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雀の手帖


著者の父君は明治の文豪、幸田露伴だ。尾崎紅葉と並び称され、当時の文壇を率いた活躍は紅露時代と名付けられ、日本文学史にしっかりと刻まれている。ところが私は幸田露伴の著作を読んだ事がない。何度か『五重塔』は読もうとした。だが、その度に文語調の文体に手を焼き、断念した。

そして本書だ。著者は文豪の娘であるが、その立場に安住しない。自らも作家として大家の中に伍している。父露伴を描いた諸作品を著し、エッセイの名手としても名を高めている。実は私は著者の文章を読むのは初めてだ。著者が書くエッセイの妙味を味わってみたくて本書を手に取った。

エッセイとは簡単なようで難しい。日記だけなら私もこの四、五年ほど、毎日Facebookにアップしている。ところがそれは日記でしかない。私は、たとえ”SNS”であろうとも、自分の書いた物にはエッセイのような一味を加えた味わいを出したい。そして自分がFacebookにアップする文章には過度なビジネス臭を漂わせたくない。そう思っている。普段、ビジネスに忙しくする中、自分の人生にどうやって変化をつけるか。しかも無味乾燥な事実の羅列ではなく、読むに耐える内容をつづれるか。これが難しい。日々の鍛錬を欠かすと、途端に文は乱れる。私が毎日Facebookに文章をアップする理由はこれだ。

さらなる文章の高みに至るにはどうすれば良いか。それは先人の著した文章を参考にすることだ。たとえば本書のような。私が本書を手に取ったのはエッセイの名手である著者の文体に触れるためでもあるし、エッセイを毎日記す営みの一端を知るためでもある。私はその本書によってその極意にほんのわずかだが触れる事ができたと思う。

その極意とは、読者の共通項に訴える事だ。読者といってもさまざまだ。住んでいる場所や性格、人生観が変わる違えば価値観も違う。ただ、読者に共通している事がひとつある。それは時間だ。季節の移りゆく時間。本書はここに焦点をあてている。それがいい。

本書の内容は昭和34年の元旦から100日間、西日本新聞の紙面に連載された文章が元になっているという。日々のよしなし事や作者の目に映る百日間の世間。著者はそれを毎日筆にしたため、本書として成果にした。発表した媒体こそ西日本新聞、つまり九州の読者に向けて書かれているが、著者が住んでいるのは東京。つまり、本書は西日本と東京に共通した歳時記として記されている。

季節の移ろいは、日本の東西南北の各地で多彩で豊かな顔を見せる。だが、極端な違いはない。さらに、季節が見せる変化は、少々の時代が違っても変わりないと言っても良い。例えば本書が書かれた六十年後の今も、本書で描かれた当時の歳時の描写は理解できる。そこに共通しているのは、日本の風土なのだから。日本の東西に共通する季節の様子をおろそかにせず描いたからこそ、本書はエッセイとして成り立ち、六十年後にも生き残っている。ただし、そのためには折々の文化、事物への豊富な知識が必要だ。私にはそれが足りない。普段の生活から季節感を感じ取るにはアンテナの感度も足りない。

また、知識として歳児を知るだけでは足りない。それだけでは弱いのだ。日々の季節の出来事だけなら、私が日々アップする日記にも時々登場させている。それ他に本書をエッセイとして完成させているのは味わいだ。著者の独特の視点が文中に出汁を効かせている。さらに、独特の文体が複雑で深みのある味わいを出している。

本書の解説で作家の出久根達郎氏が書いているが、著者の文体には魅力がある。私もそれに同意する。特に擬態語と擬音語の使いかたに特徴がある。私もさまざまな本を読むが、著者が繰り出す表現は、本書でしか見た事がない。この斬新な言い回しが本書の記述に新しい感覚を与えている。

ただ、正直に言うと、本書には退屈な所もある。それは仕方ない。なにしろエッセイだ。著者の身の回りにそうそう劇的な出来事ばかり起こるわけではない。身の回りのあれこれをしたためている以上、退屈な描写になってしまうこともある。そもそも昭和34の日本の暮らしは、現代から見ると刺激に富んでいるとはいい難い。そんな素朴な描写の中、随所に挟まれる新味の表現が本書のスパイスとなり、読者を引きつける。

日によっては変わり映えのない題材を取り上げているにもかかわらず、そうした日には身の回りの些事を描いているにもかかわらず、著者は百日間、エッセイを書き続ける。それが素晴らしい。

昭和34年の日本。それは今の世から見るとすでに歴史の一部分だ。先日退位された上皇夫妻の結婚式があり、日本経済は来たる東京オリンピックに向けて高度成長のただ中にあった。もはや戦後ではないといわれた日本の成長の中、かろうじて明治大正、戦前の素朴な日本が残っていた時期でもある。そのような時期に著者のエッセイは、父露伴から受け継がれた明治の日本をかろうじて書き残してくれている。実は退屈に思える日々の描写にこそ、本書の資料的な価値はあると思う。

また、著者は当時、徐々に社会に浸透し始めたテレビ文化の発信者でもあった。本書には、当時、テレビに出演する機会があったエピソードにも触れられている。当時にあっては著者の立場は先進的であり、本書が決して懐古的な内容でないことは言っておきたい。徐々に戦後の洋式化しつつある文化を受け入れつつあった日本の世相が存分に記されているのも本書の良さだ。

今の私が日々、SNSにアップする内容は、果たして後世の日本人が平成から令和に切り替わった今の日本を書き残しているだろうか。そうしたことを自問自答しつつ、私は日々のSNSへのアップを書きつづっていきたいと思う。

‘2018/07/20-2018/07/21


弁論の力


先日、一人で相模原の旧津久井町にある尾崎咢堂記念館に行ってきました。

尾崎咢堂翁は、またの名を尾崎行雄ともいい、明治から昭和にかけ政界で重きをなした方です。「憲政の神様」の異名も持ち、憲政記念館の中庭には銅像も立っています。憲政記念館自体、もともと尾崎咢堂を記念して建てられた建物。国家議事堂のそばに建つ憲政記念館を訪れるとすぐに翁の銅像に出会えます。私は昨年、二度ほどセミナーで憲政記念館を訪れました。そして中庭に立つ咢堂翁の銅像と対峙し、手前にある碑に刻まれた翁の言葉を心に刻みました。その言葉とは、
「人生の本舞台は常に将来にあり」
これは、私が常々思っていることです。



尾崎咢堂記念館は、私が結婚して町田に住みはじめてすぐの頃に一度行ったことがあります。自転車で寄り道しながら十数キロ走って記念館にたどり着いたのは夕方。すでに記念館は閉まっていました。以来、18年の月日が流れました。記念館の付近は橋本から相模湖や道志へ向かう交通の要です。18年の間には何度も通りかかる機会もありました。それなのに行く機会を逸し続けていました。しかし、憲政記念館で尾崎翁のまなざしに接したことがきっかけで、私の中で記念館を一度訪れなければとの思いが再燃。この度、良い機会があったので訪れました。

