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雀の手帖


著者の父君は明治の文豪、幸田露伴だ。尾崎紅葉と並び称され、当時の文壇を率いた活躍は紅露時代と名付けられ、日本文学史にしっかりと刻まれている。ところが私は幸田露伴の著作を読んだ事がない。何度か『五重塔』は読もうとした。だが、その度に文語調の文体に手を焼き、断念した。

そして本書だ。著者は文豪の娘であるが、その立場に安住しない。自らも作家として大家の中に伍している。父露伴を描いた諸作品を著し、エッセイの名手としても名を高めている。実は私は著者の文章を読むのは初めてだ。著者が書くエッセイの妙味を味わってみたくて本書を手に取った。

エッセイとは簡単なようで難しい。日記だけなら私もこの四、五年ほど、毎日Facebookにアップしている。ところがそれは日記でしかない。私は、たとえ”SNS”であろうとも、自分の書いた物にはエッセイのような一味を加えた味わいを出したい。そして自分がFacebookにアップする文章には過度なビジネス臭を漂わせたくない。そう思っている。普段、ビジネスに忙しくする中、自分の人生にどうやって変化をつけるか。しかも無味乾燥な事実の羅列ではなく、読むに耐える内容をつづれるか。これが難しい。日々の鍛錬を欠かすと、途端に文は乱れる。私が毎日Facebookに文章をアップする理由はこれだ。

さらなる文章の高みに至るにはどうすれば良いか。それは先人の著した文章を参考にすることだ。たとえば本書のような。私が本書を手に取ったのはエッセイの名手である著者の文体に触れるためでもあるし、エッセイを毎日記す営みの一端を知るためでもある。私はその本書によってその極意にほんのわずかだが触れる事ができたと思う。

その極意とは、読者の共通項に訴える事だ。読者といってもさまざまだ。住んでいる場所や性格、人生観が変わる違えば価値観も違う。ただ、読者に共通している事がひとつある。それは時間だ。季節の移りゆく時間。本書はここに焦点をあてている。それがいい。

本書の内容は昭和34年の元旦から100日間、西日本新聞の紙面に連載された文章が元になっているという。日々のよしなし事や作者の目に映る百日間の世間。著者はそれを毎日筆にしたため、本書として成果にした。発表した媒体こそ西日本新聞、つまり九州の読者に向けて書かれているが、著者が住んでいるのは東京。つまり、本書は西日本と東京に共通した歳時記として記されている。

季節の移ろいは、日本の東西南北の各地で多彩で豊かな顔を見せる。だが、極端な違いはない。さらに、季節が見せる変化は、少々の時代が違っても変わりないと言っても良い。例えば本書が書かれた六十年後の今も、本書で描かれた当時の歳時の描写は理解できる。そこに共通しているのは、日本の風土なのだから。日本の東西に共通する季節の様子をおろそかにせず描いたからこそ、本書はエッセイとして成り立ち、六十年後にも生き残っている。ただし、そのためには折々の文化、事物への豊富な知識が必要だ。私にはそれが足りない。普段の生活から季節感を感じ取るにはアンテナの感度も足りない。

また、知識として歳児を知るだけでは足りない。それだけでは弱いのだ。日々の季節の出来事だけなら、私が日々アップする日記にも時々登場させている。それ他に本書をエッセイとして完成させているのは味わいだ。著者の独特の視点が文中に出汁を効かせている。さらに、独特の文体が複雑で深みのある味わいを出している。

本書の解説で作家の出久根達郎氏が書いているが、著者の文体には魅力がある。私もそれに同意する。特に擬態語と擬音語の使いかたに特徴がある。私もさまざまな本を読むが、著者が繰り出す表現は、本書でしか見た事がない。この斬新な言い回しが本書の記述に新しい感覚を与えている。

ただ、正直に言うと、本書には退屈な所もある。それは仕方ない。なにしろエッセイだ。著者の身の回りにそうそう劇的な出来事ばかり起こるわけではない。身の回りのあれこれをしたためている以上、退屈な描写になってしまうこともある。そもそも昭和34の日本の暮らしは、現代から見ると刺激に富んでいるとはいい難い。そんな素朴な描写の中、随所に挟まれる新味の表現が本書のスパイスとなり、読者を引きつける。

日によっては変わり映えのない題材を取り上げているにもかかわらず、そうした日には身の回りの些事を描いているにもかかわらず、著者は百日間、エッセイを書き続ける。それが素晴らしい。

