化され、解体されてしまう。

いったい著者の目指す極点はどこにあるのだろう。私は本稿を書いたことを機に改めて著者に興味を持った。もう少し著者の本を読み込んでみなければ。

‘2016/03/25-2016/03/28