翁の生涯については近代史が好きな私はある程度知っていました。憲政記念館の展示でも振り返りましたし。少しの知識を持っていても、翁の生誕地でもある記念館に訪れて良かったです。なぜなら、生涯をたどったビデオと、展示室で館長さんから説明いただきながら振り返った翁の生涯は、私い新しい知識を教えてくれたからです。翁の生涯には幾度もの起伏があり、その度に翁はそれらを乗り越えました。その中で学んだことは、翁が憲政の神様と呼ばれるようになった理由です。その理由とは、弁論の力。

尾崎咢堂翁の生涯を追うと、幾度かのターニングポイントと呼べる時期があります。そこで翁の人生を変えたのは、文章の力です。若き日に慶應義塾で学んだ翁が福沢諭吉に認められたのも論文なら、福沢諭吉の紹介で入社した新潟新報でも論説の力で台頭します。

ただ、そこからが違う。翁が神様と呼ばれるまでになったゆえん。そこには弁論の力がありました。まず、翁が認められ、新潟から東京に官僚に取り立てられたきっかけは講演です。政治の世界に入ってからも、桂首相弾劾演説や、普通選挙法の決議を訴える翁の遊説は全国に尾崎行雄の名を轟かせました。国が右傾化する中、翁は議会の壇上で弁論によって軍に反抗し、議会制民主主義の良心を訴え続けます。


世界に類をみない63年もの議員生活。それを支えたのは文章力に加え、弁論の力だった。特に後者の力が翁を世界的な影響力を持たせた。その影響力は、戦争中に米軍が巻いたビラの中で翁は日本における自由人の代表として挙げられています。私は、記念館でそのことを教えられました。そしてその気づきを心にしっかりと刻みました。

ひるがえって今、です。

いまは誰もがライター、誰もがジャーナリスト、誰もがインフルエンサーの時代です。しかもほとんどが志望者。バズれば当たるが、ライバルは無数。いつでもどこでも誰もが世界に向けて文章を発信でき、匿名と実名を問わず意見を問えます。ですが、誰もが意見を発信するため、情報の奔流の中に埋もれてしまうのがオチ。あまりの情報量の多さに、私はSNSからの情報収集をやめてしまいました。最近は論壇メディア(左右を問わず)や書籍から情報を絞って取り込むようにしています。

そんな今、無数の発信者の中で一頭地を抜く方々がいます。それらの方々に共通するのは、弁論の力、です。

例えば、経営者がプレゼンの達人である会社。いわゆるトップ営業を得意とする企業には活気が漲っている印象を受けます。代表的な人物は米アップル社の故スティーヴ・ジョブズ氏でしょう。また、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる方々は、ブログやツイートだけでなく、イベントでのトークがもてはやされます。また、文章での表現に秀でた方は、講演にも秀でている方が多い。そんな印象を受けます。

実際、彼らのトークを聞くと、何かしら心が高揚します。そして、高揚した気持ちとトーク内容が積極的に記憶されます。正直なところ、トーク自体に含まれる情報量は、文章よりも少ないことがほとんどです。しかし、記憶に残っているのは文章よりもトークの内容。そんな経験をされた方もいるのではないでしょうか。

なぜか。考えてみました。

多分、感情と理性がうまく脳内で混ざり合った時にこそ、情報は記憶されるから、というのが私の素人なりの考えです。文章を読む時、人の脳は理性が勝る。そこには感情の関わりが薄い。その一方、手練れの講演者は間に笑いを挟み、聴衆の注意を引きつける。笑うことは感情を刺激し、聞いた内容を脳内に刻む。そのため、講演内容が記憶され、肚に落ちる。私はそんな風に考えています。また、講演をじかに聞く時、私たちは視覚と聴覚を使います。文章を読むときは視覚だけ。その差もあると思います。

つまり、今や文章をアップするだけではだめなのです。もちろん発信することは大切です。ただそれだけでは無数のネット上の文章に埋もれます。文章に加え、人前で弁論をふるい、視覚と聴覚で訴えるスキルが求められると思うのです。それは私のように普段から商談に臨む者にとってみればスキルの延長です。もちろん、提案書だけで一度も会わずに受注いただくこともあります。でもそれはレアケース。一対一の商談に加え、一対多でも表現して、発信するスキル。人前でしゃべる機会を持ち、スキルを磨くことで受注ばかりか、引き合いの機会も増えてゆく。その取り組みが大切なのだと思います。それは私のように経営者だけに限りません。勤め人の方だって同じです。日々の業務とは自己発信のよい機会なのですから。

私は三年前に法人化しました。それからというもの、文章でアピールするだけでは今の時代、生き延びられないと考えていました。それでおととしはしゃべる機会を増やしました。人前でしゃべる技術。それは一朝一夕には得られません。とくに私のようにプログラミングをしていたらプログラマーに、システムの構成を考えていたらシステムエンジニアに、文章を書いていたらライターになってしまう要領の悪い脳を持っている人にとっては切実に欲しいスキルです。

ところが昨年の私は年末に総括した通り、開発やブログを書くことに集中してしまいました。人前で発信する機会は一、二度とほど。サッパリでした。失敗しました。売り上げこそかろうじて前年比増を達成したとはいえ、それでは今後、生き残れません。去年の失敗を挽回するため、今年は人前で話す機会を増やしています。ここ数日も人前で二、三度しゃべりました。その一度目の成果として、明日5/16にサイボウズ社本社で行われるセミナーに登壇します。リンク

明日に向けてリハーサルも何回か行い、内容は練りつつあります。が、まだまだ私のトークスキルには向上の余地があるはず。少なくとも尾崎咢堂翁のように人に影響を与えるには、さらなる研鑽が必要です。そのためにも今回に限らず、今年は積極的にお話しする機会に手を挙げるつもりです。私の知己にも、紙芝居形式のプレゼンを行う方や人前で話すことに長けた方がいます。そういった方の教えを請いつつ、少しでも尾崎翁に追いつきたいと決意を新たにしました。

弁論の力こそ、ポストA.I.時代を生きるすべではないか。そんな風に思った尾崎咢堂記念館でのひと時でした。


道化師の蝶


本書で著者は芥川賞を受賞した。

私は、芥川・直木の両賞受賞作はなるべく読むようにしている。とくに芥川賞については、賞自体の権威もさることながら、その年の純文学の傾向が表れていて面白いから読む。さらにあまり文芸誌を読まない私にとっては、受賞作家はほとんど知らない方であり、その作家の作風や筆致、文体などを知る機会にもなる。だが本書は芥川賞受賞作だからではなく、著者の作品だから読んだ。そもそも著者の作品を読むのは本書で三冊目だ。中でも初めて読んだ「後藤さんについて」に強い印象を受けた。だから本書については芥川賞受賞作だからというよりも、著者のとんがって前衛の作品世界がどうやって芥川賞を獲らせたのか、それはどれだけ一般の読者を向いた作品なのかが気になった。