昭和34年の日本。それは今の世から見るとすでに歴史の一部分だ。先日退位された上皇夫妻の結婚式があり、日本経済は来たる東京オリンピックに向けて高度成長のただ中にあった。もはや戦後ではないといわれた日本の成長の中、かろうじて明治大正、戦前の素朴な日本が残っていた時期でもある。そのような時期に著者のエッセイは、父露伴から受け継がれた明治の日本をかろうじて書き残してくれている。実は退屈に思える日々の描写にこそ、本書の資料的な価値はあると思う。

また、著者は当時、徐々に社会に浸透し始めたテレビ文化の発信者でもあった。本書には、当時、テレビに出演する機会があったエピソードにも触れられている。当時にあっては著者の立場は先進的であり、本書が決して懐古的な内容でないことは言っておきたい。徐々に戦後の洋式化しつつある文化を受け入れつつあった日本の世相が存分に記されているのも本書の良さだ。

今の私が日々、SNSにアップする内容は、果たして後世の日本人が平成から令和に切り替わった今の日本を書き残しているだろうか。そうしたことを自問自答しつつ、私は日々のSNSへのアップを書きつづっていきたいと思う。

‘2018/07/20-2018/07/21


道化師の蝶


本書で著者は芥川賞を受賞した。

私は、芥川・直木の両賞受賞作はなるべく読むようにしている。とくに芥川賞については、賞自体の権威もさることながら、その年の純文学の傾向が表れていて面白いから読む。さらにあまり文芸誌を読まない私にとっては、受賞作家はほとんど知らない方であり、その作家の作風や筆致、文体などを知る機会にもなる。だが本書は芥川賞受賞作だからではなく、著者の作品だから読んだ。そもそも著者の作品を読むのは本書で三冊目だ。中でも初めて読んだ「後藤さんについて」に強い印象を受けた。だから本書については芥川賞受賞作だからというよりも、著者のとんがって前衛の作品世界がどうやって芥川賞を獲らせたのか、それはどれだけ一般の読者を向いた作品なのかが気になった。

本書を一読して思ったのは、確かに芥川賞よりの作品と思った。だが、それは私が読んだ著者の三作品の中では芥川賞よりということ。作品世界が高踏であることに揺るぎはない。そして著者の癖のある文体「~する。」の多用は本書でも健在だ。この癖のある文体も含めて、芥川賞受賞作の中でも本書は異色だと思う。本稿を書くにあたり、本書を芥川賞選考委員の面々はどのように評価したのかふと気になった。そしてサイトに掲載されている選評を読んでみた。http://prizesworld.com/akutagawa/senpyo/senpyo146.htm 私の期待通り面白い選評になっている。ある年齢を境に本書の理解を諦めた選者のいかに多いことか。それなのによくぞ受賞できたものだ。正直に本書を理解できないと評する選者の潔さに好感を抱きつつ、それを乗り越えて受賞した事実にも感心した。

表題作は、富豪であるA.A.エイブラムスが追い求める謎の散文家「友幸友幸」を巡る話だ。「友幸友幸」は行く先々で大量の言葉を紙や本に書き残す。その言葉はその土地の言葉で書き記される。無活用ラテン語といった話者が皆無の言葉で記された紙束もある。大量の書簡を残しながら「友幸友幸」は誰にも行方を悟られない。

五つからなるそれぞれの章は「友幸友幸」の行く先を探るための章だ。本編を読むと、そもそも文章を書く行為が何のためかとの疑問に突き当たる。不特定読者に読んでもらう一方通行の文章。やり取りするための両方向の文書。または自分自身に読んでもらうだけの場所を動かないものもある。「友幸友幸」の書く文書はさしずめ最後の例にあたるだろう。

誰にも読まれない文書はいったん紙に書かれ印字されると著者の手を離れる。著者がどう思おうと、読者がどういうレスポンスを返そうと文書はそこにある。たとえだれにも読まれなくとも紙が朽ちるまで永遠にとどまり続ける。

「友幸友幸」が移動を繰り返し正体不明である事。それは著者不在を意味しているのではないか。著者不在でも文書の束はそこで生きている。そうなってくると文書に書かれた内容に意味など不要だ。面白い、面白くない。簡単、難しい。そんな評価も無意味だし、売上も無意味。著者の排泄物として生まれ、著者も書いたそばから忘れ去ってしまう文章。