本書を一読して思ったのは、確かに芥川賞よりの作品と思った。だが、それは私が読んだ著者の三作品の中では芥川賞よりということ。作品世界が高踏であることに揺るぎはない。そして著者の癖のある文体「~する。」の多用は本書でも健在だ。この癖のある文体も含めて、芥川賞受賞作の中でも本書は異色だと思う。本稿を書くにあたり、本書を芥川賞選考委員の面々はどのように評価したのかふと気になった。そしてサイトに掲載されている選評を読んでみた。http://prizesworld.com/akutagawa/senpyo/senpyo146.htm 私の期待通り面白い選評になっている。ある年齢を境に本書の理解を諦めた選者のいかに多いことか。それなのによくぞ受賞できたものだ。正直に本書を理解できないと評する選者の潔さに好感を抱きつつ、それを乗り越えて受賞した事実にも感心した。

表題作は、富豪であるA.A.エイブラムスが追い求める謎の散文家「友幸友幸」を巡る話だ。「友幸友幸」は行く先々で大量の言葉を紙や本に書き残す。その言葉はその土地の言葉で書き記される。無活用ラテン語といった話者が皆無の言葉で記された紙束もある。大量の書簡を残しながら「友幸友幸」は誰にも行方を悟られない。

五つからなるそれぞれの章は「友幸友幸」の行く先を探るための章だ。本編を読むと、そもそも文章を書く行為が何のためかとの疑問に突き当たる。不特定読者に読んでもらう一方通行の文章。やり取りするための両方向の文書。または自分自身に読んでもらうだけの場所を動かないものもある。「友幸友幸」の書く文書はさしずめ最後の例にあたるだろう。

誰にも読まれない文書はいったん紙に書かれ印字されると著者の手を離れる。著者がどう思おうと、読者がどういうレスポンスを返そうと文書はそこにある。たとえだれにも読まれなくとも紙が朽ちるまで永遠にとどまり続ける。

「友幸友幸」が移動を繰り返し正体不明である事。それは著者不在を意味しているのではないか。著者不在でも文書の束はそこで生きている。そうなってくると文書に書かれた内容に意味など不要だ。面白い、面白くない。簡単、難しい。そんな評価も無意味だし、売上も無意味。著者の排泄物として生まれ、著者も書いたそばから忘れ去ってしまう文章。

著者は本編で世に氾濫する印刷物に対して喧嘩を売っている。作家という職業が排泄物を生み出す存在でしかないと挑発している。それが冒頭に挙げたような芥川賞選評の割れた評価にもつながったのではないか。自らが作家であることを疑わず肯定している人には本書の挑発は不快なはず。一方で自らの作家性とその存在意義に疑問を持つ選者の琴線には触れる。

著者の作品には連関構造やループのような構造が多い。それが読者を惑わせる。本編を読んでいるとエッシャーの「滝」を見ているような感覚に襲われる。ループする滝を描いたあれだ。そのようにに複雑な構造である本編で目を引くのは、冒頭に収められた着想という名の蝶を追うエイブラムス氏の話だ。「友幸友幸」が自分を追いかけてくるエイブラムス氏に向けて遺したとされるこの文書の中で、「友幸友幸」は作家を道化師になぞらえている。そして作家とは着想を追う者でしかないと揶揄する。たぶん本編を書きながら著者は自らの作家としてのあり方に疑問を持っていたのだと思わされる。作家が創作を行っているさ中の脳内では、このようなドラマが展開されているのかもしれない。

「松の枝の記」はコミュニケーションを追求した一編だ。「道化師の蝶」が作家の内面の思考を表わしたのだとすれば、「松の枝の記」は作家の思考が外に出たことによる波及を表している。

二人の作家が互いの作品を交互に翻訳する。翻訳とは本来一対一の関係であるべきだ。一方の言語が示す意味を、もう一方の言語で対応する言葉に忠実に置き換える。だが、そんなことは元から不可能なのだ。だから訳者はなるべく近い言葉を選び、原作者の意図を読者に届けようとする。そこに訳者の意思が入り込む。これを突き詰めると、原著とかけ離れた作品が翻訳作品として存在しうる。

本編で交わされる二人の作家による会話。それは壮大な小説作品を通してのみ成立する。「道化師の蝶」がコミュニケーションを拒否した作家の話であるならば、「松の枝の記」はコミュニケーションによる認識のズレが拡大する話だ。そもそもコミュニケーションとは本来、やり取りのキャッチボールによって刻々と内容の意味が変わっていくはず。であるならば原著と翻訳でもおなじ。原著と翻訳を一つの会話文とした壮大なやりとり。

AさんがBさんと会話した内容がBさんとCさんの会話にも影響を与えることだってもちろんある。そう考えると、小説というものは作家がそれまでになした全てのコミュニケーションの結果とも言えるのではないか。さらに言えば、小説とは作家の頭だけで創作されるのではなく、作家と関わった全ての人が創作したと言えなくもない。

それは種の記憶として代々受け継がれた思惟の成果でもある。いや、種にとらわれなくてもよい。たとえば人類の前、さらに前、前、前とさかのぼる。行き着いた先が本編に登場するエレモテリウムのような太古の哺乳類の記憶であってもよい。生物の記憶は受け継がれ、現代の作家をたまたま依り代として作品として表現される。

本編には自動書記の考えが登場する。ザゼツキー症例の考えだ。ザゼツキー症例とはかつて大怪我をして脳機能を損傷した男が過去の記憶をなかば自動的に記述する症例のことだ。これもまた、記憶と創作の結びつきを表す一つの例だ。過去のコミュニケーションと思惟の成果が表現される例でもある。

ここまで考えると著者が本編で解き明かそうとした事がおぼろげながら見えてくる。小説をはじめとしたあらゆる表現の始原は、集合的無意識にあるという考えに。それを明らかにするように本書にも集合的無意識の言葉が162ページに登場する。登場人物は即座に集合的無意識を否定するのだが、私には逆に本編でその存在が示唆されているように思えてならなかった。

本編もまた、著者が自らの存在を掘り下げた成果なのだ。評価したい。

‘2017/03/30-2017/03/31


売文生活


興味を惹かれるタイトルだ。

本書を一言でいえば、著述活動で稼ぐ人々の実態紹介だ。明治以降、文士と呼ばれる業種が登場した。文士という職業は、時代を経るにつれ名を変えた。たとえば作家やエッセイスト、著述業などなど。

彼らが実際のところ、どうやって稼いでいるのか、これを読んでくださっている方は気にならないだろうか。私は気になる。私は勤め人ではないので、月々のサラリーはもらっていない。自分で営業してサービスを提供して生計を立てている。そういった意味では文士とそう変わらないかも。ただ、著述業には印税という誰もが憧れる収入源がある。IT業界でも保守という定期収入はある。だが、保守という名のもと、さまざまな作業が付いて回る。それに比べれば印税は下記の自分の労働対価よりもよりも上回る額を不労所得としてもらえる。私も細々とではあるが、ウェブ媒体で原稿料をいただいている。つまり著述業者でござい、といえる立場なのだ。ただ印税はまだもらったことがない。そうとなれば、著述業の実態を知り、私の身の丈にあった職業かどうか知りたくなるというもの。

といっても本書は、下世話なルポルタージュでもなければ、軽いノリで著述業の生態を暴く類いの本でもない。本書はいたって真面目だ。本書で著者は、著述業の人々が原稿料や印税について書き残した文章を丹念に拾い、文士の生計の立て方が時代に応じてどう移り変わってきたかを検証している。

著述を生業にしている人々は、収入の手段や額の移り変わりについて生々しい文章をたくさん残している。文士という職が世に登場してから、物価と原稿料、物価と印税の関係は切っても切れないらしい。

だが、かの夏目漱石にしても、『我輩は猫である』で名を高めたにも関わらず、専属作家にはなっていない。五高教師から帝大講師の職を得た漱石。のちに講師の立場で受けた教授への誘いと朝日新聞社の専属作家を天秤にかけている。そればかりか、朝日新聞社への入社に当たっては条件面を事細かに接触しているようだ。著者は漱石が朝日新聞社に出した文面を本書で逐一紹介する。そして漱石を日本初のフリーエージェント実施者と持ち上げている。ようするに、漱石ですら、筆一本ではやっていけなかった当時の文士事情が見てとれるのだ。

そんな状況が一変したのは、大正デモクラシーと円本の大ヒットだ。それが文士から作家への転換点となる。「作家」という言葉は、字の通り家を作ると書く。著者は「作家」の言葉が生まれた背景に、文士達が筆一本で家を建てられる身分になった時代の移り変わりを見てとる。

文士、転じて作家たちの急に豊かになった境遇が、はにかみや恥じらいや開き直りの文章の数々となって書かれているのを著者はいたるところから集め、紹介する。

そこには、夏目漱石が文士から文豪へ、日本初のフリーエージェントとして、文士の待遇改善を働きかけた努力の結果だと著者はいう。さらにその背景には漱石が英国留学で学んだ契約社会の実態があったことを喝破する。これはとても重要な指摘だと思う。

続いて著者が取り上げるのは、筒井康隆氏だ。氏は今までに何度も日記調のエッセイを出版している。そのあからさまな生活暴露や、摩擦も辞さない日記スタイルは、私にも大きく影響を与えている。筒井氏は、日記の中で原稿料についても何度も言及している。本書で著者が引用した箇所も私に見覚えがある文章だ。

筒井氏は、長らくベストセラーとは無縁の作家だった。けれども、才能と着想の技術で優れた作品を産み出してきた。筒井氏のブログ「偽文士日録」は私が読んでいる数少ないブログの一つだが、その中でも昨今の出版長期不況で部数が低下していることは何度も登場する。

著者は、フィクション作家として筒井康隆氏を取り上げるが、ノンフィクション作家もまな板にのせる。立花隆氏だ。多くのベストセラーを持つ立花氏だが、経営感覚はお粗末だったらしい。その辺りの事情も著者の遠慮ない筆は暴いていく。立花氏と言えば書斎を丸ごとビルとした通称「猫ビル」が有名だ。私も本書を読むまで知らなかったのだが、あのビルは経営が立ちいかなくなり売却したそうだ。私にとって憧れのビルだったのに。

著者はこの辺りから、現代の原稿料事情をつらつらと述べていく。エピソードが細かく分けられていて、ともすれば著者の論点を見失いそうになる。だが、著者はこういったエピソードの積み重ねから、「文学や文士の変遷そのものではなく、それらを踏まえた「ビジネスモデルとしての売文生活」(229p)」を考察しようとしているのだ。

サラリーマンをやめて、自由な立場から筆で身をたてる。独立した今、私は思う。それはとても厳しい道だと。

著者はいう。「明治から昭和に至るまで、文士が生きてゆくためには、給与生活者を兼ねるのがむしろ主流でした。しかし、家計のやりくりにエネルギーを削がれず、文士が思うまま執筆に専念できるための処方としては、スポンサーを見つけるか、恒常的に印税収入が原稿料を上回るようになるかしかありませんでした。(233p)」。著者の考えはまっとう至極に思える。本書の全体に通じるのは、幻想を振りまくことを自重するトーンだ。「それだけの原稿料を払ってでも載せたい、という原稿を書いていくほかないのではないでしょうか。あるいは、採用される質を前提として量をこなすか、単行本にして印税を上乗せし実質的単価を上昇させてゆく(237p)」。著者の結論はここでもただ努力あるのみ。

本書は作家への道ノウハウ本でもなければ、印税生活マンセー本でもなく、ビジネスモデルとしての売文生活を考える本だ。となれば、著者がそう結論を出すのは当然だと思う。

お金か自由か。本書が前提とする問いかけだ。そして、著者はその前提に立って本音をいう。お金も自由も。両方が欲しいのは全ての人々に共通する本音のはず。無論私にとっても。

だからこそ、努力する他はないのだ。お金も自由も楽して得られはしない。それが本書の結論だ。当たり前のことだ。そしてその実現に当たって著者が余計な煽りも幻想も与えないことに誠実さを感じた。

あと一つ、著者は意識していないと思うが、とてもためになる箇所がある。それは著者が自分がなぜ何十年も著述業を続けられているのか、についてさらっと書いている箇所だ。私はそこから大切な示唆を得た。そこで著者は、自身が初めて原稿料をもらった文章を紹介している。そして、自ら添削し批評を加えている。「今の時点で読み返してみると、紋切り型の筆運びに赤面するほかありません」(14p)と手厳しい。その教訓を自ら実践するかのように、本書の筆致には硬と軟が入り交じっている。その箇所を読んで思った。私も紋切り型の文章になっていないだろうか、と。見直さないと。堅っくるしい言葉ばっか並べとるばかりやあらへん。