著者は本編で世に氾濫する印刷物に対して喧嘩を売っている。作家という職業が排泄物を生み出す存在でしかないと挑発している。それが冒頭に挙げたような芥川賞選評の割れた評価にもつながったのではないか。自らが作家であることを疑わず肯定している人には本書の挑発は不快なはず。一方で自らの作家性とその存在意義に疑問を持つ選者の琴線には触れる。

著者の作品には連関構造やループのような構造が多い。それが読者を惑わせる。本編を読んでいるとエッシャーの「滝」を見ているような感覚に襲われる。ループする滝を描いたあれだ。そのようにに複雑な構造である本編で目を引くのは、冒頭に収められた着想という名の蝶を追うエイブラムス氏の話だ。「友幸友幸」が自分を追いかけてくるエイブラムス氏に向けて遺したとされるこの文書の中で、「友幸友幸」は作家を道化師になぞらえている。そして作家とは着想を追う者でしかないと揶揄する。たぶん本編を書きながら著者は自らの作家としてのあり方に疑問を持っていたのだと思わされる。作家が創作を行っているさ中の脳内では、このようなドラマが展開されているのかもしれない。

「松の枝の記」はコミュニケーションを追求した一編だ。「道化師の蝶」が作家の内面の思考を表わしたのだとすれば、「松の枝の記」は作家の思考が外に出たことによる波及を表している。

二人の作家が互いの作品を交互に翻訳する。翻訳とは本来一対一の関係であるべきだ。一方の言語が示す意味を、もう一方の言語で対応する言葉に忠実に置き換える。だが、そんなことは元から不可能なのだ。だから訳者はなるべく近い言葉を選び、原作者の意図を読者に届けようとする。そこに訳者の意思が入り込む。これを突き詰めると、原著とかけ離れた作品が翻訳作品として存在しうる。

本編で交わされる二人の作家による会話。それは壮大な小説作品を通してのみ成立する。「道化師の蝶」がコミュニケーションを拒否した作家の話であるならば、「松の枝の記」はコミュニケーションによる認識のズレが拡大する話だ。そもそもコミュニケーションとは本来、やり取りのキャッチボールによって刻々と内容の意味が変わっていくはず。であるならば原著と翻訳でもおなじ。原著と翻訳を一つの会話文とした壮大なやりとり。

AさんがBさんと会話した内容がBさんとCさんの会話にも影響を与えることだってもちろんある。そう考えると、小説というものは作家がそれまでになした全てのコミュニケーションの結果とも言えるのではないか。さらに言えば、小説とは作家の頭だけで創作されるのではなく、作家と関わった全ての人が創作したと言えなくもない。

それは種の記憶として代々受け継がれた思惟の成果でもある。いや、種にとらわれなくてもよい。たとえば人類の前、さらに前、前、前とさかのぼる。行き着いた先が本編に登場するエレモテリウムのような太古の哺乳類の記憶であってもよい。生物の記憶は受け継がれ、現代の作家をたまたま依り代として作品として表現される。

本編には自動書記の考えが登場する。ザゼツキー症例の考えだ。ザゼツキー症例とはかつて大怪我をして脳機能を損傷した男が過去の記憶をなかば自動的に記述する症例のことだ。これもまた、記憶と創作の結びつきを表す一つの例だ。過去のコミュニケーションと思惟の成果が表現される例でもある。

ここまで考えると著者が本編で解き明かそうとした事がおぼろげながら見えてくる。小説をはじめとしたあらゆる表現の始原は、集合的無意識にあるという考えに。それを明らかにするように本書にも集合的無意識の言葉が162ページに登場する。登場人物は即座に集合的無意識を否定するのだが、私には逆に本編でその存在が示唆されているように思えてならなかった。

本編もまた、著者が自らの存在を掘り下げた成果なのだ。評価したい。

‘2017/03/30-2017/03/31


日本語のコツ―ことばのセンスをみがく


ここ数年、文章を書くことの面白さと難しさを感じている。書く場所や時間で文章の紡ぎかたは変わり、読み手の気分や体調によって文章の受け止められ方も変わる。読み手と書き手、それぞれの立場に応じて、文章は自在にその色合いを変化させる。

デジタルの世にあって、アナログな作業が年々減っていくことに寂しさを感じる昨今。文章を綴る作業に、アナログの充実感を求めるのは私だけではないはず。デジタルやアナログという括りがわるければ、定型にはまった作業と、自由に任せた心の表現とでも言おうか。