私もさらに努力を重ねんとな。そう思った。

‘2016/12/15-2016/12/16


思いつくものではない。考えるものである。言葉の技術


言葉を操る。今、誰もがこなせるスキルだ。そしてそれ故にもっとも軽んじられたスキルでもある。

多くのブログやツイートやウォールが溢れるネットの中。そこでは、編集者や読者がいようがいまいがお構いなしに、毎日大量の文章がアップされている。ページに表れては底へと沈んでいく文字の群れ。私の書く文章もその中に紛れ、底に向かって忘れられていく。そんな言葉で液晶画面は飽和している。だが、液晶画面の外でも脚光を浴びる文字はほんのわずかだ。電子世界ではいくら威勢がよくても、リアルな社会では本当にちっぽけな存在でしかない。それがあまたのブログやツイートの実情だろう。

リアルな社会では、いまなおテレビ番組が健在だ。ネット住民からみると完全なオワコンでしかないテレビ番組。だが、リアルな社会ではまだまだ影響力を持っている。テレビのCMが世相に浸透する力は依然として侮れない。一方通行である分、大量に流され、拡散力を持つ。一方、ネットはそれぞれの閲覧者にカスタマイズされた情報が届けられることが基本だ。なので、同時に拡散する力は弱い。ネットの中を飛び交う言葉は、リアルな社会での影響力はまだ鈍いといわざるをえない。ネットに流れる文章でリアルな社会にかろうじて顔を見せる文章といえば、ツイートぐらいだろうか。それすらも、フォロワーが何百万人、何千万人いるような選ばれたインフルエンサーのツイートに限られる。例えばトランプ大統領や著名人のアカウントのような。一般人のツイートで取り上げられるとすれば、テレビ番組の中ぐらいか。 リアルタイムでインタラクティブな視聴者の声として、テレビ局が最近意識して取り入れるような。

それ以外の言葉は、残念ながら、CMにしろ番組にしろ、ネット社会で飛び交う言葉がリアルに登場することはあまりない。ネット上で産まれた言葉がリアルを侵食することはない。そこまでは至っていないのが現状だ。

それがおそらく、一人ひとりにカスタマイズされるネットのコンテンツと、一斉配信を前提とするマスメディアの差なのだろう。だが、あえていうならば、読む人見る人の感性に訴えるだけの力がネット上の文章にはないとから、ともいえる。私も含めた発信者が、ネット上にアップする文章に、世論を動かすだけの力がないのだ。

では、どういう言葉がリアルな言葉でもてはやされるのか。それは、コピーライターによるコピー文句だ。

作家による小説やエッセイ、または新聞記事。確かにこれらはリアルな社会に似つかわしい文章だ。だが、それはリアルな社会の共通項ではない。それらは著者から読者へとストレートに届けられるものであり、社会に浸透することはあまりない。若干閉じた文章とすらいえる。これはネット上のニュース文章にもいえることだ。先にも書いたが拡散力の差、といえる。それに比べて、コピーライターの生み出す文章は、拡散力がある。それは文章を見た瞬間に、人の感性にするりと入り込む。そして記憶の奥底にがっちりと食い込む。これはが、ネットの世界に飛び交う文章にはない、職人的な経験値の力なのだろう。

本書は、リアルな世界で通用する文章の紡ぎ方のノウハウが記されている。著者は文章の専門家ではない。修辞学の教授でも文学部の講師でも、ましてや作家ですらない。著者は電通でコピーライターとして活躍している方だ。だが、上にも書いたとおり、リアルな社会で人々の目や耳に飛び込む文章とは、コピーライターから発信された言葉が多いのではないか。

本書で著者は、すぐれたコピーを生み出す秘訣を、端的にいう。それは、考えることであるという。コピーライターが生み出す言葉とは考えに考えぬいた結果でしかないのだ。決して才能や感性でパッと生まれでたものではない。本書で著者が語る秘訣とは、当たり前といえば当たり前なのだ。だが、すべての仕事に共通することだが、実のところ近道はない。どんな仕事であれ、練習や努力の積み重ねでしかない。本書の結論も同じ。優れたCMコピーの裏側には膨大な試作があり、廃案があり、考え抜いた努力の跡がある。その訓練が人に訴えるコピー文句を生み出すのだ。

商品・企業
ターゲット
競合
時代・社会
この4つのキーワードは、著者がコピーを考える上で四つの扉として挙げる切り口だ。

つまり、これらは徹底した消費者目線で、売り手の訴えたいココロを文章に乗せるための観点だ。

本書はとても腰が低い。本書のあちこちに著者が腰を低く、自らを卑下するようなスミマセンが登場する。これは、本書を読むとすぐに気づく特徴だ。腰が低いとは、読み手であるわれわれとの壁をなくすこと。つまり大上段に構えて落としこむように語っても本書の内容は伝わらないということなのだろう。そこで、上にあげた四つの扉の切り口から徹底的に消費者の視線と売り手の視線に降りて言葉を考える。ひたすらに考える。その愚直な作業の繰り返しから生まれるのがコピー文句なのだろう。

では、われわれ読者も、ありがたく頂くのではなく、その姿勢を学ばねばならない。学んで、同じように低い姿勢で読み手に文書を届けなければならない。

本書は最後に、二つの文章で、文章を著す者の姿勢が載っている。

感情的な言葉より、正確な言葉
人に訴える言葉より、自分を律する言葉

これはブログを書く上でも、仕事上でやり取りをする上でも、とても重要な言葉だと思う。ことに最近、そういう感情的な文章に触れる機会があった。それを反面教師として、自分でも自分でも律していきたいと思う。私は、いろいろなブログを書いている。その中で、読読ブログと映画・観劇ブログは、あえて文体を変えている。デスマス調ではなく、デアル調の文体。それがどういう効果を与えているのか、今一度深く考えてみなければならないのだろう。

‘2016/06/30-2016/06/30


後藤さんのこと


実験的といおうか、前衛的といおうか。
著者の作品は唯一無二の立場を確立している。

あまたの小説群が山々を成す中、孤峰として独立しているのが著者とその作品群だ。

冒頭の表題作からして、すでに独自世界が惜しげもなく披露される。森羅万象、古今東西に宿る後藤さん一般を、縦横無尽に論じ尽くすこちら。赤字、青字、緑字。黒地、赤地、緑地。そして白地に白字。カラフルな後藤さんが主語となり目的語となり述語となって本編を彩る。本編は壮大かつミニマムな後藤さんの存在論でもある。そして主語とは何かについて果敢に挑んだ記号論の極北でもある。

形而上であり、形而下。ペダンチックであり、ドメスチック。本編で著者は大上段に振りかぶり、大真面目な顔であらゆる角度から後藤さんを斬りまくる。かつて小中学生の頃われわれを悩ませた算数の証明問題。本編は、後藤さん一般を証明するために著者が仕掛けた壮大な問答の成果と言い換えてもよい。

本編から読者は何を得るのか。
その生真面目なユーモアを堪能することも楽しみ方の一つだ。それだけでも本書はじゅうぶんに楽しめる。

だが私は、本編は著者による実験だと思いたい。事物について、物事について語る事を突き詰めたらどうなるか。それが本編なのだ。一つの物事を極めるためには多面的かつ多層的にあらゆる角度からその事物を分析せねばなるまい。そして語れば語るほど、物事を表す語句は重なり合い、ハレーションを起こす。物事を表す語句はゲシュタルト崩壊を起こし、脳内で溶解してゆく。結果、語句は記号でしかなくなる。紙に印刷された後藤さん一般は、フォントの色と地の色によって眼に映るクオリアとしてしか認識できなくなる。本編で著者が仕掛けるのは、記号の本質論であり存在論に違いない。

続いて収められた一編は「さかしま」。「さかしま」とは「道理に反する」といった意味がある。

慇懃な文体でつづられた本編は、お役所が発行する文章のようだ。それが延々と続く。遠い未来の人類にまだお役所というものが残っているとすれば、その機関はこういう文書を発行するのだろう。その未来のお役所は、読者こと帰還者に向けてこの文章をつづり続ける。帰還者は、テラが人類の発祥の地であり、テラはすなわち凍結された領域ウルと等しいとする伝説を信じて帰還してきた人物だ。

宇宙は複数の泡宇宙が並行している。最新の宇宙論にはよく登場する議論だ。本書ではウルが存在する空間とは、時間次元が存在する特異な空間のこと記されている。つまり語り手のお役所と読者こと帰還者の時間の概念は食い違っているのだ。食い違っているというよりは、語り手のお役所には時間自体の認識がないと思われる。論理のみで構成された次元宇宙に存在する語り手のお役所は、時間という異質な次元に絡め取られた存在である帰還者とは本来相容れるはずがない。

では、そのような帰還者でない帰還者に向けて、語り手のお役所は何をそんなに事務的に解説するのだろうか。論理空間の執行者たるお役所が、帰還者に向けては論理にならない論理を堂々と語る。そのこと自体が「さかしま」ではないか、ということになる。つまり、本編はお役所という存在に向けての強烈なアンチテーゼの文章なのだ。固定された論理、つまりは法や条例で時間に生きる住人である帰還者を縛ることそのものが「さかしま」なのだ。著者が告発する「さかしま」とはその根源的な矛盾に他ならない。

続いての一編は「考速」。文章という存在の不可思議な多義性を追求した一編だ。文章が単語の切り方によって幾通りもの意味を持ちうることはよく知られている。いわゆる「ぎなた」読みだ。

弁慶がな、ぎなたを持つ
弁慶がなぎなたを持つ

この二つの文は、音読みすると「べんけいがなぎなたをもつ」となる。同じ読みであっても、句読点の置き方や単語の切り方によって文の意味がまったく違ってくる。本編ではそういった文章の構造論が追求される。追求されるのは「ぎなた」読みの可能性だけではない。文章を一つの図形の展開図としてみなし、それを再び立体に再構成し直す可能性の追求。そこまで著者の手は及ぶ。

思考に思考が追いつくことは果たして可能か。0と1による思考の限界。思考の循環を定理や公理とよぶことで、論理破綻から逃れるという論法。回路図と背理法のコンピューターノイズ。文章の語彙のならびが冗長ゆえに短くあるべきという考えと、文章の長さ故にあるいは圧縮することのかなわぬ長さがあるべきという考えの対立。

本編は、言語の成り立ちを問う。人類が長年の文化的お約束に安住して、なあなあでやりとりする言語の意味を。そもそも見直されなければならないのは言語が生物にのみ許された通信信号-プロトコルであるとの前提ではないか。著者が問うのは曖昧なお約束、つまり言語そのものについてだ。そして著者の問いを突き詰めた先には、人工知能による人工言語が待ち受けているに違いない。

続いての一遍は「The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire」。題名からしてデヴィッド・ボウイのあの名曲を想像させる。

そして、本編の内容は本書の中でも一番とっつきやすいかもしれない。「銀河帝国」という語彙を、あらゆる種類の文章にはめ込むことで、銀河帝国という言葉の意味が変容する。銀河帝国の意味は短くもなり長くなる。矮小にも縮めば雄大にも化ける。ユーモラスに変化し、かつ神聖さを帯びる。その自在な柔軟さは、言語がそもそも記号の集まりでしかないという事実を読者に再確認させる。文章論や文体論といったところで、それらを構成する単語のそれぞれはしょせん記号でしかない。本編は、著者が作家として文章へ挑んだ結果ではないだろうか。

たとえば
01:銀河帝国の誇る人気メニューは揚げパンである。これを以って銀河帝国三年四組は銀河帝国一年二組を制圧した。
23:銀河帝国を二つ買うと、一つおまけについてくる。三つ揃えると更に一つがついてきて、以下同文。
41:包帯で変装とは古い手だぞ銀河帝国第二十代幼帝。いや、今は銀河帝国第四十代幼帝とお呼びした方がよいのかな。
48:この世に銀河帝国なんていうものはありはしないのだよ。銀河帝国君。
81:家の前に野良銀河帝国が集まってきて敵わないので、ペットボトルを並べてみる。

続いての一編は「ガベージコレクション」。IT技術者にはこの言葉はよく知られている。プログラム内部で確保したメモリ領域をプログラム終了時に自動的に集めて再使用できるよう解放する機能をガベージコレクションと呼ぶ。昔のプログラム言語にはこの機構が備わっていなかった。つまりプログラマーはきちんとメモリの解放処理を行わねばならない。そうしないと解放されないまま使えないメモリ領域が増大してしまう。その結果、メモリの使用可能域を圧迫し、コンピューターが重くなる原因となる。いわゆるメモリリークだ。

本編で語ろうとしているのは、すべての情報系を制御しようとする試みだ。往々にして情報とは一方向のみに伝わる。すでに発信された情報は、もはや逆方向に戻ることはない。情報を逆流させて制御する試みは、人類に残された最後の領域となる可能性がある。今まで人類が意識したことのない、情報の方向性という問題。それにもかかわらず指数的に増大する情報量は、ログという形でロールバックされることが求められている。それは今後の情報社会の基盤に求められること必至の要件だ。システム開発の現場でもデータベースを使う際はログによる更新の制御は必須だ。障害時に更新前の情報に戻すロールバックや、正常時に情報の更新を確定させるコミットメントは当然の機能として設けられる。これをあらゆる情報系に拡大する思考実験が本編だ。