そんな意見を持つようになった今の私。とはいえ、社会人に成り立ての頃は文章に興味はなかった。文章よりも物語の筋書き、登場人物の思考の流れ、に興味を持っていたように思う。文章なんてものは後回しで、ただ疎かにしていた。その頃の、二十代、三十代の私は、仕事や家庭を確立することに夢中で、文章を味わう境地から遠ざかっていたといえる。本はたくさん読んでいたが、読みっぱなしで反芻することもせず、筋書きや著者の主張を吸収することに汲々とした反省がある。振り替えれば勿体無いことをしていたものだ。

そのままだと本は乱読する対象、ただひたすらに消費する対象に過ぎなかったかもしれない。しかし、IT技術の進化はSNSという自己表現の手段をもたらした。mixiやFacebook、OpenPNEベースのSNS、Twitterなど。これらのSNSを利用し楽しむためには読むだけの参加もありだが、自ら文章を書いて発信することでより楽しくなる。私も日記書きにはまり、以来、舞台を変えながらも日に一度の日記は欠かさない。

SNSと並行して、読んだ本のレビューを書き始めたのが数年前。それは三十代も終わりを迎えようとした頃のこと。また、時期を同じくして参画したプロジェクトで、毎週開かれる大きな会議の議事録執筆を担当し今に至っている。

文章をインプットするのは楽である。読むだけなので。しかし文章をアウトプットする作業は、個人的な楽しみであっても苦しい。書く道は遠い。そもそも文章に正解はない。簡潔に誤解を招かぬ文章。これは簡単なようで難しい。ビジネスメールも日記も読書観劇レビューも、エッセイからブログ上のオピニオン、百四十字のツイートに至るまで、文章には書き手の癖が現れる。その癖は、文章に独自の味をつけもすれば、型にはまった無味乾燥な文脈をまとわせもする。実に厄介な相手というしかない。私がSNS上で日記を公開する目的の一つに文章研鑽がある。その一環としてわざと使い慣れぬ言葉を使うよう心がけ、語彙や表現の幅を広げる努力を重ねてきた。そうしないと文章の癖が固定化し、表現がワンパターン化してしまう。この癖を自在に操り、千変万化の文章表現を繰り出すからこそ、作家は作家たり得る。しかし、私のような市井の素人物書きは、その癖に陥らぬようにするのが精いっぱい。せめてもの努力としては、癖を自覚しつつ沢山の文章を書くことだろうか。あるいは、文章読本や日本語ノウハウ本を読むことも無駄ではないだろう。とはいえ、私が読書レビューや議事録、日記を書くようになってからのここ数年、この手の本は余り読まなかったように思う。本書は久々に読んだ日本語ノウハウ本の一冊である。

ただし、本書はノウハウ本とはいえ、表面をなぞっただけの軽い内容ではない。その考察は広く深い。著者は国立国語研究所室長や大学教授を歴任してきたにも関わらず、取っつきやすい語り口ですいすい読み進められる。私もこれまでに数冊著作を読ませていただいているが、日本語表現を永年追究してきた著者の筆致は、ユーモアを頻繁にさりげなく混ぜつつ、表現の勘所を抑え、非常に分かりやすいといえる。本書の題名を日本語のコツと銘打つだけはある。

本書は8章からなる。
Ⅰ 意味の世界
Ⅱ 語感のひろがり
Ⅲ あいまいさの発生源
Ⅳ 誤解のメカニズム
Ⅴ 行動としての敬語
Ⅵ 手紙のセンス
Ⅶ 日本語の四季
Ⅷ 日本語の芸術

前半は、日本語の文法的なアプローチが多い。いわば理論面にあたる。後半に控える手紙や俳句や芸術などの実践面を紹介する章に比べると、身構えてしまうかもしれない。しかし、理論とはいえ、分かりやすく記されているため避けることはない。特に出だしのⅠ章は本書の性格を知る上で必読である。類義語、多義語、同音語などについての説明が主な内容だが、例示される言葉が的確に選ばれており、頭に入りやすい。本章では川端康成の伊豆の踊り子の一節が採り上げられている。その一節は日本語学習者にとって日本語のあいまいさを象徴する箇所として有名らしいが、私はそのことを知らなかった。著者はその一節に丁寧な解説を加え、作家が文章に凝らす工夫の巧みさと、日本語の表現の可能性を鮮やかに見せつける。

Ⅱ章は、語の持つ語感の広がりの豊かさ。Ⅲ章は同音語や「てにをは」の助詞のかかり方に修飾語の効果の範囲が散ってあいまいさが広がることについて考察を深める。自分で書いた文章、他人による文章を問わず、今まであいまいな文章に行き当たったことがあるのは私だけではあるまい。人の振り見て我が振り直せではないが、今後、文章を綴る上で気を付けたいと思う。