最終的には超現実数を持ち出すことによって、著者はその解決を図ろうとする。だが、それはその時点でこの試みが頓挫するに違いないということを意味する。情報のエントロピーは増大し続け、それを回収することは誰にもできそうにない。だが、回収できなければ、それはすなわち情報が世にあふれ続けることになる。しかもそのほとんどは無価値な情報のゴミだ。つまりガベージ。いったい、それを誰が解決できるのか。そもそも数学に無限やゼロは許されるのか。本編からはそんな著者の問題提起が読み取れる。

最後の一編は「墓標天球」。

本編は一度読んだだけでは分からなかった。本稿の初稿では本編について書くのを断念したくらいだ。初稿を書いて約一年が経ち、本稿をアップする前に本編をもう一度読んでようやく少し内容がつかめた。

本編は比喩の極北に挑んでいる。本編にあふれるそれらが何に対する暗喩なのか、何を指すメタファーなのか。それを正確に指し示すことは困難だ。それでいて、本書には筋書きがある。いや、筋書きのようなもの、といったほうが良い。その筋書きらしき展開が螺旋状に、もしくは一回転する球のように、もしくは一回りできる立方体のように、どこに向かうでもなく循環する。その筋書きは、少女と少年の周りで時間を巡り、空間を巡る。それは本編に登場する立方体の展開図のようだ。

循環し、周回する天球は本編ではもっとも基本となるイメージだ。天使、または神が最初の天球を回したあと、その内側の天球を別の天使が回し、さらに別の天使が・・・と入れ子構造は無限に小さくなる。アリストテレスの神存在論を逆にゆくような議論だ。その中で天球の内側にいる人間とはただ営むための存在に過ぎない。

私は本編全体が指している比喩の対象とは、この天体の上で繰り広げられるあらゆる意思の営みではないだろうか、と推測する。この天体とは地球に限らない。他の生命体のいる天体でもいい。その上で営める生命の動きを単純化する。本編に出てくる少年とは人類の男。少女とは人類の女の投影だ。人類が過去から未来へと営むあらゆる意思を徹底的に単純化すれば、本編になるのではないか。

インペトゥム。本編で何度か登場する言葉だ。「創造のあと、単純な創造を繰り返す力」と少女がセリフで補足する。つまり、営みとは最初の創造のあとの単純な繰り返しに過ぎないのだ。そこに意味を無理やり付与しようと果てなき努力をする少年=男と、ただあるがままに営みを生きて行く少女=女。

少年は球体を一周させるかのように溝を掘る。丁度人類が伐採し、掘削し、開墾し、建築するように。何の目的かは誰にも分からない。強いていうなら経済のため。そして営みのため。

少年と少女は出会い続ける。そしてすれ違い続ける。出会ったら子供が生まれる。すれ違っても営みは続いてゆく。そうした営みの全ては記録され続ける。ただ記録するために記録され続ける。禁忌は何かのためだけに禁忌であり、豚は食べるためだけの豚に過ぎない。少年と少女の間にやり取りされる封筒の中身は開封するまでもない。常に一つの真実だけが書かれているのだから。

本編が指し示す比喩の対象とは、実は全ての営みには根源的な目的などない、という虚無的な事実なのかもしれない。少なくとも人類にとっては。全ては螺旋階段をだらだらと登り続ける営みに帰着するほかないのだと。それは政治、経済、科学、哲学、恋愛、スポーツ、など関係ない。全ての営みをいったん漂白し、単純に比喩して抽出したのが本編ではないだろうか。

本書には、もう一編が隠れている。それは帯に記されている。帯に記されているのは「目次」というタイトルの目次だけでなる短編だ。40マスある格子状の各ページを進んでいった結果、徹底的に読者は著者と本と読者の間をさまよい、混乱させられることだろう。目次という本そのものの構造すら著者の手にかかれば抽象化され、解体されてしまう。

いったい著者の目指す極点はどこにあるのだろう。私は本稿を書いたことを機に改めて著者に興味を持った。もう少し著者の本を読み込んでみなければ。

‘2016/03/25-2016/03/28


日本語のコツ―ことばのセンスをみがく


ここ数年、文章を書くことの面白さと難しさを感じている。書く場所や時間で文章の紡ぎかたは変わり、読み手の気分や体調によって文章の受け止められ方も変わる。読み手と書き手、それぞれの立場に応じて、文章は自在にその色合いを変化させる。

デジタルの世にあって、アナログな作業が年々減っていくことに寂しさを感じる昨今。文章を綴る作業に、アナログの充実感を求めるのは私だけではないはず。デジタルやアナログという括りがわるければ、定型にはまった作業と、自由に任せた心の表現とでも言おうか。

そんな意見を持つようになった今の私。とはいえ、社会人に成り立ての頃は文章に興味はなかった。文章よりも物語の筋書き、登場人物の思考の流れ、に興味を持っていたように思う。文章なんてものは後回しで、ただ疎かにしていた。その頃の、二十代、三十代の私は、仕事や家庭を確立することに夢中で、文章を味わう境地から遠ざかっていたといえる。本はたくさん読んでいたが、読みっぱなしで反芻することもせず、筋書きや著者の主張を吸収することに汲々とした反省がある。振り替えれば勿体無いことをしていたものだ。

そのままだと本は乱読する対象、ただひたすらに消費する対象に過ぎなかったかもしれない。しかし、IT技術の進化はSNSという自己表現の手段をもたらした。mixiやFacebook、OpenPNEベースのSNS、Twitterなど。これらのSNSを利用し楽しむためには読むだけの参加もありだが、自ら文章を書いて発信することでより楽しくなる。私も日記書きにはまり、以来、舞台を変えながらも日に一度の日記は欠かさない。

SNSと並行して、読んだ本のレビューを書き始めたのが数年前。それは三十代も終わりを迎えようとした頃のこと。また、時期を同じくして参画したプロジェクトで、毎週開かれる大きな会議の議事録執筆を担当し今に至っている。

文章をインプットするのは楽である。読むだけなので。しかし文章をアウトプットする作業は、個人的な楽しみであっても苦しい。書く道は遠い。そもそも文章に正解はない。簡潔に誤解を招かぬ文章。これは簡単なようで難しい。ビジネスメールも日記も読書観劇レビューも、エッセイからブログ上のオピニオン、百四十字のツイートに至るまで、文章には書き手の癖が現れる。その癖は、文章に独自の味をつけもすれば、型にはまった無味乾燥な文脈をまとわせもする。実に厄介な相手というしかない。私がSNS上で日記を公開する目的の一つに文章研鑽がある。その一環としてわざと使い慣れぬ言葉を使うよう心がけ、語彙や表現の幅を広げる努力を重ねてきた。そうしないと文章の癖が固定化し、表現がワンパターン化してしまう。この癖を自在に操り、千変万化の文章表現を繰り出すからこそ、作家は作家たり得る。しかし、私のような市井の素人物書きは、その癖に陥らぬようにするのが精いっぱい。せめてもの努力としては、癖を自覚しつつ沢山の文章を書くことだろうか。あるいは、文章読本や日本語ノウハウ本を読むことも無駄ではないだろう。とはいえ、私が読書レビューや議事録、日記を書くようになってからのここ数年、この手の本は余り読まなかったように思う。本書は久々に読んだ日本語ノウハウ本の一冊である。

ただし、本書はノウハウ本とはいえ、表面をなぞっただけの軽い内容ではない。その考察は広く深い。著者は国立国語研究所室長や大学教授を歴任してきたにも関わらず、取っつきやすい語り口ですいすい読み進められる。私もこれまでに数冊著作を読ませていただいているが、日本語表現を永年追究してきた著者の筆致は、ユーモアを頻繁にさりげなく混ぜつつ、表現の勘所を抑え、非常に分かりやすいといえる。本書の題名を日本語のコツと銘打つだけはある。

本書は8章からなる。
Ⅰ 意味の世界
Ⅱ 語感のひろがり
Ⅲ あいまいさの発生源
Ⅳ 誤解のメカニズム
Ⅴ 行動としての敬語
Ⅵ 手紙のセンス
Ⅶ 日本語の四季
Ⅷ 日本語の芸術

前半は、日本語の文法的なアプローチが多い。いわば理論面にあたる。後半に控える手紙や俳句や芸術などの実践面を紹介する章に比べると、身構えてしまうかもしれない。しかし、理論とはいえ、分かりやすく記されているため避けることはない。特に出だしのⅠ章は本書の性格を知る上で必読である。類義語、多義語、同音語などについての説明が主な内容だが、例示される言葉が的確に選ばれており、頭に入りやすい。本章では川端康成の伊豆の踊り子の一節が採り上げられている。その一節は日本語学習者にとって日本語のあいまいさを象徴する箇所として有名らしいが、私はそのことを知らなかった。著者はその一節に丁寧な解説を加え、作家が文章に凝らす工夫の巧みさと、日本語の表現の可能性を鮮やかに見せつける。

Ⅱ章は、語の持つ語感の広がりの豊かさ。Ⅲ章は同音語や「てにをは」の助詞のかかり方に修飾語の効果の範囲が散ってあいまいさが広がることについて考察を深める。自分で書いた文章、他人による文章を問わず、今まであいまいな文章に行き当たったことがあるのは私だけではあるまい。人の振り見て我が振り直せではないが、今後、文章を綴る上で気を付けたいと思う。

Ⅳ章は、誤解のメカニズムと題している。Ⅰ~Ⅲ章までのまとめに加え、主語の省略による誤解の発生についての考察だ。この章は私自身、議事録を書いていてよくやるミスである。主語を抜かしてしまうことで、何に対しての議事が話されているか曖昧になるのは思い当たる節が多数ある。ネット上でのメールのやりとりで失敗する向きは、本章の内容が参考になるかもしれない。本書は2002年刊行であり、ネット上のやり取りについてはあまり触れられていない。しかし、今の我々にとってネットでの文章表現を行う上で本章並びに本書は充分通用する。

Ⅴ章からは、実践面に入る。まずは敬語。私も含め、今の四十代以下の日本人で敬語を完璧に使いこなせる人はどれだけいるだろう。ほとんどいないのではないか。敬語の区分けとしてよく言われるのは、「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」といわれる。本章ではそれに「美化語」「丁重語」を加える。前者はものの頭に「お」を付ける用法。後者は「拙宅」「愚息」などのように手前側を貶めて相手を持ち上げる謙譲語に似た用法。敬語の奥深さは底知れない。

Ⅵ章の手紙のセンスは、含蓄に満ちた章である。この章では電子メールという言葉が出てくる。そして電子メールすら古い感じになってきたと書かれている。さしずめ今の世に本書が掛かれていたら、ツイートについても一章割かれるのではないか。著者は電報についてのエピソードを述べつつ、相手の都合を斟酌できない電話の功罪を内田百間の随筆に例をとってユーモラスに紹介する。手紙に関する色々なお作法に触れたあと、有名作家のプライベートな手紙を登場させる。著者は電子メールすら古い感じになってきたとITコミュニケーション全盛の世を察知し、古き良き手紙の文化への回帰を試みる。それは、以下に示す本章に書かれた一文からも読み取れる。

「発信機ではなく、手紙を書いている生の人間が今ここにいる、という感じが、受信機ではなく、それを読むもうひとりの生の人間に届くだろう。そんな生きている人のけはいが、相手の心をなごませる。」

Ⅶ章は、日本語の四季として、俳句の名句を多数用いて、豊かな日本語の時候や風流の語彙の数々を味わう。この章を読み、俳句の表現に興味を持った私は、年末にかけて数冊の俳句の関連本を読むこととなる。それらの本についてのレビューはまた改めてご紹介したい。

Ⅷ章は日本語の芸術と題している。前章が俳句なら、本章では短歌や詩の世界に遊ぶ。さらには小説という豊穣な宇宙へと論考は進む。本章で紹介される名文の多彩なことといったら。

本章で名文・名作の数々に触れるうちに、小説の筋書きを追うだけでなく、文章自体を味わおうと云う気になる。そして、もう一度本書を読み直す気になるかもしれない。そんな方がⅠ章に戻ると川端康成の名文が登場する。本書はご丁寧に輪廻する構造をもっている。繰り返し幾度も本書を読み返すことで、名文をものすることが出来るかもしれない。私自身、本書は折に触れ断片的にでも読み返そうと思っている。

‘2014/10/10-2014/10/21


これはペンです


村上龍氏が以前何かのインタビューで語っていた内容が、プログラマが書いた小説に興味がある、という趣旨のことだったように記憶している。

私も仕事でプログラミングをする機会があり、If文やFor~Next文、While~Wendなどの条件文や反復文などは普通に使う。そのため、こういう小説に出会ったときには、非常に興味をそそられてしまう。文書生成というテーマは、プログラマならだれでも行き詰った時に抱く願望であり、仕様書の自動生成やロジックの自動生成など、願いのタネは尽きない。

仮に文章生成を実装する場合、本来ならば設計にそった形でバグなく結果を収斂させてゆくのが、プログラマの本分だが、本書の場合、それを文書生成というテーマを核に、どこまで拡散させてゆくかという点が見所になっている。

拡げた大風呂敷を矛盾なく折りたたんで懐に戻すことも小説の技法末として重要だが、ある程度まで広げた後は読者に後始末を委ねるという方法もある。

本書の場合、それぞれの読者がどういうロジックで後始末を行ったか、という点で興味は尽きないのだが、感性でなくロジックで委ねる部分が大きいところに、本書の新味があると思った。

’12/04/10-12/04/12