Ⅳ章は、誤解のメカニズムと題している。Ⅰ~Ⅲ章までのまとめに加え、主語の省略による誤解の発生についての考察だ。この章は私自身、議事録を書いていてよくやるミスである。主語を抜かしてしまうことで、何に対しての議事が話されているか曖昧になるのは思い当たる節が多数ある。ネット上でのメールのやりとりで失敗する向きは、本章の内容が参考になるかもしれない。本書は2002年刊行であり、ネット上のやり取りについてはあまり触れられていない。しかし、今の我々にとってネットでの文章表現を行う上で本章並びに本書は充分通用する。

Ⅴ章からは、実践面に入る。まずは敬語。私も含め、今の四十代以下の日本人で敬語を完璧に使いこなせる人はどれだけいるだろう。ほとんどいないのではないか。敬語の区分けとしてよく言われるのは、「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」といわれる。本章ではそれに「美化語」「丁重語」を加える。前者はものの頭に「お」を付ける用法。後者は「拙宅」「愚息」などのように手前側を貶めて相手を持ち上げる謙譲語に似た用法。敬語の奥深さは底知れない。

Ⅵ章の手紙のセンスは、含蓄に満ちた章である。この章では電子メールという言葉が出てくる。そして電子メールすら古い感じになってきたと書かれている。さしずめ今の世に本書が掛かれていたら、ツイートについても一章割かれるのではないか。著者は電報についてのエピソードを述べつつ、相手の都合を斟酌できない電話の功罪を内田百間の随筆に例をとってユーモラスに紹介する。手紙に関する色々なお作法に触れたあと、有名作家のプライベートな手紙を登場させる。著者は電子メールすら古い感じになってきたとITコミュニケーション全盛の世を察知し、古き良き手紙の文化への回帰を試みる。それは、以下に示す本章に書かれた一文からも読み取れる。

「発信機ではなく、手紙を書いている生の人間が今ここにいる、という感じが、受信機ではなく、それを読むもうひとりの生の人間に届くだろう。そんな生きている人のけはいが、相手の心をなごませる。」

Ⅶ章は、日本語の四季として、俳句の名句を多数用いて、豊かな日本語の時候や風流の語彙の数々を味わう。この章を読み、俳句の表現に興味を持った私は、年末にかけて数冊の俳句の関連本を読むこととなる。それらの本についてのレビューはまた改めてご紹介したい。

Ⅷ章は日本語の芸術と題している。前章が俳句なら、本章では短歌や詩の世界に遊ぶ。さらには小説という豊穣な宇宙へと論考は進む。本章で紹介される名文の多彩なことといったら。

本章で名文・名作の数々に触れるうちに、小説の筋書きを追うだけでなく、文章自体を味わおうと云う気になる。そして、もう一度本書を読み直す気になるかもしれない。そんな方がⅠ章に戻ると川端康成の名文が登場する。本書はご丁寧に輪廻する構造をもっている。繰り返し幾度も本書を読み返すことで、名文をものすることが出来るかもしれない。私自身、本書は折に触れ断片的にでも読み返そうと思っている。

‘2014/10/10-2014/10/21


これはペンです


村上龍氏が以前何かのインタビューで語っていた内容が、プログラマが書いた小説に興味がある、という趣旨のことだったように記憶している。

私も仕事でプログラミングをする機会があり、If文やFor~Next文、While~Wendなどの条件文や反復文などは普通に使う。そのため、こういう小説に出会ったときには、非常に興味をそそられてしまう。文書生成というテーマは、プログラマならだれでも行き詰った時に抱く願望であり、仕様書の自動生成やロジックの自動生成など、願いのタネは尽きない。

仮に文章生成を実装する場合、本来ならば設計にそった形でバグなく結果を収斂させてゆくのが、プログラマの本分だが、本書の場合、それを文書生成というテーマを核に、どこまで拡散させてゆくかという点が見所になっている。

拡げた大風呂敷を矛盾なく折りたたんで懐に戻すことも小説の技法末として重要だが、ある程度まで広げた後は読者に後始末を委ねるという方法もある。

本書の場合、それぞれの読者がどういうロジックで後始末を行ったか、という点で興味は尽きないのだが、感性でなくロジックで委ねる部分が大きいところに、本書の新味があると思った。

’12/04/10-12/04/12